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326. それも物語の仕様です(本編)




その日の朝は早く起きるようにと、元々言われていた。

だからネアは、まだ暗い内にもそもそと起き出し、ブーツを履く。


どっしりとした疲労感が体に残っているので首を傾げてから、昨日はそもそもこのブンシェの国にたどり着くまでに随分と森を歩いたのだと思い出した。

長い一日だったのだ。



(それに、体感はしてないけれど、場合によっては寝てる間に数日分の時間が勝手に加算されている可能性もあるみたいだし…………)




物語は、場面の転換で日付が飛ぶことがある。


失われたその幕間の日々は、こぼれ落ちるのではなく加算されるので、ネアは昨晩、眠る前にポケットの中に食品がないかどうか調べるように言われている。

金庫などは問題ないそうだが、外側のあわいに直接触れる部分にはそれだけの時間が動くらしい。



三日月の夜の市場の賑わいの後、ダーダムウェルの魔術師の物語は場面が変わる。




とは言え、寝ている間に脱水症状で儚くなっていたり、お手洗いに行けなくて悲惨なことになっていたりする訳でもないので、物語補正としてある程度の線引きはあるのだろう。



(でも、次にどの場面になるのか分からないのは、少し難儀だな…………)



この場面転換には分岐があって、ウェルバ曰く、合間に王族の鷹狩などの呑気なイベントを挟む場合と、急速に場面が展開して、怪物登場直前の不穏な空気になる場合があるらしい。


これは、初版と改訂版との違いであるそうで、初版はかなり短い物語なのだ。

だからこの朝、ネア達はまだ夜明け前にもそもそと寝台から起き出し、今日がどの日にあたるのかを知ることが出来る、夜明け前の報せの鐘の音を待っていた。



ネアとしては、物語には奥行きが必要なので是非に王族の鷹狩のシーンが欲しいと切望していたのだが、空の縁が淡く薔薇色に染まる夜明け前に鳴り始めた鐘の音を聞いたウェルバは深い溜息を吐く。



ゴーン、ゴーンと低めの響きがどこからともなく聞こえてくる。

ウィームの鐘の音よりは、随分と低い音だ。



まだ、窓の外は暗い。

ぼうっと光るのは魔術による街灯で、光る石ではなく魔術の火を入れている。


とは言え、そのようなものがあるのはこの商業区画の中でも観光客や裕福な商人達がいる場所だけで、市場の方には普通に木や油を燃やす明かりしかないのだそうだ。



(…………土地が違うから、文化も違ってくる)



そんな当たり前のことを考えながら、ウィームとは違う夜明けの色を見る。

このブンシェの夜明けの色は、ウィームが水彩画なら油絵の青だ。

ずしりとした強い青にふと、オリーブ畑や檸檬の木のあるあの島を思った。




「お父様、どう………?」



グレーティアの言葉に、ぎしりと椅子が軋んだ。

ゆっくりと立ち上がったウェルバが、そっと窓に手を当てる。



「……………月の刻が変わった。今夜が満月だ」

「……………今夜」



二択であった筈なのに、半ば呆然としてネアはその言葉を繰り返した。


ああやはりという思いと、そんな事を言われてもという思い。

その上、昨晩の荒々しい市場での喧嘩を思い出し、ああ、明日はお祭りになるのだなと、混乱した頭で妙に悠長なことも考えた。



(今夜、この物語の怪物が現れる…………)



昨日までここは、三日月だった筈なのに。

あっという間に満月になってしまうだなんて、あんまりではないか。


でもここは、あわいで物語の繰り返しの中。

人々は森から怪物がやって来ることを知らずにいるのだろう。



(それに、この状態だと、森から一体どんな怪物が来るのだろう…………)



じわりと、手のひらに冷たい汗が滲む。



また耳の奥であの車の扉が閉まる音が聞こえたような気がして、ネアはその手をぎゅっと握り締めた。




「…………明日なら兎も角、今日の今日なのね」

「ネイ、上の者達からは、昨晩の段階ではまだ、こちらに誰かが連れ込まれたというような知らせはなかったのだったな?」

「はい。………まだ、怪物代わりになるような生き物も投げ込まれていない筈です」



ようやく昨晩、ネアは、不定期ながらも地上と連絡が取れることがあり、地上では害のない生き物を怪物役として放り込もうという算段であるということを、この二人に話せたところだ。



(言えて良かった。…………と言うより、言った方がいい状況になって良かった……)



あわいは様々な要因が変質しやすいということもあるので、ノアは万が一のその時に備え、最後までネアがカードの存在について公言することを渋っていた。


とは言え、地上とのやり取りをこちらで共有しないと、あまりにも動き難い。

それゆえの措置であったが、地上にいる高位の魔物達の知恵を借りられることに、ウェルバは少しほっとしたようだ。


ネアとしても、秘密を抱え込む方なので、言わないとかえって支障が出るという状況が整わなければ、この二人にであっても、そんな話は出来なかっただろう。



背中を押してくれる状況が整ったことで、やっと話せることが増え、また少し、ウェルバやグレーティアに頼れることも増えた。



(とは言え、あまり頼り過ぎてもいけないのだわ。…………ここに現れる怪物が、ウィリアムさんやアルテアさんではないと決まった訳じゃない以上、お二人を頼り過ぎていたらいざという時に動けなくなる…………)



本当は、ムガルからも色々と聞ければ良かったのだが、きりんの後遺症が残っているだけでなく、残念ながらここにいる貪食の魔物は、あまり他者を気にしないと言われている分、他者については知らないことも多いのだった。



そんなムガルは、予備の毛布をかけて貰い、すっかり長椅子で熟睡している。


うっかりグレーティアに心酔してしまったことから、ウェルバの拘束魔術もかけているし縄くらいはさすがに解いてもいいのではとなったのだが、当の本人が縄から解放されることを嫌がったのでそのままだ。


とは言え、今日は出来れば働いて貰いたいので、起きたら縄は外して貰おう。



「………ムガルさんは、さっぱり起きる気配がありませんね…………」

「まったく、呑気なものね。その役を代わって欲しいくらいよ」

「いや、消耗の回復でもあるのだろう。魔物にとって階位落ちは、容易なことではないのだからな?」

「…………むぐ、もう少し優しく踏みつければ良かったのでしょうか」

「いいのよ、あれくらいやっても。女の子の首を力任せに掴むような男ですもの」

「師匠…………!」



ウェルバはそんな師弟の感動の場面を前に、ネアの言う師匠とはどのような師弟関係ゆえのことだろうと、また少し不安になったらしい。

心配そうにこちらを見ている。


実は昨晩の就寝前に、ネアは、ウェルバから息子と仲良くしてくれるのはとても嬉しいが、まだ幼い内からあまり特殊な趣味に影響され過ぎないようにと神妙な顔で助言されてしまった。


そもそも、そちらの勉強をしなければいけなかったのは婚約者の為なのだと言えば、ウェルバはすっかりネアが不憫になったらしく、蜂蜜飴をくれると、愛とは不思議なものだなとどこか遠い目をして呟いていた。



「ごめんなさい、まだ顔も洗ってないので、すぐに身支度をしますね」

「ネイ、怪物が現われるのは、夕暮れより後よ。それまでは猶予がある筈だけど、お父様はどのくらいの段階で塔に戻されてしまうの?」

「午後には引き戻されるだろう。………だがこの引き戻しには負荷はかからないからな。戻されるまではここにいよう。…………グレーティア、お主は塔の扉の位置などをよく知っておるからな。その時が来たら、ネイと一緒に扉まで来るのだぞ」

「わかったわ。…………ネイ、もしはぐれてしまった時の為に、扉が二つあることは覚えているわね?」

「はい。使用人用の通用口と、表の階段ですよね。通用口は一階分階段が多くなりますが、内側から登れて、表の階段は外で何かが暴れていると危険ですが、階段としては短いと記憶しています」

「そう。図体が大きな怪物だと、表の階段は危険なの。街の中は、現れた怪物によっては酷い騒ぎになる筈よ。人々が家の中に避難し終える前に塔に向かう場合は、はぐれないようにしなきゃだわ」


そう言って微笑んだグレーティアからは、もし現れた怪物がネアの知り合いで、そしてウェルバを傷付けるような事態になれば、自分はウェルバを守ると言われている。


どこかで二手に分かれる可能性もあるので、ネアは覚悟を決めなくてはならなかった。

とは言え、塔の魔術師の扉を開くまでは、一緒に行動出来るのだから、たいへん心強い。




「………少しだけ、浴室に行ってきますね」

「ああ、表の動きなどが分ると助かる」

「はい。応答があればいいのですが………。そして、もうこのまま起きてしまうので、顔なども洗ってしまいますね」



後は、知り合いの誰かがこちらに引き摺り込まれていないことが重要なので、ネアは、ディノ達に今日がその日になったと連絡を取ることにした。

ウェルバ達には浴室で一人になってある儀式をすると、尊い地上の声を受信するのだと伝えてあり、様々な条件下でのみそれが可能なのだと、ノアに言われた通りのことを伝えている。



地上とのやり取りが可能なカードは、品物だ。


万が一そのカードを奪われて悪用されてしまうと、大惨事になる。

例えば今回は、このカードからネアを装った誰かが、今すぐに助けに来て欲しいとでも書いたら大変なことになってしまう。



(だから、このカードの存在は明かせない…………)



そうなると色々面倒なのだが、今回はこちらの陣営にウェルバがいてくれて良かった。

魔術師としてかなりの階位にある彼は、あわいの変質を警戒してネアが口には出せないあれこれを、その知識から察してくれる頼もしい味方なのだ。


この連絡方法も、ネアの言う通りではないのだろうと分っていそうなものだが、言えないことがあるのだろうと理解した上で、ネアが浴室に籠って地上とやり取りするのを許容してくれる。



(でもそれは、ウェルバさんの気質もあるのだと思う………)



ネアの言葉を疑い、あちらと通じているのではという疑いを抱かないのは、子供役に選ばれるのは総じて良きものだからという理由だったので、このあたりは物語の決まりごとに感謝している。


だがやはり、その上で信じて自由にさせてくれるのは、ウェルバの強さと優しさ故だろう。




ゴーンゴーンと、また遠くで鐘が鳴った。



この鐘の音は時報や警報ではなく、満月の夜を知らせるものだそうで、こうした聞き分けなども含め、ブンシェの国の運用に詳しいウェルバの存在は有難い。

少し低めの鐘の音は穏やかな音で、グレーティア曰く、ラエタにはこのような運用はなかったそうだ。



そんな音を聞きながら、まずは、ディノと分け合ったカードを取り出した。



(間違えて、アルテアさんのものを出さないようにしないと………)



あわいの変質や、こちらの認識出来ていない監視などを警戒し、他のカードは金庫から出さないという運用になっており、その事については、ディノからアルテアにも伝えて貰っている。




“ディノ、満月の鐘が鳴りました。今日が満月の夜になります”



いざ書こうとすると、指先が震える。



そして、そのメッセージにはすぐには返事が来なかったが、ネアがこの隙にと顔を洗ったりしている内に返事が来たようだ。




ぺかりと光ったカードに慌てて覗き込むと、すらすらとディノの美しい文字が浮かび上がってくる。



“ネア、ウィリアムがそちらに行くかもしれない。…………ギードから、連絡があった”




(え、……………)



がくんと、膝が崩れて倒れそうになった。


ネアは、急に暗くなった視界の真ん中に揺れている、無情なその文字を怖々と指で辿る。

触れても消えてしまわないのだから、これはやはり現実なのだろう。



(ウィリアムさんが……………?)




“ネア、………昨晩の君におやすみと言ってから、君は私に他にも何か連絡をくれたかい?”

“……………ディノ、ウィリアムさんは…………いえ、昨晩おやすみなさいと言ってからは、私は何も。………もしかして、私を装った誰かから連絡がありましたか?”

“ああ、違うんだ。怖い思いをさせたね。………そちらの時間の流れが早い分、私が君からの呼びかけに応えられていないのではないかなと思ったんだよ”

“私が就寝の挨拶をしてから、そちらはどれくらい経っているのですか?”

“二時間も経っていないくらいかな。この時間のずれのせいで、消えてしまったものがあったらと、心配になったんだ”

“…………………そうだったのですね”



くらくらと視界が揺れる。

今すぐにここから駆け出して、森の前でじっとウィリアムの姿が現れるまで見張っていたい。

でもここで連携がおろそかになると、堪えてくれているディノ達にまで無理をさせてしまう。



“ネア、…………ウィリアムは、自分の意志でそちらに向かったようだ。彼は、かつてラエタの巡礼者達を手駒にしていたというクライメル、……先々代の白夜だね、その魔物と折り合いが悪かった。何か懸念があるのかもしれないが、私に一報が入ったのもまだ数分前なんだ…………”

“…………………自分の意志で?”



どれだけネアが、怖い思いをしていたと思うのだ。


それなのにそんなことをしでかしたウィリアムは、ばしんと爪先を踏んづけてやりたい。

でも、そんなことなんてしないから、どうか無事でいて欲しい。


怖さと悔しさが込み上げて来て、ネアは目の奥がじんと痛くなる。



“………………いいかい、ネア。蝕の影響がそちらでも作用するのであれば、ウィリアムは、君が知る彼より少し身に纏う雰囲気が鋭くなるだろう。…………そしてもし、彼に何かがあったとしても、彼はその資質から、完全に失われるということはない。恐らく、だからこそ彼は自分が行くべきだと思ってしまったのだろう”

“失われることはなくても、一度だってそんな風になったら嫌です…………”



自分で入るくらいなら、その辺に居た祟りものでも投げ込めば良かったのだ。

それなのにどうしてそんなことをするのかと、ネアは、はくはくと刻んだ呼吸の合間に呪わしく思う。



“そうだね。………だが、彼だって、こんなことをすれば君が悲しむのは分っている筈だよ。時に短絡的にさえ見えても、彼はその最悪の展開までを見越して極端な手段を取っていることが多い。………その最悪の顛末の幕を引くのが、ウィリアムの役割だからね。…………だからネア、恐らくウィリアムには、自分が出向かなければと思うだけの理由がそこにはあるのだろう。…………それは、我々に相談をするだけの時間すら惜しかったような理由かもしれない”



ネアは、ウィリアムより先に到着するような、何か怪物の代わりになるものはないのかと尋ねてしまいそうになった。

でもそんなことが可能であればディノだってそうしている筈なのだし、であればネアがそれをと望むのは酷なことだろう。



“たくさん、たくさん用心します。私の状況が悪くなれば、ウィリアムさんの身も危なくなってしまいそうですから…………”

“うん、危ないと思ったら立ち止まるようにするんだよ。それと、ウィリアムが先に到着することを見越せば、こちらからも別の者が入ることが出来る。今、ダナエにあわいを開いて貰っているところだ。…………それとネア、これから書くことを覚えておいておくれ”

“………………はい”



多分、このディノが書いてくれた言葉の向こう側にはもっと色々な事情や、やり取りがあり、ネアが知るべきことは他にも沢山あるような気がした。

その上でディノは、あわいと地上との時差を考え、尚且つネアが飲み込めるだけの言葉を選んでくれている。



(どうしてウィリアムさんはあわいに入れたのだとか、ウィリアムさんがいないことに気付いてしまったギードさんは、大丈夫なのだろうかとか、……………完全に失われないというのは、どの程度なのかとか…………)




頬に触れた涙に気付き、ネアは慌ててそれを指先で拭った。


今はまだ、怖いばかりの気持ちに飲み込まれている場合ではない。

ぐしぐしと目元を擦り、ディノからの大事な言葉を待った。



“君が、ダーダムウェルの魔術師を呼びに行ったら、彼にその怪物への対抗策として、私を召喚させて欲しいんだ”

“…………ディノを?”

“うん。ダナエの見立てでは、あわいを通りそちらに自分の足で赴くより、時差がなくなるから早く行ける。その瞬間の為に、私は道を開いて待っていよう”

“ディノが、来てくれるのですね!”

“うん、私が行くよ。召喚であれば、確実にその場所に、そしてその瞬間に降りることが可能になる。その魔術師が君に触れている状態で私を呼べば、なお手堅いだろう。すぐに君の側に行けるからね”

“………………その為に、身を損なうような無理はしませんか?”

“その心配はないよ。物語の必然として招かれたものであれば、そちらへの介入も可能になるからね。事態を収束させる為に呼ばれた存在であれば、ウィリアムがそのあわいで怪物にされたとしても、対処のしようがある。彼の意識を落している間に、そのあわいごと書き換えてしまおう”




(ディノが、ここに来てくれる……………!)



そのことが、どれだけ心強いか。

あの鐘の音で怪物が現れる時間が決められてしまったけれど、その後にディノが来てくれると決まったという事は、ウィリアムがこちらに来ると聞いて震え上がったネアに、たくさんの勇気をくれた。



召喚そのものは、魔術が稚拙でも呼ばれる側に応える意思があれば可能となる。

ウェルバがそれを仕損じることはないというより、ディノに来るつもりがあるのなら、まず失敗することはないらしい。



他にも少しだけ必要事項を共有し、ここでディノは、一度カードの前から離れた。



ネアにとっては夕方まで時間があるのだが、ディノ達にはもう、ほんの僅かな時間しかない。

ここに来てくれる為の調整など、準備が必要なのだそうだ。



なのでネアは、慌ててウェルバ達のいる部屋に戻った。

走って戻ってきたネアに、何かを深刻そうに話していたウェルバとグレーティアが、はっと振り返る。



「た、大変なのです!」

「ネイ、どうしたの?………やだ、泣いてたの?!」

「ウィリアムさんが…………終焉の魔物さんが、こちらに入って来てしまいます!!」

「……………終焉の魔物が?」



ぎょっとしたようにそう反芻し、ウェルバがよろりと後ずさる。

グレーティアも目を瞠ったまま、声を失っていた。



「何か、自分で来なければならないというだけの、理由があるようなのです。…………ふぇっく」


報告しようとして言葉にしたら、また悲しくなってネアは短い嗚咽にも似た息を吸った。

しかしそんな軟弱な心を叱り飛ばし、慌てて表情をきりりとさせ、両手を握り締める。



「……………すまぬな。あまりにも、………高位の魔物が来るとなったので、一瞬慄いてしまった。…………ネイ、こちらに来るその魔物は、狂乱していたり意識を奪われていたりはしないのだろうか」

「……………ごめんなさい、その部分は確認していませんでしたが、私は、ご自身の意志でこちらに向かったと聞いて、そのようなことではないと思いました。本人の意識があれば、まだ少し楽なのですか?」

「それは勿論そうだ。白夜の魔物は、私があの塔から引っ張り出される前に、素早く自分の意志でこのあわいを去った。だが、…………そうなるように成り立つのが、物語のあわいでもある。あまり長くここに触れると、怪物たらしめる為の条件が整えられる可能性は高い……………」



すぐに立ち直り、一緒に打開策を考え始めてくれたウェルバの隣で、グレーティアは真っ青な顔で震えている。

彼とてウィリアムのことは知っている筈なのだが、今はただ、終焉の魔物が自分の養父と対峙することになるという衝撃があまりにも大きいのかもしれない。



(まだ師匠も動揺しているし、細かい打ち合わせよりも先に、召喚のことをウェルバさんに話しておこう…………)



問題になる時間は夕暮れの後だが、ネアはずっと焦っていた。


今にでも、ウィリアムがこちらに来るかもしれない。

物語が動いてしまうのは後からでも、その前に彼が怪物に仕立て上げられる工程があったとしたならば。

そう考えると、落ち着いてなどいられなかったのだ。



「ウェルバさんには、私の魔物を召喚して欲しいのです」



なので、前置きも何もすっ飛ばしてしまい、意気込んでそう言えば、ようやく落ち着きかけたウェルバが目を丸くする。



「終焉の魔物を?」

「ほわ?!…………い、いえ、ウィリアムさんではなく、私の婚約者なのですが………」

「…………お主に指輪を贈ったのは、終焉ではないのか……………」

「紛らわしくてごめんなさい。ウィリアムさんは、私と私の魔物のお友達なのです。…………なので、私が魔術師さんを呼びにゆく子供の役としてウェルバさんのところに行った後、ウェルバさんには、怪物への対抗手段として私の魔物を召喚して貰いたく…………」

「ま、待たぬか。いいか、終焉は最高位の魔物の一柱だ。お主の婚約者というのも、指輪を見る限りは恐らくは白持ちであろうが、そのような状態で召喚するとなると、終焉の魔物に損なわれる恐れもあるのだぞ?」


慌ててネアをそう窘めたウェルバは、焦燥感を滲ませた口調で短く当てが外れたかと呟く。

それはどういう意味だろうと眉を下げたネアに、魔物が自分の指輪を贈った相手を傷付けることだけはないので、ネアの存在を利用して、怪物化した終焉を捕縛する術を模索していたのだという。



「さすれば、或いは穏便に解決出来ると思っていたのだが………」

「であれば、私の婚約者はウィリアムさんの上司なので、どうにかなると思います。ただ、体力的な問題で言えば少しウィリアムさんの方が実戦向きという懸念もあるのですが………」

「………………終焉より、上位だと?」



がしゃんと音がした。

ウェルバがテーブルの上のグラスをひっくり返しそうになり、慌てて直している。

そしてそのままよろよろと後退し、近くにあった椅子にすとんと座り込んでしまった。

尻尾を踏まれた猫のようなもの凄い顔でこちらを見ているグレーティアに、この騒ぎの中でも、長椅子を寝台代わりにしてまだすやすや眠っているムガル。



「ええ。ただ、それはひとまず後にして……」

「…………ネイ、終焉より高位の魔物は二柱しかおらぬ。正確には、同階位の魔物が一柱と、魔物の王である万象の魔物が一柱だ」




これはもう、ディノが王様だと言わないと落ち着かないやつだろうかと、ネアはまた眉を下げる。


明かしてしまっていいのかどうか分らないが、もう二択まで絞り込まれているので、殆ど明かしたも同然という気もしないではない。



(でも、魔術は言葉の力でもあると聞いたから、ここは、固有名に触れるような肯定はせめて避けてみる…………?)



「はい。私の婚約者は、ウィリアムさんより上位なのです」



けれども、そう言ってしまえば、部屋は何とも言えない沈黙に包まれた。


へたりと床に座り込んでしまったグレーティアにちょっと寂しくなったネアだったが、グレーティアは、私は万象の魔物に使う縄をあげたのねと呟いているので、ダメージを負ったのは、ネアの婚約者が万象の魔物であったという部分ではないようだ。



「………………お主、とんでもない子供だったのだな」

「ちょっと待って、歳の差が大変なことになってるわよ?!」

「……………むむぅ。歳の差については、考えると心の迷宮に入るので種族差として受け流す所存です。……………は!そ、それは置いておいて、まずは段取りを共有させて下さい!!」

「………………確かにお主がいれば、その指輪を媒介にしてお主の婚約者を召喚するのは可能であろう。…………そうか、私は、万象を召喚した魔術師となるのか。……………万象を…………悪くないぞ」

「お父様!わくわくしている場合じゃないでしょう…………」

「あ、ああ、すまぬな。…………こう、つい血が騒いでしまって…………」



そう謝りながらも素晴らしい笑顔を見せてくれたウェルバに、その義理の息子は呆れ顔で溜め息を吐いた。

ネアの方を見て苦笑すると、衝撃の告白のお蔭で、終焉の魔物がこちらに来るという動揺から立ち直れたと話してくれる。



「…………こんな感じだから、あなたの婚約者を召喚するのは間違いなくやってくれるでしょう。…………問題は、ウィリアム様がこちらに来てしまうことの方ね。あの方が本気で向かってきたら、お父様どころか、誰にも抑えられないわ。………………ネイ?」

「閃きました!これはもうこの際、ひとまず傍観者位置のムガルさんに頑張っていただき、私達はすぐさま、ディノを…………私の婚約者というか現在は緊急措置につき暫定伴侶なのですが、……………そんなディノに、ウィリアムさんを鎮めて貰えばいいのでは……………」



妙案を見付けたりとぱっと笑顔になったネアに、ウェルバとグレーティアは、何とも言えない表情ですやすや眠っているムガルの方を見る。



こうして眠っているとあどけない感じすらしてしまうが、さすがに階位落ちしてもある程度高位の魔物ではあると思うので、ウィリアムにやられても、一撃で沈んでしまったりはしないのではないだろうか。



「あら、あの魔物を……………」

「貪食の魔物をか…………。だが確かに、お主等が、私の部屋の扉を叩くまでの時間さえ稼げればいいのだ。召喚そのものは予め術を組んでおくことは容易い。ネイさえ辿り着ければ、召喚魔術が発動するまでは、三十秒もあればいけるな…………」

「さんじゅうびょう…………。思っていたより、ずっと早くてびっくりしました…………」

「念の為に言っておくけど、お父様は特別だから。何重にも魔術を同時展開してその時間なのだから、普通の優秀な魔術師はその何十倍もかかるわよ?」

「ほわ、…………ウェルバさんは凄い魔術師さんなのですね!」

「だが、万象の魔物の召喚は初めてだ。と言うよりも、白持ちの魔物を召喚することは、本来叶わぬこととされている。…………その内の一人であるだけでなく、魔物の王を…………」

「お父様、脱線しちゃ駄目だってば……………」




いつの間にか朝陽が差し込み、部屋はすっかり明るくなった。



まずは、宿の食堂で朝食を食べて力をつけ、本日の計画の動線などを確認するにしても、今日はその瞬間まで外出はしないということになる。



ここは、ダーダムウェルの魔術師のあわいだ。


ウェルバには、外からこの国を訪れる高位の人外者の動きは察知出来るし、地形や道順であれば、魔術で模型のようなものを作り上げて説明出来ると言う。


であれば、巡礼者達がいるかもしれない外に出掛けてゆく方が、不確定要素が大きくなる。


ネアは、森の前でウィリアムを待ちたかったのだが、そちらから来るとも限らないので、擦れ違わないように全方位に監視魔術を配置しておくからと、ウェルバが安心させてくれた。



人間の心理というものは不思議なもので、夜が明けて周囲が明るくなり、尚且つ自分にも備えられることがあると分かれば、何だか、このままどうにかなりそうだぞという明るい気持ちになってくる。





(ウィリアムさんが、どうか無事でありますように…………)




祈るような気持ちでそう思ったネアは、ここから一刻もしない内に、たった一人でブンシェを彷徨うことになるだなんて、思いもしなかった。





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