表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
897/980

水路の町と道具の小径 5




ウォォォンと、遠くで獣の雄叫びが聞こえた。



びりびりと空気が揺れ、ネアはディノの三つ編みを握り締めたまま事件の起きている方を見つめる。

空は晴れているのにどこか薄暗く、少しだけ風が強くなってきたような気がする。



(確か、風が強くなるのは魔術が動いているからだって…………)



気象性のものや風の系譜の魔術もあるが、土地の魔術が大きく動くことでも、風が吹くことがある。

だからだろうか。

風が動く時には、運命の魔術も動くと言われている。



「みなさん、中央広場に移動して下さい。樹木鉱石区画の住人の皆さんは家の中の避難壕に入るか、戸締りをして中央広場に来て下さい!」



そう声を上げているのは藍色の髪をした女性の妖精で、イーザが灯台の妖精だと教えてくれる。



「ひとまず、集まって来た人達の中に皆がいないか、見てきましょう」

「イーザさん、私も行ってみます。…………あちらで何があったのか、エーダリア様達のことを見ていた人もいるかもしれませんから」



ディノの呼びかけに、ノアからの応えはない。


ディノによると、もし中にいるのならその獣から身を守る為に、こちらからの声が届かない遮蔽空間などを作ってそこに身を隠している可能性があるらしい。

であればそれは、そこまでの防御を強いられるだけの状況なのではないかとネアは不安になってしまう。



「ノアなら、………大丈夫ですよね?」

「損なわれたり、守るべきものを失うことはないだろう。………だが、悪変しているだけならともかく、複数の種族の要素が重なると、目視が難しくなってくるからな…………」



ウィリアムがそう苦々しく呟く。

ウィリアムも、その手の生き物は苦手なのだそうだ。

この悪変というキーワードのあたりに、人外者達の苦手なものがあるのだという気がする。

だからこそ彼等は、ネアの描くきりんや象の絵をとても怖がるのだろう。



「魔物を核にして、精霊の要素に妖精の羽もあったかもしれないとなると、…………ノアベルトはその種のものに強くはないからね………」

「エイミンハーヌは耐性があるのですが、霧の系譜の資質を持つ獣であるらしいのが厄介ですね…………」

「ほぇ、………焦げたから火も使うよ」

「…………むぐ!みなさんを焦がしたら、私が許しません!!」



ネアは憤りにがすがすと足踏みをし、慌てた魔物にさっと持ち上げられる。

ウィリアムからも頭を撫でて貰い、それを見たヨシュアがじっとイーザを見て、さっと視線を逸らされていた。



がやがやざわざわと、正門前の人々は灯台の妖精の誘導に従い移動を始めている。

既に買い物を終えて町を出て行く人々もいるが、まだ事件の原因が不明なままであるので、その者達は魔術誓約書に氏名などを残してゆかねばならないようだ。



(事故ではなく、犯人がいるかもしれないという可能性のところまで、しっかりと考えられているんだわ………)



このような土地なので、そこは管理がしっかりとしているのだろう。

非常時のマニュアルめいたものもあるのかもしれず、ネアはそれぞれに役割分担されていて比較的落ち着いている町人達に頼もしさを覚える。




「ディノ、手を空けておいた方がいいでしょう?地面に下ろして貰って、三つ編みを持っているようにしますね」

「……………うん」



状況が安定するまで、持ち上げは負担になりそうだ。

ネアがそう言えば、ディノは少しだけ寂しそうに頷いた。

ヨシュアは、まだ撫でて欲しそうにイーザを見ているようで、イーザは決して振り向かないよう、熱心に町人の一人に話を聞いている。



(この二人は、遮蔽空間の線引きから外れたことで、すぐ側にいたのに難を逃れたということだけど…………)



イーザとヨシュアは、アイザックが火山の封印石をぱりんと割ってしまった時、正門前からそちらの区画に向かう形で現場に対面していたという。


最初に異変を察知したのはヨシュアで、何か向こうに変なものがいると言い出したヨシュアに、イーザとあの真夜中の座の精霊の三人で、念の為にちょっとそちら側の区画を見てみようということになったのだそうだ。


水路を渡り、その区画の通りに足を踏み入れた直後に事件は起こった。

あともう一歩でも踏み込んでいたら、イーザとヨシュアも隔離結界の内側に入っていたかもしれない。



(あの火山の鉱石のお店は、あちら側の区画の一番手前のお店だったから、この二人は、攻撃を受けて後退したことで難を逃れられたのだわ………)



隔離結界で封鎖されているが、現場はここからも水路を隔てたすぐに向こう側だ。


磨り硝子のような結界が見えるばかりで、今はもう、その奥までは見えない。


万華鏡のように様々な色が揺らぎ、その奥で起こっていることの激しさや目まぐるしさが窺えはするものの、誰かの姿が見えたりはしないのが歯痒かった。



真夜中の座の精霊を先頭に向こう側の区画に踏み込んだその時、アイザックが火山の封印石を割った姿が見え、そこから悪変した魔獣が飛び出した。


その獣に正面から相対してしまったイーザ達は、獣が吐き出した火の玉のようなものを躱し、後退したイーザ達と、攻撃をくぐるようにして斜め前に移動した、ミカと呼ばれる精霊とで分断されたのだ。



直後にアイザックも遮蔽空間を立ち上げ、魔獣が目を覚ましてからその空間が遮蔽されるまでの流れは、とても素早かったという。



(だからつまり、そちらの区画の現場の近くに居たエーダリア様達が、それまでにどこかに避難して来られている可能性は低いのだわ………)



まだそこまで進んでいなかった場合も想定して、奥の店舗のあたりから逃げてきた人達に話を聞いたが、やはり白持ちの魔物のいる三人組は、獣が現れたお店の方に進んでしまった後だったという。



このような時、ノアが白持ちの魔物であったことで人々の記憶に残ってくれるので、証跡を追うという意味では有り難くもある。




「エーダリア様達は、アルテアさんとは合流出来ないのでしょうか?」

「………アルテアも巻き込まれているなら、一度は顔を合わせていると思うぞ」

「助けになってくれるといいのですが、私用で来ているのなら難しいかもしれませんね…………」



ネアがそう言えば、なぜか、ディノとウィリアムが驚いたようにこちらを見るではないか。



「むむ。………そんなことはありませんか?」

「いや、…………アルテアだからな。だが、ネアがそこまで理解していたことに、少し驚いた」



ウィリアムの言葉に、ネアはおやっと眉を持ち上げた。

よくパイなどを献上いただいているので、ネアが、もっと甘えた認識でいるのだと思われていたらしい。



けれども、彼はネアとは契約を交わしてくれているし、頼めばその他の要素に触れる手を助けてくれると言ってくれたが、線引きはそこまでである。



「君は、そのようなところまでを受け入れているのだね…………」

「終身雇用になったとは言え、もとは野生の魔物さんですし、今も森からの通いな使い魔さんですからね。出会った頃のアルテアさんのような部分も、きっとあるのだと思うのです。………ディノ、みなさんは奥に移動するようですが、私達は結界の方に行ってみます?」

「…………それは、やめておこうか」

「………シルハーンは、ネアと一緒に広場の方に行かれては?俺は、………ひとまず、ヨシュアを連れて結界近くを見に行ってみます」

「…………そうだね。まだ、どうしてその獣が目覚めたのかも分からないし、何があるのか分からないから、この子は近付けたくない。イーザ、君は私達と来るかい?」

「ええ。何かがあった時に、お二人だけでない方がいいでしょう。そうさせていただきます。ヨシュア、ウィリアム様のお手伝いをきちんとして下さいね」

「…………ふぇ、イーザのことは誰が守るんだい?」

「うむ。それは私に任せて下さい!悪い奴は、このきりんさんで…」

「ふぇぇ!」

「なぬ。なぜにもう泣くのだ…………」




そんな話をしていたその時、またくらりと世界が翳った。




「…………っ」



立ち眩みのように視界が揺れたその時、しゃりんと鈴の音が聞こえた気がしたのだ。

だから、その音が聞こえた時、恐らくディノやウィリアムはそちらを振り返ったのだと思う。



慌ててネアもそちらを向こうとしたその時、何かひやりとしたものが肩に触れたような気がした。




(え、……………)




誰かがいる。




その気配にぞっとして、体が強張る。

生き物だけれど生き物ではない、とても歪で曖昧なものが、すぐ近くにいるような、そんな悍ましい感覚に囚われる。




しゃりん

またどこかで、その鈴の音が聞こえた。



「へぇ。あんたも特殊だが、俺達の獲物じゃないな。まったく座標を計算したのは誰だ。せっかく蝕で揺らいでいる終焉はどこへやら。………だが、お前を、帽子の魔術師達の育てた王の獣に食わせてやったら面白いかもしれん」



その声は、まるで耳元で囁かれるように、けれども頭の中に響いたようにも聞こえた。

長く語られるだけの言葉であったのだが、不思議にもぱっと閃くほどの一瞬のことにも思える。




「ネア!」



ディノの鋭い声が聞こえ、ウィリアムがこちらに手を伸ばす。


けれども、こちらに手を伸ばした漆黒の軍服の魔物は、自身の身の変化にはっとしたように息を飲んだ。




(途切れる……………)




ネアが、掴んでいたディノの三つ編みを離してしまったのは、その感覚があまりにも強烈だったからだ。



伸ばした手が切り落とされるような、掴んだ美しい三つ編みが切断されるような、そんな恐怖にかられて、思わず手を緩めてしまったのだ。




「…………あ」




しゃりん




もう一度鈴の音が聞こえて、誰かの愉快そうな笑い声が聞こえる。



けれども、視界がくるりと反転するその向こうで、聞こえていた笑い声がぶつりと途切れた。



どこか遠くで、身の毛もよだつような絶叫が聞こえる。



ひたりと落ちたのは赤い赤い血のイメージ。

刃物のように鋭い水紺色の瞳が薄闇で煌めいたような、そんな気がした。




ああ、途切れないのなら、手を離さなければ良かった。

そう後悔した時にはもう、大事な魔物から引き離されてしまったことを、確信していた。





「むぎゃ?!」



次の瞬間、ごすりと音がして、ネアはそんな目眩のような薄闇を経てどこかに転がり落ちた。



ぽいっと、雑にどこかの通りに投げ込まれたものか、石畳でしたたかにお尻を打ち、ずりっと手のひらが石で擦れて微かな痛みが走る。

くらくらする頭を振って顔を上げようとしたのだが、今度は、ギャオンと巨大な生き物が吠える声が聞こえ、地面がぐらりと揺れた。


慌てて地面に手で踏ん張り、転がらないようにする。



「………………まぁ」



何とも呑気な声だが、そう言うしかないではないか。



ネアはいつの間にか、見たこともない恐ろしい巨大な獣のすぐ目の前に放り出されていたのだ。




(…………大きい!………でも、恐ろしい……………、のだろうか、…………?)



もっと悍ましい生き物を想定していたのだが、こうして見上げれば、人間が想像してみた中でもかなり複合的な特徴を持つ幻獣というような感じだけで、美しいとも言えなくはないような気もする。



ばさりと打ち振るわれた羽は、宝石を削ったような妖精の羽で、鮮やかな瑠璃色が目を引く。



ギャオン、とまたその獣が鳴いた。



灰色混じりの白い毛皮と淡いミントグリーンの鱗、琥珀のような色合いと透明度の見事な鹿の角。

吐き出す吐息には炎が混ざり、足元にはぴきぴきと氷が張る。

そして、その体の質量が奇妙なくらいに薄いような気がした。



(まるで、霧や霞で出来ているみたいな………)




「ネア様………?」



そして、そんな獣とネアとの間には、一人の男性が立っていた。


ぎょっとしたように振り返ったのは、漆黒のスーツに、はっとする程に白い長い髪を持つ誰かだ。

指先から滴り落ちて、地面に触れる前にしゅわりと光って消えたのは、真っ黒なインクのようなもの。




(…………血?)



黒い血を持つ、見たことのないこの人は誰だろうと考えかけ、ネアはぎくりとする。

色だけを差し引き、少しだけ物憂げな表情を変えれば、よく知っている人になると思ってしまったのだ。



「…………アイザックさん?」

「…………ああ、蝕の胎動の影響が出ておりますからね」



そう微笑んだ魔物の瞳は、どこか投げやりで眠たげで、いつものアイザックのようなきびきびした様子はない。



ぐわんと、また世界が揺れた。



その途端、目の前の男性の長く白い髪がざあっと漆黒になる。

すると、指先から滴り落ちるのも真っ白な血になった。



ギャオンと獣が鳴き、アイザックはそちらに視線を戻す。

その怜悧で理知的な眼差しを見て、ネアは、これはもういつものアイザックだと胸を撫で下ろした。



「ネア様がこちらにいらっしゃるとなると、シルハーン様の采配でしょうか。それとも、………ラエタの魔術師にでもお会いしましたか?」

「…………っ!………ラエタの魔術師さんかどうかは分かりませんが、以前にお見かけした一つ目帽子の巡礼者さん達の鈴の音のようなものが聞こえました。………それと、どなたかが、私をこの獣さんの餌にすると話す声を聞いて、その直後にこちらに投げ込まれたのです………」



ネアがそう説明している間にも、アイザックは暴れる獣の攻撃を防いでくれているようだ。

だが、負傷をしているとなると、押されているのだろうか。



「………声を発したのなら、帽子の魔術師ではありませんね。別の参入者か、ラエタの者なら、熊の手か虎の尾か。やれやれ、封印石を割ったのもその者かもしれません」

「…………むむ。石を割ったのは、アイザックさんなのでは?」



その言葉にちらりとこちらを見たアイザックが、小さく溜め息を吐いた。



「そのような誤解を受ける懸念はありましたが、やはりそう言われていましたか。…………私が封印石を手に取ったのは確かですが、それは封印石に亀裂が生じていたからです。壊れた封印を今更紐解くのは困難でしょうが、何某かの条件を拾い、自壊するような魔術添付をされていたのでしょう」

「…………その条件が、揃ってしまったのですね」

「…………これも断言は出来ませんが、店の敷いた魔術によって、封印石は採掘されて店に持ち込まれてから長い間、その仕掛けをした者からすれば不本意なことに、割れないようになってしまっていたのでしょう。それが、蝕の震えで店に敷かれた石達を押さえる魔術が緩み、今回のことに繋がったのではないでしょうか」

「お店にあった魔術が、石が割れるのを押さえていた…………」



そう言えばと、ネアは思い出した。

この騒ぎが起こる前にも、蝕の胎動というものは起きていた。

あのウィリアムの瞳の色が変わった時にも店に敷かれた魔術が揺らぎ、その封印が弱まる効果とやらが現れてしまったのだろうか。



「…………それにしても、このようなものを用意していたとは。なかなかに、あの国の魔術師達も我々に恨みが深い」



がしゃんと一枚の結界が割れ、アイザックは手袋のない手でまた虚空に魔術陣を描く。

その壁に体当たりして、獣が吠えた。

周囲には明らかに味方とは思えない灰色の人達が溢れていて、エーダリア達の姿はどこにも見えなかった。


彼等であれば、ネアに気付けば声を上げてくれるだろう。

だからきっと、この通りにはいないのだ。




「…………恨まれて、いるのですか?」

「この獣は、私とアルテア様、もしくはウィリアム様もかもしれません。そんな、二人もしくは三人を獲物として認識付けられております。ラエタの崩壊に関わった者ですので、当然と言えば当然ですが」



ひっそりとそう呟き、欲望の魔物は微笑む。




(…………偶然では、ない)




その微笑みを見て、ネアはそう確信した。

きっと、この獣が封印されていたという石にあった仕掛けは本当だろう。

だが、アイザックは何も知らずに石を手に取ったのではない筈だ。

ある程度は、それに触れて石が割れればどうなるのかを見越した上で、あえて手に取ったに違いない。




(この人は、この状況が楽しいのだわ………)




ネアは少しだけ怖くなり、是非にここにルドヴィークにいて欲しいと思いながら、金庫からきりん札を取り出そうとした。



「………ああ、それはやめておいた方が良いでしょう。周囲をご覧になれますか?人の形をした派生し損ないの、下位の霧の精霊達がいるでしょう?彼等に下手な損傷を増やすと、悪変して祟りもので溢れかえる可能性があります」

「…………一度に、滅ぼせないでしょうか?」

「その攻撃は視覚に頼る。目のない者達は、損なえません。あのように顔を覆われているのですから、目があるとは限りませんからね」



アイザックの指摘は尤もであったが、その忠告を信じてこのままの状況に甘んじてもいいのかどうか、ネアは途方に暮れた。


魔物は享楽的で気紛れで、この状況を楽しんでいるアイザックには、最善の解決方法やネアの身の安全などにさしたる興味はないかもしれない。


そう考えて一歩後退しかけ、ふわりと肩に置かれた手に飛び上がりそうになった。



「…………っ?!」

「驚かせて申し訳ない。………蝕の揺らぎがあると、彼は不安定になるようだ。私の側にいるといい」

「……………ミカ、さん」



ネアがその名前を呼ぶと、はっとするくらいに鮮やかな瞳が揺れた。

知らせた筈のない名前を呼ばれてしまい、不快に感じただろうかと、ネアは慌ててイーザが呼んでいた名前を口にしてしまったと謝った。



「いや、…………好きに呼んで構わない。………アイザック、隔離結界は開けないのか?」

「開けばこの獣は逃げるでしょう。蝕の胎動があれば取り逃がしかねない。そちらの方が、後々禍根が残るかもしれませんよ」

「…………であれば、生み出した系譜の精霊達を排除した後、この獣を壊すしかないな」



(あ、…………)



そう話しながら、ミカはさり気なくネアを自分の隣に移動させてくれる。

アイザックと目の前の大きな獣に対し、ネアより手前に出てくれたことに、とてもほっとした。



(この人は、アイザックさんが決して盾にならないことに気付いている………?)




「しかし、霧の系譜は厄介ですね」

「いや、そうでもあるまい。もう一度、揺らげば容易いものだ」

「おや、…………成る程、あなたはそうでしたか」

「ああ。私は真夜中の座の精霊だからな」




(…………その、真夜中の資質が揺らげばということなのかな?)




そう首を傾げたネアに、視線だけで振り返ったミカが生真面目に頷く。

風に揺れるゆるく一本に結んだ長い髪は、毛先の部分だけが鮮やかな葡萄酒色をした紫がかった水色だ。



そしてその時、もう一度世界がくらりと揺れた。





「…………ふぁ」



ネアが思わずそう呟いたのは、たった今その美しい色を認識したばかりのミカの髪が、ざあっと淡い金色に変わったからだ。

それは、陽の光に透けて溶けてしまいそうなくらいの淡い淡い金色で、まばゆさと儚さに胸が締め付けられそうな程。


こちらを見ていた瞳が瞬きと共に素晴らしい金まだらの青色になり、ふつりと輪郭が揺らぐようにその造作も変化する。



(お、女の人になった!!!)



あまりのことに呆然としたネアに、ミカは唇の端をどこか不本意そうに引き結んだ。



「…………黎明の精霊は女しかいないからな」

「そ、それでお姿が少し変化するのですね………。声も少しだけ甘く………」

「私の背中に顔を伏せているといい。黎明の精霊の浄化は、直視すると目が潰れると言われている」

「……は、はい!」



そう言われて、慌ててネアが言われた通りにした直後、ざっと強い風が打ち付けて吹き抜けるような鈍い音がした。



目をぎゅっと閉じていても、瞼の裏までを染める眩しい光に、ネアはしっかりとミカの背中にへばりつく。

よく知らない人間にへばりつかれて緊張したのか、ディノと同じくらいの身長がネアより少し背が高いくらいの姿に転じたミカの体が、ぎくりと強張ったような気がした。



(ご、ごめんなさい!!)



心の中でそう謝りつつも、遠慮をしてはぐれてしまったら怖いので、ネアは、そのまましっかりと掴まらせて貰うことにした。

人間は身勝手で強欲なので、このままここは、ミカの厚意に甘えてしまおうと思ったのだ。



「…………もう、兵士達は霧散した。安心していい」

「…………まぁ、元のミカさんです………」



ややあって、そんな声に恐る恐る目を開けると、こちらを見ていたのは、先程の真夜中の座の精霊としてのミカだった。

蝕の揺らぎが落ち着いて、元の姿に戻ったのだろう。



がしゃんと、硝子が割れるような音がして、ミカが近くの店舗の方を見た。

ネアもはっとして、エーダリア達の姿を探して周囲を見回したが、どこにも人影はない。

通りの奥の方は大きな獣の体が邪魔をして、よく見通せないままだ。



(…………さっきよりは弱っているけれど、まだとっても強そうなままだわ………)



防御結界のようなもので攻撃を防いでいたアイザックは、ネアが目を瞑っていた間に、少しこちら側に押されたようだ。

いつの間にか細い煙草を咥え、少しだけ袖を捲ってあり、その気配には見間違えようのない疲労の影が見える。


戦っている姿を見ることはなかったが、そんな余裕のなさはとても珍しいものに見えた。




「………アイザック、揺らぎの間に削られたのか?」



そう尋ねたミカは、先程からのやり取りを聞くにアイザックとは面識があるようだ。

そう声をかけられたアイザックは、片手を持ち上げて、獣を後ろに押し返した。



「………やれやれ、我ながら蝕の影響はあまり好ましくありませんね。魔術を紡ぐ欲が減り、防壁の強化一つ億劫になる」

「…………それは自己責任だが、確かに難儀だな」

「つまり、攻撃を防ぐのが面倒になってしまうのですね…………」



そう呟きながら、ネアはふと、とても大切なことを忘れていたことに気付いた。



「そして、もはやこやつだけなので、きりんさんで滅ぼせます。…………たぶん」

「多分…………?」



ほんの少し迷いが現れてしまったネアの言葉に、付き合いよくミカが会話を続けてくれる。



「私の持つ対抗策は、悪食さんや祟りものには効果が少し弱いのです。………それと、見た目がちょっと可愛いので、一撃で滅ぼせないと、私の覚悟が揺らぎそうです……………」



ネアがそう告白した途端、なぜか、ミカだけではなくアイザックまでもが、ぎょっとしたように振り返った。



「可愛い………ですか…………」

「可愛い………のか」



若干呆然としている男達にこちらを見ないように言い、ネアは金庫から取り出したきりん札を手早く広げてしまう。


さくさく敵を滅ぼそうという雰囲気を出してみたのだが、ほんとうは少しだけ、アイザックの気分の変化を警戒したのだ。


姿が見えないので、この通りのどこかにディノが言うような手法で避難してくれているのだと思うが、ここにはエーダリア達もいる筈なのだ。

少しでも早く、この獣を弱体化させたい。




ギャッと、鋭い悲鳴が通りに響いた。



きりんを見た獣は、ずしゃりと地面に崩れたが、やはり死んでしまうことはなく、まだ荒々しくもがいている。



「…………っ?!」



そして、倒れながらも自分を損なった人間めがけて大きな前足を勢いよく伸ばし、立ち塞がっていたアイザックの結界を粉々にする。



がしゃんと結界の壊れる物凄い音が響く中、素早くネアの前に出て、その前足を切り落としてくれたのはミカだった。



切り落とされた前足がざあっと黒い灰になり、どこかで誰かが声にならない声でざわめく。




「…………観客がいるようだな」


そう呟いたミカの声の後、ネアは、ふわりと布で覆われた。

ミカが上着の中に入れてくれたのだと分かり、目を瞬く。



「ミカさん………?」

「あわいの奥に誰かの気配がする。私から離れない方がいい。…………アイザック、そろそろ君の手にも負えるのでは?」

「ふむ。………こうなると、素体として持ち帰っても良さそうですね。近年、ここまで禁術を煮詰めたものはなさそうですから」



そう微笑んだ黒髪の魔物の声の響きに、ネアは、またはっとした。

ミカの上着の内側に入れられ、声の響きだけを聞いているからこそ分かったのだが、そこにまた、どこかひたりと染み込むような魔物らしい老獪さが滲んだのだ。



(もしかして、その為に自分では手を出さずに、私が弱らせるのを待っていたのかしら…………)



だとすれば、どこからどこまでが計算で、彼は何を目的としているのだろう。

今日会ったばかりのミカに、イーザの知り合いだというだけの縁でお世話になりながら、ネアがむぐぐっと眉を寄せた時だった。



耳をつんざくような轟音がして、重たいものが崩れるどおんという響きがそこに重なった。




「………随分と悠長なものだな。不安要因を残すのは推奨しない」



どきりとするくらいに冷ややかなその声音が聞こえ、ネアははっと息を飲んだ。

同時にミカが上着の中から出してくれたので、慌てて声がした方を見る。



「ウィリアムさん!!」



ネアの声に振り向き、黒い砂のようなものから剣を引き抜いたウィリアムが微笑む。

あの獣の姿はもうどこにもない。



「すまない、隔離結界が緩んだところから入るのに手間取って遅くなったな。………ミカ、彼女を守ってくれたこと、礼を言わせてくれ」

「いや、私がしたくてしたことだ。気にしなくていい」

「君がいてくれて助かったよ。………なぜか、ここにいる使い魔は、働かなかったらしいからな」



(む………………)



そう言ってちらりと後ろを振り返ったウィリアムに、ネアはいつの間にかそこにアルテアが立っていたことに気付いた。


一軒の店の軒先に立ち、こちらも煙草を吸いながらまるで観客のように事の成り行きを見守っていたらしい。

ネアと目が合うと、アルテアは悪びれた様子もなく肩を竦めてみせる。



「俺が手を出すまでもなかっただろ。それに、呼ばれもしないのに手を貸してやる程、俺も暇じゃないからな」

「アルテア…」

「ウィリアムさん!今回は、アルテアさんはたまたま居合わせただけなので、仕方ありません。ミカさんが、じゅわっ、ぴかっとやって助けて下さったんですよ!…………ディノは、まだこちらには入って来られないのですか?」



ディノの姿は見えないので、隔離結界とやらの中に入れたのはウィリアムだけだったのだろうか。

そう思ってネアが尋ねると、剣をしまい、こちらまで来ると、手を伸ばしてネアを持ち上げてくれつつウィリアムは首を振る。



「いや、ネアにもあの鈴の音が聞こえただろう?近くのあわいに、目の帽子の巡礼者達が潜んでいたようだ。シルハーンは、ヨシュア達とその魔術師達を排除している」

「…………危なくはありませんか?」

「あの手の存在には、万象程に向いた力もないだろう。………だが、まさかここで巡礼者達が騒ぎを起こすとはな。…………アイザック、興味本位で厄介なものに触れてくれたな」

「いえまさか。私は、あの石に触れたのは失策でしたが、とは言え封印の自壊は仕組まれたものでしたよ」



ウィリアムにじろりと睨まれ、アイザックは静かな微笑みを浮かべて首を振る。




「そんな訳ないだろ。ありゃ、ある程度確信的に手に取っただろうが」



けれども、ここでそんな声がかかったのは、アイザックも意外だったようだ。



「おや、ご無事でしたか」

「誰かが無事じゃなかったら、お前をまず殴ってるな。お前らしい欲だが、時と場合を考えろ」



崩れかけた自転車屋の扉から出てきた赤い髪の男性が、呆れた顔をしてアイザックを睨んでいる。

そんな彼の後ろから出てきた人影に、ネアは顔を輝かせた。



「エーダリア様!ヒルドさん!ノアも!!」



エイミンハーヌも一緒で、みんな疲れた顔をしてはいるが、怪我などはないようだ。

ネアを見るとほっとしたように微笑んでくれて、ネアは嬉しくなって手を振った。



「…………ネア、怪我はないかい?」


すると今度は、すぐ隣からそんな心配そうなディノの声が聞こえ、淡い霧がたちこめてすぐに、その姿も現れた。



「ディノ!」

「………ごめんね、ネア。手を離さず、君を持ち上げていれば良かった。怖かっただろう………」

「ごめんなさい………。あの時、なぜか急に怖くなって手を離してしまったのです………」

「あれは、あの魔術師が君にそういう恐怖感を与えて、私から手を離すように仕向けたんだ。熊の手の魔術師は、そのような精神に侵食させる魔術が得意だったらしいからね」

「…………それでだったのですね」



それすら罠だったのかと呆然としながら、ネアはウィリアムからディノに手渡され、しっかりと頼もしい魔物に掴まった。



ふわりと揺れる真珠色の髪に、その首元に一度顔を埋める。



「…………怪我はないね?」

「はい。ミカさんが守って下さったんですよ」

「うん。彼が、あわいに潜む者達に気付いて、君を隠してくれたのを見たよ。あわいの高位である彼でなければ、気付けなかったことだ。………こちらを見ていた者達は、全て壊しておいたから安心していい」



ディノがそう教えてくれているところで、よれよれになったヨシュアが、イーザと一緒に霧の中から出てきた。



「ふぇ。疲れた…………。あんなへんてこな魔術師なんて、もっと早く壊しておけば良かったんだ…………」

「彷徨うものも世界の層の一つですよ。このような事がなければ、そこに居ることまでは致し方ないでしょう」

「僕は頑張ったのに、イーザが冷たい………」



(良かった、ヨシュアさん達も怪我はないみたい…………)



がこんがこんと大きな音がしてそちらを見ると、アイザックが、いつの間にか崩れかけた自転車屋や、他の店舗を魔術で直し始めていた。

ここは、アクス商会にとっても重要な品物が揃う町なので、今後の仕事に響かないように町の修繕に入っているのだろう。


何やら引き続きバンルに叱られているようだが、そんなアイザックの姿には、先程ネアが警戒したような不穏さはもう感じられなかった。



(あれは、アイザックさんの天秤が、近くに居た私やこの町ではなく、………あの生き物への興味に傾いた瞬間だったのだと思う………)



共に来たバンル達や、アイザックが今日ここに来る理由にもなったエーダリア達は、ノアが自転車屋の中に遮蔽空間を立ち上げ、安全なところに隠してくれていたらしい。



であれば、偶然転がり込んで来たネアくらい、アイザックが顧みなくなっても致し方ない。


彼は魔物であるし、獲物の買い取りをして貰っていたり、ディノを通してある程度の優遇はして貰っているものの、ネアが安心して触れられる線の向こう側の人なのだから。




「………一時はどうなることかと思った。ノアベルトがいなければ、大変なことになるところだった」

「やれやれ、やはり不安定な時期に無理をするものではありませんね。………ですが、今回の訪問は得るものも多かったので、来たことは後悔しておりませんよ」



途中でエーダリアが悲しい目をしたからか、ヒルドは慌ててそう付け加える。

そんな様子に気付いたノアも、そうだよと微笑んだ。



「この程度の事件で、やっぱり危ういからって引き篭もるのはなしだよ。ほら、僕がいたから結局は無事に済んだ訳だしさ」



そんなノアの言葉に、ネアはほっとした。

やっと、誰かに頼ってでもと外に出る欲を持ってくれたエーダリアに、今日ここに来たことを後悔して欲しくなかったのだ。



「…………ああ。……ああ、そうだな。今日は、あらためて皆の与えてくれる力の頼もしさを感じた日でもあった。そういう意味では、良い日だったのかもしれない。………大丈夫だ。後悔はしていない」

「…………ほわ、向こうでバンルさんが泣いてしまいました」



ネアがアイザックと話したことも含めて、最後の事件については、ここで話しているのもなんなので、帰ってからまた話そうということになる。



ネアはここで、乗り物な婚約者の三つ編みを引っ張って、すいっと離れてゆきそうなアルテアのところに行って貰った。




「アルテアさん…………」

「………何だ。用件があるなら早くしろ」



こっちを見た魔物の鮮やかな赤紫色の瞳は魔物らしく冷ややかだったが、ネアは特に気にせず、言われた通りに用件だけを伝えることにした。



「アイザックさん曰く、あの生き物は、アルテアさんのことも狙っていたようなのです。もし、まだ怖いものが残っているといけないので、お買い物が終わったら一度お会い出来ますか?」

「…………は?」

「使い魔さんがまた誰かに狙われたら困るので、開発中の新しいきりんさんの武器を渡しておくべく……」

「…………やめろ。必要ない」



きりんと聞いたアルテアは顔を顰めて立ち去ってしまったが、こちらに来たノアが、何やらにやにやしながら教えてくれた。



「あれさ、拗ねてたんだけど荒れる前に優しくされたから、慌てて逃げたんだと思うよ」

「む?拗ねていたのですか………?」

「ほら、ネアは、あの獣の近くに行ってもアルテアのことを呼ばなかったでしょ?それが腹立たしかったんだと思うよ。アルテアの方は、通りにネアを見付けて慌てて飛び出して行ったからね。それなのにって思ったんじゃないかな」

「むむぅ。アイザックさんから、獣さんの標的には、アルテアさんとウィリアムさんも含まれていると聞いたので、襲われてしまうかもしれないのに呼ぶ筈もないのです…………」

「うん。それが分かってほっとしたんじゃない?夜にはリーエンベルクに来ると思うよ」



そこで、ネアを持ち上げた魔物がどこか悲しげにこちらを見たので、慌ててあの大きな獣はそこまで怖くなかったことと、ミカがぴかっと光ったり色々あったので、ディノを呼ぶ余裕もなかったのだと弁解しておいた。



遮蔽空間が開き、町の人たちがちらほらと戻って来た。

壊れかけていたお店などはすっかり元通りになっていて、あの騒ぎは夢だったよう。



「果たして、………無事にと言っていいとかどうか分からないが、無事に帰れそうだな」

「ええ。今日はひとまず、エーダリア様のお目当のインクとヒルドさんのペンが買えましたし、盛り沢山な初コロールだったという事にしましょうか…………。ちょっとお肌が荒れたかもしれないので、帰ったら薔薇の軟膏を使ってみたくて、わくわくしてきました」

「ご主人様…………」

「ああ。次に来る時までには貯蓄しておいて、また一つ記念にインク結晶を買おう………」

「エーダリア様…………」




かくして、ネア達のコロールデビューは、最後にとんでもない事件がありつつも、何とか無事に幕を閉じたようだ。




後日、エーダリアからお礼の手紙と品物を贈られたバンルは、貰った赤茶色のストールをどこに行くのにも巻いてしまうようになったらしい。


そんな噂を聞きながら、ネアは、ディノと連名でミカに贈ったお礼の膝掛けも、そのくらい喜んでくれればいいなと思うのだった。











物語の区切りの関係で、今日更新のお話は未だかつてないボリュームになってしまいました。

思っていたよりどっしりになってしまったコロール編、お付き合いいただきまして有難うございました!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ