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328. 知らない人にはついてゆきません(本編)




カーン、カーンとブンシェの街に鐘が鳴り響いている。


火事の時に鳴らされる半鐘の響きに似ているが、鐘が堅いのか響きそのものはやや短い。

あまり魔術が潤沢ではない土地だからか、ヴェルクレアにあるような要所ごとの魔術通信施設などはないようだ。


だからこそ様々な鐘の音があって、情報の伝達を鐘の音で行う為に使い分けているのだろう。




(空が、晴れているのに暗くなってきた…………)



この不思議な翳りは、幾つかの事象に於いて前兆のようなものとして何度も見たことがある。


陽が翳るというのは、魔術的な異変であることが多いが、眩暈のようにくらりと世界が仄暗くなる瞬間の気持ちの悪さは、今でもまだ慣れないものだ。



「ああそうだ。疫病かもしれないから、配布されている水薬を飲んでおくといいよ。近くの国からの宣戦布告とかじゃないといいんだけど。…………あの黒い靄はなんだろうなぁ。触れたり吸い込んだりしたら危ないのかなぁ…………」

「…………このようなことは、珍しくはないのですか?」

「うーん、近くに人間じゃないものが住んでいる森もあるし、ブンシェは畑の実りが豊かだから、それを狙う周辺の国もあるだろうしね。ここじゃなくて、もう少し王城の方に行けば、騎士達が何か知っているかもしれないんだけど、馬車通りを進めるかなぁ……………」




こうして薄暗い場所に隠れていると、少年の瞳の色は淡く藍色がかかったような複雑な色に見えた。



ダーダムウェルだと名乗られてしまい困惑はしているが、ネアの目には、この目の前の少年が嘘を吐いているようにも見えない。


もしこれが罠であるのだとすれば、かなり狡猾な人間だと覚悟をした方がいいだろう。



(どうしよう。………疑念を抱いてる、或いはまだ判断をしかねていると悟られないように、名前を呼ぶのを避けたいな…………)




名称は認識だ。


以前に言葉の魔術のあれこれを教わった際に、そう聞いていたことを記憶の隅っこから引っ張り出した。


だからネアは時に偽名を使うし、名乗らないということもある。

知るということは、繋がったり、明け渡したりすることにもなり、呼びかけは承認に、そしてその魔術を固める為の楔にもなる。



直近では、ふわまるがいい例であった。


ふわまるの場合は言葉の魔術の領域ではなく信仰や犠牲の魔術の領域のものだが、蝕という災厄に対して救いとなる存在があればという願いによって派生し、そのようなものが居るらしいという認識によってその存在が更に強固なものになる。


だから、今年のリーエンベルクでネア達が出会ったふわまるは、最初に確認された個体より大きな力を有していたというのが、ガレンの見解だ。




(私は何度か、言葉の呪いで怖い思いをしている。………咎竜や、雪喰い鳥の試練の時のように、言葉の魔術をかけられないようにしないといけないのに……………)



そこでネアは、周囲を気にしている素振りを演じながら、頭の中で可能性と理由を組み立てた。


この少年をダーダムウェルとした場合、ウェルバがダーダムウェルである状態から、何が変わるだろう。



(まず第一に、このあわいで絶対的な力を持つのがダーダムウェルの魔術師なのだから、その名前を肯定して呼びかけることで、私は、この少年をダーダムウェルにしてしまうのかもしれない…………?)



物語の中のダーダムウェルは、大きな力を持つ偉大な魔術師であるが、その魔術師を動かすのは魔術師を良く知る主人公の子供である。



その子供が魔術師に助けを求めにゆき、初めてダーダムウェルの魔術師は怪物の討伐に乗り出すのだ。



と言うことは、物語のあわいの規則性がどこまでのものなのかは定かではないが、ダーダムウェルの魔術師をダーダムウェルの魔術師たらしめる決定権は、子供役が握っているという見方も出来なくはない。



もしその効果を、この少年が狙っている場合。



(偶然だけれど、私が一緒に行動していたグレーティアさんは、本物のダーダムウェルの魔術師であるウェルバさんをよく知っていたし、ムガルさんもその容姿を認識していた………)



そう考えたネアは、自分はこの少年が本物のダーダムウェルの魔術師だと思っていないのだなと、はたと気付いた。



(であるならば、…………)



ネア一人であったら慎重にならざるを得ないが、外側からも補完された情報によってそこは間違いないと見てもいいのではないだろうか。


本人確認だけであれば、本物が即ちこの物語のダーダムウェルの魔術師ではないという可能性はあっても、ウェルバの場合は、実際にこのあわいで怪物と対峙してきたという話を聞いている。



(例えば、あのウェルバさんでなくてこの少年がダーダムウェルなあわいに変化したという可能性もあるけれど………)



どんな思惑や仕掛けがあるにせよ、やはり、この見知らぬ少年をダーダムウェルと呼ぶことは避けるべきだ。




「ここから馬車通りを進まずに、塔に向かう道は他にもあるのでしょうか?」



そう呼びかけたネアに、銀髪の少年は不審そうな顔をして振り返った。



「……………まだ僕のことを疑ってるの?」

「そうではないので、是非に塔まで行く術を一緒に考えて欲しいのですが、そもそもお名前に関しては、安易に呼ぶことが出来ないのです。名前というものはその音でこちらに繋がってしまうような特別に親密なものだと、そう教えられていますから。故に私は、自分の婚約者のことも名前のままの全部では呼ばないくらいなのです」

「何その面倒な認識。僕がいいって言ったら、それはもう一つの承認だよ。名前を呼ばなければ、いざと言う時にこちらに呼びかけが届かない可能性もある。君にそんなおかしなしきたりを教えたのは誰なのさ」



不服そうにそう言われ、さて誰だったかなと惚けて首を傾げた。



跳ね返りがあっても怖いので、明確に嘘だということは言わないでおいたが、ある程度は誤解を与えるように文章をくっつけている。

ネアが婚約者の名前をフルネームで呼ばないのは、万象という呼び方は並べる必要がないと言われたからなのだが、今回はそれも利用させて貰った。



真実を織り交ぜて喋ると、尤もらしく聞こえるのだそうだ。

それは、よく迷子になるネアが、魔物達から教えて貰った処世術である。




「私は、こう見えてもとても頭が固くて心が狭いので、新しい規格を易々と受け入れることは出来ないのです。ご不便でしょうが、どうか許して下さいね。そのような魔術なるもののお作法はさっぱりよく分りませんので、身についたことだけを間違えないようにするのが、せめて私に出来ることなのですから」

「言っておくけど、柔軟に対応しないと死ぬこともあるよ?」



その言葉は決して脅すような言い方ではなかったが、そんな言葉を真摯な目をして言われると、捻くれた人間はたいそう警戒してしまう。



「まぁ…………それは怖い事ですね。しかしながら、私のように頭の固い大人は絶滅危惧種のように扱われ、やがては時代の波間に消えてゆくのも世の常なのでしょう…………」

「え、ちょっと待って。君のどこが大人なのさ。子供だろ」



そう言ってしまってから、少年は少しだけ瞳を揺らし口元を歪めた。


彼は今、何か不都合なことを言ったのだろうかと考え、それはネアを子供だと認めた部分なのかもしれないと考える。



(そっか、ここで大人だと頷かれてしまったら、私が子供役を担えない可能性もあったのかもしれない。………危なかったわ……………)



ひやりとしながら、ネアは決意した。



(この少年から、少しでも早く離れよう。どうしてだか、あまり会話を重ねない方がいいような気がする…………)



噛み合わせた会話は長続きしてしまうので、まずは会話が成り立たない相手だと認識して貰おう。

離れられるかどうかと考えると可能性は低めだが、愚かで脅威にもならない、面倒臭い相手だと思わせるのだ。




「ですが、同じ子供でも、私の方がお姉さんに見えますよね?ちび銀色さんは、強がっていますが内心は儚く恐怖に震えているかもしれませんので、ここは年長者の私が作戦を立案します!」

「…………なにその名前」

「ちびこい銀髪の少年ですので、ちび銀色さんです!可愛らしいお名前ですし、これならお名前を呼ばずとも、意志疎通に不都合が生じません」

「そんな愛称は認めないし、そもそも僕が恐怖に震えているってどういうこと?」

「…………まぁ、あなたが魔術師さんだとは言え、そのままのお歳であることは変わりないのでしょう?であれば、どんな力があったとしても、どれだけ世慣れていたとしても、子供は子供なりの恐怖感というものを抱くものなのです。でもあなたは、それを押し隠して冷静に振る舞える、しっかりした方なのですね」



ネアがそう言った瞬間、ふっと緑色の瞳が揺れた。

けれどもそれはすぐに失われ、彼は肩を竦める。


「………………子供ねぇ」




勿論、こんなお喋りをしている場合ではない状況の筈なので、ネアの言動はたいそう空気の読めない奴に思えることだろう。


話しが通じないとなると、やはり面倒臭さが先に立つのか、少年の言動からは無邪気さが徐々に剥がれ落ち始めた。

苛立ちという感情は、とても良いヒビになるのである。




「それともまさか、…………実際にはお歳を召しているのに、愛くるしい少年を装う、残念な変態さんだったりしますか?お子さんのふりをして、ぎゅうっと抱き締めて貰ったり、頭をなでなでして貰うのを期待していたりは………」

「………………やめて。何その変態」

「こんな事件に巻き込まれた挙句、変態の餌食になるのだとしたら、もはや涙も出ません。……………幼児退行するような特殊な趣味はありませんね?」

「……………お姉さんさ、もしかして僕を怒らせたいの?」



そう言った少年は若干本気で苛立っているように見えたが、ネアは構わず続けることにした。


彼が自分は子供だと肯定すればする程、相手は小さな子供だと考えて行動しているというネアの前提が扱い易くなる。

大魔術師を名乗ろうとする相手に対して主導権を握るには、この切り口しかない。



「いえ、これでも私は立派な淑女ですので、さすがにそのような方だったら一大事だと思ってしまったのです。しつこく確認してしまってごめんなさい」



声を鋭くした少年にはっとしたように、ネアは慌てて謝る素振りをした。

その謝罪が上手く効いたものか、少年の声音が少しだけ尊大なものになる。



「……………お姉さんさ、ちょっとおかしいとか、変わってるって言われない?そんな要領の悪さで、貴族の中で生きていけるの?」

「ふふ、それはよく言われますよ。でもそのような認識は、私のお腹をいっぱいにするものではありません。だから私は、私を幸福にし、そして満腹にしてくれるような、私自身の欲に従い行動するのみなのです。所詮人間というものは短絡的な生き物ですから、そのくらい自分を大事に甘やかしてこそ、穏やかな生涯を送れるのでしょう」



異質であるということを同じ人間から指摘されるのは、実は久し振りだ。


信頼関係が築けていない頃であっても、エーダリアはそのような部分を攻撃するようなひとではなかったし、誰かに同じような響きを向けられても、それはただ、自分とは違うものに驚いた人が発する、純粋な感想であったりする。



この世界に来てから、規格外としての指摘はあれど、それはネアを社会からの落伍者にはしなかった。


であれば自分は、久し振りに聞いたその嫌味に少しだけむっとしたのだろうかと考え、そんな自分を窘めつつ、いい具合にこの少年は自分のことを侮ってくれたのだろうかと緑色の瞳を覗き込んでみた。




(私がダーダムウェルの名前を呼ばない以上、思い通りにいかないことに苛立ちを感じられてしまうのなら、侮られるのが一番いい)



侮ったり見下したりしている相手であれば、その言動を管理出来ずとも、苛立ちが危機感や警戒には繋がらない。


だからネアは、そうやって言いなりにならない愚かな生き物だと、逃げ出すだけの時間を稼ぐ間、見逃して欲しかったのだ。




(そして、塔の方に向かうということについては、邪魔は入らないと見てもいいのかな…………?)



自分もそちらに向かうと話していたので、ネアがそちらに向かうということを制止は出来ない筈である。




「さて、ここにいてもいつ巻き込まれてしまうか分りませんし、ひとまず塔に向かいましょうか」

「お姉さんには見えていないみたいだから説明するけど、ある程度の防壁は立上げているんだよ?今はまだ、動かない方がいいんじゃないかな…………」



(そうきたか!…………むむぅ)



であればネアは、理論的な思考を持たない、臨時脳筋女子としてささやかなデビューを果たすしかない。


嫋やかな乙女には屈辱的なことだが、最も他者の意見を聞かないタイプの、暑苦しい人種になるのだ。



「いえ、じっとしている方が思い悩んでしまって怖いものなのです。ここはもう、体力勝負で塔まで強引に押し通るのが一番ではないでしょうか!」

「ねぇ、………何で力押し一択なのさ。夜までには、貴族達の区画から騎士が派遣されると思う。鎮圧を待った方が利口だね」

「ご存知の通り、私は待ち合わせをしているのです。あまり時間はかけられません」

「だったら、僕を上手く使うことだよ。魔術師やまじない師は、依頼がなければその力を使えないものも多い。君が僕の名前を呼んで、正式に力を貸して欲しいって依頼をするのなら、あんな塔に行くことぐらい簡単だからね」




真っ直ぐに、澄んだ緑色の瞳を向け、そう伝えた少年は、無垢でまっさらなものに思えた。


何度観察してみても、その言動に苛立ちを滲ませても、彼はずっと良くないものらしさな気配を纏わない。


だからネアも迷ってしまうのだが、このような無垢で優しいものに見えても、人間に害を為す生き物達はこの世界には沢山いたではないか。




(………ええと、何だっけ、あの…………お仕事で出会ったやつ!)



「…………いいえ。私はこの通り無知ですから、自分の知らないものに私の問題を委ね、背負わせてしまうことは出来ないのです。…………ところで、ちび銀色さんは、…………私の知っている魔物さんに似ていたのですが、………ええと、もけもけではなく何でしたっけ………家だけど餅兎的な……………」

「……………もけもけって獣だよね?やめて欲しいんだけど」

「…………むむぅ。何か、これに似ているというとてもしっくりと来る生き物が居たのですが、前の部分を喋っている内に忘れてしまいました。ご存知かもしれませんが、愛くるしい毛皮生物は正義ですよね!」

「ちょっと良く分らない……………」



少年が呆れているのを感じながら、ネアは二人の間の距離を稼ぐ目論見もあり、通りの方をこそっと覗いてみた。

顔を出した途端、いきなり何かが飛び出してこないよう、慎重に周囲を窺う。



するとどうだろう。



馬車通りは先程までの活気が嘘のように、閑散としているではないか。



転がり落ちて中身が散らばった花籠や、繋がれた馬が暴れたのか、通りの真ん中まで出てしまっている馬車があり、倒れた荷車から籠が転がり落ちて、無残に地面にこぼれた麦を見ていると、胸が苦しくなった。



そうして、あちこちに黒い煤の塊のようになった人々が倒れ伏している。



「…………起き上がって動いている人達は、どうなってしまったのでしょう?」

「辻毒に取り込まれたんじゃないかな。捕縛して祟りものにされるようなものだね。襲ってくると思うよ」



(辻毒…………。随分と断定的に言うんだな…………)



「…………空気感染します?」

「さぁねぇ。僕はこの通り、今はこんな路地裏に隠れているだけだから」



それは多分、ネアに対する皮肉だったのだろう。


知恵を借りたければ、正統な扱いをしろとそう言いたいのだ。

とは言えここにいるのは、お恥ずかしながら限定の脳筋女子である。

脳筋女子という生き物は、勿論そんな言葉裏を読むことは出来ない生き物であった。



「ふむ。だいたい事情は把握しました。強行突破します」

「……………は?」

「まずは私が、しゃっと塔まで走りますので、ちび銀色さんは、ご自身のペースでこちらに来て下さいね」

「………………え、君馬鹿なの?」

「上手くいかなければ、そうなのかもしれません。ですが、うっかり辿り着けてしまう可能性もあるので、その場合は英断ということになるのでしょうか。…………ちょっぴり、物語の主人公のようで恰好いいですね!」



ネアがそれも悪くないぞとふんすと胸を張れば、少年は呆れを通り越して、若干引いたような目をしてこちらを見ている。


その眼差しに微かな嫌悪すら浮かんでいるのは、このような選択肢が彼の中にはないからなのだろう。



(……………引き離せるといいな。少しでもいいから、一人きりになれるところが欲しい。これだけ大規模な事件になるのだったら、首飾りの金庫からあのケープを出して羽織っておけば良かった…………)



「だとしても、水薬は飲んだ方がいいよ」

「…………お薬でしょうか?」

「家にあるでしょ、配られた水薬」

「……………水薬」

「仕方ないな、分けてあげるよ。感染予防薬や呪い避けになるんだ」



唐突に今度は得体の知れない薬を勧められ、ネアは震え上がった。

ここまで来ると、お断りするにもその理由が足らなくなる。



「は!道が開けました。今です!!」

「ちょっと…………?!」



勿論見ず知らずの人から貰った薬を飲んだりする訳もないのだが、若干誤魔化すことに限界を感じていたネアは、びゃっとその場から離脱することにした。



幸い、この路地への入り口のところで結界のようなもので跳ね返されることはなく、馬車通りに躍り出る。

ざっとブーツで石畳の道を踏みしめると、そのまま塔に向かって真っすぐに走り始めた。


ばさばさとスカートを翻して走るのはあまり理想ではないのだが、こちらに気付いて集まってきた黒い靄のような影に捕まらないよう、素早くかなりの距離を駆け抜けた。



(こ、怖い…………!!)



すっかり黒い靄のようになってしまった住人達は、体の内側がちらちらと赤く揺れている。

ネアは、死者の国で見た花売りの姿を思い出し、背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、がむしゃらに走った。



力いっぱいだしんと石畳を踏みつけても、お気に入りのブーツはびくともしない。


爪先も余裕があるし、とは言え走り難いこともないし、こんなブーツを持っているだけでもどれだけ救われているだろう。


通りを覗いた時に予測していた通り、黒い影に成り果てた人達の動きはそこまで俊敏ではなかった。


襲ってくるのは一番距離が近くなったその一度きりだけで、延々と追いかけてくるということもないようだ。

自我を損ない彷徨うその姿は見ている分にはとても怖いのだが、掃除婦に追いかけられた時のような危機感には至らなかった。



「…………ぎゃ?!」



そんなことを考えていたからか、ネアは、馬車の横から飛び出してきた影に捕まりそうになる。


横跳びで躱したもののずしゃっと足が滑って転んでしまい、じくじく痛む膝に怯えながら立ち上がった。

その隙に後ろから覆い被さろうとしてきた影の手を慌てて逃れ、更に襲いかかってきた四・五人の影の手を辛うじて逃れてまた走り出す。




(大丈夫、この感じだと血は落としてない………)



立ち止まって膝の状態を見たかったが、そんな余裕はなかった。

幸いにも、冬物のドレスを着ているし、薄手ではあるもののタイツのような靴下も履いている。


膝の痛みからすると、スカートは破れているかもしれないし、患部は擦り剥いて出血していそうな気もするが、布で覆われているので転んだところに血を残してはいないだろう。



ばくばくする胸を押さえて、冷静になるようにと自分に言い聞かせながら走る。

ちょうどこのまま逃げ切れるだろうかと考えた直後に、無様に転んだのは辛かった。

何とか奮い立たせている心が、挫けそうになってしまう。



またすぐに正面に黒い影が現われ、ネアは、いっそ予め倒しておこうかとも考えた。



「……………あ」



その瞬間に、ふっと頭の奥の方で閃く何かがある。



こんな風にブンシェの人々が災厄に見舞われ、怪物の出現以前に辻毒だとあの少年が言ったものによって損なわれなければならなかった理由が、おぼろげに見えたような気がしたのだ。




(多分、…………この騒ぎは、仕掛けなんだ…………)




そう考えてぞっとしたところで、近くに固まっていた黒い影達を歩道の方に回り込んで回避した。



通り難いところは、荷馬車の上に上がり込み、そのまま御者台を踏み越えてまた通りに飛び降りる。

こんな状況で遠慮などしていられないし、足を持ち上げて馬車によじ登ることを恥ずかしいと思う程に柔ではない。



後少し走れば、道が塔の前の広場に向けて、ゆるやかに左側にカーブするところに差し掛かる。



道が直線でなければ、背後にいるあの少年から身を隠すことも出来るかもしれない。

どこか死角になるようなところでケープを取り出せばいいのだと思えば、ぐっと固く噛み締めていた唇が僅かに緩んだ。



こんな風に走るのは、とても居心地が悪かった。



この黒い影になった人々の間をすり抜けなければいけないし、背後から、あの得体の知れない少年に観察されているような気もする。

いよいよ塔の下まで続く曲線路に入れるというだけでなく、遠くからも見付けられ易い大通りを抜けられることが、何よりも嬉しかった。




(あと、もうちょっとで……………)



ひゅっと、何か硬いものが空気を切る音。

がつんと、もの凄い衝撃を受けたのはその直後だ。



「……………っ?!」



あまりの衝撃に吹き飛ばされるように体が浮き、そのまま落下した固い石畳に体をしたたかに打ち付ける。

何か堅い木材のようなものが、どこからともなく飛んできて、ネアの側頭部に直撃したような感じがした。




「……………っあ、」




頭から血がたらりと流れ、地面に落ちそうになる。


慌ててその血を袖口で拭えたのは、血を奪われてはならないという本能的なものだった。

意識が朦朧としたままではあるが、体を丸めるようにして袖口に縫いとめられたビーズを一つ噛み千切り、奥歯でがりっと砕いて飲み込む。


するとすぐに、出血量が多くなりそうだった頭の傷が気にならなくなった。



この袖口のビーズ装飾にしか見えない傷薬は、王族用の解毒剤の運用を真似させて貰ったものだ。



エーダリア達は王都にいた頃に使っていたものだが、コロールには薬や栄養剤を特殊な加工でビーズにする職人がいたらしい。

そこで幾つかの解毒剤や傷薬をビーズ加工して貰ったというエーダリアから、蝕の前にと何粒か分けて貰っていたのだ。



昨晩の内に、このドレスの袖口に縫い付けておき、実は髪の毛の中にも髪を通して結ぶようにした状態で隠し持っている。

体が思うように動かせなかったり、金庫の存在を明らかに出来ない時には、かなり重宝するものだ。



でも、傷薬を取り込んでもまだ、視界はぼやけたままだ。



「………っく。………っふ、…………」



くわんくわんと揺れる視界に、何かが直撃した左側の視界がぼやけ、涙が滲む。

立ち上がろうと体を動かすと猛烈な吐き気に襲われ、体を折り曲げて呻きたくなった。




(ああ、もう私は、怖くても死ねないのか…………)




ふつりと浮かび上がってくるのは、そんな呟き。



昔とは違い、怖くても痛くても、歯を食いしばって踏み止まらないといけなくなった。


それは例えようもなく恐ろしいことに思えたのだが、生き延びた先で大事な魔物を抱き締めたり、明日は何をしようと考えて幸せな気持ちで眠りにつく夜を考えれば、目先の欲が優先されてしまうのが人間のどうしようもないところだ。



(でも、死ぬよりも、ディノの所に帰りたいな。………また美味しいものを食べて、部屋に買い揃えた素敵なものに囲まれて、贅沢な気持ちでごろごろしたい……………)



そう思えば目の奥が熱くなる。

そんな風に思える相手や、大事な居場所なんて、もうずっとネアには手の届かないものだと思っていたのに。



(……………そんな贅沢が出来るのだから、もう少しだけ頑張らなきゃだ)



だから、吐き気を飲み込んで何とか奥歯を噛み締め、守護がなければずたぼろだったかもしれない体に鞭打つと、ネアはよろよろと立ち上がった。


しかし、立ち上がった瞬間に何かに足を取られ、ずだんともう一度転んでしまう。

したたかに肩と膝を打ち小さく呻いていると、すっと人影が落ちて、慌てて体を起こした。




あの黒い影が近付いてきたのかと思ったのだが、こちらを覗き込んでいるのは先程の少年である。


心配そうに緑色の目を曇らせているが、その表情はあまりにも整えられ過ぎていて、不自然で冷たく見えるような気がした。



「あーあ、傷だらけだね。言わんこっちゃない」

「少し、仕損じました。……………正面突破したことを後悔していますが、途中で引き下がれません………からね」



こんな風にすらすらと答えるだけでも、酷く消耗した。

胸が痛くて、足首は後でぱんぱんに腫れそうな、鈍く鋭い痛みがある。



でもなぜか、この少年の前ではそこまで消耗しているのだと見せてはいけない気がしたのだ。

何とか痛むお腹や胸に力を入れ、まだまだ意識は明瞭なのだと伝わるように苦笑してみせた。



「…………びっくりするくらい、頑丈だね。でもやっぱり、僕の手を借りた方がいいよ。これでも、道筋を逸れていく物語をもう一度立て直すのは厄介なんだ」



(……………ああ、ここまでか)



だから少年がそう告げた時、ネアは、悪足掻きもここまでだったのかと悲しくなった。


彼が自分はどういう思惑でここに居るのかをネアに明かしてしまえば、もう逃げ道は塞がれてしまう。

何もわからないふりをして逃げ出すことも、気付かない素振りで目を逸らすことも出来なくなれば、魔術というものが扱えないネアは、あまりにも不利であった。



「………物語を、立て…………っ、立て直しているのですか?」

「ははっ、驚く程鈍いんだね。…………そうだよ、僕はこの物語を立て直してるんだ。せっかく色々と準備をしている間に、誰かが余計なことをしてくれたからね。…………僕の偽物が、君に先に出会っておかしなことを吹き込んだって分かってる?君も、君と一緒に居たあの妖精も、君達があの偽物に上手く転がされてこんなことになったんだよ」

「……………あなたは、私達を見ていたのですか?」



そう尋ねてじっと見上げれば、まだ霞んだ目に、微かに苛立たし気に目を細めた少年の姿が映った。



「さぁね。…………君はあの妖精を知っていたんだろう?でなければ、…………いや、そんなことはどうでもいいか。あの偽物にはどこで会ったの?あいつに、何を吹き込まれてこんなになってまで、僕の手を拒むのさ?……………僕にもね、色々と都合があるんだよ。せっかく満願成就のその夜を迎えられるところだっていうのに、君はいつの間にか僕が演じる筈だった配役を盗んでいるし、その修正にも協力的じゃない」



ここまで来ればもう間違いはないような気がした。


この少年と二度も偶然の邂逅を果たし、彼が自分はダーダムウェルの魔術師だと言い出したその時からずっと、ネアは、一つの可能性について考えてきたのだ。



(でも、この人は、転属して姿を変えたグレーティアさんの正体に気付いてはいないみたい?………会話が聞こえるようなところにまでは、近付けていなかったのだろうか……………)




であればもし、それは最悪の展開に他ならないが、この目の前の少年がラエタの魔術師の、それもウェルバやムガルが名前を出していた、リンジンという人物であった場合、彼は会話の内容を知ることは出来ないくらいの距離までしか近付けなかったことになる。


ウェルバも慎重だったし、シーであるグレーティアもそれを可能としたので、ネア達は、ずっと用心深く会話を音の魔術で隠していたので、正確な関係性を掴むには至っていないのだろうか。



(だからこの人は、私が、本物のダーダムウェルの魔術師がウェルバさんであると、そのことを疑いもしないのだとは考えないのかもしれない。やっぱりあの時、この人のことを、ダーダムウェルの魔術師と呼ばなくて良かったのだと思う…………)



だが、疑念が確信に変わったところで、状況が好転する訳ではなかった。


ネアはまだ立ち上がれておらず、少年には傷一つない。


巡礼者達がこのあわいに触れることは叶わないのだとしても、子供役を殺してしまうことは出来ないのだとしても、ネアに手出しそのものを出来ない訳ではないのだろう。



「…………もしかして、井戸に何かを放り込んだのは、あなたなのですか?…………私が、その偽物さんとやらに出会ってしまって、あなたの配役を盗んだから?…………ええと、その、物語を立て直す為に?」



これ以上状況が改善出来ないと分かったので、ネアは率直に尋ねてみた。

ただし、核心に触れることは避け、どちらにでも転べるようにはしておく。



「まったくだよ。君に配役を取られたお蔭で、せっかく体を作ったのに結局ここに触れられないんだからね。…………そんな訳だから、僕も見ず知らずの子供の為に、あんまり時間は割けないんだ。悪いけど、これ以上足手纏いになるのなら、無理矢理にでも役割を果たして貰うよ」

「……………無理矢理に………………」

「塔に行きたがるくらいなら、君はここがどういう場所なのかを知っているんだよね?…………それとも、そんなことも知らないで、あいつに利用されているのかな。このあわいの軸となった物語、ダーダムウェルの魔術師に出てくる主人公の子供はさ、多くの困難を乗り越えて魔術師を呼ぶに至るんだ。…………ってことはつまり、君は困難に見舞われるし、魔術師を呼べれば用を成すってことだよね?」



普通の少年を装っている口調のまま、朗らかに微笑んでそう告げられ、ネアはぞっとした。



「でも、妙に固いんだよね、君。頭に力いっぱい煉瓦を投げつけたら、普通は動けなくなるのに」

「………………っ、」

「あれ、それは僕じゃないと思ってたの?今もさ、足首から切り落とすつもりだったんだけど、転んだだけだし。………………やっぱり君って、誰か、…………高位の魔物と知り合いじゃない?例えば、守護を貰うくらいに親しい関係だったりする?」



両端を釣り上げた唇には、優位であることを確信しているような高慢さが滲んだ。



ここで、ようやく。

ようやく、ほんの少しだけ、その無垢な表情に揺らぎが生じる。


それでもまだ、この場面だけを見せられた第三者がいたら、この少年は、傷付いて倒れたネアを案じて覗き込んでいるように見えるに違いない。




「…………だとしたら、やっぱり僕は幸運に愛されているのかな。………………これ以上の餌はないよね」



ゆっくりと伸ばされた手に、どこからか何かを失うような気がした。



怖くても目を逸らさず、ポケットの中の水鉄砲を握り締める。

これだけ肩が痛くなければとうに反撃していたのだが、まったく上がらない腕でこの水鉄砲を使うには、このままもう少しだけ近付いて貰うより他にない。



チャンスは多分、一度しかないだろう。

そう思って唇を噛み締めた時のことだった。




ざあっと、大きな鳥が羽ばたくような音がして、どこからか真っ黒なものが落ちてくる。




「……………っ、」



一瞬、あの黒い影になった人々が襲いかかってきたのかと思って息が止まりそうになったが、漆黒のケープを翻して少年の背後に降り立ったのは、その身に纏う色は違えど、ネアが良く知っている人だった。



「…………っ?!終焉っ」



少年がそう怨嗟の声で名前を呼び、けれども彼が片手を持ち上げるよりも早く、その小さな体は鮮やかな深紅の長剣で容赦なく刺し貫かれる。



目の前で子供姿の人間が串刺しされているのに、ネアは、不思議と怖くはなかった。



「………………やはりお前か、リンジン」



底冷えするような低い声でそう呟き、漆黒の軍服のウィリアムは、血の代わりに黒い塵のような不思議なものを零す少年の体から剣を引き抜き、鮮やかな葡萄酒色の瞳を眇めた。



続けざまに振るわれた剣の軌道を見る前に、ネアは目を逸らした。



さすがに少年姿の生き物の首が落ちるところは見たくない。

けれども顔を背けたことで、いつの間にか集まってきており、じりりと輪を狭めるような黒い影達に気付いてしまい、ぎょっとする。


ネアがはっと息を飲む間もなく、少年姿の巡礼者の首を落したウィリアムも気付いたのか、刀身にまとわりついた黒い塵を振り払いながらそちらに体を向けた。



「少しだけそこを動かないでいてくれ。すぐに処理する」

「だ、駄目です!…………その方達は、このあわいの住人なので、傷付けてはいけません!あわいの怪物にされてしまいます!!」



大きな声を出すと、痛めた箇所がきりきりと痛んだ。

その痛みに顔を顰めながら、慌てて黒い影を傷付けないように止めると、ウィリアムが小さく息を飲む。



「……………あわいの住人を、書き換えたのか」



カシャンと剣を鞘に納める音が響き、ネアはどれだけほっとしただろう。

先程の会話の内容を信じ、あの少年に振り下ろされた剣は止めなかった。



(あの人は、このあわいの住人という認識にならないと思ったから………)



であればその判断にもどうか、誤りがないといいのだが。

不安になって周囲を窺ったが、そう言えばネアは、怪物が現われたという特定がどう成されるのかを、誰からも教えて貰っていないのだった。



ざりっと石畳の道を踏み、つかつかと歩み寄ってきたウィリアムが、ネアの惨状に瞳を細めるのが分った。


いつもの穏やかさを装うその表層もなく、凍えるような怒りを静かに浮かべる深紅の瞳は刃のようだ。

だが、心配そうに大丈夫かと尋ねはしないので、ネアはこれが蝕の変化だろうかと内心はらはらする。



「少し痛むかもしれないが堪えられるな?」

「…………はい」



伸ばされた手が慎重にネアを抱き上げ、やっと頼もしい魔物の腕の中に収まったネアは、あまりの安堵に胸が潰れそうになった。


その腕の仄かな体温と、一緒にテントで過ごした日を思い出すウィリアムの香り。

体を支えてくれる腕が当たる部分がやはり痛んだが、それでも涙が零れそうになる。



「…………すまない。冷たく感じるだろうが、他の巡礼者の目があるといけないからな」



低く耳元に囁かれた言葉でようやくこの余所余所しさの理由がわかり、ネアは慌てて自分も表情を頑張って強張らせた。



ここはもうひと踏ん張りして、こんな人はあまりよく知りませんという演技をする必要があるようだ。



(でも、後もうひと踏ん張りだもの!)



その結果、集まってきた黒い影を振り切り、転移は出来ないということで、ネアを抱えたままブンシェの街を移動するウィリアムに抱えられたまま、こんな魔物に持ち上げられるのは大変に遺憾ですという表情を作るのに、ネアは残りの体力を全て使い果たす羽目になってしまったのだった。












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