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巡礼の魔術師と迎えの車




「ラエタではさ、王位や貴族制度もあったけど、実際には復活薬を錬成出来た魔術師達の階位が高かったんだ。彼等は、叡智や魔術を有する他の種族は、自分達とは違う隣人ではあるけれど、特定の信仰を向ける相手でなければ不必要に恐れることはなかった。………つまりのところ、復活薬があるからだよね」



そう教えてくれたノアは、お気に入りのカップでほこほこ湯気を立てているミルクティーを飲んでいる。



その日の夜、ネア達はリーエンベルクの一室で、ダリルを含めてコロールでのことを振り返っていた。


これからの蝕に向けて、胎動で現れた変化や、あの彷徨う巡礼者達のことを話し合っておく必要があるとなったからだ。




「………熊の手の魔術師は、私も知らないね。文献にはない巡礼者だ」



どこか不愉快そうに、眼鏡を押し上げながらそう言ったダリルに、ノアが頷く。



「熊の手は、そもそも妖精の前にはあまり姿を現さない筈だよ。高位の生き物の畏怖に打たれたり、妖精特有の侵食魔術を恐れて獣化で身を隠したりする禁術を研究していたからね。それに、彼等の魔術の記録は禁術だから文献も焼き払われたと思うし…………」

「……獣に擬態するのは、禁術だったのか?」

「擬態はいいんだけど、自身の魂の書き換えを試していたんだ。まぁ、シルにしか許されない領域だから、出来たと思い込んでいても実際は別物なんだけれどね」



そんなノアの言葉に、ウィリアムがふーっと深い息を吐く。


ウィリアムは濃い紅茶をストレートで飲んでいるが、先程、夜の雫を一雫足していた。



「………あれは、悪変や祟りものへ転じているだけだ。だからラエタの魔術師達の中であっても禁術とされたものなんだ。だがなぜか、あの界隈の魔術師には、異種族の特徴を持つ者への憧れのようなものがあったな………」

「時折、そのような特徴を持つ悪食などが現れただろう?力の印として、その要素を求めたのかもしれないね」



一つ目の魔術師達が作ろうとしていたのがかけ合わせの獣なら、熊の手の者達は、自分達の体にそのような要素を欲したのだという。



「…………ラエタの人間で彷徨っていることが確認されているのは、目の帽子に、熊の手、虎の尾の魔術師達だね。他にも単独で彷徨う者がいるかどうかまでは分からない。あちら側の道はさ、僕達にも管轄外の世界の隙間みたいなもので、自己責任でそっちに転がり落ちた奴等のことってなるとさぁ………」

「砂漠を彷徨う者達の中にも、ラエタの魔術師や商人は何人かいる。………だが、彼等は囚われて管理されているからな」



そう教えてくれたのはウィリアムで、今回のことを重く見て、ひとまず戦場に戻って鳥籠を敷くのは後回しだそうだ。


胎動が確認された以上、蝕は、あと数日で始まってしまう。




「アイザックの話だと、彼等はラエタを滅ぼした者達を恨んでいるのだね…………」

「ええ、アイザックさんはそう考えているようでした」

「………となるとあの封印石は、巡礼者達の道がどこかで表と交差した時に、罠の一つとしてあの店に置かれたか、採掘場の石に混ぜられたものか………。他にも似たようなものがあるとなれば、厄介だな」




ウィリアムは、腕を組んでそう呟く。


ネアが、アイザックの隔離結界に放り込まれたのは、蝕の性質を利用した反転の魔術の応用だったそうだ。

ディノやウィリアムだけではなく、元々器用なヨシュアやノアが見ても、その魔術は狡猾で精緻なものだったらしい。


あの場でネアの心に作用する魔術をかけ、その上でそんなことまでをしてのけた魔術師は、熊の手の魔術師の一人。



ディノがその場で捕まえて排除したそうだが、彼には仲間がいた筈だとネアは思う。



「………あの方の標的は、ウィリアムさんでした。けれど、仲間の誰かが座標を見誤り、私のところに出てきてしまったようです」

「それが、ディノが滅ぼした目の帽子の方ならいいんだけどね…………」



そんなダリルの言葉に、エーダリアがぽつりと、終焉の魔物を損なおうとする者がいるのだなと言えば、ウィリアムは淡く微笑む。



「寧ろ、俺を排除しようと本気で思うのは、死者になることの出来る人間くらいのものだ。だからこそ人間は短命でも頑強で、ましてや彼等は、一度は死を欺く薬を作った者達だからな………」

「…………だからウィリアムは、人間を気に入っているのか?」



エーダリアのその言葉に、ウィリアムはふっと目を瞠った。



「ああ、………いや、何となく思った事を口に出してしまった。それでは矛盾しているな……。おかしな事を言った」

「………いや、だからなのかもしれないと、俺自身も思ったことがある」



窓の外の庭木が、ざわりと風に揺れた。

このくらいの気温になってくると、きっと明日は博物館通りに焼き栗のお店が出るに違いない。


収穫祭に向けて死者達を迎え入れる為の飾り付けのセットが売られ、気の早いお店ではイブメリアのカードが並び始める。



また同じ冬が来るのなら、そこから先にあるのはネアの一番大好きなウィームの冬だ。

今年はきっと、幸せなことがたくさん待っている筈なのだと、その煌めきを思い浮かべる。



「石の欠片を調べたけど、かなり古いよ。あわいでは時間の流れが曖昧になるから、あわいから出されたとしたら、かなり前じゃないかな。ラエタの滅亡の手前で、危険を察して国を出て彷徨い歩きながら罠を仕掛けていったってのが、妥当なところだと思うけど………」



暫く考えてからそう言ったノアに、魔物達は頭を抱えた。



ラエタの滅亡時となってしまうと、あまりにも昔のこと過ぎるのだ。

その時に敷かれた報復の罠がどこにあるかだなんて、把握するどころか当たりをつけるのも難しいのだろう。



ネアやエーダリアに至っては、もはや目を瞬く程度のことしか出来ない。



「まったく今更のことだよ。………それに、今までに発動しなかったものが、この蝕に限って動くのだとしたら、誰か指揮を取っている奴がいるかもしれないね。………これまでの蝕の時はどうだったんだい?」

「………アイザックやアルテアがどうだったのかは知らないが、以前の蝕の時は比較的穏やかだったな。…………個人的には穏やかとは言い難い心境だったが、何かラエタ関連で大きな問題が起きたということはない」

「気になるような事件もなかったのかい?」



重ねてそう尋ねたダリルにウィリアムが頷き、ディノがどこか儚く、淡く微笑んだ。



「…………前回の世界的な蝕は、グレアムのことの後だったからね。犠牲の魔物が、公爵位の魔物達を襲ったような事件のあった年だ。力や階位を落した者も多かったから、蝕の際には誰もが注意を払っていた筈だよ。その時には何もなかったのなら、恐らく道が交わらなかったのか、或いは巡礼者達も準備不足だったものか………」

「そもそも、巡礼者の曖昧さで、こちら側に関わるとなるとあれこれ制約がかかる筈なんだよね…………。蝕にウィリアムの資質が変化することも含めて、どうやってこちら側の情報を得ているのかも、結構な謎なんだよなぁ………」




一緒に今回の事件に当った、ヨシュアにイーザ、バンル達はここにはいない。

彼等もまた何か思うところがあり、備えをするのだとしても、ひとまずはこのリーエンベルクの備えの輪の外側のことだ。


系譜の王であるヨシュアや、一族の王族としての責務も抱えるイーザには、頭の痛い問題である。


蝕は、ヴェルクレアだけの問題ではない。

世界的な影響が出るものなので、それこそがとりわけ厄介なことなのだ。




「…………では、考えられるような悪意がその日に動き、影響が出るとして、対策は取れそうなのかい?」

「幸い、アルテア以外の者達は、その日に外に出ずとも構わないからね。あわいが混じらない場所に身を隠しておいて、外側で起こる問題は蝕の影響を受けない者が対処した方がいいだろう」

「…………不本意ですが、そうでしょうね」



ウィリアムが静かにそう同意し、ノアも頷いた。


蝕の反転で得られるウィリアムの要素は良いものなのだが、それだけの単純なことでもないらしい。

攻守の魔術が入れ替わってしまう為、自分の身の安全となると、なかなかに不便なところも多いらしい。



例えば呪いのようなものの場合、現時点ではウィリアムは、その干渉を絶ち切ることに長けている。


ネアも一度だけ見たことがあるが、体の一部分でその呪いを受け、受けた部分を完全に排除することで本来であれば避けられないような呪いを終わらせてしまうことが出来るのだ。

あまり器用な魔物ではないからこそ、そのような力技の効く能力は、ウィリアムにとって扱い易いものであった。


その優位性が失われるとなると、他者の治癒などに特化していても、自身の守りが手薄になるのだそうだ。



「アイザックさんはどうなるのでしょう?」

「彼は、怠惰になるだけだよ。自身の欲求の問題だから、能力そのものが下がる訳ではないんだ。以前の蝕の時も、アイザックは自身の城のどこかで終わるまで眠っていたのではなかったかな…………」

「まぁ………。何となくですが、蝕にだけ得られるような珍しいものを喜びそうな方なので、元に戻った後に悔しいでしょうね…………」



ネアがそう言うのは、コロールであの魔獣が現われた際に、後々にその判断が不利益に繋がる危険を冒してでもと、アイザックが自分の興味を優先させたような場面があったからだ。


そんな気質の魔物なので、蝕に完全に関われないとなると歯痒い部分もあるのではないだろうか。



「…………そう言えば、前回の蝕の後は数日間、かなり機嫌が悪かったとローンが言っていたな。それで気分が安定していなかったのかもしれないな…………」

「わーお。そりゃ、自己責任でしょ」

「となると、アクス関連の取引も、蝕の前に終わらせておいた方が無難だね。値上げなんぞされたら堪ったものじゃない」

「ダリル…………」



ぎらりと青い目を光らせ、そう呟いた書架妖精に、エーダリアが宥めるように手を持ち上げる。


だが、ウィームは付き合いが深いからこそ領内のある程度の魔術的な物資をアクスから買い付けているので、そんなアクスの代表のご機嫌が危うくなる数日間に、何か急ぎの注文が出るのは避けたいのだろう。



(例えば、そのタイミングで、嵐や気象性の悪夢が来たりしたら…………)



そのようなことまで想定しておかねばならないのが、領主の仕事となる。

代理妖精であるダリルには、ネアが想像出来るようなもの以外にも、きっと様々な関わりがある筈だ。



「生き物以外の要素は転じ難いと言われているけど、領地内の各所での生き物が管理する魔術の反転も含め、昼が夜に、夜が昼になることで起こる騒ぎもあるだろう。多少無駄になっても構わないという認識で、準備だけはしておいた方が良さそうだね」

「特に、一つの資質に特化した者が不安定になりそうですね。ダリル、あなたは以前の蝕の時には派生していましたか?」

「派生してたよ。世界的なものと、この近くだけのものと二回やったけど、私の場合は、さしたる変化はないね。編み方が変わるのは煩わしいが、司るものの資質が影響を受け難い。エメルなんぞは難しいだろうね」

「私も、二度の蝕を経験しています。扱う魔術の資質の変化はありましたが、どうにかなりそうですね」



(となると、ヒルドさんとダリルさんは、心配なさそう………?)



「リーエンベルクはさ、シルもいるしかなり手堅いんだよね。その代り、他の領地や王都なんかの影響を受けないようにしてあまり手の内を見せない方がいいかな。備えの悪い奴らの巻き添えが一番面倒だからさ。エーダリアは、ガレンは閉じるんだよね?」

「ああ。………初代の長が慎重な人でな。引き受けてしまうことで共倒れするよりもと、一番影響を受けるのはこちらなので、近付かない方がいいという建前で、ガレンは蝕に閉じることにしたのだそうだ」



ヴェルクレアが国になってから起こる蝕は、これが二度目になる。

世界規模の蝕が起きるのは初めてで、前回はヴェルクレア周辺を中心とした局地的な蝕だったのだそうだ。



(それが、統一戦争の後のもの…………)



統一直後で既に混迷を極めていた国内に、蝕で世界が翳る様はどれだけの脅威だったものか。


あえてガレンエーベルハントの塔を閉じた当時の長の判断が、今回の蝕の際には、エーダリアの肩にかかる重責を軽くしてくれる。



(なんて厄介なものだと思ってしまうけれど、蝕は抑止力でもあるといういい例でもある…………)



蝕は、世界の均衡を司る魔術の柱が欠けることで起こる現象だ。

世界そのものを支えてはいなくても、特定の土地で大きな力が失われても起こることがある。

蝕が及ぼす被害の大きさを知った人々は、世界を揺らすような振る舞いを自重するので、理の上では抑止力としての機能なのだ。




「王都では、兄上が中心となって、より蝕の影響の出やすいウィームを回避するようにと、臨時法案などを制定した。蝕の日の当日は、流通なども含めウィームは隔離地扱いとなるが、かえってその方が都合がいいし、兄上もそのことを承知なのだろう」



実際に魔術の反転の影響をより強く受けるのは、ウィームには違いない。


だが、自分達のことだけで精いっぱいのその時に、魔術に明るくない者達が敷地内に入り込み余計な騒ぎを起こす方が、より領民の負担になるだろう。

また、王都や他の領地内でも、強い影響の出るウィームのものを自分達の土地に招き入れる余裕はない筈だ。


お互いのことを考えて距離を置くのがこの場合は最良の方策で、ヴェンツェルはそのことをよく分っているのだった。



(そうすることを承知したのだから、王様や宰相様も、そのあたりはまともな感覚をお持ちなのだわ………)



この場合、ヴェルクレア統一戦争の背景に惑わされ、ウィームを隔離地とすることに懸念などを抱き、その施策を拒絶されるのが最も愚かで最も困った事態である。


とは言え、そのような問題は権力上の均衡などに触れるものなので、分ってはいても判断が難しい場合もあるのだとは思う。

状況を正確に理解する力と、その上である程度は免れられない感情的な反対意見を鎮める力が、この国の指導者にあるのは幸いなことだ。



ネアは、湯気を立てているカップを両手で持ち、蝕に向けて大事なことを脳内でおさらいした。



(ウィームは、ヴェルクレアから分断されるので、他の領地の問題は、頼み込まれて引き受けてしまわない限りは降りかからない。資質が一つに固定される人が危うくて、恐らくは高位の魔物さんや精霊さん達の方が、その影響は強く出るような気がする。…………人の手を離れた土地の守護の結界や、作り終わった薬などの反転の効果はあまりないし、生活に纏わる品物への影響については、過去の文献が色々残っているので結構安心………)



となるとやはり、最大の懸案事項は、彷徨える巡礼者達が、今回の蝕の弱体化を狙ったという事実が露見したことだろう。


コロールでの封印が自壊したという問題だけであれば不幸な偶然で済んだが、ネアが声を聞いた魔術師は、確かにウィリアムが蝕で受ける影響を知っていた。



「……………その魔術師共が何をするにせよ、それはある意味個人を狙ったものだ。頭痛の種だとしても、そのようなことはこれまでにもあっただろうさ。私が、新しい要素として一つ気になっているのは、ネアちゃんだね」

「…………わたし、でしょうか?」



あれこれ考えてむむぅと眉を寄せているところで、そうダリルに指名されたネアは、目を丸くした。


そっと膝の上に乗せられた三つ編みからすると、ネア自身も、何か不安要因を持っているのだろうか。




「ネア、…………その………」



ディノは何かを言い難そうに言葉を彷徨わせ、なぜかぺそりと項垂れる。

そんな隣の魔物の顔を覗き込んで見ると、困ったように水紺色の瞳をしぱしぱさせた。



「…………何か不安定な要素があるのなら、また、暫定的にディノの血の結晶を飲んでおきますか?」



なのでネアは、ディノはこの対処法を提案したいのだろうかと、先回りして尋ねてみた。


するとどうだろう。

魔物は目元を染めてもじもじした後、こくりと頷くではないか。



「ネアが大胆過ぎる…………」

「このような真剣なお話なので、恥じらうのは後回しにして下さいね」

「ひどい…………かわいい」

「……………この通り、暫定的にディノの伴侶相当に格上げしておけば、少しは安全でしょうか?」



ちょっと心の整理に時間のかかっている魔物の代わりにそう聞いてみれば、ダリルは安堵したように頷いた。



「………はぁ。ネアちゃんが、状況に応じて柔軟に判断出来る子で良かったよ。こんな状況下で、お互いの気持ちを大事にしたいだなんて甘っちょろいことを言ってはいられないからね。…………前の蝕の時に、ウィーム領内でそんな馬鹿げた理由でお互いを繋ぐことを躊躇ったせいで、伴侶を失った魔物がいたんだよ」

「であれば、最優先するべきは安全とします!他にも備えておいた方がいいことがあるのなら、びしばし言っておいて下さいね」

「足紐で繋ぐかい?」

「なぬ……………」

「そりゃいいや。もういっそ、繋いでおいて貰おうかね」

「なぬ……………」



ネアは、己の迂闊さを呪い、すっかり足紐運用で話が進んでしまっていることにたいへん慄いた。

当日は、蝕の影響に触れないディノのお城に居るのだと聞いているし、そこまでしなくてもいいのではという気がする。



だが、反論しようと顔を上げたところで、ひどく真剣な眼差しをこちらに向けたディノを見てしまった。


水紺の瞳のその鮮やかさに、コロールで手を離してしまったこの魔物の三つ編みを思う。



どんな備えがあっても怖い事は起こってきたし、悲しいことは時々防ぎようがない、途方も無い大きな波になることもある。



「では、………その日は足紐も解禁します。ディノから離れないようにしますので、一緒に蝕を乗り切りましょうね」

「ネア……………」



よほど安心したのか、ぎゅうぎゅう抱き締めてくる魔物の背中を撫でてやりながら、ネアは、どうかそれで頼むと重々しく頷いたエーダリアとダリルに、悟りの目で頷き返した。




「何だ、辛気臭い空気だな」



そこにやって来たのは、アルテアだ。

コロールで見たのとは違う装いで、夜だからか黒一色のスリーピースである。


あれっと目を瞠ったエーダリア達の表情を見ている限りは、事前に訪問の連絡はなかったように思うが、ダリルに小さく頷いているので、ダリルから召喚の声がかかったのだろうか。



「ほら、やっぱり来た」

「何のことだ……………」

「いや、ネアが会いたがってたからさ。きっとアルテアは来るよって話してたんだよね」



ノアが上手に話してくれたので、アルテアは特に荒ぶることもなくすとんと腰を下した。

何だか素敵な大きな白い箱を持っているので、ネアは一生懸命にそちらに向かって両手を伸ばしてみる。



「甘い匂いがします!」

「………………無花果のパイだ。食い過ぎるなよ」

「無花果パイ様!」



この季節にはもう店頭から消えてしまっている無花果のパイという素晴らしい御客人の登場に、ネアは大喜びで箱を受け取る。


今夜は仕事で外に出ているグラストとゼノーシュの分も数え、人数分のカット数を頭に浮かべ、一人当たりどのくらいの大きさのパイにありつけるのかを即座に頭の中に思い浮かべた。



(…………うん、このくらいの大きさなら、今のままミルクティーでいいかな)




作戦会議で荒んだ心を和ませるおやつも登場したので、ネア達は美味しい無花果のパイを食べながら、その後も蝕についてあれこれと議論を重ねた。



アルテアは、ラエタの巡礼者達についてはあまり思うことがないのか、もしくは含みがあって多くを語らないのかのどちらかだろう。


他の巡礼者が残っているのか、蝕に何かを企んでいるかなどの議論では、どこか魔物らしい冷やかな目で頷いてはいたので、アイザックと同じような感覚で、愉快そうなものがあれば自分の望むままに手を伸ばすという方針であるのかもしれない。



「幾つかの文献や、遭遇者を当っておいたが、まぁこんなもんだな………」

「えーっと、アルテアが調べた数だと、目の帽子は店じまいかな…………」

「私とヨシュアで周囲のあわいを調べたけれど、他には隠れている者はいないようだったよ」

「長らく囚われたものを解放すると、あわいが新しい巡礼者を求めるから、それも厄介なんだが、今回は滅ぼす以外の選択肢はなかったな」

「そ、そういうものなのか…………」

「…………馬鹿王子、パーシュの小路や巡礼者は、数の補填が発生するから扱いが難しいと、昔から言っておいただろう。渡しておいた文献をきちんと読んでいなかったね?」

「エーダリア様………………」

「すまない…………。入れ替えがあるということは、読み落としていた………」



ダリルとヒルドに叱られたエーダリアは、今回、初めてこれだけの規模の蝕に触れる。



「では、この場合はどうなるのだろう?」

「……こちらの結界の資質では、揺らぎは少ないのではありませんか?」

「水の資質は生きたものとして転換する可能性がある。書き換えられるなら、他の資質にしておけよ」

「そう言えば、ネアが聞いた熊の手の声ってどんな感じ?」

「まだ思春期の面倒くささが残る、青年的な声ですね。ちょっと自分が好きそうで、才能はあっても組織の中では若干浮いていそうな感じの方でした」

「うわ、凄く分析されてた…………。それ、下手したら個人の特定まで出来るんじゃ…………」

「私は、人が集まる中での喋り方や、言葉の抑揚で人となりを探る為の勉強をしたことがあるのです。因みに、心理学の集中講座と、護衛を育てる為の資格試験のセミナーで教えて貰いました!」

「ネアちゃんって、知れば知るほど妙な知識を集めてるよね…………」

「なので、意地悪をしようとしている時のアルテアさんの声は、よく分かるのです………。そんな時には、すかさずちびふわにしてしまうしかありません」

「やめろ。何でだよ」




コロールで、ディノ達が排除したという一つ目帽子の魔術師についてと、他にも彷徨っているらしい魔術師達について。

あれこれと意見や情報を交わし、蝕の対策についても話を深めてゆく。



ネアはそんな会議の輪の中で、かつて、影絵の中で見たラエタの人々を思い出していた。


皆一様に恍惚とした心の色のない顔をしていた街の人達と、自分達とは違うものを容赦なく排除してゆく国の上層部や魔術師達の姿は思うように重ならない。

ネアがラエタで見たのは、恐らくその国が滅ぼされるに至っただけの、最も歪んだものではなかったのだろう。




しゃりんと、あの鈴の音が記憶の中で響いた。



色々な鈴の音を儀式や道具で聞いてきたが、どれも微妙に違って、その響きはやはりどこか不穏である。



(…………でももう、あの鈴の音を聞くことはないのかしら)



そう考えると少しだけほっとして、膝の上の三つ編みを指先でそっと撫でる。

がんじ絡めでもいいからしっかりと繋いでおいて、怖いことがないように蝕というその日に備えよう。



けれどもその途端、なぜかネアの婚約者はテーブルに突っ伏してしまった。



「…………あ、シルが倒れた」

「なぬ。儚すぎるのでは…………」

「おい、何をしたんだ…………」

「膝の上に設置された、三つ編みをちょみっと撫でただけですよ………?」

「ネア、魔物の髪を小指で撫でるのは、………そうだな、ちょっと危うい誘いの合図になるからやめておこうな」

「わーお、大胆だなぁ………」

「解せぬ……………」



テーブルに突っ伏してずるいと呟いている魔物の頭を撫でてやり、ネアはこんな風にみんなで集まれる部屋のあたたかさを思った。



不穏な蝕の気配はあるし、魔物達はやはりどこかで何かを含む部分もあるかもしれないけれど、それでもこうしてみんなで集まっていられれば、きっと大丈夫だと思うのだ。




(……………………あの鈴の音は、もう聞こえない)




けれどもその代わりに、バタンと、どこか遠くでまた車のドアの音が聞こえた気がした。


薄闇の向こうに、そのドアに手を添えて、いつかの誰かが立っている。

あの車はもう行ってしまった筈なのにと、ネアは心の隅で小さな息を吐いた。




遠くでこだまするように、劇場の喝采が響いた。




再び訪れたその幻影は、今度は、誰を連れてゆこうとしているのだろう。













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