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329. 過去がその道を狭めます(本編)



二人が身を隠したのは、一軒の見知らぬ人の家だった。



煉瓦造りの簡素なものだが、家の扉の前に描かれた文様は華やかで美しい。

中央に描かれたものを見るに、この家の住人は花や薬草に纏わる仕事に就いているようだ。



「少しだけ音を塞ぐ。目も閉じておいてくれ」

「はい」



それが何の為なのかは、終わってしまった後に察した。



恐らくウィリアムは、ネアをどこかで休ませる為にと、あわいの住人の家を奪ったのだ。

目を閉じるように言ったくらいなのだから、中には住人がいたのではないだろうか。

傷付けてはいないと思うが、ここから追い出してしまったような気がする。



あわいだからと。


であれば失われてもいい訳ではないのだと、ここで暮らしていたウェルバを知るネアは思う。

けれども、ウィリアムのしたことに対して、稚拙な綺麗事を言うつもりはなく、一人で背負ってくれたウィリアムに感謝した。




「ごめんなさい、ご負担をかけてしまいました………」

「…………やっと」



その声は囁くようで、耳元で聞こえた。

長椅子の上に下ろされ、ふわりと抱き締められたその腕が微かに震えていた気がして、ネアは目の奥が熱くなる。




「…………やっと、……………君の傷を診られる。傷薬を飲んだんだな?」

「はい。でも、小さなビーズにしたものだけでしたし、服用のものでしたので、一番効き目の強い振りかける方のものを使いますね」

「ああ。あまり時間はないと思った方がいいだろう。薬の部類は蝕でも変質しないから、安心して使うといい」

「それを聞いてほっとしました!…………ウィリアムさん、助けに来てくれて、有難うございます」

「……………ああ。安堵はしたが、納得は出来ないか?」




そう問われて、ウィリアムは淡く淡く、自嘲気味に笑ったらしい。

その鋭さはどこか投げやりで、ネアは慌てて首を横に振った。




「いいえ。私が、自分一人で万事上手くいっていたのなら、そう思ったかもしれませんが、先程はウィリアムさんが来てくれなければ危うかったんですよ。………それに、ウィリアムさんはまだ怪物になっていない筈ですから、少しだけ安心して、素直に来てくれて嬉しいと思ってしまいました………」

「………それならいい」

「…………むむ、納得してます?」

「ああ、………ほら、立ち上がって背伸びをするな。足が痛むんだろう?」

「しかし、ウィリアムさんは助けに来てくれたのに、私がぷんすかしていると思ったら悲しくなってしまうでしょう?」

「思わない。君が無事で良かったと思うだけだ」

「むぐぅ………」

「ネア、座るんだ」

「…………ふぁい」



周囲を気にせずに済む場所へ来たことで、漸く微笑んでくれるようになっても、表情の鋭さは変わらない。



(それに、………ちょっと冷たく整った感じかしら………)



身に纏う色彩や瞳の色の変化だろうかとも思ったが、やはり言葉の温度感も少し違うようだ。




「…………頭の傷をまず調べよう。それと、膝のあたりも傷があるな」

「…………まぁ、スカートが………」




ネアはここで漸く、自分の状態を見てみた。


足首は、痛みを堪えてブーツを脱げば赤くなっていて、さっそく腫れ始めている部分もある。

膝は案の定スカートの一部が擦り切れており、その下のタイツは大丈夫だったものの、じわじわと血が滲んでいるのでしっかり肌は傷付いているようだ。




「一度脱げるか?傷薬を使っても効果のなさそうなところは、俺が治そう」

「ええ。靴下は脱いでしまいますね」

「ドレスもだ」

「……………アンダードレスで…………?」

「もう一枚だな。肌を見なければ骨や内臓が無事か分からない」

「…………お薬でぴゃっとやってしまいます」

「治癒しながら説明するが、リンジンの魔術は特殊なものがある。調べさせてくれ」

「…………ふぁい」




とは言え、水着程度の布面積は守られるのだが、今日のウィリアムはいつもと雰囲気が違うので何だか気恥ずかしい。


しかしながら、ここで駄々を捏ねている場合ではないことはネアにだって分っているのだ。


ふるふるしながらではあるが、ドレスを脱ぐのをウィリアムに手伝って貰い、まずはタイツを脱いで目の当たりにした酷い擦り傷に薄いガーゼハンカチを当て、その上からディノの傷薬を振りかけた。



「…………っ」

「一定の痛覚や侵食を許しているのも考えものだが、完全に取り払うのも望ましくないか」

「…………ええ。それは何というか、……人間ではなくなってしまったようで、寂しいのです。………でも、今回はしっかりと守りをかけて貰っていたのですが………」



しゅわりと傷が消え失せ、膝を自由に動かせるようになったネアはほっとする。


足首にもその傷薬の染みたハンカチを当ててみたところ、腫れは引いたようだ。

ただ、熱を持っていた部分の痛みは軽減したが、まだ少し動かし難いような気がする。



「リンジンの扱う魔術は、今の世界に残っているものとは少し質が違う。呪いに近しい動きをするものだからな、………診せてくれ」



床に屈んでくれたウィリアムの膝に裸足の爪先を乗せ、手袋を外した手をそっと当てられる。


ひんやりとした大きな手は気持ちよく、その冷たさが染み込むように筋肉の内側に籠っていたような不快感がするりと剥がれ落ちた。



「…………まぁ、強張るような不快感がなくなりました。今日のウィリアムさんであれば、治せるものなのですね?」

「今の俺が扱うものは、修復に近いからな。………さあ、アンダードレスも脱ぐぞ」

「……………ふぁい」



服を脱ぎながら、ここにどうやって落とされたのかと、こちらであったことをかいつまんで伝えた。

ウィリアムは真剣な顔で頷き、そうかと呟いただけだ。


そうしてアンダードレスも脱がされてしまうと、ネアは自分が思っていた以上に酷い有様なのだと知ることになる。


応接間にあった鏡の前に立てば、肩には大きな痣があるし、脇腹にもかなり広範囲な痣がある。

おでこの上の方にも痣と擦り傷があったので、側頭部に当ったという認識しかなかった煉瓦は、そのあたりにまで当っていたようだ。



「…………こんな風になったのは、初めてです」

「リンジンは、この物語のあわいを利用する形で、必然の展開としての損傷という因果補強もしているだろう。………あの魔術師の固有魔術は厄介なんだ」

「ウィリアムさんは、あの方をよくご存知なのですね…………」



その言葉に、ウィリアムはどこか刃物のような目で微笑んだ。

決して穏やかな微笑みではなく、その表情には寧ろ冷やかな怒りすらある。



明かりのない部屋の中の青白い薄闇の中で、鮮やかな葡萄酒色の瞳は、はっとする程に深くて暗い。

漆黒の軍服は、かつての世界で語られていた死神のよう。


それなのになぜか、その身を危うくすると分かってはいても、覗き込みたいような不思議で艶やかな色であった。



「かつて、リンジンの魔術を使って、その国に守護を与えていた魔物の守りを崩した男がいた。……………先代の犠牲の魔物の伴侶が狂乱するまでの、最も大きな要因を作った事件だ」

「……………それはまさか、グレアムさんという方の奥さまの……………」

「ああ。リンジンの魔術は、一つの物語の……便宜上そのように表現するが、その物語の中で一度しか使えないものだ。事件であれば、勃発から収束までを一つの物語として区切り、その中の一つの要素を自分の好きなように書き換える。作家の魔術と呼ばれるもので、決して何もかもを改竄するという力ではないが、その筋書きや配役が書き替えられたと分ってはいても、修正をかけるのは難しい」



(………それって、まるで…………)



ネアはこの世界に来て、多くの高位の生き物を見たと思う。

その中であっても、ここまで理不尽な能力を持つ生き物がいただろうか。



「そんな、…………無尽蔵なことが出来るひとが、人間の魔術師でいたのですね」

「ラエタが栄えた頃はまだ、この世界も再生を果たしてあまり時間が経っていなかったからな。シルハーン曰く、成り立ちや能力が不安定な生き物が、誤って過分な力を持って生まれることも多かったのだそうだ。リンジンは、そういう魔物の一人と契約し、その力を引き継いでいる」




説明を受けながらも、ネアの傷の治療は進んだ。


頭の傷は表面が塞がっていたものの、薄いかさぶたのようになっているので、また何があってその傷が開くか分らない。


先程の傷薬の染みたハンカチを押し当てて傷そのものを治し、髪の毛をかきわけた頭皮の部分にウィリアムがそっと口付けを落してくれて、これでもう内側の損傷なども問題ないと保証してくれる。



(祝福の形を整えて治すから、口付けを受けなきゃいけないのが恥ずかしい………!)



肩も同じように、脇腹には傷薬よりも早く口付けを落され、ちょっと絵としてはかなり恥ずかしい状態だと、ネアははわはわした。

くすぐったいし恥ずかしいしでウィリアムの背中をばしばし叩きたかったが、今そんなことをしたら冷たい目で睨まれてしまいそうである。



横顔で覗いたウィリアムの葡萄酒色の瞳には、微かな白金色の虹彩模様が見えた。



(純然たる闇…………)



ふと、そんなことを思う。


闇色をした終焉はどこまでもが暗く艶やかで、いつものウィリアムは、冷たい光の色をした闇なのだ。


どちらの側面も恐ろしく美しいものだが、色彩を強く意識させるこの漆黒の軍服姿だと、表情や言動が冷たい割に、何とも言えない艶やかさがある。



「その魔物さんは、どんな方だったのですか?」

「良く分ってはいないが、王家の魔物という呼び名だけが残っている。書の系譜か、王家の為に記録などを改竄していた記録庫に住んでいたというから、そこで必要とされた資質のどこかで生まれたものかもしれない。リンジンが出会った時にはすっかり老いていて、その王家がラエタに併合されると決まった夜に、彼に守護を与えて砂になったと聞いている」

「…………その経緯を、どなたかがご存知だったのですね」



背中を調べられ、ネアは慌ててそう尋ねた。

こうして触れられることには奇妙な親密さがあり、それなのに今のウィリアムは見知らぬ人のような雰囲気もあるので、黙っていると心臓に悪い。



「ファービットの元になった魔物が、ダーダムウェルと親しかったからな。ダーダムウェルに師事していた時には、彼はまだ気弱な青年だったそうだ」

「………青年」



ここでネアは、やはり中身はそれなりの年齢ではないかと眉を顰めた。


元々長命な人外者なら兎も角、また、きちんと自分が老齢だと口にしているウェルバとは違い、年下ぶる少年姿のご高齢な人間は、たいへん残念だと言わざるを得ない。



「ラエタに併合された王家の王子だからか、王宮内での扱いはあまり良くなかったらしい。同じように王家から幽閉されていたことのあるダーダムウェルを慕ったようだが、彼は多くを恨むより愛する気質の人間だった。自分の憎しみを汲み上げて貰えず、不満を溜め込んだだけだったようだ」



それは、とても身勝手なことだ。


だが、ネアもとても身勝手な人間なので、そんなリンジンの憎悪の一端であれば、少しだけ分ってしまう。


ウェルバを慕い、彼が自分と同じではなかったことで苦しむのであれば、彼はただ幸せになりたいと願うばかりの人だったのだと思う。


(でも、同じものなら仲間になれると思って、同じではなかったから失望した………)



誰もが持っているものを眺め、自分と同じだと思った人が与えてくれず、自分の手の中にはないものに焦がれるのは、どれだけ惨めなことか。


でもそれは、得られないことを決して他者のせいにしてはならないものなのだ。




「ウィリアムさんは、ウェルバさんをご存知なのですか?」

「系譜の魔物達程親しくはなかったが、話は色々と聞いていたな。……………ああ、彼をこのあわいに譲ったことか?」


そう尋ねられ、ネアは目を瞬いた。

そんなつもりはなかったが、確かにその部分も気にはなっていた。


「言われてみれば、それも不思議ですよね。レイラさんにお願いされたのですか?」

「死者の国でも、俺があの魂をレイラに譲ったことを悲しむ者もいたが、彼が何者なのかを知る人間達が残っている間は、死者の国に置いておくのも危うくはあったからな」

「……………それは、ウェルバさんが復活薬の作り方をご存知だからですね」

「ごく稀に、死者の国に入り込む魔術師がいる。今代では、ラエタの復活薬は精製が出来なくなっているが、その知識を封じるのにはある程度の規則性があるから、その規則をすり抜けたところで、誰かがもう一度普及させる可能性はなくはないんだ」



復活薬が後世に残っていないのは、実は、その精製を禁じる誓約による理由も大きいのだそうだ。



(そうか。だから、誰かが再現してしまうこともなかったんだわ……………)



地上からラエタを滅ぼし、全ての復活薬と、その練成のレシピを失わせた後、精製の過程となるある工程の一つを、扱える者をぐっと狭めて、その知識ごと封じたらしい。


レシピを破棄しただけでは、復活薬そのものの錬成にならずとも、似たようなものはすぐにまた誰かが作ってしまうかもしれない。


そうしてそこから、また新しい復活薬が生まれてしまう可能性があるからこそ、過程の一つを封じてしまったのだ。


そこまで警戒したからこそ、ウィリアムは、その練成を成し遂げた最初の魔術師を、その知恵を授けられるかもしれない者達から遠ざけたかったのだろう。



(エーダリア様が、ラエタに落ちた時に復活薬を手に入れられればと言っていたのは、その薬そのものの効果を求めただけでなく、レシピの研究の意味もあったのかもしれない………)



その要求を誰も窘めなかったのは、どれだけエーダリアが信頼され、また、大事にされているかということなのだろう。

そこまでして封じられたものであるのに、近くにいた魔物達は、エーダリアがそう言うことを黙認したのだから。




「………これくらいか。動かし難いところはあるか?」


そう言われて、ネアは慌てて体を動かしてみた。


ぴょんと跳ねてみても、もう痛みはどこにもない。

すっかり嬉しくなってしまい、ウィリアムを見上げて微笑んだ。


「もうどこも痛くありません。ウィリアムさん、有難うございます!…………私がぼろぼろだったせいで、回り道にしてしまいました。ウィリアムさんは、体調などは大丈夫ですか?」

「俺は問題ない。それに、あのままダーダムウェルの魔術師の塔に向かうにしても、まだ怪物が現われるという条件をこのあわいが満たしていない以上、その扉は開かないだろう。であればまずは、君の傷を治すのが先決だったからな」

「…………と言うことはやはり、ウィリアムさんはまだ、怪物にされてしまった訳ではないのですね!」




(良かった。まだ怪物になっていないのではなくて、まだその指定もされていないみたい……!)



安堵のあまり、頬が緩んで微笑みが深まってしまう。



怪物にされなければ、討たれるという心配をする必要もない。

いそいそとアンダードレスやドレスを着直しながら、ネアは安堵のあまりに気が緩まないようにと自分を叱り飛ばしたが、ウィリアムがこうして無事だと分かったのであまり効果はなかった。



「それなら、ディノ達がここに怪物に出来るようなものを投げ込んでくれるまで待ち、そこからウェルバさんを呼びに行けばいいのです………」



首飾りの金庫からカードを取り出しつつそう言えば、ウィリアムはカーテンの隙間から窓の外を覗いた後、振り返って首を振った。



「時間はあまり残されていないと言っただろう?入れ物を失っただけで、リンジンはすぐにこちらに戻ってくるだろう。他の巡礼者達の動向も気になる」



その言葉を受け止めるのに、余分に何秒か必要だった。



ネアは一度目を閉じて深く息を吐き、締め付けられるように不安に軋んだ胸を押さえる。



「……………リンジンさんは、生きているのですか?……………もしかして、復活薬を持っているから?」

「いや、彼は、もうとうに肉体を失くした巡礼者だ。エヴァ………グレアムの伴侶の一件で俺がその体を焼いたからなんだが、あの魔術が惜しいと、誰かがそれでも死なないようにした。本来は肉体から魂が落ちたところで滅ぼせばいいだけなんだが、一定の条件を満たすと強制的に魂を安全な場所に逃がすようにしてあるな……………」



顎先に手を当てて、ウィリアムは考え込むような顔をした。

軍帽をかぶったままなのでその表情はいっそうに暗くなり、剣呑な雰囲気は僅かな凄惨さを帯びる。



「………ということは、リンジンめを滅ぼすことは出来ないのですか?」

「いや、それを可能にする魔術で条件付けされれば出来る筈なんだが、その手段が難しい。彼も、警戒をして自分の魂を守る術を、用心深くあちこちに張り巡らせている。周囲に蜘蛛の糸のように張り巡らせた魔術ごと、一度に消し去る必要があるんだろう」



(…………と言うことは、彼はきっとまた、ウィリアムさんを狙ってくるんだろう…………)



何とか起き上がっただけの状態で、あの少年に無邪気に覗き込まれた時のことを思い出し、ネアはぶるりと身震いした。


するとなぜか、寒がっているとでも思われたのか、ウィリアムにひょいと抱き上げられてしまう。



「ウィリアムさん?」

「すまないな。冷えただろう」

「い、いえ!…………ただ、怖くなっただけなのです。私は、あのリンジンさんがとても苦手でした。………上手に説明出来ませんが、あの方のしたたかさや冷酷さには温度がないのです。とりとめのない悪意のようで、ましてやそのように体もないのであれば、…………どうやって打倒せばいいものか……………」



そう語尾を頼りなげに彷徨わせたネアを、ウィリアムは一度ぎゅっと抱きしめてくれた。

いつものウィリアムより言動は堅いし表情も冷やかだが、ここにいるのはやはり、ネアの仲良しのウィリアムである。



「リンジンは、俺が対処する。………君は、ダーダムウェルを呼び出すことに専念すればいい」

「…………怪物さんは」

「あの影の住人を滅ぼせば、条件を満たすだろう。シルハーンが召喚に応えてくれるのなら、これ以上の策はない」



事も無げにそう言ったウィリアムに、ネアは真っ青になって首を振った。

震える手でウィリアムの胸をだしんと叩いたが、鮮やかな葡萄酒色の瞳は揺るがない。



「…………い、嫌です。他に何か手段はないのですか?!せっかく怪物にされてしまうのを免れたのに、どうして自分で怪物になろうとするんですか!」

「ネア、この物語の輪から出るのは、早ければ早い方がいい。説明しただろう?リンジンの振るう魔術は、規格外なんだ」

「……………っく。………だからこそではないですか。あの街の人達の状態をウィリアムさんも見たでしょう?!井戸に辻毒を投げ込んで、街の人達をあんなものに変えてしまったのはリンジンさんです。あれはきっと、この国に用意された対ウィリアムさん用の障害物だと思うのです」

「……………ああ。君が彼等を傷付けるなと言った時、そういう意図だろうなと思った。どうやってこのあわいに直には触れられない筈の彼がそれを成したのかは謎だが、リンジンの好むやり口だ。…………ネア、だからこそだ」

「……………だからこそ?」



目の奥がじわっと痛くなり、ネアは滲んでしまいそうな涙を何とか押しとどめる為に瞬きをする。


今、こうして触れられる距離にいて捕まえているのに、ウィリアムの心はもうどこか遠くを見てしまっているようで怖かった。



(ウィリアムさんは、もう自分がどうするべきかを決めてしまって、その上でこのあわいに入ってきたんだ………)



「だからこそ、俺は自分を怪物にして、君をこの物語から出したい。リンジンが最も好むのは、仲間や家族、恋人や伴侶を引き裂き、殺し合うように仕向けることだ。エヴァレインの事件がまさにそうだった。リンジンにその罠を敷かせたのはクライメルだし、その当人は終盤まであの国の滅亡には関わらなかった。…………だが、グレアムの伴侶が狂乱するように仕向け、俺やギード、或いは親友だったローンや伴侶であったグレアムと、殺し合わせようとしたのは、クライメルの道具に過ぎなかったリンジンだ。あのグレアムでさえ、その流れを変えることは出来なかった…………」



ふっと、唇を寄せられ頬に口付けが落ち、ネアは涙が零れそうになる。

そんな風に諦めている筈はないのだけれど、まるでお別れの挨拶のように思えたのだ。



「……………リンジンは、俺に、君を殺させようとしているんだろう」

「……………わたしを……………?」

「彼が君にさせようとしたことは、恐らく、このあわいで大きな力を持つダーダムウェルに自分が成り代わることの手助けだろう。手を下すのがウェルバであれ、成り代わったリンジンであれ、ダーダムウェルはそこで怪物と対峙しそれを滅ぼす。………物語の筋として、そうであることは知っているな?」

「………………ええ」

「だが、あの物語の初版本はとても短くて、子供は無事に塔に辿り着き、その子供の勇気を讃えたダーダムウェルが怪物を倒したとしか書かれていないんだ。俺は、…………リンジンの好む手法が、当人ではなくその周囲を崩すものだと知っている。だから、君がダーダムウェルのあわいに落とされたと知った時から、その物語の書かれ方をずっと危ういと思っていた」



(それはつまり、…………)



それはつまり、怪物は斃されたものの、魔術師を呼びに行った子供は結局死んでしまったというような顛末もあり得るのだろうか。



「だが、一番危ないのはそこじゃないんだ。俺が君を殺すことだけが狙いであればまだ、あの………きりんの絵を使うなりして、俺を退けさせることも出来る。俺が、自我のある内に自分を無力化し、君を守ることも出来るだろう。とは言え、彼がダーダムウェルに成り代わった場合、怪物を倒した後に彼が君を殺さないとどうして言える?」



ネアはここで漸く、ウィリアムの言いたいことが分ってきた。



(まず初めに、私もウィリアムさんも、あの魔術師の手の内ではナイフになるのだわ。双方が揃ってしまえば、彼は必ず私達が傷付け合うように組み合わせてくる。…………あんな風にあまり親しくないように振る舞ってはいても、ウィリアムさんはその企みが避けられるとは思っていない…………)



多少危ない橋を渡ってでも、ダーダムウェルの魔術師の物語を解決させてしまえれば、リンジンの打てる手数を減らすことが出来る。

ウィリアムは、そうしたいのだろう。


そもそもここにウィリアムが来なければ良かったと言いたいところだが、それは最初にネアがここに呼び落とされてしまわなければ、ウィリアムがそうしなければならないという結論には至らなかった筈だ。



(ウィリアムさんは、リンジンさんがどういう気質の魔術師なのかを知っていた。………彼の手口を知った上で対処が出来る人が必要で、早急に怪物役になれて、その上で、恐らく私を途中まで守ることが出来て、尚且つ怪物にされても私を傷付けないような存在も必要だった……………)



それならば自分が行くしかないと思い詰めてしまったのは、過去に友人の伴侶が狂乱させられるに至った事件の糸を、リンジンが引いていたからなのではなかろうか。


ウィリアムはずっと、その時に壊れてゆくものを救えなかったことを悔いていたのだろう。

だからこそ、ネアのことは何としても守ろうとしてくれるのだ。



(そして誰でもなく、自分がここに駆け付けるべきだと思ってしまったのは、…………ウィリアムさんを見付ければ、確実にリンジンさんが自分を標的にすると分っていたからだわ………………)



一つ、決して外さない要素を据えることで、ウィリアムはここでもリンジンの手札を狭めようとしている。

その為の最大の囮として、自分を壇上に上げてしまったのだ。



「もし、シルハーンが誰も君に成り代わることは出来ないという制約を定めていなければ、彼は君の存在すら奪っただろう。……………グレアムの伴侶は、契約を与えていた子供が、リンジンに成り代わられたんだ」

「……………っ、………であれば、危ないのは私だけではないのでしょう?!エーダリア様達だって、きっと………」

「ああ。リンジンがあわいを自由に出られるのなら、或いは。だが、今回、彼が標的にしたのは、恐らく俺で、……アルテアやアイザックもそうかもしれないが、…………エーダリア達の有用性には気付いていないだろう。だからこそ、今回で必ず全てを終わらせる必要もある。…………彼の能力にも限界があるんだ。彼が作家としての書き換えを可能にするのは、あくまでも自分と同列の人間に纏わる事象だけになる」



カーテンの隙間から差し込む光が、いつの間にか弱くなってきた。

夕暮れに向けて、陽は徐々に傾き始めていた。



「…………では、ウィリアムさんには手出しは出来ないのですね?」

「作家としての魔術ではな。他の魔術も扱えるが、それは他の魔術師と大差なく、そこまでの脅威じゃない」

「……………だからこそ、あのひとは、誰かの大事な人を狙うのですね?魔物さん達をどうこう出来なくても、魔物さんたちが大切に思う人間であれば、損なうことが出来るから…………」

「…………グレアムの伴侶の件は、リンジンのしたことだけが全ての理由ではない。………あの当時のその国は、世界的には重要な拠点ではなかったことと、王族達の美しさと無垢さ故に、多くの高位者達の遊び場にされた。そうして蹂躙されたことで、あわいの巡礼者が介入し得るだけの隙も生まれたんだろう。…………だが、リンジンの一手が最後のひと匙だったと、…………俺は思っている」



抱き上げたネアをあやすように軽く揺すり、ふっと微笑んだウィリアムは美しかった。


勿論、しっかり見据えればとんでもない美貌の高位の魔物なのだが、いつものウィリアムにはどこかそのような特等の資質を曖昧にするような気配がある。


けれども今は、あまりにも隔絶され、壮絶なほどの凄艶な美貌がそこにあった。

終焉というものの鮮やかさは、決して奪ってゆくものだけの領分ではないとでも言うように。



終焉のその美貌は、去りゆくものも美しく際立たせるのだ。




「だからもしここで、俺が損なわれてリンジンと共に残されても、俺は彼と一緒にあわいに閉じ込められるだけだ。その内に蝕が明ければ、自分でどうにか出来るだろうし、それが叶わなくても、世界の仕組みに必要な俺を地上に戻す為に、残された者が手を打ってくれるだろう……………」

「………蝕の変化がなければ、…………本来のウィリアムさんなら負けなかったのですか?」

「……………まぁ、俺は終焉だからな」

「きりんさんでは、倒せません…………?」

「熊の手や虎の尾達は、悪変を美徳としている。効果がない可能性が高い」

「…………そんな」




その後ネアは、ウィリアムが少しだけ猶予をくれたので、慌ててディノに、カードからたくさんの報告をした。


リンジンという魔術師に出会ってしまったこと、既にもう、獲物としてある程度の認識をされていること。


そしてウィリアムが助けに来てくれたことと、ウィリアムの懸念に、彼がしようとしていることまで。



胸が潰れるような思いでその返事を待ったが、カードにディノの文字が浮かび上がることはないまま、時間が来てしまった。



ウィリアム曰く、物語のあわいがその顛末に向けて転がり落ちているので、外の世界との時差はより顕著になっているかもしれないと言うことだ。


ネアが祈るような気持ちで返事を待った二十分は、向こうでは一秒にさえ満たないのかもしれない。



「すまない、ネア。もうこれ以上は待てない。……………行こうか」





そうして、悪夢の時間が始まるのだ。



あの黒い車がまた、ひっそりとその悲劇の向こう側に控えていた。












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