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332. 物足りなくても最善の策です(本編)




ウィリアムをそっと草花の褥に横たえ、立ち上がったディノに、ネアも慌てて立ち上がった。

ウィリアムは暫くは眠ったままになりそうだからと、このままあわいでの残された仕事が終わるまでは、硝子の箱のようなこの場所に寝かせておくそうだ。



少しだけ空間を開いて誰かに預ける形で先にあわいを出してしまうことも考えたが、まだ巡礼者が残っている可能性があるので、この方が安全だという。

帰る時は一緒に帰るのだ。



「…………ディノ」


ネアがそのまま外に向かおうとするディノを引き止めると、ディノは困ったようにネアの頭をさりりと撫でる。


「ネア、残しておけばまた彼は、誰かを損なおうとするだろう。あの魔術師は見逃せないよ」

「むむ。私とてあやつは許しません。ぎったんぎったんにして、ウィリアムさんを傷付けたことを後悔させてやり、塵も残さず滅ぼして欲しいです」

「…………ご主人様」

「そんなリンジンめのことではなく、ディノが心配だったので、ベルを使いましょうか?」

「ベル…………かい?」



そこでネアは、海遊びで拾ったベルを使ったところ、リンジンが眠ってしまったという話をした。



「恐らく、元は森の賢者さんの安眠のベルだったように思うのですが…………」

「そうか。そういうものがあったことで、君は身を守れたのだね…………」

「……………ディノ、リンジンの意識を奪って作家の魔術を使ったという説明をしたとき、どうやって私があやつを倒したのだと思っていたのでしょう?」



ネアがそう尋ねると魔物はわずかに視線を彷徨わせたので、蹴り飛ばしたり拳で叩きのめして意識を奪ったと思っていたのかもしれない。

ウィリアムをこんな風に追い詰めた相手なのだ。

ご主人様をどれだけ獰猛だと思っているのかと憤然と弾みかけて、ネアは、こちらを見て手を差し出したディノに目を瞠った。



「ネア、割れ嵐の後で拾った剣を覚えているかい?」

「…………ええ。何だか使用権限があれこれと難しい…………緑の宝石のような柄がとても綺麗な剣ですよね?…………………っ、そう言えばあの剣は、形のないものを斬れるのでした…………!!」

「うん。リンジンが魂の回収用に張り巡らせた糸を切るのに必要だから、それを貸して欲しいんだ。今は君の持ち物として君が主人になっているから、私に貸すと言葉にして剣に伝えてから、渡してくれるかい?」



ネアは慌ててディノの背中の陰に入り、首飾りの金庫からその剣を引っ張り出した。

リンジンが捕獲されている箱の方までは距離もあるし、今のネア達がいるような箱型の隔離結界に閉じ込められているので会話は聞こえないというが、念の為にそうさせて貰った。

警戒を強めるネアに、ディノは可哀想にとまた頭を撫でてくれる。



(この剣が使えたんだ…………)



武器の確認をした時には、剣技に不安があるので自分では扱いきれないなと断念したのだが、まさかのリンジンへの対抗策としてこれ以上優秀なものはなかったとは。

そう考えると何個も指先から零れ落ちた選択肢もあったのだろう。

けれど、知らずに成したことが奇跡的な幸運に繋がった部分もあるので、ネアはくよくよしないようにと自分に言い聞かせた。


久し振りに外に出された剣は、艶々と青白く光り、ネアの手には鉛筆どころか羽根のように軽く感じる。

その緑柱石のような柄の部分をそっと撫で、ネアは剣に向かって話しかけた。




「綺麗な剣さん、これからディノにあなたを貸して、私の代わりにあの魔術師が逃げないように周囲に張り巡らされた糸を切って貰います。あなたにしか出来ないことなので、どうか力を貸してあげて下さいね」



そう言えば、宝石から削り出したような緑の柄の部分が、その内側に蓄えた光を揺らすように鈍く光って応えてくれる。

何だか頼もしい気持ちでディノに渡すと、前に持った時よりも随分軽くなったねとディノも微笑んだ。

こうして一言断ってから手渡せば、ディノにも一時的な使用権限が付与され軽く感じられるようだ。




その時、不意にコツコツと誰かがこの水晶の小部屋の外壁を叩いた。

一瞬震え上がりそうになってしまってから、ネアはそろりとそちらを見た。



「アルテアさん!」



そこに頼もしい魔物の姿を認め、ネアはぱっと笑顔になる。

やはりまだ、心の中ではディノだけでリンジンに向かうのが心配だなと考えていたので、その姿を見たことで自分でも思いがけないくらいにほっとした。



「良かった、アルテアも間に合ったね。私だけで見ていて取り零しがないよう、あの捕縛が緩むぎりぎりまでは、彼がこちらに来るのを待っていたんだ」

「まぁ、ディノはアルテアさんが来るのを知っていたのですね?」

「彼なら必ず来ると思ったよ。…………ネア、一度君を連れて外に出るよ。物語のあわいで、君はあの魔術師に繋がってしまっている。ウィリアムは元々、滅ぼすものという認識でここに縛られていたから、完全にこのあわいから隔離したことで、失われたという認識に於いて解放されているけれど、君にはまだあわいの規則性が残っているかもしれないから」



ディノが一緒なら、勿論一緒に外に出ることは何の不安もなかったが、それでも、その理由を聞けば少しだけリンジンの方が気になった。

珍しく手を繋いで貰い、一緒に箱を出ると、さっそく頭の上にぼさりとアルテアの手のひらが落ちてきた。

むぐっとなってそちらを見上げると、ひどく真剣な赤紫色の瞳がネアを見ている。



「………………一目見ただけで分る。何度も治癒を使ったな」


その口調はとても静かで独白のようだった。

まるで、ウィリアムが失われてしまったという前の犠牲の魔物の伴侶のことを語るように言うので、ネアは、よれよれに見えるかもしれないがすっかり元気なのだと慌てて説明する。


「…………はい。私は一度騙されてくしゃっとやられてしまいましたが、ウィリアムさんが守ってくれて、ディノが来てくれたのでもう元気いっぱいですよ?おまけにアルテアさんまでいれば、もう怖いものなしですね!…………アルテアさん、こんなところまで来てくれて、有難うございます」

「…………遅過ぎたくらいだな。今回ばかりは、ウィリアムを責められないか………。…………シルハーン、ここに来る道中であわいの整理地があった。リンジンの足跡を幾つか消しておいたぞ」

「助かるよ。ここにあるものを崩しておいても、自分を介さず発動するようなものを残しておかれる危険があったからね………」

「ウィリアムは、記憶食いにやられたな。………道中で、最後のひとかけらを探しに彷徨い出たあいつに会った。体に戻しておいたから、暫くは眠るだろう」

「おや、まだ取り零しがあったのか…………。気付かずに、彼を迷わせずに済んで良かったよ。有難う、アルテア」



草地に寝かされたウィリアムを、アルテアは静かな目で見下した。

すぐに視線を逸らしてしまったが、ネアにはアルテアが怒っているように見えた。


(…………ウィリアムさんがこんな風に疲弊しきって眠っていて、その一番の時に間に合えなかったことが、アルテアさんは悔しいのだわ…………)



日頃どんなやり取りがあれ、この二人は同じ日に派生したのだ。

双方、大事な友人なのだとは決して口にしないが、悪さをしようが、刺そうが、その絆はとても深いものだと思う。



そんなウィリアムは、少し離れた場所から見れば一枚の絵のようだった。


漆黒の軍服姿で花の咲き乱れる草地に寝かされ、水晶の小部屋に閉じ込められているように見えるので、あまりにも美しいその一瞬を惜しんだ誰かが切り取って、標本にしたかのように見えた。



がぁんと、激しい音が聞こえる。


眉を顰めてそちらを見れば、何か道具のようなものを使って、リンジンがディノに閉じ込められた箱を壊そうとしているようだ。

こちらの姿が見えていない訳ではないので、それでも手を止めない姿を見ていると、背筋がひやりとするような執念深さを感じてしまう。



「捕まえたか……………」



そちらを見たアルテアはぞっとする程に凄艶に微笑んで、わざわざ帽子まで取って優雅に辛辣なお辞儀をしてみせた。

そんな姿を見せつけられたリンジンの表情が歪み、ネアは、その眼差しの毒々しさに、もはやあの中に激辛香辛料油でいいのではという気持ちにさえなる。



「壊すのは簡単だけれど、まずは逃げないようにしなければと思ってね。…………アルテア、あの人間から周囲に伸びる糸は、彼より上に放射線状に延びている数百本くらいのもので全部だと思うかい?私の目にはそれしか見えないのだけど、隠されているものがあると取り逃がすかもしれない…………」

「ああ。何かあわいなりの誓約があって、足元や地中には通せず、あの上部にしか繋ぎの糸を引けないんだろう。…………風の系譜の宝剣か。それがあれば外界や隠れ家との全ての繋ぎの魔術を切れるだろうが、………恐らくあいつが持つ角は精霊のものだ。精霊の呪いに気を付けろよ」

「む。あやつの角は、今の体のものであれば、私が歌って砂にしてやりました!」

「………………は?」



ネアがそう言えば、アルテアがゆっくりと振り向いた。



「ベルで眠らせて転がした時に、頭に見えない角のようなものがあるようだったので、その近くでエーダリア様からの評価が一番低かった聖歌を歌ってやったのです。すると、銀色の灰か砂のようなものがばさっと落ちて来て、その後は手で探っても角のようなものに触れなくなりましたよ?」

「…………………だそうだ。体が入れ物だろうが、形を成していたのならその角は本物だ。そうなれば精霊の要素は、ある程度排除済ということか」


片手を頭に当ててそう呟いたアルテアに、ディノは小さく頷く。


確かにあの体はリンジンの入れ物に過ぎないが、精霊の角の要素は、都度その入れ物に生えてきている筈だということだった。

その角の持ち主であった精霊本人ではない、また混ざりものでもない人間の魂では、異種族の体のパーツを出し入れするのは不可能なのだそうだ。

一度魂に移植し、そうした以上はどんな姿をしたところで、角もそこに現れる。

だからこそリンジンは、見えないようにするのが精いっぱいだったらしい。



「そうなると、彼はまだ熊の手の魔術師かもしれないが、もはやあの魂を支えているのは、誰かが彼をこの世界に留めようとした魔術の一点に尽きるだろう。その魔術や、彼自身が魂と入れ物を切り離す為に用意した術式さえなくなれば、あっという間に壊れてしまうだろうね」

「…………だが、その場合もまだ死者か。ウィリアムの反転が解けないとなると、………シルハーン?」

「…………ネア、彼の体に、死者の門をつけてあると話していたね?」

「はい。あの方の魔術が厄介なのであれば、そのようなものを上手く扱えなくなる死者の国に落としてしまえば無力化出来るのではないかなと思って、家具などの補修も出来る強力瞬間接着剤で襟裏に貼り付けておきました!」

「ほお、………………死者の門か。………あの国には、永劫に燃え続けるラエタの区画があったな」



そう呟き、アルテアはにやりと笑う。

ディノも酷薄な眼差しで頷き、はっとするくらいに冷酷な微笑みを浮かべた。



「魂を循環させてしまえば、或いは欠け残りの魂として戻ってくることも、自らの記憶を取り戻すための手筈を整えていることもあり得る。とは言え、そのまま魂ごと砕いてしまうのも…………惜しいからね」

「であれば、死者の国の管理が最善だろうな。ウィリアム以外の人外者の侵入を許さないし、何しろあの区画は、この世界の終りまで燃え続けるそうだからな。故郷に帰れるのだから、あいつにとっても僥倖だろう」




(役に立ちそう………………?)



ネアも、その場所を思い浮かべたからこそ、死者の国でもいいような気がしたのだが、死者の国の、一の国と呼ばれる最初の国には、無印の区と呼ばれる世界の終りまで燃え続ける土地がある。


そこには、ウィリアムの庇護を受けた一部の土地を除いたラエタの国がそのまま落とされており、ラエタの国の民たちが、今も劫火に包まれて燃えているのだそうだ。

幼い子供達や、復活薬に触れなかった者達など、恩赦を与えられその罰から除外された民たちもいるものの、ラエタという国はそこにそのまま残り、永遠の責め苦を受け続けている。


その火は体温を失くした死者達が集う死者の国を温めてもいるそうで、また、罪深くあまり治安の良くない区画に落とされる死者達は、燃え続けるラエタを眺めて己の行いを悔い改めると言われている。



そんなことを思い出しながらネアが無言で頷けば、ディノがこちらを見た。

その眼差しのどこかに、そのような措置でいいだろうかとこちらを慮るような気遣わしげな色が見えたので、ネアは微笑んで力強く頷く。



「……………あの人は、このあわいで、ダーダムウェルの魔術師になって、ウィリアムさんを傷付けました。であれば、死者として死者の国に落とされて、ウィリアムさんの裁きを受けるのは相応しい罰だと思います!」



外に出て気付いたのだが、いつの間にか街中に響き渡っていた鐘の音は聞こえなくなっていた。

相変わらず緑の塔はすらりとそびえ立ち、今はもう禍々しく見えることもない。

曇天の空の下のこの広場には、先程までのことを思い出させるような、黒い砂の山があちこちに見える。

風に流されてしまい、吹き溜まりに集まったその砂は、それがかつてのブンシェの住人達であると思わせるだけの名残りもない。


ネアは、朗らかだった粉屋の夫婦を思い出して、やっと悲しいと思えるようになった。



(さっきまでは、あの黒い影は私達を損なうかもしれない困ったものだった。巻き込まれて呪いに殺されてしまった住人の人達だと分かってはいたのだけれど、それでももう、彼等のことを考えるだけの余裕なんてなくて…………)



「……………それと、なぜアルテアさんは、私を掴んでくるくる回すのでしょう?」

「物語のあわいとの癒着を見てるんだ。シルハーンが一度隔離したから、ある程度は剥がれ落ちているようだが、やはりこちら側に戻ると、少し引き寄せられるな…………」

「しかしながら、リンジンが、物語のダーダムウェルさんが子供を殺さなかったという表記はないんだぞと私を馬鹿にしたように、その子供がダーダムウェルの魔術師さんを滅ぼしたという表記もない筈です」

「それは問題ないが、このあわいの中のダーダムウェルの魔術師とお前には、お前が怪物の討伐を依頼したという魔術の縁があるだろうが。物語の中には、その対価を取られなかったとも書いてないだろ」

「……………ディノ」


そう言われると怖くなったので、ネアはひしっとディノにしがみついた。

また離ればなれになったら困るのだ。


「大丈夫、君はもうどこにも行かなくていいからね。…………魔術の理というものは、世界を永らえさせる為には必要なことなのだろうが、時に困ったものだ。…………アルテア、血の誓約でその縁は放棄させようと思うのだけれど、他の手段は思いつくかい?」

「…………それも理の中では、大きな力だな。………他にも手立てはあるだろうが、あいつの成り立ちを見るに、一番古く一番簡単で強いものがいいだろう」



願いをかけ、或いは助けを求め、それに応えるような、贈与と対価の理はとても強いのだそうだ。

だからこそディノとアルテアは、ネアとリンジンのその縁を切る為に、一番シンプルだが強い、理による拘束でリンジンからその縁を切らせようとしているらしい。



(でも、他の手段をということを言うくらいなのだから、それをさせるのは難しいのではないかしら………?)



そう考えてまた少しだけ不安になり、と言うかリンジンの血であれば持っているのではとネアは目を瞬いた。



「あの、………………リンジンめの血であれば、念の為に取っておいてありますが……………」

「……………は?」

「……………ネア?」



おずおずとそう申し出ると、ディノとアルテアはまた、驚いたようにこちらを振り返った。



「尚且つ、この縁切りの鋏もあるのですが、使えますか?」

「…………そう言えば、そんなものがあったね」

「よし、それを寄越せ。リンジンの血もだ。それで充分に繋ぎの魔術は切れるだろ。シルハーン、後の要素はもう書き換え済みなのか?」

「物語のあわいは、その特性に応じて進んでしまった頁の取り返しはつかないけれど、ここで終わるようにしてあるよ」

「…………そういうものなのですか?」



相変わらず、ネアにはそんな魔術の仕組みや規則は分らない。


とは言え今は大人しくしていて、二人に任せようと思ってはいたのだが、思わず首を傾げてしまったネアに、ディノは淡く微笑んで頷いてくれた。



「このあわいはもう、二度と捲られることのない本のようなものだ。この顛末で閉じた後はそれで終わり、物語を繰り返すことはなくなる。…………認識に紐付く土地だから全てを取り払うのは難しいけれど、そのまま置いておけば、ラエタの物語を思う者達はもういないから、やがて少しずつ崩れてなくなってゆく筈だよ」

「では、……………ウェルバさんはもう、自由になれるのですね」



ネアがそう呟き、いつの間にか見慣れたような気もする緑の塔を仰いだ。


腕輪の金庫から、布に包んだペンと小皿を取り出し、縁を切る為のナイフを加工した鋏もアルテアに手渡す。


すいっと人差し指で空中に文字を書き、書き物机のようなものを作り上げたアルテアは、その上で丸められた布を広げ、しっかりリンジンの血が残った小皿に満足げに頷いた。



「…………ペンか。いっそうに都合がいい。」

「そのペンで、作家の魔術をくしゃくしゃにしてやりました」

「…………これで、作家の魔術にも触れたんだな?」

「はい。…………むむ、アルテアさんが悪い顔をしています………」

「その魔術の証跡の内側から、全部断裁しておいてやろう。………この種の道具は、可動性が広い」

「………………可動性」

「それと、あいつの血はこれで全部だな?まとめて術式に練り込むから、残りがあると燃え上がるぞ」

「ええ、他にはもう残していません」



リンジンから伸びているという糸を切り、死者の国に落とす前に、まずはネアとの繋ぎを切ってしまおうということで、アルテアは素早くそんな作業をしてくれた。

どこからか取り出したスポイトのようなもので小皿に水を落とし、じわりと滲んだ赤い血に素早く一緒にあったペン先を浸ける。



そうしてまたどこからか取り出した小さな青い紙片に模様のような何かを描き込むと、縁切りの鋏でじゃきんと十字に切り裂いてしまった。


鋏の刃が入った途端、青い紙片はぼうっと白い炎に包まれて燃えてしまう。

後には灰も残らず、ネアがリンジンの血を残しておいた小皿や、今使ったばかりのペンもぼうっと燃え上がった。


やがて、全てが燃えてしまい、アルテアは指をぱちんと鳴らして机も消してしまう。



「終わったぞ」

「では、こちらに取りかかろう」

「静かになったと思ったら、妙な魔術を編み込んでいるな……………。侵食と転換の魔術か?………」

「……………やれやれ、頑強なものだね。角を失くしてもこれだけの魔術を編むか」

「……………白夜の魔術の一端だな。クライメルあたりに与えられたんだろう………。この状況でも諦めないしぶとさだけは褒めてやるか………」

「ネア、彼と外側との繋がりを切ってしまうから、少しだけ離れておいで」




ここでディノは、ネアをアルテアの腕に預けると、先程の剣を持ち上げた。



風の系譜のものだからか、手に取って構えるとふわりと周囲を風が揺らす。

その風は清浄な気配がして、ふうっと深呼吸をしたくなるような気持ちのいいものだった。



(………………すごい。騎士さんみたい!)



ネアなどは、軽いは軽いのだが持ち慣れないものなので両手で持ち上げてしまったのだが、ディノは片手でしっかりと剣を持つと、ゆっくりと体を屈めた。


普段、剣を持つことなどはない筈のディノだが、その立ち姿は物語の中の一場面のように美しい。

だが、どれだけ美しくても、何となくディノには剣ではないような不思議なもどかしさを感じてしまう。




閉じ込められた箱を壊そうとしていたリンジンが、はっとしたようにこちらを見た。



遮蔽空間で隔離拘束しているので会話の音は届かないと聞いていたが、ディノが何をしようとしているのか分ったのだろうか。


慌ててこちらを見てからはっと体を強張らせると、リンジンは、片腕で顔を覆うようにして、必死にディノから顔を背ける。

顔を覆った腕の下から、ざらりとリンジンの顔が崩れたような気がして、ネアは急いで顔を背けた。




「…………こっちを向いてろ。万象を怒らせた報いだな」

「…………ディノを?」

「高位の生き物の障りはそれぞれにあるが、万象の場合は体が崩れる。外部に逃げ出しかねない糸を切るまではと、抑えていたんだろう」




ざん、と束ねた沢山の糸が切り裂かれるような音が響いた。



その途端になぜか、周囲で張り詰めていたものがふっと緩んだような気がしてネアは周囲を見回した。



するとどうだろう。


細い光の糸のようなものが、四方八方できらきらと崩れ千切れるのが見えるではないか。

蜘蛛の糸が風になびくのが光の加減で見えるような感じで、やがてその全てが夜空に溶けて見えなくなった。



その直後、わぁぁぁという、息が苦しくなるくらいに怯えきった誰かの絶叫のようなものが、遠く遠く聞こえた気がした。



びくりと体を揺らしたネアは、その直後唐突にアルテアの帽子をずぼっと被せられる。

はわはわして見上げれば、今度はしっとりとしたチョコチップクッキーのようなものを口にあてがわれた。



「むぐ…………?」

「音の遮蔽をしていても、あわいの中心になった以上は少し響くな。あまり耳を傾けるな」

「ふぁい。………むぐ」



はむはむと美味しいクッキーを齧れば、その甘さにほろりと涙が出そうになる。

手焼きらしい形だが、沢山チョコが入っていて心の傷を埋めるような甘さだった。



そこにディノが戻って来た。

クッキーを頬張っているネアを見ると、ほっとしたように目元を柔らかくする。



「ああ、アルテアに食べ物を貰ったんだね。気付いてあげられなくてごめん。………ネア、死者の門は、以前にダリルから渡されたもので良かったね?」

「むぐふ。………はい!」



口いっぱいにクッキーを頬張ったまま、ネアはこくりと頷く。

ディノは微笑んで、であれば展開の仕方を聞いているので、このまま落としてしまえるねと呟いた。



「あの隔離結界のまま落すのか?」

「崩壊を進めてしまったから、地上であの箱から出すと崩れてしまいそうなんだ。………あのまま落して、外側にウィリアムの系譜の者達宛に伝言を書いておくよ。消えないように、箱に刻んでおけばいいだろう。もう何にも繋がっていないとは言え、外に出しておいて、作家の魔術を惜しんだ誰かに持ち出されても困るからね」

「確かに、精霊辺りに目をつけられると厄介だな…………」



その直後、背後でもの凄い音がした。


びゃっとなってしまってから、そろりと振り返ったネアが見たものは、この世ではない深淵を覗かせる、黒い穴のようなものだった。

それが、先程までリンジンを閉じ込めていた箱のあった場所に開いているので、リンジンはもう、死者の国に落とされてしまったようだ。



死者の国に落とされたことはあっても、こんな風に死者の門を見るのは初めてだったネアは、まじまじと、どこまでも続いていそうな漆黒の穴を見つめる。


やがて、じわじわっと縁の部分の輪郭が曖昧になり、ふわりと消えて、そこには広場の石畳があるばかりになった。




(………………終わった……………?)



あまりにも呆気なかったような気がして、ネアはまだ事態をよく飲み込めていなかった。


あれだけネアとウィリアムを苦しめた悍ましく恐ろしいものが、一瞬で、地下に荷物でも落すかのように消えてしまったので、頭がついていかないのだろう。



「…………感情的には物足りないが、このあたりが落としどころだな。後はウィリアムが目を覚ましたら、故郷に案内してやるだろうさ」

「ラエタの区画に送る特別な荷物だと書いておいたから、死者の国の者達も察するだろう。ウィリアムが回収するまでは箱を開けないようと書いたけれど、箱を開けずとも出来ることはあるからね…………」



魔物らしい目をしてそう微笑んだディノに、ネアはもうこれは喜んでいいところだぞと理解し、ぴょいっと弾んだ。



アルテアに貰ったクッキーはすっかり食べてしまったが、頭にはまだ帽子をかぶったままである。


一度弾んでから首を傾げてみせたネアに、ディノも微笑んでくれる。



「うん。もう、あの魔術師の心配はしなくていい。ウィリアムも大丈夫だったし、君が頑張ってくれたお蔭で、誰も失わずに済んだようだ」

「では、塔の扉を開けて、ウェルバさん達を呼んで来ますね!」



偽物だと気付かずにリンジンを呼んでしまったネアに、ウェルバ達はさぞかし気を揉んだだろう。


一刻も早く無事に解決したと教えてあげたくてそう言えば、なぜか、ディノは困ったような顔をした。




「ネア、…………彼等はもう、このあわいにはいないんだ。…………おそらくどこかに弾き飛ばされたのだと思うから、帰り道で探してみようか。もう、あわいから出られないような特性や呪いはないだろうし、ムガルが一緒であれば道に迷うようなことはないと思うけれど、まだ近くにいるかもしれないからね」

「………………はじき、………出されてしまったのですか?」




すっかり安心したところであんまりなことを聞かされ、ネアは呆然と立ち尽くした。


頭の上から帽子が回収されてゆき、くしゃくしゃになった髪の毛をアルテアが直してくれているが、その間も呆然としたままディノを見上げている。



「あの魔術師がダーダムウェルの魔術師になった段階で、その魔術師達は、このあわいから弾かれたのだと思う。あの塔にはもう、誰の気配もないんだ」

「………………もしかして、ダーダムウェルの魔術師さんが二人いるのはおかしいからということなのでしょうか?」

「うん。それも物語のあわいの規則性だね。でも、その魔術師は、君の知り合いだったシーと契約したのだろう?従属の契約は連なって作用するからね。その妖精やムガルも一緒にいると思うよ」

「と言うことは、………ウェルバさんは、ここから出られたのですか?」

「彼はもう、この物語のあわいのダーダムウェルの魔術師ではなくなったんだ。代理妖精との契約に、その妖精は高位の魔物との契約もある。元は死者とは言え、彼等の命数に紐付くようになるから、このあわいを出ても消えてしまったりすることもない」



(……………と言うことは……………)




ネアが思い出したのは、エーダリアの誕生日で乗ったあわいの列車のようなものだった。



あわいには怖いところも多いけれど、あの時にネア達が訪れたような不思議で楽しいところもきっとあるだろう。

長い間離ればなれだった親子が再会し、そんなあわいを旅している姿を思い浮かべた。




「……………は!駄目です!!一瞬、それなら何だかほっこりかしらと思ってしまいましたが、師匠やウェルバさんは、リンジンが死者の国にぽいされたのを知らないのです。早く見付けて、大丈夫だったと教えてあげなければ…………!!」

「だとしても、まだ周辺が不安定なんだ。ひとまずは一度地上に戻るぞ。リンジンが片付いたとしても、他にも巡礼者が残っている可能性もあるからな。リーエンベルクに帰ってからまた考えろ」

「……………リーエンベルクに」




その言葉はまるで、きらきらと光る虹のような美しさだった。



連れ去られて彷徨い、一度は大切なものを取り上げられた後で、何て素敵であたたかな響きだろう。



そう思って唇の端を持ち上げたネアは、あらためて、ディノとアルテアにぺこりと頭を下げた。




「ディノ、アルテアさん、………私とウィリアムさんを助けに来てくれて、有難うございました。…………これでみんなで、…………お家に帰れます」



込み上げてきた安堵の涙を飲み込み、ネアはめでたしめでたしの解決なのだからと微笑んでみせる。


しかし、手を伸ばしたディノが持ち上げようとすると、諸事情を抱えた人間は、さっと躱した。




「ネア?」


驚いたように水紺の瞳を瞠り、ディノは悲しげに目を瞠る。

傷付いたような顔をした婚約者に慌てて首を振り、ネアはたいへん深刻な体の問題を告白しなければならなかった。



「ごめんなさい、ディノ。私は今、…………指先がチョコチップクッキーな感じで、汚れているのです。手を拭くまでは誰にも触れられません……………」




しょんぼりとそう告げれば、呆れたような顔をしたアルテアが、すぐさま、おしぼりのようなものを取り出して指先を拭いてくれた。




(やっと、お家に帰れる!!)



あの黒い車は、またしても空っぽで走り去ればいいのだとネアは微笑みを深めた。



でも、遠いあの日にそこに家族を乗せて行かれてしまったネアだからこそ、またあんな思いをするものかと、最後まで自分を奮い立たせられたような気がする。



となればあれは、凶兆ではなく警告なのだろうか。



(でも、もう二度と見たくないわ…………)




帰り道でウェルバ達は見付けられなかったが、蝕が終わって世界が安定すれば、ムガルが先導してすぐに地上に戻れるだろうという事だった。



グレーティアはシーであるし、ムガルは統括を任されていた程の魔物だ。

ウェルバはネアなどが及びもつかない程の大魔術師なのだからという気持ちと、すぐに探しに行きたい気持ちが鬩ぎ合ったが、大変な思いをしてネアを迎えに来てくれた魔物達の為に、今はまず、リーエンベルクに帰ろう。





なお、ネア達がリーエンベルクに帰ったところ、少し嵩張るものがあるからと隔離結界の水晶の小部屋ごと、転移の間にウィリアムを運んだからか、ウィリアムが死んでしまったと思ってエーダリアが床に崩れ落ちてしまう場面があった。



ノアも蒼白になっていたので、慌てて、念の為に物語のあわいに引き摺られないよう、ここまで遮蔽して持ち帰ってきたのだと説明すれば、みんなは安心してくれたようだ。





「…………そして、まだお外が真っ暗だということは………」

「そうなんだよ。まだこっちは丸一日も経ってないからね。蝕の真っ最中って訳だ。…………お帰りネア。ちょっと癪だけど、今回はウィリアムのお蔭だなぁ……………。怖い事ばかりだったと思うけれど、どこか調子の悪いところはないかい?」

「………………ふぎゅ。お、お家にいます」

「うん。ここはもう君の家だから、もう大丈夫だよ。ダナエ達もすぐに来るから、蝕の間だけでもダナエの祝福を増やそう。でもまだ蝕の最中だから、足紐も出そうか」

「…………………なぬ」



ネアをぎゅうぎゅう抱き締めてくれたノアがそう言えば、ディノがどこからかさっと布紐を取り出し、アルテアやヒルドだけでなく、エーダリアまで重々しく頷いた。



断固拒否と言いたいところだが、眠ったままのウィリアムや、朗らかに微笑んでくれたが、震えるような安堵の息を吐いたノアを見てしまった。



ネアは、ふるふるしながらではあったが、戸外の箒で掃き出しただけでまだ存命な巡礼者達がいるのを思い出し、もう二度とあわいになど落とされては困るので、悲しい思いで片足を差し出したのだった。






















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