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327. 魔術師は二人います(本編)



ネア達の滞在している宿屋の食堂は、二階にある。



ネアの感覚で言うところの、カフェと居酒屋の間のようなお店で、宿泊客は無料で朝食をいただける仕組みになっていた。


絞りたての牛乳と新鮮な果物のジュース、この国では薬湯扱いになるお茶、体を浄化する祝福扱いになる澄んだ水、そして昨晩から煮込んでいたというとろとろのジャガイモのスープとパンに卵がいただけるのだが、これは、庶民にとってはご馳走であった。


ここはまだ、貴族達の暮らしと庶民の暮らしをきっちり線引きしていた時代のラエタである。


貴族達の居住区ではもう少し生活水準が高いのだろうが、ネアやグレーティアのような、旅人が許可なく入れる区画ではない。

この国はとても豊かだが、人々の暮らしは階級ごとにしっかりと分けられていた。



「私が影絵で見たラエタは、確かに階級制は残っていましたが、生活水準の底が上がっていたように思います」

「それはね、復活薬の需要や普及に関係があるの」



そう教えてくれたのはグレーティアだ。



復活薬というものは、そうそう使用頻度が多い薬ではない。


一度使えばある程度は終焉の道筋から遠のくこともあり、その需要は横ばいになる。

利権を貪るだけであれば国の上層部だけで使えばいいのだが、その場合は他国からの侵略の標的にされてしまい、復活薬だけを奪われる可能性が高い。


なのでラエタは、そうそうに復活薬の使用権限を国民いっぱいまで広げることにした。

国民であればある程度の補助金も出し、ほぼ平等にその薬を購入出来るようにして、その代わり他国には決して錬成の秘密を流さなかった。

復活薬の秘密を洩らした者には強力な呪いがかかるようにし、ラエタという国の下でなければその薬の恩恵は受けられないようにしたのだ。



ネアは、ほんの少しだけ、その仕組みを考えた者には高位の人外者も隠れているのではないかと思う。


高位の魔物達はあまり復活薬の存在を快く思っていなかったようであるし、そのような特殊な効果のあるものは、やはり一か所に閉じ込めておいた方が扱い易かったのではないだろうか。



かくして、ラエタの手法は国を富ませた。

それは資金だけではなく、その恩恵を求めてラエタに下る小国は増え、他の大国の才ある者達の中にも、自身や身内などの健康状態を憂い、ラエタに移住する者が多かったという。



(そっか、国家としての堅牢さを維持する為には、復活薬は国民全体に普及させなければいけなかったんだ………)



諸外国からの資産や才能を持つ人材が集まり、国は豊かになる。

命が失われないという最大の特徴は、他国に自国の財産が脅かされないということだった。

そのまま更に国が続いてゆけばどこかで自壊したかもしれないが、滅ぼされるその日まで、まだまだラエタは豊かな場所であったのだ。



とは言え、あの国が幸福そうかと問われれば、ネアはあまりそうは見えないと答えただろう。

このあわいの中のブンシェに反映されている時代の方が、生活水準は低く、死者は生き返らずとも人々は生き生きとしている。


残酷なものであれ、終焉というものにはやはり、命を燃やす役割があるのだろう。




「お腹をいっぱいにして、頭に詰め込んだことを忘れないようにね」

「………むぐふ」



どんなことがあっても対処出来るように、出来ることは出来る内に。

そのような考え方で、朝食前の時間に、ネアはウェルバに塔までの道順を教えて貰った。

これで、どこかでグレーティアとはぐれても塔で合流出来るようになった筈だ。


この国の小さな模型のようなものを魔術で作ってくれたウェルバのお蔭で、立体的な地図を他方位から観察出来たので、そうそう迷子にはならないくらいに都市構造を把握出来ている。


何しろ、ウェルバは教師となった途端に容赦のない先生ぶりを発揮し、ネアは人間は短時間でどれだけのことを記憶出来るのかの限界に挑戦したばかりだ。



(…………牛乳が、よれよれの心に染みる…………)



「………これは食べないのか」

「………私は朝食はあまり食べないの。…………何?」

「そんなに食べないと、痩せてしまうぞ。卵を分けてやる」

「ちょっと待って!あなたは男!私も男!」

「そのようなことは、矮小な問題だ」

「はぁ?!」



授業を終えて、色々と疲れた心に沁みる朝食をいただいているネアの隣で、すっかり懐いたムガルに卵を献上されて呆然としているグレーティアの姿がある。


ウェルバもフォークを取り落としそうになっているが、あの食いしん坊の魔物が自分の卵を分けてあげたいくらいに、にゃわなる世界は魅惑の扉だったのだろうか。



(でも、これくらいめろめろになった方が、何かあった時にグレーティアさんを守ってくれるかも)



「…………もしかして、私の契約の魔物にでもなるつもり?」

「悪くないな。その代り、他の魔物との契約は許さんぞ」

「……………はぁぁ?!」

「特に、他の魔物に縄をかけるなど、絶対に許し難い」

「ちょっと、ちょっと、私は契約するとは言っていないし、そもそも私のこれは仕事でもあるんだから!」

「し、仕事だと?!不特定多数の者達にも、あんなことをするのか?!」

「実技はあくまでも特別な場合だけよ。私は、その歴史や精神について教える講師だもの。だいいち、個人的な付き合いまであなたに口出しされたくはないから!」

「あんなことをしておいて、今更だろう」



この大変にきわどいやり取りで養父の心を損ないかねないので、ぜひに後でにしていただきたいと、ネアは若干目に光が入らなくなったウェルバを見ながら思う次第である。


おまけに、ムガルは一人の女性に何百年も片思いをしていた魔物だと聞いている。

これはもう長期戦になってしまいそうな予感しかしない。



「師匠、今は護衛はいるに越したことはありませんので、期間限定の雇用契約にすればいいのではないでしょうか?上手く丸め込んで働かせておき、この事件が終わったらぽいすればいいだけですから」

「何だと人間風情が………」

「ムガル?私の弟子を貶したら、二度と口もきかないわよ」

「…………たいへん可愛らしい弟子だと思う。よく、師に仕えるのだぞ」

「……………そうねぇ。今すぐその辺の川にでも捨ててきたいところだけど、確かにこの状況を考えると、期間雇用は悪くないわね。……………今日だけなら試しに契約してみてもいいけれど、どうする?」

「そうか、そうやって私の心を試そうと言うのだな。であれば仕方あるまい。その期間雇用というものの契約を結んでやろう」

「……………グレーティア、一度であれ、契約を交わした者とは魔術の縁が残る。あまり無茶はしてくれるな」

「大丈夫よ、お父様。実はこういうの慣れてるのよね…………。下僕志願の馬鹿な魔物なんて、たくさんいるんだから」

「た、たくさん……………」

「くっ、沢山だと…………?!」



ゆったりとした微笑みで首を振ったグレーティアに、魔術師と魔物はそれぞれに違う理由で落ち込んでしまったようだ。


ネアは、若干ぱさぱさしているが、スープに浸すにはいい堅さのパンをもぐもぐしつつ、にゃわなる世界の抗えない魅力についてまた一つ知見を深める。



(これはもしかして、ディノがグレーティアさんに出会ってしまったら、私なんかぽいだと、婚約破棄されてしまったりする危険があるのだろうか…………)



そう考えると少し不安になったが、今はひとまずこのあわいを出ることを優先させよう。




「…………はい。これであなたは、今日限りは私の下僕。言う事聞くのよ?」

「これで、お前を守るのは私の役目だ。対価は、あの縄で…」

「そ、そうだな!朝食の席にはいささか刺激が強い会話は、部屋に戻ってからにしようぞ」



どんな契約内容にするのかなと、ネアがじーっと見ていたせいか、慌てたウェルバがそう遮り、ムガルは少しだけ憮然とする。


しかしグレーティアから、父親と弟子に何かをしたら永久にさようならだと言われると、苦悩の眼差しの後でこくりと頷いた。




平和だったのは、そのあたりまでだろうか。




部屋に戻る前に宿屋の一階を経由したのは、建物の構造上、別棟の食堂からはそうしないと宿泊棟に戻れなかったからで、ネアがその扉を開けて外に出てしまったのは、表の通りで、突然道行く人々が倒れるような事件があったからだ。



わぁっと通りから悲鳴が聞こえ、まさか怪物の訪れが早まってしまっただろうかと、慌てて扉を開けたのはグレーティアだったように思う。


開いた扉から通行人の何人かが駆け込んで来て、宿の従業員に人が一斉に何人も倒れたので、役人を呼ぶようにと説明している。


ネアを少し下がらせ、扉の影に身を潜めるようにして外の通りを覗いたウェルバが、呆然と目を瞠った。




「…………なんだこれは?このようなことは、今迄一度も……………」



そう呟いたウェルバに、素早くグレーティアの手を掴んだムガルが、外に出ていた契約主を扉の内側に引き戻す。



宿屋の前の通りには、その、突然倒れたとおぼしき人達の姿があった。




「な、何が起きたのでしょう…………」

「……………流行病ではない。だが、これはまさか…………」



症状の出ている人は十人ほどおり、蹲り喉を押さえていたり、悲鳴を上げて地面でもがき苦しんでいる。

介抱する人々や、怯えて逃げ出す人々。

手を投げだして動かなくなった男性の体からは、じわりと黒い靄のようなものが立ち昇る。


その黒い靄の禍々しさに、周囲の人々がわぁっと悲鳴を上げた。




「お父様、これは………」

「辻毒か、或いは妖精の呪いだ。……………だが、これだけの数の人々をどうやって…………」

「井戸だ。…………倒れた人間達は、皆桶を持っていたようだ」

「井戸…………だと」



最初に気付いたのはムガルで、そこはやはり魔物らしい洞察力で道に転がった木の桶に目を止めたようだ。


はっと息を飲んだウェルバが、素早くネアとグレーティアの方を振り向いたが、ムガルは首を横に振ってこちらには影響はないと教えてくれる。



「あの穢れの階位では、我々を蝕むことは出来まい。それに、食卓の食べ物や飲み物の中には、辻毒や障りになるような要素が仕込まれている様子はなかった。どこか、特定の井戸に仕込まれたのだろう」

「…………そうか、この宿屋は用水を直接地下から汲み上げている。狙われたのは、居住区の生活用水かもしれん」

「でも、誰がそんなことを…………」

「ネイ、終焉の魔物はこのようなことをするか?」




唐突にそう尋ねられ、ネアはきっぱりと首を振った。



「いいえ、ウィリアムさんはこんなことはしません。絶対に」



そう答えると、ウェルバの青い瞳がすっと眇められる。

その暗さと鋭さには、彼の穏やかな微笑みをすっかり見慣れてしまったネアが、思わずはっとする程の怒りが滲む。



「であればやはり、熊の手どもだろう。このやり口は、リンジンどもが好むような卑劣なやり口よ。………何の為にこのようなことを始めたのかは分らんが、ひとまず…………」




カランと、宿屋の扉が閉じた。





「………………え?」



一人で取り残され、押さえるものがいなくなってぱたんと閉じてしまった宿の扉の前に立ち尽くし、ネアは目を瞠る。



一瞬、何が起きたのかを呑み込めずに慌てて周囲を見回したが、そこにはもう、ウェルバだけではなく、グレーティアやムガルの姿さえもない。




(ど、どうして……………)



今、確かにウェルバは、目の前でしゅわりと消えてしまった。

目を丸くして掻き消されるその姿を、ネアもはっきりと見ていたのだ。



慌てて太陽の位置を確認したものの、やはりまだ、朝といってもいいくらいの時刻である。

ウェルバは、午後には塔に戻されてしまうと話してはいたが、その時間にはだいぶ早いのではないだろうか。

おまけに、グレーティアやムガルまで消えてしまうだなんて、まったく想像もしていなかった。



(一瞬で、扉の内側に隠れてしまった?…………それは、位置的には不可能だわ…………)



通りでの異変が疫病などではないと分かり、グレーティアは周囲の様子を見ようとして、宿の扉の外側まで出たところだった。

その隣にいたムガルに、扉を押さえて立っていたウェルバ。

ネアは、そんなグレーティア達とウェルバの間に立っていたのだった。



(…………そんな)



あまりの心細さにへなへなと膝を突きたくなってしまい、ネアは、広がってゆく通りの騒ぎを遠く聞きながらよろめく。

しかし、体が揺れたことでぎくりとし、気持ちがしゃんとした。




(……………落ち込むよりもまずは、身の安全を確保しなきゃだった……)



まずは、この得体の知れない毒か穢れに冒された人々のいる通りから、安全なところに避難するべきだろう。

そう考えて宿の扉を引っ張ったネアは、またそこで愕然とする。



「せ、施錠されてる?!」



引っ張った扉は、がちっと音を立てて揺れただけで、びくともしないではないか。

何か魔術的な作法があってという感じではなく、明らかに内側から施錠されたような揺れ方だった。

慌ててがちゃがちゃさせたものの、一向に開く気配はなく、ネアは、これはもう宿側から締め出されたのだと判断するしかなくなった。


恐らく、通りでの異変に気付き、その要素やあの黒い靄のようなものが建物に侵入することを恐れ、誰かが外に取り残されたネアに気付かず、扉を閉ざしてしまったのだ。

もしかすると、扉を開けて外の様子を見ていたネア達に、一刻も早く閉めて欲しいと焦っていた人がいたのかもしれない。



(となると、宿の部屋にはもう戻れないのだわ………)



一つの選択肢を切り捨てれば、また次にやることを決めなくてはならない。

ひとまずは、この得体のしれない騒ぎから遠ざかるべきだ。

引き起こしたのが巡礼者達ならば、ここは彼等の盤上なのだろう。

本人達の姿はないように思えるが、出会ってしまう前にここを離れた方が良さそうだ。



(でも、どこへ…………?)



目的地がある訳ではなかったが、ひとまずは離脱を優先しようと素早く歩き始めたネアは、何だ何だとこちらに向かってくる人々の間をすり抜け、人気のない路地などに入り込まないようにしてひと区画離れた。

そこでやっと息を吐くと、まだ騒ぎの伝播していない朝の街の穏やかさに、胸を撫で下ろす。



周囲を見回せば、通りには活気があり、店を開く人達や、路地向こうの商店に隣接した住居区画では、洗濯物を干している人達の姿も見えた。

その向こうにそびえる緑色の塔を見上げ、ネアは小さな決意を固める。



(塔に向かおう…………)



まだだいぶ時間は早いし、そこに必ずウェルバ達がいるという確証は持てなかったが、この場合は一刻も早くダーダムウェルの魔術師の塔に向かってしまった方が良いのではないだろうか。

今はまだこの辺りには騒ぎは起こっていないが、巡礼者達の目的が何であれ、塔に辿り着けないようにされてしまったら困るのだ。



そう考えて頷くと、早足で教えて貰った道を目指した。



ブンシェの、今のネアのいる区画からあの塔に行くには、三本の経路がある。

その内の最も簡単な道順は、逃れて来たあの宿の前の通りの方なので、今いる場所から順路に合流するよう、つい先ほど言われたばかりのウェルバの言葉を思い出した。



(塔への道は三本。細い道や曲がりくねった道がたくさんあるけれど、どの道も必ず大通りに繋がっている。このあたりの道は全て、塔の周囲にある円形広場に繋がっている大通りにぶつかるから、塔に向かって真っすぐに伸びる石畳の道に必ず出ること。…………街路樹の通りは、水路の渡る橋があるけれど、塔に向かってはいる………)



その言葉を思い出し、ネアは一度向かうべき方向を変えた。


まだ異変などはなさそうだったが、ムガルの言うように井戸が先程の騒ぎの原因であれば、同じように水を湛えた水路を跨ぐ道は怖いなと思ったのだ。



(少し離れるけど、馬車通りの方にしよう。比較的賑やかな道を使ってそちらに抜けられるし、宿からも一番離れるから少し距離を稼げるかもしれない…………)



ここはもう、自分の判断にかかっているところだろう。


水辺の土地を避けるか、少し時間がかかっても馬車通りに向かうのか。

とは言えネアは直観で動くことが多い人間であったので、一度は避けようと思った水路にかかる道は避け、問屋街のような、商店の立ち並ぶ区画を横切る道を早足に歩き始める。


本当は走り出したいくらいだけれど、一人だけここで走っていたら、ネアの姿を認識していない誰かの目に留まってしまうかもしれない。

大勢の人々の中で一人だけ違う動きをすると目立つのだと、ずっと昔に教わったことがある。



糸や木の道具などの店が立ち並ぶ通りは、観光だったら興味津々で覗いたようなところかもしれない。

空は既に青く輝くようになり、祭りを控えた街中はどこか浮足立つような熱気に包まれていた。



(緑の塔、緑の塔…………そこに辿り着いて、ウェルバさんに会えれば、ディノが来てくれる………)




まるで呪文のように唱え、無心に歩く。

怖さで体を萎縮させると、動きに不自然さが出るかもしれないので、今はただ、塔に向かって。



ジュースを売る屋台があり、偽装工作の為に飲み物を片手に持つかどうかを考えた。

とは言え迷っている内に通り過ぎてしまい、ネアはまたそのまま歩き続ける。

本当はカードを開いて、起きていることを大事な魔物に訴えたかったが、そんな弱音をぶつけてもディノを怖がらせてしまうだけだ。


体の動きがゆったりに見えるように大股で歩き、ようやく馬車道通り近くまでやって来たネアは、その賑やかさに目を瞠った。



(すごい人がたくさん…………)



そこには、貴族の館などがある区画や、国境域とでも呼べばいいのかわからない城門の方へと物資を運ぶ馬車がそこかしこに停まっていて、わいわいと賑やかに話しながら荷を積む男達が大勢いる。


花籠や、果物の入った籠を持ち寄るのは女達で、歩道を行き交う人々の数も多い。


見た瞬間は、塔の方へ向かう荷馬車に乗れないかと思ってしまったが、ここからであれば交渉事などで時間を食うよりも、自分の足で歩いた方が良さそうだ。



後はもう、直線の道を進むだけ。




「あれ、この前の…………」



そう考えて地道に歩道を歩き進めようとしたところで、横から声がかかった。

かなり緊張していたせいかびゃっと飛び上がりかけてしまってから、ネアは慌てて強張りかけた表情を緩める。



振り返った先にいたのが、ゼノーシュくらいの背格好の少年だったからだ。



「まぁ、…………この前の夜にお会いした方ですね」

「お姉さん、また誰かとはぐれたの?」



そうネアに尋ねたのは、ネアにとってはまだ昨晩の、喧嘩騒ぎで出会った銀髪に緑色の瞳の少年だった。


今日はあの夜とは違い、どこか魔術学校の生徒のような服を着て、漆黒のケープのようなものを羽織っている。

数冊の本を抱えているし、編上げのブーツは艶々に磨かれて羽織ったケープには校章のような刺繍も見えるので、学生なのかなと思いながら、ネアは少しだけ返すべき言葉を考えた。




「はぐれたというよりは、待ち合わせをしているところに向かっているのです」

「ふぅん。こんなところで、何をしてるのかなと思った」



そう言われてネアはひやりとする。


昨晩の遭遇で、この少年は、ネアに向かって貴族なのかと問いかけた。

入国の際にも問題はなかったし、服装も使われた布地の質などを見なければどうにか紛れ込めそうであったので、自分としては上手に下町に溶け込んでいるつもりだったのだが、この子供の目には、ネアは周囲から浮いて見えるのだろうか。



「私は、もしかして街中で浮いています?………周囲には、同じような服装のご婦人もいると思うのですが…………」

「え、もしかして浮いてないと思ってたの?一目でこのあたりの住人じゃないなって分るんだけど」

「まぁ。…………これでも上手くやれているつもりでしたので、少し落ち込みました。…………あなたは、学生さんなのでしょうか?」

「うーん、学校には通ってないかな。今日はさ、前に師事した先生に会いに行こうと思ってね。ほら、その為に重たい本まで持っているんだ」



そう少年が見せてくれた本は魔術書にも見え、ネアは、魔術師の卵なのかなと考え首を傾げた。

この少年がその種の学びを得ていた場合、このあわいの住人ではない存在を無意識に選別してしまい、いっそうネアの存在に目が留まっている可能性がある。



(先も急ぐし、あまり関わらない方がいいかもしれない………)



弟がいたのでこの年頃の少年はついつい気にかけてしまうが、そう言えば見ず知らずの相手なのだったと思い出し、ネアはいつかのどこかで磨き上げた他人専用の微笑みを浮かべる。



「では、お荷物があるので気を付けてお出かけされて下さいね。私は先を急ぎますので」



軽く会釈をしてさっと身を翻せば、少年は少しだけ驚いたような顔をする。

ぱたぱたと駆け寄ってこられて、ネアは内心渋面になった。



「僕もそっちに行くんだけど………」

「そうなのですね。お約束のお時間があったでしょうに、足止めしてしまってごめんなさい」

「……………お姉さん、僕の事嫌い?」

「あら、どうしてそんな風に思ってしまうのでしょう?嫌いも何も、ほぼ初対面の方なのです。そして私は、周囲から浮いていると指摘されて一刻も早く知人に再会したいやさぐれた気持ちですので、この先は残念ながら早足歩行の予定なんですよ。ごきげんよう!」



爽やかに微笑んだつもりで、さっと踵を返すと、ネアは宣言通りの早足でざくざくと歩道を歩き始めた。


ただでさえ切羽詰まっているのに、こんなとこで好奇心旺盛な魔術師の卵に捕まっている場合ではない。

犬か何かであれば、食べ物でも放り投げてどこかに行って貰えるのだが、残念ながら人間の子供に見える。



「そして、なぜについてくるのだ」

「え、だって僕こっちに用があるって言ったよね?それに、普通に歩いてるだけだよ」

「…………念の為に伺いますが、イヌ科の獣の血は混ざっていますか?」

「………………え、何でそんなこと聞くの?」

「私がおやつをどこかに向けてえいっと投げたら、追いかけて取りに行きたくなります?」

「いや、…………ならないよね」

「残念です……………」

「残念なんだ………」



唖然とした少年の速度が落ちたので、ネアはこれ幸いとそのまま引き離した。

少年を振り切る為に速度を上げたことで、ネアは思っていたよりも近付いてきた緑の塔に微笑みを深める。


この調子なら、塔までは後十五分も歩けば辿り着けそうだ。

色々と心配してしまったが、このまま行けば、怪物が現われるよりも早くウェルバ達に再会出来てしまうかもしれない。



(でも、怪物が出現しないと成り立たないのだとしたら、ウェルバさんの部屋の扉の前で暫くノックを待つ羽目になるのかも………?)



そう考えていた時のことだった。



カーン、カーンと、夜明けの鐘とは違う澄んだ高い音の鐘が周囲に鳴り響いた。

はっと息を飲み、音がした方を見たネアは、通りを挟んだ向こう側の細い道から、何かから逃げるように駆け出してくる数人の人影を見て背筋が寒くなる。



つい先ほど、あんな風に逃げてゆく人をみたばかりではないか。



やがて、逃げてきた人達の最後尾から、よろよろしながら一人の男性が出てくると、そのま懇願するように手を伸ばしたまま、ばたりと倒れてしまう。


あちこちで悲鳴が上がり、倒れた男性の体からは、黒っぽいものがじわりと滲み広がっているように見えた。




(もしかして、…………あの症状は、感染したり、………する?)



ぞっとして急ぎ塔に向かおうとしたところで、誰かにいきなり腕を掴まれてがくんと体が揺れた。




「お姉さん、そっちも危ないって!」

「……………え?」

「ほら、あの荷馬車の向こう!」

「……………っ?!」



ネアの手を掴んで止めてくれたのは、先程の少年だ。

焦ったように手をぐいぐい引っ張られ、彼が指差したところを見たネアは、鋭く息を飲む。



そこにも確かに、数人の人が倒れていて、気付いた通行人が屈み込んで意識のなさそうな女性を揺さぶっている。


力なくだらりと揺れたその女性の指先からも、黒い靄が溢れていた。




カーンと鐘が鳴らされた。


一箇所だけではなく、あちこちでその音が重なり、あっという間に周囲は騒然としゆく。




(これが、怪物……………?)




少年は、ネアを後方に下がらせようとしたのだが、後退して塔から遠ざかる訳にはいかないネアは、その手を振り切って強引に近くの横道に駆け込んだ。




「何でこっちなの?!後ろに逃げた方がいいって!!」

「言ったでしょう?私は知人と待ち合わせをしているのです。何としても、あの塔の方に行かなければなりません。………あなたは、お家にどうにかして帰れそうですか?」

「……………家?」

「ええ。近くにお住まいなら、お家の中に避難するのが一番でしょう?確か、住宅はあの印で守られていると聞きましたから」

「…………ああ、家印ね」



一瞬困惑したように目を丸くしてから、少年はこくりと頷いた。

このような大人びた少年でも、突然のことに気が動転してしまったのかもしれない。



なぜか、ネア達の逃げ込んだ路地に入ってくる人は誰もいなかった。

路地のすぐ手前に停められた馬車で死角になっていてよく見えないが、依然として馬車通りからは悲鳴や怒号が聞こえてくる。



わぁっと響くその声と、薄暗い路地に差し込んだ光の筋。

何か大きなものがぶつかるどぉんという音がして、それはまるで幼い頃に聞いたあの劇場の爆音のように聞こえた。




「……………あなたは、逃げて下さい。私は、この裏から回れるかどうか試してみます」

「ダーダムウェルだよ」

「…………ダーダムウェル、………あの魔術師さんの?」




ふいに少年がその名前を呟き、ネアは目を瞬く。




「そうじゃなくて、僕の名前」

「………………なまえ?」

「僕の名前が、ダーダムウェルっていうんだ。名前を知らないと、呼び難いでしょ。それと、家に戻るならお姉さんと同じ方向だ。だってほら、あの塔が僕の家だから」




(え…………?)




この少年は何を言っているのだろう。

ネアは呆然としたまま、困ったなぁと眉を寄せて考え込んでいる少年の横顔を見つめる。




「あの騒ぎ、疫病の呪いとかだったら嫌だよね。………お姉さん?」

「…………もしや、この辺りには、ダーダムウェルさんと呼ばれる方が多いのですか?」

「まさか。そう呼ばれるのは僕だけだよ。悪用されたら嫌だから、あの塔に住む魔術師として、誰にもこの名前は使わせていないからね」

「……………と言うことは、あなたが、あの緑の塔に住んでいる、ダーダムウェルの魔術師さんなのですか?」

「……………え、何でそんな風に確認されるのかな?僕、疑われてたりする?…………ああ、こんな若いからかなぁ。でもほら、魔術可動域は生まれつきだからさ」

「はぁ。…………む、…………ええ?!」




揺さぶられ過ぎている頭にようやくその言葉の意味が通り、ネアは声を上げた。

突然声を上げたネアにぎょっとしたように振り返り、少年は慌てた顔で唇に人差し指を当てる。



「ちょっと!隠れてるんでしょ?!」

「…………ご、ごめんなさい」




(でも、この人が、ダーダムウェルの魔術師さん?)




こちらを見た少年は溜め息を吐いて肩を竦めると、とりあえず防壁の魔術を作ろうかなとぶつぶつと呟いている。


鐘の音が響き渡る中、ネアは、予期していなかったもう一人の魔術師の出現に、ぽかんと口を開けるしかなかった。










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