漆黒の門と遠い日の対価
ゆっくりと世界が翳ってゆく。
そうして、くるりと反転した。
その様を見上げていれば、青空が菫色から赤紫、そして赤黒くなり濃紺から漆黒の夜空になる。
時折反転までに時間のかかることもあるが、今回の蝕はあっという間に転じ切ったようだ。
星空もいつものものとは色を違えた。
夜空に瞬く星は光を失ったが、とは言え輝きそのものを失うものではない。
蝕の輝きを放つ星々は、まるで蝋燭の焔めいた金色に揺れた。
「…………ああ、悪くはないな」
そう呟き、漆黒の帽子を被り直す。
落ちてくる暗闇からは絶命が消え、その代わりに怨嗟の声や憎しみの呟きが聞こえてくる。
その温度は冷たい風のように肌に心地良く、自然と微笑みが浮かんでしまう。
(これもまた、業のようなものだな……………)
蝕の日になると、心の中の柔らかな部分が扱い易くなる。
世界を眺めやすく、あちこちでの喧騒や騒動がどこか愉快に感じる程。
そうして、煩わしい鎖のその全てを外せば、どこにだって行けるような気もするのだ。
カリカリと、どこからか地面を掻くような音が聞こえ、視線を足元に落とした。
澱んだ泉の水のような暗闇の中を歩けば、砂の中や崩れた城壁から、じわりじわりと滲み出す穢れがある。
ここはすっかり忘れ去られた王国の跡。
封印されていたものの生きた要素の何かが動き、そして音を立ててひび割れたその隙間から、指を伸ばすものがあった。
「愚かだな。地上に出てその豊かさを知ったところで、すぐに蝕は明ける。また閉ざされるその絶望を知るよりも、ずっと眠っていればいいものを」
唇の端を持ち上げてそう微笑むが、彼等には届かない声だろう。
こうして蝕の度に逃げ出そうとして、そうしてまた蝕の度に壊れてゆく。
所詮、蓋が緩むだけなのだ。
この封印を施した者達とて、その当時はこの国が千年も万年も続くと信じていた。
だからこそ、国の中に設けられた封印は頑強で、こうしてひび割れはしても決してその檻の戸を開くことはない。
視線を外してその哀れな生き物を忘れると、霜の下りた砂地をどこまでも歩いてみた。
夜になれば灼熱の陽射しを忘れ寒気に包まれるこの土地だが、蝕の反転で齎されたのは冬だった。
雲もないその土地のどこまでもを、はらはらと降り始めた雪が覆ってゆく。
(蝕に転じて少し、そろそろ蝕の資質が安定してきた頃だな………)
黒い手袋に包まれた片手を確認し、短く頷くと探し物に出ることにした。
周囲は暗かったが、歩くのに困るという程ではない。
途中で、檻に入れてどこかに運ぼうとしていた獣の質が反転し、暴れ出した大きな虎に襲われている一団がいた。
このあたりに居るということは、どこか大きな街に避難する前に、蝕が思いがけず早く始まってしまったのだろう。
(午睡の虎か…………)
午睡の虎と呼ばれる若葉色の虎は、本来は大人しく、嗜好品の毛皮として取り引きされることも多い。
穏やかさや安定への祝福を齎すことで世界的に保護されている生き物ながら、争いなどに向かずすぐに密猟者たちに捕まってしまうのだが、今日ばかりは恐ろしく獰猛だ。
赤茶色の毛並みになり、逃げ惑う密猟者たちを食い殺している虎の横を通り抜ける。
この姿が見えたのか、縋るようにこちらに手を伸ばした女がいたが、一瞥して視線を外した。
それから、また少し歩いた。
蝕の影響が深く、開かない筈のあわいへの道が緩む魔術の不安定な土地は、多くの文明や大国が滅び落ちた砂漠には、意外に多いものだ。
その中の一つの場所に辿り着き、このあたりで分りやすい狼煙でも上げるかと思っていたところで、ふわりと背後に現れた人影を視線の端に捉えた。
ざりりっと、残っていた石床を覆った砂を踏む音。
どこか遠くで、獣の遠吠えも聞こえる。
「………珍しいな。何の用だ?」
「恐れながら、…………私はこれでも白夜です。その身を違えようと、その質は変わりません。だからこそ、あなたを一度は引き止めるべきだと、そう思いまして」
「…………それで、こんなところまで?いや、…………そうは見えないな。白夜がそんな気質なものか」
僅かに苦笑したまま振り返ると、こちらを見た瞳に微かな動揺が走る。
かつての白夜であればあり得ぬことだが、確かにこの男は変わったのだろう。
とは言え、彼の言うように魔物である以上は魂の資質が変わる筈もない。
変わるとしたら、それは見出したただ一人のその為なのだ。
だからこの男は、そのただ一人の為に、白夜としてこうしてこの場所にやって来たのだろう。
「俺が、あの巡礼者達の罠に踏み込むかどうかを、ここまで確認しに来たんじゃないのか?」
「ご冗談を。なぜ私が、そのようなことを望むのでしょう。あなたが損なわれたなら、私の愛する者も悲しむでしょうに」
「だからこそだ。愛する者を安心させる為に、俺をあわいに送り込みたいんだろう?その先で何が起ころうが、確かに俺は目的くらいは果たすだろうからな。何なら、道を開く手伝いでもするか?巡礼者達の誘導で地下に降りるよりは、連れ戻す確率は上がるかもしれない」
「…………ふむ。そこまで御身の意思が固いのであれば、やむを得ませんか」
生真面目な仕草て顎先に手を当て、悩むように視線を伏せながらも、ルドルフは微笑んでいた。
己の資質がそのようなものだと認識されてしまえば、彼とて魔物であるので、もう取り繕うことはない。
(それも当然の事だ)
この蝕でこそ力を振るう魔物の一人として、この白夜がいる。
練り直された彼は、これまでその最も力を得るべき蝕に触れずにいたのだが、今日の様子を見ていると、これからはまた在り方を少し変えてゆくかもしれない。
よく見れば、階位を落したことで灰色になっていた髪は、白みがかった灰色になっているようだ。
このまま、あの白い髪に戻れば或いは。
「うっかり道を間違えないよう、注意いたしましょう。あなたが不利益を被るのは、私とて本意ではありませんから」
「出来ないのであれば、時間の無駄だ。招待の道は一つではない。俺がそれらしい隙でも見せれば、安心して門を開ける巡礼者達がいる」
「どちらでもと言いたいところですが、見張られた門で足止めをされるのは、御身とて不本意でしょう。ここは私が。…………いや何、借りだと思われずとも構いませんからね」
「やれやれ、相変わらずのその口数の多さは変わらないのか……………」
硬質な輝きの緑の瞳に漆黒の正装姿の白夜は、人間達が見れば禍々しい姿だと言うだろう。
だが、これがよく見知った白夜である。
白夜とはこうして悪辣で皮肉屋で、特に理由などなくとも不愉快な男。
それなのにこの男は、人が死に国や町が滅び、そこに育つ怨嗟と従者達の苦痛をこそを好む目障りなものでもあり続けた。
とは言えそれもまた、この世界が持つ一つの資質なのだろう。
「…………クライメル程に邪悪というものであれば、それはまたそれなりの彩りなんだがな…………」
「それは、その他のありとあらゆる生き物達からの悪評を、あなたと分かち合っていたからではなく?」
「俺とクライメルは、その性質がまるで違う。だが、どちらにも転ぶものではなく、ただひたすらに純度の高い悪意というものは分かりやすい」
「……………やはりそれは、あなたの悪評を軽減するものではありませんか」
そう笑い、ルドルフは霜の下りた砂の上に漆黒の影で壮麗な門を作り上げた。
何を模したものなのか一目で気付き、眉を持ち上げる。
「あなたらしいでしょう。これは私なりの、声援のようなものです。お気に召していただけましたか?」
「門としての機能があれば何でも」
「まったく、遊び心もない方だ。そのような堅苦しさで、迎えに行く女性を退屈させないといいのですが」
そう言い残すと胸に手を当てて一礼し、ルドルフは優雅に姿を消した。
(………巡礼者達を追わされていた筈だが、俺を放り込むことにしたらしい)
確かにそれが最も簡単な策だ。
万象の伴侶となる人間を必ず救い出すのであれば、巡礼者の足取りを追うよりも、自らが得意とする魔術を使い、彼女を救い出せるような人物をあわいに差し向ければいい。
ましてやここにいるのは、自らそのあわいに向かおうとしていた者だ。
白夜にとって、これ以上都合のいい展開があるだろうか。
後に残されたのは、やけに壮麗な死者の門を模したあわいへの入り口で、少しずつ砂漠を白く染めてゆく雪の中で、くっきりと浮かび上がったその怜悧な黒さに、微かに意識が冴える。
(ああ、この向こうのどこかに………)
門の向こうから吹いてくる風は、ここではないどこか。
あわいの、よく知られた階層ではなく、閉ざされ隔離されたあのラエタの始まりの街に繋がるものだ。
一歩でもこの足をその中に踏み入れれば、巡礼者達は気付くだろう。
彼等にあわいの変化を探知するような特権はないのだが、今回はそこに獲物を誘導しようとしていた以上、獲物が近付いたら気付かせるような仕掛けはあると見た方がいい。
「…………時間は、あまりないか」
資質を大きく反転させ、失わない筈のものまでを転換させて一時的に手放すことで、この世界に何よりも得難いものを一つ、縛り付けてある。
けれどもそれは今、思いがけない事件により危険に晒されていた。
(犠牲の魔術で、彼女を繋ぐ鎖を作る為に対価を支払った。それだけで全てが上手くいく筈だったものが、この体たらくか。……………だが、あの時にはここまでのことは予想していなかった)
この対価を敷いた男もまた、ここまでのことは想定していなかったに違いない。
彼はただ、失われないものと、失われるかもしれないものを置き換えただけなのだ。
彼女をこの世界から見失わない為に、この身の変化を対価に置き換える約束を取り付けたのは、あの海竜の戦の終わった日のことだった。
『すまない、少し話せるか……………』
そう声をかけて、海辺の宴席会場になる場所を歩きながら、間違いなく起こるであろう蝕について短い話をした。
『実は、蝕の時に、先代の犠牲に何度かその力を借りたことがある』
『犠牲の魔術で力を貸せるものとなれば、何かの代償と引き換えに願うものがあったのだろうか』
そう言いながらも、シェダーとネアが呼ぶその男は、何を頼まれるのかある程度の想定はしていたのだろう。
だからこそその後に続けられた言葉に目を瞠ったのは、彼がそこまでのことは考えていなかったからだ。
『以前の俺は、蝕の影響を受けない筈の領域にまで変質を受ける代わりに、蝕の間だけ、自身の身にかけられた枷を外していた。………いつだったか、変質を受ける要素もあるのにその全てが反転しないのは難儀なものだと誰かが言い、であればいっそ変えてしまうことで束の間の休息としてはどうだろうかと、先代の犠牲が提案してくれたからだ』
『ああ。…………変わらないものを変えることが出来る。確かにそんな魔術を動かすなら、蝕程に向いた日はないだろう。しかしそれでも、変質させるものが大きければ、やはりある程度の対価は必要になる』
『同じようなことを彼は言っていたよ。………彼は、変わらない筈のものを失うという要素を逆手に取って、そのあまりに大きな喪失を対価とし、俺が休日を取れるようにしようと提案してくれた』
遠い遠い、あれはいつの頃だったか。
白夜が豊穣や麦と争った年があった。
お蔭でその年はあちこちで飢饉が相次ぎ、ウィリアムは疲弊しきっていた。
寝る間もなく働くその様子を見に来たグレアムが、そんなことを思いついたのだ。
『ノアベルトの言う通りだ。君は、反転の影響を受け、損ない奪うのではなく修復し与えるという資質を得るくせに、なぜか終焉としての要素は手放すことが出来ない。なぜならば、その終焉の要素は、反転の影響を受けようと翻らない程の重さであるから』
『………………あらためて言わないでくれ。俺だって、蝕の日くらいはこの資質を手放せたらと思うさ。この蝕の後に、飢饉の影響はより深刻になる。次に眠れるのはいったいどれだけ先になるやら、頭が痛い…………』
そう呟き溜め息を吐いたウィリアムに、友人は目を細めてふっと微笑んだ。
『だから言ったんだ。………なぁ、対価というものは、不利益であることこそが条件になる。本当はどうであれ、不利益という体裁を整えさえすれば、どんなものも対価にすることが出来るんだ』
『…………………ああ、……………?』
『さすがに、シルハーンのように全てにおいて相反する資質も持たれているとそうもいかないが、君の持つ資質は極端なものだ。…………その、例え蝕でも反転しないという要素を、蝕でも変わらない恩恵として対価に設定し、反転させてしまうことが出来るかもしれないぞ』
『そんなことが出来るのか…………………』
『もしそれが可能であれば、最低でも一日はゆっくり眠れる筈だ。…………ただし、終焉の要素が失われることによって、その日に齎される終焉は先延ばしになったりもするかもしれない。他にもある程度の不利益もあるかもしれないし、何よりも君の頑強さは少々目減りする。当日は、安全などこかで寝るだけの休日にして貰わないといけないが、それでもいいか?』
『…………………正直なところ、俺は眠れるなら、なんでもいい』
そうしてその年の蝕の日、ウィリアムは、蝕ですら変えられなかった己の資質の安定性を対価に、蝕で反転するものにその身を置き換えた。
『…………思ったより君の資質は頑固だな。終焉そのものはやはり反転でも手放せはしないが、扱えなくなるという区分にすればいけるか…………』
勿論、大きな魔術を動かす以上、グレアムにも負荷をかける行いだ。
世界にも一定の影響が現われるものであり、シルハーンにも相談せざるを得なかった。
『おや、そのようなことが可能なのだね。であれば、勿論構わないよ。確かにウィリアムは少し休んだ方がいい』
一人だけ逃げ出すような僅かばかりの罪悪感を持ち相談すれば、シルハーンは淡く微笑んでそう言ってくれた。
グレアムは、仕事が落ち着いたらいい酒を奢ってくれればそれでいいと言い、驚くべき犠牲の魔術を使って、ウィリアムに数か月ぶりにひたすら眠るだけの優雅な休日を与えてくれたのだ。
しかし、やはり弊害もあった。
休んだ分だけ仕事はその後に持ち越されていたし、何よりも蝕が明けてから出会った友人達の表情に、あまり見たくなかった困惑の色があったのだ。
『ゆっくり眠れたようで良かった。シルハーン曰く、世界にはそこまで影響は出ていないそうだ。蝕とは反転があるものという人々の認識が強く、改竄の影響が現れ難かったらしい。…………とは言え、…………見た目以上に気質も少し変わるのだな』
『……………俺は、あのウィリアムだったら、友人になるのにもう少し時間がかかったかもしれない』
何となく目を逸らしながら友人達はそう言ったので、いささか気恥ずかしくなる。
ウィリアムが酒でそのような失敗をすることはないが、酔いが深く酩酊で言動が変わってしまって過ちを犯す者達の気持ちが少しだけ分かってしまったような気がした。
なので、蝕での反転は、どうしても体を休ませたい時だけの最低限に留めようと思ったのもいい思い出だ。
蝕が訪れても、比較的穏やかに過ごせたので反転を必要としない年もあり、これまでに完全な反転を受けたのはまだ片手の指程の回数しかない。
完全な反転をさせると言動が変わるからか、治癒などに長けるという恩恵もある蝕の日のウィリアムであっても、その種の祝福を求める者達は殆どいなかった。
善良で無力になるのにより近寄り難くなるのかと、グレアムからは不憫がられたものだ。
そんな友に、蝕の反転で終焉の持つ力を塞いで貰うのは、世界が酷く乱れた年のことが多かったと思う。
だからこそグレアムがいなくなったあの年は、ウィリアムが初めて体験する、酷く歪み荒んだ蝕であり、そこかしこに響き渡る断末魔や終焉の香りに、何度も正気を失いそうになったことを覚えている。
耳を塞ぎ目を閉じることが出来なかった蝕の日の後は、疲弊しきった目に映る更に悲惨な光景が待ち構えていた。
一度目を閉じて溜め息を吐いた。
考えるべきはこれからすることであり、過去の思い出を辿る時間はない。
(だから俺は、その資質を反転させるということが、大きな対価の一つになると知っている…………)
知っていたから、それを躊躇わずに対価とした。
何よりも失い難い彼女を守り繋ぎ止める為に、ウィリアムが今代の犠牲の魔物に差し出したのは、あの頃と同じ、変化しないという自身の資質である。
『影響を受けないという恩恵を差し出す代わりに、反転で終焉の資質を動かす能力を封じていた。それを今回は、俺が影響を受ける代わりに、ネアが影響を受けなくなるという対価に使えないだろうか?』
『確かに、…………終焉の反転程、大きな対価もないが…………。………確かに彼女の存在が蝕でどう反転してしまうのかは未知数だな。普通に考えればあの可動域では反転しない筈だが、その身に持つ肩書きや、彼女をこの世界に留める為の足場が反転してしまったら…………』
そうして、ウィリアムとシェダーはそうすることを決めた。
ただそれだけの筈だったのだ。
そんなもので済むのであれば、蝕の日は自分の城にでも籠っていればいいし、彼女に何かがあったとしても、守り手には事欠かないのだから治癒などでその身を守ることも出来るだろう。
その選択で失うものがあるとは思わなかった。
(ネアは、違う世界から呼び落とされた人間だ…………)
それは、この世界の柱となるシルハーンの手を経たものであるけれど、その状態こそが反転したら?
万象が反転しないのは、彼があらゆる要素を持ち合わせているからに過ぎず、ネアにまでその影響が出ないとは言い切れない。
人間は本来あまり影響を受けないが、万象の指輪をここまで重ねた彼女が、厳密にどの程度安全なのかも怪しい。
万象の城にいれば安全だとしても、この通り、蝕にはその当日より前から短く現れる胎動があるのだ。
だからウィリアムは、蝕が決まったあの瞬間から、もし彼女が、この世界から失われたらと考えた。
何しろ、彼女はまだシルハーンの正式な伴侶ではないからこそ、尚更に。
(それがまさか…………)
反転しないという資質をネアに持たせるべく反転するという対価を支払ったのに、こんな風に能力に大きな不安を抱えたまま、あわいに降りる羽目になるとは、運命とはどこまでも気紛れであるらしい。
こつりと踵が鳴る。
踏み出したその向こうは、あわいの暗闇だ。
普段であれば、特に考えもせずに踏み込んだであろう暗闇。
その向こうでまさか、自分を標的とするような者達が動き出し、この身にある程度の頑強さが必要になるとは思ってもいなかったと、溜め息も吐きたくなる。
(だが、支払った対価が機能しているからこそ、ネアはあわいの中でも無事でいるのかもしれない………)
そう思えば、どこから始まるのか分からないからと蝕の開始より少し早めの胎動から早々に、そんな魔術を固定してくれたシェダーには感謝しかない。
彼はいつも、慎重で聡明だった。
「ウィリアム!」
あわいの門へ足を踏み入れようとしたところで、慌てたような声をかけられた。
振り返れば驚くことに、ギードがいるではないか。
「…………ギード」
「巡礼者に狙われていると聞いた。それなのに、どうしてあわいに入ろうとしているんだ。……………シルハーンが、今回のあんたは、犠牲の魔術で反転を顕著にしているって…………」
急いで駆けつけたものか、その呼吸は少し乱れている。
シルハーンにはテントにいると話していたので、ギードは姿のないウィリアムを慌てて探したのだろう。
「ああ、今回はネアの守護の一環として、対価にしている。…………でも、俺の過去のせいで、彼女は今、あわいの中だ」
「だが、それはあんたを狙う者達が、誤ってそちらに落としてしまっただけなんだろう?レイラが力を取り戻せば、比較的安全な方法で出してやれるかもしれないと聞いたぞ」
「…………いや、あのあわいは待たないだろう。なるべくして在る。物語のあわいは強引だからな」
「であればせめて、あわいへの介入が可能なシルハーンと一緒に…………」
「これからあのあわいに入る者は、討伐成就の因果が確定されている、怪物役を押し付けられる恐れがある。その危険を回避するとなると、世界の理で退場が許されない俺が向かった方がいい」
「だが、今日は………!」
こちらに手を伸ばそうとしたギードに、ウィリアムは微笑んだ。
例えこの言動や思考に変化が出ようと、ここにいるのは自分でしかなく、彼は駆けつけてくれた大切な友人だ。
「俺ならば、今失われたとしても、蝕が明けたら元に戻るさ。ネアとシルハーンを、あの物語の子供と怪物にするより、余程いいだろう?」
伸ばされた手が届く前に、そのままあわいに踏み込む。
余計な被害を抑える為か、すぐ後ろで壮麗な漆黒の門がざあっと崩れ去るのが分かった。
或いはこれは、白夜らしい悪意のかけらかもしれない。
あわいの暗闇を歩くと、やがて随分と不自然な明かりが道に灯るようになった。
どこかの誰かが巧妙な誘導だと信じて、ダーダムウェルの魔術師の物語へウィリアムを迷い込ませているつもりなのかもしれない。
(アルテアや、ノアベルトでは調べきれないこともある…………)
かつて、クライメルと最も気が合わなかったのはウィリアムである。
だからこそ、彼の行動には注視していたし、そのクライメルが子飼いにしていた巡礼者達の中に、一人厄介な男がいることを噂に聞いてはいた。
あれは確か、天秤か疫病あたりの齎した情報だっただろうか。
名前を聞けば、ラエタに関わり、その国を滅ぼしたウィリアムには、どんな人間だったのかを掘り出すだけの記憶もある。
だから、蝕が明けるのを待たずにこうしてあわいに降りたのだ。
巡礼者達の中にその姿を見かけはしなかったが、それでももし、あの魔術師もそこにいるのなら、彼がネアという人間の利用価値を見誤ることなど、果たしてあるのだろうか。
銀色の角を持つあの男は、クライメルもかくやというくらいの、純然たる邪悪さ故にあわいに落とされたのだ。
(だが、間に合う筈だ。俺か、………或いはアルテアかアイザックを捕まえるまで、彼等は舞台の幕を開きはしない)
こつこつと、暗い道を踏んだ。
やがて、その向こうに緑の塔を配する、あの懐かしい風景が見えてくるまで。