竜の逆鱗と国際問題
「と言う訳なのですが、どうしましょう?」
先日、桃色妖精の祝福を危ぶんだヒルドから、虫除け用の何かを貰うという話があったので、ネアはそのことをディノに相談してみた。
さすがに装飾品となるので、魔物の許可を取っておくべきだろうと考えたのだ。
「………あんまり嬉しくない」
「ですよね。では、ご辞退しましょうか」
「でも、妖精の庇護は魔物の庇護とは違うんだよね」
「……そうなのですか?」
言われてみれば種族が違うのだが、具体例がないとよくわからない。
「魔物の庇護は加算なら、妖精の守護は修復かな」
わかるような、わからないような。
「つまり、元々のネアそのものを損なわせないということであれば、妖精の庇護は有用なんだよ」
成る程と言う程には理解が及ばず、首を傾げっ放しのネアに、ディノは淡く微笑んで髪を撫でてくれた。
時々こちらの魔物は、魔物らしい年長ぶりを発揮するのだ。
「例えば大きな攻撃があったとして、魔物の庇護はその攻撃の盾となる。けれどももし、ほんの微かな擦り傷が出来てしまったら、その傷の修復には妖精の庇護がいいんだよ」
「成る程。得意分野の違いがわかった気がします!」
「今のところ、その擦り傷の修復も万全ではあるけど、祝福の筈が当人には悪作用だったりと、………今後のネアにとって何が必要になるのかはわからないからね」
そこでネアは、今回の件の発端となった事件を思い出した。
「ディノは、リズモの祝福のとき、あの桃色を捕まえても問題ないと思ったんですよね?」
「ネア、思い出そうか。君は時々、複数匹のリズモを鷲掴みにしていたんだよ。私が見付けた個体は何匹か排除していたんだけど、君がその目を掻い潜って捕まえていたんだ」
「……次回からは各個撃破にします」
「と言うより、既にシーの庇護を受けてるんだから、もういらないんじゃないかな」
「……財運」
「そういうものの心配もしなくていいからね?」
その会話を反芻しながら、ネアはしょんぼりと廊下を歩いていた。
自分で見付けて、手に入れる恩寵だから嬉しいのだ。
魔物に、狩りへの欲求はないのだろうか。
(おや…………?)
取り敢えず、暫定の許可は出たのでヒルドの元に向かっていたのだが、その道中で見たこともない人物を連れたグラストを見かけた。
グラストとの身長差を見るに、ディノより少し高いくらいの身長だろう。
そして、受ける印象に重量感のないディノやヒルドと違い、その男性は頑強そうだった。
ディノやヒルドとて、しなやかで完璧な肉体美ではあるが、どこか繊細さや儚さが伴う。
彼等と体型はさして変わらないのだが、同じ大きさの前者が宝石ならば、この見知らぬ男は鉄鉱石、そんな感じだ。
「ネア殿。エーダリア様をお探しでしょうか?」
「いえ、ヒルドさんを探していたのですが、このご様子では後でにした方が良さそうですね」
「申し訳ない、来客がありまして。終わり次第、声をかけましょう」
「お気遣い有難うございます。こちらは急ぎませんので、いつでも構いません」
グラストとネアが話している間、目深くフードを被った男は、無言でネアを見下ろしていた。
フードから覗く鼻梁で整っていることはわかるのだが、どのような容貌の人物なのかはよく分からない。
この様な扱いなのだから、それなりに重要な人物なのだろう。
そう考えていたら、声をかけられた。
「お前も、あの夜アルバンに居たのか?」
それは、鋼のような深みのある声だった。
ディノやヒルド、ゼノーシュやアルテアも含め、人外者の声には美しいという区分の中にもそれぞれの個性があるが、この声はざらりと低いからこそ甘く美しい声音である。
そして、ネアが無意識に比較した相手が全て人外者ということは、恐らく人間ではないのだろう。
「あの夜というのがいつかはわかりませんが、アルバンの山に行ったことはあります」
「であれば、お前が?……いや、足りないな」
「……っ!」
「ジゼル殿!」
不意に伸ばされた手に顎を持ち上げられて、ネアは驚きに息を飲んだ。
慌てたグラストが止めに入ろうとして、男のもう片方の手に制される。
「ふむ。多色の瞳か。歌乞いとしては、魔物に好かれそうだな」
フードの陰りの中に、鮮やかな紫の瞳が見えた。
予測に違わずとても美しいが、その目は虫けらでも見る様に冷ややかだ。
「あなたの種族のお作法は存じ上げませんが、この行為は人間の中では無作法にあたるものです。お手を外していただけませんか?」
「………何だと?」
グラストはネアに、この客人に礼を欠かさぬ様にとは忠告しなかった。
そして、あえてこの場で紹介をさせることもなかったのだから、この程度の反論は許されるだろう。
いきなり顎を持ち上げられるとむち打ちになるかもしれず、ネアは不快感に眉を顰める。
「………っ?!」
次の瞬間、顎にかけた手をネアの首に伸ばそうとした男は、その手をネアにはたき落とされた。
ジゼルと呼ばれた男が驚愕に目を瞠ったのは、俊敏性云々以前として固有結界があるのでそうそう動きを制限されることがないからだが、ネアはそれを知らない。
初対面の女性の首に手を伸ばそうとして、拒否されるとは思わなかったのだとしたら、どれだけ甘やかされたのだろうかと、その驚きにすら生温い気持ちになる。
「………お前、何の加護を受けている?魔術可動域はふざけた低さだが……」
「他人の心の傷に、よくも塩を塗り込みましたね……!」
その直後、ジゼルは決定的な過ちを犯した。
目の前の謎めいた生き物をよく見ようと、髪の毛を掴んで顔を寄せようとしたのだ。
そしてその行為は、狩りの女王の堪忍袋の緒を容易く切断した。
「ネア?!……お前、何をしたんだ?!」
一息ついて前髪を搔き上げると、背後から震える声がかけられる。
いい運動をして爽やかな気分とならないのは、足元がちっとも爽やかではないからだ。
「不埒者を成敗しました。この失礼な御客人はどなたでしょう?」
エーダリアは、やや呆然としたままの鳶色の眼差しを、ネアの足元で捻り潰されている男に向ける。
「……まさかとは思うが、お前は体術に長けているのか?」
「いえ、特に運動神経は良くも悪くもないですよ?」
「……ディノ様の指輪の効能でしょうね。魔物の指輪を持つ者は、その魔物の力を還元されますからね」
「………指輪、……持ちなのか?」
もはやエーダリアの声は息絶え絶えであったが、ネアはヒルドの言葉の内容の方が気になった。
「ヒルドさん、指輪を持っていると私も強くなるのですか?!」
気持ちを持ち上げかけたネアに、なぜかヒルドは微笑みを翳らせる。
「回路が繋がりますからね、通常はそのようになります。ただ、ネア様の場合、魔術可動域が低いので、手にした魔術を扱えるということはないかと……」
「…………扱えない」
それは、海ほどの貯水量があっても、手には小皿しかないということだろうか。
何しろ、蟻にも敵わないのだ。
「その代わり、抵抗値などは上がりますので、防衛力に長けるんですよ」
「しかし、抵抗力だけでこうなるのか?」
グラストは懐疑的だ。
ネアが御客人を踏み潰すまでを見ていたので、到底そうは思えないのだろう。
「決して害せない不可侵の盾に、圧殺されたようなものですね。魔術に重きを置かず、体の力だけで抵抗すれば良かったのですが、何しろジゼルは竜ですから」
「竜……。この方は人型ですが、竜なのですか?」
「ええ。ネア様、良い運動をされましたね」
なぜかヒルドは、とても晴れやかな微笑みを浮かべている。
この竜のことが嫌いなのは間違いないが、ネアはその隣で目を覆ったエーダリアが少し心配になった。
「エーダリア様?」
「ネア、取り敢えずその足をどけてやれ。ジゼルは仮にも、一氏族の王だ」
「まぁ!国際問題になるでしょうか?」
「それはどうにかする。だからネア、足を……」
「しかし、解放して暴れると、もう一度倒さなければなりません」
「倒す必要はもうない!」
元婚約者殿の顔色が酷かったので、ネアは敵を制圧した足を、そろりとジゼルの体から下ろした。
因みに、最も効率的な拘束位置として、俯せに倒れた敵の首裏を踏みつけていたのだ。
「ジゼル殿、ご無事か?」
「鼻はへしゃげてるかもしれませんね」
「ネア!」
「どうやって倒されたんですか?」
エーダリアの声が再び震えたのに対して、ヒルドはいかにも楽しげだ。
「足払いでひっくり返して、背中に飛び乗って打撃を与えてから、暴れないように足で固定しました」
ネアの脆弱さでは、一撃が軽いので、攻撃の基本として、全体重をかけるように心掛けたのだ。
「良い攻撃ですね。竜は、首裏が最も弱いんですよ」
「有難うごさいます。竜を狩ったのは初めてです!」
次回の狩りにも生かせる評価を貰ったので、ネアは思わず声が弾んでしまう。
その隙にエーダリアとグラストが、ジゼルを助け起こしていた。
(さて、ヒルドさんはお仕事中だろうし、一度帰ろうかな)
竜といえば獣の範疇のものであるし、倒した敵には興味がないので、ジゼルはもはや用無しである。
フードが外れたらとても美しい男性だったが、やはり竜は竜なのだ。
何が起きたのか分からないのか、よろよろと立ち上がったジゼルは、複雑な形に編み上げた髪が僅かに乱れている。成る程、フードが外れると高貴な雰囲気も確かにある。
「………いや、問題ない」
やはり痛かったのか、片手で自分の顔を撫でている。
こうして見てみると、目尻には、髪と同色の白に近い紫の鱗が微かに伺えた。
(白がある竜も、珍しいって聞いたような)
ネアの視線に気付いたのか、ジゼルがこちらを見る。
「……っ、」
目が合うと、なぜかほんのりと目尻を染めた。
その様子には気付いたヒルドの眼差しが、途端に氷雪を帯びる。
ジゼルの視線を遮るようにネアの前に立ったが、即座にジゼルが立ち位置をずらした。
「何のつもりだヒルド」
「か弱いご婦人に危害を加えている暇があったら、話とやらを早く済ませていただきましょう。我々とて暇ではないのですが」
加えられたのはどっちだろうという疑問が、ヒルド以外の全員の目に浮かぶ。
「おい、お前……」
ヒルド越しにネアに呼びかけたジゼルの声が、急速に萎む。
視線を向けたネアの微笑みが、そんな呼びかけに相応しい冷ややかさになるのは当然ではないか。
「いや、………髪を掴んですまなかったな」
「ご丁寧な謝罪をいただき、有難うごさいます。私の方こそ、踏んでしまい申し訳ありませんでした」
「踏みたいならいつでも踏んで構わない」
「……変態は間に合っておりますので」
ざっと顔色を悪くしたネアは、ヒルドの背後に隠れた。
一応これも変態の一種だが、身内の変態と新規の変態ではまるで違う。
「ジゼル、彼女は私の羽の庇護を受けていますし、契約した魔物の指輪持ちです。余計な興味は抱かぬよう」
「羽の庇護………?」
小さく復唱したエーダリアが、再び目元を覆った。
慌てて駆け寄ったグラストが介抱している。
「その魔物は何処にいるんだ?魔物が死ねば、指輪も外れるだろう」
「ヒルドさん。この竜はここで息の根を止めましょう」
「……ネア様、私の方でよく言って聞かせますので、それは最終手段にして下さい。まずは、ディノ様を呼ばれるのが得策かと」
「うちの魔物に悪さをする竜がいるのに、ディノは呼べません。まずはこやつの息の根を止めてからです」
「……ネア?!やめろ、それは流石に駄目だ!」
何とか気を取り直したエーダリアは、窓枠に設置されていた高い位置のカーテンを開ける為の棒を手にしたネアに気付き、慌てて止めにかかる。
身長程の青銅の棒には、十分な殺傷能力がありそうだ。
「……ネア、それは置こうね」
狩りの女王から凶器を取り上げたのは、いつの間にか転移してきたディノだった。
「ディノ!危ないですよ!」
「問題ないよ。守ってくれようとしたのは嬉しいけれど、その前に呼んで欲しかったな」
「………さては見ていましたね?」
「君が不用意に竜に近付いたからね。……特に危険はなかったみたいだけど」
困ったように微笑んだディノの腕の中に回収されて、ネアは渋々棒を手放す。
ディノの視線を受けたジゼルは、呆然とした顔で一歩下がった。
今のディノは擬態もしていない。
「………万象」
「悪いが、この子は私のものだからね。君にはあげないよ」
「貴方が、彼女の契約の魔物……なのか?」
「そうだよ。だから君の目つきは、とても気に入らない」
「……っ、……しかし」
妙に悩ましい眼差しを向けられて、ネアは首を傾げる。
こんな視線を向けられる謂れはない。
「………ネア、浮気」
「してません。不埒な竜を倒して、抵抗を封じただけです」
「彼女は、私の逆鱗を踏んだ唯一人の存在だ」
謎に誇らしげにジゼルが宣言し、ネアは眉間の皺を深くした。
「変態よ、消え失せなさい」
「ネア、今日は私の足も踏んでないのに!」
「ディノ、私が彼に行ったのはご褒美ではありません。ただの攻撃です!」
「魔物にはもう飽きたのではないか?」
「見ず知らずの変態は黙り給え!」
その後、現場がとても混乱したので、ネアは魔物を連れて早々に退出させて貰った。
竜があのような状態になることは滅多にないらしく、何をしたのかと各方面から調査された結果、ネアにかけられていたリズモの、玉の輿の祝福が一つ減っていたそうだ。
更に言えば、竜は己よりも強い者に焦がれる性質があるらしい。
「竜が、自分を倒した相手に懐いてしまうということは、もっと早く教えて欲しかったです………」
「ごめん、そうしておけば良かったね。……今回は問題なかったけれど、今後、竜には気を付けようか」
「もしかして、本来の形だととても強かったりするのですか?」
人型になれる竜は、高位の人外者という区分なのだそうだ。魔術の展開領域や独自性も高く、一晩で国一つ滅ぼした逸話もあるのだとか。今回、そんな竜の、しかも王の一人をネアが倒せたのは、ディノの指輪があったからとは言え、ジゼルの意表を突けたからという理由もあるらしい。
「君には守護をかけてあるけれど、竜は何をするかわからないからね」
「あの方は、あまり人間の強度をご存知ないようでしたが、困った生き物なのですか?」
「少々高慢ではあるけれど、本来であれば、叡智に富み、庇護する仲間達を大事にする生き物だよ。………ただ、所有欲がとても強くて、気に入ったものはかなり強引に囲い込もうとする。危ういかどうかではなく、正しいかどうかではなく、自分の望みに忠実な選択を好む傾向にあるんだ」
若い竜は、よくそれで身を滅ぼすんだよと、ディノはどうでも良さそうに教えてくれた。
「そう言えば、あの方にアルバンの山に行ったかどうかを訊かれました
「自分の系譜の竜が誰かに拘束されたから、その確認に来たそうだ。ほら、あの雪菓子を狙ってた竜だよ」
「……まぁ。と言うことは、苦情を言いに来られたのですね」
「あくまでも確認だろう。竜は力を最たるものとする。だからこそ、一族の者が誰に負けたのか知りたかっただけだと思うよ」
「あの方は、雪竜さんなのですね」
人型はただの失礼な変態だったが、竜としての姿は綺麗だろうか。
一度見てやっても構わないと考えていたら、ディノがものすごく不審そうにこちらを見ていた。
「……ネア、浮気する?」
「しませんよ。あやつは、ディノに悪さをしようとしたのです」
「でも、竜には興味がある?」
「大きな竜は見たことがありません!綺麗なんでしょうね」
「………ヒルドの虫除けを、早く貰っておいで」
「まぁ。急にそちらに対し、寛容になりましたね」
「竜なんて……………」
すっかり落ち込んで拗ねてしまった魔物が可哀想だったので、ネアは、竜への憧れは封印せざるを得なくなった。