夜の訪問者と白い傷跡
その夜、部屋を訪れたのはノアベルトだった。
飄々とした様子で扉の魔術をこじ開けて入って来たある意味旧知の魔物に、アルテアは振り返って顔を顰める。
「おい、出て行けよ」
「うん。今はネアの側を離れられないシルの代わりに、シルの魔術を回収したらね」
「シルハーンの……………?」
「そうそう。まったくシルも過保護だよね。でもさ、今回はそのお陰で少しだけ道筋がずれたのかもしれないから、必要なものだったんだろうけど…………」
そう言いながらノアベルトは、隣室の寝台で眠ったままのウィリアムに近付くと、頭に手をかけて、耳の裏側を覗き込んでいる。
何を仕込んであったのかとそちらを覗けば、なぜかそこには小さな白い傷跡があった。
ウィリアムの階位の魔物の身に傷跡が残るということは、魔物の身には珍しい。
それは残しているのか、残さざるを得ないのかのどちらかしかない。
回収という言葉を重ね、ぴんときた。
「…………傷跡。…………もしかして、運命のひびか?」
「そういう事。ウィリアムは知らないけど、…………こういうものも小さな風向きなんだよね。今回は最初からみんなが警戒してたから、辛うじて全員無事に回収出来たって感じだし…………」
ノアベルトがウィリアムのその傷に指先で触れると、傷はするりと剥がれ落ちて消えてしまった。
(風向き、…………か)
運命の疵や、運命のひびと呼ばれるその手法は、運命のその先までを見通せる階位の生き物だけに許された一種の対価魔術だ。
当人に知られないようにその人物の要素にどこか変化を与えておき、その僅かな比重による傾きで用意されていた運命を変える。
アルテアも、この魔術は何度か使った事があった。
例えば、渡された薔薇の棘で指を傷つけた王女が、さして痛みもしなかったその傷が元で運命を狂わせ怪物になる。
そんな暇潰しをしかけた時には、一つの国を焦土と化し、連鎖的に周辺諸国の変動に繋がったことでウィリアムを珍しく本気で激昂させた。
(最も一般的なのは、その体や魂に小さな傷を付けることだ)
けれども勿論、それは簡単なことではない。
微々たる変化とは言え、それを定着させることには労力が伴うのだ。
相手が終焉の魔物ともなれば、その定着にはそれ相当の力が必要とされる。
「だが、それが運命のひびなら、既にシルハーンは対価を支払ったということになるぞ」
ひたりと不穏な予感を覚えてそう言えば、ノアベルトは小さく頷いた。
こうして表情を怜悧に整えれば、そこには軽薄で怠惰ないつもの塩の魔物の名残りはない。
「それはね、僕もネアが向こう側に連れていかれてから聞いたんだけど、あまり厄介なものじゃないよ。ウィリアムが相手とは言え、せいぜい傷跡程度の変化だからね。………でもシルは、きっと悲しむんだろうな」
「当然だろ。損失がなければ対価にならない」
どんな些細なことであれ、対価とはそういうものだ。
ましてや器用なノアベルトが手を貸していないとなると、あのシルハーンは馬鹿正直にたいそうな対価を支払ってしまった可能性が高い。
(厄介なものではないが、心を損なうようなものか……………。自身にとって損失となるにせよ、今のシルハーンの場合はどうせあいつ絡みだろうが…………)
差し出される対価は、まず間違いなくそちらからだ。
なのでアルテアは、溜め息を吐きたくなった。
ネアはもう、今回のことで失われたものはないのだと信じ切っている。
そうして安堵した彼女から、その対価はきっと何かを奪う。
「…………うん。シルは今回の件については、最初からずっと何かの予感を覚えていたみたいなんだ。………珍しく全身で現れた夏至の怪物や、一時的に空白の時間を持った海、郭公の出現といい、色々と災厄と悲劇の予兆が重なっていたこともあって、かなり厳重に手を回してあったんだろう。それを考えると、その全てを振り切って飛び出したウィリアムは全く馬鹿な男だね。でも多分、………こんな風にウィリアムが支払った苦痛の対価があったからこそ、ネアは無事に帰って来たんだ……………」
そう呟いたノアベルトの表情は硬い。
それも当然だ。
今回のことは終わりさえ良ければというだけでは済まされない、最後の最後で奇跡的に帳尻が合ったというくらいの危うさであった。
アルテア自身もそれが不愉快でならず、この部屋に入ってからはずっとあわいの対策を編み上げ続けている。
手が足りたのではない。
足りなかったからこそ、最も無力でただ一人運命を持たなかった人間が、あれだけの怪我を負いながら最悪の顛末を捻り切った。
(…………守護の層がなければ、とっくに死んでいる)
特に頭部の傷と、肩、そして左脇腹あたりに酷い守護の磨耗が見えた。
どれだけの衝撃を受けてそれを耐え忍んだものか、頭部などは髪の毛のもつれ方や固まり方を見れば、治癒されてはいるものの出血もあった筈だ。
あの守護で、それだけの状態にあった。
恐らくは物語の必然性とやらによるものであろうし、最終的には手が足りたことを、ネアは幸運だと思っているだろう。
これまでの研鑽や信頼、心の繋がりがあったからこそ踏み止まれたその最後の一線だと。
しかしそんなものは、運頼みの悪手でしかなく、最も惨めな解決の仕方だと言ってもいい。
次に同じような事が起きた時には、恐らく二度目の幸運はないと見るべきだ。
所詮それは、幸運なのだから。
「…………まだ巡礼者は残っていたな。ラエタであれば、ダーダムウェル以外の虎の尾も消息が掴めていない」
そう呟けば、ノアベルトはすっと瞳を細める。
最近のこの男はすっかり人間への嫌悪感を手放したように見えるが、その表情にはまだ、悪辣に人間達を破滅させて遊んでいた頃の魔物を思わせる牙や爪が見えた。
「ダーダムウェルの一番弟子だよね。彼は確か、早々にラエタを出た筈だ。先代の白樺が生きていれば消息を掴めたんだろうけど」
「白樺から逃れる為に自らあわいに入ったというところまでだな。既に死んだならいいが、あれも厄介な男だ」
「見付けたら、取り敢えず壊しておこうかな」
「…………朝が来れば太陽が昇るだろうとでも言いたげな口調だな」
「そうかもしれないね。僕は元々身勝手な男だし、自分が幸せなら他人なんてどうでもいいんだ。ここが守れるなら、巡礼者なんてどうなっても構わないよ」
朗らかな口調でそう言い、ノアベルトは小さく苦笑した。
「そうそう、その場合はあわいが帳尻を合わせる前に、誰かをあわいに放り込んでおかないとだ。…………アルテアは、そのあたり気を付けてる?」
「ヴェルリアだと足が付くからな。まだ完全ではないが、五人程は放り込んである」
「完全一致じゃないと、最後の一人でネアが持っていかれたりしたら困るんだけど」
「ウィリアムが目を覚ましたら、残りもどうにかするさ。蝕の間は、厄介な魔術を持つラエタの残党の警戒が先だ」
「まぁ、厄介な魔術師なんて他にもいるけど、あの頃の魔術はまだ不安定なのがねぇ。…………そう言えば、君のお気に入りの魔術師が白持ちになったのはどうしてだか知ってるかい?」
唐突に質問が変わった。
片方の眉を持ち上げて無言でそちらを見れば、決して世間話などではないようだ。
(おおよその見当はつくが、気に入っていたのは前歴なんだがな……………)
「別に俺が手助けした訳じゃないぞ。今はもう、俺もさしたる興味はないしな。…………何だ、お前は後悔してるのか?」
「うーん、僕としても別に、自分で捨てたものを取られただけだから構わないんだけどね。あの白の要素をアルテアが知らないと困るからさ。………多分またいつか、こういうぎりぎりの戦いがあるかもしれない。その時に少しでも使える要素を押さえておいた方がいい」
「お前自身はどうなんだ?奪われたものを補えば、お前は王族相当だろうが」
「ありゃ?…………もしかして僕が、その程度のものも補えていないとでも思ってる?」
そう微笑んだノアベルトを、王族の魔物として見知っていた頃のかつてのアルテアが、油断のならない奴だと警戒したことはない。
彼はどちらかと言えば、己の望みを知らずに享楽的に遊び歩くばかりの軽薄な方に拗れたシルハーンであり、その資質の器用さはともすれば万象より多くのことを可能にしたとは言え、目を光らせていなければならないようなことに使うこともなかった。
だが、統一戦争を境にノアベルトは変わった。
彼が心底他者を呪い、滅ぼそうとすればそれはどれだけの執念深さで残忍さなのかを、あらためて知り驚いたのはアルテアだけではあるまい。
今はもう、そう言えるとしても、その頃の経験や憎しみも確かにずっとノアベルトの中には残るのだ。
ましてや今、守るべきものを得た塩の魔物はその狡猾さと残忍さを切り出すことを躊躇いもするまい。
思い違いだったと言え、失ったという経験はそれ程簡単に浄化されはしない筈だ。
「……………補いきったとしたら、それ相当のことをしたということか」
「かもしれないし、僕の資質かもしれないよ。僕は元々その種のことに長けているからね」
(であれば、…………)
下手をすればもはや、ノアベルトの階位の方が上になるかもしれない。
そう考えてはみたものの、特に不快感はなく、ある程度は任せておけるなと考えたくらいだった。
「それと僕、…………リーエンベルクに住んでるから」
「……………は?」
「恩賞として部屋を貰ったんだよ。エーダリアとも契約してるしね」
「………………シルハーンは許したのか?………いや、あいつならお前は許すだろうな」
「と言うより、シルはああ見えてその辺りはしっかり観察しているからね。僕が、自分の領域を侵さないことは知っているんだよ。それと、僕が自分の与えられない領域を埋められることも…………かな」
「ああ見えるも何も、あいつは王だからな」
「はは、そりゃそうだ。でもまぁ、僕はネアの兄になる訳だから、シルにとっては同じ屋根の下にいても気にならないんだろうね」
そう微笑み、ノアベルトはこちらを見た。
薄暗い部屋の中で鮮やかに光を孕む青紫色の瞳は、先程までの鋭さを和らげどこまでも穏やかに笑う。
「ええと、それと………」
「何だ、まだあるのか?」
「うーん、…………いや、ないんだけど、………うん。やっぱりないかな!」
「だったらさっさと帰れ。もうシルハーンの魔術は回収したんだろ?」
「まぁね。…………やれやれ、早く蝕が明けるといいんだけど」
そう呟きながら、なぜかぎこちなく、ノアベルトは部屋を出て行った。
ノアベルトが出たのを確かめてから部屋の扉をしっかりと遮蔽し直し、椅子に座ると深く溜め息を吐く。
(…………一つ、このリーエンベルクに固定されたものがあると思えば、手堅いな)
勿論シルハーンがいるのだが、彼には細部の調整や組み換えの多くを可能とする程の器用さはない。
ゼノーシュもいるものの、彼は元々見聞にのみ特化した魔物である。
最も必要な細やかな手という役割において、ノアベルトの存在は有益であった。
「………………にしても、いつからだ?」
そう呟き眉を寄せたが、恩賞ということであれば、統一戦争の影絵か海竜の戦のあたりだろうか。
とは言えこちらで把握していないような働きをエーダリアの契約の魔物として成していたかも知れず、その限りでもない。
少し考えたが別に気にする程でもないなと考え直し、その後は暫く、あわいの生き物に対処出来るような道具の備えを増やし、日中に回収した巡礼者の記憶を書物に起こす作業に没頭した。
煙草の煙から錬成した悪食の鸚鵡は、今は小さな指先ほどの硝子瓶の中に収められている。
そこに特殊な蜘蛛の糸をたらし、その糸の反対側の端をこれまた特殊なペンに繋ぐ。
そこからの記録の再編は、専用の固定装置にペンを設置し、自動書記魔術で動かせるのだが、時折その魔術を止めてしまう、封印された記憶などが混ざり込む。
その度にインクが滲んだ部分を綺麗にし、潰れたペン先を直さなければいけない。
都度手をかけるのは骨が折れるのだが、他人の記憶を書き起こす程の苦痛もないので、このようにして自動に再編するような道具を作り出した。
よく、相手の記憶を奪って自らの身でその知識を得ようとする軽率な者がいるが、奪った記憶を自分の中に取り込むと、どこからが自分自身なのかの境目が曖昧になってしまうことが多い。
それは好ましくはなかった。
かちりと時計の針が揃う音がして顔を上げると、いつの間にか二時間ほどの時間が経っていた。
その後も何度か、蝕特有の変異や騒ぎのようなものは続いていたようだ。
とは言えこちらから介入する程の問題は起きず、微かに闇色が白んだ夜明けを迎える。
立ち上がり、用意されているポットから濃い紅茶をカップに注ぐと、相変わらずのその香りの高さに目を細めた。
やはり、リーエンベルクの揃えは今日も趣味がいい。
一口飲んで小さく息を吐き、あの空の縁の色であれば順調に蝕も終わりに向かっているのだとほっとする。
(深い蝕であれば、そこから明けるまでの時間が早いことがある………)
一日で終わらずに何日も蝕であったという記録もあるのだが、幸いにも今回の蝕は白み始めているので、もうあまり長くは続かないだろう。
とは言え長い一日だった。
その時、扉をノックする音が響いた。
外側の結界を緩めて声を返せば、静かに扉を開けてシルハーンが入ってくる。
「ウィリアムの様子はどうだい?」
「覚醒の兆候はなさそうだな。…………だが、蝕が明けきればそう時間はかからないだろう」
「そうか、特に異変がなければ休息の眠りだろう。…………アルテア、任せてしまってすまないね」
「あいつが見張っていても、疲労を溜め込むだけだからな」
「うん。君が引き受けてくれたお蔭で、ネアはぐっすりと眠れたようだ。真夜中過ぎに現れた生き物も、幸い、あの子には恐ろしくはなかったようだからね…………」
「今は大丈夫なのか?」
「今は、ノアベルトとヒルドが見てくれているよ。目を覚ましたら飲ませるようにと、妖精の薬草茶を持ってきてくれたから、少しだけ預けてある」
「……………心の疲弊を洗い流す、妖精でも古い一族だけに受け継がれたレシピだな…………」
「ノアベルトも飲んだことがあるそうだ。…………彼も、統一戦争の頃の悪夢をよく見ていたからね」
そう呟き、シルハーンは眠っているウィリアムの額に指先を押し当てる。
魂の損傷などを計っているのだろう。
「…………うん。ウィリアムは比較的眠りが浅いのだけれど、夢やあわいの残滓もなさそうだね。君が最後に体に戻してくれたお蔭で、安心して眠ったのだろう」
「そういや、先代の犠牲が崩壊した後、何度かあわいの境界を彷徨っていたな…………」
「彼は、内側に痛みを抱え過ぎるからね。時折、無意識に彷徨ってしまう。今回は君の戻し方が良かったのかもしれないね」
「……………どうだかな」
そう返せば、こちらに視線を戻したシルハーンは少し微笑む。
だからこそ気になり、尋ねてみることにした。
「…………運命のひびをウィリアムに入れただろう。何の対価を支払ったんだ?」
その言葉に、万象はどこか困ったような目をした。
「ノアベルトに聞いたのかい?」
「あの傷跡を見ればすぐに分る」
「…………そうか、君はそういうものに詳しかったね。でも心配はないよ、ひびを入れるくらいであればさしたる対価ではないから。これから三日以内に、ネアが差し出すものを、五回拒絶しなければいけないんだ」
「…………あいつは知っているのか?」
「魔術の理において、私からは直接話せなかったのだけれど、ノアベルトが上手に説明してくれるらしい。彼は、そのようなものの回避が得意だからね」
その対価を聞いてほっとした。
その程度であれば、自分で取捨選択が出来る。
三日以内という区切りであれば、蝕が明けて安全になってからいくらでも支払えばいい。
自身にとっては損失であり、けれども負担が軽減出来るような対価を上手く選んだようだ。
「…………今回はね、……………どこか、グレアムがいなくなった年に巡り合わせがよく似ていた」
眠っているウィリアムを見下ろし、シルハーンはそう呟く。
ノアベルトも話していたが、万象は万象であるが故に、世界のあちこちからその予兆を拾うものだ。
シルハーンにしかわからないような不穏な気配が、ずっとどこかにあったのかも知れない。
「それは、…………ウィリアム限定だったのか?」
「予兆の魔術は、それを拾う者の持つ何かを変える予告だからね。勿論、その示唆するものがネアであった場合も考えたのだけれど、……………そしてその上であの子が危険な目に遭うこともあったけれど、なぜかその予兆はいつも、どこかがウィリアムを向いていた。…………夏至祭の怪物を覚えているかい?あれは別離や喪失を齎す生き物でもあって、あの日にウィリアムと踊れなかったことを、ネアはなぜかずっと気にしていた。…………林檎のケーキを翌日にウィリアムに届けたネアを見ながら、私は、今度いなくなろうとしているのはウィリアムなのではないかなと思ったんだ」
その言葉から察するに、それは確信に近いだけのものだったに違いない。
だからシルハーンは、あれこれと備えを始めたのだろう。
「もう終わりだと、そう思うか?」
「………………ああ、終わりだろう。断言してしまうのもどうかなとは思うけれど、あのあわいからウィリアムをここに連れて帰った時、やっと終わったとなぜかそう思ったんだ。そのようなものもまた、運命の報せだと思うからね」
ふと、珊瑚の魔物が崩壊した夜に、この腕を掴んだネアの姿を思い出した。
あの時に出掛けてゆけば、自分は無事では済まなかっただろう。
海溝の底にある小さな城では、いつも資質を隠すために擬態をしていたので、そんな状態で珊瑚が崩壊すれば、命までは落とさずとも体のどこかの部分は失ったに違いない。
「気付かなければ、…………………ウィリアムは戻らなかっただろうな」
「そうではないかもしれないし、そうかもしれない。……………でも、ウィリアム自身も譲歩してくれたことで、私も備えが出来たのだと思う。蝕での反転を取ると私に伝えてくれた時、それが、今迄のような短い休暇を得る為の措置ではなく、ネアに関する問題を解消する為の対価だとすぐに分った。今迄のウィリアムであれば、そのような理由であればこそ、誰にも何も言わなかった筈だ」
「………………言わないだろうな。あいつはなぜか、そういうことはあえて隠す傾向がある」
「彼は終焉だから、どんな災厄も、終焉として飲み込み自分の身の内で終わらせてしまえるという自負があるのだろう。今回もいつものようにそう考えてしまわなかったのは、………万が一にでも失ってしまったら困るものが、今の彼に出来たからなのだと思うよ」
だから、ウィリアムは自分の命綱を自分でかけた。
それが嬉しかったのだと、シルハーンは微笑む。
勿論今迄のウィリアムにだって、失い得ないものはあっただろう。
けれども、今のウィリアムが手にしたものは、揺るぎないようでいてどこか儚い。
使い魔としての契約を得てもなお、アルテア自身もどこかで日々その危うさに触れている、少し目を離しただけでもどこかに逃げ出してゆきそうな一人の人間を思えば、一度斃れるくらいではさしたる影響はないという自信が揺らいだのではないだろうか。
或いはネアだけではなく、待ち望んだ指輪の定着を終えるシルハーンに寄り添い、その喜びの瞬間に立ち会いたいと思ったのかもしれない。
「すまないが、もう少しだけウィリアムを頼む。ネアが目を覚ましたら交代するよ」
「寝かせられるだけ、寝かしておけ。…………あれだけ守護が揺れたんだ…………」
「…………………アルテア」
いつの間にか自動書記が止まっていた記憶の再編作業に気付き、インクの滲みを直していたとき、突然あらたまって名前を呼ばれた。
顔を上げれば、不思議な眼差しでシルハーンがこちらを見ている。
「例えその瞬間に側にいなくても、あの子が無事でいてくれたのは、君の守護もあったからだと思うよ」
そう言われて、目を瞠った。
何も返事が出来ずにいる間に、シルハーンはそのまま部屋を出て行てゆき、部屋には記憶の再編の為にペンが紙の上を走る音が響くばかりになった。
(………………だとしても)
シルハーンの言葉が、ただの気休めではないことは、重々分っている。
ネアが、何かとろくでもない目に遭いやすいのも知っている。
けれども、必ずどうにかして自分の手を届かせてきたし、最終的にはその場に居合わせた。
今迄にこんな風に心許ない思いをしたことはなかったのだ。
蝕の縁が白み始めたとは言え、まだ窓の外は暗く、夜明けの青い光に包まれてもいいはずの時間で、ここだけが夜の中に置き去りにされたようだ。
(………………ん?)
ふと、誰かか何かが部屋の外にいるような気がして、眉を持ち上げる。
無言でそちらまで歩いてゆき、扉を開けば思いがけない生き物が廊下に立っていた。
「……………部屋を間違えてるんじゃないのか?」
そこにいたのは、尻尾をけばだたせてこちらを見ている銀狐だ。
寝惚けて部屋でも間違えたのかと思えば、なぜか妙に暗い目をして部屋に入り込んで来る。
どういうことだろうかと眉を顰めかけ、ネアから、この狐が竜にされたウィリアムをいたく気に入っていたと聞かされたのを思い出した。
緊張しているのか、妙に思い詰めた表情でぎこちない歩き方になっている狐の後ろ姿を眺めて得心すると、後ろから歩み寄りそのまま片手を腹部に差し込んで持ち上げた。
ムギーと声が上がる。
目を丸くして震えているその体を抱えて隣室まで歩いてゆき、ウィリアムの胸の上に乗せておく。
突然ウィリアムの上に乗せられた銀狐は、目を丸くして呆然としているようだ。
どうして自分がここに移動してきたのか分らないものか、必死に首を傾げている。
「いいか。悪さはするなよ?」
腕を組んでそう言いつければ、まだ目を丸くして尻尾をけばだててはいたが、こくりと頷く。
暫くはそのまま固まっていたが、こちらの作業に戻って暫くしてから隣室を窺えば、眠ったままのウィリアムの頬に、銀狐がそっと前足を押し当てているのが見えた。
その後、目を覚ましたウィリアムに、なぜ狐が胸の上に乗っているかを尋ねられ、これもお前をこちら側に引き止めた楔なのかもしれないなと言っておけば、なぜかウィリアムと銀狐は、呆然と見つめ合っていた。
ふとした思いつきでしたことだったのだが、案外、本当にそういうものの一つなのかもしれない。
ムグリスを伴侶にしたヨシュアを思い出し、まさかなと呟くとあまり深くは考えないことにした。