一つの対価と一つの呼び声
ばさばさと、強い風が砂漠の中のオアシスを揺らしていた。
砂を踏みそこを訪れたのは、とある魔物を探してのことだ。
ウィリアムがあわいに向かったという報告の後、姿を消してしまった友人もここにいるだろうと思っていたが、ちょうど二人で話していたところだったらしい。
「ああ、やはりここにいたね」
「……………シルハーン?!」
ぎょっとしたようにこちらを振り向いたギードに、ディノは淡く微笑んだ。
緑と紫の瞳を揺らして、ギードはまるで後ろめたいことでもあるように眉を下げた。
羽織った黒い服が風に揺れ、いつもギードがしている耳飾りが風に煽られ音を立てる。
「なぜこちらに。…………ウィームは?」
「あちらは、ノアベルトに預けて来た。彼ならきっと守ってくれるだろう。ダナエも見ていてくれるそうだしね」
「…………どうして、ここに」
呆然とそう呟いたのは、風に翻る白灰色の髪を耳にかけたグレアムだ。
(ああ、…………やはり私も、そう思うのか)
その名前が胸の内に自然に零れ落ちて、微かに心が震えた。
『ディノ、…………もしこれから私が話すことが、ディノにとって苦しくて悲しいことであれば、すぐにそうだと言って下さい』
『……………ネア?』
とある日の夜、ネアはそんな前置きで話し始めた。
なんの話だろうと首を傾げたところで、ネアはこちらを見てどこか悲しげに微笑む。
(これは、ネアが不安な時にする顔だ…………)
だから慌てて巣を出ると、すぐにネアが腰掛けた寝台の方に行き、困ったようにこちらを見て眉を寄せている彼女を抱き締めた。
胸に押し当てられた頬に心が震え、その甘やかな幸福感に蹲りたくなる。
大切なネアがここにいて、やっと心までを預けてくれるようになった。
生きていて、触れられて、微笑んでくれる。
ネアがここにいてくれれば、大切だと思う心はもういつかのように一人ではないし、他にも大切なものが出来た。
それは多分、ネアを失えば陽が落ちるように見えなくなるものかもしれないが、けれども今は美しく照らし出されてそこにある。
そんなネアが話してくれたのは、一つの可能性について。
『ディノ、………シェダーさんは、私がかつて大浴場で出会ったグレアムさんと、同じ目をしてディノを見ているのです』
思いがけないその言葉に目を瞠ったディノに、腕の中でこちらを見上げたネアはこう付け加えた。
『例えば私が全ての記憶をなくしてしまって、もう一度最初からディノに出会ったとしたら、………私とディノが今日までに体験してきたような事を繰り返さない限り、同じ目でディノを見ることはないでしょう』
『…………君の記憶は誰にも渡さない』
『ふふ、怖くなってしまいましたね、ごめんなさい。でもこれは例えで、私は、シェダーさんの目に見るその彩りが、とても不思議だなと思ってしまったんです…………』
『………彼が、かつてのグレアムと同じ目をするから、かい?』
『ええ。…………ディノのお誕生日の時には、ウィリアムさんやギードさんにも。…………ひとは多分、怒りや憎しみは隠せても、胸の中をいっぱいにしてしまう、愛情は隠せないのだと私は思うのです』
『………愛情』
『シェダーさんの瞳には、時折そのさざ波が揺れていて、私はなんて綺麗な瞳なのだろうと思うのと同時に、私の大切な魔物をそんな風に見ているこの人はどれだけのことを知っているのだろう、…………誰なのだろうと思うんですよ』
(グレアムが、…………欠け残りの魂を持っている?………確かにそれは珍しいことではないが、彼にはそのような気配は感じない)
なのでネアにそのままのことを告げれば、ネアもすんと頷いた。
生真面目なその表情が可愛くて、何だか頬を撫でたくなる。
『ええ、ノアから、ヴェンツェル様のお友達についての件で、そういうものは分かるのだと教えて貰ったので、みなさんがそのことに気付かないのであれば、それは違うのでしょう。でも、…………ふと思ったのですが、シェダーさんはその魔術で、後からそういうものを取り戻したり、或いは見聞きしたりすることは出来るのではないでしょうか?』
ネアはここで、観劇のように映像で見られるというえいがというもののような感覚で、場面そのものを追体験する可能性や、たいむすりっぷというものについて話してくれた。
『物語の中で考えられた手法ばかりですが、即ちそれは人間が頭の中で、ある程度は尤もらしく手段までを考えられることなのです。であれば、この世界にある魔術という不思議なものは、それを可能にしてはくれないでしょうか?………以前、ディノは、シェダーさんはとても大きな対価の支払いを続けているようだと、教えてくれました。私は、………あの人が歩いているちょっと不思議な道には、秘密があるような気がするのです…………』
そう言われてその日の夜は、多くの事を考えた。
違う認識もあるだろうが、派生し直したのにまた同じものを背負い続けるのは、理不尽なことだと考えている。
なぜならば、終焉を迎えられるということは赦しでもあるが、それは前歴で手に入れたものから隔絶される事であるからだ。
自分の持ち物を失い、失ったものや、失くしたことを覚えているまま全てをやり直すという事は、どれだけの負担だろう。
そして、やっと忘れられると思ったことにまた繋がれ、その苦痛を抱えて生きて行くのはどれだけの苦しみだろう。
けれどもそう話せば、ネアはいつもの、不思議なくらいに静謐な目をして微笑んでくれる。
『例えば、とても幸福だった方は、自分が得た大切な記憶を、新しい人生を手に入れた後も手放したくないということもあるかもしれませんね。…………それが不幸なのか幸福なのかは、それぞれの価値観で見方が変わることでしょう。…………でも、ディノがそう思うのはきっと、………戻って来たら苦しいだろう人に、それでも帰って来てほしいと考えたことがあるからなのではありませんか?』
言われて、だからなのかと納得した。
『…………そうなのかもしれないね。私は、グレアムにまた会いたいと何度も考えた。でも、彼はきっと、そんなことになれば、とても苦しむだろう……………』
『…………そしてきっと、ディノは、グレアムさんに行かないで欲しかったのでしょう。私はそうだったのかなと思っていたので、今日の話をするのが少しだけ怖かったんです…………。もし、ディノが私の言葉で期待をしてしまって、それが勘違いだと分かって落ち込んでしまったらと思うと……………』
その心配は少しだけ不思議で、首を傾げた。
『期待は、………しないだろう。グレアムにとってそれは、苦しいことだからね』
『…………まぁ!ディノは、私が思うよりもっとずっと優しいディノだったのですね!………むむ、これはもう、ぎゅっと抱き締めます!』
『ネア……………』
あの日の夜、ネアは大切そうに抱き締めてくれた。
よく分からないままにとても嬉しくて、幸せな気持ちに暖められて眠ってしまったけれど、その日から何度も考えたのだ。
(ここにいる新代の犠牲は、姿形も名前も、グレアムと同じ魔物だ…………)
だからこそ、彼が先代の犠牲の魔物によく似ていることは、決して不思議なことではない。
ただ、ネアやこちらにはシェダーと名乗っているが、それは良くグレアムが使っていた偽名でもあった。
(だからもし、…………)
ここにいるグレアムが、あの時のグレアムと同じものをどこかに残していたとしたら、これから伝えることは彼を苦しめてしまうだろうか。
そう思いはしたが、それでもやはり、彼に伝える言葉は変えられなかった。
「………シェダー、これから私が君に頼む事は、恐らくギードが既に君に頼んだことと同じだろう。でもどうか、ギードではなく私を、ネアのいるダーダムウェルの魔術師の物語のあわいに通してはくれないかな。勿論、必要とされるだけの対価は支払うよ」
「……………シルハーン?!」
ぎょっとしたようにこちらを見たギードに、微笑んで頷いた。
しかしギードは慌てたように首を横に振る。
「いけません!………確かに、白夜のあわいの階段はまだ暫く開けないでしょうが、…………」
「そうだね、ルドルフも今の階位では、次にあわいの門を開けるまでには半日はかかるだろう。ダナエは自身も下りなければ道を開けないし、竜である彼をあの場所へ近付けさせるのはまだ危うい………」
「確かに、そうなれば………と言うより、確実にその場所へという条件を満たすのであれば、俺の魔術が最も確実でしょう。辿り着くという行程を飛ばし、そこに落とすという願い方であれば……………」
「そうなんだ。月闇の竜を使うことも考えたし、私自身があわいを幾つも切り裂いて覗いてみることも出来る。けれど、確実にあの子のところに行くのならば、そこに不確定な要素があってはならない」
「…………でもそれでは、あなたは大きな対価を一つ支払うことになる」
シェダーは、絞り出すような声でそう言った。
それで構わないと言った筈なのだが、まるで彼がそれでは嫌なのだと言いたいように見えて首を傾げる。
(例えばもし、ここにいるのが一緒にウィームの夜を歩いたあのグレアムなら………)
それならば彼は、こう言っただろうか。
この身が万象だからではなく、…………友人として、その危険を遠ざけようと、こんな風にきっぱりと首を横に振っただろうか。
「勿論そうなるだろう。けれども、そんなことで守れるのなら、私はそれで構わないと思うんだよ」
「…………そんなことと、………そう言えるのは、あなたが魔術の理が求めてくる対価の大きさを知らないからです。釣り合うだけのものともなれば、あなたは……………」
そこで一度黙り込んでしまい、隣にいたギードがシェダーの肩にそっと手を当てる。
「…………シルハーン、それは俺がしようとしたことだ。だから、俺に任せて欲しい」
「ギード、君が支払う対価は君自身のものになる。私が支払うものの方が、きっと誰かを損なうものにはならないだろう」
「シルハーン!」
「…………ネアがね、よく話してくれるんだよ。生きていてさえいてくれれば。共にいられれば、それだけで幸せなのだと。………そうだね、私は多くのものを彼女から貰って、きっと幸せになり過ぎたのだと思う。であれば、その幸福を手放して足並みを揃えるくらいには、きっと差し出せるものがあるだろう」
このような時は、きちんと説明しなければならない。
悲しませないように、自分達の願いが軽んじられているのだと嘆かせてしまわないように。
ネアもいつも、そうやって話してくれるのだ。
だから。
ネアは沢山のものを与えてくれたから、だからまだ、その幾つかを差し出し失うのだとしても、生きて行ける。
「…………シルハーン、俺はあなたに何ひとつとして失わせたくありません。それが、俺自身の手を介するものであれば、尚更に」
「…………私はずっと昔に、君の…………いや、君とギードを、そしてウィリアムを守ってやれなかった」
その言葉に、シェダーが弾かれたように顔を上げる。
信じられない言葉を聞いたように瞠られた瞳を見返して、ディノは頷いた。
心のどこかで、彼は今の言葉の間違いを指摘しないだろうという、予感のようなものはあった。
どんな形であれ、ここには、ずっと会いたかった彼もいるのだと。
「…………今になって考えると、私は多分、あの時に、我が儘になってその手を掴んでも良かったのかもしれない。行かせたくないのだと、そう言えれば良かったのかもしれない。…………でもあの時の私には、そういう事が分からなかったんだ。だからね、今回はもう、手放すつもりはないんだよ。それは、ネアやウィリアムの為ではなく、私が私の為に望むことなのだろう。…………だから、そんな私の為に、あのあわいへの道を開いてくれるかい?」
もう一度そう尋ねると、シェダーは片手で顔を覆って呻く。
「……………あなたは、………とても狡い。そのようなことを、今になって言われるとは…………。しかしせめて、もう少しだけ待てませんか?ネアならきっと、あなたを…」
「うん、彼女はきっと辿り着くだろう。私もそう思うのだけど、………先程、守護を通してかなりの衝撃が届いた。それに、……………薄く淡く繋がった先で、あの子が泣いているような気がするんだ。あの子が泣いているのに、どうして私がここで何もせずにいられるだろう」
ネアの守護に深刻な衝撃が加わった事を知った後、アルテアとはそれぞれに道を分けることにした。
あわいへの下り方は決して一つではない。
特に巡礼者達に標的にされていたアルテアには、ディノには辿れない道標がきっとどこかに残っている。
ラエタの巡礼者の全てが同じ目的の為に動いているとも思わないが、アルテアはその残党に心当たりがあるらしい。
(杖で叩き落とした者を失念していたと話していたから、彼も自分なりの方法で来てくれるのだろう…………)
「………誰かが、間に合うかもしれない。であればこれは、必要のないことかもしれない。でもね、それでもいいから、私が一番に行くべきだ。…………もっと早くこうしていれば、ウィリアムに無理をさせてしまうことはなかった」
そう言えば、はっとしたようにギードが首を振る。
同じ表情でシェダーも首を振っているのが、なぜだか少しだけ面白かった。
「………ウィリアムは、いつも突っ走るんだ。シルハーンが責任を感じる必要はない。今回のことだって、事情を説明して俺に任せてくれれば、俺は作家の魔術とは相性が良かったのに…………」
そう呟いたギードに、頷いた。
確かに、絶望は物語の魔術との相性は良いだろう。
無傷でとはいかないが、作家が触れたところを、絶望の手で断絶してしまえばいいのだから。
「であれば、連れて帰ったら、その話をしてやるといい。ウィリアムは私よりも、君達に言われた方が堪えるだろう」
「………俺達より、ネアやシルハーンに叱られた方がいい。きっとネアだって、あんな状態のウィリアムに駆けつけられたら、不安になる」
あんな状態とギードが言うのは、ウィリアムの反転に関する力の喪失がそれだけ深刻だからなのだろう。
「…………彼は、反転の間は何も終わらせられないのだね?」
そう尋ねると、シェダーはゆっくりと頷いた。
「殺せないということは、彼にとっての恩恵の筈でした。………しかし、今の状況では、あまりにも危うい…………。終焉は損なわれずとも、決してそればかりが最悪ではないでしょうに」
そう呟いたシェダーに、最後にもう一度だけ言葉を尽くして頼んだ。
「では、私をダーダムウェルの魔術師のあわいに、そしてネアのところに下ろしておくれ」
「シルハーン……………」
「手の中のものを差し出すのを躊躇って、大切なものを失うつもりはないよ。シェダー、それを手伝ってくれる君にも負担をかけるが、どうか許しておくれ」
その言葉に、シェダーはどこか自嘲気味に微笑んだ。
「俺が間違っていました。…………あの海竜の宴の日、あなたに蝕でウィリアムを反転させることを、伝えておかない方がよかったのかもしれない。ウィリアムは当初、あなたに反転のことを言わないつもりだったんですよ。何かがあった時に、自分を頼り難くなるからと。………ですが、…………それを俺が、あなたにも伝えておくべきだと説得してしまった………」
そんな告白をされて、目を瞬いた。
とは言え確かに、ウィリアムはエヴァレインと戦うことになったその時も、自らの命を絶ってまで止めようとしながら、助けて欲しいとは言わなかった。
狂乱などというものは、中身をある程度作り変えでもしなければ止められない。
元の状態のままで押し留めようとしても、一度狂ったものを拘束したところで、狂い続ける。
そうである以上、助けを求められれば、その救いのなさに向き合うことになるのだと、知っていたからこそ彼は、こちらに助けを求めなかった。
「私が知らなければ、君達は、私に何も言わずにどちらかがあわいに下りたのかい?」
「……………かもしれません。自分を削るような手法は王道ではない。俺達がもう少し上手く立ち振る舞えていたなら、あなたがそのやり方を選択する必要はなかった筈です」
風の向こうで、かつては毎日のように共にいた二人が、酷く悲しい目をしてこちらを見ている。
けれども遠い遠いどこかで、大切な婚約者が泣いているのが、今度こそはっきりと分かった。
声を上げて泣いているネアの悲しみのあまりの深さに、息が止まりそうになる。
(ネア、…………すぐに側に行くから、どうかもう泣かないでおくれ)
対価にしてしまうものを知ったら、彼女は何と言うだろう。
もう二度と微笑んでくれないかもしれないという恐怖も少しだけあったが、それでも側にいられなくなる訳ではない。
だから、…………だからきっと、これでいいのだ。
(ネア、……………)
その名前を胸の中で抱きしめると、どこか遠くで愛おしい淡い菫色の瞳が煌めいたような気がした。