就寝準備とご褒美の怪
ディノは、入浴時間の長い魔物だ。
ネアが教えた香りのいい入浴剤を放り込んだお湯に浸かって、のんびりと過ごすのが好きらしい。
なぜか、毎回入る前にちらりとネアを見てから浴室に入ってゆくので、いつ髪の毛を洗ってくれると言うかわからないと考えている節もある。
少しがっかりして浴室に行く後ろ姿を微笑んで見送りながら、ネアは困った癖をつけてしまったなと考えていた。
あれはあくまでもご褒美だと理解して欲しい。
そしてお風呂上がりには、またしてもこちらにいそいそとクリームを持って寄ってくる。
なぜか入浴前のネアに塗り込もうとするので、先にディノに塗ってやってから、ネアは浴室に逃げ込むようにしていた。
そしてその日、とうとう事件が起きた。
「ネア」
「こらっ!」
まさかの罪悪感なしで、淑女の入浴中にさらりと入ってきたディノに、ネアは驚くよりも先に叱ってしまった。
そんな自分の優先順位に天井を仰ぎ、とりあえず浴槽に沈み、乳白色のお湯に全力で感謝した。
「ネア、どうしたんだい?」
「入ってきたので叱ったんです!すぐさま立ち去りなさい!」
「呼ばなかった?」
「そういう言い訳は犯罪者の手法です!私は、浴槽で伸びをしただけですよ」
言いながらふと、伸びをした際に意味不明な言葉を発したことを思い出した。
特に意味はなく、口から溢れた音を吐き出しただけだったが、それを聞き間違えたのだろうか。
「…………もしかして、気持ちよく伸びをした際に上げた声を、悲鳴か何かだと思いました?」
「呼ばれたのかと思ったよ」
「むぅ。…………誤解であれば仕方ないので、お帰り下さいね」
もう大丈夫だとわかった筈なのに、浴槽の横にしゃがみ込もうとしたので、ネアは、渋々腕を持ち上げて浴室の外を指し示す。
このような場合は速やかに立ち去るべきだと、もっと早く教えておくべきだったようだ。
「髪の毛を洗ってあげようか?」
「私は自分で洗う派です。そして、即刻ここから立ち去りなさい」
「でも、ネアがまた、私の助けが欲しくなるかもしれないしね」
「昨日までの功績を認めて下さい。一人で充分に戦い抜けますからね?」
「ネア、髪の毛が濡れてると可愛いね」
「おのれ、消え失せるのだ!」
ちょっとした攻防戦の後、ようやくディノを追い払ったネアは、疲労困憊して浴槽にぶくぶくと沈んだ。
魔物がいなくなってから鏡を見たら、頬が真っ赤になってしまっている。
湯あたりと羞恥で悔しさが募ったので、これはみっちり教育をしなければと戦略を練り、重ねて湯あたりしてしまったくらいだ。
結果として、入浴の時間配分を間違えた乙女が、湯上りにそのままくたりと伸びていると、こちらの部屋に押し入ってきた魔物が、心配そうにネアを覗き込んでいる。
折良く長椅子で死体になっていたので、死者に鞭打つとはまさにこのことだろう。
「ネア、髪の毛を乾かさないと体を冷やすよ」
「その力を奪った悪いやつに、言われたくありません」
「乾かしてあげようか?」
「不法侵入の罰を与えます。是非に乾かして下さい…………」
許可を得た魔物ははりきり、ネアの髪の毛を乾かしてくれた。
一瞬で。
「ディノ、この素敵な技術は何ですか?」
水分が奪われ過ぎることもなく、素敵な乾き方だ。
さらりと指通りも良く、髪の毛の表面は潤っている。
驚いたネアは、飛び起きて魔物に詰め寄ってしまった。
「魔術で、髪を濡らしている水を取り上げるんだよ」
「もしや、………ディノはいつもこうしてるのです?」
そう聞くと、ディノは少しだけしまったという顔になった。
「でも、私はネアに乾かして貰うのが一番好きだな」
ネアが乾かす時には、タオルでわしわし乾かしているので時間がかかる筈なのに。
「でも、あれでは時間がかかるので煩わしいでしょう?」
「ネアは、……………煩わしいのかい?」
「そうですね。自分の髪の毛を乾かすときに、時々試合放棄したくなることはあります」
「じゃあ、今度から乾かしてあげようか?」
そう提案したディノを、ネアは何とも言えない顏で見上げた。
魔物はドライヤーではないのだが、今までに、ここまで魅力的な提案が果たしてあっただろうか。
髪が早く乾けば、睡眠時間がそれだけ伸びるのだ。
「……毎回頼ると、私は駄目人間になってしまいます。しかし、時々頼るとなればやぶさかではありません」
つい、悔しげな顔になってしまった。
一人で生きていけると信じていたのに、やはり世界は残酷であるらしい。
何しろこちらの世界には、ドライヤーが存在しないのだ。
「じゃあ、その時は髪の毛乾かしてくれる?」
「おかしいです。睡眠時間が増えずに減りました…………」
「睡眠時間?」
ディノの髪の毛を乾かすとなると、自分の作業より遥かに時間がかかるではないか。
量も多いし、どうしても丁寧にやりたいからだ。
それは無効だと却下しようとしたら、ディノがとても綺麗な目でこちらを見ていることに気付いた。
これはまず間違いなく、却下すると拗ねるやつだ。
「………では、時々はそうしましょうか」
「そうしよう。でも今日はもう、私の髪は乾かしてしまったから、他のことをして?」
「決して報酬を取り零さないタイプ……」
髪を乾かして貰ったネアは、再び長椅子に沈んでいる。
どちらにせよ、湯当たり中だ。
「一緒に寝るかい?」
「……ディノ」
添い寝はとっておきのご褒美かつ、ネアが一人で寝る状態に不安を感じたときの施策だ。
それはならぬと切り捨てようとしてふと、ディノは体温が低いことに思い当たる。
そしてもう、ぐったりしているネアには、攻防戦を繰り広げる体力はない。
敵は、上手くネアの体力を削いだのである。
「……特別の特別ですよ?お隣に同席することを許します」
負け戦には違いないので不満そうに言いながら、もそもそと立ち上がり寝台に移動する。
恐らく、この意識は残り数分しか保たないだろう。
這うように移動したネアを気遣い、ディノは毛布や枕の位置を整え直してくれるので、相変わらず優しい魔物ではある。
髪をどうこうする余裕もなく倒れ込んだネアに気付き、頭を持ち上げて髪の毛を上手くまとめてくれた。
もはや介護だ。
「…………疲れてしまったのだね」
「ふぁい……………」
微かに息を吐く微笑みの気配。
そんなものをぼんやりと感じながら、ネアは早くも目が開かなくなりつつある。
隣に滑り込んだディノに、額と頬に口付けられ、もにゃりと擽ったい気分になると、子供の頃に母親に甘やかされた記憶が蘇り、心が淡く震えた。
しかし、何度もちょっかいをかけてくるので、ネアは一度、手負いの獣のように暴れた。
魔物はそそくさと撤収したので、これでようやく引き分けとしよう。
その日から、ディノは時々浴室に襲撃をかけるようになった。
そうすれば、一緒に寝れると謎のインプットがされてしまったらしい。
魔物の躾は決して手を抜いてはいけなかったのだと、ネアは今日も渋面で指導にあたる。
「いいですか、入浴中には明確な救助要請が無い限り、決して侵入してはいけません。いいですか、“助けて”という言葉がない限り、絶対にいけませんよ」
そこでふと考えた。
もし、本当に入浴中にトラブルがあった場合、明確に助けてと叫べるだろうか。
「……もしくは、ディノの名前をきちんと呼んだ場合です」
授業は往々にして長くなる為、ディノはまた一つご褒美を学んでしまった。
入浴前にはたくさん構って貰えるらしい、と。
そしてネアは今日も、疲れ果ててお風呂に入る。