クロウウィンと額縁の魔物 1
その事件が起きた時、ネア達は、ウィームにある美術館で、星の間という一階のエントランスに面した展示区画に居た。
ちょうど頭上の影絵が流星雨を降らせていて、ネア達は上を見ていた時だったと思う。
展示区画は、星の間の常設展示室の前にある綺麗な正方形のスペースに、このクロウウィンの企画展示の目玉の一つとして設けられていた。
壁の三方を囲むのは、本来であれば四枚連作の冬の草原と森を描いた傑作で、残された三枚が、修復を終えてこの美術館の所蔵になったばかり。
白と青を基調としたその景色のあえやかさは、これからのイブメリアの季節に向けて心を静謐な華やぎに満たしてくれるような気がした。
なぜにネアが、クロウウィンにこんな自由を満喫しているのかと言えば、今年の蝕にあわいで散々な目に遭ったばかりだったからだ。
クロウウィンという祝祭もまた境界が揺らぐ日にあたる為、エーダリア達がその変動が顕著になる儀式の場から、障りがないようにとネア達を遠ざけてくれた。
本来はここにディノもいる筈だったのだが、ネアの魔物は元恋人の訪問に纏わる問題をリーエンベルクに残って解決していたので、今からこちらに向かってくれているところである。
一緒にその問題に当ってくれたノアは、ディノとは別れてエーダリア達の方に戻るそうで、加勢してくれたシェダーはそのままカルウィに戻るらしい。
どのような状況なのかを深く考えてはいけないと思うが、シェダーが、ディノとかつて何やらあったロテアと会話をしたところ、蒼白になった天秤の魔物は、片割れの名前を呼び応接室を飛び出して行ったそうだ。
そこにノアが、王の謁見で無作法を働いた家臣にかける呪いを応用した魔術をかけ、ロテアは代替わりをするまで決して自分の意思ではディノに会えなくなった。
(ディノがそれで良しとしたのなら、………)
ディノにとってのかつての恋人は、どのような存在だったのだろう。
「俺はあまり、物事の裏を読むのが得意じゃない。それを承知で言うなら、ネアが思うような関係ではないと思う。………ロテアは忠臣のような振る舞いをした。或いは、親しい側仕えのようにシルハーンの隣に立とうとした。そのどこかで彼女が寵を求めシルハーンが与えたとしても、気紛れのようなものだからな」
ウィリアムは、ネアがそこまでを尋ねる前に、そう教えてくれた。
「とは言え、ロテアさんとのことはレーヌさんのような入りではないと思うのです。であれば、その魔術の振る舞いは困った人だとしても、今度は友人としてという、これからの機会を潰してしまったのでなければいいのですが…………」
「シルハーンが彼女の持つ魔術に気付いていたのなら、その頃は、自分さえも騙して欲しかったのかもしれないな。…………だからこそ、その上でもう一度、彼女と友人になりたいということはあり得ない。今のシルハーンにはもうロテアのまやかしは必要ないし、俺達魔物は、心を傾けた相手を損なわれることほど許し難いものはない」
もしかしたらまだ、天秤の魔物を見たことでかけられた魔術の影響は残っているのかもしれない。
手放したのではなく、手放させてしまったのではと少し心配になったネアだったが、そのウィリアムの言葉で懸念も晴れた。
(…………そっか。そこには私だけではなく、きっとギードさんに対する思いもあるのだわ。だからディノは、まだその頃はギードさんのことを友達だと認識していなくても、彼女を近付けさせなくなったのではないかしら…………)
シェダーが立ち去った後、記憶を辿ったウィリアムが、そう言えばロテアがよく顔を出していた頃に、ギードが酷く暗い顔をしてやはり自分は絶望なので、ここにいない方がいいと言い出した事があったのを思い出した。
天秤の魔物は双子なのだとか。
当時は二人でよくディノの城を訪ねて来ていて、同時期に、グレアムが指輪を贈った女性と破局しかけた事件もあったと言う。
「恐らくその時期だろう…………。グレアムの為に、姿を隠したエヴァを捕まえて来たのは俺だったから、当然俺も、天秤の特性を理解していると思っていたんだろうな…………」
ウィリアムはその時、明確な理由はないのになぜか拗れた二人の仲を危ぶみ、その女性を友人のところへ連れ戻さなければと思ったのだそうだ。
その後暫くするとロテア達は万象の城には現れなくなり、ディノは、またギードが会いに来てくれるようになって、今思えば喜んでいたように見えたとウィリアムは教えてくれる。
(上手く飲み込めないなりに、ディノはずっとギードさんを大切に思っていて、きっとまた会える事が嬉しかったんだろうな…………)
大切な友人を失いそうになることは、きっと怖かっただろう。
もしそこに居たら、怯える大事な魔物をたくさん撫でてあげたのにと、ネアは淡く疼いた胸を押さえた。
今回シェダーがあれだけの剣幕だったのは、彼がやはり、ディノやギードをとても大切に思うからで、先程までは気持ちのいい女性だと思うと話していたウィリアムの目にも、友人達を損なったと知れば、もはや隠しようもないロテアへの怒りが見えた。
(でもそれも、きっと天秤の魔物達の資質なのだと思う……………)
彼等もまたそう生きざるを得ない生き物なのだろうと考えかけて、ネアは、かけられた魔術の影響が抜け落ちたようだと一安心する。
先程までロテアに感じていた、奇妙な敗北感や焦燥感が抜け落ちた。
今はもう、その生き方は力だが、どこか呪いのようだとすら感じ、冷静に天秤の魔物達のことを考えられた。
「……………もう大丈夫そうです。ウィリアムさん、アルテアさん、ご心配おかけしました」
この展示室の、静謐な美しさも良かったのだろう。
音の壁を展開しているので安心して会話を出来たし、作られたものとは言え、星空と夜の森、そして見事な冬の草原に囲まれれば、ちっぽけな人間の心はすっかり元気になった。
「ああ。…………頼りない護衛ですまなかった」
「ふふ。ウィリアムさんは、私の弱音を聞いてくれて、美味しいクロウウィンの飲み物を奢ってくれた、最高のウィリアムさんですよ?」
「……………フキュフ」
「まぁ、ちびふわが拗ねました…………」
「ネア、指先を噛まれているが、痛くないのか…………?」
「甘噛みですからね。これは構って欲しい時の合図なんですよ。ちびふわも私に危険を知らせてくれていたんですよね」
「フキュフ!」
「……………あ、ああ。………………何だか早く元に戻って欲しくなってきたな…………」
入ってすぐの展示スペースなので、入れ替わり立ち替わり来場者で混み合っていたが、ふっとその客足が途切れた。
耳を澄ませば隣の展示室から音楽が聞こえてきたので、みんなはそちらに集まったようだ。
しゃわりと、また影絵の天井に星が降る。
ネア達はこの素晴らしい展示室でのんびりと観賞用の椅子に座り、心の隅々までをこの玲瓏たる美貌の景色でいっぱいにしながら、ディノの訪れを待っていた。
(…………………ん?)
ふっと視界の隅に揺れたのは、入ってきたばかりの一人の男性で、その男性はそうして目を引いたくらいなのだから、きっと何か不審な動きをしていたのだろう。
しかしその時は、何が引っかかったのかよく分らないままに視線を絵に戻し、どこからかさらさらと吹いてきた冬の風に頬を緩めた。
何分かに一度吹く魔術仕掛けの風であることは分っていたが、それでも雪の香りと森の香りがして胸がすっとする。
(今年の冬のどこかで、また、ディノに、ダイヤモンドダストを見に連れて行って欲しいな……………)
ふくよかな、これからの祝祭と雪の香りの季節を思い、ネアが頬を緩めた時だった。
「痴れ者が。その絵に何をしている!」
突然、展示室に鋭い声が響いた。
(………………え?!)
ぎょっとして顔をそちらに向けたネアが見たのは、この展示区画に入ってきたばかりの男性が、先程ネアが気になった男性と睨み合うように立つ場面だ。
隣に座っていたウィリアムが、さっとネアの手を掴む。
ネアは肩の上のちびふわが、ふーっと小さく唸るのを聞いたような気がした。
「あーあ、見付かっちまったかぁ。じゃあ仕方ないな、その口は閉じていて貰わないと」
先に展示室に入っていた方の男性の声を聞き、ネアは、まだ少年と言ってもいいくらいの声音だったことに驚いた。
背が高くがっしりとしたグラストぐらいの体型の男性だったので、この薄暗い展示室の中では勝手に大人の男性だと思い込んでいたのだ。
「ほお、悪足掻きをしますか。杜撰で稚拙、おまけに醜い」
「……………あんた、僕を怒らせたいの?これでも僕は、伯爵位の魔物なんだけどさ」
「それが、たぐいまれなる美を傷付けようとしたことの、免罪符になるものだとでも?」
「あんたの、その安っぽい紳士面のせいで、失われる命の心配をしたんだけどね」
(どうやら、先に入っていた男性が絵をどうにかしようとして、後から入って来た男性がそれを見咎めた模様…………?)
この状況はそんな感じだろうかと、ネアは目をぱちくりさせる。
このお口の悪い方の男性は伯爵の魔物なのかもしれないが、現在ここには公爵位以上の魔物も密かに二人ほど存在している。
大事なウィームの宝を傷付ける相手であれば、容赦なく滅ぼして貰おう。
「僕は、隠し絵の魔物だ。ここにいる二人組は人質だよ」
(ん………?)
ちょうど、背後の星の間の第一展示室では、時間になると始まるらしい、音楽を駆使した小さなイベントが本格的に始まったところだった。
入り口の案内板によれば三十分おきに行われる手のひらサイズの小さな楽器妖精による演奏のようで、先程までこの冬の草原の展示区画にいた他の来場者達は、皆慌ててそちらに移動したばかりだ。
ディノの合流を待っているネア達だけがここに残り、新しく入って来たのが件の二人だという構図である。
「…………もしや、人生初めての立て籠もり犯による人質体験でしょうか」
「うーん、追い出した方が良さそうだな…………」
そんなことをこそこそ話していると、その囁き声が癇に障ったものか、犯人がこちらをじろりと睨んだ。
「黙れよ。首を掻き切られたいのか?」
「………………粗暴で短慮、まったく生かしておく価値の一片もない」
「………………どっちがだ?」
その瞬間、ぐわんと周囲の風景が一変した。
草原に座り込んでいる感覚で展示室を楽しめるよう、置かれていた長椅子に座っていたネア達は目を瞠って呆然としてから、色を変えてゆく周囲を見回す。
ミルクを入れてかき混ぜる紅茶の水面のように、混ざり合い形や色を変えてゆく景色がぴたりと固まる前に、ウィリアムがふっとネアの耳元に唇を寄せた。
「………………ネア、俺は暫し正体を隠して、エドワードの動向を見守る。ここはあわいの一つで、本来であれば隠し絵の魔物にあわいを切り開く力はない」
「………………む」
くらりと周囲の世界が変わる最中、ウィリアムがそう耳元で囁いた。
あわいと言えば、ネア達は最近ラエタの巡礼者に悩まされたばかりだ。
残党がいるのは間違いないので、警戒をして正体を隠すのはもっともであるし、確かエドワードという名前は額縁の魔物の名前ではなかっただろうか。
そんな魔物は今、値踏みでもするように周囲を見回している。
「…………隠し絵。…………と言うよりはあわいですね。美しいと思って育てた固有結界かもしれないが、漆黒の木々に囲まれた壮麗な教会に無人の街と、青い鳥達。この上なくつまらぬ絵にしか見えない」
「あんた、今の自分がどこにいるのか分っているのか?」
「それは勿論、固有結界であり、その領土のどこかだろう。さしたる問題ではありませんね」
「固有結界では、魔術の基盤をその主の思うままに調整出来る。俺の領土内で、あんたに動かせるのはその身に宿す魔術の半分以下だ。おまけに、無辜の領民の人質もいる」
「ああ、見ず知らずの人間に興味はありません。そちらは好きなようにするといい」
つれなく白い手袋に包まれた片手をひらひらさせると、背の高い男性は一歩踏み出した。
ふわりと、足下までの黒いケープが揺れる。
夜を模した暗い展示室から一転、曇天の仄暗い森の中とはいえ外に出されたので、その男性の姿もよく見えるようになった。
(確かに、執事さんのように見える服装という感じがする…………)
ぬめりにも似た上品な艶のある黒いウールの燕尾服に、柔らかなシェルホワイトのシャツが艶やかだ。
濃紺に黒で織り模様のあるタイを結んでおり、腰のベルトには漆黒のリボンかメジャーのようなものをぶら下げているのか、歩くとその辺りでひらりと優美に揺れるものがある。
何となくだが、仕立て妖精の装いにも近しいものを感じ、ネアは腰から下げた黒革の道具入れに目を向けた。
何が入っているのかまでは見えないが、ずしりと重そうで、よく使い込まれている。
家令というには、いささか年若く見えるので、やはり第一印象は執事然とした雰囲気という感じだろうか。
昨日の今日で早速拝見できた額縁の魔物の姿に、ネアはこのまま傍観者でいる内に事件が解決しないかなと儚い願いを抱いた。
額縁の魔物はこちらには無関心そうだし、どうか当事者同士で争って早々に解決して欲しい。
(そして、あわいとはいえ、ラエタ関係の誰かがここに噛んでいませんように…………)
「この麗しい夜闇の日に、懐かしい絵が特別な装丁で展示されると聞きやって来たが、まさかこのような下劣な輩に出会うとは…………」
低く硬質な声は、感情の滲むようなものではない。
その色のなさも執事のような趣きであるが、人外者らしい美しさと豊かさは隠しようもない。
自然の湖に張る氷の美しさではなく、保冷庫で仕上げた人工的でなめらかな氷の美しさのような、そんな区分であるとネアは密かに考えた。
しゅるりと、漆黒のリボンのようなものが蠢き、ひらめいた。
(………………あ、)
先程までベルトにかけてあった巻尺のようなものだと気付いた時にはもう、ひらりと宙に舞ったその漆黒は虚空でぴしりと固まり、何の装飾もない無機質な長方形を描いた。
カキンと、氷がグラスの中で立てるような音がして、突然隠し絵の魔物の姿が薄っぺらくなる。
あまりにも一瞬でその変化を見落としたのかもしれないが、生身の体を持った生き物が突然スクリーンの中に収まってしまったように見えた。
そうしてまた、しゅるりと空中でリボンを振るうような音が聞こえた。
一度は飾り気のないシンプルな黒い額縁になったその漆黒のリボンのようなものを、額縁の魔物はまたリボンに戻し、くるくると指先に巻いて片付けている。
そこにはもう、先程の隠し絵の魔物の姿はない。
跡形もなく消えてしまっていた。
「……………ふむ。醜いですね。どこかに売り捌くか、このまま燃やしてしまうか」
その呟きに視線を持ち上げれば、黒いリボンをしまった額縁の魔物は、どこからか取り出した小さな手帳のようなものを開き、生真面目に頷いているところだった。
黒髪は長めの前髪を掻き上げたスタイルで、髪の長さは耳に毛先がかかるくらい。
よく研いだ刃物の表面の光沢のような水色の瞳には、色味というよりもただ凄艶な鋭さがあった。
(…………額縁の魔物さんというよりも、裁ち鋏の魔物さんとかの方が似合いそうな感じ……………)
特に発言も出番もなく、立ち尽くしたまま事態は収束したかに見えたが、なぜだか額縁の魔物は少しばかり不穏な瞳でこちらを見るではないか。
「巻き込まれたことは災難でしたが、残念ながら、元居た場所にお戻しすることは出来ません。ご容赦を」
先程の憎々しげな言葉が、ふわりと柔らかくなった。
これぞまさに執事口調という感じで、アイザックにも共通する慇懃で静かな他人の声に変わる。
ネアはまた目を瞬き、困ったように首を傾げてみた。
「元の場所への戻り方が、分らないのでしょうか?」
「そうとも言いますね。ここはあの魔物の固有結界の中でありながら、悪趣味にも他の誰かのあわいを継ぎ接ぎしたようです。戻れるとしても無事に解放出来るかどうかの約束はしかねますが、それ以前にここからの帰り道を俺は知りません」
「………………解放してくれるかどうかも、まだ未確定なのですね」
「ここを出るまでに、その目が何を見てしまうかによりますね」
「であれば、別々に行動させて貰ってもいいか?………申し訳ないが、君は我々の友人ではない」
そう言ったのは、用心深く擬態をしたままのウィリアムだ。
そちらを見て小さく頷いてから、額縁の魔物は小さく息を吐いた。
先程に比べればかなり丁寧な口調だが、アイザックのような話し方ではない。
付け焼刃の敬語なのか、或いは慇懃無礼な感じが仕様の魔物なのかのどちらかだろう。
「そう考えてしかるべきでしょうが、残念ながら了承しかねます。あなた達があの魔物の仲間ではないと、断言出来ませんからね。…………ええ、人間であることは分るのですが」
ネアが悲しげな目をしたからだろうか。
額縁の魔物は、少しだけ同情的な眼差しを作って見せた。
その仕草や表情を続けて見ていれば、作りものであることが際立ち、ネアには、執事というよりも執事に成りすましている有能な詐欺師のような感じに見えてきてしまう。
魔物だと分かっているからでもあるのだが、どこか表情の裏側に冷え冷えとするような残忍さが見えるのだ。
「では、そのような疑いをかけられたまま、君に同行するべきだと?」
「そうなるでしょうね。そして、あまり騒ぎ立てるのは得策ではないでしょう。ここが継ぎ接ぎの空間である以上は、あの魔物に協力者がいたと考えるのが自然ですから」
「あわいの主に、心当たりはないのか?」
「ありませんよ。そもそも、先程の魔物も知己ではない。俺も通りすがりですから」
「………もし良ければお尋ねしたいのですが、あの男性は何をしようとしていたのですか?」
このまま聞かずにいても良かったが、普通、巻き込まれた人質女性とは不安でいっぱいの筈だ。
なのでネアはそう尋ねてみたのだが、額縁の魔物はぐぐっと眉を寄せて不機嫌そうに唸る。
「絵を持ち去ろうとしていたんですよ。あの空間、あの建物。その全てがあの絵にとって相応しい額縁であったというのに、低俗な盗人にはその高尚さが理解出来なかったらしい。そのような醜さを生かしておくのは耐え難く、帰り道のことなどはさて置き、封じてしまいました」
しれっとそう言うものの、良く考えたら後先を考えずにいただけではなかろうか。
ネアは少しだけ遠い目になり、ウィリアムも溜め息を吐いたようだ。
「………封じているだけであれば、本人に問いかけることも出来るだろう」
「嫌ですね。あの男の声をもう一度聞くのも堪えがたい。どんな人間の体を剥ぎ取り羽織ったか知らないが、自分の声音に見合った皮も選べない。どこまでも不愉快な魔物ですよ?」
「……………確かに声と体格が見合わない感じがしましたが、別々のものだったのですね…………」
思わずそう呟いたネアに、額縁の魔物はこちらを向いた。
興味が湧いたというよりも、どこか閉め忘れた扉を見付けたような顔をしている。
「あなたも、いささか不安定な輪郭ですね。……………ふむ、信じられないくらいに可動域が低い。醜いというよりは、いっそ潔いと言うべきなのか……………?」
「…………………もしや、喧嘩を売られているのでしょうか」
「うーん、もう少し様子を見る必要はありそうだが、恐らく悪意はなさそうだな……………」
ここでふと、ネアは一度も声を上げないちびふわを不思議に思った。
ネアの髪の毛の中に隠れており、顔を出そうともしないがしっかりとその体温を感じるし、肩を踏みしめる足で、ここに居ると伝えてくれていた。
(先程のシェダーさんとのやり取りを見るに、もしもの時の隠し玉な感じで隠れてくれているのかしら?)
或いは、この魔物とは相性が悪いのだろうかと少し考えた。
であれば、シェダーがあえてちびふわ姿のままでいることを推奨した理由にもなる。
「美術館に来てくれたディノが、一人ぼっちになっていないといいのですが…………」
「ここは魔術基盤が………………止まっているみたいだな。………時間というものの概念がないかもしれない」
「む…………、つまり…………?」
「ここで何百年過ごそうが、外に出れば一秒にも満たない。外側との繋ぎが取れない厄介なあわいだ」
「ほわふ………………。またしてもあわいによるこの仕打ち、そろそろあわいが憎くなってきました…………」
「やれやれ、簡単に壊せればいいんだが、さてどうしたものかな………」
ウィリアムとそんな会話を持っていると、額縁の魔物がこちらを見ていることに気付いた。
ウィリアムは擬態をした上でこのあわいに潜んでいるかもしれない誰かを警戒はしているが、恐らく額縁の魔物に対して正体を隠す労力はさしてかけていないのだろう。
何か気付いてしまったかなと思っていたら、なぜだかネアをじっと見るではないか。
「あなたの言動は不安定ですね」
「不安定………………。その、精神的にでしょうか?」
「いえ、…………一線を引くように敬語で話す割には、言葉の選び方が稚拙かと」
そう言われてみれば、確かにそう聞こえるかもしれないなとネアは頷いた。
ある意味、自分らしさと親しい人達への言葉の温度を揃える為の処世術なのだが、事情を知らない者にはそう取られても不思議はないだろう。
「敬語を崩せないのは、私がそのような会話をして来なかったからです。私の家族には、いささか厳格過ぎる家庭で育ってしまい言葉を崩せない母がいましたし、家族の時間にも他者の目があることの多かった父の仕事の関係で、それはとても有利でしたので、必然的に私もそのようになりましたから。なのでこの話し方は私が一番私らしく話せる、一種の癖のようなものなのです」
その筆頭とされる責務を負う前からも、父親の仕事は、他国で自国の顔として扱われかねない視線には常に晒されていた。
母が現役の歌い手であった頃も、支援者達や同業者達との会話はやはり品格が求められ、またそのような階級の人々が元より多い業界でもあったのだと思う。
ネアの母親のように幼い頃から家族内でも敬語で会話をしてきたような家庭は、古くからある国の古くからある歌劇場の真ん中に立ち、或いは雅やかな音楽堂でドレスを纏い楽器を構えるような界隈では、決して珍しくなかったのだ。
外食や観劇、地元の有力者達との晩餐会など。
気質的には限りなく一般家庭の筈なのだが、言動を崩すことは対外的にあまり許されず、であればと子供なりに両親の姿から学んで適応し、上手く馴染んだ。
(ユーリともっと過ごせていたら、私も少しはあの世界に混ざれたのかしら……………)
子供らしく天真爛漫な弟と話せば、ネアも年相応の子供らしく騒ぐこともあった。
しかしユーリは生まれた頃から病院で暮らすことが多かったし、あっという間にいなくなってしまったから、ネアはやはり、それ以上にはどうにもならなかった。
両親もいなくなりネアがただの誰でもない誰かになり下がれば、社会の中でその資質はとても奇異な目で見られるようになったので苦心して言葉を崩したが、それは作り付けのはりぼての自分だという感覚はずっとあった。
(だからディノが、エーダリア様やみんなが、言葉を崩す事だけが親しさの基準ではないと理解してくれてほっとしたし、そこから更に近しい人達との会話には、甘えが出ると思う)
「だとしても、妙な人ですね。冷ややかなようで、幼い。理知的なようで愚かだ」
「ええ、それが私ですから。私はこのような話し方を好みますが、感情面ではとても未熟です。近しい人には安心して甘えますし、知らない人には余所余所しくなるでしょう。話し方が崩せないので、その響きの差がおかしなものに聞こえるかもしれません」
「成る程。表面が整っているように思えたので違和感がありましたが、可動域が低いということは、そのような幼稚さが払拭出来ないということなのかもしれませんね」
ネアはここで、思わずウィリアムの方を見てしまった。
ウィリアムは当たり障りなく微笑んでいるが、この表情は、よくアルテアをさくっとやってしまう時の目だ。
「…………………だとすると、私はそのように心が幼いので、なぜか見ず知らずの私の批評を始めたあなたを見ていると、むしゃくしゃしてしまうのでしょう」
「やれやれ、これだから人間は奥行きに欠け、何とも低俗だ……………」
それは独り言のようにも聞こえたが、あえて聞かせる為の音量であった。
先程の攻防から見ても分るように、この魔物は自分の思ったことを言葉を飾らずに相手に投げかけてしまう気質なのだろう。
(確かに、そう指摘されたところは、私が他者に交われない理由でもあった…………)
あの世界のセーターが全てちくちくしていた理由は、あの世界の空気では上手く生きられない形にネアが育ってしまったからだ。
それは恐らくは、ジーク・バレットへの復讐がなかったとしても、あの世界でネアを最も一般的という分類にはしなかっただろう。
だからネアは、あの世界での中庸に混ざろうとしてもあの世界でちくちくするセーターは結局着られないままであったし、そのことに腹を立てて肌に合わないセーターを放棄した我が儘な人間だ。
それは今でもどこかで、ネアにとっての無残に仕損じた人生の惨めさでもある。
だから、そのやっとこちらで受け止められたばかりの歪さを引っ張り出されて詰られると、もう一度セーターを剥ぎ取られた惨めな迷子にされたようで、胸の奥がぞわぞわとした。
異形として締め出されたこの苦しみの何が分かるのだという憤りにも似て、また、どうして自分は簡単に生きられないのだろうという泣き出したいような子供染みた悔しさにも似ている。
冷ややかな目でこちらを見ると、うんざりと顔を歪めたエドワードに、ネアは自分自身にも優しくない言葉を噛み締める。
この魔物は苦手だ。
不都合なことを認識させ、不愉快なことを言うから。
そんな事で他者を撥ね付けるネアは、きっと浅はかなのだろう。
「人間は、君が思い描くような理想的な絵画にはなり得ない。それに、彼女は彼女であって、…………と言うよりも誰であれ、君の理想を体現する為に存在している訳ではないんだがな」
「あなたは、………整っていますね。そのような人間もいるのに、一方では首を傾げたくなるような不安定な人間もいる。人間は良く分りません」
ウィリアムにそう答えた額縁の魔物を見て、ネアは漸く得心がいった。
ネアや先程の盗人のように、自分の理想にそぐわない相手にのみ、辛辣な魔物のようだ。
その代わり、ウィリアムのように整っていると評価する相手に対しては、例え人間であれ多少噛み付かれても気にならないのだろう。
(でも、ウィリアムさんは擬態をしていて、本当は終焉の魔物さんなのだけどな…………)
「……………何だか、あの方の肩をぽんぽんと叩いてあげたくなりました」
「同情の余地はないぞ。ここを出る手筈が整えば、俺としてはその肩がなくなってもいいと思っているくらいだ」
「上手く言えませんが、あの方もちくちくするセーターは着れないという気がしますね…………」
そう言って苦笑したネアは、ふすんと息を吐いた。
この世界は美しいが、決して優しいばかりではない。
このように、ネアに対して辛辣で酷いことをする者達もたくさんいる。
でもどうしてここでは息がし易いのだろうかと言えば、つまりはこういうことなのだ。
(勿論誰かの為の誰かになろうとする人もいるとは思うけれど、この世界の人達は基本的に、自分以外の誰にもならない生き物がとても多いのだわ…………)
天秤の魔物も、この額縁の魔物も。
美しく力を持ち、それでも決して合理的ではなく、無防備でおかしな生き物達がわんさかいる。
彼等は勿論ネアなど一捻りに出来る程に老獪なのだけれど、その我が儘さがネアはきっと好きなのだろう。
この賑やかな世界では、ネア一人が少し歪な形をして転がっていても、寧ろ独創性で言えばイマイチかもしれない。
「………………むむむ。そう考えると、この方のこともちょっぴり好きになれそうです」
「それは困ったな。これ以上ネアに悪影響を与えるようであれば、調整した方がいいかもしれない」
「………………ウィリアムさん?」
「好かれても困ります。俺は、あなたは見ていると心が不安定になるので、あまり好ましくない。寧ろ視界から消えて欲しいくらいです」
「勝手に振られたみたいになった!」
ばさばさと、音を立てて不思議な空間を飛んでゆく青い鳥が見える。
その鳥はまるで油絵の具で描かれたような不思議な質感で、ネアは目を瞠った。
隣で柔和に微笑んでいるものの、先程からあまり機嫌の宜しくないウィリアムが剣を取り出す前に、早くここを出る術を見付けた方が良さそうだ。
そして、髪の毛の中に隠れたちびふわは、地味に肩に爪を立てるのはやめて欲しいと思う。