316. 本日は営業を終了しました(本編)
「ふにゅ。パイ…………パイがない…………」
ネアは、ダンスが漸く終わり、意気揚々とお料理のテーブルに近付いたところで、お目当のお皿が空っぽになっていることに気付いてしまった。
ふるふると体を震わせながら、さっと振り返れば、アルテアは悪びれずになくなっていたかと言うだけだ。
怒りと悲しみに打ち震えるネアに、通りすがりのダイアナがびくりと体を揺らしている。
立ち昇る怨嗟の気配を感じ取ってしまったのだろう。
「わ、私は言いました。あのパイはとても大事なのだと!なのになぜ、五曲も踊っていたのですか!!四曲目で私は、ちょっとやめ給えという気配を醸し出した筈なのです!」
震える声でそう詰問するネアに、何だ何だと周囲の者達が視線を向ける。
痴話喧嘩かなと野次馬気分で振り返った秋告げの舞踏会の参加者達は、相手が人間対魔物の第三席の、おまけに食べ物を巡る論争だと知ると、どうしていいのか分からずにおろおろした。
その結果、立ち去ることも出来ずに、困惑して固まる人外者達の集団が出来てしまう。
「どうせ前回のものと同じだろ。また今度作ってやる」
「私は、この秋告げの舞踏会で食べる予定だったのです…………。あんなに最初から自己主張したのに、アルテアさんはダンスではしゃぎ過ぎでした………」
「やれやれだな。誰の為に守護の補填をかけたと思っているんだ。早々に秋告げの魔術を踏み固めておいた方がいいだろうが」
そう言われてしまうとネアはうまく反論出来なくなり、じわっと涙目で俯く。
するとアルテアは珍しく困惑したような顔をして、そろりとネアとの距離を詰めた。
近寄られて翳った視界の中に、こちらに伸ばされる手が見える。
ダンスの時から外していた手袋はなく、小賢しくも、ネアの秋告げの舞踏会で食べたいグルメの第二位をいつの間にか手にしていた。
「ほら、グラタンも食べるんだろう?」
「…………むぎゅう。おのれ策士め。食べまふ」
「こっちはどうだ。パイ生地だぞ」
「パイ生地…………。むぐふ。中に鶏肉のお団子が入っていて美味しいれふ。…………むむ!あちらのテーブルにも、葡萄とチーズのパイが」
「あれはやめておけ。…………ほら、こっちにお前の好きな栗のパイもあるぞ」
「しかし、あちらのテーブルには、美味しそうな燻製した鮭とじゃがいものミルフィーユ仕立ても…」
「こっちにしろ。ローストビーフは好きだろうが」
その流れで、ネアはとうとう気付いてしまった。
アルテアはなぜか、頑なにとある一つのテーブルの料理だけを回避させてくるのだ。
試しに、お口に入れて貰った栗のパイをもぎゅもぎゅしながら、鋭い目で問題のテーブルを見ると、さっと視界を遮る魔物が現れるではないか。
「見抜きましたよ!なぜかアルテアさんは、あのテーブルのお料理から私を遠ざけます」
「気のせいだな」
「私は、あのテーブルにある葡萄とチーズのパイと、鮭とじゃがいものミルフィーユ仕立てを食べたいのです。道を開けるのだ!」
拳を握ってそう主張したネアに、アルテアが何かを言いかけた時だった。
「おや、私の料理で良ければ」
怒涛の展開に息を飲む観衆達の隙間から、ネアにそう声をかけてくれた人がいた。
どうやら、この騒ぎを知らずにこちらに歩いてきて、うっかり参加してしまったらしい。
はっとしてそちらを見たネアは、先程紹介してくれた女性と一緒に立っている、蕩けた黄金のような目をした豊穣の魔物に出会う。
「ほわ…………ジアートさん?」
「あちらのテーブルは、お恥ずかしながら私の料理なんですよ。豊穣を司る者として、必ずテーブル一つ分は秋の系譜に料理を振る舞うしきたりですからね」
「ジアートさんが手作りで?」
「ええ。料理が趣味でして」
「アルテアさん、あのお料理は、ジアートさんが…………」
思いがけない料理人の登場に驚いたネアがそう振り返ると、目が合ったアルテアはなぜか苦々しく顔を歪めた。
「…………だろうな」
「…………知っていたのですか?」
「豊穣からの振る舞いは、秋告げの決まり事の一つだ………」
「……………アルテアさん、私はとても勘が鋭いので、少し気になることがあります。…………まさか、私の憧れのパイ包みが売り切れるまで踊ったのは……………」
「そんな訳ないだろうが。気の所為だ」
ここで、怒りにどしんと足踏みをしたネアに、ダイアナの後ろからこちらの様子を見ていた秋鮭の精霊がぴゃっと飛び上がる。
「今の微笑み方はわざとの時のやつです。計画的に、私からパイ包みを取り上げましたね!!」
「………さあな」
「私が、今更アルテアさんの表情を見誤るでしょうか。計画的な犯罪であることは明らかになりましたし、もう言い逃れは出来ませんよ!」
「………ったく。そんな事でかりかりするな。ほら、これでも食ってろ」
「むぐふ。…………む。これは、豚肉と謎野菜な香辛料煮込み…………美味。…………は!た、食べ物では誤魔化されませんよ!……前にも言いましたが、私からお気に入りの食べ物を取り上げるなんて、到底許されることではありません!万死に値します」
そこでアルテアは、腕を組んで呆れたような眼差しでこちらを見た。
盛装姿で立てばそれは美しく、騒ぎ立てる連れの女性に困らされる男性のようなその余裕のある酷薄な微笑みに、周囲の男性陣も愛想笑いをする。
そんな観衆を味方につけた姑息さに、ネアはこの人間にも備わっていた包容力なるものが、かさかさに枯れてしまうのを感じた。
「…………本日の営業を終了します」
「…………は?」
地を這うような低い声でそう言ったネアに、アルテアだけでなく、外周の野次馬達も眉を顰める。
「ご主人様としての、本日の営業を終了します。もう、パイ包みを奪う意地悪な魔物さんとはお喋りしません」
「おい…………」
暗い声でそう宣言したネアに、困惑の声でアルテアが呼びかけたが、心の狭い人間はぷいっとそっぽを向いた。
ずる賢い使い魔はご主人様の好きそうなものばかりを並べた取り皿を差し出してきたが、パイ包みの恨みで百代祟るかもしれないくらいに怒り狂っている人間は、唸り声を上げて後ずさる。
(でも、蝕の問題もあるから、営業終了後とは言え、別行動は出来ないのが難点…………)
それでは、いまいち怒りを伝えきれないとむしゃくしゃしていたネアは、アルテアが近付くと唸るくらいのことしか出来ないか弱い自分が情けなくなった。
しかし、パイの神はそんな哀れな子羊を見捨てる訳もなく、そこにはすぐに救いの手が差し伸べられたのである。
「ではこちらで一緒に飲まないか?」
そう声をかけて来たのは、このままではまずいのではと気を遣ってしまった、これまた通りすがりの魔物である。
なお、ジアートは少し離れたところで、ダイアナとリザールから事の経緯を聞かされて青ざめていた。
まったくの無実なのだが、自分の料理がこの戦の火種になったのだから無理もない。
ネアは声がした方を振り向き、灰白に白まだらの髪を持つ、一人の美しい男性の姿を見付けた。
「まぁ、ロサさん!お久し振りです」
「…………アルテアと喧嘩をしたのか?」
「まぁ、それはどなたですか?」
「ネア…………。その、それはあまりにも…………」
「本日は営業を終了したので、私には使い魔さんはいません」
そんな返答に困ったように息を吐いた白薔薇の魔物は、近くのテーブルで一人で妖精のお酒を飲んでいたようだ。
緑色のシロップのようなお酒だが、甘い香りがする。
「………とにかく、何かを飲んで落ち着くといい」
ここで、こんな風に声をかけてくれたからと、この魔物が自分に特別な親しみを感じてくれていると考える程、ネアは清らかな心の持ち主でもなかった。
この白薔薇の魔物は、その場に居合わせてしまった高位の魔物の、その中でもネアを知る者の一人として、このままでは騒ぎが落ち着かないと貧乏くじを引いてくれたのだ。
なのでネアは、背後に固まった使い魔を残してひょいひょいとそちらのテーブルに近付くと、気安いお喋りの体で、まずは迷惑をかけたことを謝っておいた。
「ご迷惑をおかけします。三分程野生に返した後、再び連れて帰りますから」
すると、美しい水色の瞳をした魔物は、困惑したように目を瞠る。
「三分でいいのか……………?」
「ええ。このような喧嘩は長引くと拗れますからね。一度体当たりでもしてから、………むむ、それはディノ用でしたね。では、一度尻尾の付け根でも撫でてやってから…………これは違う時用でした。…………ええと、そうですね、パイを献上させる約束でもさせながら、仲直りしますね」
「……………二つ目のものがとても気になるな」
どこか不安そうな面持ちでロサがそう言ったところで、ネアは置いて来た使い魔の方を振り返ってみた。
「む。…………いません」
「よく見てみるといい。女性達に囲まれているが、元いた場所に立っているのではないかな」
「…………そうなると、アルテアさんの婚期の為にも、暫くそっとしておくべきでしょうか」
「いや、あまり無責任なことも言えないが、それだけはやめた方がいいだろう。君達のやり取りが聞こえて来たが、ジアートの料理をアルテアが食べさせなかったのだろう?」
「はい。私は最初からあのパイ包みを食べたかったのに、アルテアさんは狡猾にもなくなるまで私を連れて踊りはしゃいでいたんですよ!」
「あのアルテアがはしゃぐというのも想像し難いものだが、…………」
そう苦笑して、ロサは教えてくれた。
几帳面で決して冒険などはしない人らしく、彼の正装姿は深みのあるロイヤルブルーと白でまとめられている。
理想の王子様のような安定感のある美貌なのだが、タイミング的にネアが出会う時は困ったような顔をしていることが多い。
「ジアートの料理には特別な祝福があるんだ。豊穣という資質には誰もが惹かれてしまう。そんな豊穣の祝福を得られる料理ともなれば、彼の手料理を食べたことで彼に夢中になってしまう女性も多い」
「むむ、女性の方を沢山ということにおいては、リザールさんの方ではなく?」
「ジアート自身はそんな事は考えてもいないだろう。穏やかで、………そうだな、とても安定していて、優しい魔物だ。実際にはそうもいかないとしても、分け隔てなく豊かさを与える魔物だからこそ、その祝福に触れて心を動かされる者は多いのだと思う」
かく言うロサも、ジアートのことは好ましいと思っているのだそうだ。
特別に器用ではないが、揺るぎない資質で鷹揚に構える彼は、同族達にも好かれているよと教えて貰う。
「君は、…………上手く言えないが、………望むものに関しては普通の女性なのだと思う。だからこそ、ジアートの料理に特別な関心を向けられたことが、アルテアは面白くなかったのだろう。ジアートの持つものは、アルテアにはないものだから」
そう教えてくれたロサのパートナーはどこだろうとネアが首を傾げると、あちらに行ってしまったと肩を竦めている。
どうやら、白薔薇の魔物の秋告げの舞踏会のパートナーは、自分のお相手を置き去りにして、一人になった選択の魔物争奪戦に加わっているようだ。
「まぁ、…………それは何というか………」
「構わない、よくある事だ」
「よくある事ではいけないのでは………」
思わずそう呟いたネアに、ロサは少しだけ遠い目をして、想いを告げて恋人になって欲しいと言ってきた女性達が、みんな一定期間で去ってゆくのだと沈んだ声で教えてくれた。
「ジョーイと会う時間を責められるとなれば私も難しいのだが、そういうことは言わない女性からは、あなたは一人で大丈夫そうだと言われるのだが、意味が分からない…………」
「ふむ。まずは、己の隙や弱さを見せることや、お相手の女性に少し甘えてみることから始めましょうか。一番勿体無い振られ方だと思いますよ」
「あ、甘える…………」
そこでなぜか、白薔薇の魔物が目元を染めておろおろしてしまったので、こちらの魔物はやはりとても繊細なようだ。
そんなロサの姿を見て、興味津々のご様子な女性がいたようなので、ネアは師匠の技を真似て親指でくいっと男前にロサを指し示しておいた。
「ネア、今のは何なのだ………」
「とある梱包妖精さん直伝の、やっちまいなの合図です。今回については、ロサさんの少しだけ見えた隙に興味を惹かれていた女性達に向けて、勇気を出して声をかけてみよう!の合図ですね」
「…………こんな話をしておいて今更だが、あまりそのような出会いは…………」
「我儘ですねぇ……………」
ネアがロサと話していると、そこにふっと人影が落ちた。
あちらで囲まれているアルテアではないようなので誰かなと顔を上げると、嫋やかな銀糸の髪の美しい女性を連れたシェダーの姿がある。
「まぁ、シェダーさん!」
「ネア、アルテアと喧嘩したのか?」
「…………むぐる」
穏やかな声だがどこか窘めるような響きに、ネアはくしゅんとなって低く唸る。
なぜだか、頼れるものの、あまり我儘を言えない雰囲気があるのが、この犠牲の魔物だった。
「アルテアが、理由を告げずにジアートの料理を食べさせないように画策したようだ。それで拗れた」
説明してくれたのは、どこまでも人のいい白薔薇の魔物で、そんな説明にシェダーは淡く苦笑する。
「彼らしからぬ、でも、今の彼らしい失態だな。けれど、こうして君から距離を置かれてしまっただけで、彼には充分に堪えただろう。許してあげてくれないか?」
「………三分だけ野生に返した後、迎えに行く予定だったのですが、…………」
ちょっと近づくのに勇気が必要な状態になったと人だかりの方を見れば、シェダーは夢見るような灰色の瞳を揺らしてくすりと笑う。
一緒にいる女性は物静かな雰囲気の人で、そんなシェダーの表情を見て焦がれるように頬を染めたので、彼に恋をしているのは間違いない。
(…………ん?)
ざわりと、どこかで人波が揺れた。
ネアはその気配に眉を寄せ、ぎくりとする。
(そう言えば、ノアから聞いたことがあったような…………)
確か、シェダーはその眼差しの美しさから彼に焦がれる女性は多いという。
その隣に並んでしまったロサも、高位の魔物の中では女性達に大人気の男性だ。
図らずも今、その二人が同じテーブルについてしまったのだ。
シェダーには同伴者がいるが、人外者達は相手が伴侶相当でもない限りはあまり遠慮をしないイメージである。
ネアが肌で感じたのは、そんな理想のお相手ツートップを観察している、会場の女性達の熱い視線であった。
「よ、用事を思い出しました!早急にアルテアさんと合流します!」
慌ててそう宣言したネアに、シェダーがおやっと首を傾げた。
「何かあったのか?」
「せっかく来て下さったのに、ごめんなさい。私はやはり、アルテアさんのところに戻りますね。迂闊にここにいると、シェダーさんとロサさんに憧れるご婦人達に滅ぼされる予感がしたのです………」
「それは、…………」
「いや、……………」
困惑したように視線を彷徨わせた犠牲の魔物と白薔薇の魔物は、いつの間にか外周を詰めた女性達に気付いたのだろう。
先程まではアルテアに話しかける輪にいた女性も、こちらの方が手堅いと標的を変えた者が多いようだ。
表情を強張らせたシェダーの同伴者に気付き、ネアはシェダーに、くれぐれもお相手の女性を守ってあげて欲しいと言い残し、しゅばっとそのテーブルを離れた。
一人が抜けると他の誰かが入れるシステムではないのだが、この隙にと、わっと群がった女性達にネアの背後は騒然とする。
「…………お、恐ろしいです」
押し寄せる女性達にもみくちゃにされ、ネアはよれよれしながら押し寄せる女性達の波間を逆流して何とか抜け、すぽんとそこから抜け出したところで、伸ばされた手にひょいと持ち上げられた。
「む…………」
「…………ったく。お前はすぐに騒動を引き起こすな」
「これは不可抗力です。寧ろ、シェダーさんとロサさんの魅力のなせる技なのでは………」
「ネビアの奴も同伴者はどうしたんだ」
「アルテアさんに取られたようですよ………」
「は…………?」
そう眉を顰めたアルテアだが、こちらも、そんな選択の魔物がネアを抱えていても、この二人は仲違いしたのではという熱い期待の視線を向けてくる女性達がまだちらほらと残っている。
そんな女性達を視界の端に収めてすっと瞳を細めると、アルテアは苛立たしげに顔を顰めた。
「アルテアさんが一人になるならと、あれだけ多くの方が突撃してしまうのですね………」
「言っておくが、ここまでのことはまずないぞ。お前の騒ぎに付き合ったせいで、妙な隙が出来たように取られたんだろうが」
「…………そう言えば、まだ営業時間外でした」
「だから、何だそれは」
そう言いながらも、アルテアはどこか気遣わし気にこちらを見て、何か美味しい甘いものを口に押し込んで来たので、ネアは尻尾をお腹に巻き込んで耳も寝てしまっている悲しげな白けものを思い浮かべ、溜飲を下げることにした。
「………むぐる。アルテアさんが、私をあのパイ包みから遠ざけたのは、ジアートさんの持つ家庭的な魅力への嫉妬心からのことだったのですか?」
「……………ほう?誰だそんなことをお前に吹き込んだのは」
「ちゃんと理由を説明してくれれば、私も怒りませんよ?なので、そういう時には理由を説明して、だから食べてはいけないのだと言ってくれればいいのです」
ネアがそう言えば、アルテアは微かに目を瞠り、そこからなぜか疑わしげな顔になる。
「やめておけと言われて、お前が我慢出来るのか?」
「でも、今回は理由のあることなのでしょう?それが例え、魔術的なものによることではなくても、あのテーブルの料理に手を出されると何だか悔しいのだと言って下されば、私はアルテアさんを優先します」
「……………お前は、どこまでも節操なしだな」
「なぬ。なぜにその返しなのだ。解せぬ」
深く深く息を吐き、アルテアはもう一度ネアをしっかりと抱え直した。
どこか遠くを見た赤紫色の瞳に、強く美しく輝く白い宝石を紡いだかのような鮮やかな白い髪。
そんな色彩に目を奪われ、あらためてこんな稀有な場所においても、飛び抜けて美しい生き物であると再認識した。
恐ろしい生き物で残忍で気紛れで。
でもこの魔物は、こうして妙に愛情深い、面倒見のいいところもある。
不思議な巡り合わせでそうなったのだが、いつの間にかそれがネアにとってのアルテアになってきた。
(それは例えば、優しい魔物さんだというジアートさんの方が、私に対しては冷淡なのだろうと考えるように)
どんな性質の魔物かどうかではなく、本人との関係性がその色を変えるのだと。
「あのパイは、俺が同じものを作ってやる」
「………約束を破って、森に帰ったりしません?」
「帰ったらすぐに作ってやる。それでいいな?」
「むぐ」
「それと、何度も言うが不用意に俺から離れるな。今年の秋告げは危ないと話しただろう」
「むぐぅ。なので最初は、アルテアさんをぽいっと出来なかったのです。ですが、その後ご親切にも引き取り先になってくれたロサさんと、途中から様子を見に来てくれたシェダーさんと一緒でした」
「……………ほら見ろ。だから迂闊にジアートの料理なんぞ食べさせられないんだろうが」
「因果関係が読めません。なぞめいています……………」
ネアはそこで、変に意地を張ったり、使い魔を苛めたりはせずに、素直に営業の再開のお知らせを出すことにした。
再開を宣言すると心底安堵したような目をされたので、やはりこの魔物はかなり気を揉んでいたようだ。
それなら最初からジアートの料理を食べてくれるなと言えばいいのだが、ネアは何だか今後も言葉が足りないで揉めそうだぞと遠い目をする。
(何となくだけど、自分の方が優秀なパイ職人だと主張したいけれど、そこで本気になってしまっているのを知られるのも嫌そうだったものなぁ…………)
手のかかる魔物だなとふすんと息を吐いたが、元々厄介な魔物だと分かった上で使い魔にしたのもネアなのだ。
ディノの場合は三つ編みを引っ張ってやらなければいけないように、こちらの魔物にもそれなりの取り扱いの注意が必要なのだろう。
その後二人は、会場の反対側のテーブルに場所を移して、また少しだけ美味しい秋告げのお料理を堪能することとなった。
今もまだ、シェダーとロサのいたテーブルのあたりは賑やかだ。
ネアは巻き込まれたことはなかったが、季節の舞踏会とは言え、女性陣が理想のお相手である誰かに押し寄せたり、また男性陣が美しい女性に群がるのは珍しいことではないらしい。
季節の舞踏会に入れる者という縛りがあるこの舞踏会には、今日ばかりの相棒と訪れる者達も多く、同伴者が即ち恋人や伴侶という訳でもないからだ。
先程ジアートが一緒にいた系譜の女性も、系譜の上長のお仕事の一つである舞踏会に付き合って同伴しているだけで、実際には旦那さんがいるのだとか。
(それなら、ロサさんの同伴者がアルテアさんに突撃してても仕方ないのかな………)
ただしそちらは、ロサの方はそこまで事務的な同伴者という雰囲気でもなかったのだが、そんなお互いの認識の溝はどうか舞踏会の後半で埋まればいいなと祈っておこう。
「そう言えば、今年のケーキは栗のクリームとお酒の風味のケーキのようですよ」
「どうせお前のカットに指輪が入ってるんだろ」
「不吉な予言をするのはやめて下さい…………。その場合には、アルテアさんのお皿に乗せればいいのですか?」
「やめろ……………」
アルテアは本気でネアが指輪を引き当てると思っているのか、周囲を見回して生贄にしても良さそうな人物を見つけ出したようだ。
「レザートがいるな」
「まぁ、昨年のことがあるので、さすがに葡萄の妖精さんも警戒しているのでは?」
アルテアが見付けたのは、昨年つぶつぶしていないことが判明した夜葡萄のシーである。
どこかアルテアに似た雰囲気を持ち、つぶつぶしていない以上は、秋告げの精霊のお宅訪問の犠牲にしても心は痛まない。
そこで、こっそり近付いて、アルテア経由でレザートのお皿に指輪を投げ込む為のミッションが始まった。
お料理の置かれたテーブルなどを辿りながらレザートのいる場所にこっそり近付くのだが、アルテアはそういうことをいかにも自然にやってのける。
普段どれだけの悪さをしているのだろうと呆れてしまうばかりだが、ネアにデザートを勧めたり、通りかかった魔物達から挨拶を受けたりしながら、すいすいっと人波を抜けていつの間にかレザートまでの距離は数メートル程になる。
「ここまで来れば充分だな。後は話しかけられないようにしろよ」
「なかなかに難易度が高いのです。既に一度こちらを見られてしまいました…………」
そんなやり取りを二人がしていた時のことだ。
(あら、……………?)
ネアは、先程アルテアの所に来た秋鮭の精霊が、よろよろと会場の隅を歩いていることに気付いた。
明らかに千鳥足なので、どうやら強いお酒でも飲んでしまったようだ。
はらはらしながら見守っていると、ついに毛皮棒はつるんと足………と言っていいのかどうか分らない、地面との接触部分を滑らせる。
「危ない!!」
思わずネアが、球技の要領で駆け込んでそんな秋鮭の精霊をばしんと会場に打ち返してあげようとしてしまい、その悲しい事件は起こった。
「ネア!」
「むぎゃ?!押され……」
急に動いたネアと、何かをお喋りしながら急に下がってきた二人連れがぶつかり、相手が竜だったこともあって脆弱なネアがばしんと弾き飛ばされた。
そしてこともあろうに、そのまま、見事な銀杏並木の向こう側に転がり落ちたのである。
珍しく名前を呼んでくれたアルテアの呆然とした顔が遠ざかり、地続きに見える楓の森に足がはみ出てしまっただけなのに、ネアは何だか分らない不可視の流れのようなものに揉みくちゃにされ、誰かに助けて貰おうと手を振り回した。
その手を誰かががしりと掴み、次の瞬間、あっと悲しげな声を上げた。
「ふぎゃ!救助者も落ちました………がふ?!」
ごうごうと耳元で水がうねるような激しい音がする。
そんな中で振り回され、へろへろになったネアがぺっと吐き出されたのは、見たこともない不思議な森だった。
幸い、べしゃりと地面に倒れることはなかったが、目が回っているようでなかなかに視界が定まらない。
よろよろしてから地面にあった立派な木の根に躓きそうになったところを、腕を掴んだままの誰かが腕を掴んで支えてくれる。
「クケ…………」
悲しげな声に足元を見れば、しゅんと項垂れた灰色と朱色の毛皮棒がいた。
ネアが自分を助けようとして落ちたことを理解しているのか、申し訳なさそうに項垂れて立っている。
「良かった、秋鮭さんはご無事ですね。それと、…………なぬ。なぜなのだ」
振り返ったネアは愕然とした。
どうやら、諸共流されて落ちた救助者は二人いたらしい。
そこにいたのは、ネアの手を掴んで転ばないようにしてくれているジアートと、顔を顰めて低く呻いているレザートではないか。
頼もしい使い魔の姿は、どこにもない。
見回した森は深く、どうすればここまで大きな木が育つのだろうと言う程に枝葉の天蓋は高い。
どの木も鮮やかに赤く色づいた楓の木のようで、森はふくよかな秋の色に染まっている。
ディノの名前を呼びかけて、ネアはまずここが何なのかを、ジアートとレザートに聞くことから始めようと思った。
この土地も秋告げの舞踏会の会場に含まれていたら、ディノを呼んでしまうのはまずいだろう。
「ジアートさん、ここは秋告げの舞踏会の会場なのでしょうか?」
「いや、…………橋の魔術の外側なのは確かなんだが、どこなのかはアチェロしか知らないだろう」
「なぬ。あのもふちくしか…………」
「どう考えても同じ時間軸の土地じゃなさそうだな。空を見るといい。森の中は明るいが、今は夜だ」
「クケ……………」
かくして、ドレス姿で満腹になったばかりの人間と、豊穣の魔物、夜葡萄のシーに毛皮棒という謎の仲間達で、見知らぬ秋の森の冒険が始まったのだった。