表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
907/980

324. 魔物が正気に返りました(本編)




後にその瞬間のことを思い返すなら、我に返るということをここまで分かりやすく体現した人を見たのは、ネアは初めてであった。



今後の話をしようぞと、ダーダムウェルの魔術師の物語のおさらいや、ウェルバが今までの経験で知り得たことなどを擦り合わせ、ネアはその上に先程ディノから教えて貰ったことを、ぽいっと乗せようとした。



その時のことだ。


もすもすと森のなかまのおやつを食べていたムガルが、はっと短く息を飲み、ゆっくりと顔を上げた。

鮮やかな真紅の瞳がこちらを見て、ぎくりとするような酷薄な気配を漂わせる。




(……………何か変だ)




良きご主人様というものは、魔物の心の変化にとても敏感である。

それはもう、初期の頃は何をするか分からない婚約者と、すぐに荒ぶる使い魔を抱えていたのだから、ネアは自分のそんな目利きには自信があった。



(捕縛効果が解けた?………もしくは、魔術的な何だか凄い効果で自衛作用が働いたとか、誰かからあの人外者のよくやるテレパシー的な声がかかって正気を取り戻したとか…………)




短い一瞬であれこれ考え、ネアは、隣のムガルに悟られないように慌ててポケットの中の武器を確かめる。

ウェルバの方を見て視線で異変を訴えたかったが、残念ながらその時の彼は、愛息とあれこれ作戦会議中であった。



ここは安全だったのだ。

だからウェルバがその時、ちょっと油断して息子可愛いしか思っていなさそうであっても致し方ない。




「…………飽きた。私は向こうの部屋にいる」



そう言って、がたんとムガルが席を立つ。

ここで命じて止めるのが先程までのネアなのだが、今は刺激を避けてそっと見送ることにした。



ふわふわもしゃもしゃの髪の隙間の横顔に、その赤い瞳が見えたが、元々あまり豊かではない表情までは読めない。




(…………で、でも、もし仲間と連絡を取り合っているのなら、野放しにするのも危険なんじゃ?!)



しかし、そんな危険に気付いてしまったネアは、ムガルの視線がこちらから逸れたところで、事件発生かもしれないという顔を一生懸命作ってグレーティア達に見せると、慌てて立ち上がる。




「ムガルさん…………」




立ち上がったからには何でもいいので理由をつけて話しかけるしかなくなり、ネアは必死にその糸口を探した。



(こ、これしか思い浮かばない!!)




「………なんだ」

「仮眠を取るならあちらですよ!こちら側の寝室は、私が貰ったのです。ですから…」

「どっちだ。人間の部屋はよく分からない」

「…………むぅ。向こうは向こうなのです」

「なぜ案内しない。早くしろ」



この時にネアがうっかりその言葉に従いかけてしまったのは、先程までとあまり変わらないような喋り方に、一瞬、本当にムガルに問題が起きているのかどうか、自信がなくなってしまったからだった。

それは多分、魔物達の老獪さを失念していた迂闊さだったのだろう。



とことこと歩いて寝室はこちらですよと案内しに行きかけて、ひゅっと鋭く空気を切ったその動きを感じた。




直後、がくんと体が揺れる。

ただ、その衝撃に驚いただけで、痛みなどはなかったように思う。




「ネイ!」



そう叫んだのは、ウェルバだっただろうか。

それに答えることも出来ずに首を掴まれてぐっと振り回され、ネアは呆気なく連れ去られる。


しかし、ムガルが移動したのは部屋の端までで、ネアの体は首を掴まれたまま、窓際の壁に背面をだしんと叩きつけられた。




「…………っ?!」



ごつっと後頭部が強く壁にあたり、火花が散るように視界がちかちかした。

グレーティアの青ざめた顔が見えたような気がしたので、それはきっとかなりの衝撃だったのだろう。


その衝撃でまた一歩出遅れ、ネアはまず、気管を圧迫する冷たい手の隙間から何とか息をすることと、ポケットの中で握り締めたままの手をどう動かすかを必死に考える。




「……………お主、何のつもりだ」

「どうやら、私は妙な拘束状態にあったようだ。リンジンの呼びかけで、ふと我に返った」

「…………………リンジン、だと」

「ほお、その顔を見るにお前は、彼を知っているか」

「……………当然だ。あれに関しては私は人を見る目がなかったと言うしかない。三代目か四代目の弟子の一人よ」

「成る程な。………それと、この部屋をどうした?私はこのあわいには不可侵の、見守るものの役割の筈だ。転移が叶わないのは、このあわいの主であるお前が何かをしたとしか思えん」




その言葉に、青い瞳を細めてウェルバは微笑む。


彼にすればネアは人質のようなものだろう。

かなり追い詰められた表情をしてはいるが、眼差しは鋭い。

その鋭さを、ようやくはっきりと結んだ視界に捉え、ネアは最後のちかちかを追いやる為に目を瞬く。




「さて、どうだったかな」

「…………ほお」

「…………っ?!」



その途端、ぎりりっと首を締め付ける手の力が強くなり、やっと意識がしゃんとしたばかりだったネアは、慌てて片手でムガルの手を掴んだ。



じたばたしたいけれど、それをすれば自重で余計に首が締まる。

それに、まだ首を掴む手は拘束の範疇であり、足は床に着いているが、ムガルがこの手を持ち上げたらおしまいだ。



「私が不愉快だと思えば、この女の首が握り潰されるかもしれないな」

「…………であれば、その子供は置いてゆけ。そうすれば、閉鎖魔術も解くし、この部屋から普通に出て行くまで手出しはせぬ」

「…………手出しはしない?何か勘違いをしているようなら、言っておいてやるべきか。お前はどれだけの叡智と力を備えようと、所詮人間の魔術師でしかないのだぞ」



ぎりぎりと首を絞められる。

だがムガルはまだ、ネアの苦鳴が会話の邪魔になる程の力は込めていなかったし、ネアはネアで、生まれ育った世界で抱えていた持病のお蔭で、急に呼吸が苦しくなると冷静になるという癖があった。

心臓の様子がおかしくなった時は、一人暮らしで頼れる人もいなかったので、そうならざるを得なかったのだ。



(…………多分、ウェルバさんは大丈夫だと思う)



ムガルがどこまでを知り、何の為にここに来ていたのか。

そしてウェルバを動揺させた、リンジンという名前の魔術師は誰なのか。

冷静になれば、知りたいことは沢山あるが、今のムガルの発言は間違いだと、ネアは思う。



ここは、ダーダムウェルの魔術師の物語のあわい。


ディノが言っていたように、ここには彼を因果的に成功させる為の物語補正の魔術が敷かれている。


そしてそれは多分、彼がいなければ、そして彼という魔術師が頂点でなければならないというこのあわいの中で、彼を損なわせはしない筈なのだ。



(…………もしかしたら、傍観者の役割の人を倒すことは出来ないかもしれない。…………でも、ウェルバさんの優位性は変わらない筈…………)




また少し、ムガルの手が緩んだ。




「っ、げほっ………」



げふげふと噎せったネアに、冷ややかな視線が向けられる。

その怜悧さにひやりとはするけれど、恐怖心はなかった。


良くも悪くも、魔物からの眼差しには慣れたのだろうなと考え、ネアはまた、ポケットの中できりん符を掴んだままの左手を意識する。


この状況だったのなら、せめて利き腕で掴んでいれば、もう少し心強かっただろう。

掴んでいるのが左手なので、勝負をかける一瞬を見極めるのが難しい。



「その子を離せ」



もう一度、ウェルバはそう言った。

同じことを虚しく繰り返す人ではないと思うので、何かの時間を稼いでいるのかもしれない。



(或いは、本当に手詰まりなのか…………)



損なわれないことと、捕縛出来るかどうかはまた別問題だ。

その部分で苦労しているのかもしれず、ネアは焦り始めた。


何でこうなったのかは分からないものの、今の状況は、ここにムガルを引き入れたネアの手落ちである。

なんとかしなければ、補正のないグレーティアを危険に晒してしまう。



(もう少し、体をこちらに向けてくれれば………。この位置からだと、ウェルバさんとグレーティアさんを巻き添えにしてしまいそう…………)




「…………いや、これは貰っていこう。俺に何かの拘束を敷いたのであれば、それはこの人間以外にはあるまい。恐らくは食べ物の中に何か仕込んでおいたのだろう。…………それに、この女のことであればよく知っている。私は、歌乞いというものが大嫌いだからな」



必死に反撃の方法を考えていたネアは、その言葉に背筋が冷えた。



(……………私を、知ってる?!)



ぎくりとしたネアに、ムガルは視線を少しだけこちらに向けて微笑んだ。

そこには憎しみめいたものの翳りもちらりと滲んだが、平素は人間などという脆弱な生き物に注意を払わない高位の魔物らしい高慢さもある。



嫌いだが憎むほどの心は傾けない。

彼にとってのネアは、そういう存在なのだ。



「…………私が誰なのか、ご存知だったのですね」

「私とて、元々はヴェルクレアの統括の魔物だ。お前があのガレンの長達の手で選定された時に、国の新しい歌乞いが決まったと、あの国の巫女姫から私の元にも報せがあった。………意外そうな目をしているな?」

「……………っ、けほっ。………あなたは、統括の魔物としてのお仕事はしていなかった筈です……………」



首元の拘束を緩められ返答を促されたので、ネアはそう答える。

このやり取りの時間が、少しでもウェルバ達に有利に働けばいいのだが。



(もし、どうしようもないのなら………、ムガルさんの注意をどうにかして私に引き付けて、二人が部屋を出る隙を作るしかない…………)



いざとなれば、彼等だけでもここから逃がしたい。

ネアとてそう簡単にやられてしまわない筈なので、一対一に持ち込めればきりん符が使い放題になり、勝機を見込めそうである。




「あの人間は特別だ。私が愛した女が守護を与え、それ故にあの力を得た。愛する者の守護を持つのだ。会ってやるしかあるまい」

「……………愛する者」



そこで初めて、ムガルの瞳に鮮烈なまでの怒りが揺れた。




「…………そうだ。ずっと彼女を愛し、守り続けてきた。それが、さして優秀でもない教会の歌乞いなどに魅了され、見るに耐えない蒙昧ぶり。…………あの男を殺してやろうにも、レイラの守りが固くてな」




またひとつ、背筋に悪寒が走る。



(ここで、レイラさんの名前が出てきたのは、果たして偶然なのだろうか……………)



そう考えてしまってふるりと身震いした。

もし、ネアの考えていることが当たってしまえば、彼等にとってネアは囮だったことになる。




(私を知っていて、ここはレイラさん管轄のあわい。例えばここで、私や、狙われていた人たちを傷付けたなら、きっとレイラさんも巻き込むような騒ぎになる…………?)




「………あなたは、私を知っていて、私に近付いたのですか?」

「わざわざそんなことをするか。お前に出会ったのは偶然だ」

「……………なぬ。…………となると、本気で行き倒れていたのですね」

「………………なんのことだ」



少しだけ声に狼狽が混じり、ネアはそんな声を聞きながら安堵のあまりに息を吐きたくなるのを堪えた。



(良かった…………。意図されたことじゃなかった。ただの偶然………と言うか、あわいの住人ではない、私とグレーティアさんにしか見えなかったというだけだったんだわ)



勿論まだ疑問はある、とは言え自分が囮にされているという程の緊急性はない。

そう考えて、密かな安堵を噛み締めていたからだろうか。



この時ネアは、こんな状況下にありながら、うっかり、少しだけ心を緩めてしまったのだ。




「であれば、私はあなたを餓死から救って差し上げたのです。仲間にならないのだとしても、あなたが魔物さんであれば、魔術の理に倣いその恩には報いるべきではないでしょうか」

「与えられたものへの借りは返した。この先は、お前が、歌乞いであることの報いを受ける番だ。…………反抗的な目だな?まさかその身で、より多くの恩恵までを得られるとでも思ったか。美しくもなく力もない、醜い灰色のレインカルのような…」



そこで、うっかり心を緩めた脆弱な人間めの限界値の留め金を外してくれたのは、そんな暴言だったのだと思う。


それはネアへの暴言であったが、恐らくは彼が恨みを持つ誰かへの怒りを、こちらにも向けられたのだと分かっていた。

愛する人を奪った歌乞いへの憎しみを抱えたムガルだからこそ、ここで歌乞いであるネアに嵌められたことでより強い怒りを覚えたのだ。




しかし、その一言でムガルは、決して開けてはいけない禁断の扉を開いたのである。




次の瞬間、キシャーと声にならない声を上げて自分の首を掴んだ魔物に襲いかかったネアは、レインカルよりももっと獰猛な獣に見えたと、後にグレーティアは語る。



怒り狂った人間はまず、ポケットの中の手を引き抜いてきりん符を掴んだ手を、ムガルの顔面にばしんと叩きつけた。


ぎゃっと悲鳴を上げてどうっと床に崩れ落ちたムガルに飛び乗り、げしげしと戦闘靴で踏みつけているところで、慌てて駆け寄ったグレーティアに抱え上げられる。




「ちょ、駄目よ?!落ち着いて!!ここは物語のあわいなんだから、おかしなものを殺したら何があるか分からないから!!弟子!!」

「むぐるるる!」

「弟子、落ち着きなさい!!こらっ!!」

「むぐる!……………むぐ?」



ここで漸く、ネアは大柄なグレーティアに持ち上げられてしまったことで、ムガルを踏めないことに気付き目を瞬いた。

試しに足をばたばたさせ、どうやら宙に浮いているぞと振り返る。




「……………なぬ。………師匠でふ」

「…………そうね。いい子だから、このまま正気に戻って頂戴。それに、首は大丈夫なの?そんな風に暴れて余計に痛めたりしたら…………」

「…………む。首が………というか、喉がいがいがします。……げふん」

「いい?床に放してあなたの喉を診るから、もうこの魔物を殺すのは諦めなさい。いいわね?」

「……………まぁ、いつの間にかムガルさんが死んでいます」

「覚えてないとはまた、特殊系統の逸材ね…………」




ムガルは、いつの間にかウェルバが引き摺って部屋の端に移動させていた。

何やら魔術拘束のようなことを行い、ふうっと息を吐いている。




「………これでよし。いやはや、最近の子供は凄いものだな。何とか間に合い、やっと捕縛用の術式が編み終わったところだったのだが、不要になってしまうところだった。…………グレーティア、ネイの様子はどうだ?」

「正気に戻ったわ。………余程、言ってはならない言葉だったんでしょう。それと、お父様、この子の喉を見てくれる?思ってたよりずっといいけれど、赤くなってるわ」

「ああ、どれどれ、見せておくれ」



グレーティアがムガルの方にゆき、ネアのところには入れ替わりでウェルバが来てくれた。

まだ激昂の余韻が冷めず、事態を飲み込む為にきょろきょろしていたネアが、慌てて屈んで喉を見て貰うと、守護のお陰で喉を潰されずに済んだのだと教えて貰う。



そっと触れた指先は、妖精の擬態を演じているままだったので細い青年のものだ。

触れられると、しゅわりとひりついた痛みが消えた。



「でなければ、危なかったぞ。………このような魔物達の言う手加減をしているという範疇は、我々が健やかな体を維持するには大きく足らないこともある。その身の守護に感謝するように」

「…………ふぁい。………それにしても、何があったのでしょう。先程までは、森のおやつが効いていた筈なのです…………」



ちらりとムガルの方を見て、ネアはぎくりとした。



(し、師匠!!それは専門の世界のやつですよ!!ほら、ウェルバさんが振り返って固まってしまっていますから!!)



その縛り方はとても危ういし、そこまで専門的に動けなくしなくてもいいのではないだろうか。


下手をすると下僕が誕生してしまうのではと思いかけ、ネアはそれはそれでいいのかと頷いた。




「………………ネ、ネイ。あの魔物に対して、何か特別なことをしたり、今までとは違うものを与えたか?」



ごほんと咳をして気を取り直したウェルバにそう言われ、ネアはぎくりとした。


そう言えば先程、良かれと思って加算の銀器で森のおやつに効果を添付したのだが、それが原因なのだろうか。




「…………実は、効果を加算するような道具で、森のおやつクッキーの一枚の効果を、千倍にしたのです。それがまずかったのかもしれません」

「…………加算の効果。それは、人の手がなければ扱えないような道具だろうか」

「…………人の手が。…………スプーンの形をしています」



ムガルを縛り終えたグレーティアもこちらに来て、ウェルバから簡単な治療魔術をかけて貰いお礼のお辞儀をしたネアの頭を、優しくぽんぽんと叩いてくれる。



「そのような道具は、使い手と組み合わせてこそ能力を動かすものだ。お主らは蝕の影響でここに来たのだから、地上の蝕の影響がここにも出てはいるのだろう。………今後は、武器以外のもので、そのような道具は使わぬ方がいいだろうな……………」

「………武器だと、平気なのですか?」

「ああ。大抵の武器は攻撃することがその資質となる。道具などとは違い、不利属性や、攻撃そのものを禁じるような領域以外の外的要因では、そうそう変質させられないのだ」



腕を組んで顎に手を当てたウェルバはそう言い、ネアは神妙な面持ちで頷いた。

蝕の影響を受ける生き物が動かすという条件下であっても、他にもそれそのものの特性から資質が動かないものはあるのだそうだ。



「例えば、石臼が粉を挽かなくなるということはない。回されれば動いてしまうので、すり潰さないという状態を作れず反転のしようがない」

「…………蝕も、奥が深いのですね」



こんな風に説明をして貰うと、エーダリアを筆頭とした魔術師達が、その不思議に魅せられるのも分かるような気がした。

これはなぜ、あれはどうしてとやってゆけば、なかなかに深い世界なのだ。



(…………でも今は、まず最初に謝らなきゃ)




今回、襲われたのはネアだけで済んだが、まかり間違えば、彼等を巻き込んでしまうところであった。



三歩ほど下がり、ネアはもう一度、二人に対して丁寧に頭を下げた。




「…………ウェルバさん、グレーティアさん、ごめんなさい。私の判断で、野放しにするのも危ないかもしれないと捕まえた魔物さんでした。それを私の不手際で解き放ってしまい、お二人を巻き込みかけてしまって…………」

「謝らなくていいわ。こうなるかもしれないという危険性は私も承知の上だったもの。それにそもそも、普通は捕まえられないんだけどね…………」



呆れ顔でそう言ったグレーティアが、森のおやつは残っていないのかと尋ねてきた。

勿論、加算の効果を添付されていない、売られていた時の状態のものである。



「ええ、その効果を使ったのは一つだけでしたので、まだまだ残ってはいるのですが………」

「………と言うか、どれだけ持ってるのよ」

「七袋セットのものを持たされているので、後、五袋分あります」

「…………とりあえず、その加算効果とやらが反対に働いた可能性があると考えて、普通のものをもう一度食べさせておきましょう」

「………し、しかし、まだ生きてますか?」

「………階位落ちしているが、生きてはおろうな」

「まぁ、階位落ちですか。きりんさんはよく階位落ちに貢献しますねぇ」

「………ええと、さっきの紙は、お父様が機転をきかせて、伏せておいてくれたわ。早く回収しましょうか!」

「あの効果を見る限り、余程危険な術符だと思ってな」



そこでネアは、慌てて部屋の片隅に裏返しにされて落ちていたきりん符を拾い、とは言え、誰かの顔面に押し当てられたものは嫌だなと眉を顰めた。

びりびりにして捨てても被害が出るといけないので、今は丁寧におもて面を内側にして畳んでしまっておく。

無事に帰った後に、焼き芋用の落ち葉にでも放り込もう。




意識を失い、縛り上げられた魔物の口に、グレーティアは容赦なく森のなかまのおやつを放り込んでいた。

ほろほろ崩れる柔らかなクッキーだが、それを詰め込まれ口を閉じられてしまい、ムガルは、息苦しさに魘されながら、失神したまま本能的に口をもぐもぐさせている。




「せっかく沢山食べさせたのですが、自分で無効化してしまいました…………」

「…………だが、この魔物が一度正気に返ったことで、リンジンが関わっていることを知れたのは僥倖だ。あの男が絡んでいるとなると、より注意が必要となる」



(そう言えば…………)



ネアは、ムガルが出していた名前があったことを思い出した。

呼びかけがあったと言うことは、その人物は、このあわいの中にいるのだろうか。



そう考えると窓や扉の方が気になってしまい、ネアはそわそわする。

その緊張に気付いたウェルバが、今は近くにいないと教えてくれた。



「分かるのですか………?」

「ああ。私が印を与えた魔術師だからな。それに、この子は因縁がある」

「グレーティアさんが………?」

「……………そいつはね、私が月闇の竜だと知って、私の目を奪おうとしたことがあるの。熊の手の魔術師達は、他種族の資質をその身に移植して異形化することを理想としていたわ。だからあの男は、私の目を欲しがったって訳。まぁ、ふん捕まえて、叩きのめしてやったけどね」



そう笑ったグレーティアに対し、ウェルバは厳しい表情を浮かべる。



当時のウェルバは、復活薬の完成から数年が経ったことで、緑の塔を出ることも許されるようになっていた。

ラエタはその豊かさと復活薬の恩恵に預かろうと集まった周辺の集落や国々を迎合し、もはや隣国に脅かされることなどないくらいの大国に成長していたのだ。




「私は、復活薬の錬成方法を、求められれば多くの者達に伝授したいと思っていた。あの薬は、使う者達の幸福に繋がるだけでなく、死というものがある程度回避可能となれば、戦なども馬鹿馬鹿しくなってしなくなるだろうと考えていたからだ」



リンジンという魔術師はそんな叡智を求めてウェルバに弟子入りした男で、グレーティアの事件が起きた時にはもう、ウェルバの下での修行を終えていて、一人前の魔術師として独立していたらしい。




「………ネイよ、市場で魔術師の区分を話しただろう?リンジンはまさに子供だ。自分の興味の赴くまま、欲しいものを奪おうとする。そしてあの男は、魔術においてはある種の天才でもあった」

「あら、私に投げ飛ばされて足の骨を折って、泣きながら逃げたけど?」

「…………グレーティア、お主はもう、月闇の竜ではないのだろう?」

「…………ん、そうだったわ……………。確かに、この妖精の体でぶつかれば、勝ち目はなさそうね…………」



呆れたようなウェルバの言葉にしゅんとし、グレーティアは元竜らしく、父親の周りをうろうろした。




(もしその人が現れたら、この二人は個人的な由縁がある分、危険も高いのではないかしら…………)




「…………ネイ、一つ聞いてもいいか?」

「ウェルバさん…………?」

「お主は、リンジンを知らぬのだよな?」

「はい。遭遇したことのある魔術師さん達は、私の魔物や他の魔物さんが倒してしまいました。ですが、気付かれないように物陰から見ていられたりしたら、一方的に認識されているのかもしれません…………」



ふいに、ぱたんと扉の全てが閉じ、窓のカーテンが閉まった。

ぼっと室内の明かりが灯り、周囲の色合いが変化する。




驚いてきょろきょろするネアの正面で、ふわりとウェルバの擬態が解けた。

ネアが最初に市場で出会った金髪に水色の瞳の少年の姿になったウェルバに、懐かしい面影を見たのかグレーティアがじわっと涙目になる。

だが、ウェルバ自身はまだ厳しい目のままだ。




「ふむ。であればやはり、危ういのはグレーティアか。私はまだあれよりは技量が上だという自負もあるし、魔術師としての印を与えた師として、あやつが近付けば分かる。そして何よりも、ここでは不本意ながらこの身を守られているのだが………」

「ウェルバさんは、今の段階で、外側に繋がるような魔術は扱えないのですものね………」

「ああ。以前に一度、ここに迷い込んだ子供に頼まれてやってみたのだが、出来ぬのだ。一定以上の魔術の扱いは、怪物と対峙する時だけと限られているらしい。おまけに、怪物が現れると私は一度塔に戻されてしまう」

「えええ、そうなの?!お父様がいるならって安心してたのに!」

「子供が塔に来て助けを求めるまではと、物語の形を整えさせられるのだ。…………その間、役割を持つネイは問題はなかろうが、…………リンジンがいるとなると、お主が心配でな…………」



その仕組みは、ディノに聞いていた通りのようだ。

となると、ウェルバが不在になっても、役割に守られるネアはいいが、その魔術師と因縁のあるグレーティアはやはり危ういような気がする。




「…………きっと、ムガルさんに呼びかけがあったくらいなら、いずれその方も現れますよね…………」

「どのような形で連携していたのか、或いはただの知り合いなのか、その魔物から話も聞きたいが、…………その前にまず、グレーティアと結んでおかねばならぬ魔術がある」

「…………お父様?」

「すまぬな、お前にはこんなものをかけたくないのだが、一時的な措置だと許しておくれ。お前は今のところは怪物の役ではないようだが、リンジンがお前を認識すれば、それをあえてお前に押し付けかねない。ここを出るまで、私と隷属契約を結ぶぞ」



ウェルバの計画はこうである。

代理妖精などの契約でも使われる特殊な隷属契約を結んでおけば、魔術の仕組み上、グレーティアはウェルバに逆らえない。

その状態から、怪物役の条件を満たす行為を禁じる命令を出しておけば、魔術師と怪物という構図を作ることが不可能となるので、グレーティアを怪物にする図式が成り立たないのだ。



このような措置は、ちょっとした時間差が命取りとなることがある。

一刻も早くと、ウェルバは素早くその契約を進め、グレーティアはすぐに、暫定的にではあるが義父の代理妖精になった。



「よし。やはりこのような魔術であれば使えたか。これで、ひとまずは安心だな」

「ウェルバさんが、このあわいの中心だからこそ、出来ることなのですね…………!」

「ああ。ここでは私が因果的に優先されるからこそ、この魔術はリンジンにも解けぬ」

「…………拘束契約を結んだのは初めてだわ」



目をぱちくりさせたグレーティアに、ウェルバは、ムガルが正気に返って暴れてくれたお陰で、この契約が可能だと確信したのだと教えてくれる。




「あの魔物は、暴れても怪物にされなかった。となると、物語上の役割がないという指定状態にある者は、ある程度の自由が効くのだろう。であれば、グレーティアに役名がない今の内に、物語に支障がない範囲でその道筋から外しておきたかったのだ」



安堵したように微笑んだウェルバに、ネアも胸を撫で下ろす。




「…………こうなれば、ムガルさんを怪物に仕立てて早期解決してしまいたかったのですが、ムガルさんには物語に加わらないという特殊な役名がついてしまっていましたね………」

「思ったんだけど、もう怪物役はリンジンでいいんじゃないの……………?」

「グレーティア、話しただろう?巡礼者はこのあわいの物語の壇上には上がれぬのだ」

「そうだったわ…………。でもそうなると、ただここでリンジンが動くのを待つしかないのね……………」

「それすらも分からぬことだらけだな。果たして、お主らをここに落としたのがリンジンなのかすら、まだ特定は出来ぬのだから」




その時、ゴーンとどこかで鐘が鳴った。

ネアはぎくりとしたが、なぜかウェルバの表情は明るくなる。




「あれは、夜が近くなったから家に帰るようにと報せる鐘の音だ。今の鳴らし方はな、三日月の夜を知らせるものになる。三日月の夜であれば、蝕の影響が出たとしてもいきなり満月にはならん。怪物の現れる夜までは、まだ少し猶予があるぞ」

「蝕などは関係なく、突然、今夜が強制的に満月になったりすることはないのですか?」

「ここは物語のあわいだ。三日月の夜が始まった以上は、ひとまず今夜にそれが起こることはない。なぜならば、物語の序盤に三日月の夜の場面があるからだ」




ダーダムウェルの魔術師の物語では、物語の最初に書かれた三日月の夜は、穏やかで賑やかな楽しい夜なのだという。

その日は、満月の夜の祭りを控え、舞台になるブンシェの街がどれだけ豊かなのかを説明する頁となる。



「それなら、今夜は公式に認められた穏やかな夜なので、たっぷり作戦会議が出来ますね!」

「よし、ムガルが起きるまでに、たっぷり森のおやつを食べさせましょ!!」

「はい、師匠!」



猶予を得て張り切ったネア達だったが、突然、ウェルバが、あっと声を上げた。



「ウェルバさん?」

「お父様…………?」

「すまぬ。…………一つ厄介なことを忘れておった。…………三日月の夜はな、物語に出てくる子供は、市場にある屋台通りで食事をせねばならぬ。そんな子供の目線で語られる場面であった」

「………………なぬ。ひ、一人でですか?」

「いや、一人という条件はない。とは言え私は共に行けぬので、グレーティアを連れてゆくといい。……………やれやれ、今のお主達を外には出したくないのだが、…………自ら赴かねば、強制的にそうせざるを得ないような事件が起こる。それも好ましくないな」




かくして、ネアとグレーティアは、敵が潜んでいるかもしれないブンシェの国の賑やかな市場に、それどころではないのに屋台のご飯を楽しみに行く羽目になってしまった。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ