水路の町と道具の小径 1
ランテラの都の近くには、どこの国にも属さない特別な職人達の町がある。
そんなことを教えられたのは、いったいいつの事だろう。
ガレンに配属されたばかりの頃に、老齢の魔術師が夢見るような瞳で語ってくれたことを今でも鮮明に覚えている。
そこに並ぶは魔術道具の逸品に、誰も見たことのない染料や布や糸。
夜の憂鬱から抽出した青いインクや、夜明けの静謐から煮出した灰色のインク。
この前のアルテアが被っていたという、呪いなどで滲み出るような特殊なインクに、百年に一度の流星雨から煮出したのは、ぴかぴか光る銀色のインクである。
特に貴重なものは、魔術そのものから結晶化する羽の形をしたインク結晶で、これはその元になった魔術には必ず鉱石の系譜のものが混ざる。
なぜ、鉱石の系譜の魔術から羽の形になるのかといえば、それは鉱石の系譜の魔術が液体化したところで、その雫を指先や特殊な筆で弾いて髪の毛のような細い結晶にすると、ぱきぱきと音を立て羽毛のような形に育つからなのだそうだ。
てっきりおとぎ話の類だと思っていたコロールの町が実在すると知ったのはつい最近のことで、それは即ち、ガレンの長になっても知らない事が沢山あるのだという驚きをエーダリアに齎した。
因みに、エーダリアが羽毛の形をしたインク結晶を初めて見たのも、この前の誕生日に訪れたあわいにあるアルテアの城でのことで、それから何度美しい羽の形をしたインク結晶のことを思い出しただろう。
(コロールのインク店には、そんなインク結晶が幾種類も売られているという…………)
羽毛の形のインク結晶を見た日の夜は、あわいの列車の日帰りの旅で得た様々なものを並べたり保存したりで忙しく、思いを馳せるようになったのはその後からのことだった。
そして、誕生日にあの不思議なあわいの列車で訪れた駅で購入したものを全て整理し終えた後、騎士達に土産を配りに行こうとしたエーダリアは、詰め合わせで購入した水飴の箱に、全種類買い上げのサービスとして小さな封筒が入っているのを見付けたのだ。
『……………ヒルド!大変だ。こ、これを見てくれ…………』
『エーダリア様…………?』
そこにはなんと、あの憧れの運河の国、コロールの特別入門券がついていたのだ。
大興奮でその券を見せると、ヒルドも眉を持ち上げる。
実はこのヒルドも、コロールには長年行きたがっていたのだ。
四年ほど前に、ダリルから仕事終わりの時間を使ってコロールに出かけて来たと聞き、エーダリアとヒルドは愕然とした。
コロールに入れるのは選ばれし商人や高位の人外者達、そしてコロールの工房で作られた道具の持ち主だけで、それこそサムフェルのように、限られた者達しか訪れることの出来ない特別なところであったのだ。
(あれは、休暇を使ってヒルドがリーエンベルクに泊まりに来ていた時のことだった…………)
あまりの羨ましさに、その晩のエーダリアとヒルドは二人で静かに酒を飲んだ。
エーダリアにとっては、コロールがおとぎ話の土地ではなかったという確証を得られたことは喜びだったが、そこで思う存分買い物を楽しんできた代理妖精の土産話を聞いていると、なぜだかとても悲しくなったのだ。
であれば、そんなダリルに案内を頼めばいいと思うだろうが、コロールは、行くべき者が行くべき時にしか門戸を開かない選別と排他の魔術の門に守られている。
その時のエーダリアやヒルドのように、近くにコロールを訪れた者がいるのに縁がなかった場合は呼ばれていない証で、無理に乗り込もうとすると幸運などを損なってしまう。
その代わり、縁がある時にはその土地に行く為の準備が自然に整うとも言われていた。
道に落ちていた旅券を拾ったという話もあり、ダリルも新しく持ち込まれた稀覯書の整理をしていたところ、魔術書を包んでいた古い新聞にコロールへの招待券の封筒が紛れ込んでいたと言う。
『つまり、今回こそ私達の番ではないか!』
『…………こんなことがあるものなのですね』
自身の誕生日で休みを取ったばかりで、何かと忙しい時期でもあるが、ヒルドも今回ばかりはそんな余裕はないとは言わない。
ヒルドはこのコロールにあるペンの専門店で売られている、真夜中の旋律を軸にしたオーロラ結晶のペンを使うのが幼い頃からの夢なのだ。
正確には、ヒルドが憧れていたペンの実物は既に失われており、ヒルドが今欲しているのは、そのペンと同じものだ。
憧れのペンは彼の無残に失われた家族が使っていたもので、父親の妖精王が結婚祝いとして家臣から贈られたそのペンを、幼いヒルドはたいそう気に入ってしまった。
『特に王でなければ扱えないようなものではなかったのですが、父は愛情深くともとても厳しい人でしたから、子供の私にはそのペンを譲りませんでした。その代わり、ペン先を潰さないくらい大人になったら、お前に譲ろうと約束をしてくれたのです』
その後、息子に引き継がせられるようにと父親はオーロラ結晶のペンをとても大切に使ってくれていて、その姿にヒルドはますますペンへの愛着を募らせた。
成人した日に渡されかけたが、父との剣の手合わせで勝てずにもう少し先延ばしにされて、王になった時に譲り受ける筈だったという。
『少しばかり約束が違うのではと私は困惑しましたが、父はきっと寂しくなったのだと、家臣が教えてくれました。私に、お前も大人になったなとオーロラ結晶のペンを譲る日を楽しみにしていたそうで、それを渡してしまうと、息子が巣立つようで惜しくなったのではないかと』
家族が喪われたその日に床に落ちて踏み壊され粉々になったそのペンを、ヒルドは何度も夢に見たそうだ。
それは、幸福だった頃の思い出が霞む悲劇の日の象徴のように、何度も何度も悪夢の中に現れた。
であれば、そのペンをまた手に入れた時には、きっと幸福だった日々の思い出が修復されるのではないかと言ったのは、どうやら幼かった頃のエーダリアであったらしい。
そんな言葉を聞いて、決して幻ではなかった愛おしい日々を、喪失の瞬間だけに蝕まれさせてはならないと、どの角度から自身の運命を見据えるのかを変えたのだとヒルドは言う。
王として受け継いだ月光の剣が戻ってきた今、ヒルドの心を動かす曰くの品物は幾つかあれど、彼が言葉に出して手に入れたいと願うのは、やはりそのオーロラ結晶のペンであった。
そしてそれは、とある、特定の店のものでなければ意味がない。
『あの、オーロラ結晶のペンを取り扱うのは、コロールにあるナーティ文具店なのだろう?』
『ええ。…………コロールの店だと知ったのは、ダリルの買ってきた便箋の紋章からでしたが…………』
二人は顔を見合わせ、何としてもこの入門券の期限が切れない内に、コロールに行ってみせると心に決めたのであった。
そうして、ようやく願いが叶ったこの日。
「まぁ、なんて可愛らしい門なのでしょう。水路から船であの門を潜るのですね!」
思っていたよりも多い参加者達が、コロールの門の前に立っていた。
(なぜこうなったのだ…………)
淡い藤色の蔓薔薇が満開になった美しい煉瓦造りの門を望みながら、エーダリアが呆然とするのも致し方ない。
確かに、エーダリアとヒルドは、まずは最難関とされるダリルを説得する為に、特定の魔物が訪れる日を狙ってコロールに来ていた。
それは、この蝕のある年のその影響が出る前であれば、領主であるエーダリアが是非に出会っておいた方がいい豊穣の魔物である。
仕事を代わって貰わねばならないのでどうにか説得したいという二人の相談を受け、ノアベルトが提案した方法は、エーダリアとヒルドがコロールに行くべき、ダリルが納得出来る理由をでっち上げることであった。
そして指名されたのが、豊穣の魔物である。
(ノアベルトが、コロールにその豊穣の魔物を誘導してくれたのは確かだ…………)
豊穣の魔物もその日に訪れるらしいからとダリルを説得し、何とか一日リーエンベルクを任せることが出来たので、ここにやって来た。
それがなぜか、偶然この地を訪れていたくらいのことで済む筈だった豊穣の魔物を、同行者が捕獲してくるというとんでもない事件に、まだコロールの門をくぐる前から巻き込まれている。
「ネア、………その、門も素晴らしいが、この魔物は…………これでいいのか?」
「…………む?金ぴか鳥さんと間違えて狩りかけたジアートさんですよね。私もひやっとしましたが、ディノが死んでないので大丈夫だと言ってくれたので、そのベンチに置いてゆきます」
「…………彼は豊穣だろう。本当にこれでいいのだろうか…………」
エーダリアは、蝕の前に豊穣の魔物を狩ってしまったことがとても不安だったが、そんな豊穣の魔物を意識不明にしたノアベルトは、大丈夫だよと微笑んでいる。
「ネアが手で叩きのめす前に、僕が失神させただけだからすぐに目を覚ますよ」
「………あの、私を人の形をしたレインカルだと笑った金ぴか鳥めだと思ったのです。曲がり角の向こう側に、髪の毛をぴよっとさせて立っているだなんて、何と無防備なのでしょう」
「……………本当に、影響は出ないのだな」
「ふふ、魔物さんは儚いですねぇ」
「豊穣が儚くなったら、大惨事なのだからな…………」
ヒルドは現在、ディノとイーザと共に入門の受付をしてくれている。
あの入門券で、リーエンベルクから一緒に来た者達は全員入れるのだが、より内部での待遇が良くなる白い許可証を発行して貰った方がいいとノアベルトから聞き、その許可証とやらの発行に必要な白持ちの証明として、ヒルドにディノが同行してくれていた。
勿論、共に行くのはノアベルトでも良かったのだが、白持ちの者も珍しくないこの町では、白持ちの中でも階位に応じた対応が顕著となる。
ディノの方が発行までの時間が短くなるのではとイーザの友人が言うので、あえてディノに同行して貰っていた。
なぜイーザがここにいるのかと言えば、妹のルイザが最近恋をしたそうで、この町にある薔薇の軟膏をせがまれたのだと言う。
イーザの友人である精霊の知り合いが、コロールに住んでいるのだ。
彼等は彼等で入門手続きをしているので、イーザがヒルド達と一緒にあちらで受付をしている。
(そんなイーザと、その友人、一緒に来てしまった雲の魔物と、たまたまテントの照明に使う特殊な加工の結晶星を買いに来たウィリアムと、………おまけにアクス商会の代表まで………)
アクス商会の代表が欲望の魔物であることは、エーダリアもいつからか知るところだ。
年間入門証を持つ彼は買い付けの為にこのコロールに来たのだと言うが、そんな彼がバンルとエイミンハーヌと一緒に来ていたことに驚いた。
ネアが、会の仲間達ではと呟いていたので、バンルとは商人同士の繋がりがあるのだろう。
確か、ウィームにはそのような商人達の会が幾つかあった筈だ。
「………だが、………ノアベルト。偶然にしては妙に知り合いが多くないか?」
「うーん、気のせいじゃないかな。それか、ダリルが、エーダリアが羽目を外さないように、知り合いが買い物に行く日を今日に変えさせたかだね…………」
「ウィームの商人さんは、ちょっとしたエーダリア様過激派ですものね」
「お前のような特別な会などはないが、彼等が好意的でいてくれることには感謝している」
そう言ったエーダリアに、なぜかネアは不思議な微笑みを浮かべた。
気付けば手にはいつの間にか黄金の鳥のようなものをぶら下げていて、ウィリアムから預かっていようかと言われている。
先程話しかけた後から今までの、どこでこんな生き物を狩ってしまったのかとエーダリアは途方に暮れた。
「その鳥は………狩ってしまってもいいものなのか?」
「私を貶した悪い金ぴかですね!ウィリアムさんに聞いたところ、この土地の黎明を知らせる鳥さんなのだそうです。狩ってしまっても、次の黎明が訪れないと慌てて黎明のかけらから産み落とされるそうですので、夜明けが遅れるくらいで問題はないのだとか」
「………夜明けが遅れるではないか」
「あちらにいるイーザさんのお友達は、どうも真夜中の座の精霊さんであるらしく、そのあたりは調整してくれるそうですよ!」
「…………真夜中の座の精霊」
あんまりな肩書きにエーダリアは呆然とし、真夜中の座の領域から出てくることなど殆どない、その精霊の方に慌てて視線を移した。
今は、アクス商会の代表と話しているが、真夜中の座の精霊としての姿ではなく、擬態をしているようだ。
恐らく髪色を変えているのだろうなということはエーダリアの目でも分かるのだが、あそこに高位の精霊がいると教えられなければ見過ごしてしまいそうなくらいに、巧妙な擬態である。
(となると、中堅以上の階位の精霊なのだろう…………)
「ネア、あの真夜中の座の精霊と会話したのか?」
「いえ、この鳥さんをばしりと叩き落とした私に気付いたアイザックさんが、優先的に買い取らせて貰う代わりのサービスとして、時間のずれはあの方に頼んでどうにかして下さるという提案をしてくれたのです」
「…………と言うことは、欲望の魔物の知り合いでもあるのだな」
「ええ。お友達なのでしょうか…………?」
そんなことを話していると、くぐもった呻き声がして、豊穣の魔物が目を覚ました。
金色の睫毛を揺らすと、どきりとする程に鮮やかで深い黄金の瞳を開き、困惑したように瞬きをする。
そんな彼がぎくりとしたように視線を止めたのは、終焉の魔物だ。
確かに意識を失っていたらしいと認識した上で、すぐ側に終焉の魔物がいたら何があったのかとどきりとするだろう。
「…………おや、……ご無沙汰しております、ウィリアム様。………その、もしや私は蝕の影響で御身の手を煩わせるようなことでも…」
「ああ、そうじゃないから安心してくれ。実は、手違いでノアベルトが君を失神させてしまったんだ」
「ありゃ。説明の仕方に悪意があるんだけど!」
「ジアートさん、私がこの鳥めと間違えて狩りかけてしまったところを、ノアが、失神させることで守ってくれたのです。でなければ、この手でうっかり滅ぼしてしまうところでした」
「滅ぼし……………」
初めて見る豊穣の魔物は、そんなとんでもない事情を聞かされて途方に暮れていたが、気を取り直したように頭を振ると、ノアベルトに短く礼を言う。
「手間をかけたようだ。すまない」
「あ、君をそのベンチに座らせた方がいいって言い出したのは、彼だからね。僕は、男が地面に倒れていてもそのままにしておく主義だったんだけどなぁ………」
「それは、………良い提案をして貰ったようだな。感謝する」
この人間は何者だろうという目でこちらを見た豊穣の魔物は、エーダリアが見慣れた魔物達よりは遥かに酷薄で、人間の領域を離れた人ならざるものという感じがした。
その眼差しの色合いの鮮烈さに微かに慄きながら、意外にも礼を伝えてくれた豊穣の魔物に、軽く会釈する。
高位の生き物達は、会話を求められるような煩わしさを厭うことが多い。
礼を言われたとしても、ノアベルトありきの対応だった可能性もあり、言葉を発することで不敬と取られないよう、最低限の対応が手堅いと踏んだからだ。
(しかし、思っていたよりもきちんとした出会いを得られてしまった…………)
相手がこれだけの人外者ともなれば、挨拶を交わすということも、一つの縁の魔術の印である。
特に豊穣にはその傾向が強く、挨拶をしたり、手を振られるだけでも、その訪れを近しくするという素晴らしい祝福になるのだ。
一つ一つは大きな効果ではなくとも、領内の収穫として考えればそれなりの加算になる。
(これだけでも、ダリルを納得させるのには充分ではないか…………!)
いけないことではあるが、豊穣の魔物を失神させるきっかけを作ってくれた部下に感謝してそちらを見れば、ネアは、鳥を狩ったばかりのネアが怖くて怯えているヨシュアと話しているようだ。
「そ、それを僕に近付けないことだよ!」
「あら、儚くなっている鳥さんが怖いのですか?」
「ネアは乱暴なんだ。鳥だって叩いて落とすし、僕のことも叩くし………」
「ヨシュア?」
「ふぇ、ネア、ウィリアムが僕を大事にしない…………」
「あらあら、私から逃げようとしたり、私に隠れたり忙しいですねぇ………」
同じようにそちらを見ていた豊穣の魔物は、目を丸くして二人のやり取りに釘付けになっている。
ヨシュアとも知り合いなのかと呟いているが、恐らく彼の驚きはそれに留まらなくなる筈だ。
「ヨシュアさんも、今日はお買い物をするのですか?」
「僕は、ルイザに薔薇の香水と石鹸を買うんだ。イーザは軟膏を買うらしいから、僕が他のものを買うんだよ」
「まぁ、ヨシュアさんもルイザさんに贈り物をして差し上げるのですね?」
「ルイザは友達だからね」
「とても素敵な買い物です。きっとルイザさんも大喜びですね」
「……………薔薇の香油もあるんだ。それも買うべきかな?」
「むむ。香油と香水で用途が重なると勿体ないので、お店の方にイーザさんの買う軟膏と合わせて贈るには、どんなものを差し上げたらいいのか相談するといいかもしれませんね。ただの販売員さんだと知識が浅いこともありますが、この町のものは全てこの町で作られていると聞きましたから、きっと詳しい方がお店にいますよ!」
「…………うん。店員に聞けばいいのだね」
生真面目にネアの忠告を聞いて頷いている雲の魔物は、静かな横顔だけを見ていれば残忍で気紛れな魔物という評判に相応しい美貌である。
だが、ウィリアムからの視線が怖いのか、この会話はネアの背中に隠れたままなされていた。
そしてそこに、豊穣の魔物をいっそうに混乱させるディノが帰ってくるのである。
「…………ネアの背中にヨシュアがいる」
「あら、どうしてしょんぼりなのですか?」
「…………ずるい」
入門手続きを終えたヒルド達と一緒に帰って来たディノは、ヨシュアの行動の何かが羨ましいようで、悲しげな目をしていた。
エーダリアは、豊穣の魔物がディノの姿を目にした途端、体を強張らせて我が君と呟いた声を聞いていた。
コロールでは白持ちであることは隠さずにいても良いらしく、ディノだけではなく、ノアベルトやウィリアム、ヨシュアも本来の姿でいる。
正直、エーダリアからすると目も眩むような白さだ。
(…………そうか。……そうだな、こうあるものなのだろう。彼は、やはり魔物達の王なのだ)
そうではない反応を見慣れてしまったのは、ウィリアムやアルテア、そしてノアベルトが万象に近しい、或いは近しかった階位の魔物だからである。
同じ歌乞いの魔物同士として通じるものがあったのか、比較的早く仲良くなったとは言え、ゼノーシュも最初は臣下のような振る舞いでディノに対応していたものだ。
けれども、本来はこうして豊穣の魔物のように反応されるのだろう。
擬態を解いて並べば、やはり万象の持つ白に並び立つ美しさはない。
個人的な好みは別としても良い筈なのだが、そんな事を考えることも出来ずにそう思うのが、きっと万象というものの鮮烈さなのだ。
「………ヨシュアさんは、ウィリアムさんからの盾に私を使っているだけですが、ディノもやってみたいのですか?」
「背中に寄り添うだなんて…………」
「申し訳ありません、すぐにどかしますね。ヨシュア、早くそこから離れなさい」
「イーザ、だってウィリアムが睨むんだよ!」
「ヨシュア、終焉の方に失礼なことを言ってはいけませんよ」
「ほぇ、…………そう言えばイーザは、ウィリアムを贔屓するんだった」
「……………ご主人様」
「あらあら、爪先は踏みませんよ?」
「ヨシュアなんて…………」
「では、三つ編みは持ってあげますね。入門手続きを手伝ってくれた、優しい魔物へのご褒美です」
「ご主人様!」
そのやり取りを暫し眺め、エーダリアは、もう一度固まったままの豊穣の魔物の方を見る。
すっかり混乱している様子で、隣ではノアベルトもそんな豊穣の魔物を不憫そうに見ていた。
ネアも気付いたのか、こちらを見る。
「………ディノ、そう言えばジアートさんが目を覚ましました」
「おや、目を覚ましたのだね」
こちらを見た万象の魔物に、鋭く息を飲む音がする。
豊穣の魔物が、我に返ったらしい。
「…………ご、ご無沙汰しております、我が君。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。加えまして、無様な姿をお見せしました」
「ジアート、倒れた影響はなさそうかい?」
その問いかけに豊穣の魔物が瞳に滲ませたのは、どこか幼子が親からの愛情に喜ぶような、無防備な歓喜にも似た表情だった。
エーダリアははっとして、そんな様子を見てしまったことがなぜか後ろめたくなる。
それと同時に、魔物達にとって本来万象というものが、どれだけ慕わしい存在であるのかもあらためて思い知らされた。
「ジアートさんも、コロールでお買い物なのですか?」
「いや、私はコロールの管理する農場で、豊穣の祝福が届かないという要請があったので、その様子を見に来ただけなんだ」
「お仕事だったのですね。ディノ、ジアートさんは、秋告げの舞踏会で川相当のところに落ちた私の手を掴んでくれたんですよ」
「私の、………婚約者を助けてくれて有難う…………?」
「はい。最後の疑問形を私に向けなければ正解です。………ジアートさん、その節はたいへんお世話になりました」
「…………有難う、ジアート」
「婚約者…………?………い、いえ!私はさしたる力にはなりませんでしたから。…………王の、こ、婚約者…………」
豊穣の魔物がまともに喋れるようになるまで少し時間がかかっていたが、祝福が届かないというのは、どのようなことなのかをウィリアムに問われて逆に少し落ち着いたようだ。
「コロールの所有の畑で、作物の成長が妙に遅くなったという問い合わせでして………」
しかし、見に来てみれば、豊穣の魔術が及んでいないというよりは、時間を巻き戻すような魔術の弊害があったのが原因であったという。
町の魔術師や、時間の座の系譜の精霊達にその弊害の解術をさせ、遅れていた成長を助ける為に豊穣の祝福を与えて帰るところであったらしい。
そんな会話が聞こえてくれば、ノアベルトの方を見たくなったが、そこはぐっと堪えた。
恐らくその畑の異変は、この町に豊穣の魔物を呼び寄せたノアベルトの介入によるものだったに違いない。
(このコロールの町の商品や道具は、高位の魔物達も愛用している。この町は、豊穣の魔物に要請をかけられるほどの力があるのだろう…………)
ディノに深々と臣下の礼を取り、ウィリアムやアイザックにも頭を下げてから、とんでもない高位の魔物達の密集地から、豊穣の魔物は去って行った。
ネアがディノの婚約者であることは今日初めて知ったようだが、そこはすかさずウィリアムが、あえて喧伝するようなことはしないようにと釘を刺していたようだ。
ディノ自身が隠してはいないので知られることは構わないのだろうが、周知され過ぎても以前あったような他の魔物からネアが狙われるという事件に発展する可能性もある。
ネアが正式にディノの伴侶になれば落ち着くのだろうが、それまでは警戒もするだろう。
「………さて、そろそろ入門出来そうですね」
「ヒルド…………私は、生まれて初めて豊穣の魔物を見てしまった…………」
「私も、初めて拝見しました。やはり、魔物の方々はその姿にも資質を反映する方が多いですね」
「うんうん、僕もそうだよね」
「あなたの場合は、その魔物としての資質を日々失いつつあるのでは?私の室内履きが一足見当たらないのですが、どこに隠しましたか?」
「ごめんなさい…………」
項垂れたノアベルトを見ながら、再び高位の魔物というものが分からなくなりつつ、エーダリアは共に入門する仲間達と、薔薇の花の咲き誇る門を抜けた。
いよいよ、夢にまで見たコロールの町に入れるのだ。