323. 森のおやつは良いお菓子です(本編)
「……………お、お父様」
とても激しい悲鳴を響かせた後、グレーティアは部屋の床にへたり込んだ。
「…………ほわ、耳が」
「……………一気に空腹になった」
野太い悲鳴に打ちのめされたネアとムガルはよろよろと部屋の隅に逃げて行き、慣れているのかその前に両手で耳を押さえていたダーダムウェルは、手のひらを耳から外して微笑む。
「………驚かせてしまってすまぬな」
「もしまた会えるなら、もっといい服を着たのに…………」
「そうか、お主はそういう拘りが強かったな。いやはや、失念しておった」
「…………お化粧もしてないわ」
「…………それに関しては、前から言っておるが、そのままの方が綺麗だぞ」
「嘘ばっかり!」
(おお、…………前から師匠は師匠だった模様………)
どうやら、女装はともかくお化粧についてはダーダムウェルも知っていることのようだ。
だから女言葉でも驚かなかったのかと、ネアはふすんと頷いた。
「それと、この通りこのあわいに閉じ込められてしまってな。死者の日に会いに行けなかったのだ。どうか許しておくれ。寂しい思いをさせて、お前に嫌われていないといいのだが…………」
(あ、この人は大丈夫だわ…………)
その困ったような優しい声に、ネアはすとんと不安が抜け落ちるのを感じた。
こういう話し方が出来る人なら、きっとこの二人は大丈夫だ。
そして同時に、グレーティアの一緒にいると心が柔らかくなるような不思議な安心感の形成環境を見た気がした。
不思議な父性のようなものは、恐らくこのダーダムウェルから受け継いだものだ。
謝罪の言葉と、大事なのだと伝えることを躊躇わない人に育てられたから、グレーティアはさして親しくしていなかったネアにすら、あんな風に真っ直ぐに向かい合ってくれたのだろう。
「……………ええ。帰ってこなかったわ」
そんなグレーティアは、はっとするほどに無防備な声でそう呟く。
子供のように聞こえてしまいそうな頼りなげな声なのに、女性の言葉なのに、なぜか女々しくはなくきちんと大人男性の言葉に聞こえて、その分、彼の待ち続けた時間と苦しみが透けて見えた。
ほんの少しだけ、いけない人間は現在のグレーティアが髭を剃って、男性の格好をしていてくれて良かったと思ってしまい、慌ててふるふると首を振った。
「すまない。………あの信仰の魔物にも、せめて息子に一言でもいいので謝罪を残したいのだと頼んだのだが、………あの魔物は、家族のように慈しんでいた者達を、復活薬を巡る諍いで嬲り殺しにされていてな。その怒りはあまりにも壮絶だった…………」
「…………そうよ。だから言ったのに。あの薬の生産から退いたのなら、あんなものを祀り上げる国から出るべきだって。あの頃の私はとても強かったし、どこにだって連れて行ってあげたのに」
「まったくだ。………だがな、私が安直な思考で生み出したもののお陰で、同じ国の違う思想の民達が虐げられていた。あの街で共に暮らした同志達を、せめて生きている間は守ってやりたかったのだ」
そう悲しげに微笑んだダーダムウェルに、グレーティアは微かに俯いた。
はらりと溢れた金糸の髪に、ダーダムウェルがそっと手を伸ばす。
そろりと伸ばされたその手に、グレーティアの綺麗な水色の瞳が揺れた。
「…………あの街の人達を、五十年は守ったわ。みんなが私に良くしてくれて、お父様の息子だからといつも声をかけてくれた。………でも五十年もすると、お父様の友達もみんな死んだ。あの街も、復活薬を望まない区画としてラエタの中でそれなりに力を持って独立した。だから私は、…………もう大丈夫だと思ってあの街を出たの」
「…………ああ。その後のことは聞いている。ラエタが滅びた後にこのあわいに迷い込んだラエタから他の土地に移住した者がいてな。………あの街の者達を救えなかったことを、終焉の魔物が詫びてくれたと話していた。お前が責任を感じる必要はない」
そこでちらりとネアの方を見て、ダーダムウェルは穏やかに微笑む。
終焉という言葉が出たからだろうが、ネアは違う部分でも驚いてしまった。
(この人が愛したのは、あの街だったのだ…………)
ネアが死者の国で過ごし、そしてラエタの影絵で訪れた場所。
そしてその街は、復活薬を尊ばないことで同じ国の人々に粛清された。
多分、ダーダムウェルの瞳にある穏やかさは、長い時間を経て少しずつ心を静謐にした人の強さなのだろう。
悲しい事があっても、それは時にはままならない時代の流れだと理解している人の目をしていた。
「…………っ、ああ、いやだ。私、ここがどんなあわいだか分かっても、素知らぬ顔して冷静でいられたのよ?それなのに、……っく。涙が出てきちゃったわ」
「ああ、泣かないでくれ。大事な息子に泣かれると辛い」
「そういうところだから!…………それなのに、なんで、………こんなあわいなのよ。よりにもよって…………」
ダーダムウェルは息子の頭を撫でてやりたいのだが、照れてしまうのか、グレーティアはその手を払っている。
ネアは、それいけ今撫でるのだと拳を握って見守った。
「はは、確かにあんまりだと私も思った。だが、それもほんの数百年のこと。時折趣味の悪い公演を見せられはするが、配役が整わなければそれもないし、ある時まで、私が討ち亡ぼす怪物達は、信仰の魔物が手を焼いて放り込んだ悪しきもの達ばかりであった。それはまぁ、世の為になるだろう」
「………でも、辛かったでしょう?」
「それも時折はな。だが、人の心とはそのようなものであるし、やがてここでの暮らしにも慣れた。それに、信仰の魔物がここを訪れなくなってから暫くすると、ラエタの私が生前から嫌っていた若造魔術師どもが、訪れるようになってな。最初は友好的であったのでお前の消息などを尋ねてはみたが、やがてあの者達とは折り合えないと分かった。それ以来、今度見付けたらどうしてくれようと考えている内に、あっという間に時間が流れたらしい…………」
そう話すダーダムウェルの眼差しには、かなり鬱屈とした刺々しさがあった。
嫌悪感を安易に見せびらかさないだけの大人の配慮はあるものの、かなり嫌っているように見える。
「それって、…………あの魔術師達に何かされたの?」
「ここに白夜の魔物を招き入れてな、私に討たせてその資質だけを奪おうとしたことがあった。白夜程にあわいに向いた魔物もいないのにそれを知らずに手を出した結果、あの魔物に連れていかれたわ。だが、あの時は肝が冷えた。…………私は、その条件が満たされれば何者であろうと、森の怪物として侵入者を討ち滅ぼさなければならん」
「………あんまりだわ………」
このあわいで、義父に課せられた過酷な役目に愕然としたグレーティアに、ネアは、やはりそうかと息を吐いた。
ダナエがあのままこちらに来ていたら、どうなっていたのだろう。
「…………だからどうか、このあわいにいる間には、誰かを守る為であれ、自衛の為であれ、街の住人を殺してくれるなよ?」
「……………しないわよ」
「勿論、ただそんなことをお前がするものか。とは言えお前は優しい子だからな。危ういと思っていても、誰かを守る為にそうしてしまうかもしれん。だから言っておくぞ。それだけはやめてくれ。息子をこの手にかけることだけは耐えられん」
「…………お父様」
床に座り込んだままのグレーティアの頭に、漸くダーダムウェルの手が乗せられた。
さりさりと撫でて嬉しそうに微笑んだダーダムウェルに、グレーティアが目元を染める。
なぜか、ダーダムウェルは青い髪の青年の擬態のままなので、ネアはふと、この魔術師が警戒しているのは、ムガルなのかなと思った。
(多分、市場で最初に見かけた姿が、年齢は変えてあっても本当の姿なのだと思う…………)
でなければ、今のグレーティアの容姿がここまでその特徴と一致する筈もない。
ただしその場合は、ムガルは既にダーダムウェルの本当の姿を知っているのだ。
(それは、魔物だから?………それとも、何か不穏なものを感じている………?)
「ダーダムウェルさん…」
「ちょっと、弟子!本人にその呼び名は許さないわよ!!」
「…………なぬ」
「グレーティア、言葉が足りておらんぞ。………すまぬな、ダーダムウェルと言うのは私の通り名でな。私は満更でもないのだが、あまり良い響きではないと、息子は嫌がるのだ」
「そうだったのですね。ええと、では何とお呼びすれば…………」
「ウェルバと呼んでくれ。それも愛称のようなものだが、本当の名前はとうにあの忌まわしい薬と共に封じられたのだ」
「はい。では、ウェルバさんとお呼びしますね」
「ごめんなさい、つい言葉がきつくなったわ…………」
そこでネアは、ついきつく止めてしまったと慌ててグレーティアから謝られ、微笑んで首を横に振った。
やっと立ち上がり落ち着きを取り戻すと、嬉しそうにウェルバの周囲をうろうろするグレーティアは、確かに元は竜なのだなという感じがする。
ドリーもよく、こんな風にヴェンツェルの周囲をうろうろするのだが、ドリーが落ち着きのない動きをすることが意外だったネアに、エーダリアが、竜が愛する者にとる習性なのだと教えてくれた。
「ダーダムウェルは、偏屈なウェルという意味合いなのよ。だから…………ちょっと、拾ってきた魔物の様子がおかしいわよ?」
「…………ムガルさん?」
「…………名前でなかったのは、初めて知った」
なぜかその事にショックを受けたらしく、ムガルはまたお腹が空いたようだ。
ネアは、森のなかま用のおやつを出してやり、市場のクネルの方が良かったと文句を言われる。
「これでも元は王族だからな。悪用されると身内にも災厄を招く真名を名乗ることは、あまり許されていなかった。そのせいか、ウェルバという名前の方がしっくりくるくらいだ。…………それと、ネイだったな。お主は何か私に尋ねようとしていなかったか?」
「は!ムガルさんの餌付けで忘れかけていました。………ウェルバさん、このあわいで怪物の役にされる方には、何か条件があるのですか?」
それを回避出来れば、助けに来て貰えるかもしれないと、ネアは声を弾ませる。
だが、ウェルバは少し申し訳なさそうに首を振った。
「これをすれば間違いなくという条件は分かるのだが、それさえしなければ回避出来るかどうかは断定は出来ぬ。…………そこにいる魔物もかなり危ういと思うのだが、なぜか討伐したくはならないしな」
「…………まぁ、危なかったようですよ?」
「…………この菓子は、味が薄い………」
「むぅ。それどころではありませんね…………」
森のなかまのおやつをもそもそと食べているムガルは、ウェルバの言葉は気にならないようだ。
文句を言いながらも、ほろほろとした柔らかいクッキーのようなお菓子を食べている。
「確定されるのは、街の住人を殺すことと、満月の夜に森側の城壁から街に侵入することだ。…………恐らく、竜もならぬと思うし、国への不法入国も危ういのではないだろうか。また、狂乱したものや悪食はそれだけで討伐対象となった」
「竜さんは駄目なのですね。…………でも、そうなると、師匠は転属していて良かったのです」
「ああ。そうでなければ危なかったところだ。……………ところでグレーティア、お主は妖精になったのだな?」
ここで、お父さんは我慢出来ずに息子の近況調査に入ってしまった。
この事態の解決を急ぐネアは本来ならむぐぐっとなる筈だが、この時間を有り難く使わせて貰い、お手洗いに行く風を装って、ディノのカードに今の情報を共有しよう。
(………計画的な時間の使い方であって、断じて職業についての質疑応答を聞くことから、逃げ出す訳ではない!)
「そうなのよ。今はね、………梱包妖精のシーなの。私の奥さんはね、梱包妖精だったのよ」
「梱包妖精………。…………梱包妖精?!…………そ、そうか、伴侶を得たのだな。お主が幸せになってくれて何よりだ」
「でもこの通り、元の竜の資質が強すぎて、私が完全に転属するよりも先に、妻は戦乱で命を落としたわ。子供もまだいなかったしね。それと、今はもう体も魂も妖精にはなったのだけれど、まだ羽が生えてこなくて…………」
「妖精になるには、妖精の紡いだものを着て、妖精が作った菓子を食べると良いらしいぞ」
「そうなの………?」
幸いにも、ウェルバは、梱包妖精というキーワードから多くを察してくれたようだ。
なかなかに微笑ましいやり取りをしている二人と、ネアがナプキンの上に出してやったおやつを食べているムガルをその部屋に残し、ネアはそっと浴室に滑り込む。
ウェルバの助言を思い出し、扉をくぐるときには少しだけ用心した。
“ディノ、少しだけ事態が進展しましたよ”
洗面台の前の椅子に座り、開いたカードにさらさらと文字を書いた。
すると、ネアがカードにそのメッセージを書いてすぐに、ディノから返事がある。
相変わらず、広げたカードをずっと見ているのではないかと思うような早さで反応されてしまい、いつ読んでもいいようにと状況報告を続けて書こうとしていたネアは、びくりと肩を揺らす。
“怖いことはなかったかい?”
“ええ、このあわいの中心人物になる、ダーダムウェルの魔術師さんに会いました。なんと、本物のダーダムウェルさん…………ウェルバさんとお呼びした方がいいそうですが…………で、グレーティアさんの育てのお父様だったのです。私達に力を貸してくれる運びになり、ほっとしました”
“そうか、彼に会えたのだね。そのあわいは、レイラの管理の筈だとウィリアムが言うので、彼女と話をしたんだ。そこにいるダーダムウェルは本物だよと、君に伝えるつもりだったのだけど……………”
“ふふ、一足先に見付けてしまいましたね”
(ああ、やっぱりウィリアムさんはここのことを知っていたんだわ…………)
であればそこには、レイラとの何らかのやり取りがあったのだろう。
浴室のタイルは優しい薔薇色で、そこには窓から差し込む光が窓枠の模様を描いていた。
カーテンの隙間からはあの緑の塔が見えて、雲ひとつない青空がどこまでも広がっている。
穏やかな日に思えるが、ここは物語のあわいなのだった。
大事な人達は側にいなくて、会いたいと願っても触れることは叶わない。
“ディノ、もしかしたらもうご存知かもしれませんが、やはりここは、怪物の役目を与えられた方が、ウェルバさんに滅ぼされてしまうあわいのようです”
“ああ、レイラから聞いたよ。そのあわいの中での、ダー………ウェルバの力は絶対的だ。それは、彼が成功するという結末を固定した、物語の因果の魔術が張り巡らされているからなのだろう。………それとね、ネア。物語が頁通りに進むのなら、やがてどんな形であれ、そこには怪物が必要になる”
その言葉が光って浮かび上がった時、ネアはとても嫌な予感がした。
すとんと血の気が引くように、視界の端が暗くなる。
“…………必要になる”
“…………うん。内側に入ってしまった者の為の出口が開くのは、怪物に魔術師が対峙した後だけなのだそうだ。怪物が現れない限りはその中は不変であり、解決という事象を得られる唯一の条件が怪物の出現であるのなら、怪物という役回りも必要なものなんだよ”
“まさか、…………その為に、誰かがこちらに乗り込んで来たりはしませんよね?”
“…………最も簡単なのは、怪物という認識になり、君達にとっては驚異ではない生き物をそのあわいに送り込むことだ。今はそれを試そうとしているのだけど、レイラが蝕の影響でそちらに干渉する力を失っていてね…………”
(そうか、レイラさんはこのあわいに、悪いものを送り込むことが出来るんだわ…………)
そういうものを退治していたと、ウェルバは話していたではないか。
であれば、少しの間辛抱してレイラに怪物相当となる祟りものでも送って貰えれば、ネア達はここから出られるのかもしれない。
“怪物が倒されれば、ここから出られるのでしょうか?”
“そこは、物語だからね。特に君には、その解決が齎されなければならない筈だ。………君は可動域の上では子供のように捉えられる。それは知っているね?”
“ええ…………”
“だから、君がウェルバと出会い、その力添えを約束されたことで、恐らくそのあわいは既に動き出しているのだと思う。レイラはいつも、その物語を動かす為に、信仰心の篤い人間の子供も投げ込んでいたそうだから”
信仰の魔術の管理において、災難を乗り越えた者には大きな祝福が齎されるという。
そしてその試練を乗り越えた子供が、実際に聖人と呼ばれるだけの教会組織の幹部になることもあったそうだ。
ネアからすれば、とても悪趣味だと言わざるを得なかったが、魔物にはそのような側面もある。
信仰が与える試練は、信仰の魔物の持つ資質の一つなのだ。
“もしかして、………私が、魔術師さんを呼びに行った子供の役割を担うのですか?”
“物語の条件には、君も一致するからね。………でも、君がその役割で良かった。史実とは違い、物語の中では、その子供は決して損なわれない。だからこそもし、私達の預かり知らないところで怪物が現れるようなことがあれば、必ず君はその条件を揃えるんだよ”
それは、あの塔を登ってダーダムウェルの魔術師の助けを呼びに行くということだろうか。
“ウェルバさんは、今は一緒のお部屋に来てくれているのですが、塔にいらっしゃらない時も、その形を揃える必要があるのでしょうか?”
“いや、怪物が現れると、魔術師は一度強制的に塔に戻されるそうだ。子供が呼びに行くまでは、塔から出てくることは出来ない。だから、君は、その手で怪物を滅ぼしてしまわないようにね”
“そうすると、…………形が整わないのですね?”
また少しだけ、背筋がひやりとした。
形式としてはそこまで難しいものでは無い筈だ。
それなのに、なぜかずっと不安が付き纏う。
必ず怪物が滅ぼされる物語というものに不安を抱くのは、かつてその怪物であったグレーティアがここにいるからか、それとも、ネア自身も、かつて怪物であったからか。
“ムガルがいるのであれば、彼に怪物を殺さないところでの抑えをさせればいい”
“ムガルさんに…………”
“彼は今、あわいに認識されない存在だというけれど、それは即ち、そのあわいの影響を受けないという傍観者の役割なのだそうだ。元々は、レイラがその中で動く為に設けられた措置だそうだよ。………また、それとは別に、巡礼者達もそのあわいには直接触れられない”
なぜ、ダーダムウェルの魔術師の物語がレイラの管轄なのかと言えば、復活薬というものに依存したラエタの人々が、半ば信仰のようにその物語を教本としたからであるのだとか。
その物語はつまり、ラエタにとっての教本であり聖書であった。
“ディノ、…………みなさんは、大丈夫ですか?困っていたり、私のことで迷惑をかけていたりしませんか?”
例えば死者の国に落とされた時のように、このカードのやり取りに、他の誰かが入り込む気配はない。
もしかしたら側に居るのかもしれないが、ネアは、何となくこの向こうにはディノが一人でいるような気がした。
“リーエンベルクにかけられた祝福のお陰で、救われた者達が居たようだね。ザルツに住む貴族の一人が命を落とし、ノアベルトやエーダリア達はそちらの問題に対処している。アルテアは今、王都で起きた大きな事故を調べに行っていて、一時間程度でこちらに立ち寄るそうだよ。………ウィリアムは、反転が出ているだけに少し気がかりだからね。ギードに話をしたら、様子を見に行ってくれるそうだ”
“…………私の大切な人達が無事でほっとしてしまいますが、大きな事故があったのは怖いですね………”
“………ネア、一番怖い思いをしているのは君だろうに”
そんな言葉を、ディノはどんな思いで書いてくれているのだろう。
“このような時は、待つことの方が怖いのですよ。私はこうやってディノに甘えられるのですが、ディノが一人ぼっちで怖い思いをしながら待ってくれているのだと思うと、胸がぎゅっとなってしまいます”
“…………ネア”
ここでネアは、たくさんのハートマークやお花の絵を描いて送ってみた。
少しでも、一人で震えているかもしれない大事な魔物を元気付けてあげたかったのだ。
“……………かわいい”
“ふふ、離れていても、私はここにいて、ディノがそこにいるのです!こうやってお喋り出来るということは、とても幸せなことですね”
実は、ウェルバがグレーティアの頭を撫でてやるのを見た時に、狭量なネアは羨ましさでいっぱいになった。
大事な魔物の頭を撫でてやったり、三つ編みを握ったりしたくて堪らなかったのだ。
“…………ネア。それと、これから書くことにどうか気を付けておくれ。そこがあわいであることが影響して、君が頼りにする品物の魔術が効果を発揮しないことも考えられる。君は勘がいい。私が君と分かち合っている守護はとても頑強で、その暫定的な力は君の助けになるだろう。けれども、それでも不安を覚えるものに対しては、決して無理をしないように”
“…………ええ。あの方には注意するようにします。しかし、今のところは特に繋がりなどは見当たらないのですよね?”
“ノアベルトが調べてくれたが、公な接点はなさそうだ。だが、念の為にアルテアにも調べて貰っている”
その後ディノは、ブンシェにはネアが食べられるものがあるのか、そして眠れる環境なのかをとても心配してくれた。
どうやら、死者の国でのことを思い出したようだ。
“ディノもどうか、眠れる時は眠って、ご飯も食べて下さいね?”
“でも、………君はそう出来ているかい?”
“あら、お揃いにする気ですね?それなら、私もしっかり食べてしっかり寝るようにしますから”
“…………うん”
もう、長過ぎる程に時間を使った。
ネアは後ろ髪を引かれる思いでまた後でとカードをしまい、腕輪の金庫の中から取り出したおやつの袋をじっと見つめる。
その袋の裏のラベルには、森の生き物達に与える為のおやつであることと、様々な効果についての説明が細かい文字で記されていた。
野生の生き物達の資質を損なわない自然派食品であることと、食べ物を与える上での魔術の繋ぎを、このおやつを与える事で一定期間は全て無効化すること。
そして、森の獣がその前に何を食べているのか分からないので、脱臭効果まで。
(脱臭効果が必要なのは、これが、森のおやつシリーズの中の、ある特徴を備えた商品だから……………)
だから、狡猾な人間はその紙袋を眺め、唇の端を持ち上げる。
それはもう、とてもとても厄介なところで孤立無援で戦ったことがある。
そして、同僚だと思っていた人に裏切られた、両親の顛末を知っている。
魔物達は、かつてのアルテアを見ていても分かるように気紛れで酷薄で、そうして、婚約者であるディノであってもなお、老獪でしたたかだ。
だから、これはとても脆弱な人間なりの切り札である。
(…………やっぱり、ちょっと怪しいところがある。でも、狡猾さという部分においては人間の方が恐ろしいと知るがいい!)
そっと指でなぞったその紙袋には、青い文字でくっきりとある文字が書かれている。
グレーティアが袋を見せて納得したのも、あの市場の中庭でウェルバが見て慄いたのも、この部分であった。
森のなかまのおやつ、…………捕縛用。
そこには、このおやつが、森のなかまのシリーズの中でも野生動物の捕獲調教を目的としたものであることを記す、素晴らしい文字がででんと書かれていた。
夏至祭の時に危ない思いをしないようにと持たされていたものが、こんなところで生きてくるとは思わなかったが、備えというのはやはり大事なのである。
(それに、今の私はディノの暫定伴侶相当なので、相手の魔物さんの名前を呼んでこのおやつを与えることで、効果は何倍にもなっている筈!…………ん?倍…………)
ここでネアは、首飾りの金庫から取り出した加算の銀器で、クッキーの一枚を効果千倍にしてみた。
どうなったのか定かではないが、食品であるし、一応スプーンに乗っかったので、効果はあるかもしれない。
きりりと頷いてから、共用の応接間に戻れば、ムガルが食べ物がなくなったし、帰りが遅過ぎるとすっかり不機嫌になっていた。
こちらを心配そうに見たグレーティアに、いざ鏡の中の自分を見ると、あれこれ残してきた人達のことが不安になってしまって、ぐるぐると考えてしまったと話しておく。
ウェルバは、何を察したのかひっそりと微笑んで頷いてくれた。
「おい、食べ物がなくなったぞ」
「………はい。ムガルの大好きな森のなかまのおやつですよ。これを食べて、良い子になりましょうね」
「………くそっ、自力で食べ物が得られればこんな味の薄い菓子など………」
「私はとても邪悪な人間なので、逆らってはいけませんよ?」
「…………激辛香辛料などは避けたいと思っている。そうだな、お前には逆らわないようにしよう」
「勿論、私の帰宅の為に必要なので、その妨害をした場合もくしゃっとやります。良いですか?」
「………じゃ、邪魔もしない」
「ふむ。いい子ですね、ムガル!」
「……………くそっ。なぜこうなったのだ…………」
微笑んだネアが視線を戻すと、なぜかグレーティアとウェルバは、少しだけ遠い目をしていた。
「…………さて、そろそろ具体的な計画について話そうかの」
「そうね。………それと、ネイ。一つだけお願いがあるの。もしここから無事に出られたら、あなたと私の教室に来たどちらかの男性に、お父様をここから開放出来るかどうか、相談させてくれる?」
「勿論です!と言うか、私も無事に出られたらお願いしてみようと思っていました」
ネアがそう言えば、グレーティアはほっとしたように微笑んだ。
眼差しは落ち着き、あのアルビクロムの館で会った時のような余裕すら出て来たように感じられる。
そしてその日の夕方に、最初の事件が起こったのであった。
勿論、しでかしたのは拾ってきた魔物である。