318. にゃわわしたものでにゃわわします(本編)
秋告げの舞踏会も佳境に入ってきた。
今年の秋告げも波乱含みで、ネア的には営業時間の終了から再開までの一幕と、この会場の川、もしくは湖相当の部分に落下するという一幕があり、すでにこれ以上の事件は受け付けられませんといった具合であった。
(それなのに、指輪を引き当ててしまった…………)
「…………アルテアさん、念の為にお伝えしますが、やはりこのケーキの中の、フォークに触れるとかちゃかちゃするものは…」
「それ以上言うな。どうにかする…………」
しかしながら、最大の難関である秋告げの舞踏会のケーキ問題が迫っていた。
現在近くには指輪を押しつけられそうな相手がいないので、ネアは鋭い目で周囲を見回している。
秋告げの精霊は気体であるばかりか、気に入られると色々面倒臭いと評判である。
そんな秋告げの精霊が、舞踏会の祝福をご自宅への招待にしているあたり、この会場を包む緊迫感も推して知るべしというところであった。
アルテアが魔術でぽいっとしてもいいのであれば簡単なのだが、この指輪に錬成されている秋告げの祝福などを合わせると、アルテアが誰かのお皿やケーキの中にこっそり移動させるにしても制限がかかる。
「アルテアさん、もうここは、アルテアさんの魅力でくらりとさせたご婦人に……」
「やめろ。………移植の魔術をかけても気付かれない系譜だと、白薔薇か、………ジョーイの姿は見えないな。………リザールか、レザートが妥当なところだな」
「お二人とも、今は囲まれてしまっていますね………」
遠くに見える獲物達は、残念ながら周囲に人が多過ぎる。
これでは本人に気付かれずに指輪を忍ばせるのは難しそうだ。
「…………どうにもならない場合は、俺が引き受ける。いいな」
「アルテアさんがお孫さん自慢の餌食に…………」
「そもそも、孫ですらないだろ。今年に生まれた系譜の子供達なんぞ、殆ど他人じゃないのか…………」
「まぁ、お孫さんですらないのですね…………」
ネアはここで、かさかさと音を立てて近くを通った生き物の姿に、おやっと眉を持ち上げた。
昨年も見た謎の生命体のペアで、一体は落ち葉をかき集める用の箒、お相手は木製のピッチフォークのような形をしている。
かさかさしながらもお互いしか見えないように連れだって歩いているので、そんな生き物の手だか柄だかわからない部分に乗ったケーキのお皿はとても無防備だ。
「………………むぅ」
ネアはそこで、目星をつけてケーキから掘り出した指輪をフォークの端っこに引っ掛け、えいやっとピッチフォークの方のお皿のケーキに投げつけた。
すると、優秀な人間の正確な投擲により、金色の指輪はケーキの上の飾りのクリームに綺麗にめり込みまた見えなくなる。
空になったフォークを振ってからにやりと笑い、ネアは残されたケーキに向き直る。
かさかさ組がいなくなってからアルテアの袖を引っ張ると、どこか余裕のない表情でこちらを見たアルテアをそのまま引っ張って屈ませて、その耳元に囁いた。
「指輪は、無事に通りすがりの箒組のケーキに投げ込みました。奴らは気付いていないので安心して下さい」
「……………は?」
なぜか耳を押さえながら怪訝そうにそう眉を寄せたアルテアに、ネアは、どのような素晴らしい動きで指輪を手放したのかを、フォークを使って説明してやった。
「このように、フォークの端っこに引っ掛けて、ぶんと投げつけたのです」
しかしなぜか、褒めてくれる筈の魔物は呆然とした後に呆れ顔になった。
「……………お前な、成功したからいいものの、失敗したら大事になるぞ?そもそも、受け手の側の守護や結界はどうしたんだ」
「……………あのかさかさした生き物に、そんなものが備わっているのですか?」
「お前が腕に下げていたカワセミにも、あの竜にもあった筈だな」
「………………まぁ。儚すぎて分らないのですが、投げつけられて壊れたのでしょうか?」
ネアはそう思うばかりであったが、本当に無事に難を逃れられたのかと腑に落ちない様子のアルテアは、暫くするとネアのその言葉が真実だと理解してくれたようだ。
離れたところで、先程のピッチフォークな生き物が、ケーキの中から指輪が出てきたと大喜びしたのである。
不思議な形状のまま跳ねて喜びを示す農具な生き物に、ネアは、あんなに喜んでくれるのであれば、最初から素直にお願いして渡してみれば良かったと思わないでもなかったが、こうして無事に他者の手に渡ったのであればまずはこちらも喜ぼう。
「アルテアさん、今年も無事に帰れそうですね!」
「お前は、一度無事という言葉の範疇を考え直すんだな……………」
「まぁ、営業時間を終了したことを、まだ引き摺っているのですか?」
「なんでそっちにした」
これでもう、後は美味しくケーキをいただくだけなので、華奢なフォークでふかふかとした蜂蜜入りのスポンジを切って、栗のクリームたっぷりのケーキを頬張ると、ネアは喜びに弾んだ。
(美味しい…………!!)
甘さが控えめに作られているケーキは、あの楓の森でのひとときの冒険をした体に甘く染みわたる。
指輪が埋め込まれていたと思うと少し複雑だが、まさか手で押し込んだ訳でもないと思うので、ネアはあまり気にしないことにした。
「弾むな…………」
「今日のアルテアさんは、これ以上私から美味しい喜びを取り上げてもいいのですか?」
「弾む以外にも表現のしようがあるだろうが。お前のドレスの場合、背面も駄目だからな」
「ちょっと言われていることがよく分りません………………」
ネアは仕方なく、美味しい栗のケーキを頬張って、その喜びを示す為にフォークをお皿に置いてから、アルテアの腕をばしばし叩いた。
それであれば構わないようなので、本日はそんな運用が施行される。
通りかかってアルテアに会釈した男女が、人間めにとても叩かれているがいいのだろうかと視線で問いかけ、アルテアは渋面のままこくりと頷いた。
「むふ。美味しいれふ」
「…………フォークを伸ばすな。そっちに移してやる」
「ふふ。食べないものは、私に献上するが、使い魔さんの定め」
「…………やれやれだな」
祝福のものだからと少しは食べたようだが、もうお腹がいっぱいなのかアルテアが手をつけなかったケーキの半分も、ネアは無事に手に入れる事が出来た。
幸せにそんなケーキを頬張ると、食べきれずに乙女に押し付けたとばれたら恥ずかしいとネアに早くケーキを食べ終えさせようとしたのか、お皿に残っているものをアルテアからもフォークでお口に押し込まれる。
しかし、すぐに美味しいケーキのお皿は空っぽになってしまい、ネアは会場を回って空いたお皿を回収している秋告げの精霊の従者のお盆に、掬い取るクリームもなくなったお皿を返した。
少し甘いものを食べると今度はしょっぱいものが欲しくなるのは人の世の常であり、ネアは、またしてもお料理のある方をじっと監視する。
「他にも食べるのは勝手だが、帰ったらパイ包みを作るんだろ?」
「むぐ!その分のお腹は空けておくので安心して下さいね。このドレスだと、八分目までも食べられないので、程よくパイの棲み家は残してありますから」
「ったく………………」
遠目で見て幾つかの料理に目星をつけてうきうきと足踏みをすれば、面倒臭そうにしながらもアルテアはお料理テーブルの方まで一緒に来てくれた。
ちらりと、また踊り始めた会場の中心の方を見ているので、こちらの魔物は食べるよりも踊りたいのかもしれない。
ネアはここは歩み寄ってあげることにしようと密かに考えながら、お皿の上に残っていた料理の中から小さな一口パイの中にホワイトソースと鳥団子のようなものが入ったものと、フォアグラのようなもののパテに小さな木苺の粒が乗っかった小さな前菜を取り、ぱくりと口に放り込む。
どちらも濃厚で美味しい系の一口料理なので、質量というよりは心が満たされる一品だ。
その後は、きのこのソースのかかった小さな秋鮭の蒸し物をいただき、ネアは秋鮭の精霊への感謝を噛み締めた後、ナプキンで口元を拭う。
そうして細長いグラスに入った、シュプリと見せかけて実はとんでもなく強いものであるらしい妖精のお酒を飲みながら待っていてくれたアルテアに、じゃじゃん!と準備万端な姿勢を見せた。
片方の眉を持ち上げて無言でこちらを見返したアルテアに、ネアはくるんと回ってみせる。
「……………やめろ」
「まぁ、アルテアさんが踊りたいのなら、一曲お相手しますよの合図なのですが…………」
ネアが勝手に回らないように肩を押さえてこようとしていた悪い魔物は、そんな言葉に驚いたように目を瞠った。
無言でじっとこちらを見た赤紫色の瞳の鮮やかさは、秋告げの舞踏会の会場から落とされて見た楓の森のより、深く艶やかで強い。
ネアには系譜などの区別をつけ難いものも多いのだが、明確に違う区分の生き物だと分かる、そんな色の持つ力を感じる。
「言っておくが、それで取り引きはしないぞ。何か問題を起こしてないだろうな?」
「なぬ。失礼な疑いをかけるのはやめるのだ。アルテアさんがダンスの輪を見ていたので、もう一曲踊りたいのかなと思ったのです。今度は私にお料理を食べさせてくれたので、そのお礼と言えばお礼なのですが………」
「ほお、俺への対価にするなら、それなりに踊ってみせろよ?」
ふっと、赤紫色の瞳を眇めて、アルテアは魔物らしく微笑んだ。
ネアはちびふわで言うならご機嫌でててっと輪を描いて走るようなものだなと思い、正直ではない魔物の為に手を伸ばす。
「アルテアさんこそ、張り切り過ぎてステップを間違えないようにして下さいね」
「有り得ないな」
伸ばされた手に指先を預け、ゆっくりとダンスの輪に加わる。
ふわりふわりと翻るドレスの艶やかさに、微笑み合い踊る美しく煌びやかな生き物の群れ。
そんな中には、先程の箒とピッチフォークなカップルや、初めて見るようなこんがらがった赤茶色の毛糸の塊のような謎のもじゃもじゃ生物など、ただの舞踏会では有り得ないような生き物達も混ざっている。
秋の系譜らしい色鮮やかな妖精の羽と、竜らしき者達の角が遠くに見えた。
踊る人々の向こうには、無事にご婦人方の猛攻を乗り切ったのか、連れの女性と談笑しているシェダーの姿もある。
踊りながら、まるで睦言でも囁くかのようにアルテアがネアの耳元に言葉を落とす。
「…………そう言えば、今日は俺から離れないようにするんじゃなかったのか?」
「むぐる。ご主人様を営業終了に追い込んだ話を、もう一回するのでしょうか………………」
「橋の魔術から落ちたことの方だな。ああいう時は、迂闊に手を出すな。どんな生き物だろうが、お前よりはどうにかなる」
「目の前でこてんとなったので、我慢出来ませんでした。………でも、私には私の大切なものがたくさんあるので、ディノや皆さんを悲しませないように、出来るだけ迂闊なことはしないようにしますね」
「…………どうしてもという場合は、俺に言え。いいな?」
(あら、…………)
そんな言葉を、ネアは新鮮な気持ちで聞いた。
こんな気質の魔物である彼が、自分には関係のないことであっても、ひとまずその話を受け止めてくれるというだけで、どれ程の譲歩だろう。
ふっと翳った視界に視線を持ち上げると、それもダンスの一環であるかのようにアルテアに自然に口付けられる。
家族相当の祝福を当たり前のようにくれるようになったのも、自分もその領域に入ってきたのだという控えめなメッセージなのかもしれない。
(このまま行けば、老後はお庭で白けもの!そして、ずっとアルテアさんの美味しい料理が食べられるかもしれなくて、いつか模様替えをするようになっても相談に乗って貰えるし、こんな風に一緒に季節の舞踏会に行ってくれるかも。それに、ディノにとって頼もしいお友達としても、森に帰らずにいてくれるかもしれない!)
それが分れば、また一歩この酷薄で気紛れな魔物に近付けたようで、ネアは嬉しくなった。
この雰囲気であれば少しだけ甘えてもいいだろうかと、ネアはとっておきのお願いを切り出してみる。
声を抑える為に体を寄せると、こちらを見たアルテアが、ひどく愉快そうに微笑みを深くした。
しかしながら、寄り添った方が甘えではなく、これから伝えることが甘えなのだ。
「では、………………また今度一緒にアルビクロムに行ってくれますか?」
「………………は?」
「何度記憶を辿っても、前回の訪問で紐や縄なあれこれをしっかり監修して貰った記憶がないのです。栞の魔物さんの祝福について、専門家の方に私の方法で問題ないかどうか見て貰うつもりだったのですが、私は、うっかり忘れてしまったようですね…………」
持てる現戦力で通じるのかどうか。
一番確認するべきことであったので、ネアはそんな自分の迂闊さを、なかなかアルテアやウィリアムに言い出せずにいた。
(でも、今ならまた一緒に行って欲しいって言えるかもしれない!)
そう考えて切り出したのだが、なぜかアルテアは、そこでステップを踏み違えた。
こてんと首を傾げたネアを、先程のターンより雑に振り回し、なぜかとても遠い目をしている。
「…………アルテアさん?何というか、踊り方が大変乱れてきましたが…………」
「あの梱包妖精の屋敷で、お前は何か受け取らなかったか?」
「……………受け取る?………というと、変態に至る心の動きや、そのような嗜好を持つ方の精神についての教えでしょうか?」
「………………そうだな、それなら紫色の縄で何かしなかったか?」
低く慎重な声でそう尋ねられ、ネアはむぐぐっと眉を寄せた。
(紫の、縄…………?)
心の中にまたしても最近よく見かける不思議な扉が現われ、その扉の隙間から紫色の紐のようなものがはみ出している。
(これは、何なのかしら……………?)
不思議に思ってその紐をえいっと引っ張ると、ぱかりと記憶の扉が開いた。
その直後、今度はネアがステップを乱した。
しかしながら、殆ど無意識でも踏めるところであったので、幸いにも間違えるには至らない。
「にゃ、にゃわしではありません……………」
「よし、思い出したな。いいか、二度と忘れるな。縛られ損だけは御免だぞ」
「む、紫のにゃわ。……………にゃわわなアルテアさん…………」
「…………やめろ。それと、もう一度あの練習をしたいなら、他に誰もいない時にだ。二度と晒し者になるつもりはない」
「にゃわわ…………」
ネアは、封じたままでいたかった記憶が蘇ったショックで呂律が回らなくなり、そんなネアを連れてアルテアは、すっかり弱ってしまった人間を、ケーキなどがあるテーブルに導いてくれた。
偶然その場に居たシェダーが、不思議そうによれよれのネアを見る。
「ネア、何かあったのか?」
「ふぐぐ。にゃわわなのです…………」
「よし、お前は少し落ち着け。………無花果とホワイトチョコレートのケーキだ。これでいいな」
「むぐ?!お口の中に、突然美味しいなにやつかが飛び込んできましたよ!」
ネアは命の甘味をいただき、紫な縄な苦悩の記憶からようやく立ち直った。
気遣わし気な声をかけてくれたシェダーには、あらためて生還者の目で頷く。
「シェダーさん、お気遣い有難うございました。しかしこれは、私に課せられた試練なのです。きっと素敵に乗り越え、アルテアさんなどは手早く縛れるように…むが?!」
ここで再び、今度は葡萄の一口ショートケーキをいただき、ネアは会話の途中の餌やりはいけないと、気の早い使い魔を窘めなければならなかった。
「そういうことなら、君なら乗り越えられると信じていよう」
何を試練としているのかは言わなかったが、察しのいいシェダーは、それ以上追求するようなこともなかった。
頑なに自分の方を見ないアルテアにくすりと笑い、ではと言って、ネアがお友達になりませんかと声をかけようとしていた銀色の髪の女性と一緒に歩き去ってゆく。
恐らく、少しの間だけ二人で飲み物を飲んで休んでいたのだろう。
歩いてゆく先ですぐに誰かに話しかけられ、楽しそうな輪が出来た。
「もう踊らないのか?」
シェダー達を見送ったネアにそう声をかけて来たのは、先程くしゃくしゃになって立ち去った筈の夜葡萄のシー、レザートだ。
露骨に嫌そうな顔をしたアルテアに、レザートはおやっと愉快そうな目をする。
鮮やかな紫色の瞳には、どこか弄うようなしっとりとした輝きがある。
多少なりとも警戒せねばならない妖精だが、カワセミは狩れないらしいので所詮敵ではない。
「にゃわわしたので、休憩していたところです」
「にゃ、…………わわ?」
「穏やかな暮らしを望む方は、決して触れてはいけない禁断の扉ですね」
アルテアには会話に応じる気配がまるでないので、ネアはそう教えてやった。
こんな美しい妖精だが、お酒に纏わる系譜の妖精でもあるので、いつそちらの扉を開いても不思議ではない。
「アルテアに飽きたのなら、俺と踊らないか?」
「……………まぁ」
ネアはダンスに誘われてしまったと、本日の保護者なアルテアを振り返る。
ぐっと瞳を細めて不快感を示したアルテアは、いつもとは違う髪型のせいかその凄艶さも少しだけ色を変える。
剣呑な瞳のまま、暗く深く微笑んだ。
「ほお、正面から人のものに手を出すとは、いい度胸だな」
「君であれば、連れの一人や二人にさしたる執着もないだろう。それとも、この子は特別なお気に入りで、誰にも渡したくないのか?」
こちらも微笑みを深めてそう尋ねたレザートは、この天邪鬼な魔物が、そこまでの執着を見せることを厭い、ネアを差し出すと思ったのだろうか。
だがアルテアは、ふっと笑うと僅かに首を傾げる。
「かもしれないぞ?お前に差し出すつもりは勿論、貸してやるつもりも触れさせるつもりもない。さっさとどこかに行け」
「ふうん。…………俺と彼女は、先程まで君のいない場所で苦難を共にした。彼女の気持ちが変わっていることもあり得るが」
「……………だそうだが、どうなんだ?」
「遭難慣れしていなくて、つぶつぶしていません。そして何より、カワセミも狩れませんので…………」
「…………え」
「…………お前の選考基準には、狩りも入るのかよ」
「好意を持つ相手の必須条件ではありませんが、好意という程までのものがない場合は、尊敬や憧れなどを持ってその方とより多くの会話を持ちたいと思うこともあります。………その、レザートさんはつぶつぶしていませんので、………狩りなどがお得意ならばそんなお話も聞きたかったのですが…………」
目の前の人間の制定したとても残酷な線引きを知り、レザートは一瞬、途方に暮れたような目をした。
けれどもまた、すぐに妖艶とも言えるどこか示唆的な眼差しをこちらに向けた。
「そんなものよりも、もっと魅力的で愉快な時間を与えられるかもしれない」
そう微笑んだレザートに、アルテアがステッキを取り出す前に、ネアは他人として湛える微笑みで口角を上げ、ダンスの申し込みのように丁寧にお辞儀をした。
「せっかく誘って下さったのに、ごめんなさい。つぶつぶしていないにせよ、レザートさんはとても綺麗な妖精さんで、一緒に踊れる方はきっと幸せでしょう。けれど私は、何か身に持つ含みの為に、引っ張って遊ぶ玩具にされるのはご免なのです。お断りさせて下さいね」
微笑んでそう伝え、真っ直ぐにレザートの目を見れば、どこかはっと息を飲むような、それでいて老獪に成る程と笑うような、そんな気配を感じた。
機嫌を損ねるかと思った夜葡萄のシーは、ふっと微笑みを深めて、残忍に愉快そうに唇を歪める。
それはまるで、獲物を見付けた猫のような表情だった。
「…………これは、面白い」
「……………おい、また妙なものを懐かせるな」
「なぜに叱られたのでしょう。きっぱりお断りしましたよ!」
「断り方に難ありだな。失点だぞ」
「むぐぅ。かくなる上は、この会場を出た後で闇討ちし、この世から抹消するしかないのでしょうか?もしくは、にゃわわしたら記憶がなくなるかもしれません」
「……………それはやめろ。それだけは、絶対にするな。いいな?」
「……………もし、大喜びだったら、新しい患者が増えるだけですものね」
レザートは、この二人が陰惨な目で語るにゃわわとは何だろうと、どこか訝しむような目をする。
「あらためて、君と踊りたいのだと誘ったら、この手を取ってくれるだろうか」
「であればとお答えしたいところですが、私は身内至上主義なので、お隣のアルテアさんが拗ねてしまうのでやめておきますね。もし、一緒に来られた方が行方不明なら、有志を募りましょうか?」
「一緒に来た妖精は、気が合わなかったんだ。今頃は、秋絡まりの胃の中かな」
「秋、…………からまり?」
お相手の女性が食べられてしまったということよりも、ネアはその名称の生き物は何だろうと首を傾げた。
視線でレザートが示したのは、先程から何者だろうと気になっていた、絡まった毛糸の塊のような赤茶色の塊だ。
「…………絡まっていますね。あの糸をちょきんと切って差し上げたら、すっきりするのでは?」
思わずネアがそう言った途端のことだった。
なぜかレザートは、ぎくりとしたように表情を強張らせるとその秋絡まりの方を見ている。
ネアもつられてそちらを見てみたところ、毛糸の塊な生き物は、どうやらこちらを見ているようだ。
慌ててその軌道から体をずらしたレザートだけでなく、なぜか近くに居た者達も体を竦め、そそくさとネア達の周囲から離れてゆく。
(もしかして、解いて欲しいのかしら………?)
そう考えたネアは、秋絡まりの視線から遮るようにすっと前に重なって立ったアルテアの影から、アルテアの背中に隠れて金庫から取り出した鋏を持ち、じょきじょきさせてみた。
すると今度は、こちらを絡まった部分を切って欲しそうに見ていた秋絡まりが、びゃっと飛び上がって逃げてゆくではないか。
「…………おい、今度は何をしたんだ」
「むむ。あの絡まった毛糸さんの絡まりを大雑把に………とても速やかに解消するべく、鋏を見せてあげました!」
ネアがそう言って、澄んだ水色の鉱石で出来た美しい鋏をじょきじょきさせれば、アルテアは途端に疲れたような顔になる。
「…………その鋏は何だ」
「以前の海遊びで拾った、人魚さんの縁切りナイフを、鋏の魔物さんに鋏に作り直して貰ったものなんです。二本のナイフを使っていますので、威力は二倍ですね!」
「…………それでだな。お前は、あの種の生き物の派生の理由や成り立ちを考えてみろ」
「…………む?」
ネアが手に持っていたのは、人魚の貴族が持つ自身の悪縁を切るナイフな拾得物を、鋏に作り直したものだ。
いざという時にナイフは切るのが難しく、悪縁やその他の厄介な魔術などはなかなかに頑固な強度を誇る場合もある。
実際に、ネアがそのナイフの一本をあげたヴェンツェル王子が、自身の悪縁を切ろうとした際に、魔術の縁の糸を切るのが意外に難しく、つるんと表面を滑ってしまい危うく切り損ねるところだったという話を聞いたのだ。
そこで、ノアの提案で鋏に作り直し、その際に循環の魔術などを重ねて得られる効果を少し変えて、いつでも使える万能鋏に進化させた。
酷い悪縁などをばっさりと切る程の一回限りの大きな力は失われたが、それでもかなりの縁切りや呪い絶ちの力を残した恒久的に使える鋏の誕生である。
いつもはエーダリアに保管して貰っているのだが、今日はネアの方がと持たされている。
(派生の理由と、成り立ち…………?)
むぐぐっと眉を寄せたネアに、アルテアは、秋絡まりは、秋になると冬物がまだだったと焦って編み物をする人々にとって、一番腹立たしい絡みが解けない毛糸というものから生まれたことを教えてくれた。
つまり、その絡まりが解かれてしまい、しかも縁切りの鋏などで処置されようものなら、秋絡まりにとっては致命傷なのである。
おまけに、糸と糸が絡むことで生まれた秋絡まりは、その絡まりの縁を絶たれてしまうと、治癒なども難しい。
ネアが取り出したのは、秋絡まりにとっては最も恐ろしい身を滅ぼすものであったのだ。
「ほほう。では、この鋏があれば、先程のもじゃもじゃさんは一撃…………」
「認知率が高い高位の妖精だ。気軽に滅ぼすなよ?」
「むむ。…………じゃきんと」
「試し切りも禁止だ。………だがまぁ、ぎりぎり悪食ではないが、同族を喰らう秋の系譜の中でも獰猛な存在だからな。何かされた場合は、それで応戦しろ」
そう聞けば、ネアは、だからあの毛糸の塊がこちらを見た時、周囲の人々がさっと姿を消したのかなと思った。
もしかしたら、善意の提案だったとはいえ、何も知らずに口にしてしまったネアの発言の不穏さに、秋絡まりは少しばかり鋭い視線を向けたのかもしれない。
(だから、レザートさんも…………)
そう考えて頷いていたネアは、アルテアが逃げ去っていった秋絡まりを警戒して会場の奥の方を見ている間に、すっとこちらに手を伸ばしたレザートの影に、目を瞠った。
「それは良いものだな。俺が貰っておこう」
レザートは、主に人間の信仰を最も多く集める高位の妖精である。
もしかすると、そんな感覚から当たり前のようにネアの持つ鋏をひょいと奪おうとしたのかも知れない。
それはレザートにとっては略奪ではなく、手を伸ばされたネアからしても、とても自然な行為に感じられた。
しかし、ネアはとても強欲な心の狭い人間で、自分の持ち物をよく知らない人にひょいっと奪われるのは絶対に許せないのである。
「なにをする!」
鋭くそう威嚇し、ネアはなぜ声を荒げるのだろうと目を丸くした夜葡萄のシーを、そのままえいやっと片足でひっくり返してしまった。
ばたーんともの凄い音がして、蝕対策もありあれこれ凶悪な仕掛けを施されたネアの靴で技をかけられたレザートは、呆気なく床に伸びてしまう。
「…………ほわ、死にました」
「…………お前は、何で隣にいても目を離しただけで、問題を起こすんだろうな」
振り返ってそうやって苦々しく言うくせに、なぜかアルテアは上機嫌だ。
ネアは床に伸びてしまった夜葡萄のシーが荒ぶらないよう、鋏をしまいながら取り出した緑の縄でささっと拘束し、この悪者はか弱い乙女の持ち物を取り上げようとしたのだと、会場管理を司る秋告げの精霊の従者に預けておいた。
「……………何であの結び方にしたんだ」
「む?」
「いいか、運ばれていくレザートをよく見てみろ」
「……………にゃ、にゃわ………わ……………」
その腕はとても特殊な縛り方でまとめられ、緑の縄が艶々輝いていた。
秋告げの精霊の従者たちは高位の妖精な参加者をそんな風に梱包されてしまいとても困っていたが、ネアはアチェロを捕まえてくれるので、特別措置でレザートを受け取ってくれたらしい。
レザートを縛ってあった縄は、魔術の縁が出来るといけないからと、その騒ぎを見ていたシェダーが、抜かりなく回収してきてくれて、魔術拘束と交換してくれた。
戻ってきた縄は、アルテアはレザートを縛った縄なんぞ捨てろとご立腹で、魔術で綺麗に燃やしてくれている。
ネアは、案外にゃわわしたものは自分の管轄だという誇りが芽生えてしまったのかなと、荒ぶる使い魔を生温い眼差しでシェダーと見守ったのだった。
なお、意識を失っている間に、レザートは、またしても秋告げの精霊王のお宅に招待されてしまっていたらしい。
そこからの五日間は夜葡萄の生育に陰りが出たと、ネアは、葡萄畑を所有しているらしいアルテアに、後日文句を言われたのだった。