不可視の炎と白い鸚鵡
蝕のその反転の直後に、ネアがどこかへ連れ去られたという一報が入った。
低く呻いたからか、同席していたヴェンツェルが驚いたようにこちらを見る。
すぐさまカードを取り出して連絡をするようにとしたためたが、返事はなかった。
「まさか、……………何かあったのか」
「お前の懸念が当たったな。…………いや、考えていたようなことではないが、…………巡礼者絡みだとしたら厄介だな」
実はこの国の第一王子からは、事前に蝕の際にネアの身の周りに気を付けるようにと言われていた。
どうも、前の世界の万象の伴侶は、蝕が起こる筈だった日に失われたと誰かから聞き及んだらしい。
そんな情報を持っているとしたら、最高位の精霊の誰かか、或いはあの影の国のどこかくらいなものなので、そこを訪れたらしいカルウィの王子あたりだろうか。
(あの王子もなかなかに厄介だが、グレアムが管理しているからには問題ないと見るべきか。…………とは言え、犠牲も謎が多い)
どちらにせよ、地上の目立つところには残っていない情報だ。
それを聞いて、あえて今日は距離を置いていたのだが、まさかのシルハーン達と同じ部屋に居ての失踪である。
それならば、側に居れば良かった。
そう考えれば微かに苛立ちも覚えたが、こうして攫われることを考えれば、よほどいい。
選択肢を奪われることは不快だが、その代わりにあの手の先には、誰からも得られない選択がある。
そうして、鎖をかけることを許したのは、一人だけだ。
ネア、一人だけ。
いつだったか、それは情欲なのかと愚かな問いかけをした男がいた。
そのような勘繰りを思考に乗せられるのも不愉快なので、戻り時の毒を加工したものを薄く肌に浸透させておき、そんな夜葡萄のシーを探していた秋告げの精霊に居場所を教えてやったことがある。
そればかりなものか。
であれば、抱けば飽きる。
万象は万象たるだけの王そのものであるが、彼女を無理矢理拘束することが不得手なシルハーンの目の前から、短い時間を掠め取り、手の内に収めることは難しくはない。
望めば与えてやるのは構わないが、それとてネアは望まないだろう。
そんなものよりも余程、パイでも作ってやった方が喜ぶ。
そして多分、あの人間に与えたい欲はそういうものなのだ。
あれは魔物とよく似た唯一自身の王であり、目を離せばその隙に、どこに呼ばれずとも姿を消しそうな身勝手な生き物。
この身を差し出してやったことで漸く一本の細い鎖を持たせることが出来ただけの、理解の及ばない気紛れな野生の獣のような女だ。
だというのにまた誰かが、この領域に土足で踏み込んだらしい。
それは、到底許容出来ることではなかった。
(くしゃみ、か………………)
それだけで引き落とされたとすれば、何か引き換えの魔術のようなものを予め仕込まれていたのか。
或いは、シルハーン達の手を離したその隙であったというので、手が離れたことがきっかけとなっており、くしゃみはただの偶然なのか。
場合によっては、侵食魔術が動いたことで大気が循環してくしゃみが誘発され、その結果不安定になっている時によりにもよって手を離してしまったという状況かもしれない。
リーエンベルクは蝕の直前に、蝕の前にのみ派生する生き物の守護を得た筈だ。
あの強烈な光を見て確かめに行ったが、魔術の織りが読み取れない程の精緻な防御であった。
つまり、それだけ堅牢な場所から引き落とすには、特定の魔術はかなり絞り込まれる。
(巡礼者の手によるものだという前提であれば、かなり古い術式が動くこともあり得る……………)
暫し考え、その中でもどのような場所からも引き摺り出せるだけの魔術となれば、やはり、犠牲の系譜と妖精の侵食魔術くらいのものだという結論に至った。
リーエンベルクをあの土地に置いた者達は賢い。
あえて、あわいの大きな層の上にあの宮殿を置いたことで、別層のあわいが張り込む余地がなくなっているのがリーエンベルクだ。
地下からあわいの列車に乗った時、あの立地は意図的に配置されたものなのだろうと考えた。
あわいという不安定なものほど、その介入で為政者達の住まいや政治的な拠点を不安定にするものはないが、予め一層、害のないものを敷いておくことで、リーエンベルクのように影絵などの質量の多い施設は、かなり上位のものであれその重なりを避けることが出来る。
森というものの特性上、禁足地の森の方までは排除は難しいだろうが、屋内であれば、蝕とは言えどその道を繋げるのはほぼ不可能に近い。
(であれば、その身の内に予めの道を敷かれていない限りは、あわいそのものの接触ではない筈だ。だが、犠牲であれば、グレアムの領域だが、あの男がラエタの魔術師なんかにその叡智を貸し与えるか…………?)
考え込みかけて息を吐いた。
ここであれこれ思案するよりは、リーエンベルクの現場を見た方が早い。
もう一度カードを開いてみたが、まだ読んだ形跡はなかった。
窓の外は、夜が落ちてきたかのような暗さで、あちこちに魔術の火が灯される。
この蝕の反転も魔術の織りなので、通常の夜闇とは違い、アルテアはある程度の夜目がきいた。
アルテアが滞在しているヴェルリアでも、あちこちで小規模な騒ぎが起きていた。
蝕の反転で揺らぎ壊れるものも多く、予め注視していなかったような箇所箇所で、魔術が歪む音が聞こえてくる。
ずんと地響きのようなものが聞こえてきてそちらを見れば、王宮からは少し離れた場所にある、聖堂の側壁が崩れ落ちるのが見えた。
角度的に海からの侵食を防いでいた魔術のどこかに、調整の不備があったのだろう。
港の方では火の手が上がる箇所も見えた。
水の系譜の魔術が反転で火の気を帯びたものか、或いは制御してきた筈の火の魔術がその手を離れたか。
だがそんな騒ぎに、このヴェルクレアの第一王子が動揺することはない。
ある程度の損失は想定の内なのか、控えた若い代理妖精に、都度短い指示を出すくらいだ。
「王都の守りも深刻なものではあるのだが、ネアに何かがあるとまずい。ウィームに戻るか?」
「ああ、蝕の第一段階が落ち着いたら、ウィームに移動する。国だけは倒すなよ?」
「ここで問題ないと言い切るだけの保証はないが、この程度であれば乗り切れるだろう。だが、第一段階と言うからには、その後の段階が控えていたりするものなのか?」
「今はまだ、反転したばかりだからな。その直後は持ちこたえたものが、蝕が継続することでひび割れる可能性もある。後は、転じ難かったものが徐々に変質してゆく場合もあるが………」
そう言いかけたところで、奇妙な予感を覚えた。
部屋の中を見回し、ヴェンツェル達の怪訝そうな視線を感じつつ、窓際に歩み寄る。
空や海の方には変化がないようだが、それでも首筋がちりりと粟立つような奇妙な気配は抜け落ちない。
探知出来ないだけの魔術が動くとすれば、これはもう、ここではないどこかの隔たれた向こう側だ。
(あわい、か……………)
「ドリー、そいつを捕まえておけ。すぐに大きな動きが出るぞ。それと、動ける奴は襲撃に備えろ。連絡役は即時離脱した方がいい」
鋭くそう言えば、淡い金色の瞳を眇め、火竜はすぐに契約の子供を抱え込んだ。
隣で復旧作業や警備上の問題などの指示を受けていた代理妖精は、ヴェンツェルと視線を交わし素早く転移で退出し、もう一人の女の妖精はすらりと剣を抜く。
エドラという名前のこの妖精は、確か弓を扱う妖精だった筈だが、室内での扱いは難しいと判断したものか、武器を変えたらしい。
するとそこに、出て行った妖精と入れ違いに入ってきた、もう一人の代理妖精と、見知った二人組の姿があった。
「ヴェンツェル様、わたくしもこちらに」
「ああ。そうしてくれ。………ウォルター、お前達はこちらでいいのか?」
「連絡室などにいて、こちらの事情を考慮して貰える未来の王が失われたら、計画が台無しだからな」
「ウィームとの繋ぎはいいのか?」
「ああ。それはまた別の者が当たる。………退避勧告はエルゼが出したようだが、間に合うといいが………」
「間に合わなければ備えるだろう。この棟に入る者達は、そのくらいの備えはある。お前の末の弟は大丈夫なのか?」
「ああ。変わり者だが、魔術師としての才はエーダリア様にも劣らないと言われている。自分で乗り切るだろう」
「ヴェンツェル様、坊ちゃんの弟君にはナータ様が付いておりますから」
「ああ、………あの火竜か」
このウォルターという名前の男は、昨年の夏の事件の折に、ネアと一緒に行動していた宰相の息子だ。
公の場ではヴェンツェルに対し臣下としての敬語を使うことが多いが、このような場であるとこうして話すらしい。
隣に立つ背の高い代理妖精は、人間の土地で暮らす妖精の中ではかなりの長命種にあたり、個人の代理妖精に収まるのではなく、家そのものを守護するという珍しい妖精である。
この妖精の腕はなかなかのものなので、これだけ揃えば手堅いと言えるかどうか。
(ナータ?…………そういう名前の火竜は聞いたことがないな………)
ウィームに来たあの子供竜のような新しく生まれた子供だろうかと首を傾げていると、ふっと、視界の明度が下がったような感覚があった。
周囲を取り囲む全てが短くぐっと歪み、次の瞬間、一瞬で全てが崩壊する。
壁も、床も、そして天井も。
その全てが一度跳ね上がり、ばらばらになりながら落下する。
これは無理やり建物の下に質量のあるあわいを差し込み、それを引き抜いた時にだけ起こる特殊な現象だ。
「…………あわいを差し込んで崩したか。積み木崩しを見るのは五百年ぶりだな」
轟音を立てて、大きな建造物が崩れ落ちてゆく。
この建物は、王宮の西棟にあたり、本来のヴェンツェルの執務区画ではない。
近年増築された区画だが、このような有事の際の、魔術遮蔽の会議室などが集められており、今回の蝕の対応と指揮の機能は全てこの区画に集められていた。
そして今、その中の一画が突如として崩壊し始めたのだ。
「…………すまない、ヴェンツェル。立派な建物だったが、下の者達の為に床を消すぞ」
「ああ。人材ほど高価なものはない」
ドリーに、ヴェンツェルが頷くのが見え、その刹那、今迄は床だったものが蒸発するように消え失せる。
(ほお、この距離で見たことはなかったが………大したものだな)
微かな熱の余韻に、火の高位魔術で焼き尽くしたのだと分るが、これだけの規模の、ましてや崩壊してゆくような刻々と形を変えるものを、その部分だけ器用に蒸発させるなどということは、竜の祝福の子や災いの子であってもそうそうに出来ることではなかった。
崩れるだけのものが崩れ落ちてしまうと、アルテアは虚空に足場を作り、そこに留まった。
見えない水晶板のような足場には赤い魔術陣が浮かび上がり、石造りの建物が崩壊して立ち籠める粉塵の中で、ぼうっと赤く光る。
ステッキで足場を叩き頑強さを確かめると、落ちてくる瓦礫を縫うようにして横薙ぎの攻撃をしかけてきた者を、そのまま持ち上げたステッキで叩き落とした。
潰れたような苦鳴を上げて落ちてゆくものも、周囲の者達がどうなったのかも含め、視界が晴れなければ状況の把握は難しいようだ。
そう思った時だった。
ざあっと周囲の粉塵が一瞬で晴れ、片手にヴェンツェルを握った巨大な深紅の竜が悠々と羽ばたいているのが見える。
翼の羽ばたきで視界を晴らしたのだろうが、細やかな塵が燃え落ちてゆくのが辛うじて目視で確認出来たので、風圧だけで散らしたのではなく、焼き払ったものもあるらしい。
冷静に見えるが、あの火竜は決して上機嫌ではない。
寧ろ、微笑んで全てを焼き尽くす程の心境はどれだけのものか。
(馬鹿な奴らだ。よりにもよって、竜の宝を巻き込んだか…………)
視界が晴れ、周囲を確認すれば、崩落は地下にまで及んだようだ。
ドリーが、最上階の床と重量のある屋根を焼き払わなければ、被害は更に拡大していただろう。
王都には関わると面倒な者達も多い。
下手な介入を防ぐ為に周囲を隔離結界で覆い、あわいから這い出てくる者達をうんざりした思いで眺めれば、顔の反面を覆うような歪な青い角を持つ、黒髪の女の姿が目に留まった。
どこかで見た女のような気がして目を凝らせば、こちらを向いた女は、半月形の微笑みを浮かべた。
「……………ああ、やっとあなたを見付けた。リンジンから、あなたがダーダムウェルのあわいに来ないと聞いて、慌ててこちらの部隊に加わったのよ。前は失敗してしまったから、今度こそはあなたの心臓を食べなくちゃ」
そうねっとりした微笑みを浮かべる女にはやはり見覚えがあったが、名前までは思い出せそうにない。
(前の世界的な蝕のどこかで、………見かけたような気はするが…………)
執着や興味ではなく単純に情報の集約として、関わった者の名前は出来る限り忘れないようにはしているつもりだが、あの時の襲撃では三十人近くものクライメルの手駒に囲まれた。
別件で忙しく雑に追い払ったこともあり、取りこぼしがあったとしても仕方ないなと思いながら、ジャケットの胸ポケットから取り出した銀色の煙草入れを開き、用意してあった煙草に火を点ける。
細身の煙草を咥え煙を吐き出せば、その女の背後に姿を現した顔色の悪い男が、すっと目を細めるのが分った。
特定の素材で作られた煙草の煙は、それそのものが錬成陣にもなる。
恐らくあの男は、煙で描かれる錬成を気にかけているのだろうが、これはそのような資質のものではない。
人間の魔術師にも無尽蔵な手札を持つ者はいるが、とは言え人間と魔物の扱う魔術には大きな隔たりがある。
魔物が他の魔物の特性を拝借するのも、その一つの禁じ手であった。
「そなたの知り合いか?」
「さてな。覚えてはいないが、先々代の白夜が飼っていた手駒だろう。それよりも、あっちの連中は、お前の妖精を随分と敵視しているようだぞ」
「…………エドラ、顔見知りのようだが、私が知っておくべきことはあるか?」
「私を妻にと望み、私の友人を手にかけた愚かな男だというだけですので、お手を煩わせないようにします。百年程前に細切れにした筈なのですが、まさか生きているとは思いませんでした」
「であれば、好きなようにして構わない。ただし、明日には書類仕事が増えるのは目に見えている。その時に万全に対処出来るようにしておけ」
「御意。………エルゼにも加勢して貰います。その時に命を落とした友人は、………その、彼が、…………ええと、片恋の末に手酷く振られた相手でしたから」
どう説明すればいいのか迷ったのだろう。
言葉を彷徨わせた後、何の気遣いもない言葉で関係性を説明をされてしまった同僚は、少し離れた位置でがくりと項垂れている。
こちらまでは聞こえなかったが、ドリーが竜の姿のまま、そのような問題はあまり公表しない方がいいと、小声で盾の妖精を窘めたようだ。
そんなやり取りに小さく笑ったのは宰相の息子の代理妖精で、ヴェンツェル自身も小さく笑っている。
「も、申し訳ない、エルゼ。その、…………傷付けてしまった」
「………………エドラ、どうかもうこの話題には触れてくれるな。いいな?」
「ああ。…………一緒に、メイラの仇を討とうではないか。私は被害箇所の報告を書類にまとめたいからな、一時間以内には全て片付くと有難い」
そんな気の抜けたやり取りを忌々しそうに睨みつけ、青い角の女がこちらに視線を戻す。
「…………何度でも殺せばいいわ。今日は終焉が反転し死んでもその場に魂が残る蝕だもの。何しろ、私達には復活薬があるのだし」
「ってことは、ウィリアムの奴は、結局置き換えたのか…………」
そう呟き、それも妙だなと考える。
海竜の戦の終盤で、ウィリアムが犠牲と何かを話していることや、シルハーンにその措置についての承認を得ている様子は見ていた。
漏れ聞こえた言葉から、どうせまた蝕の間だけの安息日を作るつもりなのだろうと考え、さして気に留めてはいなかったのだ。
その時はそう思っただけだったが、巡礼者達の襲撃が予測されている中、あえてウィリアムが、自分の力を削ぐ必要があるだろうか。
であればその反転は、それでも尚と欲するものと引き換えになったと考えるのが妥当だ。
(恐らく、………ネアの資質の何か。呼び落とされたという事象そのものか、あの守護や、練り直しの魔術そのものかもしれない)
本来、蝕で大きく反転するのは、生きた魔術に限られる。
ネアの場合は、その可動域の低さからそもそも身に魔術を宿していないので、本来であれば最も安全であった筈なのだ。
しかしながら、その素性を辿ればそうとも言い切れない。
因果や成り立ちに纏わる部分には魔術が大きく絡んでいるし、彼女が自分の魂に添付してしまった自死の魔術符も、上から覆いをかけて動かせないようにしているに過ぎない。
体に馴染ませた万象の指輪や、その他の守護の数々。
より強固な守りをと思うからこそ、ネアが持つ魔術には生きたまま動く契約が多いのだ。
(ダーダムウェルのあわい、…………確かその魔術師の物語のあわいがあったな……………)
目の前の女が漏らした言葉を頭の中で噛み砕き、その口ぶりからであれば、こちらを招き損ねたのだとしても、他の誰かをその中に呼び落とした可能性は高いと考える。
その誰かというのが、ネアのことなのかどうか。
それについては、捕えた後にじっくりと調べるまでだ。
ドリーの表情を見ていると、さして時間はかからないだろう。
「…………アルテア、エドラはこの後の仕事が忙しそうだ。あまり負担にならないよう、ひとまず一度均そうと思う。君は構わないか?」
「ああ。用のある奴はもう捕縛済みだ。外殻がなくなっても問題ないだろう。好きにしろ」
「では、まずは誰も巻き込まれないようにしなくてはだな。………ヴェンツェル、……ウォルターも、耳を塞いでおいてくれ」
そう言い、火竜の災いの子は咆哮した。
びりびりと空気を揺らすような咆哮に、崩壊した現場の確認などで空に上がっていた生き物達が、慌てて逃げてゆく。
統一戦争の時にも何度かこの咆哮を耳にしたが、これはこの火竜が、広範囲に膨大な火の魔術を敷くという仲間への合図である。
あまりの精神圧によろめきながらも、姿を現した巡礼者達の中には、この程度の威嚇では損なわれはしないと失笑めいた笑いを浮かべる者もいる。
だが、これは所詮合図でしかないのだ。
「…………っ、竜の威嚇などで我々が怯むと思ったら……」
黒髪の女がそう笑い、アルテアはふうっと吐いた煙草の煙をそのまま引き絞る。
その直後だった。
火竜の魔術と言えば、赤々と燃え盛る炎を想像する者も多いだろうが、このドリーの持つ最上位、広域の炎は、無色透明である。
先程の西棟の崩壊の際にも近いものを切り出していたが、こうして観覧に適した開けた状態であらためて目にする機会は少ないかもしれない。
なのでアルテアは、よい機会なので興味深く観察させて貰うことにした。
ごうっと強い風が吹いたように透明な火が周囲一帯を包み込む。
火の前に手を翳したような熱を僅かに感じたが、それ以外にはこちらに変化はない。
ただ、その透明な陽炎にも似た巨大な力が、ざあっと巡礼者達を薙ぎ払うのを見ていた。
悲鳴は上がったのだろうか。
そもそも彼等は、自分達がこの一瞬で焼き尽くされることに気付いていたのだろうか。
荒れ狂う透明な炎はその裾だけに青白い炎の色を滲ませており、その色を頼りにどこからどこまでを焼き払ったのかを目でも確認出来るようになっているようだ。
飲み込まれた巡礼者達は一瞬で灰になり、もろもろと崩れて大気に散らばる。
「…………エルゼ!」
「ああ、任せておいてくれ」
しかし、相手は復活薬を所有するラエタの魔術師なので、彼等はすぐさまその肉体の再生を始めた。
薬を服用するような状況下ではなかったので、条件付けの魔術により、体の一定の組織が死滅すると復活薬を取り込めるようになっているのだろう。
とは言え一度塵とまで化した肉体の再生には、復活薬とはいえそれなりに時間がかかる。
魂が留まり肉体が再生するその前に、代理妖精達は根気よく反撃の手を持たない魔術師の体を刻んだ。
三回程で再生が途切れ、妖精達の矢や剣でばらばらにされた熊の手の魔術師達は、あえなく肉体を失ってしまう。
歯噛みする死霊達を前に、第一王子付きの妖精達が取り出したものは、ヴェルリア王家が持つ特殊な禁術の一つであり、現在は王と王妃、そしてこの第一王子の手の者達だけに許されている魂そのものを破壊する特殊な火と石化の術式符だろう。
予めアルテアは、ラエタの巡礼者が今回の蝕で暗躍しかねないことをヴェンツェルに伝えてある。
なのでこの術符は、このような時の為に用意されていたものだろう。
ラエタを繁栄させた復活薬は、今代では精製が禁じられている。
この巡礼者達とて新たに作り出すことは出来ないからこそ、復活の回数が限られていたのだが、そんな魔術師達が死者の国に行くとしても、あわいに戻って彷徨うにしても、彼等がその自我を持ち続けることは何かと煩わしい。
であれば、完膚なきまでにその魂を破壊し尽くすというのが、第一王子派が考えた始末のつけ方なのだった。
そちらの作業は一瞥するに留め、ヴェンツェルはこちらを見た。
アルテアのものに比べるとたいぶ精度は落ちるが、同じように虚空に魔術の足場を作った宰相の息子も、こちらを見ている。
「アルテア、…………それは何だ?煙草の煙を使う捕縛魔術でも、そのようなものは見たことがない」
「網の一種だが、悪食でもあるな。これを使えば終焉紛いのことが出来る」
ヴェンツェルの問いかけに、アルテアは最後の煙を吐き出した。
その煙に囚われてもがいているのは先程の青い角の女の魂で、やがて、体に巻き付いた煙に貪り食われて見えなくなる。
魂が戻らなかった体もすぐさま朽ちてゆき、あっという間にヴェルリアの空に、灰になって散らばっていった。
「白い、不思議な生き物だな」
そう興味を示したのは宰相の息子で、ネアから彼は毛皮を纏う生き物が好きなのだと聞いていた。
少し怪訝な思いで煙を見たが、この男が目を輝かせるような要素はない筈なのだ。
「坊ちゃん、ふわふわしたものだからと、不要に近付かれませんよう。そちらは、終焉の鳥籠を模倣した悪食でしょう。触れれば呪いが移りかねません」
「鳥籠の模倣…………?」
「成る程、伊達に長く生きてはいないか。この術式を知るやつは滅多にいないんだがな」
「そのようなものに成り果てたとて、それは織物の魔術の一種ですからな。古い妖精であれば、どのような成り立ちのものかは想像がつきます。…………もっとも、この老いぼれには、どうやって作り上げられ、仮初の命を持ったのかまではさっぱりですが」
そう微笑んだガヴィレークから視線をこちらに戻し、あの熊の手の魔術師を食べて膨らんだ煙が形を変えた白い鸚鵡を腕に乗せた。
体そのものは煙草の煙を織り上げて出来ているのだが、ずしりと腕に感じる重みに餌となった魔術師の記憶の量を感じることが出来る。
あの煙草は、ウィリアムから掠め取った終焉のかけらと、かつて疫病の魔物から奪ったその体の一部を使ったものだ。
巻き紙の部分には、以前のクライメルの襲撃の際に持ち帰ったラエタの魔術師の魂を使ってある。
どのような魔術をどのような紙で巻くのか、煙草にはそれぞれの個性がある。
今回の煙草は、終焉の鳥籠の原理を模倣し人間の魂のみを捕らえる事が出来て、尚且つラエタの系譜の者を狙う用に作られたものだ。
クライメルがラエタの巡礼者達を使ったその後で、大掛かりな襲撃を想定してすぐに作り置いたものである。
長らくそのまましまい込まれていたものだが、こうして効果を試してみれば、他のものにも応用がききそうだ。
「悪食でもあるとなると、あわいでも変質しませんな」
「巻き紙には巡礼者の魂を使ってあるからな。生きながら魂を刻まれた人間の怨嗟が、生きた鳥籠を悪食にすることで、獲物の魂を躊躇することなく喰らうようになる」
つまり、この煙の鸚鵡は、鸚鵡の形をした生きた鳥籠なのだった。
鳥籠の体裁を整えねば、死者の魂は捕まえ難い。
そんな部分を強化する為に鳥籠にしたのだが、動きは想像以上にしなやかだ。
(後は、喰らった獲物の記憶をどれだけ再生出来るかだが…………)
「お前達が、ダーダムウェルのあわいに落としたのは誰だ?どうやった?」
そう問いかけると、煙の鸚鵡は体を震わせて嘴を鳴らした。
「ピッ!………ヨウセイノモンデ、ヨビオトス。終焉とセンタクの知り合いの筈の妖精は、女のハイイロノコドモを間違えて通した」
「……………それは、取り違えだった。それだけだな?」
「リンジンが、ソノコドモの守護に、魔物達のケハイがすると言っていた。新しい物語を書くので、餌にスルカモシレナイ。ピッ!」
「物語だと…………?」
ふと、その言葉が気になった。
他の何でもない表現ではなく、あえて物語を書くという言葉を選んだのであれば、そこにはその魔術師の自負が滲む。
(リンジン…………リンジン、…………リーンジルラード。…………そんな名前の王族出身の魔術師が、ダーダムウェルの最後の方の弟子に居たな。……………確か、術式の書き味の向上の為に、どこかの魔物に師事していた…………)
あの国の魔術師達は興味深かったが、この名前を騙った以上は、例え利用価値があっても一人残らず排除するつもりであった。
なのでその研究を取りまとめて引き出しておこうとしていたのだが、あの時は、それより早くウィリアムが滅ぼしてしまった。
物語の魔術というものが、どうも聞き流せない。
ウィームへの帰り道でほこりに連絡をし、隣にいるに違いないジョーイへの質問を橋渡しさせ、そんな魔術師を覚えていないかと尋ねた。
途中で、シルハーンからネアと会話が出来たことと、あわいの変質から隠す為に、こちらのカードはひとまず開かないように伝えたという連絡が入った。
どういう訳か、一緒に落とされたのはあのアルビクロムの梱包妖精であるようだ。
おまけにムガルまでその中にいるという。
「シルハーン、あわいの向こうは蝕の魔術そのものだ。リンジンは作家だ。おまけに師事したのはクライメルときてやがる」
リーエンベルクに到着するなりそれを告げれば、シルハーンと一緒にいたノアベルトが天井を仰ぐ。
「わーお、やっぱり作家だったかぁ。魔術師の中でも厄介な固有魔術で、確か、ラエタ統一後の王族にだけに受け継がれた秘術じゃなかったっけ…………」
作家というのは、ペンとインクと特殊な紙を使い、構築魔術を扱う魔術師だ。
つまりその魔術師が得意とするのは、自分に都合のいい筋書きへの強制力をかける魔術である。
「…………かつてのクライメルの質には、元々蝕そのものに近い反転の魔術がある。つまりその魔術師は、物語のあわいを、自身に都合のいい物語に反転させることが出来るのだね……………」
「ウィリアムはどうした?」
「…………アルテア、ウィリアムはあわいに入ったんだよ。彼はクライメルと関わっていたし、その魔術師を警戒したのかもしれないね」
「……………どうなるにせよ、そいつの展開する魔術を砕く必要があるな。或いは、…………一つを発動させて受け止めるか。確か作家の魔術は、一度に一つきりだ。書いた物語の改変も規則があり楽じゃない」
ダーダムウェルの魔術師の物語。
そのあわいの中で、ラエタの魔術師が書き換えようとしている筋書きは、どのようなものなのか。
がしがしと頭を掻き椅子に座れば、ネアが魔術師の塔を訪ねたところであわいに降りるというシルハーンの代わりに、ノアベルトが、ネアが伝えてきたあわいの中の様子を話し始めた。
「…………シルハーンの召喚が仕損じた場合は、俺が降りるぞ。何だ?」
「うーん、その時は、僕が行った方がいいんじゃないかなぁ。ほら、アルテアは獲物指定されてる訳だし、罠があるかもだからね」
「お前にはここの仕事があるだろうが」
「………ありゃ、頑固な感じになった」
時間の流れに差異があり、息を詰めてその瞬間を待った。
窓の外は、相変わらず鮮やかな蝕の夜闇で満ちている。