321. 秘密の全ては明かせません(本編)
ネア達が部屋を取った宿は、ダーダムウェルの魔術師の緑の塔がよく見える立地にあった。
大通り沿いで人々の動きも観察出来るし、高台にある王宮から来る早馬や、森に面した東の門も出入りくらいはなんとか見える。
「ここからなら、森から悪い魔術師めが怪物を連れて来てもすぐに反応出来ますね」
「そうなのよね。景観が良いからいい宿なんだけど、この立地は手堅いわ」
「………下の観光案内所で、国の観光地図を貰って来ました。商業ギルドによる、商業区画の地図はここで、何とこの国には冒険者ギルドがあるそうで、そこで発行しているものも合わせて三枚です!」
ネアが、グレーティアが宿泊手続きをしている間に手に入れたものを取り出せば、なぜか魔物と妖精は顔を見合わせた。
窓際には四角いテーブルがあり、四脚の椅子もあって作戦会議にはうってつけなのだ。
「何であなた、そんな非常時の対応がこなれてるのかしら………」
「あわいから影絵に妖精の国と、その他のちょっと危険なあちこちまで、事故や事件で訪れたい放題ですからね!」
個人的に足がつきそうな、死者の国と影の国は省いたが、ネアはある程度の経験値はここで明かしておくことにした。
大事な作戦会議などの場面で戦力外にされると、いざという時に連携が取れなくなる。
「俺は知ってるぞ。このような時は、固有名詞をあげないものの方が希少度は高い」
「まぁ、ムガルは賢い子ですね」
「黙っていれば、人間の小娘が…………焼き菓子か?!」
「こんな素敵なお菓子も持ち合わせておりますが、お口の悪い魔物さんには、その辺におかれたテーブルのシュガーポットでいいのでは………」
「お前は、なかなかに賢い人間だと思う。よって、ここを出るまで協力を惜しまないと誓おう」
「今度悪口を言ったら、シュガーポットという選択肢すら消え失せ、塩壺になりますからね」
「………わ、わかった」
「…………ねぇ、私のところに弟子入りしなくても、完全に仕上がってるわよ…………」
実は先程、ムガルは一度反乱を起こした。
ネアがグレーティアと話しているその隙を狙い、ネアの手首の金庫を狙って掴みかかろうとしたのだ。
しかしながら、魔物の習性はそれなりに知り尽くしている賢い人間は予めそのようなことが起こると想定の上、素早く鎮圧した。
指輪のある方の手でごすっと拳を振り下ろされたムガルは、五分ほど床に伸びてしまい、ネアは拾って来たばかりの魔物を滅ぼしてしまったかとはらはらしたくらいだ。
そしてそれ以降、こちらに危害を加えるようなことはしないのだが、本格的に逆らえないと分かったからか時々憎まれ口を叩く。
「違うのです、師匠。こちらの魔物さんは行きがかり上拾った臨時飼育ですので、丁寧に信頼関係を育てるだけの余裕がなく。ここはもう、圧倒的な恐怖で押さえ込むしかないと、私も心苦しく思ってはいるのですよ…………」
「だそうだよ。愛もない調教なのね」
「…………くっ、自分の力で食事さえ出来れば…………!」
ムガルと知り合って驚いたのは、彼が決して悪食ではなかったことだ。
よく考えれば単独で統括をしていたくらいなのだから当然なのだが、食べることに手段を選ばない魔物となると、ネアの印象では悪食のようなものなのかなと受け取ってしまう。
だがしかし、この貪食の魔物はほこりというよりは、ゼノーシュ寄りの食いしん坊のようだ。
「ふむ。食いしん坊設定は、少年くらいの姿なら愛くるしいのですが、自活出来ない大人がとなるといささか残念な雰囲気ですね…………」
「………聞こえているぞ」
「ムガルさんは、独特な美しさがある魔物さんなので、例えばちょっと儚げに視線を伏せていたりしたら、その趣を好む方が大喜びしそうですのに………」
「………当たり前だ。私はこれでも侯爵の魔物だからな。階位的には三層だが、あの大国の統括をしていたのは間違いない」
「………だから、呼び落とされてしまったのですね」
「……………いい迷惑だ」
この貪食の魔物は、なんと、ヴェルクレアの統括の魔物としてこちらに呼び落とされたのだった。
ムガル自身は、ラエタの存亡にかかわってはいないので、まず間違いなくアルテアを標的にしたものだろう。
ディノと話し合った結果、ネアは、今回の首謀者が恐らくラエタの魔術師達であろうということまでは、グレーティアやムガルに話すことが出来ている。
なので、ムガルがこちらに来た経緯を聞いた時、ネアとグレーティアはまた少し思考の迷路に入ったものだ。
古い知識だけに偏らず、敵が、ここ二年程で統括になったばかりのアルテアのことも知っているのかと驚いたからだ。
(だから、現状は秋告げの舞踏会の後で迷い込んだ秋惑いの道で、その情報を得たのではということになっているけれど…………)
ネアとアルテアが一つ目帽子の魔術師達に遭遇しているのは、秋告げの舞踏会の直後だ。
ネア達は姿を隠していたものの、一緒に巻き込まれ、恐らく戻っては来られなかったであろう精霊達がいる。
同じタイミングで会場を出たその精霊達は、自分より階位の高いアルテアに丁寧に挨拶をしていたので、状況の不穏さに気付いたその時に、すぐ後ろにいた筈のアルテアも一緒に巻き込まれてくれてはいないだろうかと、見ず知らずとは言えその名前を口にしたかもしれない。
(それか、他の場所や時間であわいに迷い込んだ誰かが、アルテアさんがヴェルクレアの統括の魔物だという情報を、巡礼者達に与えた…………?)
ムガルの門となってその怒りをぶつけられた妖精は、ヴェルリアの海の妖精だったと言う。
そんな妖精に向けて統括の魔物を呼ぶようにと言われたのであれば、アルテアがヴェルクレアの統括の魔物だという情報は握っている筈なのだ。
(でも、前の前の白夜の魔物は、もういないのだから、あわいにいる彼等には、やはり協力者は必要なのではないかしら………?)
あわいの巡礼者達は、本来は、そのあわいに囚われている。
今回のように蝕の胎動などで地上へ道が重なるだろうと、ある程度の予測を立てられる時以外は、自分達の意志で外側に触れることは出来ないのだ。
そんな事をあれこれ考えて眉を寄せていたら、グレーティアがこちらを見た。
「さて、私達は買い付けに来たのだから、街に出ないとおかしいわね」
「では、いよいよの聞き込み開始ですね」
「あまり悪目立ちしないようにね。とは言え国外から来たことは公にしているから、あの塔は何ですかって聞き易いけどね。…………本当にそれ、連れて行くの?」
「むぅ。連れて行くのではなく、ついて来るそうです」
「……………人間は狡猾だ。隠れて何か食べるつもりだろう」
「美味しいものに出会えばそれもありますが、ムガルが見えないという特性を生かして働くのであれば、別行動でもいいのではないでしょうか…………」
えてしてこのような魔物の場合、周囲に自分の姿が見えないのだというようなことはお構いなしに、ネアに話しかけてきて困らせたりするのだろう。
見えない仲間によって齎される典型的な問題について、考えると不安しかない。
読書家のネアには、その程度の想像力は働くのだった。
「じゃあ、私は裏の職人街の方を調べてみるわ。二時間後にこの、中央にある広場の噴水の前で。迷子になった場合はここに来ること。それと、何か問題でも起こらない限り、私はこの通りを真っ直ぐ奥に進むから、こちらに来る場合は手前から順番に探せばいいわ」
「はい。この、赤い印のお店のあたりからですね…………」
最初の捜索は、宿に入るまでにブンシェの国の雰囲気を確認したこともあり、ネアとグレーティアで別々に行うことになった。
このあたりは、ネアを自分の内側に入れてはいない人外者の現実的な作戦であり、若干の不安はあるものの、ネアも異存はない。
何しろ、森からの怪物が現われるイベントが起こってしまってからでは、色々と動き難くなる。
その前に、塔の魔術師ご贔屓の子供を見付けなければならないのだ。
ネアは、入国時に肩から下げていた麻袋の持ち手を内側にしまい、斜め掛けが出来る紐を取り出した。
このウィームの市場で売られているお買い物袋は、様々な持ち方が出来るのと、灰色がかった麻布のシンプルなデザインだがなかなかに可愛いので、観光客にも人気のものである。
「行ってらっしゃいませ」
からんと宿屋の扉が開き、青色の制服を着たドアマンがネア達を送り出してくれる。
ホテルという名称のないこのブンシェでは、ここは高級宿屋であるのだが、規模的には立派なホテルのような四階建ての建物であった。
一階部分の天井がとても高いので、ネア達の部屋のある最上階は実質五階相当の高さにあたる。
平地にある建物の中では、一番高い建物の一つだが、貴族などの住まう区画やお城があるのは高台なので、不敬にもその高さを越えてしまうということはない。
ピチチと、街路樹の小鳥が鳴いている。
(…………いい国だわ。物語の中に描かれた国だから当然なのかもしれないけれど、絵のように綺麗なところだ)
石畳は同じ形に切り出された石で整っているし、歩道や排水溝の設備もかなり整っている。
ほとんどの家や建物の壁は砂色だが、そこに鮮やかな赤い花を咲かせる蔦のようなものが絡んでいて、目にも鮮やかな可愛らしさもあった。
物語の作者の設定なのか、ここをあわいにした子供達の思い浮かべたものだったのか、ゼラニウムが蔓性植物になったようなものが壁を這い、サルビアのような形状の水色の花を花壇に溢れんばかりに植えるのが、この国の流行であるらしい。
街路樹はプラタナスで、時折、見事な薔薇やローズマリーの茂みやオリーブの木も見かけられる。
家々の門はアーチ状になっており、扉の上の部分に精緻な魔術陣のような不思議で色鮮やかな絵が描かれていた。
凝った円形になるその基本形は同じであるが、中央に描かれた小鳥や花の印が一つ一つ違っていて、見ながら歩けば各家ごとの印なのかもしれない。
ネアは初めて見るこの文様に、興味津々だった。
(でも、師匠は気にしていなかったから、よく知られたものなのかしら…………)
「…………パンの絵や、本の絵まで」
ネアがそう呟くのは、現在歩いている通りに人影がないからだった。
ネアの基本的な仕様はあまり社交的ではないのだし、ムガルと二人きりになるのは初めてなので、少しだけそわそわしてしまう。
「古いまじないの家紋だな。ラエタの湖水地方にあった風習だ」
「…………この国の風習は、ラエタの特徴があるものなのですね」
「それも当然だろう。このあわいになったダーダムウェルの魔術師の物語は、かつてラエタで流行ったものだ。まだ復活薬が作られたばかりの、まじない師や魔術師達が大勢いた頃のものだが…………」
周囲に人がいないからか、隣を歩くムガルがそんなことを教えてくれた。
不思議なコートのせいか、ムガルは時々大きな黒い鳥に見える。
静かな横顔は長命高位の生き物らしく静謐で、先程まで空腹のあまり行き倒れていたようには思えなかった。
「ムガルさんは、………その頃のラエタをご存知なのですね?」
「…………その頃にラエタと呼ばれているのは、あのような緑の塔のあった森に囲まれた一部の土地だけだった。ラエタは、魔術の発展で急速に大きな国に育ったが、それまでは近隣に集まる小さな国や集落の集まりがある土地に過ぎなかったからな」
(そういえば…………)
そう言えばと、ネアは考える。
ラエタの終焉を知ってはいるのだが、ネアはその国がどうやって生まれたのかを知らないのだ。
「その頃のラエタは、どんなところだったのですか?」
「生活にまじないや魔術が浸透していて、信心深い人々の集まりだった。………清貧でもあり、穏やかな土地だったのだろう。その頃はリザールやジョーイが気に入っていて、食べ物がたくさんあったので私もよく訪れたものだ」
「私の知っているラエタとは、随分違う雰囲気のところだったのですね…………」
「それはそうだ。どんな国も、最初の興りはそんなものだ。…………ダーダムウェルの魔術師の話は、その最初のラエタに実在した魔術師の物語だ。国の名前は変えられているが、あのような緑の塔があり、…………実際には軟禁されていたのだが、………確かにそこにはダーダムウェルと呼ばれた魔術師がいた。優秀な魔術師で見事な薬を作るので、彼は父親であるラエタ王の手で、暗殺や誘拐から守る為に塔に閉じ込められていたんだ」
ムガルの声は静かであったが、ネアはこの魔物が、そんなダーダムウェルの魔術師を直接知っていたのではないかと考えた。
そう思って見上げると、疑問が伝わってしまったのかムガルは首を振る。
「リザールだ。…………彼は、その青年を気に入っていた。父王は息子を愛してはいたが、愛し方を間違えている愚かな人間だとよく話していた。ダーダムウェルはどこにも行けず、あの塔で薬を作り続けることしか出来なかったからな」
「…………そんな凄い魔術師さんであれば、お城で家族の皆さんと暮らしていても、自分の身を自分で守れたでしょうに」
「そうだろう。だが、魔術師ではなかった王には、それは分らなかったんだ。……………そんな彼の友人は、時折塔を訪れる魔物や竜達、そして、彼に毎日の食事を運ぶ召使の子供だったのだそうだ」
(あ、……………)
その言葉で、ネアは分った気がした。
物語に登場する魔術師を動かす子供はきっと、その召使をモチーフにしているに違いない。
「だがある日、本当に他国の魔術師達が怪物を連れて、ダーダムウェルの作る薬を盗みにやって来た。人々は守りの文様のある扉を閉めてやり過ごし、被害などは殆ど出なかったのだが、数少ない被害者の中に、ダーダムウェルに食事を運ぼうとしていたその召使いがいた。…………彼女の死に嘆き、ダーダムウェルが生涯をかけて作り上げたのが、復活薬の元になったものだと言われている」
「……………その方が」
「だからあの物語は、復活薬の誕生を残す記録でもあり、その後、魔術師達が力をつけたラエタで、魔術師の権威を高める為の教本でもあったものだ」
「むむ。そのお話を、グレーティアさんにも教えてあげなければです!」
そう言ったネアに、ムガルの赤い瞳がこちらを見る。
「……………彼は知っているさ。私は、直接会ったことはないが、リザールからその名前を聞いたことがある。グレーティアという名前は、かつて存在した月闇の竜の王子の名前。………異国の魔術師がラエタを襲う為に連れて来た、一族を追われ狂乱しかけた怪物の名前だ」
ざあっと、風が街路樹の木々を揺らした。
ネアは告げられた言葉がじっくりと心に浸透するのを待ち、それからゆっくりと頷いた。
こちらをちらりと見た魔物の眼差しには悪意はなかったが、かと言って気を遣うこともない。
ただ、違う生き物なのだなとよく分る静かな目をして、ネアがその言葉をどう受け止めるのかとこちらを見ている。
「…………であれば、だからこそあの方は、一人でその子供さんを探したいのかもしれませんね」
「不思議な人間だな。さも仲間のような素振りをして、その事実を隠されていても気にはならないか」
「転属に纏わる事情を言いたくないのだなということは、あの方なりに伝えてくれましたよ。そして、この国の事情で知るべきことも、教えてくれたのだと思います。…………より深い事情や事実をご存知でも、その先はあの方の心に纏わるものですから、言わなくていいのではないでしょうか」
「……………だそうだ」
「む?」
思いがけないムガルの言葉に、ネアが慌てて振り返ったその先には、なんとグレーティアが立っているではないか。
風に結んだ髪が少しだけほつれ、その金糸のようなあえやかな色には、どこか無防備な困惑があった。
「……………これは、告白イベント的な…………?」
「違うわよ…………。あなたに、言い忘れていたことがあったから、追いかけてきたの。それなのにまさか、その魔物がそこまで知っていたなんてね。………麦の魔物の知り合いだったのね……………」
漆黒のケープを風に揺らし、そうして立っているグレーティアははっとする程に美しい。
美貌が力になるこの世界では、そして、年初めの高位の者達だけが入れた筈の舞踏会で、魔物の第二席と三席と知り合うことが出来た彼は、かつてどれだけの階位にあったものか。
それでも女物のドレスを着て、梱包妖精として暮らしてゆくことを選択した理由もまた、彼だけのものなのだろう。
「言い忘れていたことというのは、何か、街歩きに必要な注意事項でしょうか?」
だからネアは、敢えてそう尋ねた。
こちらを見つめるグレーティアの瞳が揺らぎ、僅かに彼らしい微笑みを少しだけ見せてくれる。
「……………私は、この物語が書かれる理由になった事件を知っているわ。それに関わってもいる。でも、その先は私自身の問題だから、あなたには言いたくないの。…………巻き込んでおいて、それを言わないのはあまりにも身勝手だわ。だからやはり、せめてそれだけはあなたに伝えておかないと」
「…………はい。師匠、それを教えて下さって有難うございました。もし、ちょっと過去の思い出が苦しいとか、動くのに支障があったら言って下さいね。そのような時は、ムガルが働きますから」
「おい…………」
ネアが微笑んでそう言えば、グレーティアは途方に暮れたような目をした。
濡れたような水色の瞳は鮮やかで、深みのあるしっかりとした水色は、ウィームの冬の湖のようだ。
「…………それでいいのね?」
「ええ。私は、師匠に比べればまだまだひよっこですが、それでも大きな罪を抱え、その罪に纏わる記憶の中には怖くて堪らない開きたくない扉もあります。だから、グレーティアさんを門にした悪い奴らの為に、グレーティアさんがそんな扉をもう一度開かされる必要はないと思うのです。勿論、右に行かなければいけないのに左に行っている時には、教えて欲しいですが…………」
「……………あなた、ダーダムウェルに似てるわね」
「………………なぬ」
「私はもうこれ以上は語らないわ。ここに彼がいるのだとしても、それは所詮、物語のあわいに作られた彼の名前を名乗る役者のようなものだから。…………でも、自分の愛する子供を殺した怪物を引き取り、正気に戻るまで育てたおかしな人間に、あなたは少しだけ似ているような気がする」
ゆっくりとこちらに歩いて来ると、グレーティアはネアの頭に片手を乗せた。
ぽんぽんと軽く叩き、酷く儚げな目をして、ごめんねと呟く。
「…………普段だったら、こんなに私は善人じゃないのだけど、彼に似ているあなたにだから、言うのでしょう。…………もっときちんと話してあげられなくて、ごめんなさい。でも、私はもう二度とその時のことは思い出さないの」
それだけを言うと、グレーティアは戻って行った。
その後ろ姿を見送って小さく頷いたネアの隣で、ムガルが空腹だと小さく呟く。
(あんな風に、しっかり蓋をしている過去なのに…………)
それでもこのあわいでは、きっとその過去が繰り返される。
舞台の上の役者のようなものだとしても、グレーティアが抱えた忌まわしい過去と同じことが、もう一度目の前で起きたとしたら。
そう思えば、ひどく腹が立って悲しくて、ネアは小さく地面を踏み鳴らした。
「……………よりにもよって、こんなところに師匠を落すだなんて。こんなあわいは早く出て、あの魔術師共めは粉々にしてくれる…………」
「人間の台詞としてはどうかと思うが、だからこそなのだろう。その巡礼者達がラエタの魔術師だからこそ、勝手知ったるこの物語のあわいを利用した。ダーダムウェルの魔術師なら、本当にある程度の魔物くらいであれば滅ぼせそうだからな。………そして、だからこそグレーティアのことも良く知っているのだろう」
「……………そうなると、もう一度師匠に接触してくるようなことがなければいいのですが」
少しだけ不安になったが、彼等が今つけ狙っているのは、恐らくラエタの滅亡に関わった魔物達の方だ。
ここは、そんなラエタの魔術師達が利用している、過去の実話を元にした自国の教本の中のあわいでしかなく、蝕の間しか動けないのであればこちらを振り返る余裕はないだろう。
「何か食べるものはないのか。あの焼き菓子はなかなかだったぞ」
「…………物語の怪物が登場する前に、ここを出ましょう。ムガル、頑張って働くのですよ!」
「くそっ、…………自分で買いものが出来れば…………」
人気のなかった宿屋から商業区画に抜ける通りを渡り、ネア達はまず市場の方に歩いて行った。
一応はあわいなので、そこにも人影がなかったらどうしようと心配だったが、市場の手前の通り沿いにある公園には休憩中の男達や、子供を連れて日向ぼっこをしている母親たちがいたし、通りの向こうからは市場らしい賑やかな声が聞こえてくる。
歩きながらちらりと塔の方を見たが、先程から変わらず静かに佇んでいるばかりだった。
(グレーティアさんは、どんな思いであの塔を見たのだろう)
最初に見付けて頭を抱えたあの時、なんと厄介なあわいだろうと思ってあの反応をしていたのではなく、よりにもよって自分をここに連れて来たのかと動揺していたのかもしれない。
けれども、ネアにはそれ以上の動揺や怒りなどを感じさせもしなかった。
きつく蓋を閉めて、一片も漏らさせずに堪える驚きや苦しみは、どれだけのものだろう。
「おい、………これは、焼き林檎ではないか?」
考えながら歩くネアに、隣のムガルがあれこれ話しかけてくるが、ここからはもう人目があるので返事をする危険は冒せない。
食べ物のお店がある度に大騒ぎする魔物を連れて、さくさくと市場の奥にある穀物の専門店に向かった。
まずは、食事の基本となるもののお店で、調べたいことがある。
「まぁ、………立派な袋ですねぇ」
「いらっしゃい。………おや、お嬢ちゃんは旅人さんかい?」
こちらを見て微笑んだのは、恰幅のいい粉屋のご主人だ。
隣にいるそっくりなおかみさんも、優しい目をしている。
「はい。このブンシェの国の市場は、とても活気があって楽しいですね。おやつなどを買いに来ただけなのですが、すっかり夢中で奥まで来てしまいました。ご近所にこんなに立派な粉屋さんがあれば、何て素敵でしょう………」
「はは、ブンシェはいい麦畑がたくさんあるからなぁ。他にもあるんだよ。あっちは蕎麦粉、その奥がとうもろこしや豆類だ。荷馬車で旅をしているのなら、道中の食糧として買ってゆくかい?」
そう言われて店の奥を見ると、確かにたくさんの袋があって、開いた袋の中にはこんもりと穀物の山が出来ていた。
木の枡のようなもので、量り売りをしているらしい。
「美味しい粉があれば、お料理の幅も広がりますよね。しかし、旅などに持って行ってしまっても、日保ちするようなものなのですか?」
「ああ、質の悪い粉屋だと、布袋に入れただけで売っちまうからなぁ。うちは、きちんと半年は乾燥させた木箱に入れたものもあるよ。虫よけ湿気除去のまじない付きだ」
「それは、師匠に言わなければ!暫くはこちらに滞在するのですが、また移動する際には食料を買い込むので、是非に立ち寄らせて下さいね。………この国は、食べ物も上等なものばかりで、立派な物見の塔などもあって豊かで綺麗なところですね」
「物見の塔、かい?あの森沿いの?」
首を傾げたご主人に、ネアは慌てて指をさした。
「いえ、あの、………緑のやつです。きっと、すごく遠くの方まで見えてしまいます!」
「ああ、ありゃ魔術師様の塔なんだよ。ちょっと変わりものでねぇ。なかなか出てこないのさ」
「魔術師さんが、住んでいるのですか?…………あんなに高い塔に、どうやって食べ物を運ぶのでしょう。腰が悪くなりそうですねぇ…………」
そう言ってみせたネアに、粉屋の主人はおかみさんと顔を見合わせてわははと笑うと、魔術師なので荷物は魔術で運んでしまい、腰を痛めたりしないのだと教えてくれる。
隣でムガルがとても呆れた目で見ているが、ネアはこのようなお喋りは案外得意だ。
心を平坦にして薄っぺらな微笑みを貼りつけ、必要な情報の為に相手が安心してお喋りしてくれるような愚かな子供のふりをする。
かつてネアがそう振る舞っていたところに比べれば、これはなんと健全なお喋りだろうか。
(あの頃は、望まれるのであれば神様に背くようなことをしてでもより良い地位や仕事を与えて欲しい人達と、お金や権力のある男性達に見初められたい女性達、そしてそのどこかに、自分達を陥れようとしている誰かや、自分達を殺そうとしている誰かがいないかと目を光らせている人達の中にいたのだもの………)
ふと、あの頃に見上げた天井の色を思い出した。
勢を尽くしたオペラハウスや、誰かが伯爵だった曾祖父から受け継いだという荘園の見事な屋敷。
青い青い海の近くにある別荘や、会員制の小さなバーなど。
その中で天井を見上げ、ネアはいつも、どうして自分はこんな所に来てしまったのだろうと考えたものだ。
「そうなると、魔術師様は、自分でお買い物に来るんですね」
「ああ、………確か、先週は見かけたよ。でも、粉袋を担いでは帰らないからね!」
くすりと笑った粉屋のおかみさんにそう言われ、ネアはがっかりした顔をしてみせる。
「粉袋を担いで帰る、筋肉自慢の魔術師さんだったら見てみたかったです。でも、あんなに高い塔に住んでいるのなら、きっと立派な方なのでしょうね」
「筋肉自慢の魔術師なんざいるのかねぇ。こう、みんなひょろっこいよなぁ………」
「そうかい?石工のところの息子は、まじない師だけどがっしりしているよ」
筋肉自慢な魔術師がいるのか談義に入った粉屋の夫妻にお辞儀をして店を出ると、ネアは、どうやら塔の魔術師は市場にも顔を出すらしいぞと鋭い目で周囲を見回した。
ネア達が探している子供が食事全般を運んでいるのかと思って、その子供を探そうとしていたが、なにぶん子供だというので、一緒にお買い物に来ることもあるのだろうか。
(会話の流れで、その召使いさんのことを教えて貰えると思ったのだけどな………)
食料を自ら買いに来るのであれば、食事を運んで貰う必要はないのではという気もしたが、案外、召使いが運んでいたのは魔術師が自分で用意出来ないようなものだけだったのかもしれない。
ちょっぴり探偵気分でそんな推理をしながら、ちょっとうるさくなってきたムガルを鉄板でじゅわっと焼いてくれる白身魚のクネルで黙らせ、ネアも小腹が空いてきたところだったので、シンプルなクネルを買い食いしてみた。
市場の端っこにある荷運び用の開けた区画の柱に背中を当てて立ち、周囲に人がいないことを確認した上で、ムガルに話しかける。
「ちゃんと、繋ぎの魔術は切りましたね?」
「切るに決まっているだろう。その指輪の贈り主に恨まれるのは御免だ。………うまい」
「むぐ!お魚のすり身がもちもちぶりんとしていて、中に入っているチーズも美味しいですねぇ」
「…………とうもろこしのものも、あったではないか」
「どうせ、他のお店でも欲しいものが出てくるのですから、一店舗につき一種類までですよ?なお、このクネルに見合った働きを、まだ見ていませんが」
「…………それなら、考えてある。…………あそこにいるのが、ダーダムウェルの魔術師だ」
「……………………め、召使いさんはいますか?!」
ネアは慌てて周囲を見回したが、どうも魔術師は一人でいるようだ。
ネアと同じくらいの身長の少年のように見え、手にはお買い物メモ的なものを持っていた。
「…………どうするんだ?」
「…………ぐぬぬ」
ここでネアは、ちょっとした賭けに出てみることにした。
その少年が動こうとしている動線を確認し、ムガルに少し離れていてもらいつつ、紙に包んだクネルを齧りながら彼が通りかかるであろう場所の壁沿いに蹲ってみたのだ。
あえて少年の方は見ないようにしながら、クネルに意識を集中してはぐはぐ齧る。
若干、中でじゅんわり蕩けるチーズの美味しさに心を奪われつつ、ネアは彼が自分の前を通りかかるのを待った。
やがて、何人もネアの前を通り過ぎてゆく買い物客の中に、ゆらりと長い水色のケープが揺れた。
顔を上げていないので、足元しか見えないのだが、紺色の編上げのブーツの爪先が、ネアの前に差し掛かるあたりで小さく躊躇い、…………そのまま通り過ぎようとして、ぴたりと止まる。
こうもあからさまに目の前で止まればもういいだろうかと、ネアは、おや誰だろうという表情で視線を持ち上げてみた。
「……………お前、このあわいの住人ではないな」
視線を持ち上げたその先で、はっとする程鮮やかな水色の瞳が揺れる。
絹糸のように細い金色の髪をゆるやかに束ね、その少年はネアを真っ直ぐに見ていた。
(やっぱりだ…………)
この少年がこのあわいの中で持つ役割を考えれば、ネアを見れば、異質な存在であると気付いてくれるような気がしたのだ。
だから、その視界に入るようなところで陣取って待ち構えていてみたのだが、思った通り、この少年は気付いてくれた。
「……………あなたも、悪い奴にここに落とされたのですか?」
そして、狡猾な人間がそう言えば、なぜかダーダムウェルの魔術師は、酷く遠い目をするではないか。
その眼差しは少しだけ、絨毯に悪さをした銀狐を発見した時のヒルドに似ている。
「あの小僧共は、また何か企んでいるのか…………」
「……………思っていたより、犯人めを知っている気配がします。これは逃がす訳にはいかないので、このクネルと引き換えに、私達をここから出して下さい!」
「おい、そのクネルは食べかけであろうが。………それと娘、今、私達と言ったな?」
「はい。総勢三名の迷子です…………」
負担を三倍にしてしまうが大丈夫だろうかと、おずおずと数を明かしたネアの返答に、ダーダムウェルの魔術師はがくりと肩を落とした。
思っていたよりお年寄り風の言動なので、かなりの若作りなのかなと少ししょんぼりしながら、ネアは、受け取り拒否をされた残りのクネルを美味しくいただく。
ダーダムウェルが苦悩している間に、クネルを綺麗に食べてしまい、手も拭いて包み紙を捨てるところを探していると、少年姿の魔術師は無言で屑籠を指差してくれた。
「…………食べ終わったのなら、少し付き合え。お主に聞きたいことがある」
「助けてくれるのですか?」
「……………運が良ければ、手を貸してやれるかもしれんが、確実ではない。故に、約束は出来ぬな」
あわいの中に住む思いがけず好意的な魔術師の様子に、ネアはぱっと笑顔になった。
するとなぜか、ダーダムウェルの魔術師は眩しそうに目を細める。
それはまるで、ネアを透かして誰か懐かしい人を思うような、そんな眼差しで。
(でも、藁にもすがる思いで、気付いて貰えないかなと動いてしまったけれど……………)
そんなダーダムウェルの魔術師を見つめ、ネアは、この邂逅をどうグレーティアに伝えようかと少しだけ複雑な気持ちになった。