331. 偶然を無駄にはしません(本編)
「……………っ、何が……」
「むぎゃ!!」
むくりと起き上がりかけたリンジンに、ネアは慌てて手に持ったベルをもう一度鳴らした。
チリンという音がすると、またリンジンは、ぼさりと地面に落ちる。
ついでにごすっと頭を石畳に打ったようだ。
ばくばくする胸を押さえて慎重にベルが鳴らないように工夫すると、ネアは拾って我が物にしていたとはいえ、この不思議な道具は何だろうと首を傾げる。
(意識を奪うベル……………?)
一瞬、トトラの持っていたようなものかなと思ったのだが、生きているのでそうではないらしい。
しかし、そう考えかけて、コロールのお店で森の賢者達が持つ銀器の一覧に、鳴らしただけでみんなを眠らせてしまうベルがあったことを思い出した。
しかしそれはあくまでも森の賢者の持つ銀器であって、このような水色の結晶石製ではなかった筈だ。
「…………あ」
ここでネアは、このベルが良く見れば銀色の何かに水色の結晶石を貼ってあるような造りであることを思い出した。
鳴らないように服布をかませて膝の上に置いたベルをまじまじと観察すれば、やはり綺麗な結晶石の奥に銀色のものが見える気がする。
(ということは、元は森の賢者さんのベルで、何らかの理由でこの結晶石で装飾されたということ………?…………ううん、今はそんなことはどうでもいいんだった!何とか稼げている時間の間に、どうにかしてリンジンを無力化しなければなのだわ………)
ネアはまず、リンジンから奪った本をぱかりと開いた。
するとどうだろう。予想通り、本の中身は大部分が白紙になっており、前半の半分程の頁が手書きの文字で埋まっていた。
「…………川の流れが左に蛇行する。アンレン国百二十年、七月二十日。…………第二王子ユーセットになる。リファラーレン千五十六年、十月二十九日。…………やっぱり。これを使って作家の魔術を使っているんだ…………」
絡繰りが見えたのでネアは一番新しいページを探し、そのページを開いてぞっとした。
そこには何度も、ダーダムウェルの魔術師のあわいで、主人公の子供役になると書かれているが、その文字は全て汚く滲んでしまっていた。
するとその後に今度は、ダーダムウェルの魔術師になると書かれているのだが、それも四回程滲んでしまって読み取り難くなっている。
しかし、最後の一文だけはくっきりと記され、きちんと読み取ることが出来た。
(これは、…………作家の魔術が成功したかどうかを表している……?)
ネアは試しに古いページもぱらぱらと手早くめくってみたが、同じように文字が滲んでしまって何度か書き直している部分もかなりある。
その中にはなんと、終焉の魔物になるだとか、白夜の魔物になるという表記もあった。
「…………これ」
そして、中でも目を引いた一文では、タイズマという人物になり代わり、白夜の魔物に出会うという表記だ。
白夜の魔物と縁があったというこのリンジンだが、どうやらその出会いも意図的なものだったらしい。
そうやってこの魔術師は、己の手札を増やしていったのだ。
(全部同じインクだわ。…………少し赤黒いし、………多分これは、血だと思う)
そう考えたところで、ネアはすぐさま決意した。
ベルを鳴らないようにして一度金庫にしまい、首飾りの金庫から小さな小皿とペンを取り出すと、まずは意識のないリンジンを縄ではない拘束用具で手早く動けなくしてしまった。
意識がないとは言えその身に触れるのはとても怖かったが、一度始めてしまえば後はもう、憎しみによる手荒さを以って手早く作業を進めるまでだ。
これが本体ならダリル製の呪いをたくさんかけてやるところだが、残念ながらリンジンには体がない。
気遣うことのない相手を拘束する用のこの道具は、以前にアルテアがくれたものだった。
女子供でも使える拘束道具としてアクスが昨年から取り扱いを始めたそうで、アイザックからネアにどうかと勧められたものを、アルテアが一式買い与えてくれたのだ。
一見、石で出来た手枷と足枷のようだが、これは相手の魔術を奪うような特殊な灰を固めた素材で出来ているらしい。
予め魔術で使用者登録をしているネアの身は損なわないので、安心して触れられる。
そこでふと、ネアは思い立った。
(…………完全に魔術を失えば、この人は何も出来ないんだわ)
だがその場合、この入れ物だという体から零れ落ちてどこかに紛れてしまわないだろうか。
拘束する際に体を見たが、首元はストールのようなもので隠してあり、ぞんざいに胴体と縫い合わせたような悍ましい傷跡が見えた。
(きっと、そうやって形だけ直して使って…………ん?)
拘束した体を横倒しにして転がせば、頭の辺りに何か違和感がある。
触ってみれば、見えなくしているだけで角のようなものが頭に生えているらしい。
それが、リンジンが熊の手の魔術師であるという異種族の要素なのかなと考え、恨みに燃えるネアは、小さな声で歌乞いの教本で教わった聖歌のようなものを歌ってやった。
手の中の青い装丁の本が若干へにゃへにゃになってしまい慌てて止めたが、その直後に何もないところから銀色の砂のようなものがぼさりと崩れ落ちたので、リンジンの角は破壊されたと思っていいだろう。
先程に角らしきものに触れたあたりを探ってみたが、もう、角のようなものには行き当たらない。
「……………このまま、滅ぼしてしまえたらいいのに」
暗い目をしてそう呟き、ネアはリンジンの袖を捲り上げると、これもまた首飾りから取り出しておいたナイフで、容赦なくその腕をさっと薄く切った。
人の体を傷付けるのは怖いが、ネアは所詮、過去に人を殺めるだけの覚悟をした利己的な人間なのである。
(………………だから私はさっき、この人を自分の手で殺す覚悟もした。でも、今の私に出来ることは、殺してしまわないようにして利用することなんだ…………)
振り下ろせない刃を無念だと思うのだから、この程度のことで怯んではならないと自分をまた叱咤して、赤く滲んだ血から目を逸らさないように奥歯を噛み締めた。
切った瞬間に顔を顰めはしたものの、リンジンは相変わらず起きる気配はない。
眠りが深すぎて知覚はしていても起きられない人のようで、ネアは、これ幸いと作業を続ける。
(…………もっと早く、こんな風になれば良かったのに)
そう考えると涙が滲んだが、今は一刻も早く、リンジンの魔術を損なってやりたい。
流れ落ちた血を小皿に取りペン先を浸すと、意識のないリンジンの体にペンの背を触れ合わせたまま、少し体を斜めに傾がせてリンジンの本に追加の書き込みをしてみた。
上手く描けるのか心配だったが、血を使ったインクは、その本にペン先を触れさせた途端にぺかりと光ると、こんな角度でもするする文字を書いてくれるようになる。
「………………愚か者め。地獄に落ちるがいい」
ネアは、少しだけ荒ぶってみせて、自分を奮い立たせる。
こんな風に大嫌いなリンジンに寄り添わなくてはいけないのが怖くて悲しくて、短絡的にくしゃくしゃにしてやれない怒りに満ちていて、憎しみでいっぱいなのだ。
地を這うような声でそう宣言し、まずは最初の試みに入る。
(先程、ウィリアムさんの喉を掻き切ったところで、一度ウィリアムさんは倒れて動けなくなった。あそこで物語が終わったとして認識されればいいのだけど、完全に死んでしまった訳ではないので、そこに期待はしない方がいいかもしれない……………)
“リンジンは、やはりダーダムウェルの魔術師ではなかった”
手始めにそう書いてみたが、書ききったところで文字がどろりと滲んでしまう。
やはり、既に確定してしまった部分を変更することは、一つの物語につき一つの改変という法則に触れるようだ。
であればと少しだけ考えて、先程めくってみた時に気になる表記があったことを思い出し、ネアは過去のページを遡ってみる。
すると、書き換えの魔術の後に自身の行動などを細かく設定しているページが最初の方に残っていた。
(…………やっぱり!ここでは、誰か女の人に成り代わった後、無事に宝物庫に辿り着いて、その扉を開けて鍵を壊すところまで指定されている。一つの物語の中であっても、文章を切り上げて次の行程に移っていない限りは、続きで自分の行動まで指定出来るんだ…………)
リンジンは、一つの物語の終わりには必ず日付をいれて文章を終わらせ、次の物語へ進むようだ。
であれば今回はまだ日付が入っていないので、まだ続けて行動指定ができる筈だとネアは判断した。
“ダーダムウェルの魔術師になる、そして、助けを求めた子供に幸せな解決を齎す為に、万象の魔物を召喚した”
ぺかりと、リンジンの血で書かれた文字が淡く光った。
今度はどろりと溶け滲んでしまうこともなく、しっかりとした赤茶色の文字としてその本に定着したではないか。
(やった!!)
「…………でも、………召喚をして貰うには、一度起こさないといけないのだわ………」
そう思うと身が竦んだが、ここで躊躇っていても仕方ない。
ネアは少しだけ考えると、倒れた時に落としたような位置に折角奪った筈の青い本を置いた。
素早くリンジンの手につけた傷を傷薬で治してやり、拘束用具も渋々回収して自然な体勢で転がす。
ペンと小皿は血が残っているので、念の為に布に包んで腕輪の金庫にしまい、遠隔で発動出来るダリル製の術符の一つを、リンジンの靴底にぺたりと添付しておいた。
その過程でネアはふと、動きを止めた。
使わなかったものを金庫に仕舞おうとしたところで、ころりと出て来たのは包み紙に包まれた小さな飴玉だ。
「これ…………」
その飴玉が転がり出て来たのを見た途端、胸が潰れそうになった。
かつて、この飴玉と同じものから始まった事件があり、その時に駆け付けてくれたのはウィリアムだったのだ。
ふぐっと詰まった息を飲み込み、ぎゅっと、曰くつきの飴玉を握り締めてから、ダリルに教えて貰った展開のお作法を思い出す。
大急ぎでその手順を踏むと、その飴玉を魔術仕様の瞬間接着剤のようなものでリンジンの服の襟裏に押し付けて、しっかりと接着しておく。
そこまでを済ませると、ネアは目星をつけておいたところへ避難しようとして、何でもないところで躓いてべしゃりと転んだ。
「…………っく」
涙が溢れそうになり、よろよろと立ち上がる。
視界の端に、ばたばたと風に揺れる白い布が目に入ってしまい、息が止まりそうになったのだ。
(ウィリアムさん…………)
全ての記憶がなくなってしまったら、それは生まれ変わるのと一体何が違うのだろう。
ウィリアムがネアを忘れるだけではなく、ウィリアムは、彼が彼として育んだ全てを奪われてしまうのだ。
「………うぇっく」
また泣けてきてしまい、ネアは胸の前でぎゅっと手を握り締めた。
(ディノがどれだけ悲しむだろう………。ノアやアルテアさんも、エーダリア様も、ギードさんやシェダーさんも、………やっとやっと、みんなで会えるようになったのに…………)
このままだといつか、まるで知らない人になってしまったウィリアムに出会うのだろうか。
悔しくて悲しくて、わあっと声を上げてリンジンをずたぼろにしてやりたい。
だが、ディノを呼んで貰う為には彼が必要なのだ。
(…………ディノが、きっと春告げの舞踏会で貰ったチケットを使ってくれる筈だから………)
そう自分を振るい立たせると、ネアは一番近い物陰に隠れ、ちりんと先程のベルを鳴らした。
しんと、耳が痛くなるような沈黙が凝った。
先程までウィリアムにかけた布を揺らしていた風はぴたりと止み、あまりの静けさに立ち上がってリンジンの方を覗いてしまいたくなる。
でも、そんな静けさをぐっと堪えた。
「……………うわ、なにこれ」
やがて、ネアがもう我慢出来ないくらいの沈黙を挟み、そんなリンジンの声が聞こえた。
とは言えせいぜい数十秒のことだったのだろうが、あまりの緊張に息苦しくなってしまう。
「…………へえ、何を使ったんだろうなぁ。…………僕をこんな風にするなんて、あいつ、八つ裂きにされる覚悟はあるのかな」
ひたりと、冷たい汗が落ちる。
ネアは震えてきた指先を見つめ、自分がいつの間にかすっかりリンジンを恐れてしまっていることに気付いた。
その声や気配、そして存在そのものが、ネアの大事なものを奪う恐ろしいものとして、心に刻印されてしまっているのだ。
「…………おっと、あいつもいい加減目を覚ます頃合いかな。…………やれやれ、人間って残酷だよなぁ。自分を守った伴侶を置き去りにして一人だけ逃げたかぁ。………うん、ここで目を覚まされても厄介だし、終焉はもう一度殺しておくか」
その言葉に、喉が鳴りそうになった。
悲鳴を上げて掴みかかりたくなるが、でもきっとリンジンは、わざとこんな風に声を張り上げているのだ。
(近くに、私が隠れているかもしれないって、分かってるんだわ…………)
だからネアは、悲鳴を噛み殺してどうか間に合って欲しいと願い続けた。
(ディノ………)
強く強くその名前を心の中で呼び、どうか無茶などしていませんようにとまた願う。
(時間の流れの差があるなら、きっと大丈夫。どうか、ディノが、………ディノまでが、待ちくたびれて自分を削るようなことをしませんように…………)
その時、ざあっと空が開けた。
突然その世界を明るく照らしたのは、見事な虹色のオーロラである。
リンジンが、あの本に書かれたことに動かされ、その魔術を使ってしまったのだろう。
「…………は?」
呆然としたような、リンジンの声が聞こえてくる。
でもネアは、ここでほいほいと隠れ家から顔を出してしまい、ディノが来てくれる前にリンジンに見付かるような危険は避けるべく、ぐっと堪えた。
(ディノ、……ディノ、ディノ!!)
心の中でその名前を呼べば、我慢していた涙が溢れ落ち、またスカートを濡らした。
どこかでもう少し早く手を打ち、こんな風にあのリンジンを出し抜いていれば。
もう少し早くあのベルの効力やあの本の秘密に気付いていれば、そしてリンジンの罠だと気付き、彼をダーダムウェルと呼ばなければ。
そうすればネアは、大事な人を失わずに済んだのに。
「……………っく」
また涙が溢れそうになったその時、ふわりと視界に白いものが揺れた。
「ああ、やっと君を取り戻した」
息が詰まりそうなくらいの懐かしい声が落ち、ネアが見上げるその前に、ふわりと抱き上げられる。
「……………ディノ」
こちらを見ているのは、光って滲むような例えようもなく美しい水紺色の瞳。
真珠色の髪の毛が、ディノを取り囲む魔術の風のようなものに揺らめいている。
足元には光る真珠色の靄めいたものを纏わせ、人ならざるものという感じがありありとした。
「…………シェダーが渋っていたお陰で、君が先に私を呼び落としてくれた」
「シェダーさんが……………?」
そう微笑んだディノに、あまりの安堵に涙がまた溢れたが、ネアは嗚咽を噛み殺してすぐさま訴えた。
あちこちに作った擦り傷を癒す為か、そっと頬に落とされた口付けに、ウィリアムの最後の口付けが蘇る。
「ウィリアムさんが!……ディノ、ウィリアムさんが…………」
「…………うん。ウィリアムは大丈夫だよ。傷の治癒が遅れているのは、どうやら他のことを優先しているからのようだ。………ウィリアムは、何か古い魔術をかけられたのだね?」
背の高いディノに持ち上げられたネアにも、白い布に覆われて倒れたままのウィリアムが見えた。
リンジンはと思って視線を巡らせると、透明な箱のようなものに閉じ込められて踠いている姿が見える。
そちらを見て安堵したネアに気付いたのか、ディノは少しだけ不愉快そうに瞳を眇めた。
「暫定的なものだ。彼はどうやら、他の場所にあるものに自分の魂を繋いでいる。その細い糸が切れないようになっているから、糸を頼りに、いずれあの箱を破るだろうね」
「……………そんな………」
「ネア、………彼が、ダーダムウェルに成り代わったのだね?」
「…………はい。私が、開けるべき扉の前にもう一部屋併設されていることに気付かずに、その名前を呼んでしまったんです。………ディノ、ウィリアムさんは、………私の代わりに、全ての記憶を壊されてしまう魔術を…………」
ネアがそう言った途端、ディノは、ぞっとする程に冷ややかな目でリンジンの方を見た。
腕に大事に抱えて貰っているネアですら怖いと思ったのだから、この怒りを向けられる人はどれだけ恐ろしいだろう。
内側から光るような凄艶な美貌に、美し過ぎるということは、あまりにも隔絶されていて絶望すら感じさせるのだと思ったことを思い出した。
それはディノと出会ったばかり頃のネアが何度か思ったことで、やっと心を緩めてくれたこの大切な魔物に、またこんな目をさせたリンジンに、あらためて怒りがふつふつと湧き上がる。
「……………だとしても、取り戻す術はあるよ。君が間に合ってくれたお陰で私が支払わずに済んだものを、ウィリアムに使おうか」
「…………支払い?」
ぎくりとしてそう尋ねたネアに、ディノは静かに首を横に振ると淡く微笑んだ。
「まずは、ウィリアムの様子を見よう」
「…………はい」
ディノに持ち上げられたままウィリアムの方に向かえば、ネアがかけた白い布が夜の風にばたばたと揺れている。
ネアは上にふわりとかけただけのつもりだったのだが、上手くウィリアムの体に引っかかったのか、体に巻き込まれたようになって止まっているようだ。
その下には相変わらず漆黒のケープが見えて、大事な人が倒れたまま起き上がらないということに、また息が苦しくなる。
その姿や位置は先程から変化がないように見えたが、なぜか白い布の周囲には小さな草花が芽吹き、鮮やかな緑の絨毯を広げていた。
はっとしてディノの方を見れば、ディノが頷いてくれたので、なぜこうなったのかはネアには分らないが、ディノが何某かの手をかけてくれた効果であるらしい。
倒れ伏したウィリアムを守る絨毯のような草花はぼうっと明るく光り、小さな水色の花や、赤い花の隙間のあちこちに、先程落とした失せもの探しの結晶石が、きらきらと光って見える。
まるで絵の中のお伽噺の眠り姫のようだと少しだけ思い、それなのに目を覚ましたらと思って怖くなるなんてと、胸が潰れそうになる。
「ウィリアム、………傷を治そうか」
そう声をかけたディノが、ネアが被せた白い布を外そうと触れた時のことだった。
ディノはなぜか、はっと小さく息を飲み、水紺色の瞳を呆然と瞠る。
そしてすぐに片手で虚空を撫でるようにすると、三人を覆うようにして、水晶の小箱のような不思議な空間が立ち上がった。
「……………ディノ?」
「この布をかけたのは、君だね?…………もしかして、ノアベルトから与えられたものかい?」
「は、はい。もしかして、その布はなにかまずかったでしょうか………。あまり外部からの刺激がないように、音を遮蔽するものだと思ってかけたのですが………」
もし、いっそうにウィリアムを損なうものだったらどうしよう。
そう思って蒼白になったネアに、ディノは穏やかに首を振った。
そうして、はっとするくらいに鮮やかな微笑みを浮かべる。
「君がこの布をかけたことが、ウィリアムを救ったかもしれないよ」
「え………………?」
その思いがけない言葉に、ネアは呆然と目を瞠る。
「この中は安全だから、一度下すよ」
「は、はい!」
ウィリアムを乗せた草花の絨毯と一緒に、この水晶壁の小さな空間の中に閉じ込められれば、柔らかな花の香りと微かな希望に、涙でこわこわになった顔が少しだけ柔らかくなるような気がした。
本当は、ディノに話したいことがたくさんあるのだ。
でも今は、何よりもウィリアムを助けてあげて欲しい。
ディノの足元には、結晶石の植物のようなものがぴきぴきと音を立てて育ってゆき、艶やかな薔薇のような花を咲かせた。
その美しい花を崩すことに何の感慨もなく、膝を折ってウィリアムの隣に屈みこむと、ディノはそっと白い布を外してウィリアムの体を起こしてやっている。
「…………っ」
ウィリアムの首元の傷は、ある程度塞がりかけてはいたものの、酷い有様だった。
べったりと血の跡の残る服に、傷口もまだ目を覆いたい程に痛ましい。
思わず息を飲んでしまったネアに、ディノはすぐにその傷口を片手で覆ってくれた。
驚くべきことに、ウィリアムは薄らと目を開いていた。
これだけの傷をそのままにしていても、その葡萄酒色の瞳にはまだ彼の意志が窺える。
けれど、そこにいるのがもう全てを忘れてしまったウィリアムなのかどうかまでは、ネアには確認のしようもない。
ディノが喉元に当てた手を外すと、ウィリアムの首の傷は跡形もなく消えていて、けれどもなぜか彼はまだ酷く具合が悪そうだ。
「ウィリアム、私には君がしていることが分るような気がする。…………結晶石は、まだ必要かい?」
その問いかけに、ウィリアムは一度目を閉じて開くことで答えた。
ディノは頷き、草地に転がって煌めく失せもの探しの結晶石を一つ摘まみ上げると、そっとウィリアムの唇に押し当て、口の中に入れてやる。
それを飲み込んだものか、ウィリアムの喉が微かに動き、苦しげに眉を寄せて苦痛に顔を歪めた。
その様子があまりにも辛そうで、ネアは慌ててウィリアムの側にしゃがみ込み、ディノの顔を覗き込む。
「ディノ……………?」
「ああ、ごめんね。君を怖がらせたままだった。………少しだけ待っておくれ。どこまでの治癒が負担にならないかを調べて、出来る限り治してしまいたいから」
「ええ、勿論です。説明はいつでもいいので、どうかウィリアムさんを診てあげて下さい」
そうして、祈るような思いで待ったのはどれくらいの時間だろう。
先程のように、きっと一分にも満たないくらいに違いないけれど、絶望と希望の天秤が揺れる胸を押さえたネアには、もっと長い時間のように思えた。
「…………ウィリアムがかけられた魔術は、酷く古い、呪いにも近しい略奪と破壊の魔術だ。生き物の体や、武具などを破壊することも出来るような、とても野蛮で強いものなんだよ」
「……………そんなものを、…………ウィリアムさんに」
「この術式で記憶や感情を損なわれると、記憶の場合は頭が、感情の場合は胸が、食い荒らされるように痛むと聞いている。ウィリアムは痛みを排除していなかったから、そのままのものを感じてしまったのだろう」
「そう言えば、…………倒れる前に、こめかみを押さえていました。…………その時には、もう…………」
ネアは、リンジンの魔術を受けた後も、ウィリアムが自分を抱えて走り、出来るだけリンジンから遠ざけようとしてくれたことを思い出した。
もしかしたらその間中ずっと、ウィリアムはその痛みと戦っていたのかもしれない。
「そうして、君がかけたこの布には、音の遮蔽の他にも、呪いや魔術侵食を弾くような効果がある」
「…………………この、布に?」
ふつりと零れたのは、また新しい希望の一滴。
その滴が心の奥底にある水面に落ちるのを感じながら、ネアは息を詰めてその先を待った。
「それもまた、古く強い魔術の織り上げだ。このようなものを作れるのはノアベルトしかいないし、ノアベルトでなければ、ここまで古い魔術を遮るような守護布は作れなかっただろう」
「……………これは、私が影の国で、シーツをかぶったという話をしたところ、ノアがくれたものなのです。いざというときには、安全なテントになるよと言って渡してくれました……………」
「そうか。だから古の魔術にも対応出来るようにしたのだね。……………この布を君がウィリアムにかけたことで、彼はそれ以降の侵食を受けずに済んだ。…………かけられた術式が、一度で全てを奪うようなものであれば恐らくそうならなかっただろう。けれど、術式が古かった分、体に加わる苦痛はかなりのものだが、少しずつ削って奪うというような魔術だったんだ」
ぱらぱらと、金色の雨のように優しい言葉が降り注ぐ。
その雨を浴びて息を吹き返した草花のように、ネアはディノの言葉を全身で聞いた。
「……………じゃあ、ウィリアムさんは………………?」
「彼には残されたものがあった。だから、その残された記憶を守り、体の治癒を最低限にして、この失せもの探しの結晶で、………這いずって飲み込んでいたのだろうね。………それを使って、一粒ずつ記憶を取り戻していたんだ」
「…………………と言うことは、私がこの布をかける前に、せめて傷薬をかけてあげていれば、こんな風に苦しませてしまうことはなかったのですね…………?」
「いや、それをしなかったから、彼は間に合ったんだよ」
「………………しなかったから?」
ディノと一緒に、美しい花の咲く草原のようなところに座り込み、ディノに支えられて上半身を起こし、苦しげに息をしているウィリアムを見ている。
「うん。だから今も私は、ウィリアムから頭痛を取り去ってやれない。この魔術はね、…………閉じた頭蓋を切り裂いて、内側の記憶を崩し奪うようなものだ。その苦痛は酷いものだろうけれど、まだ取り戻しが終わっていないものを閉じてしまえば、もう記憶を取り戻せなくなってしまう…………」
そう知ってネアは、ぞくりと身震いする。
あの時のネアは勿論そんなことは知る由もなく、ウィリアムが与えてくれた時間を無駄にしない為に、あえてその治癒をせずにいたというだけなのだ。
(あの時、……………私が、………我慢出来ずに、傷薬をかけていたら……………)
そう思えば怖くなってしまい、けれども、と言うことはと頭の中では輝きを増したその希望について考えている。
「……………ふぇっく。………………ディノ、…………と言うことは、ウィリアムさんは、いなくなりません?…………また、私はあのウィリアムさんに会えますか?」
「ああ、泣かないでおくれ。…………うん、ウィリアムは踏み止まってくれたよ。そして君が、その困難を分かち合い、恐怖を一人で乗り越えてくれたから、彼を救うことが出来たんだ」
「私は、…………私には、何も分りませんでした。…………ただ、ウィリアムさんが、自分を切り捨ててくれと、どうか生きてくれと最後に言ってくれたから、私の身勝手で、倒れているウィリアムさんに傷薬をかけられなくなったのです。そうでなければ、瓶ごとじゃばじゃばかけて、ウィリアムさんの最後の抵抗を踏みにじってしまうところでした…………っく」
その時、膝にそっとウィリアムの手が触れた。
けれどもそれ以上手を持ち上げるだけの力はないようで、ネアは慌ててそんなウィリアムの手をぎゅっと握り締める。
苦しげに開き、こちらを見ている瞳はどこか優しかったが、ネアのことをもう思い出してくれているのか、ただ泣いているので慰めてくれようとしたのかは分らない。
それでも嬉しくなったネアが振り返って見上げれば、ディノは、この小部屋の外にある、捕獲したリンジンの方を見ていたようだ。
あまり長くは拘束しておけないと話していたので、どれだけの猶予があるのかを計っているのかもしれない。
(もし、ここを出てディノが一人で対処をすると言ったら、………………)
いくらネアが足手纏いになったとは言え、ウィリアムにすらこんな酷いことをしたのだ。
あの本は書き直してやったのだが、それでもディノを一人で向かわせたくない。
「ディノ……………っつ?!ディノ、ウィリアムさんが、がくっと……!!」
「心配しなくていいよ。自分の意志で目を閉じたようだ。削り取るように奪われるものだと話しただろう?………であれば、苦痛の中で慎重に必要なものを振り分け、優先順位の高いものから、そして残りのものは年代ごとなどに区分して、ウィリアムは何度にも分けて記憶を取り戻していた筈だ。………………その作業で随分消耗したようだね。………ここからは、戻ってきた記憶を組み立て直す為に、体を休める眠りが必要になるのだろう」
ウィリアムが突然がくりと頭を落したので、焦ってしまったネアは、そう聞いて胸を撫で下ろした。
ディノの言う記憶の組み立てについては、かつて幻惑の世界に落とされて戻って来るときに、ネアも同じようなものを体験している。
蓋をされて隠されていた記憶が、次々と飛び込んできて組み合わさるようなあの感覚は、今でもよく覚えていた。
けれどもウィリアムは、これからあの時のネアなど比ではないくらいの、膨大な記憶を組み立て直すのだろう。
「…………さて、あの魔術師をどうにかしよう」
その言葉に、ネアはひやりとした。
「ディノ、あの人は……」
思わずそう三つ編みを掴んで引き止めてしまいそうになったネアに、ディノはふっと微笑みを深めた。
「私の心配はしなくていい。魔術の理の一つでね、私は損なうことは出来ても、書き換えることは出来ないものなんだ。作家の魔術には干渉を受けないし、このあわいを調整するまでもなく、彼は、私を自分より上位のもの、そして万象そのものとして召喚してしまった。であれば、彼は私を傷付けるような力は振るえないからね」
そう言ってから、ディノは不思議そうに首を傾げる。
「…………でも不思議だね。どうして彼は、私を召喚したんだい?」
「私が、リンジンの持っていた本を奪って、ディノを召喚するように作家の魔術を書き足してやったのです。手探りでしたが上手くいったようで、まんまとディノを呼んでくれました!」
「……………作家の魔術に触れたのかい?………しかし、あの本は固有魔術を押し固めたものなんだ。他の魔術を持つ他者が触れると、閉じてしまう筈なのだけれど……………」
そこで魔物がはっと息を飲んだので、ネアは何とも言えない気持ちで小さく頷く。
「……………可動域が低すぎて、あの本にすら認識されなかったのですね?………その、ディノの指輪のある方の手でも触れた筈ですし、私は暫定的にディノの伴侶でもあるのですが…………」
「……………うん、でも、私の与えた守護は、君が思っている程に万全ではなかっただろう?…………このようなことを試したことはなかったから、あくまでも想像なのだけれど、……物語のあわいでは、物語上の役柄が優先されてしまうのではないかな?だから君は、ダーダムウェルの物語の中の子供の役として、………あんな風に擦り傷を作らなければならなかったんだ……………」
そう悲しげに呟いたディノが伸ばした手のひらに頬を寄せて微笑み、ネアは首を振った。
ウィリアムが無事だったと分かって、そうして、ディノはリンジンに傷付けられないと分かって、漸くこんな風に微笑むことが出来るようになった。
「でも、ディノが私の婚約者だからこそ、こうしてディノが助けに来てくれたのでしょう?」
そう言えば魔物はもじもじしてしまい、酷く嬉しそうに目元を染める。
きりりとした魔物らしい凄艶さも大好きなのだが、やはり、ネアの魔物と言えばこちらの魔物であった。
「…………うん」
「それとディノ、所詮入れ物の体かもしれませんが、リンジンさんの角は滅ぼしました。尚且つ、靴底には満足に歩けなくなるべたべたお餅札、襟裏には、魔術を上手く封じてくれるかもしれない死者の国行きの、死者の門の呪いの飴玉を忍ばせてあります。何か、使えるものはありますか?」
「…………………え」
そう言えば、魔物はなぜか、少しだけ怯えた目でこちらを見る。
ネアは、やっと軽くなった胸をふんすと張ったのだった。