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水路の町と道具の小径 2




ネアはその日、コロールというランテラの都近くにある水路と職人の町に来ていた。



この町はサムフェルのように入場制限のあるところで、様々な技術を持つ保護対象の職人達が暮らし、一箇所に集まることでこの世界の様々な高位者達からの保護や支援を受けている。


だからこそこの町の人々には、高位者ですら立ち入り禁止に出来る自治権が与えられていた。


職人の一人が特定の支持者からだけの守護を得ていたら叶わないことであったが、大勢の才能ある者達が集まり様々な高位者達からの守護を撚り合わせたことでそれだけの力を得られるようになった。


この町に贔屓の店がある者達は、その店で安定的に買い物が出来るようにコロールの町に敬意を払う。


また逆に、アイザックのように全ての店と取引きがあり、この町に出資している者は、町の人々へのある程度の発言権を持つのだそうだ。




そして、そんなコロールの町に憧れていたというネアの上司は、鳶色の瞳をきらきらさせて入り口の歩道で固まってしまっていた。


サムフェルのように、元々その在り処や開催を知らずにいた不定期な市とは違い、このコロールについてはこんな町があると知ってから憧れていたそうなので、訪れることの出来た喜びはひとしおなのだろう。



「……………エーダリア様?呼吸をしていますか?」

「…………は!………した」

「まぁ。していなかったんですね…………」

「エーダリア様、念の為に、私かネイのどこかを掴んでいて下さい」

「ヒルド、私ももう子供ではないんだ。さすがにそこまでではないぞ………」

「大丈夫だよ、ヒルド。僕が影から繋いであるからさ。前に、シルがネアにやってたやつを真似をしたんだ」

「ノアベルト………。さすがにそこまでしなくても、私は…………あれは、魔術綴じの店か?!」

「ぎゃ!エーダリア様、そこは水路です!!」



急な方向転換で水路に踏み込みかねなかったエーダリアを、ネアは慌てて捕まえた。

しかし、ネアだけの力では踏み留まれず、ぐらりと傾いたところを、左右からヒルドとノアが押さえてくれた。



「…………ネア、大丈夫か?」

「ほぎゅ。ディノとウィリアムさんも後ろから掴んでくれて良かったでふ」

「ネアがいなくなりそうだった……」



ぜいぜいと息をし、危うく水路に落ちそうになったウィームご一行はそれぞれの安全を喜び合う。



「す、すまない…………みなのお陰で助かった……」

「言った側からあなたという方は…………!」

「…………少しだけ、今度はエーダリア様と一緒に、水路の国に行ってしまうのかなと思いました」

「わーお。それ新しい国だね…………」

「ご主人様が連れていかれる…………」



ばくばくした胸を押さえて、やっぱり繋いでおこうと話し合われているエーダリア達の方を見ながら、ネアも、ディノの三つ編みを握っておくことにした。

婚約者な魔物がどこからともなく布紐をさっと取り出したので、足を繋がれないようにしたのだ。




チチチと、見たことのない赤と水色のまだらの鳥が飛んで行く。


コロールの町は、あまり広い町ではない。

だからこそあれこれと詰め込まれており、中に入ると玩具の街並みのような不思議に雑然とした雰囲気で、その混み入った感じにますます期待を高められる。


大通りと称される道も決して広くはなく、片側をようやく馬車一台が通れるくらいの幅だろうか。

中央に大きな水路、その水路の両脇と店舗側に歩道を配した構造で、石畳の道はどこも一方方向にしか進めない。


魔術や祝福が多いのであちこちから蔓が伸び花が咲いていたりもして、子供向けの絵本に出てくる秘密の魔法道具の商店街といった、驚きや冒険が隠されているような特別な雰囲気に満ち溢れている。



町の建物に明確な建築基準はないのだろうが、どの建物も煉瓦作りに瓦屋根ではあるらしい。


しかしながら、霞んだ朱色の結晶石めいた建物があれば、宝石のように光を孕む美しい青色の瓦の店もあり、その色合いや素材にまったく統一感がないので、極彩色の町という感じがしてしまう。



ネアが見た色鮮やかな町と言えば、水竜との交渉で訪れたカルウィや、ヴェルリアの都に、ウィリアムが連れて行ってくれたサナアークのオアシス。

そんなどことも色合いの違う、水路と生い茂る木々に囲まれた、また新しい極彩色の風景にネアは目を輝かせる。



エーダリアは立ち並ぶ店や工房の看板をきちんと確認してから興奮しているが、ネアは町の雰囲気だけでわくわくしてしまう。



「ディノ、ここはサムフェルが町になったみたいで楽しそうですね!」

「サムフェルの商品を作る職人達も多くいるよ。ただし、どちらかと言えば君がゴーグルを作った店のような趣きが強いかな」

「作り手の方が、直接お店に立たれるようなところが多いのですね」



近くの店を見ただけでも、標本の専門店という中々に特殊な店がある。

手前の店舗が標本そのものを、そして隣の店舗では標本道具が売られているらしく、エーダリアが熱い溜め息を吐いているようだ。



ネアはまた少し不安になったが、そんな標本屋を覗いているバンルとエイミンハーヌの姿を見付けてほっとした。



(今日は、ダリルさんが会の人を集めてくれているから、もしはしゃぎ過ぎてしまってもエーダリア様は安全だと思うし、ウィリアムさんもいるし、同じ町の中にはイーザさんとヨシュアさんまでいるし………)



これはもう問題が起きても誰かしらが助言をくれそうな、団体ツアー的な安心感ではないか。

特にバンルとエイミンハーヌは、エーダリアの会の人なので、とても注意深くエーダリアの動向を見守ってくれる筈だ。




「ネア、この辺りで別れることにしよう」

「はい。エーダリア様達は、あちらの方向から回るのですか?」

「ああ。町の作り的には、右回りか左回りのどちらかになるな」

「では、私達は反対側から回ってみてもいいかもしれません。ウィリアムさんのお目当のお店は、右手の方の区画にあるそうなんです」



影からノアに繋いでおかれることで話がまとまったのか、こちらを向いたエーダリアの鳶色の瞳には、微かに恥じ入ったような色があり、もう水路には落ちないぞという強い決意が感じられる。




「では、正午に、この地図にある中央広場にある仕掛け時計の前で合流しよう」

「ちょうど、中央のあたりで交差しますものね!では、私達はこちらの、石や金属などの重めの商品の区画から見てみます」

「ああ。私達はまずペンの専門店と、インクの専門店を見に行くのだ。また昼食時に情報交換をしよう」

「ネアはまた落ちないようにね」

「むむ。ノアも、今日はエーダリア様も一緒なのですから、女性の方には気を付けて下さいね」

「ありゃ。……………うん、コロールの町の女の子とは何もなかった筈なんだけど、…………うん、きっと大丈夫」

「ネイ…………」



ノアの過去という若干の不安を残し、別行動になるエーダリア達は、美しい黄水仙の咲く水路沿いの小径を挟んで反対側の道へ歩いて行った。


主線となる大きな水路の他にも、日常用水として敷かれる細い水路もあちこちにあり、まさに水路の町という趣きもある。

そう言えば、ランテラの都にも川が多かったなとネアは思い出した。



(ふふ。ちょっとエーダリア様が弾むような足取りなのが可愛いな…………)



コロールの町の商店は、工房やアトリエが併設されている為、この人数で一緒に行動するとお店がぎゅうぎゅうになってしまう。

なのでネア達は、チームを二つに分けて別行動することにした。



イーザやヨシュア達、アイザック達とは門のところで別れている。

なので、ネアはディノとの二人組で行動する予定だったが、目当の品物を買う以外に予定はないからとウィリアムも加わってくれたので心強い。




「まずは、…………ディノ、川にジャガイモの群れが流れて来ました」

「ジャガイモの群れ…………」

「ネア、これは商品の材料の搬入なんだ。ほら、先頭のジャガイモに妖精が乗ってるだろう?」

「ほわ、妖精さんがいました!」



いきなり綺麗な水路にジャガイモがざあっと流れて来たので落下事故かなと動揺したが、このような形で水路を使うのだと、ウィリアムが教えてくれた。


先頭のジャガイモには小さな兎姿の妖精が乗っていて、魔法の杖のようなものをえいっと振っている。

その動きに合わせて、ジャガイモの群れは向かいから来た小舟を避けたりするので、動きを管理出来ているようだ。



「まずは、火山の…………魔術鉱石?のお店ですね」



ネア達が行く道にある最初の店舗は、特別な火山の祝福石から割り出した魔術鉱石の専門店である。


火を生む鉱石はとても貴重だが、火の魔術は気性が荒い者達が多く寄り添う領域なので、扱いが難しいそうだ。


併設された工房では、三人の屈強な男性達が大きなハンマーで岩を割り、中から出て来た深紅の鉱石を、鋭い目をした老人が素早く先割れスプーンのような道具で抉り取ると、カンテラに似た特製容器に入れていた。



ネアは、店頭に並んでいる売り物の鉱石を覗いてみる。



「この鉱石は、どうやって使うのですか?」

「火食いの鉱石は、火山の祝福石から切り出されると仲間を求めて燃え上がるんだが、火の祝福が強いことで他の火を消してしまう。魔術の火の呪いや、山火事などの鎮火に使える珍しい火なんだ」


魔術の火にも様々な階位があるが、魔術の理の一種として、火山の祝福は殆どの火を一度圧倒するという規則がある。

魔術の火を重ねてかけられれば階位の高いものには負けてしまうが、ただ一度の鎮火であればこの火山の祝福の火が最も強い。



「火山の祝福を持つ火は、大地や山の祝福から生まれる系譜違いのものから派生した変わり火なんだ。複数属性持ちとしての特別な力だね」

「………こうして見ていると、赤く燃える石炭のようですね。…………火竜さんの火を消せるようなものもあるのですか?」



あの統一戦争の悪夢を思い出して思わずそう尋ねると、こちらを見たディノが優しく微笑んだ。



「安心していいよ。階位で言えば、ウィームにはダリルが引き取った水竜がいるだろう?今の火竜の王よりも、もはや彼の持つ水の方が階位が上だ。戦うということにおいては決して長けてはいないだろうが、リドワーンなどの、火竜より階位が高く、水にも火にも耐性のある竜がいるのだから、彼を守る力も今のウィームにはあるだろう」

「………まぁ。あのもやしっ子………ちょっと外界に不慣れな感じなエメルさんは、火竜さんへの切り札になるのですね………!!」



そんな説明に感動してしまい、ネアはカンテラの中で赤く燃える鉱石から視線を上げた。

冬場に暖炉の火を見ていると心が和むような独特の癒し効果もあるが、どうしても買っておこうというものでもない。




そこから、竜の鱗や骨が鉱石となったものから作られる銃器のお店と、特殊な地下水を使って湖の底から採掘される湖銀を鍛えて作られたナイフのお店を見た。

銀と言えば比較的柔らかなイメージであったが、この湖銀は祝福の力が強くよく切れる。



(でも、ナイフはウィリアムさんから貰ったのがよく切れるしな…………)



とても美しいものなので少しだけ心を惹かれたが、無駄にするのも勿体無いので買うことはなかった。



そして次のお店が、ウィリアムのお目当の星や月などの祝福を得ている輝く鉱石のお店である。



ここの職人は特別な技術を持っていて、ごつごつとした原石を宝石のようにカットすることで、鈍い光がとても鮮やかに煌めくのだそうだ。



「まぁ、お久し振りです!何年ぶりかしら!!」



ネア達がお店に入ると、闊達な雰囲気の可愛らしい女性が、ウィリアムを見付けるなりそう声をかけてきた。


鉱石の研磨などの作業をするからか、ゴーグルを首にかけていて、女性らしいエプロンドレスにぶこつな道具入れを腰に装着している様がとても魅力的なひとだ。

猫のようにくりっとして目尻が上がった緑色の瞳は美しく、その微笑みを見ただけでこんな女性が側にいたら一日笑って過ごせそうだなと思ってしまう。


ウィリアムはおやっと眉を持ち上げると、整えられた静かな微笑みを浮かべた。



「マイラか。お父上は?」

「父は一年前に目の病気をしたの。今は引退して、兄と私が後を継いでいます。勿論、品質は落ちるどころか上げてあるくらいだから、安心して下さいね」



その微笑み見れば、この女性はウィリアムに恋をしているのだろう。

そんな姿がとても可憐で、ネアは、ディノと一緒にお店の端っこの商品を静かに鑑賞し、二人をゆっくりとお喋りさせてあげることにした。



ところが、ウィリアムは情緒も甘酸っぱい恋の気配も何もなく、目的の品物の五個詰め合わせの箱を無造作に掴むと、さっと買い物を終えてしまった。


高価そうな木箱に入り、内側が天鵞絨貼りなのでかなり高価なものに違いない。



「ネア、俺の買い物は終わりだ」

「早っ!」

「………ん?ああ、欲しいものがあるなら、ゆっくり見ていてくれ。急かしたかな…………」

「い、いえ。………その、ご店主さんとはお久し振りなのでは?少し積もる話などでもされては如何でしょうか?」

「と言われても、以前もこの店で星結晶を買ったくらいだから、特にはないんだ。気を遣わせたな」



ネアはそう微笑んで頭を撫でてくれたウィリアムに、とても残念な鈍さであると眉を下げた。



(お嬢さんの方も、かなりがっかりした顔をしてるではないか……………!)



この種の職人的な特殊な才能を持つ人は長命だったり、祝福を多く備えていて頑強だったりするという。

お相手としてはいいのではないかと思ったのだが、ネアは途中ではっとした。

まったく意識もしていないとなると、そもそもウィリアムの好みではないのだろうか。



(そっか…………、前の恋人さんがロクサーヌさんということは、ウィリアムさんは、大人の色香を持つ自立した女性の雰囲気が好きなのかしら………)



であれば確かに、このマイラという女性の雰囲気は元気過ぎる気もする。

ウィリアムはちょっと繊細そうなので、あまり踏み込まずにネアは引き下がることにした。




「…………むむ」



しかし、お店を出ようとしたところでネアが目を止めたのは、素晴らしいカットできらきらと光る星結晶だ。

あまりにも綺麗に光るので、用途など考えられないまま立ち止まってしまう。



「欲しいのかい?」

「むぐぐ。しかし、光るものはもう、サムフェルでしゃかしゃか振るやつを買ったのです」

「屋外用の星結晶だな。庭に吊るすと星の祝福を集めやすい」

「お、お庭に!!」



庭に出すものはまだないと、ネアはぱっと顔を輝かせる。

するとウィリアムはそんな星結晶をひょいと取り上げ、さっと会計してしまった。

まだ値札を見ていなかった上に買ってもらうつもりはなかったネアは、慌ててお財布を出した。



「まぁ、ウィリアムさん、自分で買えますよ?」

「いや、今日は無理を言って一緒に回らせて貰うからな。気にしないでくれ」



ウィリアムはそう優しく微笑んでくれるが、ネアはこの蛮行により、もう怖くてお店の奥の方が見られなくなった。



こやつは自分の想い人の何なのかと、酷く疑わしげな気配が店の奥から漂ってくるので、ネアはさっとディノの三つ編みを握る。


他人様の恋路に入り込んで蹴られたくはないので、わたくしの婚約者はこちらの三つ編みの魔物ですので決して敵ではありませんと言いたいのだが、あえてそんな事を言うのも失礼だろう。

よって、かなりの厳しい立場に立たされていた。




「ウィリアムさん、有難うございました。寝室の窓の外側に飾ったら、いつでもきらきらのお星様が見えます!」



とは言え、きらきらの星結晶はとても嬉しかったので、喜びの弾みはお店を出てから解放する。



「弾んでる………かわいい」

「ディノ、一緒に窓のところに吊るしましょうね!お星様の鑑賞会が出来てしまいます」


一緒にする設置作業の発注までが来てしまい、ディノは目元を染めて頷いた。

ウィリアムにも、きちんとお礼を言ってくれている。




「ネア!そちらに星結晶の店があったか?!」

「……………なぬ。エーダリア様が駆けて来ました」



その時、なぜか反対側に出かけていった筈のエーダリア達がこちら側に走ってくる。

ウィリアムが背後のお店を視線で示すと、なぜか、エーダリア達は忙しなく駆け込んで行った。




「ほわ、…………逆走してきました」

「星結晶が欲しかったのかな………」


ネア達は顔を見合わせて首を傾げていたが、無事にお目当のものを買ってほくほくでお店を出て来たエーダリアが、逆走の理由を教えてくれた。




「いや、ずっとこの雪星結晶が欲しかったのだ。私の執務室にある卓上ランプには、元々雪星結晶が入っていたらしくてな」

「雪星結晶は、珍しいものなのですか?」

「そうでもないのだが、あのランプは傘の部分の細工が重厚過ぎて、普通の雪星結晶では光が弱くなってしまうのだ。インクの店で同じようなランプが明るく輝いているのを見て、この店のものならばとその店の店主に教えて貰ったんだ」



そんな雪星結晶は、現在あるのが最後の在庫であったらしい。

最近、アクス商会での買い付けが重なり、なかなか店頭に出てこないのだそうだ。

そう聞いてエーダリア達は、走って逆走してきたのである。


高価なものだが、これは雪の祝福の強い土地であれば、半永久的に光るのだそうだ。

お会計で手間取ってもいけないとノアが支払ってしまったそうで、きっとエーダリアからのお代は受け取らないような気がする。



「と言うことは、アイザックさんを警戒して…………」

「ああ。危ないところだった…………」

「ネア様、お騒がせしました」

「わーお、僕、久し振りにこんな風に走ったなぁ………」



目的を達したエーダリア達は元来た道を戻ってゆき、ネア達はどうか達者でとそんな三人を見送った。




「………雪星結晶が買えて良かったですね」

「うん。アクス商会では買えないのかな………」

「俺も今そう考えていたんですが、顧客の注文を受けての買い付けかもしれませんからね………」



次のお店は鋏の専門店で、その隣は特殊な自転車のようなものの工房だった。

この自転車は、穢れなどの多い土地でも走れるそうで、主に配達などの専門職員が買うらしい。



空を見上げると、少しだけ黒っぽい雲が見られるものの、概ね晴れというところだろうか。

気持ちのいい秋の日に、こんな不思議な町を歩きながら不思議な品物をひやかすのは楽しかった。



やがて立ち並ぶお店の雰囲気が変わり、水薬の専門店が現れる。



「ほわ、…………」



このお店では、並んだ硝子瓶の中に漬け込まれた天敵を発見してしまい、ネアはきゅっとなった。

慌ててディノの腕の中に飛び込み、その胸に顔を埋めた。



「ネア、二軒隣の店は好きそうだぞ」

「…………ふぁぎゅ。く、……くもはいません?」

「ああ。恐らく、ヨシュア達が目的にしていた薬局じゃないかな」

「ば、薔薇の軟膏!」



素敵な情報に息を吹き返したネアは、まずディノの腕の隙間から鋭い目で周囲を偵察し、本当にそこが半円形のアーチ状の入り口が美しい、祝福の花や果実を使った自然派化粧品を扱う薬局であることを確認した。



(お店の外観もとっても素敵!)



「ディノ、ウィリアムさん、このお店を見てもいいですか?」

「うん。欲しいものがあったら買ってあげるよ」

「ああ、勿論寄るといい」



まだ先程の動揺を引き摺って魔物を羽織ったまま、ネアがうきうきとお店に向かえば、そのお店の名前は真夜中の雫というらしい。


そんな店名にもすっかり心を奪われて入り口に近付くと、ちょうど買い物を終えたイーザ達がお店から出てくる。

殆どの女性が胸を弾ませるような、素晴らしい薔薇の絵のある綺麗な紙袋を持っていて、ネアはますます期待に胸が苦しくなった。



「あ、ネアだ」

「ヨシュアさん、贈り物は無事に買えましたか?」

「うん。入浴後に使える化粧水やクリームに香水も入った詰め合わせの箱があったんだ。それがいいって、店の精霊が言うからね」

「おや、ネア様達もこちらをご覧に?」

「はい。それにしても何て素敵なお店なんでしょう。お店の天井がお椀型に丸くなっていて、天井画が素晴らしいですね…………」


お店の扉が硝子扉なので、店内の様子がよく見えた。

そうはしゃいだネアに、イーザは頷き、ヨシュアは買い物の包みをディノにも自慢している。



「であれば、………」

「ああ、そうしよう」



イーザは、隣に立っていた真夜中の座の精霊に何かを話しかけ、その男性はネアの方を見てから小さく頷いた。



「この店は、私の知人がやっているんです。声をかけておきますので、宜しければ香草茶でも飲んで行って下さい」

「………まぁ、いいのですか?」



ネアは、そんなことをして貰っていいのだろうかと目を瞠ったが、鮮やかな紫色の瞳をした男性は淡く微笑んで頷いてくれる。



(綺麗な人だなぁ………)




神秘的で穏やかな瞳の美しさに、ネアは、その精霊にすっかり見惚れてしまった。

ここがという理由はないのだが、この精霊は好きな系統の雰囲気だと思えるのだ。

真夜中は好きな時間なので、きっとそれでだろうとネアは思っている。




お店の扉を開けると、カランカランと、鈴の音がした。



「わぁ………」



ネアは、お店の天井いっぱいの薔薇の絵に思わず声を上げてしまう。



店内はぷんと花の香りがして、こちらを見て微笑んだ美しい女性がいる。

その女性の美しさにも、またうっとりとしてしまいそうだ。



「いらっしゃいませ。ミ………友人から、皆さんがお知り合いなのだと聞いております。せっかくですから、当薬局のお勧めの薬草茶を飲んで行って下さいね。………とは言え、まずは、お連れ様にどんな効果のどのようなものなのかを見ていただきましょう」



淡い藤色の髪の女性は、人間の年齢で言えば今のネアくらいの子供がいてもおかしくないような年齢に見えた。

下がった目尻の皺がはっとするほどに魅力的で、聡明だが柔和で可愛らしい女性という感じに、同じ女性として感嘆してしまう。



(この方を見ただけでも、この薬局の薔薇の軟膏が欲しくなってしまいそう………)



「こちらのお茶なんですが、あなた様の大事な方におすすめしても?」

「…………おや、特に変わったものはないのだね」

「ええ。リコリスとローズヒップ。あとはベリーをたくさん。そして夜の静謐と孤独で育てた味わいを持つ薬草茶葉だけなんですよ」

「………夜の静謐で育てると、お茶の味はどうなるのですか?」



この薬草茶の薬草たる所以は、紅茶の茶葉の生育環境だけの要素なのだという。

不思議になってそう尋ねたネアに、優しい目の女性はふんわり微笑みかけてくれる。



「静謐と孤独の中で育った茶葉は、とても甘くなるの。果物やローズヒップを合わせると、まるで果物のスープを飲んでいるような不思議な甘さで、心を温めて仄かな安堵や幸福を与えてくれる、控えめで優しい効能なんですよ」



それは是非にと、ネア達はそのお茶をご馳走して貰った。

ほろりとした自然な甘さがあるが、ローズヒップの酸味と茶葉そのもののほろ苦さで口の中がすっきりとする。

疲れたことがあった日にこんな薬草茶を飲んで眠ったら、きっとぐっすり眠れるだろう。



ネアは、真夜中の静けさの中で優しく寄り添ってくれるお茶を思い描き、この茶葉は絶対に買って帰ろうと心に決めた。




「し、しかし、選択肢が多過ぎます!」

「ご主人様………」

「ふ、ふぎゅう………。素敵なものが多過ぎて目が回りそうに………」



だが、ささっと薔薇の軟膏を手に入れて済むと思っていたのに、周囲を見回したネアは、あまりにも欲しい物が沢山あって迷ってしまった。


イーザが買っていった薔薇の軟膏は、肌に塗り込むとしっとりとして、濃密過ぎてしつこくない、青林檎や梨のような果実寄りの爽やかな薔薇の香りがする。


乾燥や逆剥け、割れた爪などまで治してくれる万能軟膏だが、塗って効果が出るのは夜だけなのだそうだ。

塗り込んだ瞬間は、むっちりしっとり艶々になるのだが、しゅわりと細やかに光って効果が浸透すると、服や寝具につくようなべたべたが一瞬でなくなる。

すると、皮膚が滑らかになって、健康的な薔薇色の艶が生まれるのだ。



(こ、これはすごく欲しい………!)



いかにもな薔薇の容れ物ではなく、薬局らしい容れ物なのもちょっと素敵ではないか。



しかし、ネアは隣に並んでいるバーベナの、擦りむけや湿疹、虫刺されをつるりと治す軟膏にも心を動かされ、どちらがいいのか途方に暮れてしまった。



「ネア、気に入ったものなら買ってあげるよ?」

「ほ、ほわ、………良いものが多過ぎて、大混乱です!このお店はどうして徒歩五分圏内のご近所にないのでしょう…………ふぐぐ」

「はは、そんなに慌てなくても、どれが欲しいんだ?」

「…………なんたる試練でしょう。こういうものは、あれもこれも買うのではなく、これぞというものを一つどっしりと買って、いつものお助け軟膏として常備するのが素敵なので、…………ぐぬぬ。………ほぎゅ、これは保湿化粧水と香水と、かかとクリームまで!」



風前の灯火だったネアは、ここで更なる情報過多で心が駄目になってしまった。



へろへろになった人間にくすりと微笑んだ店主が、ネアの肌を見て、基本は薔薇の軟膏でいいと教えてくれて、試供品だというバーベナのお試し軟膏の小さなものをつけてくれることになる。


石鹸も惹かれるのだが、今は狐温泉の石鹸に夢中なのでそちらを引き続き使うことにして、贈答用のちび香水セットの夜菫と葡萄の香り、ラベンダーと月光杏の香りのものが入った方のもの、体までじゃぶじゃぶ使える安価な薬草化粧水のボトル、そして先程のお茶を三缶買って帰ることにした。



「あの薬草茶を気に入ったみたいだね」

「はい。とても優しくて、きっと静かでぐっすりと眠りたい夜に飲めば、心の皺を丁寧に伸ばしてくれるような気がしたのです。………はい、これはウィリアムさんに。お仕事が忙しかった日の夜にでも、飲んで下さいね」



店を出てから、ネアがそう言って香草茶を差し出すと、ウィリアムは目を瞠ってから微笑んだ。


先程の星結晶のお礼だと気付いたらしい。

ウィリアムにはひと缶買ったのだが、実は二杯分ずつの小さな贈答用のものも買ってあるので、コロールにいる間に、イーザ達に再会出来たらお礼にあげようと思っている。



「なのでディノ、この紅茶の包みの贈答用のものから、魔術の繋ぎなどを切ってくれますか?」

「うん。一人は精霊だったから、私から渡そうか。………あの店が気に入ったのだね?」

「はい!それに、薬局の方が下さったお試し用の軟膏は、試供品にしては大き過ぎます。お店の商品を見ていると、バーベナ全種類セットを買った方用のものだった気がするので、お友達の顔を立てて、特別にくださったのではないでしょうか」



ネアがそう言えば、ウィリアムはそれはそうするだろうなと微笑むので、イーザの友人はそれなりの階位の精霊なのかもしれない。




「……………っ、」



その時、ふっと日が翳ったような気がした。

ネアは会話の途中で鋭く息を飲んだウィリアムの瞳が、鮮やかな葡萄酒色に見えた気がして目を瞠る。



ばさりと、突然風が吹いたみたいにウィリアムのケープが揺れた。

それもなぜか、見慣れた白ではなく漆黒だったような気がした。



けれども、それはほんの一瞬のこと。




「ウィリアムさん…………?」

「………すまない、驚かせたな。反転の予兆のようなものだ。いよいよ蝕が近くなってきたか」



その言葉に、ぞくりとした。



「…………ディノ、もしかして急いで帰った方がいいのですか?」



ネアが、まだエーダリア達はせっかくのコロールに来たばかりなのにとへにゃりと眉を下げてディノの方を見ると、水紺の瞳を眇めてどこか遠くを見てから、ネアの魔物はどこか安堵したように微笑んでくれた。



「今のものは、蝕が始まる前の予兆の一つだけれど、まだ蝕になるまでは何日かあるだろう。………そうだね、生き物が目覚めの前に体を震わせるようなものだから、もしかすると、これから何度かは訪れると思うけれど、まだ本番ではないから怖がらなくていいよ」

「よ、良かったです!せっかくこんな風にみんなが揃っていて、今日はこっそりうきうきしていたので、ほっとしました………」




胸を撫で下ろして、そっと頭を撫でてくれたディノに微笑みを返す。

ウィリアムの瞳もいつもの色に戻り、先程の見慣れない凄艶な魔物の姿は消えた。




けれども、どこかで、大きな獣が胎動しているような不穏な気配がする。

ネアは、その気配に慄きながらも、蝕が始まる前の最後の安息の日々として、今日の日を楽しみ尽くそうと心に決めた。



まさかあの人物が、伝説の魔獣とやらを呼び覚ましコロールの存亡を賭けた大事件を起こすとは思っていなかったのだ。





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