クロウウィンと額縁の魔物 2
「それにしても、俗悪なあわいですね」
そう呟いたのは額縁の魔物。
黒いケープに燕尾服と、執事風の装いの手練れの詐欺師のような雰囲気を持つ魔物だ。
黒髪に刃物に宿る水色の輝きの瞳をしていて、ネアは、そんな魔物の言動に憤慨しかけて、この人は自分の嗜好や言動を変えられないという意味に於いては、ちくちくのセーターを投げ捨てる自分の同類なのだなと思って好感度を上げ直したところであった。
しかしなぜか、自分と同じように歪な思考回路の人物だとネアが納得しかけたことで、ウィリアムは冷やかな微笑みになってしまったし、ちびふわは先程からずっと肩の上でぎりぎりと爪を立てている。
「ここは、まるで絵の中にいるようですね。とても写実的なのに、ところどころに筆の痕があります………」
「恐らくはそれが隠し絵の魔物の固有魔術の一端なのでしょうね。どこかのあわいと繋ぎ合わせ、そこにあわいの風景を移植しているようですが、………………繋ぎ目が滑らかではない。醜悪ですね」
「……………この風景は、どこかで見たことがある気がするんだがな…………」
そう呟いたのはウィリアムで、現在は砂色の髪の男性に擬態している。
深い琥珀色の瞳にはどこか人ならざるものらしい奥深さがあり、十人の人が居ればその十人に紛れてしまいそうな擬態の容姿作りは相変わらずだが、そこに更に、ノアが術式を整えて完全に人間の気配しかしないように覆いをかけて完璧な擬態としてあった。
終焉の系譜は、その刃を振り下ろす瞬間までは、雑踏に紛れるものなのだそうだ。
だからウィリアムは、凄艶な美貌でありながらどこか印象を薄めることも出来るようで、ネアも出会ったばかりの頃は、その身に持つ白の多さを意識しながらも、まさか魔物の第二席だとは思わなかった。
(そしてこの擬態で揃えると、お忍びで外に出たどこかの貴族なウィリアムさんと、そのお付きの額縁の魔物さん的な絵になっているような………)
ネア達が居る場所は、不思議な黒い木々の森の中だ。
閑散とした秋枯れ森は、黒や墨色、黒鋼色と様々な艶消しの黒が揃い、ネアの趣向ではないにせよ美しい森にも見える。
しかしながら額縁の魔物的にはお気に召さないようで、先程から冷え冷えとした視線で森を見上げていた。
森の木々はすっかり葉を落しているので、細い森の小路からその向こうにある小さな町が覗く。
大きな教会の尖塔がここからも見え、小さな町ではあっても教会ばかりは随分立派なもののようだ。
町の右手には大きな川が流れ、はっとする程に青い川鳥達が飛んでゆくのが見えた。
(不思議な木だわ……………)
炭が結晶化して艶消しの黒曜石のようになり、その中にきらきらとした細やかな金色の粒子を内包したら、こんな森になるだろうか。
ネアの普段好む色合いや品物とは少し違うが、ぱきんと枝を折って持ち帰りたい欲にも駆られる。
何かを彷彿とさせると思って見ていたところで、ウィームにあるアクス商会の内装の雰囲気だと思い至った。
「ここから出るには、何か難しいことをする必要があるのですか?」
さて、これからどうするのか。
ネアが隣のウィリアムに尋ねると、ウィリアムは、そうだなと周囲を見回して首を傾げた。
「内側から破るか、或いは正式な出口の扉を探すかだ。この場合は恐らくあの町に行く必要があるんだろうが、どうせ何か規則性があるのだろうし、あまり気乗りはしないな…………」
「内側からというと、ばりんと…………」
「とは言え、先程彼が言ったように、隠し絵の魔物に共犯者がいる場合はあまり好ましくはない。このあわいが既に死んでいれば問題ないが、生きて管理をされているものだと、その破壊で周囲に影響が出る恐れがある。俺達がここに閉じ込められたのは、美術館の内部だっただろう?」
「……………もしかして、乱暴にここを出ようとすると、あの展示室に何か悪影響が出てしまう可能性があるのですか?」
「ああ。空間を切り裂く際に、剣戟が……」
「あ、あの絵は死守します!みなさんが頑張って、煤けていたのをやっと修復したばかりなのですから…………」
ネアが慌ててそう言えば、ウィリアムは頷いてくれた。
ここで不思議そうな顔をしたのが、額縁の魔物だ。
「おや、芸術作品に対する尊敬の念は持ち合わせているんですね」
「でなければなぜ、私があの場所にいたと思っていたのでしょう…………」
「人間の貴族の女子供というものは、さして興味がなくとも己を飾るのにそのような場所に足繁く通うものでしょう?人間の習慣の中で一番理解しがたい行為です」
「確かにそのような方達がいるのは否めませんが、少なくとも私は、貴族ではありませんし、あの絵がとても好きですよ?」
「………………そぐわない。可動域が低くても、そのような嗜好があるのか……………」
ネアはここで、ウィリアムの方を見てこの失礼な魔物を拳で黙らせてもいいだろうかという顔をした。
ウィリアムは、そんなネアの頭の上に手を乗せてくれて、後で俺がやるから任せてくれと頷いてくれる。
(そして、この会話が聞こえているのは構わないのかしら…………)
彼はやはり、ウィリアムには何を言われても気にしないようだ。
寧ろネアの方が、変わった魔物だなと思ってしまう。
「さて、町かな………」
「……………まずは町に向かいます。くれぐれも、逃げようとは思わないように。………ああ、あなたは可動域が低いので、歩く場合によっては、森を抜ける前に死んでしまうかもしれませんね」
「むぐる…………」
「ネア、外に出るまで待ってくれ。いいな?」
ひとまず三人は、町の方に歩いて行ってみることにした。
これから町の中に入って外への出口があるかどうかを調べるのだが、あまり長丁場にならないようにと思わずにはいられない。
この中で流れる時間は外側には反映されないとは言え、またおかしな場所に迷い込みディノと離れていると思うと、ネアは大事な魔物が怖がっていないかどうか、心配でならないのだ。
色鮮やかな落ち葉を踏んで森の小路を歩く。
あわいの外側のウィームではもうすっかり失われてしまった秋らしい落ち葉が、ここには沢山降り積もっているようだ。
さくさくぱりぱりと靴裏で音を立て、楽しみきれなかった季節の色を教えてくれる。
そんな風に長閑な道を歩いていると、薄曇りの空をゆっくりと大きな雲が流れてゆくのが見えた。
(あ、雲が流れているということは、風はあるのだわ…………)
紗がかかったような、淡い光を透かす晩秋の空の色だ。
雲間に青空が見える部分もあるが、全体的にはどんよりとした灰色をしていて、彩度の低い風景だからこそ時折羽ばたく青い鳥が際立つのだろう。
ウィームの曇天には透けるような灰色の輝きがあるが、ここはべったりと重い雲が広がっている。
やはりどこか絵画的な、不思議な空間だった。
「ネア、転ばないようにな」
「はい。………あ、この辺りから坂になっているのですね。……まぁ、舗装されてますよ」
森の中の小路は斜面のあたりから木の板で地面が舗装されており、人の手が入っているのが見て取れた。
この道を歩く人々が悪路に足を取られないようにしてあるのであれば、ここには誰かの生活の匂いがする。
もしくは、そんなどこかの景色を切り取って、先程の魔物の領域に継ぎ接ぎしたのだろうか。
決して歩きやすい道ではなかったが、このくらいであれば特に支障はない。
少しばかり手持無沙汰になったネアが、少し前を歩く額縁の魔物の後ろ姿を見ていると、視線に気付いたものか、顔を顰めて振り返られた。
「…………何ですか?あなたの視線は煩い」
「…………私はこれでも絵を嗜みますので、ここを無事に出たら、きりんという生き物の絵を描いて差し上げますね」
「そのような生き物の名前は聞いたことがありませんね。狡猾な魔術師共は、理由をつけて術符などを使い、魔物を物語の技法に落とし込もうとすることがある。あなたもそのようなことを考えているのかもしれませんが、命が惜しければお薦めしませんよ」
「まぁ、疑い深い方ですねぇ。であれば、描かれるのはとても珍しい動物ですが、純粋にただの絵であるとお約束しましょう」
「……………結構です。見るに堪えない醜悪な獣を描かれては堪りませんから」
「可愛らしい生き物ですよ。私の生まれた土地では、赤ん坊用のおくるみにも、その動物の模様がありました。……………ウィリアムさん?!」
青ざめた顔でよろめいたウィリアムに、ネアは慌てて立ち止まる。
きりんの全容を知っているだけに、この話題は刺激が強すぎたらしい。
肩の上のちびふわも荒ぶったのか、あぐりと首筋を噛まれてしまった。
「すまないな、……………そうか、子供まで…………」
「ごめんなさい、うっかり巻き込んでしまいましたね」
「いや、彼にあの絵を見せるのは賛成なんだがな…………」
「………………余程醜悪な獣なのだな、重ねて辞退させていただこう」
危険を察した額縁の魔物は逃げてゆき、ネアは、見せたい動物は他にもいるのだぞと心の中で呟いておく。
やがて三人は森の外れにある小川にかかった石の橋にさしかかり、アーチ状の可愛らしい橋を渡ればもう、小さな町の入口の門が見えてきた。
小川の水は澄んでいてきりりと冷たそうだ。
川底の石には見事な深緑色の苔がつき、ネアは夏休みの避暑地で見かけた石の衛兵を思う。
こんな川底の石にも、兄弟がいるのかもしれない。
だとすれば、川の中でお喋りでもするのだろうか。
「……………そして、おかしな獣さんがいます」
ネアが声を上げるより早く、町の入口のところで、先頭を歩く額縁の魔物もぴたりと立ち止まった。
そこにはもふもふとした黒灰色の羊のような生き物がいるのだが、どこか無機質な黒い瞳でこちらをじっと見ている。
背中には鷹の翼があり、四本の脚は羊の足ではなく獅子の足のように見えた。
(聖書にある悪魔の遣いのような生き物だけど、静かで聡明そうな目をしているし、あまり怖くないかな…………)
そう考えて、あの毛皮はもふもふだろうか、それとも獣の体毛らしく少し油っぽくごわごわとしているのだろうかとネアは首を傾げた。
「…………っ、門番か。醜悪ですね…………」
「うわ、これはきついな………………」
そう呟いた前の二人を認め、対照的な反応にネアは小さな溜息を吐く。
複数の生き物の特徴があるので、案の定こちらの二人は苦手な形状のようだが、町の入口の正面にどどんと立っている以上、横をすり抜けるにせよすぐ近くを通らなければならない。
じっと見つめてみると、意外にも理知的な眼差しでこちらを見ている。
「羊さん、この町の中に入れますか?外に出る為の道を探しているのです」
なのでネアは、ウィリアムと手を繋いだまま少しだけ前に出て、羊もどきの生き物にそう尋ねてみた。
すると羊はこくりと頷き、しわがれた老人の声を上げる。
「礼儀をわきまえているのはあんただけか。男どもは魔物臭くてかなわん」
「羊さんは、魔物ではないのですね?」
「魔物などであるものか。私は立派な精霊だ」
「精霊さん……………」
最も荒ぶり易い種族名の登場に、ネアは成る程と頷きながらも警戒を深める。
性別までは分らないが、呪われたりしないように気を付ける必要はありそうだ。
このような場所に案内人などがいるのは珍しくないようで、ついておいでと背中を向けた不思議な羊に案内されつつ、ネア達は素直に静まり返った町に入った。
びゅおおおと、大きな教会の向こうから風が吹き込んでくる。
川沿いに冷たい風が吹いているようで、石造りの町は簡素で灰色に見えた。
歩いてゆく道沿いには井戸などもあるのだが、しっかりと木の蓋がかけられてその上に石が置かれており、生活の気配は殆ど見えない。
もう住人はいないのだろうかと、ネアは目を凝らした。
「……………思い出した。デナスト、疫病の町か」
不意にそう呟き、ウィリアムが足を止めた。
振り返った羊は一つ頷き、またゆっくりと歩き始める。
(疫病の町……………?)
そう考えてすすっとウィリアムに体を寄せ、こちらを見たウィリアムが疫病の気配はないと安心させてくれた。
向かうのはあの大きな教会だろうか。
不穏に静かな気配に息を飲み、ネアは、どこか暗い影を纏うようにも見えてきた、大きな石造りの建物を見上げる。
「デナスト、……………そうか、フェリデリーのデナストの青い鳥の絵か。………このあわいは、絵画の内側に派生したあわいのようですね」
何かを思い出したのか、そう手を打った額縁の魔物の声を聞きながら、ネアは背筋の寒さを誤魔化すように身震いした。
首裏に隠れたちびふわが、そっと首筋に頭をこすりつけてくれる。
その温かさに怖さが少し和らぎ、ネアは深く息を吸った。
しかしながら鹿角があるので、ネアの襟足の髪の毛はくしゃくしゃになっていそうだ。
(……………物語のあわいとは違う、…………筈。ウィリアムさんも擬態をしているだけで、何にも拘束はされていないし、きっとすぐに出られる筈だから…………)
今迄にはなかったような不安があって、怯えがあって。
ネアはその不自由さにしょんぼりしながら、縮こまる自分の心にそう言い聞かせる。
この怖さに触れて初めて、ディノに何かを失ってしまっていると言われたのは、こういうものなのだろうかと考えた。
「大丈夫だ。俺も万全だし、一人じゃないからな」
こちらもネアの動揺に気付いたものか、ウィリアムがしっかりと手を握ってくれた。
ふすんと息を飲んで見上げれば、安心させるように微笑みかけてくれる。
「……………あの時のようにはなりません?」
「ああ。このデナストであれば、比較的有名なあわいで、画布の魔物の管轄だった筈だ。彼女の管理は厳しいから、巡礼者の侵入はないだろう。何しろ、大事な画布をどことも知れないあわいに持ち去ってしまう巡礼者を酷く嫌っている」
そんなウィリアムの説明が耳に入ったものか、額縁の魔物がこちらを訝しげに見た。
「………………もしかして、あなたは魔術師ですか?」
「再現が難しい擬態だからひとまずは現行のままで行かせて貰うが、俺は魔物だ」
「………………魔物?」
特に危険はないと判断したのか、正体に言及しつつも、ウィリアムは擬態を解かずに済ませることにしたようだ。
ぎくりとしたようにそう問い返した額縁の魔物に、先導してくれている羊がゆっくりと振り返った。
「分からなかったのか。鈍い魔物だのう」
謎の羊もどきにまで鼻で笑われてしまい、額縁の魔物は不愉快そうに眉を寄せる。
さっとネアの方を見たので、存じ上げておりますと頷けば、その渋面はいっそうに深まった。
何となく、不憫と言えないこともない。
「精霊さんは凄いのですね。この渾身の擬態を見破ってしまったのですか?」
「魂には匂いがあるものだ。それが臭くてかなわん。魔物は濃密な花の香り、人間は草の香り、妖精は水の香りがする」
「ネア、門番や番人になる生き物には、相手の正体を見破れる魔術の理が働くんだ」
「その通り。儂の場合は、鼻がきく」
ウィリアムからもそう教えて貰い、ネアはあらためてこの世界の不思議さに触れた。
門番や番人にあるという理に従い、この羊は、魔物達の匂いを嗅ぎ取れたのだという。
ウィリアムは他にも何か思い出したことがあるのか、羊の方を向き話しかけた。
「………………ここがデナストであれば、疫病の問いかけがある筈だが。レイラに話を聞いたことがある」
「勿論、審問官によるその問いかけに答えなければ、ここから出ることは出来ぬ。お主等は病になどには冒されていないだろうな?」
「それは問題ない。俺達は違う区画からこちらに招かれただけだ。連作になる、疫病の絵を通ってはいないよ」
「だが、お主の瞳には死が映り、その気配には亡者の怨嗟が見える」
「それはそうだろう。俺は終焉を司る者だからな」
あっさりそう認めたウィリアムに、額縁の魔物はぎりりと振り返った。
錆び付いた器械を回すような酷く緩慢なその仕草を見て、ネアは背中をぽんぽんと叩いてやりたくなる。
「……………終焉………………ウィリアム……………終焉……………」
暗い目をしてぶつぶつと呟いているので不憫になったが、ここにいるのが終焉の魔物だと聞かされてしまった羊もどきも、動揺のあまりに翼をばさりと広げてぶるぶるしているようだ。
「し、終焉の魔物が、なぜに疫病の問いかけにはまっておるのだ…………」
「俺にも良く分らないが、他の魔物がここに自分の領域を強引に繋げていたらしい。その魔物が自身の領域に逃げ込む際に巻き込まれて落とされたのが、ここだったんだ」
「…………それならば心当たりがある。いつだったか、画布の魔物に心を奪われた愚かな男が、ここにやって来たことがあった。本人もこのあわいに連なる系譜の魔物で、画布の魔物が最近ここを通っただろうかと何度も尋ねるので、以前に、このあわいが揺らいだ後には何度か見かけたと話してやったのだが…………」
そう教えてくれた黒羊に、額縁の魔物エドワードは成程と低い声で頷いた。
生真面目な仕草は神経質そうにも見えるのだが、この魔物の容貌によく似合っている。
「この絵は隠し絵としても有名です。疫病で滅びたデナストの町を、ロクマリアの画家フェリデリーが描いたもので、そこには教会に属する者達だけが、早々に住民を見捨て避難したことに対する強烈な皮肉が込められているのだとか。フェリデリーの三人の弟子が描いた、疫病の絵と密かに連作になっており、あの青い鳥は疫病の死者達が姿を変え、逃げ出した教会関係者達を追ってゆく様子だと言われていますね」
そう解説して得意げにするので、ネアは語られなかった部分を自分で考えた。
(つまり、隠し絵になっているから、画布の魔物さんのあわいであっても、先程の魔物さんが自分の領域を繋いでしまえたということなのかな。二人の領域が交差する場所で、好きな女性を待とうと思ったのかも知れない…………)
「あやつが美術館の絵を狙ったのは、また別の問題なのでしょうか?」
「あの絵は隠し絵ではない。故に、自分の領域として触れられず、盗もうとしたのでしょう。だが、なぜあの絵を狙ったのかまでは、あのような下劣な者の考えなど理解しようもない」
「エドワード、…………画布と面識は?」
「…………多少なりとは。しかし、繋ぎを取れる程ではありませんよ」
ウィリアムが誰なのか分ったからか、エドワードは先程より協力的な姿勢を見せた。
しかしなぜか、先程までウィリアムに向けていた好意のようなものは消え失せてしまっている。
魔物だから好きじゃなくなったのかなと思ったが、同じ魔物同士であれば、何か因縁がある可能性もあった。
そんなことを考えている内に、終焉の魔物などはさっさとここから追い出してしまおうと思ったものか、黒羊は先程よりも歩く速度を上げてネア達を教会の入り口まで連れて来た。
「ここだ。この教会に審問官がいる。彼に疫病に触れていないと認められれば、外への入り口が開くだろう」
「おかしなものですね。画布の領地で教会への糾弾の絵でありながら、このあわいを治めるのは教会の中の者なのですか……………」
「言われてみれば確かに妙だな。教会関係者となればレイラの管轄だが、画布の管理にあるのか…………」
そう呟く魔物達に、こちらを見た羊もどきが大仰な溜め息を吐く。
ゆっくりと翼を畳み直し、どこか聖職者のような澄んだ瞳でネア達を見上げた。
「このあわいの扉となった絵は、隠し絵としての機能を持ち、この教会に属した信徒達への強い呪詛となった。弟子との連作にすることでこの絵に更なる怨嗟を集め、信仰の使徒達を呪い殺す筈であったが、彼等も愚かではない。あえてこの絵をガーウィンの大聖堂の一つで祀り上げることによって、日々その呪いを跳ね返している。我々は、画布の領域に生まれて住まう、疫病と呪詛の番人だ。絵描き達がそう願うようにこのような姿になったが、この教会に巣食う悪人として描かれながらも、流し込まれる呪詛を滅ぼす役目を担っておるのだ」
厳かな声と、悪魔の遣いのような姿に反するどこか清貧な雰囲気に、ネアはそういう存在なのかと納得した。
画家たちが望むように怪物の姿をしているし、絵の中のものということでは画布の魔物を大家に持つ、実際には信仰の系譜の生き物なのだ。
「そうか。君は人造精霊か……………」
「そうとも。儂はこの絵の封印として描き出された、怪物の姿をした聖人である。だがあくまでも門番であり、そして導き手に過ぎない。先に伝えておくが、この先にいる審問官は恐ろしいぞ」
「まったく、厄介なところですね…………」
「扉さえ見つかればどうにでもなるさ」
最後にそう締めくくったウィリアムに、なぜか黒羊とエドワードは恐ろしいものでも見るかのように目を瞠った。
(あ、ばりんとやるつもりかもしれない…………)
ネアはそんな予感を抱き、もう心配なさそうだぞと頭を撫でてくれたウィリアムを見上げる。
先程の話では、あくまでもこの空間そのものを乱暴に破ると外側に影響が出るということであったので、扉を開ける為に審問官をさっくりやるのは問題ないのだろうか。
(でも、戻った後のことを考えて擬態を解かないようにしているのであれば、ばりんと出来るかしら?)
「ウィリアムさん、何ならきりんさんを出動させますよ?」
「それも考えたんだが、門まで崩れるとまずいからな、アルテアに任せよう」
「む。……………ちびふわ……………アルテアさんに?」
「ああ。さっき、シェダーが解呪していっただろう?とっくに元の姿に戻れる筈なんだが、寝ているのか…………?」
「寝ているというよりは、今の言葉に、肩の上でわなわなと震えているようです………」
そして、震えているのはアルテアだけではなかった。
その名前を耳にしてしまったエドワードも、なぜかわなわなと震えている。
「…………アルテアが、ここに?…………い、いや、居れば俺が気付かない筈もないが…………まさか?!」
「ぎゃ?!詰め寄られても私はアルテアさんではありません!!さてはアルテアさん大好きっ子ですね?!」
「…………………俺が、あの方に好意を持つことなど有り得ません」
「………ではなぜ、大興奮なのでしょう………………」
「だが、あの方の目利きは素晴らしい。ですので、彼が選ぶ品物は全て手に入れたいとは思っています。難しいのは、彼は希少なものを好む傾向にあるので、出し抜いて先に手に入れるとなると骨が折れることでしょうか…………」
「むぅ。競合相手でした……………」
そう唸ったネアに、巻き込まれた感じになった黒羊は既に生温い眼差しになってしまっており、そろそろ帰ってもいいかなという雰囲気をびしばし出してきた。
そんな様子に気付いたのか、ウィリアムがもう行っていいぞと鷹揚に伝えている。
ててっという感じでそそくさと駆け去ってゆく黒羊に、ネアはちびりとした尻尾は可愛いかったなと忙しない別れを惜しんでおいた。
「…………ふと思ったのだが、あなたは、あの方の知り合いなのですか?」
「知り合いという意味では存知あげております。何しろアルテアさんは…むが?!」
ここで、ぼふんと音がした。
ネアは背後から伸ばされた手に口元を押さえられ、慌ててじたばたする。
むぐぐっと眉を寄せて後ろを振り返れば、いやに暗い目をしたアルテアの姿が見えた。
これはと思い視線を戻せば、なぜか目をきらんと光らせた額縁の魔物がいる。
「…………………その只ならぬ執着の様子、もしやこの人間は、あなたの蒐集品ですか?」
「…………あともう一歩でもこいつと距離を詰めたら、その鼻先を削ぎ落とすぞ」
「ふむ。そう言えばあなたは、奇妙なものにも興味を示すことがありましたね。であれば、その不安定さも希少なものとして蒐集の対象になる可能性もあるのか…………」
「おい、俺の話を聞いているのか?」
「……………失礼。聞いておりませんでした」
「ウィリアム!こいつをその辺に斬り捨てておけ」
「……………エドワードは、アルテアの仕事の関係者ではなかったんですね」
それは意外だったという様子で呟いたウィリアムに、アルテアとエドワードは目を瞠った。
全く同じ表情をした二人に、ネアはおおっとお揃いの表情を見守る。
「こいつが俺の子飼いな訳がないだろうが………!」
「うーん、鳥籠周りで見ていると、よくアルテアの足跡のある土地に現れるので、後始末などを任せているのだとばかり思っていたな…………」
額縁の魔物はその認識がとても許せなかったようで、苛々したように綺麗に撫でつけられた前髪を掻き上げ、はらりと崩した。
「何という悍ましい誤解を………。俺はこの方の審美眼には敬意を払いますが、希少なものであれ構わず損なうその姿勢には吐き気すら覚える。終焉の方とは言え、そのような誤解はやめていただきたい!」
「俺の意思を受けて動くなら、こうも目障りな筈がないだろうが…………」
「だいたい、あなたは昨年も、私が額装したタルの絵画の収められた王宮を焼いた。あの行為は許し難いものです」
「それは俺の勝手だろうが。それと、陰気な女みたいに俺をつけ回すのをやめろ」
「つけ回してなどいませんよ。あなたの興味を示した美術品を、いち早く調べる為です。先日は、グリムドールの鎖を入手しましたが、今回は俺の方が手が早かったようだ」
「言っておくが、それは偽物だぞ」
「………………偽物?」
またしてもぐぬぬと睨み合う二人に、これはややこしくなってきたぞと思ったネアは、アルテアの手をべりっと引き剥がし、ウィリアムの方に避難した。
アルテアにはなぜそっちに行くんだと恨みがましい目をされてしまったが、この二人の諍いに巻き込まれるのは避けようと思ったのだ。
「ウィリアムさん、お知り合いのようなのでこちらはお任せしておき、まずは中に入って門を確かめませんか?万が一、ディノが美術館で待ちぼうけだったら、可哀想ですから…………」
「ああ、そうだな。シルハーンであれば、擦れ違いであの場に来てしまうと異変に気付く可能性もある。帰りを急ごう」
「審問官さんは、怖いのですよね………………」
「何かがあったら、アルテアに調整を任せて俺がどうにかする。安心していいからな」
そう微笑んで頭を撫でてくれたウィリアムの向こうで、アルテアとエドワードは、まだ何か、低い声で言い合っている。
アルテアの眼差しは酷薄で冷たく、エドワードの瞳には微かな苛立ちが見えた。
これはこれで収拾がつくのかなと不安になったネアだったが、こんな高位揃いの魔物達を震え上がらせる恐怖の審問官が出現するのは、その直後のことだった。