対価のパイと本命のパイ
蝕が明けた日の翌日になると、ネアは一日のお休みを貰った。
昨日はあわいから戻ったばかりなのにすまないとエーダリアに頭を下げられ、リーエンベルク周辺の見回りなども兼ねて、あれこれと細かな仕事があったのだ。
これはネアから申し出たことでもあり、何か困ったものが残されていると怖いので、見回りや調整などは早めにみんなで済ませてしまおうとお願いしてみたのだった。
ディノは少し心配そうだったが、ウィリアムがようやく目を覚ましてくれたことで、何だか皆の過ごすリーエンベルクを守りたいような凛々しい気持ちになったのだと言えば、微笑んで頷いてくれた。
(きっと、ディノも同じ気持ちだったのだと思う…………)
ウィリアムは午後過ぎまでリーエンベルクに留まり、体調が万全であることや、記憶喰いの後遺症などがないかを臨時かかりつけ医のアルテアに複雑そうな表情で調べて貰った後、いつもの戦場に戻っていった。
蝕明けの世界は、そこかしこに凄惨な爪痕が残されている。
きっとウィリアムは、酷いものや、見たくもない悍ましいものも見てしまうのだろう。
そう思えば、その日くらいはみんなに囲まれてぬくぬくとしていて欲しかったが、そうもいかないのが終焉の魔物というものなのだ。
ネアが、いつか自分で買って渡すよと言ってくれていたどこでもやり取り可能の万能カードをぐいぐいと持たせれば、ウィリアムは困ったなと苦笑していた。
ウィリアム自身もそのカードをネア達と分け合っておきたかったのだが、どうでもいい事までカードに書いてしまいそうな自分の弱さが気になったので、まだ自重していたのだと言うので、ネアはどうでもいい事もばんばん書いてくれるように、しっかりと言い含めておいたのだった。
早速昨晩の内に、世界のあちこちが酷い有様だったが、ネアの持たせたスープを飲んだら美味しかったというメッセージが届き、ディノと一緒に応援の返事を書けば、どう答えればいいのか散々と迷ったかのような、ウィリアムらしい、有難うという短い文字が今朝には届いていた。
より深く、よりしっかりと。
その糸を紡ぎ太い縄にして繋いでおけば、みんながいなくならない。
そう考えてふんすと胸を張ってから、ネアは比喩のまずさに青ざめて首を振った。
にゃわなる問題はとても繊細なので、そちらに結びつかないようなところで運用しなければならない。
(師匠達も早く見つかるといいな…………)
昨日の午後の休憩の時に、ディノにアルビクロムにあるグレーティアの屋敷に連れて行って貰った。
残念ながらグレーティア達の帰宅はまだだったが、留守を任されている同居の青年がおり、事情を説明出来たのが幸いだ。
そこは魔術には明るくないネアの代わりに、ディノが同行者の説明と合わせて、彼らの魔術的な階位を踏まえれば、深刻な危険に瀕しているということはないだろうと話してくれた。
今朝のウィームは朝から雨模様だ。
しとしとさあさあと降る雨に世界は青みがかった美しい灰色になり、ネアは温かな紅茶を淹れる。
ほこほこと立つ湯気を見ながら、窓の向こうの秋の名残りの森を眺めた。
(紅葉がとっても綺麗な森なのに…………)
秋の紅葉の森では、紅玉のような深紅の結晶石が採れるのだ。
色鮮やかな落ち葉に紛れて落ちているその結晶石は夜でもぼうっと光り、ネアは今年も拾うのを楽しみにしていた。
しかし、蝕が明けると、これから紅葉の最盛期だった筈のウィームの森は葉っぱの縁が焦げ茶色にかさかさになってしまっており、黒ずんだ紅葉の名残りのような色に染まっていた。
これではあの紅葉の結晶石が拾えないのは勿論、秋の実りなどにも期待は出来なさそうだ。
森で収穫出来る秋葡萄や紅葉林檎、きらきらと淡い金色の光を帯びる月夜にしか収穫出来ないこの土地特有の柿など、美味しい実りも失われたと知れば、あらためて今回の被害の大きさを実感する。
蝕の影響で葉が落ちた木々も多く、やはり今回の蝕で最も大きな打撃を受けたのは秋の系譜なのだ。
色鮮やかで美しい落ち葉を楽しめないと知り、ネアは少しだけ落ち込んでいた。
だから、こんな日は美味しい紅茶を飲んで体を温めようと思った。
「ディノの分も淹れますね」
「……………いらない」
「ディノ……………?」
いつものように尋ね、ネアは思いがけない返答に目を瞠る。
これはディノも大好きな茶葉なのにと首を傾げて大事な魔物の方を振り返れば、なぜか水紺色の瞳の魔物はしょぼくれたような顔をしているではないか。
「……………いらない」
「ディノ、どうしました?具合でも悪いのですか?」
「…………そうではないよ。でも、それはいいかな」
「まぁ。…………では、牛乳を温めてあげましょうか?」
他のものがいいのかなとそう尋ねると、ディノはなぜか絶望を浮かべた瞳をこちらに向ける。
「……………それも、いらないよ」
「まぁ……………。では、何か飲みたいものがありますか?作ってあげますよ」
「………………ネア」
ネアはここで、ぺそりと項垂れたディノの顔を覗き込んでみた。
なぜだか酷く悲しんでいて、少しだけ怯えたような目をする。
手を伸ばしてそっと頭を撫でてやれば、ほっとしたように強張った息を吐いた。
(何か、様子が変だわ……………)
そう考えかけて、ノアが昨晩、不思議なことを話していたのを思い出した。
『ネア、明日は、シルが時々我が儘になるかもしれない。手がかかるけど少しだけのことだから、強引に大事にしてあげてね』
こてんと首を傾げて、それはこれを指しているのだろうかと考えた。
なぜかノアが、我が儘という言葉と、強引にという言葉をとても力強く言うので、妙だなと引っかかっていたのだ。
ノアがそのようなことを言うのは珍しく、ディノが何かで拗ねてしまっているということなのかなと、昨晩は寝台の隣に引っ張り上げて眠ったくらいだ。
しかし、その時まではディノはいつものディノだったように思う。
おかしいとすれば今のこの状態だ。
缶を取り出した時は明らかに嬉しそうに霧雨杏の紅茶をちらちら見ていたのに、ディノは頑なにそれを拒んでいる。
勿論、ディノとて好みはあるので、示された食べ物や飲み物をこれはいらないと言うこともあるのだが、今回の拒絶の言葉は、いつもよりも強くて妙に不自然な響きになっている気がした。
そして、そんな自らの言葉の響きに落ち込んでいるように見える。
(つまり、ノアが示唆していたのはこのことで、この状況においては強引に…………?)
今度は反対側に首を傾げているネアを見て、ディノはまた悲しげに目を伏せた。
すっかりしょんぼりしており、睫毛の影からそろりとネアの方を窺っているようだ。
まるで、大好きな紅茶を断ったことでご主人様に嫌われてしまわないだろうかとでも言いたげな眼差しに、ネアは困ったなと対処法を考えた。
(…………私から提示されたものを、断らなければいけないような状態にあるのかしら?………全てを拒否しなければならないのかどうか、試してみた方がいいのかも?)
ここでネアは無言で紅茶を淹れる作業に入り、ディノはふるふると震え出した。
心なしか髪の毛の艶も無くなってしまい、何だかよれよれしてきてしまう。
何とも可哀想な姿だ。
そんな魔物の目の前に、ネアはだしんとカップに入って湯気を立てている、星屑蜂蜜をぽとんと落とした、霧雨杏の紅茶を置いてみた。
「ご主人様……………?」
「ディノの分ですよ」
きりりとした顔でそう命じれば、ディノは困ったようにこちらを見る。
「霧雨杏の紅茶だろう?」
「いいえ。そこに星屑蜂蜜の粒が入っています。ディノが飲まないと言ったものとは別のものなので、それにしました」
「ご主人様!」
幸いにも、一度拒絶されたものと同じものではなく、問いかけではなく強制的に与えれば受け取ることは出来るようだ。
ディノは嬉しそうにカップを取り上げ、温かくほろりと甘い紅茶を一口飲み、目元をぽわりと染めている。
(明日はと言うということは、この状態は今日だけなのかな……………)
しかし今日は明後日のクロウウィンの前に練習として、秋野菜のパイを焼こうと思っていたのだ。
上手くいけばそのまま本番用のパイにしてしまい、いまいちだったら少し手直しして当日にまた違うパイを焼けばいいのだが、そんなことをすると思えば、ディノの現在の状態ではあれこれ支障が出そうである。
(せっかくパイを焼くのに、食べられなかったら可哀想だわ……………)
もっとこの状態についての情報が欲しいと思ったが、ディノに教えて貰うのは難しそうだ。
言えないということも何らかの事情に含まれるのだろう。
(………………まさか!)
ここでネアは、ピンと来た。
かつてのネアも、言えないという呪いをかけられたことがある。
もしや、どこかでそんな呪いを貰って来てしまい、こんな様子なのではないだろうか。
(断らなければならないだとか、思っているのと違うことをしなければならない?)
「……………ディノ、美味しいですか?」
「うん、とても美味しいよ」
試しに尋ねてみると、返事をするのには特に支障がないようだ。
いつものディノで、目をきらきらさせてこちらを見ている。
そこでネアは、次の実験を試みた。
「ディノ、そこのお菓子壺を取ってくれますか?」
今度はそうお願いしてみる。
するとディノは、悲しげに目を瞠って首を振ったではないか。
きらきらだった瞳はすっと翳り、しおしおと項垂れてゆく姿はとても悲しい。
「ごめんね、………取れ…………取らないかな」
「まぁ、ディノの方が近いのに、取ってはくれないのですね?」
「ネア………………」
「仕方がありません。自分で立って取りに行った方が運動になるので、そうしましょう」
青ざめて項垂れているディノの方まで行き、ネアは白磁のお菓子壺をかぱりと開けると、その中にたくさん入っている、乾燥果物をひょいと摘んだ。
この壺はわざわざおやつを出して食べる程ではない時用に常にテーブルの上に置くことにしたもので、元は薬草などの質を保ったまま保管出来るティーポットサイズの小さな壺を、コロールの陶器のお店で発見したのが始まりだった。
白磁で細やかな葉っぱと花びらの模様が立体的につけられたデザインは、上に塗られた乳白色の釉薬の艶がとろりと美しく、浮かび上がった模様の影が藤色がかって、素晴らしい薬壺を際立たせる。
持ち手などはなく、ごとりと置くような蓋つきのもので、テーブルの真ん中に置くとたいそう可愛らしいので、ネアは、当初の予定のように薬草茶を入れて食器棚に仕舞うのではなく、おやつ用の乾燥果物や、ころりと丸い薬草エキスたっぷりの喉に優しい小粒飴を詰め込んで、テーブルの真ん中に置いたままのお菓子壺にしたのだった。
(かわいい…………)
こうして見てみると、やはり上品で繊細で、気持ちが上がる。
ふんすと胸を張り、ネアはディノに壺を見せつけてみた。
「この壺はやはり買って正解でしたね。こうして何もないテーブルの上に置くと、とっても素敵です!」
「…………うん」
「ディノ?」
「ご主人様……………」
悲しい声を出したディノに、ネアは微笑みかけた。
すると少しだけほっとしたのか、ディノは顔を上げてくれた。
ネアのお気に入りのこの蓋つきの壺は、中のものを入れた時の状態で保存するので、のど飴と、乾燥させた無花果や苺、大粒のレーズンに乾燥蜜林檎を一緒に入れても問題はなさそうだ。
ただし、入れるものは植物性のものに限られているので、飴は花蜜だけを使ったのど飴にしておいたし、お砂糖を使うチョコレートがけの乾燥オレンジなどはやめておいた方がいいかもしれない。
まずは性能を調べる為の運用なので、これでどちらも行けたなら、今後どう使うかを考えよう。
かぱりと蓋を開けると周囲には甘い果物の香りがして、ネアは乾燥プラムをまぐっと齧りながら、ディノにも無言で同じものを口に入れてやった。
魔物は目元を染めてへなへなになったものの、問答無用であれば拒絶する必要もなさそうだ。
「ディノ、これからクロウウィンの前夜祭のパイを焼くのですが、…………」
そう言いかけただけでもう、ディノは目を瞠ってふるふるとし始めるではないか。
ネアはくすりと微笑み、ぴっと指を立てた。
「ディノは、その間はどこかで待っていて下さいね?」
「……………待たない」
「あら、それではお手伝いしてしまうのですね?」
「うん……………」
目元を染めてこくりと頷き、ディノはいそいそとネアについて来た。
時折そろりとネアの表情を覗き込み、もしかしてこちらに起こっている問題に気付いているのだろうかと、考えている気配がある。
しかし、気付かれてはいけないという条件があったら可哀想なので、ネアは素知らぬふりをしておいた。
「パイ生地は確か、………ありました!アルテアさんの作り置きパイ生地です」
「…………アルテアは作り置きをしてあるのだね」
「ええ。一度私もパイ生地を作ってみたのですが、アルテアさん曰く諸々均等ではないという評価でして、その日の内に大量のパイ生地の備蓄を置いていってくれました。私がふうふうしながらパイ生地を折り畳んでいたのが脆弱に見えたのか、やっぱりアルテアさんのパイが一番と言ったのが嬉し過ぎたのか、どちらの理由なのかは謎です……………」
「嬉しかったのかな…………」
そんなアルテアは、ウィリアムがリーエンベルクを発つのと同時に統括の魔物としての仕事に戻って行った。
まずはヴェルリアに行き、その後はガーウィンの現場を調べに行くと話していた。
当分は忙しいかもしれないと言われたので、明日のパイの会に来れるかどうか尋ねてみたところ、それには来てくれるそうだ。
事前にディノから、ネアとウィリアムが危険に瀕していた時に駆け付けられなかったことが堪えているかもしれないと教えて貰っていたので、ネアはアルテアにも、あわいまで来てくれたお礼をきちんと伝えておいた。
とは言えあまり響いていないように思えたので、近い内にちびふわにする必要はあるだろう。
「パイ生地をこの雪原の魔術の上に置いて少しだけ常温寄りにしておき、その隙に中の具材を作ります!」
「このパイの具材は野菜なのだね…………」
「ええ。秋採れの茄子を中心にズッキーニそっくりの食感の落ち葉瓜、栗の風味のある芋がらのような月栗菊の茎の部分をお水で戻したもの、そこに自家製のサルシッチャを入れて、トマトソースでくつくつと煮込みます」
そう説明すると、ディノは目をきらきらさせた。
とろりとしたソースものの入ったパイ料理は、ディノの大好物の一つなのだ。
パイシチューが特に好きで、さくさく崩したパイ生地がシチューにくたりとなったところが何よりも好きなのだが、今回の料理には同じような食感が期待される。
「アルテアさんは以前、夏野菜とリコッタチーズのパイを作ってくれましたので、それを少しだけ真似して、チーズ入りのものを試してみましょう」
「ご主人様!」
チーズは勿論、アルバンの山のお気に入りの牧場のものと、ロマックの実家の特製チーズから選んだ。
アルバンの作りたて雪牛のモッツァレラと、ロマック自慢の柿の葉に包んだ香りづけのある燻製カマンベールチーズ。
トマトソースとチーズの組み合わせはもはや神の領域なので、ネアは香り付けの香草を放り込み、くつくつとお野菜を煮込みながらうきうきしてきた。
「…………それは何だろう?」
「こちらに切り分けたパイ生地ですか?ふふ、これは秘密です」
ディノはここで、ネアが小さく切り分けたパイ生地に首を傾げた。
しかしこれはとっておきなので、まだ秘密は明かせないのだ。
やがて素敵なトマト煮込みが仕上がると、中にチーズを入れ込みながらパイ生地で整形してゆく。
卵黄を刷毛で塗ったなら、後はもう魔術仕掛けのオーブンに放り込むだけだ。
こちらの世界のオーブンには魔術の祝福がかかっていることが多く、その中でも古くて良いオーブンや釜には、中のお料理を最良の状態で焼き上げてくれるというものがある。
ネアの厨房にあるのがまさにそれで、アクス商会で取り扱いのあるものの中でも、かなりいいものだろう。
中に入れて焼き上げれば上手に仕上げてくれるので、ネアはかなり信頼していた。
なお、アルテアなどは、祝福に頼らずに自分で火加減を調整するのが好きなのだそうだ。
一緒に焼き始めた小さなパイ生地のかけらは、お砂糖を乗せてかりかりと焼いたおやつパイである。
とても軽いものなので、ぱくりと食べてもメインのパイの邪魔にはならないものだ。
その後はディノと一緒に厨房の外の庭にある畑で収穫をしたりしつつ時間を潰し、暫くするとふんわりいい匂いが漂ってきたのでオーブンの前に戻った。
取り出され、ほかほかと湯気を立てているパイの出現に二人は顔を見合わせて微笑む。
お皿に乗せて焼きたてさくさくのパイにナイフを入れると、とろりとチーズがとろけ出てくるのがまた何とも食欲をそそるではないか。
アルバンのチーズのパイと、ロマック家のチーズのパイをそれぞれひと切れずつお皿に乗せて、これを二人で分け合いっこして食べるのがネアの計画だ。
アルテアの揃えてくれた特別な道具の一つで、このような中身がとろりと出てしまう系のパイの保存栞がある。
これはカットした面の部分に当てておく白い厚紙のようなものだが、実は遮蔽結界の魔術を応用した、高度なお料理便利道具なのだ。
これを当てておけば中身はこぼれず、とろとろ系のパイや、切り分けたところから崩れてしまいそうなお料理を保存することが出来る。
洗えば何度でも使えるし接着面の料理の風味も守ってくれるので、どの家庭にも一つはあるなかなかの売れ筋商品だと聞いていた。
「さぁ、ディノ。このパイを一緒に食べましょうね」
「…………………いらない」
その質問が出る前からパイの焼き上がり直後の喜びは消え失せ、すっかりよれよれになってしまっていたディノは、もはやネアの方を見る事も出来ないようだ。
必死に顔を背けて震えており、すっかり髪の毛の艶はなくなってしまっている。
なのでネアは、ディノにすすっと差し出した小さなお砂糖パイを引き下げ、小さな籠の中に放り込む。
「では、こちらを一緒に食べませんか?」
「……………いらない」
消え入りそうな声でそう呟くディノに、ネアはまた頷き、次のお砂糖パイも籠の中に入れた。
「では、これにしますか?」
「………………いらない…………?」
三個目の選択肢に、ディノも気付いたようだ。
そろりとこちらを見て、自分に差し出されているのがお砂糖パイだと知ると目を瞠った。
残りのお砂糖パイを確認し、水紺色の瞳に微かな光が灯る。
(……………個数を数えて、表情が変わったみたい?)
であれば、この呪いには回数制限があるのだろうか。
ネアは当初、それならばもうこれを食べるのだと本命のパイを押し付ける計画だったが、そこが少し気になり、作戦を変えてみることにした。
するとどうだろう。
ディノは四個目のお砂糖パイを断った後は、嬉しそうに頷いて受け取るようになったではないか。
さくさくと焼きたてお砂糖パイを食べ、ほろりと口元を緩めている。
(もう、大丈夫かしら…………?)
「ディノ、次はこの焼きたてパイにしましょうね」
「…………うん」
きっとこのパイを楽しみにしていたのだろう。
ぱっと表情を輝かせ、ディノはこくりと頷く。
これ以上大事な魔物が悲しげに項垂れるのを見たくなかったネアもほっとして、微笑んで頷いた。
「ごめんね、ネア。少しだけ支払わなければいけないものがあったんだ……………」
パイを口に入れる前に、ディノがぽつりとそう言う。
それが言えるということはもう、その支払いとやらは終わったのかもしれない。
「まだ支払いがあるのですか?」
「もうないから大丈夫だよ。念の為に少し多めに断っておいたから」
「ふむ。と言うことは、断るということがディノの支払いだったのですね。最初は呪いにかけられてしまったのかなと心配でしたが、あまり負担のかからないもので良かったです」
「…………………かかった」
「まぁ、ディノがくしゃくしゃに!」
ネアはもっと深刻なものを知っているからこそそう言ったのだが、魔物は今回の支払いがとても悲しかったようだ。
とても辛かったのにご主人様には伝わっていないと、しおしおと項垂れてしまったディノに、ネアは慌てておでこを撫でてやった。
さくさくとろりと、美味しいパイをいただく。
食べ比べてみたところ、チーズ自体に少し香ばしいような独特な風味があるので、このパイにはロマック家のチーズが向いているようだ。
同じものをもう一つ焼いておいて、こちらをメインにしようと決め、ネアは大満足でパイを頬張る。
具材の煮詰め具合もちょうど良く、パイ生地がしなしなではないところが自己評価のポイントだ。
(………それにしても、支払いと言うことは、対価というものだったのかもしれない…………)
ここで支払いがあったのだから、きっとそれは蝕に纏わるものだったような気がするが、ディノはもう終わったものだから心配はないよと言うに留め、多くは語らなかった。
幸せそうにパイを食べる魔物を見て、ネアは微笑む。
きっと少し前だったら、こちらの提案を退けるディノに少し傷ついただろうし、なぜなのだろうと心を萎縮させたかもしれない。
でもネアも色々なことを経験し考えられるようになったし、ディノも本意ではないのだと表情で伝えられるようになってくれた。
おまけにネアには、ノアという頼もしい弟もいるのだ。
「運命のひびっていう魔術があってね…………」
その日の夜に、ノアがディノの支払いについてその仕組みを教えてくれた。
ディノは、今後その魔術の運用に対してネアが警戒してしまうとおろおろしていたが、ノアはきっぱりと首を振り、こういう事は話しておかないとねと笑う。
「もしいつか、ネアを守る為に使うとしても、対価はこれくらいだよって分かっていれば、ネアだって無闇に拒絶しないよ」
「ええ、私はいざという時には、きちんと取捨選択します。ディノが対価を支払うのは悲しいですが、それがディノのもっと悲しいことを退ける為なら協力しますからね」
「ネア……………」
「うんうん。それでこそ僕の妹だね。ほら、シル、大丈夫だったよ」
「ふふ、ノアはさすが私の弟ですね」
「ありゃ……………」
たくさん作ったお砂糖パイは、二人で少し食べたものの、残りは取っておいて、美味しい果物のクリームと合わせて食事の後のデザートにして食べるつもりだ。
収穫のパイの準備は整ったので、いよいよ明日はクロウウィンの前夜祭である。
蝕の事件の感謝のふるまいにもしようと思い、ネアはもう拒絶の対価を支払わなくても良くなった魔物にお願いをしてみる。
「ディノ、クロウウィンでお外に行く時には、三つ編みではなく手を繋ぎましょうね?」
「ネア、それは大胆過ぎるから、三つ編みにしようか」
「断られました。解せぬ………………」
あえなく断られてしまい、がくりと項垂れたネアは、対価の支払いがある内にこの種の問題で活用すれば良かったのだと、心から後悔したのだった。