330. それが蝕が齎したものでした(本編)
ネア達が身を隠していた家を出たのは、完全に陽の落ちる少し前の時間だった。
物語の顛末に向けて展開が早まっているのかもしれないと言われてはいたが、体感する時間ではまだ午後のお茶くらいの時間だった気がする。
(でも、怪我をしたりウィリアムさんの話を聞いたり、実際には思っていたよりもずっと時間を使ったのかもしれない…………)
ネアをケープの内側に入れて抱いて歩いているウィリアムは、その漆黒の軍服の装いが、彼を酷く不穏なものに見せていた。
艶麗で酷薄で、周囲を伺う葡萄酒色の瞳はぞくりとする程に鋭い。
「…………五人、いや六人か。巡礼者がいるな。リンジンではないが、誰であれ、彼と手を組んでいるのであれば厄介なのは間違いないか。……くれぐれも、そのケープを脱がないようにしろ」
「…………はい」
薄暗くなりかけたブンシェのいたるところに、住人達の慣れ果てであるあの黒い影が蠢いていた。
ネアは薄闇に紛れて襲いかかってくるその悍ましさに心が竦み、彼等には自我のようなものは残っているのだろうかと考える。
しかし、べったりと塗り潰されたような顔には表情を窺えるだけの要素はなく、衣服などを纏っている訳でもない、炭化した人型の亡霊のような姿なので、それを確かめる術はない。
「…………塔だ」
ネア達が身を潜めたのは、比較的塔に近いところにある家だったので、緑の塔の外周にある広場に出たのは、すぐのことだった。
広場は、砂色の石畳が敷かれていた。
花壇などもあって綺麗に緑化されており、緑色の塔の周囲にも大きな木がある。
しかし、広場に置かれた松明などで明るく照らされたダーダムウェルの魔術師の塔は、どこか不穏なものにさえ見えるのだった。
「…………ウィリアムさん、あの武器を」
「ああ、忘れてはいない。下ろしたところから動くなよ」
「…………はい。私は、動かない柱になるのですよね」
「もし、避けようもない攻撃が来た場合だけ動け。ただし、その場合は声をかけてくれ」
「はい!」
大きな木で囲まれた緑の塔の周辺にある広場には、ここまで歩いてきた街並みなどの比ではないくらいに、あの黒い影が溢れていた。
中には大きな漆黒の馬車を牽く御者になっているものもおり、軍隊のような静けさにネアは戦慄する。
(ウィリアムさんの予測通り、やっぱりここに集まっていた……………)
住人達をそのような姿にするのであれば、出会わないように躱されてしまったら意味がない。
きっと、塔の周囲に集まるような仕掛けがある筈だと、ウィリアムは予測していたのだ。
ネア達を認めた黒い影は、ざわざわと揺れ敵意を剥き出しにする。
先程まではそのようなことはなかったのにと目を瞠っていれば、黒い影の向こうに巡礼者とおぼしき人影が見えた。
よく見えるのは背の高い男性と小柄な女性で、リンジンではないように見えるが、リンジンはそもそも体を持たないと聞いているのでその限りではない。
(あの人たちが、影になってしまった人達の指揮を取っているのかしら…………?)
「……………六人全員いるようだ。まずは余分な巡礼者をここから排除する。影はその後だな」
そう呟いたウィリアムは、まずはネアを地面に下した。
言われた通りにネアは置かれた場所を動かないようにと足を踏ん張り、ウィリアムがどこからともなく取り出した魔術道具に大きな期待を寄せる。
奥の方にいる巡礼者達は、終焉の魔物がいつもの愛剣ではなく見慣れない質素な箒を取り出したので不審に思ったのだろう。
顔を見合わせて何やら相談している様子がある。
ネアはほくそ笑んでしまわないようにその様子をウィリアムの背中越しに眺め、予めウィリアムに渡しておいた大事な箒に、悪いものを追い払ってくれるようにと願いをかけた。
(この箒が持っている魔術が、加算の銀器と同じようなものではなくて良かった…………)
ネアは、手持ちの武器の相談をウィリアムにした際に、この箒も加算の銀器のように使い物にならないと思っていたのだ。
しかしウィリアムが調べてくれたところ、箒にかけられた魔術は武器などに使われるものと同種の独立をしており、蝕に触れても変質していないという嬉しい結果が出た。
残念ながら、ここは物語のあわいとして閉じているので、街の住人をまでを掃き出すことは出来ないものの、巡礼者達は外からの来訪者である。
ざあっと、小気味よい音がした。
ウィリアムが振るった箒の向こうには、きらきら光る不思議な風が巻き上がる。
その風はごうっと竜巻のようになり、影の姿になった住人達の砦の向こうに隠れていた巡礼者達を飲み込んで、どこまでもどこまでも、吹き飛ばしてゆく。
「や、やりました!」
「…………さすが、戸外の箒だな。この威力であれば、かなりの遠方だろう。入り組んだあわいの中で見知らぬところまで弾き出されれば、蝕が明けるまではこちらには戻れない筈だ」
ウィリアムは使い終わった箒をネアに戻すと、すぐさま今度は深紅の長剣を取り出した。
一緒に居た巡礼者達が消え失せて少し動きは鈍くなったものの、やはり影達が塔への道を塞いでいることに変わりはない。
これだけの数が集まってしまえば、避けて通るというようなことも難しいだろう。
初めてここで、目的の為にだけではなく、街の住人達を手にかける必要が出てきてしまった。
そうしてこれから、ウィリアムは物語の怪物になるのだ。
ネアは、まだ金庫に戻していなかった戸外の箒を握り締め、その箒でここからウィリアムを掃き出してしまいたいという欲求をぐっと押し殺した。
今ならまだ、役を与えられていないウィリアムも、物語の外側の要素として掃き出せる筈なのだ。
この箒の可能性にもっと早くネアが気付いていれば、街の住人にお願いして自分達を掃き出して貰うことも出来たのに、痛恨の失態である。
「………ネア、その箒は早く仕舞っておけ」
「…………はい」
ちらりと視線だけで振り返り、ウィリアムにそう念を押される。
ウィリアムもきっと、ネアが自分を掃き出す可能性に気付いたのだろう。
ネアは心残りもあったが、とは言えウィリアムがいなくなった後で、ここで自分一人で立ち回れるという保証はない。
であればもう、ウィリアムが差し出してくれた最後の可能性に賭けるしかないのだ。
ウィリアムの背中に隠れて渋々箒をしまい、いよいよだと深く息を吸った。
「始めるぞ」
「…………はい。大丈夫です」
キィンと、ウィリアムが持ち上げた深紅の剣が硬質な音を立てて、ぼうっと深い赤色の輝きを帯びた。
風にばさりと広がった漆黒のケープは美しく、影達の霞んだ黒とは違う、冴え冴えとしたその黒で視界を切り分ける。
そこからは、一方的な虐殺となった。
そう言うしかないくらいの鮮やかさで、深紅の長剣を振るうウィリアムは、ネアが呆然と見守るしかないくらいの圧倒的な剣技を見せた。
漆黒のケープが翻るその動きを目で追うまでもなく、あちこちで一斉に黒い影が崩れてゆく。
本来、ウィリアムはこの蝕の間、生き物の命を奪うことは出来ないらしい。
だがこの黒い影達はもう、厳密には生きているものではないのだ。
彼等は皆、辻毒で殺されて呪いそのものの形に成り果てており、区分で言えば死者に近しいものだという。
けれども彼等は物語のあわいから出られない特殊な魂なので、こんな姿に成り果てたまま、このあわいを彷徨い続けるしかない。
残酷なようにも見えるが、こうなってしまった以上は開放してやった方が救いなのだと、ネアは思う。
(住人を損なったのだから、本当であればリンジンさんが怪物にされても良かった筈なのに。それがなっていないということは、使われた辻毒は、住人を使って井戸に投げ込ませたのだというのがウィリアムさんの推理だけれど…………)
水溶性の辻毒を凝らせたものを、住人が井戸に投げ込んでも当然なものに擬態させ、どこかに置いておく。
ウィリアムは、直接井戸の内部の水に触れるものとなると、井戸の水桶そのものにしたのではないかと話していたが、そのように住人の手を借りることによって、リンジン本人は怪物に指定されることを免れたのだろう。
(どこまでが不可能で、どれだけのことが出来るのか、何度も実験をしたのではないかとウィリアムさんは話してた)
ウェルバも彼等は何度か現れたと話していたので、そのような時からもう、このあわいを使うことを見越して、巡礼者達は準備を進めていたのだとしたら。
少しだけ怖くなったネアは、慌てて首を振った。
ゴーンゴーンと鐘の音が鳴り響く。
どこからともなく響くように聞こえてしまうが、恐らくは高台にある貴族達の居住区の方だろうか。
その響きは大きく不吉な音色で、何かとんでもなく悪いことが始まってしまったような胸の苦しさを覚えた。
(ああ、多分これが、…………怪物が現われたという合図なんだ)
悪い魔術師によってこの国に連れてこられたという怪物は、確かに巡礼者達の画策によって、このあわいを訪れたウィリアムにその役を配してしまう。
彼は今、生者の形を残してはおらずとも、このあわいに閉じ込められた住人の成れの果てを次々と壊してゆき、その行いによって怪物と定められたのだった。
あっという間に、塔の前の広場からは影達の姿は消えてしまった。
後には崩れた黒い砂のようなものがあちこちに残るばかりで、最後の影を切り捨てながら、ウィリアムがこちらを振り返る。
「ネア!」
その合図に頷いたネアは、真っ直ぐに塔に向かって走り出した。
内側の使用人用の階段は、逃げ場がないので危険だと判断され、外側の階段を登ることになっている。
ネアはただ、がむしゃらにウェルバを呼びに行くだけで、周囲からの攻撃や干渉は全てウィリアムが引き受けてくれる手筈だった。
ばさばさと、灰色に擬態させたケープが揺れる。
このケープはネアの宝物で、みんなが贈ってくれた最強の盾でもあった。
きっとこれがあれば上手くいくと、心の中で何度も繰り返す。
「…………っ、段差が大きい…………!!」
やっと塔に辿り着き、いざ階段を登り始めると、ブンシェの住人の体格に合わせたものか、階段は一段一段の段差が思ったよりも大きく、ネアは思うように登れずに苦心した。
飛び上がるようにその階段を登ってゆくと、広場に残って周囲を警戒してくれているウィリアムとの距離がどんどん離れてゆく。
それがなぜか、とても怖くて堪らなかった。
「……………あった!」
教えて貰った通りに塔の中腹にある備蓄庫の扉はやり過ごし、ネアはダーダムウェルの魔術師の居住区に繋がる扉にようやく辿り着いた。
ここはウェルバの部屋よりはだいぶ下の階になるが、ここまでは降りて来てくれていると約束していたのだ。
(良かった。遠くから見ていたときより、思っていたよりもずっと近かった…………)
そう思って安堵し、まだリンジンの姿がないことにネアは感謝した。
拳を握って木の扉をノックすると、中からくぐもった声が聞こえる。
この向こうにウェルバ達がいるのだ。
ウィリアムの想定では、代理妖精になったグレーティアや、そんなグレーティアと契約したムガルも、一緒にここに閉じ込められてしまったのではないかと言うことだった。
(扉を開ければみんながいる。ウィリアムさんもまだウィリアムさんのままだし、ディノにだってすぐに会えるから…………)
後はもう頼もしいウェルバに、ディノを召喚して貰うだけではないか。
だからネアは、安堵に酷使した膝が萎えて、階段の上で座り込みそうになりながら、魔術師を呼ぶ子供が言うべき台詞を口にした。
「ダーダムウェルの魔術師様、どうか扉を開けて私に力を貸して下さい!」
それは魔法の言葉の筈だったのだ。
ネアの稚拙な想像力では、悔しいが、それ以上のことまでは考えてもいなかった。
「え……………?」
だから、ぎいっと扉が開き、その中から現れた魔術師を見た時、ネアは呆然とした。
慌てて後退しようにもそこは段差の大きな外付けの階段で、後ろを見ずに飛び降りるというような無茶は出来ない高さだったのだ。
「やあ、お姉さん。やっと僕を呼んでくれたね」
「………………どうして」
にっこり笑って扉を開けたのは、先程ウィリアムが首を落した筈の体の、決してその名前で呼んではいけなかった筈の魔術師で、ネアはあまりのことにくらりと眩暈がした。
銀色の髪に緑の瞳。
先程、破壊された筈の入れ物の姿のリンジンが、そのままそこにいる。
「どうして、あなたがここに…………」
「うーん。ほら、この階段思ってたより短く感じなかった?これはさ、賭けだったんだけど、ダーダムウェルがお姉さん達と一緒に居るのを見て、きっと引き戻されるまでは塔に帰らないなって思ったから、突貫工事で元の扉の前にもう一部屋作ったんだよね」
上機嫌に微笑んでそう言ったリンジンに、ネアは、今度は失望のあまりにその場に膝から崩れ落ちそうになった。
後ろに下がろうとした足が宙を掻く。
足首を損なう覚悟で後ろ向きに飛び降りるか、そのまま外側に向けて飛び降りるか。
(でも、どう考えてもウィリアムさんより、リンジンさんとの距離の方が近い………)
「扉越しに、僕がダーダムウェルの魔術師になるからねって言ったら、扉の向こう側から怒ってるんだ。はは、全く愚かなじいさんだよねぇ………!」
「……………あなたには、終焉の魔物を滅ぼすことは出来ない筈です。ここが物語のあわいで、あなたがダーダムウェルの魔術師になったのだとしても」
ネアはこの時、出来るだけ会話を長引かせようとした。
ウィリアムの方を見た途端に、リンジンは動くだろう。
だから、ウィリアムがこちらの異変に気付き、何か手を打ってくれるその時まではと。
けれどももし、更にネアが大事なことを一つ見落としていたのだとしたら、作家という特別な魔術など切り出さずとも、そもそもリンジンは高位の魔術師であったということだった。
「知ってるよ。だから僕は、あの怪物の心が、自壊するようにするんだ。……………指輪まで贈った人間が、自分のことを忘れてしまったらあの魔物はどうするかな?そして、自分を敵だと認識して、僕と一緒に立ち向かってきたら?魔物はさ、伴侶だけは絶対に損なえないんだよね。…………僕は、誰かや何かを壊す為の魔術を研究するのが大好きだから、よく知ってるよ」
ゆっくりと、少年の手が持ち上がるのが見えた。
ネアは咄嗟に、体を捻って真横の壁を強く蹴ると、塔に外付けされた階段から飛び降りる。
記憶を壊されることよりも、肉体的な損傷の方がどうにでもなると思ったのだ。
「ネア!」
ここに落ちれば少しだけクッション代わりになるだろうかと思っていた、塔の横に生えていた無花果の木の枝にぶつかって、がさがさっと葉っぱまみれになっているネアの耳に、ウィリアムの声が聞こえたような気がした。
そのまま、がさがさどさりと落ちたのは誰かの頼もしい腕の中で、そんな誰かが、ネアを受け止めるのと同時に、ケープをばさりと翻す音が聞こえて視界が真っ暗になる。
「………っぷ。………ウィリアムさん…………?」
漆黒のケープに覆われたその腕の中で、ネアは突然、どうしようもない不安に駆られた。
この被せられたケープの向こう側で、どうしようもなく酷いことが起きているような、そんな気がしたのだ。
「っははは!嘘でしょ?!こんなことってあるかな。はは、よっぽどその人間が大事なんだね。このくらいの高さじゃ、せいぜい首の骨が折れるくらいだよね?そんなの放っておいて、自分の身を守れば良かったのに!!」
大笑いをするリンジンの声が聞こえた。
ぞっとしたネアが慌てて被さったケープを払いのけようとやみくもに手を動かせば、しっかりと体を抱き止めてくれていた腕が動き、ゆっくりとネアの顔を覆ったケープを外してくれる。
するりとケープが落ち、そこに居たのは先程と変わらないウィリアムだ。
瞳の鋭さも姿も、どこにも異変はないように思える。
「あっははは!馬鹿みたいだ!!終焉の魔物が、人間を庇って!!………ぎゃっ?!」
階段の上で大笑いしていたリンジンにウィリアムが投げつけた何かが刺さり、そのままぼろ布のように塔の壁に串刺しにされる。
ウィリアムが投擲したのは、剣で切り落とした大きな木の枝だったようだ。
見上げた大きな無花果の木を見る限り、落ちてきたネアが枝に当らないように、咄嗟に切り落としてくれた下の方の枝の一本を、槍のように投じたらしい。
ウィリアムはすぐさま、ネアを抱えたまま塔から離れた。
なぜか一言も喋らないままで、ある程度走ったところで小さく咳き込む。
咳は治らず、きつく眉を寄せて顔を歪めると、それでも少し走って立ち止まってから、ネアをそっと地面に下した。
「………………ウィリアムさん?」
そう名前を呼んだネアに、ゆっくりとこちらを見て、ウィリアムは唇の端だけで微かに微笑む。
何かが起きているのだとしても、やはりその体に変化があるようには見えない。
「…………避け損ねた。保有する全ての記憶を侵食し、奪い取って破壊する術式だな」
「…………………え」
そう呟いたウィリアムの眼差しは、はっとする程に優しかった。
まだ事態が飲み込めずに目を瞠ったネアに微笑みかけ、ふわりと大きな手を頭の上に乗せる。
さりさりと優しく頭を撫でたその指先が、小さく震えていた。
「今の俺に、この呪いを絶つだけの力はない。………侵食され、記憶を失うことは避けられないだろう」
「わたしの、…………私を狙ったものを、受けてしまったんですね?!私が、あの人を、間違ってダーダムウェルの魔術師と呼んでしまったから……………!!」
ネアがひび割れた声でそう呟けば、ウィリアムは小さく首を振った。
その動きでもどこかが痛むのか、こめかみに指先を押し当て、浅く息をしている。
額には、薄らと汗が滲んでいた。
「いや、君のせいじゃない。俺もあの場所にリンジンがいるとは思わなかった。…………それに、君が彼から逃げる為に飛び降りた時も、冷静な判断が出来なかったんだ。傷薬を見越して君を受け止めず、あの術式を躱すべきだったが、………………どうしても出来なかった」
「…………き、傷薬で…………」
「いや、そういうものは効かない。…………ネア、いざとなったら、俺のことは容赦なく排除しろ。死にはするまいからな、……………っ」
「ウィリアムさん!」
がくりとその体が揺れ、慌てて支えようとしたネアも一緒によろめく。
抱き締めようと伸ばしたネアの手を遮って自分で踏み止まると、ウィリアムは、震える両手でネアの頬を包み込んだ。
「すまない、…………ネア、お別れだ」
「………っ、ウィリアムさん…………」
両手でネアの頬を包んだまま、ウィリアムは微笑む。
その瞳は鮮やかな葡萄酒色のままで、ネアは胸が潰れそうになった。
滲むように鮮やかで、どこか儚げで。
「…………シルハーンにも、すまないと伝えておいてくれ。………もう、お側にいられなくなることを……………」
涙が溢れた。
どこか遠くで劇場の喝采が響く。
ばたんと車の扉が閉まる音と、鳴り響いた電話のベル。
あのリノリウムの冷たい床に、遺体安置所の暗い光。
(また、私の大切なものを取り上げるの…………?)
残されるのは嫌だ。
それが例え誰か一人であっても、もぎ取られて奪われてゆくのは耐えられない。
大切なものなのだ。
ウィリアムは、ネアにとっても、ディノにとっても、みんなの大切な仲間で、家族で、ここまで来るまでにどれだけの言葉や思い出が重ねられただろう。
「い、嫌です!きっと何か手が………手が、ある筈ですから、…………」
「聞き分けてくれ。俺をちゃんと切り捨てろ。…………どうか、逃げ延びてくれ。……どうか………っ、」
そんなウィリアムの、最後の言葉が途切れる。
苦しげに歪み、奪われてゆく。
「させません!」
だからこそネアは、強く強くそう叫んだ。
首飾りの金庫から取り出したものを自分でも驚くべき速さでこじ開けると、そのままウィリアムの口に押し付けた。
「奪われるものなら、取り返すことが出来る筈です!!飲み込んで願って下さい!!」
反転するのは生きているものばかりだから、だからこの祝福は奪えない。
これは誰かの温かな手ではなく、言葉や声ではなく、無力さに咽び泣きたいネアではない。
じゃりじゃりっとした結晶石がウィリアムの唇から地面に零れ落ち、きらきらと光った。
すぐさまウィリアムの瞳にも理解が浮かび、けれども彼は願ったのだろうか。
ネアは願いを込めて耳を澄ましていたが、その声は聞こえなかった。
意識が朦朧としてきたのか、がくりと膝が崩れ、光る石が零れ落ちて星空のようになった地面にウィリアムは膝を突いた。
地面に広がったケープは漆黒のままで、さようならと告げたその瞳の色を思い出せば、また泣けた。
『お姉ちゃん…………』
最後に聞いた小さな弟の声。
さよならも言えなかった、両親ともう一人の家族。
やっとやり直せるのだと、もう一度大切なものを取り戻せたのだと思うその度に、運命はネアをずたずたにする。
あの黒い車が、また大切な人を連れて行ってしまう。
「ウィリアムさん!」
だから、彼が願うだけの時間を何とかこちら側に引き止めようと、ネアが、胸が張り裂けそうな思いでその名前を呼んだ時のことだった。
「しぶといなぁ」
リンジンの声が聞こえて、ネアはぎくりと体を竦めた。
その声はすぐ後ろ、耳元で囁かれたのだ。
ゆっくりと振り返ったネアに、緑の瞳の少年が笑う。
先程、ウィリアムに木の枝で串刺しにされた筈なのに、その体はすっかり綺麗になっている。
呆然と見つめれば、所詮入れ物だから崩れるまでは縫い合わせて使うよと、にぃっと笑った。
「…………それにしても、諦めの悪い女だな。諦めさせてあげようか」
「…………何を…………」
「何をってさ、こうするかな!」
その次の声は、ネアが背を向けてしまったすぐ後ろ、ウィリアムが膝を突いた方向から聞こえた。
「……………!!」
血の気の引くようなその瞬間。
ネアは、無防備なウィリアムに小さな手をかけるリンジンに向けて手を伸ばし、けれども間に合わない。
ごぼりと、湿った音がした。
狂ったように笑う子供の声と、重たくぼたぼたと溢れ広がってゆく黒い沁み。
項垂れたまま、顔の見えなかったウィリアムがそのままゆっくりと地面に倒れた。
どさりと、重たい音がしてその体が地面に崩れ落ち、漆黒のケープが広がる。
「ウィリアムさんっっ!!!」
悲鳴はそのまま吐き出すこともままならなくて、ひび割れて喉がびりりと傷んだ。
勿論、喉を掻き切られたくらいではウィリアムの命は奪えないだろう。
だが、朦朧とした意識の中で何とか失せ物探しの結晶に願いをかけようとしていたウィリアムの、その声を奪うのだ。
「うーん、この血も勿体ないけど、終焉の呪いなんて引き受けられないからね。それは、お姉さんにあげるよ」
「……………っ?!」
血の付いたナイフを投げつけられ、ネアは咄嗟に払い落とす。
ケープには血の跡がつき、リンジンが投げたナイフは、音を立てて石畳の地面に転がった。
「ほら、これで最後に触ったのはお姉さんだからさ、目を覚ました終焉の魔物は、自分を殺そうとしたのがお姉さんだと信じて疑わないだろうね」
楽しそうにそう説明するリンジンに、ネアは何も答えられなかった。
「さて、ダーダムウェルによる、怪物の駆除はこれで下拵えが完了だ。もう少ししたらまた降りてきてあげるよ。君が最後まで生きているくらいに死にかけたところで、怪物を退治してあげる。………ほら、扉越しに、僕を罵倒する師匠の声を聞くのって最高だからさ。それも楽しまないと」
そう笑って、軽やかに歩み去ってゆくリンジンを追いかけることも出来ず、ネアはそろりと手を伸ばし、ウィリアムの体に触れようとして動きを止める。
(ウィリアムさんに触れたい…………)
触れて、持っている傷薬でその傷を癒し、大丈夫なのかとその体を揺さぶりたい。
(けれども、もし、…………もう私を忘れてしまっていたら?)
それは、ウィリアムがネアを傷付けるまでの時間を短くするだけだ。
ウィリアムが最後に残した言葉を、裏切ることなのだ。
どれだけ辛くても、泣いていても、誰かが助けてくれる訳ではないのだから、ここでまだ動けるネアがするべき事は何だろう。
「じゃあね、お姉さん」
リンジンはご機嫌で、階段の上から手に持った本をこちらに振ってみせる。
そちらをのろのろと顔を上げて見上げたネアは、さぞかし酷い顔をしているだろう。
(そう言えばあの本、ずっと持っているような……………)
リンジンはずっと、片手に青い本のようなものを持っているようだ。
そう考えかけて、作家だからと納得しかけ、それも妙だぞと眉を顰めた。
ぼたぼたと頬を伝って落ちた涙が、スカートに染みをつける。
奪われるようなところに落ちなくて良かったと思ったところで、涙腺が壊れてしまった。
「…………ふぇ………っ、っぐ」
わぁっと声を上げて泣きたい。
泣いてしまいたいけれど、喉を枯らして泣いたらもう立ち直れなくなる。
立ち直れなかったら、もう勝ち目はないのだ。
(泣くな、泣くな、…………泣くな!………何とかして、どうにかしても我慢しなきゃ。大事なものがたくさんあるのに、どうしてそれを諦められるの?)
リンジンが憎いと心から思った。
そうして誰かを憎むのはとても簡単で醜いことだけど、ネアは、人を憎まずにいられる程に善良な人間ではない。
寧ろ、その憎しみを晴らす為に復讐をして、関係ない人達の運命まで狂わせたかもしれない利己的な人間なのだ。
「……………っく」
えぐえぐと涙を飲み込み、ネアはぎゅっと手のひらを爪で傷付けそうなくらい、強く拳を握り締める。
あの黒い車はまた、近くまで来ているのだろうか。
またネアの大切な人を乗せて、連れて行ってしまうのだろうか。
ウィリアムは倒れたまま動かないし、物語の中の大魔術師になってしまったリンジンを、魔術も使えないネアが倒せるとは思えない。
(…………でも私は、この世界に来て、たくさんの怖いことを乗り越えてきた)
それはネアがぬくぬくと守られた幸運な人間だったからでもあるが、同時に、かつて全てを剥ぎ取られた哀れな人間だったからでもある。
この世界に呼び落とされて新しい世界を手に入れたネアを守ったのは、かつて一人で長い道を歩いた、ネアハーレイの加護でもあるのだ。
(…………だから私には、あの時に決めただけの覚悟は今もまだ残っている)
ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、短く息を吸えば、遠い日の教会の鐘の音がもう一度聞こえるよう。
酷い遺体だからと開くことも出来なかった棺桶の小窓と、病院の死亡診断書の記載に、泣き崩れたあの日。
わあっと喝采が響き、深紅の天鵞絨の幕が上がる。
真っ暗な観客席からこちらを見ているのは、遥か昔に喪われた物言わぬ家族たちだろうか。
(……………踏み止まれ。強欲なら、我が儘なら、踏み止まって、自分のものを守ってみせるんだ!)
もう一度、はくはくと短い息を吸って、顔を上げないまま塔の方の気配を探った。
いる筈のない者がいるように感じられるだけなのかもしれないが、リンジンはまだ、階段の中腹に作った自分の部屋に入っていないような気がする。
(武器だ。…………今ならリンジンさん………リンジンも油断している。どうにかして、もの凄い酷い目に遭わせて、その動きや思考を止めさせるだけのものがあれば…………)
涙を堪える為に体を屈めながら、ネアは金庫の中に指先を突っ込んだ。
薬の類にきりんや象の類い、ダリルに貰っている呪いにちびふわ符。
(ちびふわ符は使えるかもしれないけど、貼れるくらいに近付かないと意味がない…………。遠距離…………)
ここでネアはふと、きりん箱のきりんは効かないとしても、その中には激辛香辛料油がたっぷり詰まっていることを思い出した。
(…………きりん箱!)
すぐさまそう確信し、金庫の中から幾つかの品物と一緒にきりん箱を掴み取った。
倒れ伏したままのウィリアムを残してゆくことは堪らない思いだったが、今はリンジンを無力化することが先決だ。
(地面に広がった筈の、ウィリアムさんの血がなくなっている…………)
そのことに気付いて、ぎくりとした。
であれば目を覚ますその人はもう、ネアを知らないどころか、ディノすら知らない終焉の魔物かもしれない。
時間はあまり残されていないだろう。
(……………そうだ、これ)
ネアはここで、きりん箱と一緒に掴み出したものの中にあった、折り畳んだ大きな布に思い至る。
この布は、影の国でゾーイから隠れる為にシーツに隠れていた時の話をしたところ、音などを遮蔽するような、被ったり巻いたり出来るような布をノアが用意してくれたものだ。
ただの布なので、如何様にも使える。
ネアはそれをばさりと広げ、ふわりとウィリアムにかけておいた。
見た目は死体を覆うようであんまりだが、この見た目ならリンジンも怪しまないだろうし、外からの物音を遮蔽してくれる。
刺激を遮ることで、少しでも覚醒を遅くしようと考えたのだ。
「ねぇ、それって弔いのつもり?」
直後、そんな声が降ってきて、ネアはぎりりとそちらを睨んだ。
弔いの布のように見せるつもりでもあったのだが、いざ言われると猛烈に腹が立った。
でも、ここは短絡的に激昂したように振る舞う方が自然だろう。
ポケットの中で握り締めた丸いものを、そんなリンジンに向かって、力一杯投げつける。
リンジンは馬鹿にしたような目で投げつけられたものを一瞥すると、すぐさまひょいと避けてしまい、ぼふんと真っ赤な煙が立った。
「へぇ。これって色粉みたいなものかな。嫌がらせかい?……やっぱり、馬鹿なんだなぁ」
そう嘲るリンジンに、ネアは、今度は何個もの擬態用の色玉を掴むと一気に投げた。
その中の一つにきりん箱を混ぜたのだ。
(これで、…………!)
「…………わかってないなぁ」
そんな声がすぐ側で聞こえてぎくりとしたネアは、次の瞬間ずばんと吹き飛ばされた。
塔のある方に吹き飛ばされ、石壁のようなものに激突して咳き込む。
ぱらぱらと落ちてきた砂に、はらりとフードが外れた。
「………っ、…………った…………」
幸いにも、うまく守護で相殺出来たのか、痛みというよりは衝撃だけで済んだらしい。
けれども、吹き飛ばされた際におかしなつき方をしてしまった腕には嫌な痛みがある。
「可哀想に。君は、ダーダムウェルの物語を本当に知らないんだなぁ。………“その魔術師は、決して誰にも損なわれなかった。なぜならダーダムウェルの魔術師は、身を損なう全てを無効化してしまう程の叡智を備えていたからである”…………わかるかい?僕はね、今君が投げたものの中に、少し厄介なものが入っているのが分かった」
ざりざりと、ウィリアムが滅ぼしたブンシェの人々の亡骸の残骸を踏んで、リンジンが近付いてくる。
「このあわいの中では、誰もダーダムウェルの魔術師を損なえないんだ。同じことを、何度言えばいいのかなぁ。それと、ダーダムウェルの魔術師が知り合いの子供をどうしたかは、物語に書かれていないんだよ。怪物が滅びたのを見届けたっていう記載はあるからさ、最悪、目だけ残しておけば充分かな…………?」
先程掴み取ったものを移したポケットの中身を探り、ネアは痛む身体をぎりぎりと動かす。
しかし、術符の一枚を取り出そうとしたところで、痺れたような痛みにおぼつかない手が、ポケットの中にあった何かを落としてしまう。
チリンと、澄んだ音が響いた。
その直後、どさりと音がしてリンジンが地面に倒れ伏した。
「……………え」
倒れたまま動かなくなったリンジンに目を丸くすると、ネアは、ポケットから地面に転がり落ちた青いものを慌てて確認する。
この明度では青くも見えるが、水色のベルのようにも見える。
何か銀色の土台の上に水色の結晶石を貼り合わせたような、不思議で美しいベルだ。
(これって、…………海遊びの時に、拾った……………)
目を瞬き、もう一度リンジンに視線を戻した。
ばたりと倒れたので頭でも打ったのか、ぴくりとも動かない。
しかしよく見れば、微かに体が上下しているので呼吸はあるようだ。
その様子をまじまじと見つめてしまってからはっとすると、ネアはポケットの中の傷薬の瓶を慌てて咥え中身を飲みながら、リンジンの所まで転げるように走った。
地面に投げ出された左手のすぐ横に、彼がいつも持っていた青い革装丁の本が落ちている。
それを掴むと、ずさっと後退して、先程のところまで駆け戻った。
(焦り過ぎて、あのベルを置いてきてしまった…………!)
何だか分からないが、リンジンが倒れたのはあのベルの音のお陰のような気がする。
であれば、絶対に手放さないようにしなくては。
しかしネアは、そんな形状のものを慌てて持ち上げたらどうなるのか、その注意をすっかり怠っていたのだ。
(しまった!!)
地面から水色の結晶石で出来たベルを拾い上げたネアは、チリンと鳴ったその音に心臓が止まりそうになる。
はっと後ろを振り向けば、低く呻いて体を起こそうとするリンジンが見えた。