夜明けの壊滅戦
夜明けに敵に拘束された。
鋭く目を開いたネアは、すぐさま体を捻り、相手の体を引き剥がしにかかる。
「ネア、ネア落ち着いて」
「む。………ディノ?」
「他の誰だと思ったんだろう?」
「敵の襲撃かと思いました」
「私がいるんだから、そんなことはないからね」
ふと、その言葉が染み渡った。
(そうか、もうそんなことはないんだ)
勿論、今までもそんな風に襲撃を受けたことなどない。
それでも、気を張り不安に怯えていた短い時間に染み付いた何かが、心をふと振り返させるのだろう。
「ほらほら、この手はこっちね」
「む………」
首を掴みかけていた手を剥がされ、背中に回される。
体がぴったり寄り添い、ネアは眉を顰めた。
「そもそも、拘束されたので抵抗したのです。また捕まったのはなぜでしょう?」
「ネアを一人にしておくと危ないから」
「隣にいるのに死んだりしませんよ?」
「そうかな。ネアは時々危なっかしいから」
「寝てる間に死ぬような持病は、もうないのに……」
ディノはいい匂いがする。
クリームでも入浴剤でもない、彼の魔物らしい香り。
綺麗な髪に顔を埋めてふうっと息を吐けば、この上なく満たされた気持ちになるのも確かだ。
ものすごく大切なものを、両手いっぱいに持たされている気持ちになる。
「……頭突きする?」
「悩ましい声で、なぜにそれを望んだのだ」
強請るように頭を擦り付けられて、叱ろうとしていたはずなのに笑ってしまった。
脳内の信号が、困った犬めというところから、可愛いやつめに変換されてしまう。
こつりと頭突きしてやれば、魔物は艶麗な顔を綻ばせて恥じらう。
「飛び込んで欲しいな」
「それは、一度起き上がり、助走をつけて飛び上がるので、夜明けにかなりの運動をする羽目になる要請ですね。却下」
「………ネア」
「そんな顔をしても駄目です」
「だって、もう浮気はしないんだよね?」
「最近攻撃方法を学びましたね」
その日は結局飛び込みはせずに、拘束に甘んじることでどうにか着地した。
しかし、本当の悲劇はその数日後に訪れてしまったのだ。
その日ネアは、珍しく徹夜明けであった。
リーエンベルクのサロンの一つには、かつて貴婦人達のお茶会に重宝された一室がある。
中庭の彫像と庭木の重なりが抜群に綺麗に見える部屋で、カーテンを開けて雪景色を全開にしていると、何とも言えない贅沢さを味わうことが出来る。
室温調整された宮殿の中でも、あまり開放されていない部屋は少しだけ冷んやりと空気が澄んでいて、眠気で霞んだ目にはとても魅力的に感じた。
雪は降り止んだだろうかと覗いただけだったのに、絶好の昼寝場所を発見してしまったのだ。
部屋の薄暗さと、窓の外の柔らかな白い光で、部屋は清浄な穏やかさに包まれている。
「何かあれば、捜索隊が来るでしょう」
部屋でお留守番のディノだが、もう本日の仕事は終わっている。
自立した大人であるので、もし何かあれば自分で行動出来るだろう。
ご主人様はお昼寝を所望である。
勇ましく歩いてゆき、窓際の長椅子にぱたりと倒れた。
ふかふかの長椅子とクッションに、ちょうど横向きになれば雪景色も堪能出来る。
何と素晴らしい寝台だろう。
褒めて遣わすしかない。
ネアの記憶はここで途切れている。
「………目が覚めましたか?」
次に意識が戻ったとき、すぐ耳元で掠れた声が聞こえた。
「………む?」
「両手を持ち上げられますか?ああ、ゆっくりで構いませんが」
視界がはっきりすると、深い青色の瞳が間近にある。
一瞬見慣れた色彩に近く感じたが、やはり色相がまるで違う。
ディノの瞳が夜明けの複雑な色彩の空であれば、この色は深海の瑠璃色だ。
誰かが腕の中にいる。
そして、誰かの腕の中にいる。
「……ヒルドさん?」
「随分とお疲れだったようですね」
また少し、少しだけ掠れた甘い声。
睦言のような甘さに、ネアはこれは何が起きているのだろうかと、明瞭になってゆく意識の端から状況整理を開始する。
あの、居眠りを決行した空き部屋だ。
窓の外の明るさ的に、さほど時間が経ったとも思えない。
そして、両手でしっかりとヒルドを拘束しており、その結果彼は、ネアの上に覆いかぶさるようにして身動きが出来なくなっていたようだ。
片手はネアの体に回されているが、もう片方の手は長椅子の淵に突っ張って、ネアにかかる自分の体重を軽減してくれている。
長椅子の淵に突いた膝にもかなり体重がかかっていそうなので、実質ヒルドは二点で体を持ち上げてくれたのだろう。
ネアの体を跨ぐようになったもう片方の足には、出来る限り体重をかけないようにしてくれているのがよくわかった。
(もしかしてこれは……)
「っ!!ごめんなさい!寝ぼけて捕獲してしまいました!」
慌てて手を離せば、ヒルドはようやく解放されて半身を起こした。
広げた羽が窓の光を映して、鮮やかに青緑の色を透かせる。
頭の後ろで一本に結んだ孔雀色の髪を、もう一度背中に払い流してから、ヒルドは小さく微笑んだ。
「いえ、とても刺激的な時間でした。ただ、いつあなたを損なってしまうかと少し冷や冷やしましたが……」
「だ、大丈夫でしたか?!いくら頑強な方でも、この体勢は無理のある筋肉鍛錬ですし、疲れたら力を抜いていただいても良かったんです!ヒルドさんの体重ぐらいでは、私は圧死したりしませんよ?」
(そしてなぜに目を覚まさなかったのだ、自分!)
まだヒルドが上にいるので、起き上がれないまま、ネアは頭を抱えた。
微かに右手が痺れているが、どれだけの力で拘束をかけたのだろう。
(ヒルドさんの背骨は無事だろうか……)
「まぁ、鍛錬と言えば鍛錬ですが、愉快な時間でした」
「……私きっと、狩りの夢でも見ていたんでしょう。攻撃はされませんでしたか?」
最近、妖精だの魔物だのを狩り過ぎてしまった。
身に染み付いた狩りの女王としての感覚が、手近な妖精を無意識に狩り取ってしまったのだろう。
ネアは、己の残虐さに心から恥じ入った。
「攻撃はされませんでしたよ」
大人の余裕で受け流してくれるのか、ヒルドは穏やかに微笑んでいる。
冷厳な瞳がとても柔らかいので、ネアはひとまずほっとした。
逆襲を受けて殺されることはなさそうだ。
いつまでも上からどいてくれないのは、己の上位を示す彼のせめてもの報復だろう。
動物がよくやるやつだ。
「大変に不愉快なお時間にしてしまい、申し訳ありませんでした」
重ねて謝ると、ヒルドはふわりと体を倒した。
「……ふぁっ?!」
唐突に距離を詰められ、重なった体の温度を生々しく感じてしまう。
ヒルドの背中に払った髪がまた落ちてきて、ネアの肩に広がる。
額に落ちたのは、微かな口付けの感触。
「……前にも言いましたが、私の一族はこのような接触を好みますので、決して不快などではありませんよ?」
「………そ、そうでしたね」
(しまった!苦痛はヒルドさんに対してもご褒美だった!!)
彼のその喜びを否定するような発言をして、少し怒らせてしまったらしい。
(ちょっとキツめの筋トレなんて、ヒルドさん的には生温いくらいのご褒美だったのに!)
とは言え、威嚇でも何でも構わないが、さすがにこの体勢は心拍数がおかしなことになってしまう。
妖精的には捕食に近いのかもしれないが、人間的には大変扇情的な体勢なのだ。
何とか押し戻そうと、その胸に手を当てる。
目が怖いがまさか、本気で生命の危険的な状況だろうか。
「よ、妖精さんは、人間も食すのですか?」
「……そうですね。食べて差し上げましょうか?」
「いえ、不躾な質問で大変失礼しました。これからも、今まで通りのお食事を楽しんで下さい!」
「あなたの肌は甘そうですね」
耳元でそう囁き、首筋に唇を押し当てられたところでネアは限界に達した。
首筋は駄目だ。ちょっとひと齧りされただけでも、致命傷になってしまうではないか。
「甘噛みは結構ですが、本格的に肉をいただくのは勘弁して下さい!人間は首筋のお肉を奪われたら、高確率で死んでしまいます。そうなるのであれば、私も狩りの女王として応戦せざるを得ません。ヒルドさんを殺したくないです」
「………まさか、本気でそちらに解釈されたとは」
応戦宣言が効いたのか、ヒルドが頭を抱えてくれた隙に、ネアはその体の隙間を縫って長椅子から転がり落ちて脱出した。
とりあえず、武器になるものは手元に置いておこう。
「ネア様、火かき棒を手に取らなくても、私は人間を食べたりしませんよ?」
武器を両手に持ち構えれば、さすがに少し顔色を悪くして、ヒルドは宥めにかかった。
「……本当でしょうか?先ほどのヒルドさんは、かなりな捕食者の眼差しでした。違う種族の食の嗜好ですので、私とて無理は言いません。ただ、出来ればどこか遠くで狩りをしてきて下さい」
「ネア様、申し訳ありません。先ほどの言葉は少し悪ふざけが過ぎましたね。私は本当に、人間の肉など食べません」
「………本当に?」
「ええ、本当に」
その真摯な眼差しを見て、ネアはひとまず火かき棒を下に置いた。
油断はしない主義なので、決して手は離さない。
「あなたが無邪気に煽るので、少し意趣返しがしたくなったんですよ」
「……ご嗜好を否定するようなことを言ってごめんなさい」
「……嗜好?」
ヒルドの顔が引き攣ったのは、やはりまだ怒っているからだろうか。
何とか説得され、ようやく緊張を解いたネアから火かき棒を取り上げると、ヒルドはとても疲れた様子で部屋を出て行った。
捕食の危険を脱したネアが一息ついていると、カチャリと扉が開いてゼノーシュが入って来る。
「ネア、大丈夫?」
「ゼノ。……ヒルドさんに暴行を働き、おまけに彼の嗜好を否定するような謝罪の言葉を選んでしまったせいで、怒って意趣返しをされていました」
「……ほんとうにそうなのかなぁ」
「それにしても、どうしてこんなことになったのでしょう。寝ぼけて狩りをするなど、今まではなかったのに」
「どうしてそうなったの?」
タイミング良くゼノーシュが訪れたのは、恐らく彼が見聞の魔物だからなのだろう。
よく見える目で異変に気付き、心配して来てくれたに違いない。
ネアは、その労力に報いるべく、丁寧に経緯を説明した。
「狩りっていうより、触れたものに反応したんじゃないの?」
一通りの説明を聞くと、ゼノーシュはそう結論を出した。
ネアはポケットをまさぐって、持っていた飴をゼノーシュに食べさせる。
「あれ、でも位置関係おかしくないですか?私、一度起き上がってからヒルドさんを捕獲したんですね……」
長椅子の高さとヒルドの身長から考えれば、少し無理がある。
何で積極的に攻撃してしまったのだろう。
ネアはとても落ち込んだが、ゼノーシュは短く首を振った。
「多分、ヒルドが体を屈めて、何かし………ネアを覗き込んでいたんだと思う」
「……息をしてないと思ったのでしょうか。ご心配をおかけしてしまいました」
「うーん。……そうなのかなぁ」
前回の茶葉保管庫の時といい、こっそりな居眠り運には恵まれていないのだろう。
ネアは、いつか健やかな居眠りを達成してみると、心に強く誓った。
その日の夜、ヒルドを狩りかけたネアの失敗談を聞いたディノが拗ねたので、再びの添い寝を許す羽目になった。
お日様に当てたばかりの毛布を一人で堪能したかったので、ネアとしては不服極まりない。
広い寝台は、ごろごろして贅沢に使うつもりだったのに。
そして、夜明け。
「ネア!ネア、一度起きようか!」
ちょっと切羽詰まったディノに起こされて、ネアは正気に返った。
「………おはようございます?」
「まだ夜明けだよ。良かった、正気に戻ったね」
「正気………?」
ふと周囲を見回せば、視界が高い。
「ディノ、私は一体どうしたのでしょう?」
「寝返りを打ったネアを抱き寄せたら、何か変な勘違いをしたみたいだね」
「勘違い……?」
「うん、攻撃された」
「攻撃……」
「羽に打撃を与えれば、って何度か呟いていたよ?」
「………あ」
ようやくネアは、自分の奇行の理由がわかった。
昼間のことが尾を引いており、もし、万が一ヒルドにご飯という眼差しで見られており、捕食されかけた場合の対処法を思案しながら寝たのだ。
(上に乗っかられたら、反転させて、羽をどうこうすればと考えていた……)
恐らくディノは、昼間のときのヒルドと同じような体勢に偶然なってしまったのだろう。
叛逆のスイッチが入ってしまったのだ。
だからネアは、ディノに馬乗りになって、サイドテーブルにあったグラスを構えているのか。
水差しではなく、グラスを選んだ自分に安堵するしかない。
「ごめんなさい、ディノ。寝ぼけて、妖精を殲滅することしか考えていませんでした」
「……だからネア、私が傍にいるときは安心していいんだからね」
ネアを乗せたまま体を起こして、ディノはグラスを取り上げるとサイドテーブルに戻してくれる。
可哀想なことをしてしまったので、ネアは拘束に甘んじて髪の毛を引っ張ってやった。
変態には違いないが、打撃は嫌がってくれるのだから、やはりヒルドよりは軽症なのだろう。
それから一週間、ディノは珍しくご主人様に狩りの禁止令を出した。