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319. 蝕で開いた門から始まります(本編)





そこは、豊かで深い森に囲まれた小さな開けた土地であった。

森は秋の色に染まりはっとする鮮やかさで、澄んだ水を湛えた小川が流れている。



木々の向こうを鹿が駆け抜けてゆき、枝の上の方を栗鼠がするすると這い上ってゆく。

木の枝に絡む山葡萄の蔓や、地面に落ちている団栗の実。

そんなものを眺めながら、悲鳴を噛み殺す人間はどれ程いるだろう。



なんて美しい普通の森だろうか。

ここには光る鉱石は見当たらず、妖精が飛び交う光はない。

奇妙なものや恐ろしいものもおらず、ただ美しく豊かな森がどこまでも広がっている。




(こわい……………)




だからネアは、膝が萎えてしまって落ち葉の降り積もった秋の森に蹲った。

頭の中で大事な人達の名前を並べて確認し、誰の名前も思い出せないというようなことはないと分かってほっとした。




(でも、ここからだ………)



本当に恐ろしいのはこれからなのだ。

もし、ネアが見ていたあの日々が美しく奇妙な夢だった場合、目を覚ましたそこから美しく幸福なものはさらさらと砂が崩れるように失われてゆく。




「……………ディノ」



だから、その名前を呼んだ。

呼んでから自分の唇に触れて、その声をもう一度よく思案する。

怖くてたまらない思いを何とか堪え、髪の毛をそっとつまんでから、恐る恐るその色を見てみる。




「…………っ!青みがかった灰色!!」



その色を見た途端、ネアは拳を握って自分の運命に心から感謝した。

蹲ったまま震える腕を空に向かって持ち上げ、灰色の髪の毛万歳と小さく胸の中で呟く。



世界は広く、そもそも世界はネアが知る限り一つではないが、見知らぬ世界に落とされてその世界での暮らしを失いたくないと思う人間はどれ程の確率だろう。

そう考えてほんわりしたところで、ネアは、再びぎくりとして息を詰める。



(…………で、でも、異世界から異世界への迷子もあり得なくはないのかも……………)



そう考えてまたがくりと項垂れると、くさくさした気持ちで足元の落ち葉を眺めた。


もしそんなことになったら、可及的速やかにネアを異世界に呼び落とすような暴挙に出た者達を恐怖に陥れ、是非ともすぐにでもお帰りいただこうと思わせてみると心に誓う。

首飾りの金庫が使えるのなら、国の一つくらいは滅ぼしてみせる所存だ。




ネアは今日、蝕が始まるその瞬間を見た。



気象性の悪夢が落ちてくるように、すとんと闇が広がり、お昼前の明るい窓の外側がくらりと闇に包まれるのを見たのだ。

窓辺に立ってそんな光景に慄きつつ、とうとう始まったのでと、ディノのお城に避難しようとしていた。


そんな折に、ネアは突然鼻がむずむずしてしまい、手に持っていた魔物の三つ編みを離してティッシュ相当なものを取りに部屋の隅に走ってゆき、くしゅんとくしゃみをしたら、ここにいたのだ。



そしてこの見知らぬ森で、あまりにも魔術のかけらもない恐ろしさに震えていた。




(くしゃみをしたとき、部屋には、ディノとノア、エーダリア様とヒルドさんがいた。…………アルテアさんは、今回はあえてこちらに来ないで統括の魔物さんとしてのお仕事をしているし、ウィリアムさんはあまり自分の領域を出ないようにして、誰かが大怪我をした時だけ来てくれることになっていて………)



それとは別に、蝕が始まった後からダナエが訪れてくれることになっていた。

一緒に来てくれる予定のバーレンは、身に持つ、あるべきものをあるべきままにという資質から、蝕における反転の影響はほぼない。

竜種の中では、あわいに強い闇の系譜の竜に次いで頼もしい存在だ。


(だから、…………)


リーエンベルクにはもう、ふわまるの守護があるから、その二人が来れば更に安心だからと。

だからネアは、怖い蝕を迎えるのだとしても、今回はディノのお城でその災厄が明けるのを待つだけの傍観者の役割だと思っていたのだ。



「…………どうして」



誰かに聞こえないくらいの声でそう囁き、ネアは胸の内側で揺れた苦しみを噛み締める。

またしても自分がという感じがするのだが、これは事故ではなくて恐らくは事件なのではという予感もしていた。



懸念していたラエタの魔術師かもしれないし、まさかのこのタイミングでどちら様からか呼び出しがかかったのかもしれない。




なにしろ、ここはネアの良く知る世界とは何かが違う。

匂いや色や、世界の厚みのような何かが圧倒的に足りないのだ。



(いつの間にか、すっかり狩りの女王になってしまったし、そんな才能を求めて誰かが私を召喚したというのもあり得なくはないのだわ………)



なお、その際魔術可動域云々の問題は思考の外に投げ捨てておく。

召喚というのは、得てして不完全なものである。




「…………おのれ。まずは、そんな魔術師だったり神官だったり、どこかの王族だったりするかもしれない召喚主を捩じ伏せ、生まれて来たことを後悔させましょう……………」



万が一ここが再びの異世界だった場合はと、そう暗い声でネアが誓ったその時、すぐ側から思いがけない声がかかったのだった。



「あら、それはやめて欲しいわね。先に謝っておくけれど、私も、しまったなと思ってとても申し訳なく思っているし、そもそも犯人は他にいる筈よ」



その声にネアはまずゆっくりと振り返り、ぎぎぎっと顔を戻して呼吸を整えてから、また振り返った。



「……………ししょうがいます」

「あら、師匠と呼んでくれるのね。嬉しいわ」

「にゃわわなししょうが………」




誰もいない筈の深い森の底で、女装した素敵なおじさまと二人きりというのも、かなり刺激的な体験にはなるだろう。


これはどうしたらいいのかと慄いてから、と言うことはここは、元いた世界というのもおかしいが、ネアの居続けたい世界なのではと顔を輝かせた。



「し、師匠、ここは元の世界ですか?!私は、異世界に召喚されていたりはしませんか?!」

「…………あら、もしかして、あれこれ面白い顔をしていたのは、そんなことを心配してたからなの?大丈夫よ、世界の乗り換えなんて魔術の理で成り立たないし、出来るとしたら万象の王くらいのものね」

「……………よ、良かったでふ」



こちらの人間は、そんな万象の魔物に一度その体験を強いられているのだが、ひとまず今は最愛の世界にいることを喜ぼう。



(ディノやみんながいる、私の大事な世界のままだった!!)




あまりにもこの世界に来た時とシチュエーションが似ていたので怖くて堪らなかっただけに、ネアは安堵のあまりに涙ぐむ。



「ちょっと、よく分からないところで涙を落としちゃ駄目よ!」



すると、グレーティアに叱られてしまい、慌てて深呼吸をした。

はすはす息を吸えば、ふくよかな森の澄んだ空気が心地良くもある。

呼び落とされた先だからといって、どこかが歪んでいたり狂っているような怖さは感じられないようだ。




「…………グレーティアさん、ここはどこなのでしょう?私は多分、とても安全なところにいて、どこかに連れ去られたり落ちたりする筈はなかったのです…………」

「…………ごめんなさいね。それは私のせいだわ。私が、あなたの門にされたの。…………と言うよりも、誰か特定の奴を捕まえる為に門にされた私が、たまたまあなたを呼び寄せてしまったのね…………」

「…………師匠を門にして…………?」

「そ。私は妖精だから、安全なところにいる獲物を引き落とすには、いい門になったのでしょう」



その言葉にネアはふと、闇の妖精の時の事件を思い出した。

あの時も、備えのある安全な場所から引き落としがあった。

妖精特有の侵食によるものから、敵がリーエンベルクの奥深くまで忍び寄ってきていたからだ。



(だから、…………門に?……しやすいというのは……………?)



よく事情が飲み込めず、とは言え元の世界にいると分かったので、少しだけ元気が出てきたので立ち上がり、ささっとグレーティアに歩み寄った。


どうやらこのグレーティアが巻き込まれたことの巻き添えを食らったようだが、せめては知り合いというか、面識のあるひとがここにいてくれて良かったと言わざるを得ない。



(そう言えばさっき、ディノの名前を呼んだのに、……………)



声が届くなら、きっとディノは来てくれた筈なのだ。



それなのに来てくれないのだから、ここは、ディノが容易く来られないような場所なのだろうか。

列車で連れて行かれた海辺のあわいにもすぐに来てくれたのに、ここにだけ来られないような事情があるのだとしたら、地上でも何かが起きているのかもしれない。


不安げに眉を下げたネアに、やはり近くまで歩いてきてくれたグレーティアが、ふっと微笑んだ。


顔だけを見ていれば胸がざわつくような仄暗い美貌のおじさまの姿だが、残念ながらドレス姿である。

頼れるかと言われれば、実はかなり頼りになりそうだが、ちょっと素直に手を借りにくい専門的な要素が強いと言えなくもない。




「今日の午後に、蝕の揺らぎがあったのだけど、その時に妙なお客が来たの。開きたい扉があると言われて、あら、あちらのお勉強に来たのかしらと首を傾げていたら、この通りよ」

「この通り……………この場所に?」

「そう。あまり知られていないし、そもそも禁術だけど、妖精を魔術の門にする術式があるのよ。高位の妖精の持つ魔術を無理やり開き、そこから、その妖精の知る誰かを呼び寄せる。………私は、良く知る最高位の魔物の一人を思い浮かべろと条件付けされたその時に、なぜだかあなたを思い浮かべちゃったのよね…………」



そう言われたネアは、呆然としたまま頷いた。

そのような魔術があるのは初めて知ったし、本当にただの巻き込まれ事故だったのだなと、あらためて驚いたのだ。



(……………ううん。でも、グレーティアさんは、最高位の魔物を呼び出す為の門にされたと言った。最高位…………?………もしかして、ディノが狙われているの?)



「その、………今回の事件に巻き込まれるような、最高位の魔物さんに思い当たる方がいるのですか?」

「思い当たるも何も、私が知ってるのはウィリアム様とアルテア様くらいねぇ」

「………むぐ」



その名前を出され意味ありげにこちらを見たグレーティアに、ネアはがくりと項垂れた。

これはもう、巻き込まれたのはグレーティアの方だ。

たいへん申し訳ありませんと言うしかない。



しかし、ネアが何かを言おうとしたその前に、淡く苦笑したグレーティアが、違うのよと首を振った。



「あなたと一緒に来たのがその二人だと気付いてはいたけれど、その二人と私の縁が繋がっていたのは、もっと昔のことよ。お店に来た時の擬態は完璧で、二人とも自身の魔術の要素は一切漏らしていなかったわ。それに、そこに来た時のことを知ってるなら、あの男も、あなたを放り出してはいかないでしょう」

「…………あのお二人を、元々ご存知だったのですか?」

「私には、姉と妹がいるのだけど、その二人がウィリアム様とアルテア様に恋をしていてね。年初めの舞踏会に一緒に連れて行かれてご挨拶をしたのが最初だったかしら。それぞれそれなりに気に入られたお陰で、それから何度かお二人にはお会いしたわ。………でも、それは子供の頃のことだし、私もすっかり変わってしまったから、あのお二人は、私がその時の子供だと気付かなかったのね」



(…………となると、グレーティアさんが男の子の姿でいた頃に、会っていたりしたのかしら?)




「…………まぁ、私に教えを請いに来た以上は迷える子羊として扱うしかないけど、まさかあんな再会になるとは思わなかったわ。お二人共、………丸くなったというか、面白くなったわね」

「…………ほわ」

「そんな訳だから、あなたを見て外れだと判断したあの男は、あなたと彼等との繋がりを知らないのでしょう。逆に、私とあの二人の繋がりを知っているとなると、随分昔のことを知っているのね………」

「…………グレーティアさんは、犯人を見たのですね」

「ええ見たわ。そして、こんな話をしても狼狽しないあなたは、あの二人が狙われていることを知っていたのね」



ここは難しいところだと、ネアは内心頭を抱えた。


グレーティアは、大切なそちらの趣味の師匠だが、ウィリアムやアルテア、そしてネア達の事情をどこまで打ち明けていいものか、ネアの持つ情報では判断し難い。


だが、上部だけの言い訳をしても、この梱包妖精はきっと気付いてしまうだろう。




「そのお二人が、蝕にあたり、あわいから来る悪いやつに狙われていることは存じ上げています。大昔の因縁のようなのですが、お二人の事情もあるので、私がどれだけのことを第三者として語ってしまっていいのかが分かりません………」

「…………ふうん。思っていたより、喋ってくれるのね」



そう尋ねたグレーティアに、ネアはこくりと頷いた。



「私が関わってもいい領域ではないのでしょうが、巻き込まれた以上は私も自分の身を守りたいのです。叱られない程度のことまでは情報共有して、どうにか無事にお家に帰れたらいいのですが…………」



ここで一つ、あえて主語をふわりとさせることにした。


ネアが関われないのは、踏み込めないような間柄ではなく、単純に足手纏いだからなのだが、階位ある魔物と一介の人間の一般的な関係性を前提に、そこはどうか誤解して欲しいと思ったのだ。



(あれだけの時間を一緒に過ごしたのだから、私があの二人とある程度親しいのは理解している筈だけれど…………)



巻き込まれただけのグレーティアは、例えば、敵にネアを売るような形でここを脱出することも可能なのではないだろうか。

ある程度の線引きはあるのだと誤解して貰い、その可能性も潰せるといいなと企んだのだが、やはり相手はネアより遥かに世慣れていた。



「心配しなくても、あなたを囮にしてここから出ようとはしないから、そこで予防線を引かなくてもいいわよ。さっきも言った通り、今回のことは、私があなたを巻き込んだの。だってそうでしょう?あの男、………陰気なフード姿の魔術師だったけれど、……そいつは特定の人物を指定したのに、私があなたを思い浮かべてしまったんだから」

「…………グレーティアさん」



すっかりお見通しだったと、申し訳なく視線を下げると、グレーティアはばちんと片目を瞑ってくれた。


このような特殊な業界の人達はやはり、込み入った嗜好や困難に立ち向かう猛者らしく、どっしりとした頼もしさがある。



「そもそも、妖精を門にする禁術は、一人に対し一度しか使えないものだし、あちらにも制約があるのだと思うわ」

「一度しか使えないものなのですね………」

「そりゃ、妖精も門にされっ放しじゃ困るからでしょうね。この禁術には対価も必要だった筈だから、あちらも何度も使うことはない筈よ」




今回は、何よりもこの魔術についてをグレーティアが知っていてくれたことが幸いであった。



妖精を門にする禁術は、一人の妖精につき一度だけ、それもある程度の召喚をかけるにはそれなりの階位の妖精が必要になる。


門になる妖精が魔術の縁を持つ者しか呼べず、禁を犯して門とするにはかなり大きな対価が求めらるので、一人の魔術師が生涯に一度だけ使うような禁術であるらしい。



ネアは、そう聞いてぞくりとした。

それはつまり、今回のこの蝕で全てを決めるつもりで、彼等も覚悟を決めているということに他ならない。



これは、襲撃なのだ。



悪戯でも接触でもなく、綿密に計画を立てて特定の誰かを狙いに来ている。

そしてそれは恐らく、ネアにとって大切な人達が標的になっているのだろう。



(もしかしたら、………他の誰かが、ウィリアムさんやアルテアさんを、召喚してしまっているかもしれない…………)



ネアはそう考えて震え上がったのだが、ここでまたしても、運命はネア達に味方してくれたようだ。



「とは言え、門にされた妖精が壊れたり、私のように他の誰かを呼び寄せてしまったりして、目的は達成出来なかったみたいね。私があなたを思い浮かべたその時に、最後の門も失敗かと舌打ちをして、あの男は私達をこのあわいに打ち捨てたの」

「………となると、私はいきなりここに落とされたように感じていたのですが、実際には………門向こうからその魔術師めに確認され、こちらに捨てられたのですね?」

「門にされた私がここに棄てられたことで、あなたもこちら側に落とされたのよ。せめてそれを防げれば良かったのだけど、口封じも兼ねているのでしょうね」



人違いだと思ったのならそのまま解放して欲しかったのだが、そもそもグレーティアは、ウィリアムやアルテアとの縁を見込まれて門にされている。

そのまま野放しにして、彼等に狙われている事や犯人の特徴などを伝えられても困るのだろう。



「…………でも、そうなると、私達はもう放っておいて貰えるのでしょうか?」

「ええ。私達は外れの組み合わせよ。だから、こんなことを仕組んだ愚か者は、もう私達には見向きもしないでしょう。とは言えここは、あわいの隙間。あまり良い環境とは言えないけれど、何とかして元の場所に帰るわよ!」




そう言って、森を見回したグレーティアの瞳は鋭い。


そう言えばこの人はシーなのだと、ネアはあらためて考える。

梱包業界がどんなものにせよ、あの種の欲望を制御するのであれば、なかなかに世の中のことを知り尽くしていそうであるし、動じない柔軟な精神を持ち合わせていそうだ。



「あわいの、隙間…………」



それはあわいそのものとは違うのだろうかと、ネアは役立つ記憶がなかったかなと眉を寄せる。

気付いたグレーティアがこちらを見てくれた。



「人間達は、隔絶だとか側溝と言うようね。………知らない?じゃあ、死者の国や、妖精の国があるのは知っている?」

「はい。そのようなところなのですか?」

「いつも暮らしているところと、死者の国や妖精の国のような場所との間に出来る、得体の知れない側溝のようなところね。世界の管理下にありながら、名の知れたあわいではない、その末端の一種ってこと」



腕を組んでそう説明してくれたグレーティアに、ネアは、師匠は何だかとても物知りだぞと心を弾ませる。




(……………すごい、いつも、ディノ達が色んなことを教えてくれるみたい…………)



単純に、専門的な分野からの知見と、精神的な強さを想定して頼りになりそうだと思っていたのだが、知識的な部分においても色々なことを知っていそうな気がした。



「あわいの列車に乗ったことがあるのですが、いつもの地上の世界のように、土地として仕切られているだけだと思っていました………」

「その列車が走るのは、一つの層で繋がった部分だけね。あわいはね、世界の隙間だから、何層も何種類もあるの。繋がっていない行き止まりの層もあって、例えば魔物に殺された人間の死者達を集めたあわいなんかは、そのいい例だわ。そのあわいにあるのは、魔物に殺された死者達の暮らす国だけ。他のあわいとは繋がってないのよ」

「…………と言うことは、ここは一般的なあわい……ではない、あわいなのでしょうか?」



でなければ、先程のような言い方はしない筈だとそう尋ねると、ふっと瞳を細めてグレーティアは微笑んだ。



「…………いい子ね。冷静だわ。この状況下で泣いたり騒いだりしたら、私が巻き込んだことだけを謝罪して、森に捨てて行こうかなとも思ってたのよ」

「…………お、置いていかないで下さい。狩りなどは得意ですが、そもそもここはどのようなところなのかなど、私には分からないことだらけなのです…………」



慌ててそうお願いすると、グレーティアはまた微笑みを深めた。



「不本意ながら門にされたのは私の手落ちなのだから、余程目に余るような馬鹿でなければそんなことはしないわ」

「目に余る場合は…………」

「出会わなかったことにして、森に捨ててゆくわね。私だって一応は被害者なのだし、自分の命や気分を害する相手を守ってやる必要はないでしょう?」

「その条件に気分も加えられてしまうととても恐ろしいのですが、このまま捨てられない系の被害者の座を守りたいと思います………」



ネアはそう宣言し、グレーティアがそうねぇと頷く。



「まずはあわいを抜ける為に、この中に住む者達の集落などを探しましょう。とは言え、森林部が広いと抜けるのに時間がかかる可能性もあるわね。………私はちょっと着替えてくるから、あんたも持ち物があるなら身支度なさい」

「はい。淑女のお着替えを覗かないと誓います」

「あら、そういうことを言えるなんて、ほんといい子ね」



そう微笑んでグレーティアは近くの茂み中に入って行き、ネアはその隙にと首飾りの中から取り出したカードを開いた。




“ネア、そこにいるかい?今いる場所がわかるかい?”



さっそくそこには、ディノからのメッセージが揺れていた。



(良かった。ディノ達は無事みたい………)



焦って書かれたような文字を見てしまうと胸が痛くなったが、 その向こうにディノがいるのだと思うと、安堵のあまりに胸が熱くなった。



とは言え、このカードを開いていられる時間はあまりない筈なので、そんな感傷はしまい込み、慌ててグレーティアに教えて貰ったことを書いてみる。




“…………怪我はしていないね?”



状況の報告を受けて、そう帰ってきた文字に触れ、ネアは唇の端を持ち上げた。



先程まで考えていた最悪の展開ではないと知った今、こうして大事な魔物とやり取りが出来るだけでどれだけ幸せなことか。



“はい。私は大丈夫なので安心して下さい!取り敢えず、ディノはなぜか私のところに来られないということですし、ここがどこなのかを含めてグレーティアさんと探ってみますので、ディノ達はくれぐれも無理をしないで下さいね”

“うん…………。また君に怖い思いをさせてしまった。…………ごめんね、ネア”



今度もディノの三つ編みを離してしまったのはネアなのに、ディノはまたこうやって謝ってくれるのだ。



妖精の門については、人間の禁術であるらしく、ディノは知らない叡智だったらしい。

隣でカードを覗き込んでくれているノアが、辛うじてそんなものがあったような気がすると思い出してくれたくらいのものであった。


ネアは、自分の警戒が足りなかったと謝ったのだが、ディノはそんな禁術を知らずにいたことが今回の事件に繋がったのだと言い、それがかなり堪えているようだ。



ラエタの、それもほんの短い期間だけ広まり、門にされた妖精達にその術式を封じられて廃れた禁術など、あまり外に出ていなかったディノが知らなくても当然なのに。




そう考えて、ネアはきっとこの向こう側で悲しげに項垂れているディノに触れたくて堪らなくなる。



(でも、また離れ離れになってしまったから、ここからではディノを撫でてあげられないんだ……)



だからネアは、残った時間で、大事な魔物の大事さを精一杯伝えてみた。



“あまりにも普通の森に一人で落とされてしまったので、最初は、また違う世界に落とされてしまったのかとか、この世界でのことは全て夢で、もうディノに会えなくなってしまうのかと思ってしまって、とても怖くて悲しかったのです。……だから、ディノがこうしてこのカードの向こう側にいてくれるだけで、何だか嬉しくて堪りません………”

“ネア…………”

“世界間のやり取りを出来るのは、ディノだけだと聞きました。ディノ、私を、どこか知らない異世界にやらないで下さいね?”



そう書いたネアに、ディノは、決してご主人様を他の世界になんて渡さないと誓ってくれた。



連携が取れたものか、ウィリアムとアルテア、そして、アクス商会にも狙われているらしいと注意喚起も出来たようだ。




ひとまずそこで一度カードを閉じてから、ネアは金庫の中の武器を幾つか出してポケットに移動させた。

先に蝕が始まってくれたお陰で、ポケット多めのいざという時用の服を着ていたことと、首飾りを見えなくしていたことに感謝しつつ、履物だけは屋内用のものを金庫の中の戦闘靴に履き替える。



グレーティアは思っていたより支度に時間がかかっているようだが、女性は身支度に時間がかかるものだ。

その隙にディノとも会話が出来たので、ネアはほっとして胸の奥に温度が戻っていた。




(リーエンベルクは、ふわまるのお陰で安全な筈だったのにな………)




とは言えそこは、完全に隔離された魔術的な領域ではない。


だからネアは、あの後、ディノのお城に避難する予定であった。

魔物達の予測よりも蝕が早く始まったのは、最後の大きな胎動から、そのまま元に戻らず蝕が始まってしまったからである。


とは言え、そういう事もあるだろうと事前に言われていたのでさして驚いてはいなかったのに。




(あの時、くしゃみをしなければ…………)



そう思えば悲しくなったが、終わってしまったことでくよくよするのはやめよう。

海竜の戦の時よりは、良い始まりのような気がする。



(グレーティアさんは、あの時のゾーイさんのように余所余所しくない方だし、生き残った人だけがと言うような決まりもない。………後はせめて、私達をこちら側に落とした人達が、このまま外れの組を忘れていてくれればいいのだけど………)




「ごめんなさいね、遅くなったわ」




そこで、茂みの向こうからグレーティアが戻って来た。



振り返ったネアは、ぴしゃんと雷が落ちたように、そのまま固まってしまう。



「ししょうが、…………男の方に!!」

「そりゃそうよ。私だって状況を顧みず我が儘を通すような低脳ではないわ。あのままじゃ、あまりにも目立つでしょ」

「…………確かに」



そこに立っていたのは、漆黒の装いをした一人の男性であった。


素敵な紳士らしさを漂わせていた髭はさっぱり剃り落とされ、しなやかな長身の男性に見えはしたが、よく見ればなかなかにがっしりした腕の筋肉を見せていた女物のドレスは、全て男性ものに変わっている。



少し広めに開いた詰襟の黒いケープに、貴族的だが機能的な漆黒の装いは、他に余分な色を一切乗せていないことが、なぜかとても優美で危険に見えた。


だが、ぴったりとした黒い革のパンツなどは何も知らない人が見れば蠱惑的な雰囲気の男性だと思うだけだろうが、ネアにはきちんとにゃわわな師匠としての威厳をも窺わせてくれているように見える。



(服装の雰囲気としては、黒一色のシェダーさんな感じかしら………)




「旅人にも、流しの商人にも見えるような雰囲気にしたの。これから見付ける集落がどれだけの規模で、どれだけ閉鎖的なのか分からないものね。………ああ、髭ね?髭は人の印象に残るものだし、土地によっては魔術的な階位の意味があるから剃ったのよ。余分なところで目立ちたくないものね」



そう言われてこくりと頷いたネアの服装をじっと検分した後、グレーティアは悪くないわと言ってくれた。



「ドレスも、質はかなりいいけれど近付かないと分からないことだし、華美に悪目立ちするようなデザインじゃないわ。ブーツなのもいいわね。それに、あなたの容姿は繊細で整っているけど、全ての系譜を引き寄せる無尽蔵さはないし、表情を沈めるとその他大勢に紛れ込み易い地味さもある。これは見知らぬ土地で動くには利点になるわね…………」

「…………は、はい!」



沢山の批評をいただき、ネアは虐められてもおらず、変更を要求されてもいないことを把握してから、またこくりと頷いた。



服装を変えたことで、グレーティアは、ますます素敵なおじさま感満載になり、ネアは、危険な美貌を持つ男性が、年齢を重ねて落ち着きを加えた系のロマンスグレーな雰囲気が、視覚的には一番の理想であったことを思い出した。



(勿論、理想の男性としては難易度が高過ぎるからそちらの区分ではなかったけれど、視覚的にはとっても素敵!!)



理想の見た目の妖精さんに良くやったと褒められると、素直な人間は、なぜだかやる気が向上するものである。


不肖の弟子ですが頑張ってこんなあわいから脱出してみせるときりりと頷いたところで、ネアは、グレーティアの背中に羽がないことに気付いた。



「は、羽が!綺麗な羽が消失しております…………。もしや、反転の影響ですか?」

「反転は固定の資質が揺らがないので、さして影響はないわ。あの羽はね、実はまだ転属が定着していなくて、作り物なのよ。とは言え、普通の妖精の羽のように魔術も添わせるし動かすことも出来るの。自分の魔術で、まだ生えない羽を象ったものという感じかしらね」

「…………転属、ということは、グレーティアさんは元々妖精さんではなかったのですか?」

「うーん、そうねぇ。そうかもしれないわ」

「…………個人的なことに踏み込んでしまってごめんなさい。そういうことではなく、ここからどう出るのかを考えますね」



ふんわりした軽い躱し方だったのだが、グレーティアの眼差しを見たネアは、慌てて話題を変えた。

グレーティアはとても話し易いので思わず普通に問いかけてしまったのだが、この事件に必要な情報でないのなら、彼にだって言いたくないことはあるだろうと思ったのだ。



すると、そんなネアの慌てぶりに気付いたのか、くすりと微笑んだグレーティアが、頭の上をぽんぽんと片手で叩いてくれる。



(か、芳しきお父さん成分…………!!)



はわはわしたネアに眉を持ち上げて微笑むと、グレーティアはさてと呟いた。




「他にも、門にされて失敗した誰かがこちらにいるかもしれないわね。まずは、森を出ましょう。野宿だけは絶対に嫌よ」

「はい、師匠!」




かくして、ネアとにゃわなる師匠の、世界の側溝の大冒険が始まったのだった。








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