335. 収穫祭には過去の訪れがあります(本編)
その日、ウィームは遅れてのクロウウィンになった。
祝祭が遅れると季節の遷移が狂うのはイブメリアの遅延と同じ仕組みなのだが、先日の蝕ですっかり色付いた落ち葉は枯れ落ちてしまった。
とは言えまだ、冬の系譜の訪れはない。
このような場合を、空の季節と呼ぶそうで、春や夏などに季節が空になると、その年は大きな飢饉に見舞われる。
唯一、どうなったところで痛くも痒くもないのが、終焉の系譜の強い冬なのだとか。
クロウウィンとは晩秋の収穫を祝う収穫祭で、これからの冬の前に、喪われた家族との再会を果たし共に収穫を祝える死者の日でもある。
ネアの生まれた世界でサーウィンと呼ばれる祝祭によく似ていて、街中には死者に扮した人なども現れる。
しかしその場合は、祝祭を盛り上げる為の仮装ではなく、顔色が悪いと恥じらう死者にお揃いのメイクで出迎える家人が殆どだった。
(うん、少しいい感じに曇ってきたみたい…………)
クロウウィンの日には、死者達が死者の国から地上に戻ってくるのだが、死者達は陽光を嫌う。
なので、エーダリアのような魔術に長けた治世者がいるウィームでは、あまりにも晴天が過ぎると雲呼びをして陽光を遮るのだ。
これは、領民達が帰ってきた家族と少しでも長く過ごせるような気遣いであり、このような優しさがエーダリアが領民達に慕われる理由でもあるのだろう。
「だが、今日は幸いだな。朝の内は晴れていたが、日中は天候が悪化して曇り空になるそうだ。しかし、明日は晴天なので陽が落ちた夜からはまた晴れるらしい。死者の日としては最高の天候だと言える」
「死者さんは、月光や星の光は好きなんですよね」
「ああ。そのような光であれば、懐かしいウィームを共に歩くのにも適しているからな」
エーダリアはそう微笑み、愛おしげにリーエンベルクの窓からウィームを眺めるようにすると、朝食を終えてすぐに、ヒルドと一緒にクロウウィンの儀式に出かけて行った。
漆黒の正装姿がきりりと麗しく、ヒルドも、珍しく纏う黒に近い濃い紫の正装姿が闇の妖精めいた艶やかな美しさを際立てていた。
明るい服色を忌避するのは、最後の豊穣を祝う日に雪白を連想させることを避け、死者達が好まない色を避ける為である。
街中の至る所にはクロウウィンの象徴である麦穂のリースが飾られ、黒い艶のあるリボンと今年のクロウウィンの色である、深みのある赤紫色の薔薇の花が美しい。
新年の飾りもそうだが、ウィームではこのクロウウィンの飾り付けも色を統一するのだ。
街灯などを飾るのは、ウィーム領としての公的資金から発注されたリースだからでもあるのだが、あえて色を統一させることで魔術の滞りを防ぐ意味合いがあるのだとか。
こちらの世界では、花輪やリースには大きな魔術が宿るからだ。
「……………ウィリアムさん?」
ネアはそんなウィームの街を、今日はディノ不在の中、ウィリアムと一緒に歩いていた。
声をかけるとウィリアムは、微かに目元を染めてからいつものように微笑んでくれる。
昨晩、リーエンベルクの霧の間で見付けた運試しの箱により、一晩、むちむちふわふわの白い子狼の姿で過ごしたばかりで、ネアに両手で撫で回され身悶えしていた姿は記憶に新しい。
夜明けと共にかけられた魔術は解けたのだが、撫で回されて気を失うように寝ていたせいか、魔術が解けても眠ったままでいたウィリアムは、ネアとディノと三人で並んで眠ってしまったことが、まだ心を乱すようだ。
「…………いや、こんな時にすまないな。気恥ずかしさというのは、場を選ばずに蘇るらしい…………」
「ふふ、ウィリアムさんのテントでもみんなで眠ったのに、照れてしまうのですね?」
「…………いや、それもそうだが、誰かに浴室で丸洗いにされたのは初めてだ」
「…………む。そちらでしたか」
そう言えばと、ネアは頷いた。
愛くるしい子狼とは言え、四つ足でてくてくとリーエンベルクの床を歩いて来た生き物をそのまま寝台に上げる訳にはいかない。
よってこちらの人間は、涙目でふるふるしている無垢な子狼を、銀狐の犬用シャンプーで綺麗に丸洗いしてしまった。
その結果、ノアは同じ香りにされるなんて耐え難いことだと寝込んでしまったし、足の裏からお尻まで綺麗に洗われてしまったウィリアムは、人型に戻ってからも時折挙動不審になってしまうらしい。
「それにしても、ディノは大丈夫でしょうか。…………その、ノアはよく刺されてしまったりするのですが…………」
「フキュフ…………」
そう呟いたネアに、残忍なご主人様に黒ちびふわに擬態され、おまけにクロウウィン仕様の素敵な紫色のリボンをお洒落に首に結ばれてしまったちびふわがじっとりとした声を上げる。
こちらの、念の為に復唱するところの、魔物の第三席は、まだ運試しの箱の魔術が解けないのだ。
あの後、箱の蓋の内側に、それぞれの開け方の答え合わせが書かれているのをエーダリアが発見した。
ウィリアムは、素直になれない者の回答として稚き子狼の姿に。
ノアは慎重過ぎることで、何も起こらないという結果に、そしてアルテアには、悪巧みに長けた者として翌日の日没までのちびふわ刑が課せられた。
アルテアはたいそうご立腹だが、自損事故である。
浅はかなる愚かさで一日真っ直ぐ歩けなくなるコースもあったので、そちらよりはいいのではとネアは思う次第だ。
「ノアベルトが一緒にいるからな。大丈夫だとは思うが……………」
そう呟いたウィリアムが、心配そうにネアの方を見た。
実はこうしてディノが不在にしているのには理由があって、ネアは、先程から時折リーエンベルクの方を振り返ってしまう。
このような時に少しだけおろおろしてしまうあたり、やはりウィリアムはこの種の話題にはあまり免疫がないのだろう。
それもその筈だ。
(自身の色事に長けた人でも、婚約した友人のところを訪れたかつての恋人について、その友人の婚約者にどう説明すればいいのかなんて、慣れている人はいないと思うわ…………)
そう思い、ネアは、自分より胃を痛めていそうな終焉の魔物の手を握った。
クロウウィンは、季節の境界のあわいの祝祭だ。
先日の蝕の事件からさして日にちも経っていない為、万が一のことがないようにと祝祭の儀式に不参加になったネアの手を、ウィリアムはずっと握ってくれている。
また、ウィリアムは、このクロウウィンの主役でもある筈の終焉の魔物の姿を、あえてノア特製の擬態で隠していた。
(もし、ラエタの巡礼者が残っていたら危ないからって…………)
だからウィリアムは決してネアの手を離さないし、今日ばかりはちびふわなアルテアがムグリスディノの特等席に収まっていても我慢すると言ってくれている。
とは言え、ちびふわの体が直接肌に触れないよう、ハンカチは押し込まれているが。
(……………そして、こんな風に私が、ウィリアムさんとちびふわなアルテアさんと外に出ているのは、ディノのことを天秤の魔物さんが訪ねて来たから…………)
ちりりと、胸が痛む。
でもそれは恐らく、ウィリアムが案じているような、苦しみや憤りではないのだと思う。
過去はやはり、その命の長さだけあるのだろうと、ネアにだって分かるのだ。
だから、長く生きてきたディノにそのような人がいたということは、決して問題ではなく。
(でも、あの女性が魔物で、私が人間で、あの人がまさしくそういう雰囲気で、尚且つリーエンベルクに来てしまったことが問題なのだと思う……………)
ちりちりする胸の痛みに、ネアはそう考えた。
なぜか眼下では、ネアの表情を見上げたちびふわがむがーっとじたばたしており、ネアは元の姿に戻れないことが悲しいのかなと、黒ちびふわの頭をそっと撫でてやった。
男女一組でふた柱存在するという天秤の魔物の一人、女性の魔物は、それこそ目が醒めるような清廉な美女だった。
(儚げで凛とした雰囲気な息を飲むほどの美女で、聞き惚れるような涼やかな声をしていて、…………例えるなら、ヒルドさんに容姿や気質がそっくりな妹さんがいたなら、あんな雰囲気かしら…………)
すらりと背が高く凛とした美貌は、理知的で静謐だった。
真っ直ぐな腰までの青銅色の髪に濡れたような新緑の瞳で、女性らしい媚びのようなものは一切感じさせず、寧ろ、ディノに長らく会えていなかった古い友人のようにリーエンベルクを訪れたのだ。
(要件はとても簡単で、歌乞いを得たことと、婚約者を得たことを知った。正直なところ過去の恋に未練があるが、王の慶事は単純に喜ばしい。曇りなき思いで祝福したいのできちんと挨拶をさせて欲しい…………と)
からりとそう言って笑った天秤の魔物は、未練を隠しもしない高慢さはあれど、魔物の中では真っ直ぐな心の女性なのだろう。
実際ウィリアムは、こうして押しかけられるのは複雑だが、どんな人物かと問われれば気持ちのいい魔物だと思うと話していたし、ネアも第三者であれば特に好きも嫌いもないタイプの女性だと思う。
(だが、やはりあの人も魔物なのだ………)
それが不安の一つで、他の問題も主にその集約に尽きる。
だからネアは少しだけもやもやしていたし、同族の気質をよく知るノアは、ディノと二人きりにはしないと約束してくれた。
(高位の魔物さんは、その一人一人が司るものの王である。だからこそ彼等は、相手が万象の王だからと必ず膝を折る訳ではないし、己の矜持に於いて己の欲望にとても忠実であることを、私はもうよく知っている…………)
その誇り高さは美しさでもあり、奔放さこそが魔物が魔物たる魅力でもあるが、ネアの宝物を奪い取りに来られたのであれば厄介だ。
何しろそこにいるのはネアの大事な魔物で取り替えはきかないので、持って帰ろうとされたらネアも苦渋の選択としてきりん箱を出すしかない。
あの人はそんな策を巡らせるような女性には見えなかったが、とは言えネアはその手の問題においての経験値不足だ。
もしもレーヌの時のようなことになったら、戦うしかない。
「ええ、ノアがいれば怖いことはないと思うのですが、……………魔物さんは昔の恋人を呪ったりしますか?」
「……………それに関しては個々の対応だな。残念ながら、俺の経験則だと厄介なことも多いが、俺の場合は至らないものか多くにおいて恨まれるし、なぜだかそういう気質の相手によく当たる…」
言葉の途中で、どこかぬるい視線を向けられ、ウィリアムはちびふわからそっと目を逸らした。
残響の魔物の件などもあるので、ウィリアムの苛烈さは、場合によっては強い執着を向けるような相手を刺激するのかもしれない。
「…………だが、ロテアはそういう気質ではないと思う。大きな天秤が傾いた時に、その調整を図るのが天秤の魔物達だ。彼等は良く言えば隠し事をしないし、場合によってはその言動は残忍で高慢だとも受け止められるにせよ、黎明のシーのような絡め手は使わないと思う」
「であれば、その部分では安心して良さそうです」
「他にも懸念があるなら、話してくれるか?」
そう言ってくれたウィリアムの声は、とても優しかった。
だからネアは、小さな不安のさかむけを言葉にしてみることにした。
「……………最近のディノは、かつて大切だったものを、それはとても大切だったのだと受け止められるようになったばかりなのです。もし、あの方と過ごした日々思い出し、そこで再認識したものが私よりも素晴らしく見えてしまったら………」
その懸念は隠しておくつもりだったが、ネアは気付けばそう口にしてしまっていた。
はっとしたように目を瞠ったウィリアムが、気遣わしげにネアの頬に手を当てる。
今日は懐かしい黒いトレンチコートを着ていて、ふと、ウィリアムが初めてアルビクロムに連れて行ってくれた日のことを思い出した。
「すまない、勿論そう考えて、不安にもなるよな。だが、シルハーンがこうやって心を動かすことが出来るのは、ネアだけだ。それは他のどんなものであれ、代わりになれるものじゃない」
「フキュフ!」
胸元のちびふわにも、たしたしと前足で首元を叩かれ、ネアは項垂れる。
「…………ふぎゅ。ここには同志しかいないので、うっかり本音を言ってしまいました。…………でもウィリアムさん、あの方の方が、そちらの分野にはとても素質がありそうに見えませんか?」
「ん?素質…………?……………分野?」
「あの女性は、踏んだり縛ったりが上手そうです。縛るのをまだ躊躇ってしまう私より、ディノを満足させてしまったら…………」
「い、いや、その嗜好も、ネア以外では聞いたことはないからな?」
「……………フキュフ」
果たしてそうだろうかとそろりと顔を上げたネアは、ふっと微笑んだウィリアムに繋いだ手をぎゅっとされた。
「シルハーンは、きちんと君と話をしたと言っていたが、どんな話をしたんだ?」
「…………あの女性が、こうしてリーエンベルクまで訪ねてくることに思惑があるといけないので、私の安全の為にもきちんと対処すると話してくれました」
「うーん、…………そうではなくて、シルハーン自身の気持ちは話さなかったか?ロテアとはどういう関係だったとか…………いや、それはいいのか。…………………困ったな」
少し聞き難そうにそう言われ、ネアは、慣れない議題に困り果てているウィリアムを見上げた。
勿論、とてもネアのことを案じてくれているが、ウィリアムはディノのことがとても好きだ。
だからそこには、同性として大切な友人を思うからこその懸念も見えて、何だか微笑ましくなる。
胸元ではちびふわが、またむがーっと荒れ狂っていた。
「かつてはよく、お城に来てくれた人だと聞きました。いつもにこにこしていて、とても優しく、面倒を見ようとしてくれていたようだがよく分からないと。ただ、グレアムさんとはあまり関係が良くなかったかもしれなくて、ディノはグレアムさんの方が好きだったので、その内に疎遠になってしまったようです」
しかし、その説明からすると、ディノは、ロテアのことを嫌ってはいなかったようだ。
レーヌの訪れに比べて穏やかな目をしていたし、とは言え決して歓迎するというような顔もせず、困ったように綺麗な水紺色の瞳を揺らしていた。
(リーエンベルクまで来てしまったことは困っているけれど、ディノは、あの魔物さんのことは気に入っているのかしら…………?)
ディノの婚約者であるネアにも、人間だと知った上でも挨拶をしてくれようとしたと聞いている。
ただ、ディノは、新しい魔物にネアを会わせることは嫌がった。
だからネアは、ウィリアムがネアを連れてリーエンベルクを離れる際に、その姿を探し見た。
ロテアは、ネア達が外出しようとしている時に騎士達を通して訪問を告げたので、門の側にある外客棟の入り口の前に立っているところはよく見えたのだ。
ディノに話しかけている、闊達な口調と美しい声も聞こえた。
ディノは少し困ったように目を瞠り、微笑みを浮かべていたように思う。
ちりりと、また胸が痛む。
(例えば、ディノを連れ去ってしまおうとするだとか、ディノに悪さをするだとか、そのようなことをする悪い人ではないのだとしたら…………)
ディノのかつての恋人に、あのような人がいたことは、決して自分を納得させる為の綺麗ごとではなく、少しの安堵でもあった。
長きを同じ世界で過ごすからこそ、こうしてからりとした様子で訪ねて来てくれることもあるだろう。
しかし、リーエンベルクに現れてしまうと、狭量な人間めは警戒してしまう。
そこはネアの玄関でもあるし、隠れ家でもある。
そしてまた、ネアのちっぽけな命よりも遥かに長いその過去が押し寄せた時に、その全ての人々が、今迄にディノを介して出会ったディノの友人達のように、こちらの時間を優先してくれる訳ではない筈だ。
ネアから、大事な魔物を長い時間引き離してしまうのではないだろうか。
きっと伸びたところでさして長くはないその日々の、それもネアの一番大好きなこの季節であればこそ、暫し待たれよと言いたくなる。
(今日は、久し振りにのんびりと一緒に街を歩いて、クロウウィンの飾り付けを見ようとしていたのに…………)
その魔物らしさが齎す危険がないならば、次に向き合うべきは、そんなネア自身の心の狭さであった。
それは不快感ほど大きくはない、“がっかり”という程度の一雫の失望とは言え、その一雫で心は重くなる。
その重さが、この手の領域に不慣れな自分の幼稚さのようでとても悲しかった。
また、なぜか先程から、ずっとじたばたしているちびふわに視線を落す。
「…………ごめんなさい、ディノもきちんと説明してくれて、ノアも付いていてくれて、ウィリアムさんもアルテアさんも一緒に居てくれるのに、こんな風にもやもやしていたら我が儘ですよね…………。なぜか今日ばかりはいつものようにさらっと流せなくて。…………私がこんな様子なせいで、ちびふわがすっかり退屈してしまいましたので、これからは楽しくクロウウィンの街を散策しましょう!」
「フキュフ?!」
ぽすんと頭の上に大きな手が乗せられる。
見上げると、ウィリアムが困ったように優しく微笑んでいた。
擬態をして砂色の髪の端正な顔立ちの青年になってはいるものの、なぜだかその眼差しでウィリアムだと一目で分るのが不思議でならない。
「俺も、………恐らくはシルハーンも、この手の問題は少し不利な領域だからな、言葉が足りなくてネアを安心させきれないと思う。だからこそ、不安なことがあれば全部吐き出してくれ。………人のことを言えた立場ではないが、心の内側に溜め込まないようにな」
「………………ウィリアムさん。…………その、せっかく一緒に街歩きをしているのに、もやもやっ子が一緒で気鬱にしてしまっていませんか?」
「はは、まさか。寧ろ、こんな時だからこそ一緒に居られて良かったと思うよ。…………アルテアは…………と言うより、アルテアもアルテアなりに、気にしなくていいと言おうとしているんじゃないか?」
「フキュフ!」
「……………まぁ、そうだったのですか?私はてっきり、思うように過ごせなくて荒ぶっているのだとばかり………」
「フキュフ?!」
ここで胸元から這い上がり、黒鹿角なちびふわは、ネアの肩の上で一生懸命足踏みした。
ちびちびふわふわしかしていないが、この姿なりの精一杯の抗議であるらしい。
しかし、ネアの心にはぽわりと幸せな温かさを届けてくれた。
新しいことや知らないことは怖くて不安なものだが、ここであれこれと悩んでいても仕方がない。
気分を変えて、一年に一度の街の雰囲気を楽しもうではないか。
「では、まずは予定通り美術館に行きましょう!博物館通りの方には屋台も出ていますので、クロウウィンの限定の飲み物を飲みたいです」
「ああ、それがいい。確か、限定のカップがあるんだよな?」
「ええ。人気で売り切れてしまうものなので、ディノの分を手に入れておかなければなりません」
深呼吸をしてから笑顔を作り、ネアがそう宣言した時のことだった。
「良かった、ここにいたか」
突然駆け寄ってきた誰かにそう言われ、ネアは目を丸くした。
振り返って見上げたのは、夢見るような灰色の瞳だ。
その容貌でこの場所で会うことに驚き、思わずそのまま固まってしまう。
今日はクロウウィン仕様で着ていた墨色がかった黒のドレスのスカートが、ふわりと揺れる。
艶のあるタフタ地のドレスに繊細なレースを重ね、スカートの中にはくすんだような薔薇色のチュールが詰まっている。
たっぷり布地を使ったものなので、くるりと回りたくなる贅沢なスカートだ。
「グ…………シェダー?」
「ウィリアム……………だな?…………と、…………もしかして、アルテアかな。………………霧の間の運試しの箱か」
「フキュフ!!!」
ネアの肩に乗った黒ちびふわの原因を一目で見抜くと、クロウウィンの街中に合わせたものか、漆黒の装いのシェダーは淡く苦笑する。
そんな小さな呟きにもまた、ネアはあの確信を深めるのだ。
「どうして、ウィームに?俺がここにいる以上あまり言えたものではないが、今のカルウィは不安定だろうに……………」
「カルウィに来たのが、ムレアだけだったからな。ロテアがウィームに来ていないかどうか気になったんだ。取り急ぎ、ウィームの様子を見に来たんだが、シルハーンはここにはいないのか?」
「……………成程、それでか。ロテアならシルハーンに会いに来ている。リーエンベルクだ」
得心したように頷いたウィリアムの返答に、シェダーは、はっとする程に酷薄な眼差しになった。
魔物らしい鋭さを隠しもせず、小さく頷くと、手だけは優しくふわりとネアの背中に当ててくれる。
「……………あの方お一人で?」
「いや、ノアベルトが一緒だが、何かあったのか?」
「あったというよりは、ロテアの気質の問題だな。…………ネア、ロテアと会話をしたか?或いは、顔を合わせた?………もしくは、遠目で彼女を見ただろうか?」
「………シェダーさん?…………ええとその、遠目でディノとノアと一緒のところを見ましたが、それくらいでして…………」
矢継ぎ早な質問にネアがしどろもどろでそう答えると、シェダーはぞくりとするような冷たい目をした。
けれどもそれは、ネアには向けられておらず、どこか遠くを見るような不思議な眼差しだ。
「そうか…………。では、もし君がロテアに、自分が狭量だと思うような不快感を抱いたり、理由のわからない不安を覚えたら、どうかそれで落ち込まないでくれ。天秤の魔物の固有魔術なんだ」
「……………え」
それはまさに、つい先ほどまでの自分ではないか。
ネアは目を瞠り、思わずウィリアムと顔を見合わせてしまう。
「………………そうなのか?」
驚いたように声を上げたウィリアムに、シェダーは気付いていなかったのかとでも言いたげにがくりと肩を落とした。
「……………そうか、君はロテアに気に入られていたからな…………いや、そう聞いている。そして、そのように好意を向けた相手には決して悪影響を及ぼさないが、天秤は周囲の認識を調整する魔物なんだ。勿論、その力については知っているだろうが、これが彼等個人の執着に絡むと厄介でな。……………彼女、或いは彼は立派で清貧で、或いは聡明で美しく、それなのに自分はなぜだか不愉快に思う。そんな認識から意識を調整され、場合によっては彼等の望むように彼等の欲しいものを手放しかねない。資質故に自身の領地を離れず、あまり人間の土地には長居出来ない魔物だが、蝕では必ず地上に現れるから警戒していたが………………」
いつもの穏やかな様子から一転し、珍しい程にいやに静かな口調の早口でそう教えてくれると、シェダーは刃物のような微笑みを浮かべて、ネアの頭をふわりと撫でてくれた。
(よ、よく分らないけれど、怒ってる…………。すごく怒ってる!!)
ネアはその静かな怒りが伝わり、震え上がった。
一番怒らせてはいけないタイプの人だと、初めて理解する。
「安心していい。すぐにウィームから摘まみ出しておこう」
「……………シェダーさんは、もしかしてあの方と何かあったのですか?」
「俺ではないが、ギードが………………彼が、かつてロテアのその力にあてられ、シルハーンの元から去ろうとしていたことを聞いている。それに俺…………の前歴では、ムレアに同じやり口で危うく伴侶を奪われそうになったらしい」
「おのれ、ゆるすまじ。それだけでもむしゃくしゃしますし、先程までの私の煩悶を返して欲しいです!」
シェダーの様子に納得がゆき、ネアもむかむかしてそう言えば、シェダーはふわりと艶やかに微笑んだ。
「シルハーン本人は、彼女の力のことを知っている筈だ。だからこそすぐさま君を自分の側から離し、あえてロテアを追い出さずに話をしているのは、彼女が振りまく魔術の影響を警戒しているからだとは思う。……………俺の方で、すぐにシルハーンからは引き離しておこう。この際、多少天秤の階位は下げても構わないな」
「………………とても頼もしいのですが、惨事を予測しましたので、不安を禁じ得ません…………」
「ウィリアム、どうかネアを頼む。ロテアの魔術は視覚浸透だ。一緒にいる姿を見たのなら、少し気分的な影響が出ているだろう。………………アルテア?」
そのまま立ち去ろうとしたシェダーは、慌てたふわふわにばしんと飛び蹴りを受け、片手で飛び込んできた黒ちびふわを掴む。
一瞬目を丸くしていたが、小さく苦笑して頷き、またとんでもないことを口にした。
「先程、中央駅近くの屋台通りで、エドワードを見かけた。日暮れまでは一時間程だ。万全を期すのであれば、あえてその姿でいた方がいい」
「フキュフ?!」
びゃっとけばけばになった黒ちびふわは、そのままシェダーの手でネアの肩の上に返還される。
ネアは、そのままこてんと落ちてしまいそうなけばけばちびふわを、そっと自分の手で押さえてやった。
隣のウィリアムが、エドワードというのは額縁の魔物だなと教えてくれて、むむっと眉を持ち上げる。
ふわりと転移で姿を消したシェダーは、かつて召喚を許した時の細い縁の魔術を辿り、ネアを探してくれたらしい。
「………………シェダーさんは風のように去ってゆきました。でも、私の心はすっかり晴れやかです!」
「………………すまない、ネア。ロテアにそんな性質があるのは、まったく知らなかった……………」
「いえ、私も自分だけの問題だと思ってしまっていたので、気付いていませんでしたし、ウィリアムさんが一緒に居て話を聞いてくれたので、自分の中だけでぐるぐるせずに済んだのですよ」
「フキュフ!!!」
「…………もしかして、アルテアはそのことを伝えようとしていたんですか?」
「フキュフ!」
けばけばから回復し、もう一度ネアの肩の上でちびちびふわふわ大暴れした黒ちびふわに、ネアとウィリアムは顔を見合わせる。
どうやらちびふわは、元の姿に戻れずに退屈して荒ぶっていたのでもなく、励まそうとして足踏みしていたのでもなく、天秤の魔物の危険を何とかネア達に伝えようとしていてくれたらしい。
「………そして、アルテアさんは、額縁の魔物さんと何か因縁があるのですか?…………む、なぜにこちらを暗い目で見るのだ。……………もしや、…………まさかの事故の保険でしょうか………………」
「………………フキュフ」
「ウィリアムさん、アルテアさんが苛めます………………」
「だが、…………シェダーもその可能性を懸念しているのであれば、アルテアは暫くそのままの方がいいだろう。ネア、絶対に俺の手を離さないようにするんだぞ?」
「なぜに皆さん、事故確定で話すのでしょう。私は常々、そのように言われてしまうことこそが、予言の魔術のような感じに未来を定めてしまうのではないかと思っていまして…………」
たいへん遺憾であるとそう主張したネアだったが、ウィリアムはまるでぐずった子供を宥めるかのようにさらりと流し、代わりに屋台で林檎の飲み物を奢ってくれた。
(そうすぐには解放されなかったのかな…………)
ほかほかした林檎の温かい飲み物は、クロウウィンだけに振る舞われるものだ。
スパイスが効いていて、甘いのだが大人でも飽きずに飲める味なのが嬉しい。
ネア達は紙コップで飲み物をいただいたが、ディノの為に今年の絵柄のマグカップを持ち帰りで包んで貰い、ぱかりと開いたカードには、美術館に入っていると記しておいた。
ウィームの美術館は、博物館通りにある大きな博物館の向かいに建っている。
この周囲には、植物園や宝飾品専門の小さな美術館もあり、美術品の修復工房とその技術を学ぶ若者達の為の小さな学び舎もある、芸術の分野に特化した区画だ。
封印庫前の広場も美しいが、美術館と博物館の間にある公園は季節ごとに色を変える木々や花々が美しく、中規模だからこその使い勝手の良さもあり、普段はウィームの民の憩いの場になっている。
今日はあちこちにクロウウィンの屋台が出ていて、ちらほらと気の早い死者を連れている家族連れの姿もあった。
歩道沿いをもそもそ歩いているのは、青い尻尾おばけこと、柩の精だろう。
昨年も見かけたが、弔いの丁寧な土地ではこのような青い色をしているらしい。
「もうすぐ夕方なので、死者さんも見えるようになってきましたね…………」
「ああ。排除結界にぶつかっている姿も見えるな…………」
「そしてよく見れば、既にあそこには砕けた南瓜が転がっています…………」
「やれやれ、早々に追い返されたか…………」
「昨年よりこのあたりに死者さんが多いのは、特別展示を見に来ているからかもしれませんね」
実はこの美術館は、昨年の墓犬の来訪をきっかけに今年からクロウウィン特別展示をすることになり、今日は死者達も楽しめるような特別な内装での展示になるのだ。
夜の森をイメージした内装の中、いつもの絵画を少し違う雰囲気で見られるからと、チケット売り場のあたりを見れば、なかなかにお客も入っているように見える。
この企画を始めたのは、死者達が、周囲の目を気にせずに今日ばかりは主役なのだと伸び伸びとしてくれるようにという考えからであるらしい。
昨年、緊張した様子で絵画を見て回る墓犬の様子を見た館長は、生者の為の美術館は、死者達には難易度が高く感じるのではなかろうかと思ったのだそうだ。
そして、自分が死者になった後にも最愛の美術館にまた来られるよう、生前から毎年のクロウウィンには死者達も過ごしやすい環境づくりをしておこうと張り切ってこの運びとなった。
「なので、企画展のきっかけを貰ったからと、リーエンベルクには招待券がたくさん貰えたのです」
「それで、ここに来る予定だったんだな」
「ええ。ディノ達の方でどれだけ時間がかかるか分らないので、まずは一階にある星の間で、草原の星空を楽しんで待っていましょう」
冬の系譜の強いウィームでは、星空が綺麗に見えることで星に纏わる作品も多い。
ネアが時間を潰す為に提案したのは、そんな星の間の入り口にある、見事な森と草原の絵と、今日だけ特別に天井に魔術移植された星空の影絵の展示であった。
せっかく一緒に居てくれるウィリアムにも、時間を有意義に使って欲しい。
なのでネアは、お気に入りのこの絵をウィリアムに見て貰うことにしたのだ。
「昨年来た時には、なかった絵だな…………」
どこまでも続くのは、壁の三面を飾った雪の草原だ。
薄らと白を羽織り、その草原は夜の光に青白く輝く。
森は深く濃い青色をしているが、あちこちに妖精達の光が灯っているので、飾り木のようにも見える。
「ええ、王朝時代に雪のシーさんが描いたものなのだそうですが、こちらで買い取って展示が始まったのが秋に入ってからなんです。搬入と公開記念の日にちらりと見ましたが、あらためてこうして見ると、吸い込まれてしまいそうな素晴らしい絵ですね…………」
残念ながら、個人所蔵だった連作内の一枚は統一戦争で焼けてしまったものの、今年の春に何とかこの三枚がウィームに集まり、夏の終わりまで修復されていたという絵なのである。
照明を落として天井に星空を配すると、ネア達はまるで、雪の降る草原に立っているような気持ちになった。
(シェダーさんに会えて良かった……………)
冴え冴えと美しい冬の草原の絵に囲まれ、ネアは微かな安堵を噛み締める。
先程までの自分の心の動きは、好きではなかった。
重苦しく悲しかったあの思いが、魔術の影響もあったのだと教えて貰えて、どれだけ救われたか。
(だから、まだ少し心配だけれど、今はここで心の中をすっきりさせて、ディノが合流してくれるのを待とう……………)
幸い、すぐにディノから、全て終わったからそちらに行くよという連絡が入った。
しかしながら、ディノがネア達のところに辿り着く前に、美術館の星の間では、今まさに大きな事件が起ころうとしていたのだ。
そんな事件にやはりと言うべきか巻き込まれたネアは、これはもう、魔物達が案じるついでに言霊で引き寄せている災厄なのではと思わざるを得ないのだった。