グレーティア
それはそれは豪奢な王宮で生まれた。
月闇の竜の王宮には女達しかおらず、そこは贅を尽くした眩い楽園のようなところ。
常に夜闇に包まれており、あちこちの窓には柔らかな明かりが灯っていて、花の香りと水の香りに包まれた中を、美しい黒髪の美女たちが行き交うのだ。
月光や星屑を紡いだ糸で織り上げた丸い光が空いっぱいに浮かび、夜の湖には宝石の船を浮かべて遊びに出る。
「グレーティアは美人になるわよ」
そう微笑んだのは姉の一人だった。
幼い頃のグレーティアは美しい子供だったが、月闇の竜の中では珍しくあまり自己主張を好まなかったので、我が儘な姉妹達はグレーティアと一緒にいると喧嘩にならなくていいとよく笑っていた。
勿論、我が儘なところはあっても月闇の竜の女達は強い絆で結ばれた家族で、みんなが小さなグレーティアを可愛がってくれたものだ。
「ずるい、お姉さまばっかり。私だって可愛いもの」
そう頬を膨らませたのは一つ下の妹だ。
肩までのふわりとした黒髪が可憐で、グレーティアは羨ましくなる。
艶麗な美貌の姉に憧れがあるが、自分にないものを持つこの妹はいつも眩しい。
この二人は今、終焉の魔物と選択の魔物にそれぞれ執心で、姉のつてで訪れた新年の宴は、あまりの華やかさに胸が苦しくなった。
後どれだけの日々を、ここにいられるのだろう。
そして、もうどれだけの幸福を使い果たしてしまったものか。
いつか、この美しい王宮にはいられなくなる。
だからそれまでにここを出ていかなければならないのだが、グレーティアはどうしても覚悟が決まらなかった。
姉妹達のみんなを愛していたし、ここを出た後で自分がどう生きてゆけばいいのか分からなかったからだ。
でもいつかきっと、その日が来る。
だけどどうかもう少しだけ。
もう少しだけここにいたい。
(愛しているの。…………お姉さまも、妹達も。だって私達は生まれた時から家族で、ずっとここで一緒に生きていたかったから…………)
でもそれは叶わなかった。
そうしてずるずると旅立ちの日を伸ばしていた報いを受けるように、ある日グレーティアは、女ではないことを姉妹の一人に気付かれてしまい、あの美しい王宮から放り出された。
髪を毟られ引っ掻き傷だらけにされて、遠ざかってゆく月闇の王宮が涙に滲む。
月闇の竜達の同族の男を憎む思いはあまりにも深く、それがかつて、一族に出た男の悪食によって女達が貪り食われ滅亡しかけたという過去故であれば、グレーティアは姉妹達を恨めなかったのだった。
きっと彼女達も、恐ろしかったのだろう。
そう思いはしてもやはり、その後の自分が辿った運命を思えば胸が潰れそうになる。
投げ落とされた森で痛みに動けずにいたところを人間の魔術師に捕まり、見世物の獣のように鎖で繋がれて日々様々なことをされた。
徐々に失われて狂ってゆく心のどこかで、自分が誰かなんてさっさと手放してしまえば楽になれるのにと、自分に語りかける。
でも目を閉じれば、くるりくるりと、瞼の裏側で美しい人達が踊る。
色鮮やかなドレスの数々に、自分もまだ着ることが出来た藍色のドレスのスカートが揺れる音。
あの新年の舞踏会では特等の魔物や精霊達が集い、こちらを見てまだ小さなレディだなと微笑んでくれたのは、赤い目の魔物だっただろうか。
目を閉じる度にその美しく幸せな光景は蘇ってきて、なぜだかグレーティアの心は完全には失われないまま生き残り続けた。
時折何も分らなくなってどこにも行けなくなるけれど、ふっと深い眠りの底から浮かび上がるように意識が透き通る。
痛くて苦しくて恐ろしくて泣いていたそんなどろどろとした絶望の中で、檻の隙間から伸ばされた誰かの小さな手がそっと頭を撫でた。
ぱちりと目を開いたつもりだが、腫れ上がった目はほんの少ししか開かなかった。
片目は取られてしまったばかりで、眩しい太陽の光に目眩がする。
「…………あなたはだれ?」
「私はウェルバ。………可哀想に、あなたは悪い奴らに捕まっているのね」
「……………わからないの。…………ずっとここにいるわ」
「待っていて。今、私のもう一人のお父さんを連れてきてあげる。きっとあなたを助けてあげるから」
薄らと目を開けた先に見たのは、グレーティアが閉じ込められた檻の外側にいた小さな黒髪の少女だった。
その黒髪を見た時は、姉妹の誰かが助けに来てくれたのだろうかと思い、胸がいっぱいになったが、良く見れば知らない人間の子供のようだ。
言いたいことだけを言って駆け出していってしまったが、一体誰だったのだろう。
もしかしたら狂った頭が見せた幻だったのかもしれないと思いまた目を閉じれば、あの素晴らしい舞踏会の記憶の中でゆっくりと体を丸めた。
(痛い!!)
誰かがこの体に剣を立てる。
毒で焼き、呪いで損ない、早く狂乱すればいいと笑う。
その為に買い付けた醜い怪物めと罵られ、ああやはり、もう女のふりを出来なくなってしまったこの体は醜いのだと、胸がずたずたに引き裂かれた。
痛くて悲しくてわぁっと暴れると、なぜだか周囲の魔術師達は喜んでいるようだ。
そのことに頭に来て、また力任せに暴れた。
そうして、暴れながら壊したのは、一体どれだけの罪のない人達だったのだろう。
けれどもその記憶はべたべたとした闇に包まれて、まったく思い出せないままだ。
「だめっ!そっちに行ったら、獣避けの魔術で足がなくなっちゃう!!」
暗闇の中で、一際澄んだ誰かの声が聞こえ、はっと息を飲む。
それはまるで、暗闇を切り裂く一筋の光のようだ。
見えない目の瞼の裏側に、檻の向こうにいた黒髪の少女の姿が蘇った。
慌てて立ち止まり周囲を窺おうとしたのだが、目が縫い付けられたように開かず、やはり何も見えないままだった。
「…………誰かいるの?」
おずおずとそう問いかけたのは、きっと微かな希望を抱いたからだ。
誰かが、この苦痛や恐怖から助けてくれるかもしれない。
でもそれは多分、願うだけ無駄なことだったのだろう。
「いい子だね、もう怖くないよ。そのおかしな目隠しも取ってあげる」
誰かの温かな小さな手に引っ張られ、痛む体を屈めると、ふわりと目が見えるようになった。
剥ぎ取った重たい皮のベルトのようなものが地面に落ち、ようやく目が見えるようになれば、悲しげに顔をくしゃりと歪めた黒髪の女の子が立っている。
「目が…………左目、見える?………すごく痛そう………」
「……………この前、何かで刺されたの。……………ねぇ、ここはどこ?」
「ラエタっていう国なの。あっちにある緑色の塔に、私の自慢のお父さんが住んでるから、そっちに逃げよう。きっとあなたを助けてくれるから」
「…………どうして泣いてるの?」
「……………あなたはとっても綺麗なのに、人間があなたに酷いことをしたから。痛そうなのにもう痛くないみたいで、………………大丈夫。私が来たからもう安心よ。私が、絶対に助けてあげるからね…………」
自分の胸程までしかない小さな女の子は、泣き腫らした青い目でそう約束してくれた。
こんな無垢な瞳をした小さな人間が泣いているのが可哀想で、思わず片手でその頭をそっと撫でた。
自分より小さな妹が泣いていると、いつだってグレーティアはそうしてきたのだ。
けれどもその手はすっかりずたずたにされており、少女は泣きそうな目で息を飲む。
何か不思議な結晶石の花のようなものを植え付けられて奇妙な形になってしまった自分の手に気付き、これは怖かったかなと慌ててその手を隠したが、少女はそのまま泣かずに、なぜかにっこりと微笑んだ。
「あなたは、綺麗なだけじゃなくて優しいんだね」
「……………………きれい?」
「うん。青い瞳に黒髪でとっても綺麗。私は、あなたみたいに綺麗な竜を見るのは初めてよ!」
そう言った少女の笑顔を見ていたら、なぜだか無性に胸が苦しくなった。
胸がばちんと破裂してしまいそうな息苦しさに、目の奥が熱くなる。
「でも、…………私は醜いから、家族に捨てられたのよ」
「じゃあ、私が拾う!うちはお父さんが二人いるし、お母さんもとっても優しいの。私を生んだお母さんはもう死んでしまったけれど、今の家族もとっても素敵な家族なのよ」
小さな手が伸ばされ、傷だらけのこの手が痛くないようにと気遣いながら手を繋いでくれる。
(あたたかい…………)
その手があまりにも優しくて、グレーティアは息が止まりそうになった。
(ずっと手を繋いでいたいと言ったら、この子供は怖がってしまうだろうか…………)
そんなことを考えながらその子に導かれるままに歩き、大きな緑の塔が見えるところまで来た時のことだった。
「いたぞ!!…………おいおい、狂乱のまじない布が外されてるぞ?!目隠しを外したのは誰だ?!」
「誰だあの子供は……………?」
「街の子供だろう。…………おい、あの娘をさっさと排除しろ!!」
二人はそこで、なぜグレーティアが暴れなくなったのかを訝しみ追いかけてきた魔術師達に囲まれてしまった。
槍や剣、何度も浴びせられた毒の入った小瓶などを持つ魔術師達に取り囲まれ、グレーティアは慌てて小さな子供を腕の中に抱き込んだ。
しかし、その行為が却って事態を悪化させることを、その時のグレーティアはまだ知らなかったのだ。
「…………成程、なかなか狂わないと思っていたが、心を通わせた者がいたのか」
魔術師の一人がそう言った時、グレーティアはその子供をどこか遠くに遠ざけるべきであった。
だが、その時はそんなことまでは理解出来ないまま、体に走る酷い痛みを堪えながら、何とか自分の腕で彼女を隠そうとして抱き締めるばかりで、その身に有する大きな力を使って戦うことも出来ずに、グレーティアは怯えきっていた。
(やっと優しいものを見付けたのに…………)
あの王宮を追われてから初めて、グレーティアは誰かに綺麗だと言われた。
髪は毟られて片目や指を失い、体中が傷だらけに違いないこの自分を、この少女は拾って家族にしてくれると言ったのだ。
だから、その時の愚かなグレーティアに出来たことは、その大事な宝物を抱えて何とか守ろうとするばかりで、すぐさま体中に突きたてられた槍や剣で膝が崩れた。
悲鳴を上げた少女がグレーティアを庇おうとして手を広げ、
……………その小さな体も、何本もの槍や剣に無残に貫かれた。
「ウェルバ!!!」
耳が割れそうな程の誰かの絶叫が響き、無我夢中で手を伸ばして崩れ落ちた小さな体を抱き締めたところまでは覚えている。
次に目を覚ました時、目の前にいたのは美しい男性だった。
暗い部屋だ。
だが決して不潔ではなく、人が暮らしている気配がそこかしこにある。
「やあ、目を覚ましたか。…………気分はどうだ?左目も見えるようにしておいたからな」
そう微笑んだ男性は、あの魔術師達と同じような服を着ていたので、グレーティアは慌ててその部屋の隅にあった戸棚の陰に逃げ込むと、体を屈めてその男を精一杯威嚇した。
喉が焼けるように痛み、がしゃんと水の入った何かが床に落ちる。
慌てて周囲を探したものの、あの小さな女の子はもうどこにもいない。
ウェルバと潰れた声でその名前を呼べば、また胸が引き攣れるように痛む。
あの小さな宝物はどこにもいないし、確かに彼女の瞳から命の光が失われるのを見てしまったような気がする。
そのことを思い出すと今度は恐ろしくなり、グレーティアはがたがたと震え出した。
「………………私は、ウェルバの………………父親だ」
先程の男性が、体を屈めてそう言った。
ぎくりとして顔を上げれば、男性の綺麗な青い瞳の下には隠しようもないくらいに酷い隈が出来ている。
高位の魔物のように美しい顔はやつれ、頬には誰かがつけたらしい引っ掻き傷があり、淡い金色の髪の毛もくしゃくしゃになっていた。
「お前はな、あの日からずっとあの子の名前を呼び続けて、喉を潰してしまったんだ。……………大丈夫、あの子は少しだけいなくなってしまっているけれど、…………また死者の日には会えるからな」
その言葉には苦しみが滲み、まるでグレーティアにではなく自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
(……………ああ、この人は泣いているんだわ)
グレーティアのように喉は潰さないけれど、胸の底で慟哭し続けている傷深き人に違いない。
こちらを見た青い瞳があまりにも綺麗で、その青は、あの小さな子供と同じ色をしていた。
頭では色々なことが分っているのに、その男性が差し出す手には、手を重ねられない。
獣のように唸ってしまうし、近付かれると暴れてしまうし、喉が潰れていると言われてもあの女の子の名前を呼んでしまう。
ごめんなさいと、心の中で謝った。
ごめんなさい、私はあなたの娘を守れなかった。
ごめんなさい。もうこの心はどうにもならなくて、きっと二度と元通りにはならない。
ごめんなさい。
わたしなど生まれてこなければ良かった。
「よし、決めたぞ。そんなにあの子の名前が気に入ったなら、私をウェルバと呼ぶがいい。仮にも私はあの子の父親だからな。自分の名前は奪われてしまったので、ちょうどいいではないか!」
ある日、その男性は突然そんなことを言い出した。
グレーティアを入浴させようとして傷だらけになっており、美しい顔も傷だらけだ。
申し訳ないと思いながらも体に触れられるのが怖くて仕方なくて、グレーティアはいつも泣きながら暴れる。
でもなぜか、この男性はグレーティアの髪を洗うのがとても好きだった。
それは死んでしまった彼の娘と、同じ色の髪だからだろうか。
「……………ウェルバ」
「そうだ。そう呼んでくれ。そうすれば私もきっと、その度にこの胸の中にあの子の面影を見て、もう二度と寂しくなくなるだろう」
「………………ウェルバ」
「ああ。……………こっちにおいで」
これがウェルバならと伸ばされた腕にそろりと近付き、初めて、そっとその中に収まってみた。
するとその男性は、しっかりとグレーティアを抱き締めてくれる。
小さくはないし寧ろ大きい。
でもこれもウェルバなのだと思えば、確かにあの子供と同じ匂いがする。
「…………ウェルバ」
「ああ、そうだ。もうお前は一人じゃないからな。怖くないぞ」
「………………っく」
「あの子を守ろうとしてくれて、有難うな」
その声の温かさに涙が零れた。
まだ喉がと慌てる男性の腕の中で、グレーティアはその夜、わんわん泣いたような気がする。
あの美しい月闇の王宮を追われてから、初めてたくさん流した涙であった。
(夢を見たわ……………。お父様に拾われたばかりの頃の夢。私の宝物が死んでしまって、…………世界が怖くて堪らなかった頃のこと……………)
しゃらりと闇が揺れた。
その闇の中で揺蕩い、大きな新円の月を見ている。
つい先ほどまでいたのは、あの在りし日のラエタを思わせる趣味の悪いあわいの中であったが、気付けばグレーティア達は見知らぬ夜の世界に弾き飛ばされていた。
その真ん中で呆然と目を見開き、先に起き出していたらしいウェルバの方を見る。
ここはどうやら、砂漠の夜のあわいであるようだ。
「お父様、ここは………?」
「………………リンジンめが、ダーダムウェルの魔術師に成り代わったのだろう。その結果、私達はあのあわいから弾き出されてしまったようだ」
「……………じゃ、じゃあ、あの子はどうなるの?!」
蒼白になってそう問い返せば、今はもうウェルバと呼ぶのが当たり前になった養父が、苦しげな目をしてそっと首を振った。
「………………そんな」
「だが、あの子の守護は厚い。私達を呼びに来たのなら、そこにはあの子の良く知る怪物がいたのだろう。その怪物が、あの子を傷付けるばかりのものだとは限らないとも思うのだが、私は楽観的だろうか?」
「……………お父様、でも……………」
ウェルバはもう、ネイの元には戻れないという前提で話しているように感じて慌てて立ち上がると、出会った頃より随分と若返った養父は、はっとするくらいに悲しげに微笑んだ。
「我らは、随分と遠くまで飛ばされてしまったようだ。おまけに、目を覚ます迄にも丸一日程経ってしまったらしい。…………お前の魔物が周囲を見回ってくれているが、ここから外に出るまでも色々と難儀だろうなぁ」
「え、…………何かまずいところなの?」
「ここは、あわいの最下層のようなところらしい。実はな最初は違うところに転がり落ちたのだが、お前達が起きないので、落とされていたところから少し移動させたのだ。…………最初はなぜか、見渡す限り一面に湯気を立てているスープ皿が並んだところにいたからな」
「………………それ、よくお父様正気を保てたわね」
ちょっと想像も及ばないが、随分と暗い目をして言うので、きっと恐ろしいところだったのだろう。
なぜかみんな器用にスープ皿をひっくり返さないような倒れ方をしていて、ウェルバはそれがたいそう恐ろしかったそうだ。
「とは言え、すぐにムガルも目を覚ました。…………私が、無責任にネイは大丈夫だろうと言うのは、実は、ムガルがそう言うからでもあるのだ。あの子が真に万象の婚約者であれば、あの子に何かがあれば、既にこの世界は崩壊してしまっていると言われ、確かにそうだと得心した」
「…………………あ、」
言われて周囲を見回してみれば確かに、健やかなというのもおかしな話だが、今のグレーティア達がいる場所は、見たことのない美しい夜の砂漠のあわいではあるが、どこにも崩壊の気配はないように思えた。
そこまで離れていない場所には明るく町の灯が揺れていて、オアシスの町があるらしい。
(じゃあ、私の可愛い弟子は無事なのかしら…………)
遠い昔にグレーティアを救おうとしてくれた女の子とはだいぶ違うが、それでもグレーティアはネイが気に入っていた。
(また、…………)
また失くしてしまったら。
「グレーティア、……………大丈夫か?」
優しい声が聞こえて、柔らかく頭を撫でる手を感じる。
その手の温かさに泣いてしまったのは、まだ二人が出会ったばかりの頃だった。
「…………大丈夫よ、お父様。私はあれから色々なことがあって、妻の死もちゃんと受け入れたの。それ以外にも沢山悲しいこともあったけど、それでも心を損なわずにしっかりと楽しく生きているわ。だから今は、弟子の心配は後にして、まずは自分達のことを考えなきゃね」
「…………昔は、あんなに泣いてばかりだったのになぁ。立派になって…………」
「……………お父様が、私をそう育てたのでしょう?」
そう言えば、ウェルバはこちらを見て青い瞳を嬉しそうに細めた。
髪を撫でる手を止め、お前の髪もこの色になったのだなぁと小さく呟く。
「ええ。お父様が気に入ってくれていた黒髪だったけれど、容姿の変化は、転属の対価だったの。変わらなければいけないと思った時に、どうせならしっかりとお父様の……………息子になろうと思って」
「はは、それは父親冥利に尽きる。立派な息子に育ってくれた」
そう微笑んだ養父は、あの事件の後、半狂乱で自我もないようなグレーティアを二カ月にわたって面倒を見てくれたのだそうだ。
襲撃に加担した魔術師達は、全てウェルバが殺してしまったらしい。
そうしてなぜか、街の人々は、暴れた怪物が誤って小さな子供を殺してしまい、命をかけて怪物を鎮めたその子供の善良さに正気を取り戻したという噂を信じていた。
そういうものなのだと、ウェルバは言う。
民衆というものは自分達の納得のいくように事件を物語化し、さももっともらしく声を潜めて語り合う。
だが、傷跡を見れば、自分の娘を殺したのは誰なのかくらいすぐに分ったから、安心しなさいとウェルバは言ってくれた。
けれどそれはもしかすると彼の優しさで、正気を失って暴れた自分は、最終的にはあの子の亡骸を傷付けもしたかもしれない。
確かにあの時、彼女の瞳から命の火が消えるのは見たものの、その後の自分が何をしたのかについては全く自信がなかった。
でも、小さな女の子が哀れな怪物を逃がそうとしていたことは、幸いにも何人かの住人達が見ていてくれた。
彼女はまず、緑の塔に幽閉された父親を頼ろうとしたが、彼は幽閉された魔術師である。
決められた時間以外では魔術師の部屋に繋がる魔術仕掛けの扉は開かず、塔の上にいた魔術師には、娘が助けを求める声は聞こえなかった。
そんな中、狂乱を強要されて街に放り込まれたグレーティアが暴れ出してしまったので、彼女は、助けを待たずに自分一人でそこに駆け付けてくれた。
街で暴れる哀れな竜の話を娘から聞かされ、混乱の中一緒に魔術師の塔を訪れてくれていた彼女の新しい母親は、いつの間にか娘の姿が見えなくなったことに動転し、なんとか魔術師の塔の扉の鍵を開けてくれるよう城に使いを出したものの、最悪のその瞬間には間に合わなかった。
塔の魔術師は結局、自分の娘の亡骸を抱いて泣き叫ぶ怪物の声で異変に気付き、自ら封印を破って塔の下に降りてきたのだそうだ。
そこで彼が何を思い、何を見たのか。
その時のことを養父が語ってくれることは殆どないが、彼は娘が命を賭けて救おうとした怪物を引き取り、自分の息子として育てることにした。
正気に戻るまでに散々苦労をかけ、また正気に戻ってからもなかなか懐かない子供だったことだろう。
初めて抱き締められて泣いたあの日から、グレーティアは、自分が月闇の竜だったことや、一族の中で忌み子とされる男児に生まれてしまい、それを隠してずっと女の子のふりをして生きてきたのだという話をした。
あの子が助けてくれると話した時、自分の姉妹が助けに来てくれたのかと思ったということも。
家族に捨てられたグレーティアを、あの子が拾って家族にしてくれると言ってくれて、それがとても嬉しかったことも。
(お父様はずっと、私が綺麗なドレスや女言葉に執着していても笑わずにいてくれた。あの子がいるから、うちには娘も息子もいるのだと、みんなに話してくれた…………)
「立派な息子になれたのは、私が最高のお父様に育てられたからよ。……………だから、また会えて良かった。…………まだ弟子がどうなったのかは分らないし、ここからどうすればいいのかも分らないけど、お父様とまた会えたのは最高の幸運だわ。そう言えば私も………………って、テイラム!!!」
ぎょっとして声を張り上げると、ウェルバは目を丸くした。
「グレーティア?」
「テイラムが家に一人じゃないの!!あの子、しっかりしてるからすっかり忘れてたわ!!お父様みたいになりたくて、性悪なロクマリアの魔術師に捕まってた竜の子を引き取って育てているのよ。とは言っても、もう立派に自立してるんだけど、……………やだ、あの子一人で大丈夫なのかしら?!」
「………………そ、そうか。子供を引き取ったのだな」
「子供っていうか、私が引き取った時にはもう四百歳くらいではあったし、どっちかと言えば、面倒を見られているのかしらと思うことも多かったけど…………いきなり攫われたから、お店とか任せっ放しだわ……………」
今更ながらに思い出した自分は、酷い養父ではないか。
真っ青になったグレーティアが、何層にもなったあわいを抜け出し、アルビクロムにある自分の屋敷に帰れたのは、その一年以上後のことであった。
勿論その前には、可愛い弟子が無事なことも、自分達が無事であることも確認出来ていたし、偶然お互いの無事を確認出来たことで、よく気の回る弟子がグレーティアの屋敷に事情をしたためた手紙を送ってくれていた。
お陰で何とか、テイラムが、自分は捨てられたのではと勘違いして荒ぶることもなく済んだようだ。
だが、漸く戻ったグレーティアが、なぜか契約が終わっても一向に帰らない貪食の魔物と、万象の魔物の恩赦により、十年間だけ地上に留まることを望みそれを叶えられた養父を連れて帰ったことで、テイラムはいたく混乱したようだ。
すっかり賑やかになってしまった我が家で、グレーティアは今日も朝から喧嘩の絶えないテイラムとムガルの仲裁をする。
養父は、国内に住むからとガレンに挨拶をして以来、その時に面識を得たガレンエンガディンとの文通が楽しいようだ。
春にはウィームに行き、可愛い弟子のお勧めのザハで会食の場を設ける予定である。
「見てお父様、…………アルビクロムでは珍しいわね。雪が降ってきたわ」
「おお、美しいものだな。せっかくだから、温かなお茶でも淹れようか」
「何か食べるものはないのか」
「ムガル、あんたはどれだけ居座るつもりなのよ……………」
「グレーティア、この魔物は僕が捨ててきましょう。さぁ、早く命じて下さい」
「テイラム……………」
グレーティアがあまりにも邪険にするからか、ウェルバがある日、ムガルが帰らない理由を教えてくれた。
「あのあわいで、二人で話したのだ」
実はムガルは、かつて、食べ物目当てに友人に会いに行った先のラエタで、一人の少女に出会って恋に落ちたらしい。
その少女は少女にしては大柄でよく食べ、力持ちで黒髪に青い瞳をしていた。
しかしあれこれあって暫くラエタを訪れられない内に、父親を亡くしたその少女は、もうラエタを去ってしまっていたという。
「……………その少女にお前が似てると言っていたぞ」
「似てるも何も、それ私だと思うわ…………」
「ああ。よく似ていると思ったが、紐で縛られている時に、本人だと分かった」
真顔でそう言うムガルに、グレーティアは顔を顰める。
「……………なんでそこなのよ」
「以前も、私が人間の持っていた商品を食べようとした時に、縛られたことがある」
「……………そう言えば、お父様のところによく来ていた魔物と食事に行った時に、知り合いの食堂の備蓄まで食べようとしたおかしな男を捕まえて、店から追い出したことはあったわね。………ほら、イバリ姉さんのところのお店だったから」
イバリは、塔に囚われた魔術師が、自分の娘を託した夫婦の一番下の娘である。
グレーティアにとっては血の繋がらない姉のようになって、彼女が老衰で亡くなるまでとても仲良くしていた。
ラエタを出たのは、養父も死者の国から戻らず、最後の家族であるイバリも亡くなったからだったのだ。
「…………え、あなたが、あのあわいにいたのは偶然よね?」
少し不安になってそう尋ねると、落とされたところまでは偶然であったと話した。
「だが、リンジンとは元々顔見知りだ。お前達に拾われた後に、あの男から呼びかけがあった。姿を見かけたが、物語のあわいが動くから大人しくしていろ、怪物役にされると危ないと言っていたな」
「…………それが、宿屋であなたが我に返ったあの時ね?」
「お前達とリンジンの間に何か面倒事があるのかと思って、巻き込まれるのであれば不愉快だと思ったが、お前がいるのであればまぁ、巻き込まれてやらないこともない」
「…………………ええと、私も男、あなたも男よ。もう一度言うけれど」
「そのようなことは些細な問題だ。………それにしても、もう一度見付けられるとは思わなかった。最初に会った時はすぐにいなくなってしまったし、あの店で再会する前に見た時には、がりがりで傷だらけでずっと震えていたからな」
「…………………え?」
思わず声を上げて目を瞠れば、良く見れば魔物らしい美貌をした眠そうな目の男はふっと笑う。
そのよく熟れた苺のような赤い瞳に、グレーティアははっとした。
「白樺が子飼いにしていた魔術師達が、檻に入れて捕まえていた竜の子供を見たことがある。その竜は気に入っていたので貰い受けようとしていたのだが、その前にいなくなってしまった。次に会ったのが、あのラエタの食堂だ。でもまたお前はどこかに行ってしまって、もう会えなかった」
「…………………え?」
言われたことが飲み込めず、呆然とムガルを見返したその時、テイラムが強引に二人の間に割り込んできた。
「駄目ですよ、グレーティア!そんなことを言い出したとしても、筋金入りの変態だと証明されただけで、絆される理由にはなりませんからね!!」
「…………はっ、そ、そうだったわね。一瞬、何だか昔から私を知っているのねって胸が熱くなりかけたけど、こっちからすれば何の接点もないただの通りすがりじゃない!」
拳を握ってそう反論すれば、ムガルはつんとそっぽを向いた。
「ははは、暫くは賑やかなままかのう」
そう笑った父の姿に、死者の国から帰ってきた小さなウェルバの笑顔を思い出す。
『良かった。やっぱりお父さんが、この子を助けてくれたのね。グレーティア、お父さんは研究に夢中になると一か月くらい部屋から出て来なくなるから、私の代わりに食事とお風呂の面倒を見てあげてね!あなたはもう、うちの子なんだから』
小さな小さなグレーティアの宝物は、そう微笑んで教えてくれた。
食べさせるよりも、食べさせられる側だと話したグレーティアに、少女は笑ってその関係でもいいと言ってくれた。
そっと手を伸ばして小さなウェルバの頭を撫でてみる。
そうすると嬉しそうに笑ってくれたので、グレーティアは幸せな気持ちになった。
『…………笑ったぞ!!グレーティアが、笑った!!!』
『……………お父さん、もしかして、この子をまだ笑顔にしてあげられていなかったの?』
『………………ウェルバ』
しゅんと項垂れた養父を見て、グレーティアは驚いた。
小さなウェルバの養父母も声を上げて笑っていて、彼等は、自分達もグレーティアの様子を見ていてあげるから、安心するようにと彼女に約束している。
『きっと賑やかになるわ。グレーティアの新しい家族よ』
あの日から随分遠くまで来た。
グレーティアは転属をしたことで随分長命になってしまったが、とは言えもうこの命の折り返し地点は過ぎているだろう。
梱包妖精のシーだった最愛の妻も、あの少女と同じようにグレーティアに微笑みかけてくれた人だった。
あなたは今度は梱包妖精として新しい家族に囲まれて過ごすのよと笑った妻を、ぎゅっと抱きしめた遠いあの日。
そんな大事な伴侶ももういなくなってしまったが、梱包妖精の中にもまだ妻の一族は残っていて、年に何回かはみんなで食事をするのだ。
「……………テイラム、賑やかな家族になりそうよ」
「いい話風にまとめないで下さい!この大食いの魔物は却下です!!!」
理知的で冷静な息子にしては珍しく、テイラムは耳を赤くしてそう叫んだ。
そんな普段は見せない可愛い拾い子の表情に、グレーティアは声を上げて笑った。
こんな顔を見せてくれるのなら、案外大家族もいいものかもしれない。
ただし、家族に害を為すようなことをしたら箱に詰めてアルビクロムの汚い川に沈めると、ムガルにはしっかり言い聞かせておいたのだった。