333. 最後はご飯で締めくくります(本編)
無事に物語のあわいからリーエンベルクに帰ったネアは、現在またしても危機に瀕していた。
それは儚げな微笑みが美しい春闇の竜が齎した危機で、部屋の中の空気はすっかり張り詰めてしまっている。
ネア達がいるのはリーエンベルクの外客棟で、みんなでウィリアムを用意された一部屋の寝台に寝かせ、エーダリアとヒルドは蝕の対策本部に戻った後だった。
ウィリアムは明日の朝までには目を覚ますだろうと言われており、ネアとディノは部屋からお泊りセットを持って来てこの部屋に泊まり込もうかなと話していたのだが、なんと、アルテアが残って面倒を見てくれることになった。
ディノはこちらに戻るなり、ギードと一緒に居るというシェダーに無事に帰宅出来たことを報告してくれて、アルテアは、ほこりと連絡を取ってお前の名付け親は無事だぞと話していたので、どうやらアルテアがあわいに降りる際には、当代の白夜を死なない程度に酷使したらしい、ほこりの尽力があったようだ。
(もう、問題は全部解決して一安心ではなかったのか…………)
しかしながら、今からここで開催されるのは、ネアの帰還を祝ってくれるような和やかな会談ではなく、魔物と竜の緊急生討論なのかもしれない。
ネアはふるふるしながら、部屋の隅に逃げていこうとしていたが、残念ながら足紐運用が開始されたばかりであった為、その長さ以上にはどこにも逃げられないのだった。
びぃんと張った布紐に、ネアは絶望の眼差しになる。
「……………間違ったことを言ったかな?」
そう首を傾げたのはダナエで、相変わらずネアが知る限り一番綺麗な竜である。
風竜への恋に破れたエーダリアなどは、目下学術的な見地から断然光竜推しであるのだが、ネアは、にょろにょろ系よりは獣っぽく、その中でも繊細で優美な形をした竜が好きで、どっしり形の地竜や、獣型でも若干どっしり型寄りの海竜や風竜よりは、優美な曲線を持つ雪竜やダナエのような春闇の竜が好きなのだった。
なお、とげとげしていない落胆がどうしても反映されてしまう氷竜については、冷静な審査が出来ないので得点圏外となる。
とは言え、無人島に一人だけ連れて行くなら竜選手権を開催した場合は、ベージかなと思う次第だ。
ただ、彼は氷竜なので常夏の無人島では儚くなってしまう可能性もある。
こっそり脳内現実逃避をはかるネアの周囲で、魔物と竜達は何やら重大な運用の審議に入ったようだ。
「ネアを休ませてやりたいなら、私の中が一番安全だと思う」
本日の議題をもう一度繰り返し、ダナエは不思議そうな目をしている。
なぜ魔物達が難色を示すのか、いまいちわからないのだろう。
「…………ダナエ、闇の系譜の竜が自分の中に入れるのは伴侶だけだ。彼等はそれでは許容出来ないだろう」
そうダナエを窘めたのはバーレンで、すっかり調整役の兄思いの弟のようになり、かつて対峙した時に見たような冷ややかな眼差しは抜け落ちた。
ネアはそれを見ていると、孤独というものが齎す苦痛についてあらためて考えてしまう。
青い瞳はもう、とても感情豊かだ。
竜に物語的な憧れを抱くネアからすると、以前の冷ややかで排他的な言動も悪役的な魅力はあったものの、幸福そうな姿を見ていると胸がほっこりする。
でも今は、とても困っていた。
「でも、今のネアは……一時的に?…………でいいのかな?………シルハーンの伴侶になっているのだから、大丈夫だと思う」
「だとしても、感情的に難しいだろう…………?」
「そうなのかな?ほんの僅かな時間だけだし、一番安全なのに?」
その一言でまた室内の魔物達はぴしりと凍りつき、ネアは固まってしまったディノをゆさゆさしてみた。
揺さぶられた婚約者は、先程までのあわいでの大活躍が嘘のように、悲しげにぺそりと項垂れてしまう。
「……………ディノ?」
「……………浮気…………でも、……」
「まぁ、そんな風にくしゃくしゃになるくらいなら、ここはご辞退させていただきましょう?」
「でも、…………もしものことがあったら困るだろう?」
「ディノがずっと、私を離さなければいいだけなのではないですか?」
「……………ネア」
実は先程、ウィームの駅舎の方を見に行ってくれていたダナエ達が戻って来て、まずは久し振りの再会を喜び、ネアの無事の帰還を喜んでくれた。
ただし、箒で掃き出してしまっただけの巡礼者がいるのだという話から、片時も手を離さないでいるようなことが難しいのであれば、蝕の間だけ春闇になったダナエの内側で休んでいてはという提案があったのだ。
闇竜の系譜はダナエのように気体になれるものもおり、その中でも春闇に包まれるといい塩梅で心地よくすやすやと眠れるらしく、疲れたネアには丁度いいのではという、有り難い申し出だった筈だった。
ところが、竜が誰かを抱いて眠るとなると、それは伴侶のお作法になる。
特に闇竜の系譜の竜が誰かを気体化した体の内側で守ることは、それをするだけでもう、伴侶相当となるかなりの行為なのだ。
すぐさま却下したアルテアも、やっぱりそれはとなったノアも、とは言え万全であるのは分かるのか、その言葉の後で苦悶の表情を浮かべすっかり動かなくなってしまった。
おまけにダナエは、伴侶相当にされてしまうならそれはそれで、一番強い守護をあげられるねと朗らかに笑むばかり。
竜は、魔物のように自らを切り出した指輪を贈る求婚ではないので、そういうことにしておく程度の措置であれば、特に失うものもないらしい。
蝕が明けたら、ネアに贈った伴侶相当の守護を取り戻せばいいだけなのだという。
つまり、ダナエはそこまで深く考えず、ただネアが危なくないようにと考えてくれている優しい竜なのである。
「ネアも嫌かい?」
「いえ、私は、そんな風に提案してくれたダナエさんの優しさに感謝し、春闇の中とはどんな感じなのかしらと思うくらいですが、…………このようにディノがすっかり弱ってしまうので、今回はご辞退させていただきますね。せっかく良かれと思って提案してくれたのに、ごめんなさい」
「魔物には、………………刺激が強いんだね」
「そのようです。でも、そんな大事な守護を授けようとしてくれて、有り難うございました」
「うん。ネアは飼ってはくれないけど、友達だから」
「ふふ、我が家にはもう使い魔さんがいるので、ダナエさんが飼えなくて残念です」
こくりと頷き、ダナエはゆっくりと近付いてくると、そろりと手を伸ばしてネアの頬を指先で撫でた。
ネアが目を瞬いていると、触れた指を引っ込めてきゃっとなっているようだ。
相変わらず、食べたくならない女性は珍しいそうで、こうして触れるのが嬉しいのだと言う。
ネアも無事に帰還したばかりなのでその和やかさが嬉しくなり、唇の端を持ち上げた。
するとなぜか、アルテアがふいっと部屋を出て行こうとするではないか。
「アルテアさんはもう帰ってしまうのですか?」
「……………何だ、居て欲しいのか?」
「………………むぐぐ。もし、統括の魔物さんとしてのお仕事が大変ではないのなら……………」
そう言えば、なぜかアルテアは引き返して来た。
そちらを見たディノがまた項垂れるので、ネアは首を傾げてそんな婚約者を覗き込む。
「…………どうしてまたしょんぼりなのですか?」
「…………………私にも居て欲しいかい?」
「まぁ……………。どうしてそんなことが心配になってしまったのか分りませんが、ディノはずっと傍にいなくてはなりませんよ?」
「ご主人様!」
感激した魔物にぎゅうぎゅう抱き締められつつ、ネアはどうしてこんなことになったのかなと首を傾げ直し、答えを発掘してくれそうなノアの方を向いた。
するといつもは明快に事態を紐解いてくれるノアまでもが、どこか寄る辺ない顔をしているではないか。
「………………ノア?」
「……………ごめんよ、ネア。今回の僕は、役立たずもいいところだ」
そう儚げに微笑むので、ネアはむぐぐっと眉を寄せ、へばりついたディノを引き摺ってそちらに行くと、少しだけ落ち込んでいる様子のノアの手をわしっと掴んだ。
「ノアがここに居てくれたので、私は、リーエンベルクが心配で胸が破れるようなことはありませんでしたし、カードから色々教えてくれて、とっても心強かったですよ?それに、ウィリアムさんを守ってくれたのはノアがくれた布だったと話したでしょう?」
「……………そうかい?…………でも、君を最初からダナエに預けておけば、あんなことにはならなかったんだよなぁ…………。ごめん。…………こういう時、魔物は駄目だなぁ。ここに来てから他の種族の手を借りることも学んだ筈だったけれど、今だって、ダナエの中に入れることは許容出来なかったよ………………」
(………………あ、分かってしまった)
ここでネアは、魔物達の異変の理由をようやく察した。
どうやらこの繊細な魔物達は、ダナエの提案によりその手法の万全さを知ったことで、そんな必要はないのに己の力量不足を感じてしまい、尚且つそのやり方が安全であると理解しながらも、今もなお受け入れられないことに落ち込んでしまったようだ。
(ディノはすっかりしょげてるし、アルテアさんはむしゃくしゃしてるし、ノアは自嘲気味な微笑みになってしまった…………!)
そうなるとどうしようかとネアも色々考えたのだが、何しろ大冒険の後でよれよれしている。
いつもだったらディノやノアが気付いて手早く休ませてくれるのだが、今は、ダナエにやはり預けるべきかと昏迷の渦の中におり、休ませる前にそちらの結論を出そうとして機能停止気味のようだ。
「ええと、…………それにもし、ダナエさんごと攫われてしまったら、向こうにはムガルさんもいたので、ブンシェの市場が壊滅したかもしれませんし!」
どうにかして会話を軽やかにしようとネアがそう言えば、視線で、このボールを受け取るのだと指示されたバーレンも慌てて頷く。
「そうだな、ダナエがあわいを食べてしまったら、………その、規則性とやらが危なかったかもしれない。そのような調整は、魔物の方が……………ダダダナエ?!」
話しながらダナエの方を見たバーレンは、見てしまったダナエの表情に驚愕し声を上ずらせる。
おやっとそちらを見たネアも、いつも儚げに淡く微笑んでいるような表情のダナエが、珍しく冷やかな怒りの表情を浮かべたことに仰天した。
「ダナエさん?!」
「……………ムガルは嫌いだ」
「なぬ………………」
「貪食の魔物は、いなくなればいいと思う」
そう呟いたダナエに、長い濃紺の髪がふわりと風に揺れた。
ここはリーエンベルクの屋内であるので、それは魔術の風のようなものなのだろう。
ネアはさっとディノの腕の中に閉じ込められ、バーレンが真っ青になる。
ダナエは悪食だ。
そうなるとやはり、その心を荒ぶらせた場合の精神圧はかなりのものに違いない。
こうして暗く桜色の目を輝かせれば、ぞっとする程に美しい獣という感じがありありとして、この悪食の竜を恐れ、討伐対象とした人々の思いも少しだけ分るような気がする。
「ダナエさん、落ち着いて下さい!相性が悪いのですね?」
「ネアは、……………ムガルを飼うかもしれない?」
「いえ、私もムガルさんはあんまり好きでは…………というより、個人的な興味が全くないので、それはありませんよ。あちらでは成り行き上厳しく躾けなどもしましたが、それでも反乱を起こした悪い魔物です。捕縛用の森のなかまのおやつでも制圧しきれないということは、本来の相性が悪いのではないでしょうか?もう用済みなので、特に会いたいとも思わないのです」
このネアの弁明で、なぜか、魔物達はまた項垂れてしまった。
バーレンも何て酷い人間だろうという顔でこちらを見るのだが、如何せん、状況が状況だったので仕方ないではないか。
一緒にいるかもしれないグレーティアとウェルバにはすごく会いたいし、その二人のことは大好きなのだ。
そのような見地で言えば、彼等と一緒にいるのならムガルを捕捉したいということにも繋がるのだが、そこまでを言及すると誤解されかねないので、ネアはあえてムガルの感想のみで答えてみた。
しかし、その中の思いがけないキーワードに反応し、ダナエはぴくりと眉を持ち上げる。
「森の、………なかまのおやつ」
「むむ。それは、野生の生き物の捕縛調教用のものなので、ダナエさんは見付けても食べてはいけませんよ。もしかして、お腹が空いています?」
「森のなかまのおやつは、美味しいものなのかい?」
「…………………それよりも、もっと美味しいものにしましょう。あちらで出会った、クレープのような小麦粉の皮を厚めに焼いて、そこに濃いめの味付けをしたお肉とマッシュポテト、香ばしく焼いたトウモロコシなどを巻いて食べるチャタプという食べ物の方が、美味しそうだと思いませんか?私はとても気に入ったので、今度作ってみようと思って…」
「お前に任せると不安だからな、俺が作ってやる」
「使い魔様!!」
ダナエは、ムガル憎しの思いより、チャタプへの興味が勝ったようだ。
背筋がひやりとするような雰囲気を霧散させ、目をきらきらさせると、まずはネアを、そしてチャタプを作ってくれるというアルテアの方を見る。
ネアも、アルテアが作ってくれるならきっとより美味しいチャタプになる筈だと、喜びに弾んだ。
「ああ、良かったここにいてくれたか。…………ノアベルト、金色の布きれのような魔物を知らないか?」
そこに、よろよろしながらやって来たのは、引き続き蝕の対応に当っているエーダリアだ。
どうも禁足地の森の方からリーエンベルクに吹き飛んできた、奇妙な生き物の対処に困り果てているらしい。
「金色布さん…………」
エーダリアは、果たしてそれは売れるだろうかという顔をしたネアを見ると、少しだけ怖い顔をした。
「まだ起きていたのか。空腹なら食事をするか、或いは少し休むようにと言ったではないか」
「ええ、…………でも、その前に少しだけ解決しなければならない話し合いがあったのです。…………ところで、その金色の布とやらは、狩れそうなものですか?」
「……………休んでいるようにという文脈の後で、懲りないな……………」
「金色の布生物に出会うのは初めてですが、色合いで特別感を出してくる以上、きっと珍しい生き物に違いありません」
「ご主人様…………」
「……………エーダリア、そんな生き物となると、僕も初めて聞いたかな………。詳細はどんな感じ?」
エーダリアがノアに話したことをまとめると、まるで夏毛雷鳥のような外見であるのだが、ボディは綺麗な長方形になっており、薄手の布を何枚か重ねて縫った雑巾のような形状の生き物であるらしい。
金色にぎらぎらと輝き、めえめえ鳴いて誰彼構わず噛み付くので困っているそうだ。
ノアは眉を寄せてから部屋の中を見回したが、残念ながら誰も知らないようだった。
「…………え、僕にも分らないなぁ。っていうか、この辺、変な生き物多過ぎじゃない?!」
「それはもう、呪いで雑巾にされただけの、他の生き物なのでは……………」
「……………その可能性もあったのか」
あまりにも怪しいのでと、ノアが一緒に見に行くことになった。
ネアも、いそいそとついていこうとしたのだが、足紐がびぃんとなり、ディノにさっと持ち上げられてしまう。
「…………金色布さん」
「まだ蝕の最中だからね、見知らぬ生き物には注意しようか」
「ふぎゅう」
「アルテア、ちゃたぷはもう食べれるのかい?」
「……………ダナエ。まだ蝕の真っただ中だろうが」
「でも、蝕が終わるとここにはいられなくなるからね」
「………………お前も食べたいのか?」
「チャタプ様に会いたいです!!」
新種の生き物かもしれない金色布に出会い損ねたネアはがっかりしたが、ダナエの提案のお蔭で、急遽こんな状況ながら臨時チャタプの会が開催されることになった。
引き受けてしまったアルテアも、暫くはウィリアムの付き添いでリーエンベルクを出られないし、外のことは蝕が明けてからどうにかするかと話していたのだが、とは言えまさかこの状況下で呑気に料理をする羽目になるとはなと呆れ顔だ。
バーレンはなぜか、かつてアルテアに色々苛められて報復すらした身でありながら、ダナエがすまないと謝ってしまっている。
「…………おや、ギードかな」
そこで、ディノがふっと顔を上げた。
ぴっとなって外の様子を窺い、困ったようにおろおろしてから、自分の足紐を外して伸ばせばかなり長くなる紐をまとめていた部分を解き最大限に長くすると、一番近い扉にネアの厨房の鍵を差し込んで、調理場に向かったアルテアの足に結び付けている。
「ディノ、ギードさんが来たのですか?」
「うん、連絡はしておいたのだけれど、近くに来てくれたようだから、ウィリアムのことを話してくるよ。君のこともとても心配していたからね」
「では私も……」
「まだ蝕の最中なのだから、君はここで待っておいで。アルテア、この子を頼んだよ」
「ああ。外には逃がさないから安心してろ」
「……………私は野生動物ではありません」
蝕への対策となる守護を揺るがさないようにと、ギードはリーエンベルクの外に来ているそうだ。
きっとわざわざ会いに来てくれたのは、本当に無事でいてくれたのかどうか、直接顔も見たいのだろう。
勿論クレープは皮から作る使い魔なので、アルテアは、紐がちゃんと繋がっているのかを確認すると、若干ぞんざいに答えている。
ご主人様は外に脱走するような生き物ではないと小さく唸ったネアは、ディノから疲労も含めて全般的な治癒を施して貰ったにも拘らず、長椅子に座ると急に体が重くなった。
(…………何だろう、急に眠くなった)
体が傾きそうになるのだが、座り直す気力はなく、密かに長椅子から転げ落ちないように腹筋と戦っていると、ネアを支えるような位置にすとんとダナエが座ってくれた。
眠くて身勝手さを倍増させた迷惑な人間が、よしきたとぼすんと寄り掛かってしまえば、ダナエはびゃんと体を強張らせたものの、そのまましっかりと支えてくれる。
やがて、控えめにさりりっと頭を撫でる手の温度を感じた。
「……………食事をする間は一緒だから、もう怖いものは近付けないよ。一緒にいる間に、蝕も明けてしまうだろう」
ふっと、優しい声が耳元に落ちてきて、頬に口付けが落ちる。
おいっと厨房の方からアルテアの鋭い声が飛んでいたが、ダナエはあわいの間だけ守護を与えておかないとねと、おっとりとした声で答えていた。
(………どこか拙く、何でも食べてしまうところが目立つけど、ダナエさんは高位の竜で、とても長生きしているし、時々しっかりとしたお兄さんのようになるってバーレンさんが話していたっけ…………)
だとすればこんな時だろうかと朦朧とした意識で考え、ネアは、僅かな時間だけをすっかり安心して寝落ちした。
そうして見たのはとても不思議な夢で、あの憎たらしいリンジンがにやにやしながら近付いてきても、あの黒い車の影が見えても、ネアの側に寄り添った大きな白っぽい竜が、尻尾でばしんと追い払ってくれる素敵な夢だった。
リンジンは懲りずに近付こうとしたが、大きな前足でぺしゃんこにされてしまい、ぺらぺらになって儚くなった。
あの黒い車もフロントグラスが大破してしまい、これ以上艶々した車体を傷付けられては堪らないと慌てて走り去ってゆき、ネアはあまりの頼もしさに大喜びだ。
そして、なぜかムグリスになったディノと一緒にその竜の背中に乗せて貰い、ぷかぷか白い雲が浮かぶ空の散歩に出る夢だった。
「…………………むぐ」
そこでネアは、ぷわんと漂ってきたお肉の焼ける匂いで目を覚ました。
トウモロコシを焼く香ばしい香りに鼻をくんくんさせ、グレーティアと二人でチャタプを食べた、ブンシェの夜の市場のことを思い出す。
それはなぜか、もうずっと前の、旅先でのことのようにも思えてしまうが、ネアにとってはまだ昨晩のことに等しい。
もしものことがあれば、大事な父親を守ると話してくれたグレーティアの青い瞳の真剣さを思えば、今回の顛末は、彼等にとっては危険の少ない展開で良かったのかもしれない。
勿論、こうしてみんなが無事に帰れたので思うことだが、ネアは少しだけそんな風に、過ぎ去った怖い時間の良い側面についても考えられるようになってきた。
(どこに弾き出されてしまったのかしら?無事だといいけれど、ディノもアルテアさんも、その三人だったら問題ないと言ってくれたから、きっと元気にしていてくれるかしら……………)
蝕が明けたなら、探してみよう。
ディノが、もしウェルバがずっと地上に残りたいのなら、ネアがお世話になったので、軽微な練り直しに協力するよと言ってくれたのだ。
第二の人生として暫くグレーティアと過ごすのであれば、そんな提案も出来るのが何だか嬉しい。
「……………ネアが浮気してる」
そんなことを考えていたら、外でギードに会っていたディノが帰ってきた。
ネアがダナエとくっついて座っているのを発見してしまい、呆然とそう呟く。
「警備の一環だ。そのくらいいいだろうが………」
厨房の方から、アルテアの呆れた声が聞こえたが、ディノはふるふるしたままだ。
「ダナエなんて………………」
「………………ふぁふ。…………チャタプ様が焼けるまででしたが、短い時間でぐっすり眠りました。ディノ、おはようございます」
「…………………枕にしてる」
「……………む?…………ギードさんとはお話し出来ましたか?」
そう尋ねながら、隣の席を手でぽんぽんと叩いてやれば、めそめそしながらディノはそこに座った。
ネアは、こちらのやり取りに気付かないくらい、厨房に目が釘付けになってしまっているダナエに、寄り掛からせてもらったお礼を言い、今度は反対側のディノに、えいやっと寄り掛かってみた。
「ディノ、しっかり私を支えて下さいね?」
「……………ずるい、かわいい」
「ギードさんには安心して貰えましたか?」
「うん。…………ウィリアムが無事だったと聞いて、とても喜んでいた。実はね、シェダーも一緒に来ていたんだよ。ウィリアムとは蝕の話をしていたそうで、今回の話を聞いて心配してくれたんだ。………彼も、とても安堵していた」
「………………私が間に合えたので、ディノも無事だったからでしょうか?」
ネアがそう言えば、ディノはぎくりとしたように瞳を揺らす。
ディノが話してくれたことを踏まえれば、こうしてシェダーまで来てくれたとなると、そこしかないように思えたのだ。
「……………君が傷付くのが分って、これ以上は待てないと思った。また怖い思いをさせてしまったかい?」
「ちょっぴりだけ………。でも、間に合えた自分への誇らしさと、ディノやウィリアムさんを心配して来てくれたギードさんとシェダーさんにほっこり、尚且つチャタプ様の完成が見えましたので、今回は不問とします!」
「………………うん」
ネアがそう言えば、ディノはほっとしたようだ。
ネアの膝の上にそっと三つ編みを設置しながら、足紐を取り戻したそうに、アルテアの方をちらりと見る。
いつの間にか、ダナエはよろよろと厨房のチャタプに近寄っていってしまっており、アルテアにまだ食べないように叱られて、バーレンをまたおろおろさせていた。
「あの数だと、エーダリア様達にも一つずつあるでしょうか……………」
「ダナエが食べてしまわないかな…………」
「ウィリアムさんが目を覚ましたら、ウィリアムさんにも食べさせてあげたいですね…………」
「……………うん。ネア、………………ウィリアムを守ってくれて有難う」
ふいにそんなことを言われてしまい、ネアは目を丸くする。
こちらを見るディノは大真面目で、その瞳に浮かぶ安堵の深さに、そういえばこの魔物は、かつて大事な友人を喪ったことがあるのだとあらためて再認識する。
「ええ。でも、それは私を救いに来てくれたウィリアムさんと、たくさん知恵を貸して下さった、グレーティアさんやウェルバさんのお蔭でもあるので、またみなさんにお礼を言わなければいけませんね」
「ギードが、ウィリアムはネアに叱られた方がいいと話していたよ」
「ふふ、あんなに酷い思いをして私を守ってくれた方に、そんなことは出来ません。…………その代わりに、いなくなってしまったらどれだけ悲しいのかを、ねちねちと伝えてゆくようにしますね」
「ねちねちと……………」
「そして、ウィリアムさんが諦められなくなるように、たっぷり甘やかします!クロウウィンにはパイを焼くという約束もしているんですよ」
そう言ったネアに、ディノはふわりと微笑んだ。
「………………そうか。だからウィリアムは、諦めずにいてくれたのかもしれないね」
それはきっと、ネアが踏み止まったのと同じ理由だろう。
そう考えると嬉しくなって、ネアは立ち上がって厨房の方に向かうことにした。
決していい匂いに我慢が出来なくなった訳ではないが、そろそろチャタプが解禁される頃合いだろう。
そうして、まさかの蝕の真っただ中で、アルテア作のチャタプの宴が始まった。
「…………何て美味しそうなんでしょう。帰ってきて早々に、アルテアさんの美味しいご飯です!!」
アルテアのチャタプには、マッシュポテト版と炊いてからさっと水を通したお米のものがあるようだ。
市場で食べたものより小さめで作ってくれているので、仕事のあるエーダリア達でもささっと頬張れそうである。
案の定幾つかは、仕事中のエーダリア達用にお取り置きとなり、黄金布事件が終わる頃合いを見計らって、こっそり執務室に届けられた。
(美味しいものを、みんなで食べるのって幸せなことだわ…………)
ネアは正面の席で無心でチャタプに齧りついているダナエを見ながら、美味しい一口をいただいた。
あのあわいの向こうで体験したことは、きっとこれからも忘れないだろう。
さよならと告げたウィリアムや、塔の扉を開いてリンジンが現われた瞬間は、怖い夢になって今後もネアを苦しめるかもしれない。
泣きながら走ったこと、泣きながらそのひとが倒れるのを見ていたこと。
そして、みんなで帰れるとなった時、どれだけ嬉しかったか。
でもきっと、こんな風に美味しいチャタプを食べれたことで、その怖い記憶も昇華されてゆくような気がするのだ。
ブンシェはこの美味しいチャタプのあった国だと覚えておき、みんなで過ごす時間であの怖さを塗り潰してゆけばいい。
その為に、この食卓は最高の鎮痛剤のようでもあるのだと言えば、アルテアは珍しくどきりとするくらいに優しい目をして微笑むと、ネアの頭を撫でてくれた。
なお、チャタプの一個に状態保存の魔術をかけて貰い、眠っているウィリアムの枕元のテーブルに置いておこうとしたところ、お供え物のようだとたいへんに不評であったので諦めざるをえなかった。
ネアとしてみれば、枕元のいい匂いで美味しい夢を見てくれるかも知れないと思ったのだが、魔物達的の感性では、それはなしであるらしい。
金色布については、なぜか尋ねるとみんなが一様に俯いて視線を逸らすので、その後の消息などについては謎に包まれたままだ。
いつか森で見付けたら、狩れるかどうか試してみよう。
何かまた、危機を回避出来るような、素敵な道具を拾えるかもしれない。