黒衣の魔術師と致死の魔術
その夜、ヒルドが訪れたのはガーウィンの国境近くにある小さな礼拝堂だ。
石造りの簡素な建物ではあるが、古くから土地の住人達に愛されてきた場所なのだろう。
石壁は丁寧に補強され、祭壇には立派な黄金の燭台や信仰の祝福石を削った星石がある。
この星の形をした結晶石を信仰の核として、人々は朝晩と清貧に祈りを捧げるのだ。
力を蓄えるときらきらと淡い金色に光る祝福石は、信徒達にとっては命よりも大切なものであるらしい。
静かな静かな礼拝堂には、この土地特有の荒地を吹き渡る風の音が響いていた。
灰色の岩と宝石質な曇り空の結晶石。
その組み合わせで建てられた礼拝堂は、こんな真夜中でも微かに銀色の光を帯びる。
結晶石に蓄えられた信仰の祝福が、星石の煌めきを映して光るのだろう。
こつりと踵が音を立てた。
漆黒のローブを着た男が振り返り、小さく淡く微笑む。
その口元に刻まれた微笑みの艶やかさに、ヒルドは溜め息を吐いた。
「入口で事切れていた門番を見た時から、あなたが来ているのではという予感がありました」
その言葉に小さく頷き、男は視線を祭壇に戻す。
「…………知っているかい?ここは騙し絵なんだよ。ほら、この祭壇の影を踏めば地下の国にある大聖堂への扉が開く。………ただ、地表の祝福が失われるところは、魔術の扱いが難しくなるのが難点かな…………」
すっと白い手がその先を指し示し、ヒルドは微かな嫌悪感を噛み殺した。
強張った手で愛剣に手をかけ、地下への入り口ではなくその男を見据える。
「………だが、何の為にあなたはここにいるのでしょう。門番の口を封じたのは、あなたの罪を口外させない為に?…………それとも、あの土地を守る為に?」
「はは、これは疑われたものだ。…………私は、これまでも何度か君の手助けをしたこともあるのに、ここでガーウィンの司祭達と通じていると思うのかい?」
だが、心外だと言わんばかりに低い声でそう笑った男の声には、いつも感情が滲まないのだ。
そうなると彼は、言葉通りの善意で気紛れに現れて救いの手を差し伸べる者なのか、ただあちこちに顔を出して人形使いのように人々を翻弄する悪意なのか、ヒルドはその真意をずっと図りかねていた。
ふわりと、澄んだ花の香りがする。
それはエーダリアの名前の由来の一つとなったエーデリアの花の香りで、それがヒルドの気を散らす為にあえて纏われたものではないとどうして言えるだろう。
姿形はいつも異なり、若い男から老人の姿のこともある。
だが、ヒルドはいつもこの香りで気付く。
今日は、魔術師らしい黒い足元までのローブにすっぽりと覆われている。
しかしながら、そのフードの下から溢れる髪は新雪のような純白で、ヒルドはその色にひやりとした。
初めて、この男が白持ちであることを知ったのだ。
「早くしないと、彼らは迎撃の魔術を組み上げてしまうよ。高位の人外者達の守護や力を得られるのが、君達だけだとは思わない方がいい。………ガーウィンは信徒の街だ。そこで信仰を信仰たらしめるだけの恩寵は、日々齎されている。…………君も知っているだろう?魔術は扱い方次第で弱者が強者を打ち倒す。…………ああ、私もよく知っている。だからこそ、こうしてここに来たのだから」
礼拝堂には、その光を蓄えた壁と星石以外の光源はなかった。
だがなぜか、風が吹きすさび雲間から月光の光の差し込む外の荒野の不思議な明るさと暗さを感じ、ヒルドは目を眇めた。
ここに立っているけれど、立っていない。
そんな目眩にも似た魔術の場の揺らぎに、羽を広げて足に力を入れる。
(目眩……………ではない。実際に魔術の基盤が揺らいでいる?)
このような現象が起こるのは、ウィームでもリーエンベルクのような魔術の潤沢な土地に限られる。
となるとこの場所には、どれだけの膨大な魔術の蓄積が隠されているのだろう。
「………ほら、こうして土地が歪む。歪んだ先に、考えもしなかった絶望があるとは誰も思わないだろう」
そう呟き、男は小さく息を吐いた。
その声音にはどこか呆れたような軽薄さと、ひたりと氷塊を押し当てられたような憎悪にも似た響きと。
けれどもその相反する響きが重なれば、彼の声はどこまでも透明なのだ。
それはどこか、在りし日のネイの声に似ていた。
(ウィリアム様の声も、このような響きを帯びる時があるな…………)
万象の魔物や選択の魔物には、このような声を聞いたことはない。
万象に見たのは深い絶望や諦観、選択に見たのは、からりとした嘲笑と残虐さ。
その二人には、過去に触れる言動のどこにも憎悪の気配を感じたことはない。
そしてそれは、ネアに対しても言えることであった。
愛する者の復讐を果たし、愛した男を破滅に追い込んだと話してはいても、彼女の声に生々しい憎悪を感じたことはなかった。
もしかしたらだからこそ、ヒルドはあの少女に惹かれるのだろうか。
彼女は彼女なりの願いを持ってその憎しみを浄化し、その全てを静謐なものに置き換えたのだとしたら、そこに至るまでの日々はどれだけのものだったのだろう。
目の前の男が滲ませたさらりとした憎悪のかけらに、ヒルドはなぜかネアのことを考えた。
合わせ鏡のように、得体の知れないこの男の抱えた澱みにかつての自分を見たのかもしれない。
また土地が揺らいだ。
目眩にも似たその感覚に、遠い記憶が蘇る。
初めてウィームを訪れ、そのあちこちにある清廉な美貌の冬の情景を見た時、ヒルドは訳も分からずに胸を打たれたものだ。
貴色である白を齎す雪を見るのは初めてではなかったが、ウィームのものはどこか色が違うような気がした。
雪深い森の奥にある湖を見た時には、その美しさにただただ見惚れていた。
多分、彼女の奥底に窺えるのは、その時の湖のようなものなのだ。
とは言え、冴え冴えと霜を下ろし、澄み渡る湖面のようなあの深さを感じることは最近は少なくなった。
それは多分、彼女が絶望しなくなったからであろうし、諦めなくなったからかもしれない。
そう考えて心を緩めていたヒルドは、今日の祝祭から戻ったネアが、愛するものが傷付けられたのだと語り、瞳を伏せたその眼差しの深さにぎくりとしたのだった。
(魔物は、生まれた時からその資質を変えないという)
人間は変わりゆくものだとヒルドは思っていたが、彼女はまるで魔物のように、心の最下層に敷いた引き込まれそうなほどに深い湖の情景を変えることはない。
絶望しなくても、諦めなくても、それはそこに在り続け、ふとした時にその色を瞳に映す。
だからこそ、憎しみを捨て去れないヒルドは、その静謐な絶望の美しさに目を奪われるのかもしれない。
だからこそそれを、決して損なわせはしないと、強く強く心に誓って。
羽の庇護を与えたネアだけではなく、その信頼に幼い命を賭け、真摯に手を伸ばしてくれたエーダリアもそう。
友人となり、この心の助けとなってくれるネイも。
(ああ、守らねばならない者が、守りたくてならない者が、どれだけ増えたことか…………)
であればヒルドは、この正面に立つ男がそう言うように、この地下にあるかもしれない悪意や異変を見過ごすことは出来ないのだった。
(例え、この男の瞳に過ぎる憎悪を私が軽視していて、この先に待ち受けるものが罠だとしても…………)
例え、もう二度と愛する者達の元へ戻れないのだとしても。
「…………冷やかしであれば、邪魔をしないでいただきたい。地下であれ、隠し絵の向こう側であれ、私はハイゼルバッハを逃す訳にはいかない」
そう言ったヒルドに、男はひっそりと笑った。
「……………見逃していた悪意の剪定だから、その命を賭す覚悟なのかな」
「あなたが言いたいのは、そのようなことなのでしょう?もはや我等が見逃した枝葉は脅威として充分な程に育ち、そこには大きな守護もある。…………であれば私は、守り手として仕損じたことの責任を取る覚悟をあらためて決めるばかりだ」
「…………君が死ぬと、エーダリアが悲しむだろう」
その言葉に、胸の奥がざわめいた。
だが、もう彼は一人にはならない。
そこにはほんの二年前までは想像もつかなかった程の親しく過ごす仲間達がおり、家族のように彼に寄り添ってくれる。
『ヒルド』
大切な子供の、その声が聞こえた気がした。
振り返り、最近はよく笑うようになった眼差しの柔らかさに、ヒルドはいつだって救われているのだ。
だからもう、あの小さな子供を一人で置いてゆくような、そんな罪悪感にひりつくことはない。
彼は、一人ではなくなったのだから。
「…………だとしても、これが私の役目というもの。守り手がその責務を果たさずして、己の欲に怠けて守るべきものを失う事程に愚かなことはない。………それに、私とて死ぬ為に地下に向かうつもりはありません。ハイゼルバッハを殺し、せめて明日の朝食に間に合う時間までには、リーエンベルクに戻る予定ではあります」
「だとすれば、甘い試算だ。…………君も分かっているから、一人で来たのだろうに」
一人で来るべきか否か、ヒルドは最後まで悩んだ。
けれども、この先に待ち受けるのがかつて殺し損ねたあのハイゼルバッハであるのなら、彼は、必ず一人は殺すだろう。
それがあの男の持つ魔術の奥義であり、その特殊な魔術の侵食を回避する術はない。
ハイゼルバッハは決して優秀な魔術師ではなかったし、中堅の伯爵家の次男である。
しかし、地位も名誉も持たないその男こそが、正妃やレーヌに次いで長年エーダリアを苦しめてきた。
それは、ハイゼルバッハが特殊な魔術の行使により、一晩に一人だけ、自分を殺しに来た者の中から己が望んだ者を殺せる魔術を会得しているからであった。
ガレンに起きた忌まわしい出来事の一つに、そんなハイゼルバッハによる、当時、長としての役目を退くことを明言したばかりであった前のガレンエンガディンの殺害事件がある。
(殺したつもりだったが、生きていたのか…………)
彼は今日も、誰か一人を殺すだろう。
勿論、その場にいる誰かを盾にして置き換えの魔術で凌ぐつもりでいるが、彼とて己の最大の魔術で仕損じない為の策は練っているに違いない。
魔術の大家ですら躱せなかったものが、果たしてヒルドに回避可能であるかどうかも分からない。
どちらが生き残るのか。
けれどもヒルドが死ぬ時には、彼を道連れにしてみせよう。
その為の準備は整えてきた。
リーエンベルクにだって、特殊な魔術の知識は蓄えられているのだ。
こつりと、祭壇の影を踏んだ。
この種の仕掛けの多くには特定の規則があり、やはりここもその一つで開錠となる。
特定の術式でしか構築出来ない領域だからこそ、その鍵も限られた数しか用意されていないのだろう。
「私は地下には下りないよ。探していたものをようやく見付けたばかりなんだ。君の為には死ねないから、ここから君の幸運を祈るしかなさそうだ」
「元より、期待しておりませんので」
「はは、つれないことを言う」
床に落ちた影の中に浮かび上がったのは、拙い子供の手で描いたような階段の絵だ。
そこに足をかければ、くるりと視界が反転するような感覚があり、ヒルドはいつの間にか暗い階段に立っている。
そこを静かに下りて行けば、すぐさま視界が開けた。
(……………見事なものだ)
地下の国にある大聖堂は、それは見事な施設であった。
見上げる程に天井が高く、光を通す結晶石で作られた天井からは、祭壇の燭台の光とは違う青みを帯びた光が降り注ぐ。
祭壇までの真っ直ぐな道を赤紫色で飾るのは、参列者席沿いに飾られた黒いリボンの葬列の花輪だ。
はらはらと、どこからか花の雨が降っている。
「…………これはこれは、懐かしいお客人だ」
そんな美しい大聖堂の祭壇の前で、一人の男が声を上げて笑った。
豊かな髭を蓄えた壮年の男で、武芸に秀でたような立派な体躯ではない。
しかしながら緑のその瞳には、揺らぎもしない圧倒的な有利さに笑み崩れる、悍ましい程の邪悪さがあった。
(やはり、生きていたのか…………)
かつて、ヒルドがエーダリアの教育係であったことは王宮の外では公にされていなかった。
だからこそこの男に近付くことが出来、それは最初で最後のこの男を確実に殺せる機会であったのだと思う。
けれどもやはり、ヒルドは為損じていたようだ。
そんなハイゼルバッハが、親しげに笑いかける。
「ヒルド。まだ、あの小僧のお守りをしているのか」
「あの方には、私がそうして仕えるだけの魅力があります。そして、あなたにはなかったガレンエンガディンとしての才も」
「それはどうだろうな。…………あの小僧はその身に流れる王家の血を利用し、まったくの公平性もなく魔術師としての最上の権力を手に入れた。俺がガレンから姿を消してからは誰も諌めないものか、実力ではない権力に溺れ、目に余る傲慢さよ」
この男もまた、漆黒の装いだ。
だが、こちらは魔術師としての立場への執着がそうさせるものか、かつて追放されたガレンのローブに身を包んでいる。
(……………三十人ほどか)
背後や頭上にその気配を探り、やはり最初からあの魔術を使いはしないのだと頷く。
彼もまた、己の切り札が一晩に一人だけのものだと分かってはいる。
そうそうにその魔術を切り出しはしない。
「あなたの目には、今もまだ、己が望むことしか見えないままのようですね。ガレンであのまま暮らしていれば、古参の魔術師として信頼や尊敬を得られたかもしれなかったものを、あなたは己の愚かさで全て手放してしまった」
かつて、彼がその残虐さや身勝手さを表面に出さず、老いたガレンエンガディンの後継の座を虎視眈々と狙っていた頃。
この男は、落ち着いた言動や古参の魔術師としての経験から、若い魔術師達に慕われてもいた。
その頃の事を思い出し、ヒルドは眉を寄せる。
この塔でこれからは自分の力で自分の居場所を作り上げてゆくのだと、無垢な希望に輝く瞳でエーダリアに言われたあの日から、この男が新参者の王子に歪んだ嫌悪を向けていることには気付いていたのだ。
そしてハイゼルバッハにとっては盲点だったのだろうが、エーダリアもまた、そのような悪意にはとても敏感であった。
「はは、そんなものが私の何の糧になる。愚かな若輩者どもが、ドーセッター家の齎す私の威光に擦り寄ってきていただけに過ぎぬ」
勿論、伯爵家の血筋は充分に高位のものだが、それは彼が望むほどには恵まれておらず、彼の上には幾らでも高い爵位や社会的地位を持つ者達がいる。
けれどもこのハイゼルバッハは、そんな不都合なことを受け入れる余地はないらしい。
かつての彼の弟子には侯爵家の三男もいたというのに、己の爵位が、あの塔の中で最も輝かしいものであったと今も変わらずに思っているようだ。
『私に望まれるのは、結果を出すことだ。………それは、組織としての益となるものではなく、彼らの興味を引き魔術師として面白い奴だと思われるような、そんな成果を上げることこそが望まれている。爵位など儀式の素材にもならないと公言するような者達だが、古き血筋にだけ残る固有魔術などには血眼になるんだ。…………であれば、経験の浅い私に求められるのは、彼らの知らない私なりの技術なのだろう』
久し振りに会った夜、ガレンでの生活はどうかと尋ねられたエーダリアは、そう言って肩を落としていた。
ウィームで暮らしたことのないウィーム王家の最後の一人である彼には、同僚達が望むような固有魔術など、学べる筈もない。
また、彼が王宮で知り得た魔術師達の目を引く技術も、王家に目をつけられないようにする為には公に出来るものではなかったのだ。
失望されるだけではあるのだが、それではやっとあの王宮以外にも自分の領域を広げた意味がない。
そこを基盤とするべく、彼等に受け入れられる努力をしなくてはと、エーダリアは肩を落としていた。
あんな、まだ少年の域を脱していなかった頃のエーダリアの方が、よほど己に求められるものを理解していたではないか。
目の前の男はそれが分からず、自分が不当に貶められていると身勝手な憎しみを育てた。
「ガレンであなたに求められていたのは、爵位が故の働きではなく、その経験に基づいた助言や提案であった。あなたの弟子であったローゼッタも、自身より魔術の技量が劣るあなたを師に選んだのは、その経験にこそ価値があると考えたからです」
かつて、このハイゼルバッハには優秀な女魔術師の弟子がいた。
ローゼッタという心優しい女性で、まだガレンでの生活に不慣れなエーダリアを案じ、ガレン近くの食堂などを案内してくれたことを、今でもヒルドは感謝している。
グエンなどもそうだが、彼等が魔術師には珍しい面倒見の良さでエーダリアを気にかけてくれたことで、エーダリアに、同じ立場で日々を共にする者達との関わり方を教えてくれたのだ。
だが、そんなローゼッタはこのハイゼルバッハがガレンを追われた事件の時に、当時のガレンエンガディンを庇って殺されている。
彼女の伴侶であった魔術師見習いの青年を目の前で殺され、動揺から立ち直れないところをハイゼルバッハの使い魔に襲われたのだ。
エーダリアは、ヴェンツェルの提案を受け、次期ガレンエンガディンとして塔に配属されたものの、塔での生活に馴染む為に少なくとも五年は見習いとしてガレンを主所属とせずに過ごす予定であった。
ハイゼルバッハが、自身のガレンエンガディンへの就任を妨げる者としてエーダリアを葬ろうと画策し、それに気付き止めようとした者達が彼の手にかからなければ、エーダリアはまず、ガレンで共に助け合う親しい友や仲間を育てる時間に恵まれたのかもしれない。
思わぬ不祥事に揺れるガレンエーベルハントの歴代で最も若い長となり、エーダリアは早々に酷く孤独な立場となった。
不要に世間を騒がせないようにと、エーダリアは自身もハイゼルバッハの刺客によって重傷を負ったことは伏せて慣れない執務にあたり、どれだけヒルドは気を揉んだだろう。
そんな時にエーダリアの面倒を見てくれたのが、あのグエンだったのだ。
「話し合っても埒があかないな。お前は昔から、あの王子を盲信していた。…………安心してその魂を手放すといい。お前の首は霧散する前にあの王子に届けてやろう。羽や眼球は良い魔術資源になりそうだ。俺が味わった屈辱を思い知らせる為にも、生きながら羽を毟り、解体してやりたいところだが、さて」
ざっと、周囲を囲んだ者達が一斉に踏み込む音が地下の大聖堂の高い天井に響く。
その直後降り注いだ魔術の刃に、ヒルドは羽を広げて鞘から抜いた剣を振るった。
(一人…………)
ざしゅりと、重たい音がして血が飛び散る。
命を奪うその重たい手応えに嫌悪感を押し殺し、返す手でまた次の命を奪った。
転がり、湿った音を立てて崩れ落ちる亡骸には目もくれず、また次の獲物に飛びかかる。
十人程の命を奪ってからだろうか。
ぞわりと背筋が粟立つ感覚があり、急に体が重くなったヒルドは、はっと息を飲む。
「…………っ、」
その体の重さに、振り返るのが少し遅れた。
更にもう一拍遅れたのは、血で滑る床に足を取られたからではなく、一人の魔術師が銀色の髪に鳶色の瞳の擬態をして、こちらに手を伸ばしたからであった。
「………っう、」
ごぼりと濡れた音がして、腹部を貫いた槍を一瞥する。
その刃にはヒルド自身の血だけではなく、ぬらぬらと光る緑色の毒の色も見えた。
残された時間を考えて、ヒルドは小さく息を吐く。
(これは、思っていたよりも少なくなりそうだな……………)
「森の系譜の妖精か。殺すにはいささか惜しい失われた民よ。生かしたまま捉え、慰み者として私に仕えさせたいものだな」
そう笑った声には振り返らず、ヒルドは体を捻ってその槍を固定したまま剣で両断しようと試みる。
だが、それよりも早く引き抜かれてしまい、敵の武器を破壊する機会は失われた。
代わりに、ここぞとばかりに飛び込んできた二人の男の命を奪う。
「ふむ。まだ動けるとなると上々か。やはり殺すには惜しい。………ハイゼルバッハ、この妖精が気に入ったのだが、持ち帰ってはならぬのか?」
「ならぬ。生かしておくには執念深い男だ。気に入ったのなら、殺す前に愉しめばいい」
「やれやれ、無茶ばかり言うのだな」
そう肩を竦めたのは、鎖骨くらいまでの髪に甲冑をつけた女性だ。
手には先程ヒルドを貫いた槍を持ち、淡い金髪に青い瞳をしている。
美しい女性だが、瞳には嗜虐的な色があるし、そもそもこの男と共に行動しているのだから、その気質も推し量れるというものだ。
(恐らくは精霊………。かなりの階位だろう。とは言え、残った男達は、最早ハイゼルバッハには劣る程度の技量の者ばかり………)
それならこの精霊とハイゼルバッハに標的を絞ろうと考えて、ヒルドは、喉の奥にせり上がってきた熱い血の塊を飲み込んだ。
ずっぷりと服を濡らした出血の多さに、動きを損なわれないように痛覚を遮断する魔術を施す。
あと二人くらいであれば、この体も持つやもしれない。
死にかけた妖精の為に秘術を使う事はないと、ハイゼルバッハもすっかり油断していることだろう。
(上の礼拝堂に居たあの男は、やはりここに来る気配はないか…………)
地下は不得手であるというようなことを話していたので、ハイゼルバッハ達が地下に潜伏していると知り、ヒルドが下りてゆくならとそのまま立ち去ったのかもしれない。
ぎりっと剣を握れば、愛剣からその刀身に蓄えた魔術の奔流を感じる。
それを辿り、用意していた魔術を編み上げようとしたその時のことだった。
「ねぇ、ヒルド。僕はこれでも結構怒ってるんだけど」
そんな声が響き、ハイゼルバッハがはっと息を飲む。
槍を持った精霊が慌てたように周囲を見回し、…………そしてその首が呆気なくごろりと床に落ちた。
そこからの蹂躙は、瞬きほどの間に全てが行われた。
姿の見えない襲撃者によって、ヒルドを取り囲んだ男達が次々に絶命してゆく。
そして最後に、声にはならない声を発してあの秘術を展開したハイゼルバッハが、なぜか自分の喉を押さえて崩れ落ちた。
もがき苦しみ、血を吐いて急速に体が崩れ落ちてゆくその様子は、ハイゼルバッハ自身が展開した魔術によるものだ。
呆然とそんな光景を見守り、周囲に生きているものの気配が一つもなくなってしまうと、ヒルドはがくりとその場に膝を突いた。
「…………なんで僕を呼ばないのさ」
ふわりと、魔術の道から誰かが降り立つ。
どこか腹立たしげなその声に、荒い呼吸を吐いてヒルドは苦笑する。
「…………あなたが最後に殺した男の持つ魔術は、本来、高位の人外者であっても回避が出来ないものだった筈。………二人で来れば、やはりどちらかが死ぬことになる。…………そう思ったからです」
「それでも、相談もしないで乗り込むなんて、君らしくないよね」
「今日のホールルで、地崩れの花の精霊と共謀し、………エーダリア様、そしてネア様とグラストを襲ったのは彼の策略でした。………ハイゼルバッハは愚かな男だが、狡猾でもある。かつて殺した筈の男が生きていたのなら、また地下深くに潜る前に手を打たねばならなかった。彼を殺せば、彼が他にもウィームに罠を忍ばせてあっても、無効化出来る…………」
そう説明し、手に持ったままの剣をがしゃんと床に落とした。
そのまま崩れ落ちるかと思ったところで、横から伸ばされた腕に素早く支えられる。
その刹那、ふっと体が軽くなった。
「だからこそ、相談するべきだったんだよ。…………君は多分、この人間が持つ致死魔術を警戒したんだろうけどさ、僕だってヴェルリアには長く滞在していたんだよ?…………前に見かけて、こういう人間が絡んでくると厄介だなぁと思って、随分昔に反転の呪いをかけてあるからね」
その言葉には、堪らずに苦笑した。
であれば確かに、先走ってここに乗り込んだ自分が愚かだったのだ。
「…………やれやれ、そうだったとは」
「確かにまぁ、この人間の持つ術式は特別だよね。血族の誰かが、ウィリアムの系譜の祝福を得たんだろう。元々の魔術が持つ貴賎がかなりのものだから、ウィリアム自身のものかもしれない。僕も知らずに受けたら危なかったけどさ………」
声音が柔らかくなったので、力の入らなくなっていた体を支えてくれているネイを見た。
試しに膝に力を込めてみれば、すっかり毒の影響も抜けており、早くも立つことに支障はなさそうだ。
だが、擬態もせずに立っている塩の魔物は、青紫色の瞳に思っていたよりもしっかりとした怒りの色を浮かべ、こちらを見ている。
「…………すみません。あなたの手を煩わせ………いえ、心配をかけましたね」
「…………まったくだよ。僕はね、自分のものが失われるのが大嫌いだ。二度とこんなことをしないでよね」
「……………ええ。私が命を賭ける筈だった相手をこうも簡単に滅ぼされたことですし、さすがに懲りましたので、今度からは必ずあなたには相談します」
「……………うーん、結局、ヒルドにそう思わせたならいいのかな」
「そう思って許していただけると、助かります」
「まったく、君は狡いなぁ……………」
小さくそう呟き、ネイは額に手を当てて溜息を吐いている。
ヒルドを支えた手を離したのは、彼も治癒が完全になったと考えたからだろう。
(瞬き程の間のことだった…………)
高位の魔物達が振るう力の無尽蔵さは知っていたが、共に暮らすようになってからは、出来ないことの多さも知るようになった。
しかしここにいる塩の魔物は、ここまで容易くヒルドの傷を塞ぎ、殆ど一瞬で身体中に浸透しかけていた毒を全て無効化したのだ。
「エーダリアがね、暫くの間君を注意して見ていて欲しいって言ったんだよ」
「エーダリア様が…………?」
「うん。…………この人間が生きていると分かった以上、君はこうするだろうって。…………この人間は、エーダリアをかつて殺しかけたんだろう?」
「……………ええ。グエンの処置が間に合わなければ、エーダリア様は命を落としていたでしょう。それくらいに深い傷でした……………」
「じゃあ、これは妥当な扱いだよね」
「ネイ…………?」
ぎちちっと、何とも耳障りな不快な音がした。
その音がした方を見て、ヒルドはあまりの醜悪さに息を飲む。
床の影の中から這いずり出してきたのは、見たこともない巨大な甲虫のような悍ましい生き物だ。
「終焉の魔物には話をつけてあるよ。………ほら、立ち上がった死者達は、みんな君のものだ。好きなだけ食べるといい。僕が殺した君の大好きな終焉の祝福を得た人間も、ほらそこにいる」
そう嗤った塩の魔物に、その虫はまた、先程の鳴き声を上げる。
それは餌を見付けて上げる歓喜の声だと、ヒルドにも分かった。
折しも崩れた体から立ち上がりかけた死者達は、ようやく肉体を失った苦痛から解放されたばかりのところで、想像もしていなかった恐怖を知ることになる。
「あの虫は…………?」
死者達の悲鳴がこだまする地下を後にしながら、ヒルドは隣を飄々とした笑みを浮かべて歩く友人に尋ねる。
「反転の魔術を手助けしてくれた、死喰い虫だ。ほら、ウィリアムの系譜の祝福だったから、同じ系譜の生き物の祝福が必要だったんだよね。ウィリアムに頼んでおくから、死者になったあの男を好きにしていいよって約束だったんだけど、実は今日まではウィリアムとは話をつけてなかったんだ。………でもまぁ、ネアを殺そうとした奴だからねって言ったら、ウィリアムも好きにしていいって即答だったし」
「…………言いそうですね」
「まぁ、ウィリアムだからね」
ここを訪れる際に、地上の礼拝堂で黒衣の男に会わなかったかと尋ねると、ネイは冷ややかな微笑みを浮かべた。
大嫌いな奴だけど、エーダリアを傷付けることだけはないよと言われ、ネイはその男のことを知っているのだなと頷いた。
どうやら人間であることは間違いないようなので、となると白持ちの魔術師がニケ王子以外にもいたことになる。
ネイはそれ以上語らなかったので、ヒルドも追求はしなかった。
リーエンベルクに帰ると、エーダリアがどこか泣き出しそうな目をして一人で待っていた。
ヒルドの姿を見るなり立ち上がると、ばしりと無言で肩を叩かれ、もうしませんよと言えば、安堵したように頷いた。
ハイゼルバッハと共にいた精霊は、案の定、地崩れの花の精霊の王族であったらしい。
あの体の自由が効かなくなった一瞬は、地崩れの花の固有魔術によるものだったのだ。
ガーウィンの貴族であるハイゼルバッハの一族が、地崩れなどの多い領地を治める為に代々信仰の対象としてきた一柱であったそうだ。
昼間に焚き上げられたもう一人の精霊と共に、後々の調査で昨年のホールルで仮面の材料にされた精霊の姉と弟であったことが判明した。
翌朝、朝食の席でネアにもう心配はなくなったと伝えておくと、彼女は鳩羽色の瞳を揺らして微笑む。
「ディノに怪我をさせた悪者なのですから、また荒ぶらない内に私が壊滅させるのも吝かではありませんでしたが、ヒルドさんがくしゃりとやってくれたのですね。…………ただ、ヒルドさんは一人で無理をしそうなので、今後も悪い奴が現れた時の為に、どうかこれを持っていて下さいね」
そう言って渡されたのは、小さな仕掛け絵本のようなもので、開けば、あのきりんという生き物が立体で飛び出すのだそうだ。
ある意味これも致死の魔術だなと思い呆然と頷くと、並びの席でエーダリアとネイがほっとしたように微笑み合っていた。
後日、終焉の魔物から声をかけられた。
今後、ハイゼルバッハのような者を見かけたら、こちらで対処するからと微笑んで言われ、その有無を言わせない微笑みに思わず頷いてしまう。
その様子を見ていたネイからは、ネアを襲った者を排除する機会を奪われて悔しいのだと教えられた。