クロウウィンと額縁の魔物 3
がこんと大きな鉄の扉が動く音がした。
何やら睨み合っていたアルテアとエドワードも、ネアともう一度手を繋いでくれたウィリアムも、その音にすっと魔物らしい怜悧な瞳をそちらに向ける。
いつの間にか、内側から押されたように大きな扉が少しだけ開いていた。
見上げる程に大きなアーチ状の入り口には、見事な彫刻があるのだが、如何せんその作風はどこかおどろおどろしい。
風雨にさらされ彫刻の表面には黒みがかった緑青色の結晶石が育ち、訪れた者達が触れたのか、すり減った聖人達の表情は謎めいて見えた。
「中の審問官が待ちきれないようだな…………」
「怖いものだと聞いたので、ホラーとの遭遇を避けるべく、最初だけウィリアムさんの背中に隠れてもいいですか?」
「ああ、勿論だ。しっかり掴まっているようにな」
「ふぁい……………。む?」
ネアがウィリアムの背中に張り付くと、なぜかアルテアが隣に立った。
エドワードとの旧交は温め終わったのだろうかと、ネアは首を傾げる。
「また妙なものを増やすなよ?」
「……………怖いと噂の審問官さんはいりません…………」
「エドワードのことだ。妙な興味を持つな。一定の距離以上近付くな。わかったな?」
「あやつめなど、ここを出ればおさらばなのでは……………」
「俺にはちっとも良さが分らないが、なかなかの執着ぶりですね。となると、どこにどう隠れているものか、よほどの希少価値があるのかもしれないが、その美しさも良さもさっぱり分らない…………難解だ」
「……………額縁の魔物さんにはとてもお世話になったので、ここを出たら人面魚さんを差し上げます」
「その悍ましい生物については、アイザックから聞いています。絶対に俺に近付けないようにしていただきたい」
ネアは、おのれとエドワードの方を見たが、どこに良さが隠れているのだろうと真剣に観察されてしまい、へにゃりと眉を下げた。
「…………アルテアさん、あの方に私の良さを百個ぐらい説明してあげて下さい!」
「だから、余分を増やすなと言っただろうが」
「増やすも何も、額縁めのこちらに向ける視線はパンの魔物さんを見るくらいの温度ではないですか!」
「パンの魔物はなかなかに整っていますよ。あの完成された輪郭と、風合い。おまけに香りもいい」
「ぱ、パンの魔物以下…………?!」
呆然とするネアを連れて、ウィリアムとアルテアが、左右からぎぎぎっと、重たい観音開きの扉を開いた。
教会の内部は夜のように暗かったが、左右に並ぶ見事なステンドグラスは外の光を通すのか、鮮やかに浮かび上がる。
真っ直ぐに祭壇に誘う身廊の両脇にある柱の列の奥には、黄金色の華やかな装飾の燭台が見えた。
蝋燭の燃える匂いがぷんとして、石造りの建物特有のひんやりとした空気が頬に触れる。
(…………すごい雰囲気だわ)
ネアはガーウィンの聖堂や教会に入ったことはないが、この荘厳さは暗い歴史の積み重ねによって育ったもので、少なくともウィームの大聖堂のような澄んだ美しさとは趣が違うように見えた。
ずしりと重く、蝋燭の煤で一層暗い色を纏った壁画も聖人の像も、どこか厳しい眼差しでこちらを見ているような気がする。
側廊に凝るのは人ならざるものが現われそうな深い暗闇なのに、人外者が作り上げた教会には思えない。
この教会の美しさには、人間の手が削り出し描き出した情念のようなものが染みついていた。
これを美しいと尊び、ここに執着したのは人間だろう。
人ならざる者達がここに居着いたとしても、それは人間の思い描くこの色を、それもまた面白いと考えたからに違いない。
そんな教会の中に、殷々と響く不思議な声があった。
「さぁ、どうぞこちらに。余所の土地からの旅人の方でしょうか。申し訳ありませんが、近隣の町で猛威を振るう疫病に冒されていないかどうか、ここで調べさせていただきます」
入り口の光の届かない身廊の奥の方から、朗らかな男性の声が聞こえた。
楽しくもないのに浮かれているような、親しくもないのににこにこと擦り寄ってくるような不思議な違和感に、ネアは背筋が寒くなる。
(夏至祭の夜や、闇の妖精に連れて行かれた先、あちこちでそんな声音を聞いたけれど、どこかが違う…………)
いつかのどこかで見かけた人ならざる者達の饗宴とは違い、限りなく正常なのだが、その戒律の向こうをこちらから見れば異常にも聞こえる声という気がしてならない。
決して美しくもなく、力のある声ではないのだが、声だけでここまで不安を掻き立てるというのもある種の魔術の動きなのだろうか。
置かれた水盤には古びた銀貨が投げ込まれていて、香炉からは細い煙がたなびく。
テンペラ画の聖人と、それを飾る豪奢な額縁のレリーフ。
聖人画の前には必ず、蝋燭に火が灯されており、瑞々しい花が生けられていた。
かつんと靴音を立てて、すり減って滑らかになったモザイク画の床を歩く。
灰色の石を基盤に、黒と赤茶色、深緑と青で紋章のような不思議な模様が描かれており、この文様は魔術の何かだろうかと、ネアは慎重に周囲を見回す。
あちこちに様々なものがあるが、そのどれも、ネアが生まれた世界で見慣れた大きな教会の豪奢さとさして変わりはないようで、よく見ると奇妙なものが混ざり込んでいる。
信者達の祈りの場を守るための鉄柵には、妖精達の姿が模されていて、その一画には椅子が取り払われた場所があった。
がらんとしたその場所は、厳重に銀色の柵で囲われていて、小さな百合の花が石畳を突き破って花を咲かせていた。
信者達の足元から百合が芽吹いたので、それを守る事を優先したという感じなのだが、百合の根元には小さな清水が湧いているように見える。
こちらからでは、その銀の柵につけられたプレートの文字は見えない。
きっと何か特別なものなのだろう。
「ええ、そのまま真っ直ぐと。………おや、どうされました?」
「どうもこうも、その奥では妖精の粉を焚いているな。なぜ酩酊の魔術を敷く必要があるんだ?」
途中で立ち止まり、ウィリアムがそう問いかけると、奥の祭壇の前に立つのがぼんやりと見える人物は、小さく微笑んだようだ。
フードを深く下し、ちょうど顔の部分が陰になっているだけで、あえて顔を隠している様子はなさそうなのだが、どうしても角度的に表情が見えないというのも、この状況ではなかなかに怖い。
「それは、皆さんに安心してお話をしていただく為のものです。このような場所では、緊張のあまりこちらの質問に答えられない方も多いので、心を緩ませる為の葡萄の妖精の粉を香炉で焚いております。あの蝋燭はラベンダーとジャスミン。そしてそちらの蝋燭は、夜の雫と月のかけら。…………ああ、こちらの薔薇窓には夏至祭の夜明けの森で採れた宝石を。これで全てですかな……………」
どうやら審問官は、ウィリアムが気にかけそうな要素の全てを、先んじて説明してしまったらしい。
これで問題ないだろうとでも言いたげに手を広げてみせると、譜面台のような小麦色の結晶石の台の手元に置かれていた、一冊の紐綴じの冊子のようなものを取り上げる。
「森からの来訪者の中には、幾つか懸念するべき病の兆候があります。………先日は石渡の呪いと、そうそう、赤帽子の疫病まで発見されました。…………とは言え、ここは慈悲深き信仰の庭。病に冒されている方はこの先にはお通し出来ませんが、近くにある修道院で、病が治るまで親身にお世話させていただきますよ」
(外は曇り空だったけれど、まだ昼間だったのに…………)
進めば進むほど、この教会の中は夜になる。
それなのに大きなステンドグラスは光を透かしていて、ちらちらと不思議な光の影を床に広げていた。
教会の半ばまで進めば、審問官の背後に見えている大きな薔薇窓の位置が、妙に低いことが分かった。
審問官の後方にある祭壇から、ほんの数段高くなったところにあるようで、まるでステンドグラスの窓を模した大きな扉のようだ。
その手前にある不思議な星の形をした青白い結晶石が飾られた祭壇には、目が痛くなる程の精緻な細工を施した金の杯と燭台、更には五種類のハンドベルのようなものに、十三種の香炉、そして花冠がそのまま黄金に凝固してしまったようなリースめいたものが飾られている。
祭壇に敷かれた布ははっとするほどに鮮やかな青色で、金糸の飾り房がついていた。
(…………えもいわれぬ暗さがあるけれど、それでもとても美しいのだわ…………)
祭壇の上に置かれた黄金の花冠の上にふわりと浮かぶ結晶石が、所謂御神体のようなものなのだろうか。
青白い炎か、月光を映す水面のように鈍くゆらゆらと光の明度を変えるその石を中心に、左右に置かれた燭台の蝋燭は火を揺らし、ナナカマドの実のようなものが、木の葉を象った金色のお皿にお供えされている。
(インスの実………?………それとも全く違う何かなのかもしれない…………)
それはどこか異教の儀式の一場面めいていて、それでいて絵のように美しく物語のように謎めいた祭壇を、ネアはひたりと見つめた。
どこか乱雑にも思えるのだが、そちらを見ていると畏敬の念のようなものが湧き上がって来る。
これは原始の信仰の形だと、なぜか心の片隅で知らない筈の確信を噛み締めた。
なぜだろうと思いかけて、これは一種の古き言葉なのだと、心の中の誰かが言った。
どうやらネアがこの配置を読み解けるのは、一般的な言語だけではなく、信仰の魔術の祭壇の配列から、その魔術の言語までも掴めるからであるらしい。
ディノが練り直しで与えてくれた言葉の知識が、こんなものも読み取らせてくれることがあるのだなと、ネアは少しだけ嬉しくなった。
(あの祭壇が現しているのは、始まりの形。原初の営みと、最初の光。数字のゼロのように真っさらなその祭壇だからこそ、そこには向かい合った者達の形が示される…………)
先頭を歩くウィリアムは、真っ直ぐにこつこつと靴音を立てて、その祭壇に向けて歩いてゆく。
その隣に半身下がってエドワードが歩き、ネアはウィリアムの背中に隠れるように。
そしてアルテアは、そんなネアの隣にぴったりと寄り添ってくれている。
やがて、審問官の顔が見えるところまで来ると、フードの下に見える面立ちは、思っていたよりも普通の男性であった審問官が片手を上げてネア達の歩みを止めた。
柔和な微笑みだが、温度はない。
義務的にその他大勢の聴衆を相手にする、心のない人の目をしていた。
「そこで止まって下さい。…………ふむ。夜明けのベルと、死者の香炉を。…………あなたには随分と深い死の翳りが見えるが、不思議なことに疫病の侵食はありません。寧ろそれを凌駕する何か。…………通って宜しいですよ」
まず最初にその許可を与えられたのは、ウィリアムだ。
いきなり始まるとは思っておらず、また思っていたよりも手早い結論に、ウィリアムが驚いたように体を揺らす。
審問官は、そのまま視線を横に向けた。
「黄昏のベルと、百合と朝靄の香炉を。…………あなたはなりませんね。夕闇に潜む妖精の病と呪いの色が、指先に滲んでいる」
「これは狩りに使う毒の指輪です。仕事に必要ですし、身に宿すものではありません」
「そこに溺れそれを手放せないのであれば、よりいっそうに悪質です。あなたはご自身が疫病に冒されていることをご存じない。ですが、ご安心下さい。信仰で身を洗い、清らかな心で祈ればきっといつかはこの扉をくぐれる筈です」
次に審問官の視線が移ったのはエドワードだったが、こちらはあっさり拒否された。
ぎりりっと眼差しを鋭くしたエドワードだったが、審問官はにこにこと穏やかな微笑みのまま、視線をアルテアに移す。
「夜闇のベルに、薔薇と崩壊の香炉を。…………あなたもまた、不思議な組み合わせですね。破滅や死を思わせる組み合わせですが、損なわれたものはない。通って宜しいですよ」
そして最後に、その枯葉色の瞳はネアに向けられた。
深い皺の刻まれた目元や口元の影は灰色がかっていて、陶器の人形めいた不思議な平坦さのある男性だ。
少しだけ背中が丸まっていて、フードを深く下ろしているので髪の毛は見えない。
簡素な黒い聖職者のケープは、やはりその形と独特の静謐さで、漆黒のケープを羽織ったエドワードと身に纏う気配をがらりと変える。
「真夜中のベルを。そして、薔薇と恩讐と冬の湖の香炉を。………あなたもなりませんね。疫病ではありませんが、工房中毒の予兆がある。発症まではまだ猶予がありますが、死に至る病なので、残された時間は信仰を磨き死者の王の訪問に備えなさい」
思いがけない言葉にぎくりと息を呑み、隣のアルテアが体を強張らせた。
「工房中毒だと…………?」
「ええ。発症はしておりませんが、どこかで古の魔術の粉塵を吸い込んだのでしょう」
(前にかかったやつのことかしら…………)
ネアはそう思って首を傾げたが、治っている病の気配の残滓から、ここを通れないとされるのであれば問題だ。
「確かに、以前に一度その病にかかったことはありますが、幸運にも回復しました。その時の名残りではありませんか?」
「おや、工房中毒から快癒したとは珍しい。とは言え、私が指摘したものはまだその毒を吸い込んで数日程度の若い病の兆しです。どうか心を健やかに、ご自身の身の回りの整理を。死は決して永久の別れではありません。また死者の日にこちらに戻れば良いのですからね」
ネアは罹ったばかりなのだと聞いて不安になり、アルテアの方を見てみた。
すると片手をふわりと頭の上に乗せられ、アルテアは、赤紫色の瞳を眇めてこちらに頷きかけてくれる。
「だとしても、この前と同じだ。俺がどうにかするから、お前は心配しなくていい。おそらくは、この前のダーダムウェルのあわいで何かに触れたんだろう」
「……………ふぁい」
「もしそれが本当に身の内に潜むものなら、ここで気付けて良かったかもしれませんね。アルテア、帰ったらすぐに休ませましょう」
「ふぎゅ、クロウウィン…………は……………」
「ネア、体が第一だぞ?」
「……………ふぁい」
ウィリアムに窘められ、ネアは悲しく目を瞬かせた。
審問官が死ぬことを前提に話すのはやめて欲しいが、もし本当に、魔物達も気付いていなかった発症前の工房中毒を見付けてくれたのなら、案外ここは健康診断的な見地では良い機関なのかもしれない。
(でも、せっかくこれからの時間は、ディノと楽しく過ごそうと思ったのに……………)
すっかり意気消沈し、ネアは暗い目になる。
となればもう、少しでもディノとの時間を有意義に過ごすべく、こんなところで足止めをされている場合ではない。
目の前の審問官は今のところ穏やかな雰囲気だが、扉の目星がついていればこちらのものだ。
ばりんとやるなり、きりんを使うなりして、早々に突破させていただきたい。
そんなネアの無言の訴えが届いたかのように、隣のアルテアが短く頷いた。
ネアをウィリアムに預けて一歩進み出ると、審問官の目の前で立ち止まる。
「じゃあ、俺はもう出られるんだな。出口はどこだ?」
「ではこちらの後ろにあります、救世の扉へ」
「……………成程、やはりこれか」
審問官がアルテアを誘ったのは、やはりあのステンドグラスの薔薇窓であった。
色とりどりの硝子で、大きな木とその木を囲むような聖人達の姿を表現した素晴らしい意匠のものだが、扉であるのならばどんな手段を用いてでもそこを通り抜けるしかない。
どう出るのかを見守るネアの視線の先で、アルテアは、どこからか取り出した白い杖をくるりと回し、床石をコンと叩いた。
その直後、ざあっと音を立てて大きな薔薇窓が色を変える。
晴天の下の鮮やかな青と、健やかな大木の生い茂った葉の緑、その木に実る赤い実の風景を示す華やかなステンドグラスだったのだが、今はもう深い藍色がかった夜の情景に様変わりし、審問官が驚いたように振り返った。
「救世の扉に何ということを!!」
「悪いが、信仰の魔術であれば、俺の方が階位が上だ。この出入口はこちらの管轄にさせて貰った。まぁ、無事に残せるようであれば、返してやるさ」
魔物らしい酷薄な口調でそうぞんざいに言い放ったアルテアに、審問官はぎりりと口元を歪める。
しかしながら、そんなアルテアの前に立ち塞がったのは、なぜかエドワードの方であった。
「…………何のつもりだ?」
「相変わらず、あなたには優れた芸術に向ける敬意というものがない。そのステンドグラスの扉は、今はもう優れた職人が減ってしまったガーウィンの旧王国時代の技術、その中でも北部の職人達のみに許された…」
「よし、お前は黙ってろ」
「……………美しく整っているものを、その身勝手さで損なうのであれば、俺はあなたを退けなければいけません」
どこか憂鬱そうにそう言うエドワードに、アルテアは、何を言っているんだという露骨に呆れた目になってしまい、そんな二人を眺めて、ネアはウィリアムにこそっと耳打ちした。
「あの方自身も引っかかった筈なのに、謎めいていますね」
「自分も出られないのだと理解していないのか、それでも構わないかなんだろうが…………」
「であれば、こちらに一人で残ればいいのでは…………。審問官さんを取り押さえる役目を授けてみますか?」
「それがいいのかもしれないな。…………エドワード、であればその審問官を君に任せてもいいか?邪魔が入らなければ、俺達も特に事を荒立てる必要はないだろう」
「……………ウィリアム様?…………とは言え俺も、ここを出る必要がありますので…………」
ウィリアムの提案に、エドワードは困惑したように首を傾げる。
理不尽な提案を受けたかのように溜め息を吐かれ、ウィリアムは憮然としたようだ。
ネアとしても、この魔物は何を言っているのだろうと眉を顰める。
「…………………じゃあ、なぜにアルテアさんの邪魔をするのだ」
「話が別だということが、あなたには理解出来ませんか。ここから出なければならないのは当然のこととして、であっても希少な美術品を損なう行いを許す訳にはいきませんから」
ここでネアは早々に額縁の魔物との対話を投げ出してしまい、ウィリアムと顔を見合わせ、あの魔物はたいへんな我が儘っ子であるという目で頷き合う。
「……………せめて一人は心の清い者がいるかと思いましたが、やはり腐敗は腐敗を、病は病を呼び込むのやもしれませんね」
ネア達のやり取りを無言で見守り、審問官は、この場に居る者達は皆不敬であるという判断を下したようだった。
その刹那、ばきりと、鈍い音がした。
(……………っ、)
それは乾いた木の枝が折れるような音で、審問官の服の下から聞こえてくる。
ぎくりとしたネアをウィリアムが素早く腕の中に引き寄せ、ばきばきごきんと、引き続き不穏な音が教会の中に響いた。
アルテアも、エドワードも、静かにその動向を窺っているのだろう。
悍ましい音がそのまま続き、ずるりとケープが床に落ちた。
「……………ほわ」
むくむくとその体が膨れ上がり、先程までの審問官より遥かに大きな質量を持った生き物が現われる。
薄暗い教会の灯りを遮り、覆い被さるような巨体になった異形の影の中に立ち、ネアは目を丸くした。
(………………これってまさか、)
灰色のぶ厚い皮膚に長い鼻を持つ、大きな姿。
ネアの生まれた世界ではパオーンと鳴く、きりんと並んで子供向けの玩具などに人気の、動物園のスター動物ではないだろうか。
「………………っ?!」
「ウィリアムさん?!」
直後、その姿を見上げてよろめいたウィリアムに、ぎょっとしたネアは声を上げる。
慌ててウィリアムの背中に手を突っ張って支えていると、今度は、ばたんと音がしてエドワードが床に倒れてしまった。
「ぎゃ?!額縁さんが死にました!!」
「……………………ウィリアム、絶対にそいつを離すなよ?」
「………………ああ、直視しなければ何とか…………」
幸い、アルテアは苦しげに顔を歪めてはいるものの、体勢を崩すまでには至っていないようだ。
床に倒れたエドワードの背中を乱暴に踏みつけて意識を取り戻させ、ネアの盾になってくれているウィリアムが無事かどうかを素早く確認する。
ウィリアムは、よろめきながらも何とか踏み止まったようだ。
しかし、いつもはすらりと伸びている背筋は微かに屈められているし、正面の扉近くに立っているのでこの生き物の背面しか見ていない筈のアルテアも、赤紫色の瞳を曇らせ苦しげに表情を歪めている。
「ふむ。こやつは私にお任せ下さい。なお、こちらにいる生き物が、私の良く知るぞうさんにとても良く似た生き物なのですが、若干お耳が力不足ですね………………」
とても辛そうな魔物達を見回し、厳かにそう主張したネアに、何とか立ち上がったエドワードが、もの凄い勢いで振り向いた。
唖然としたようにこちらを見たアルテアに、信じられないものでも見るように振り返ったウィリアム。
そんな彼等の眼差しはどこか無垢な祈りにも似て、ネアは、怖いものはすぐに片付けてあげますよと魔物達を慰めてあげたい気持ちになった。
「……………戒律を守らず、疫病の気のある者は、扉を通す訳にはいきません。修道院で体を作り替えますので、お下がりいただきますよう」
見上げた審問官は、そんな姿になっても変わらず柔和な声音であった。
異形と成り果てても変わらずに穏やかな口調でそう諭してくる様は、この生き物を不得手とする魔物達にとっては悪夢だろうが、ネアからすると耳の小さなつぶらな目をした象にしか見えないので、寧ろ残念さが募るばかりだ。
大きさとしては、大人の象であれば小柄というサイズ感だろうか。
とは言えこのように屋内で向かい合えば、やはり威圧感はある。
あるのだが、ネアは、大事な何かが足りないという気持ちでいっぱいで、この生き物を怖いと思う余裕はなかった。
「…………耳が小さいと、……………こう、頭部がつるんとした感じになるのですね。見慣れたぞうさんの可愛らしい絵柄というよりは、…………なにやつだろうという思いでいっぱいになります……………」
ウィリアムの後ろから進み出てそう言ったネアに、審問官は、小さな小さな目を丸くしたようだ。
きっと今迄は、魔物達のような反応が常であったのだろう。
落胆の目で自分を見上げるちっぽけな人間に、困惑したように首を振り、ずしずしと後退する。
しかし、後退すると大事な祭壇に後ろ足が近付いてしまい、がたがたと揺れた祭壇を慌てたように振り返る。
この教会はとても大きな施設であるが、教会というものの用途上、中で象が暴れられるような造りにはなっていないのだ。
(と言うことは、今迄はこの姿を見せつけるだけで敵を無力化出来ていたのかもしれない…………)
確かに大きな生き物が暴れて扉が壊れても困るので、ここは速やかに儚くなっていただくのがいいだろう。
そう考えて、ネアは幾つかの武器の中で、この生き物にもっともふさわしいものを頭の中で定める。
「ウィリアムさん、アルテアさん、目を閉じていて下さいね」
「……………おい、………っ?!」
「……………おっと、」
ネアは、アルテアとウィリアムがしっかり自衛するのを待ち、ポケットの中から、クロウウィンの街で何があってもいいようにと忍ばせておいた、ぞうさんボールをひょいっと取り出した。
アルテアへの忠告を素早く理解し、エドワードはいち早く目を閉じる順応性の高さを見せている。
そしてネアが、これこそが象であると誇らしげにぞうさんボールを掲げれば、灰色の大きな体がぐらりと揺れた。
「審問官さん、ぞうさんを目指すのであれば、この可愛さがなければ失格です。出直して来て下さい!」
その直後、どおんと、大きな音が響いた。
あまりの衝撃に体が一瞬浮かび上がってしまい、だしんと着地してネアは息を吐く。
今迄の生き物達とは違い、今回は審問官側も殆どこちら側といってもいい容貌であったので、滅びてしまうことはないようだが、失神はするらしい。
ばくばくした胸を押さえて視線を戻せば、力なく倒れた大きな体はぴくぴくと震えていた。
その憐れな姿を冷やかに一瞥し、ネアは小さく頷いた。
「失神程度の効果しかありませんでしたが、討ち倒しました。ぞうさんはポケットにお帰りいただきましたので、もうみなさんは目を開けて大丈夫ですよ」
「…………………よし、終わったな」
「………………こればかりは、何度遭遇しても慣れないな」
「さっさとここを出るぞ。もう一度、こいつが動き出すのを見ていたいなら話は別だがな」
「ああ、そうしよう。そう言えば、エドワードは残るんだったか?」
「…………今回はお二人に同行させていただきます。一刻も早く、ここを出ましょう」
敵は無力化したと判断しそう宣言したネアに、魔物達は恐る恐る目を開いたようだ。
辛うじて生きてはいるものの、すっかり意識不明状態な審問官の異形にまた顔を顰めつつも、もう一度この悍ましい生き物が動き始める前にと、微笑ましく一致団結の姿勢を見せた。
少しばかり己の言動を悔い改めたのか、エドワードは、邪悪な人間がポケットに手を入れる素振りを見せると、さっと顔を背けるようになっている。
何度かそうやって脅していたら、もし落とすと危ないからなとウィリアムに窘められてしまった。
扉には鍵もなく、いとも簡単にぱかりと開いた。
困ったことに、その出口は絵の所蔵されているガーウィンの大聖堂の一つに繋がってしまうようで、アルテアはその中を覗き込んで顔を顰めていた。
しかし、さすがのネアの使い魔であるので、クロウウィンの祭事中であろう大聖堂に放り出される事態は、上手く回避してくれたらしい。
「道は組み替えておいた。戻るのは、美術館のあの場所でいいな。その代わり、少しだけ時差が出るぞ」
「…………ディノが心配なので、びゃっと帰りましょうね。そして、美味しいクロウウィンの特別なケーキを食べに行かなければなりません」
「お前は、工房中毒の疑いがあるんじゃなかったのか?」
「………………おやなんのことでしょう?」
ステンドグラスを通して広がったような、不思議な色とりどりの光の道をネア達は少しだけ歩いた。
小走りになってしまうネアに手を引っ張られ、ウィリアムは、転ばないようにと心配そうな顔をする。
またどこかに落ちるなよとお小言を言いながらではあるが、アルテアも、そんなネアの反対側の手をしっかりと握っていてくれた。
しゅわりと、光の道を抜けた。
視界が暗転するように世界の色合いが変わり、目を瞬けばそこには、青みがかった静謐な夜の色と天井いっぱいの星空が広がっている。
壁に飾られた美しい風景は、つい先ほどまで見ていた冬の草原の絵だ。
(戻ってきたんだわ…………)
「……………ネアが浮気する……………」
すぽんとあわいからの出口を抜けて、その部屋に戻ってきたネアを真っ先に迎えたのは、悲しげな目をした大事な魔物であった。
「ディノ!悪い魔物さんに一度おかしなところに入れられましたが、こうして無事に帰ってきましたよ!」
「……………ウィリアムとアルテアと手を繋ぐなんて」
「あらあら、そんなにしょぼくれて。困りましたねぇ。ウィリアムさんとアルテアさんは、私を守ってくれたんですよ。……………ディノ、待ち合わせをしていたのに、随分待たせてしまいましたか?」
ネアが頼もしい護衛達から手を離し、伸ばされた婚約者の腕の中に収まると、めそめそしている魔物はすかさず三つ編みを片手に持たせてきた。
幸い、待ち時間は一分にも満たなかったそうで、とは言えネア達に何かがあったらしいということは、この場所に残る魔術の残滓から読み解けていたのだという。
「……………王………………」
短く呆然とした呟きが聞こえ、誰かがぼさりと床に倒れる音がした。
ネア達は振り返り、思いがけないところで万象に遭遇してしまい、儚くも気を失ってしまったエドワードに遠い目になる。
「まぁ……………。額縁さんは、ディノのことも苦手なのですか?」
「……………こいつは、シルハーンが大好きだからな」
「まぁ、ディノが大好きなのですね……………。ディノ、額縁さんですよ?」
「エドワードはあまり好きじゃないかな……………」
「そして片思いです。うまい具合に大人しくなったので、そのあたりに打ち捨ててゆきましょう」
数々の失礼な言動に荒ぶる心も未だにありはするのだが、現在のネアは、アルテア達に工房中毒の問題をあれこれつつかれる前に、このクロウウィンの為に立てた予定を一つでも多く消化するべしという野望に燃えている。
余分な時間は一秒ぽっちもないので、エドワードなどはそのあたりに転がしておき、まずはこの美しい特別展示をゆっくり見ようとディノの三つ編みを引っ張った。
「………………ネア、怒っているのかい?」
「…………もしかして、天秤さんのことですか?」
「……………うん。ノアベルトが、あのような者が現われると、君は不安になるだけではなく、少し怒っているかもしれないと教えてくれたんだ。ロテアはもう二度と現れないから、どうか許してくれるかい?」
「ふふ。あの方が現われたことで、怒ってあわいに家出していた訳ではないんですよ?やっと大事な魔物と合流出来たので、今夜は、一緒にたくさんクロウウィンを楽しみましょうね」
「ご主人様!」
そう微笑んで丁寧に頭を撫でてやると、いつの間にかちゃっかり椅子になってネアを抱き締めていた魔物は、ほっとしたように目を輝かせた。
その奥には、額縁の魔物をどこかにぽいっと捨てながらも、こちらを見て早く帰るのだという厳しい目をしたアルテアと、ノアの擬態の補強が万全過ぎたのか、展示室に入ってきた老婦人に順路を聞かれて慌てているウィリアムがいる。
幸いにもまだ体調には異変はないので、今年のクロウウィンがどうなるかは、過保護な使い魔をどうにか懐柔して、少しでも長く外にいられるかどうかが焦点になりそうだ。