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煙草の煙にたゆたう

雨音は柔らかくに続き、ちょっとした番外編です。




恋をしたことが一度だけある。



その人は理知的で思慮深く、あまり笑わない人だった。

穏やかな微笑を常に浮かべてはいても、やはり笑ってはいない人だった。

特定の権力に紐付き、微笑みの後ろ手でナイフを振るえるような、そんな人。



艶のあるマホガニー色のスリーピースのスーツを着こなし、

見惚れる優雅な仕草は、古い血筋の家に生まれた者らしく板についている。

食事の仕方や立ち振る舞いを、こっそりと盗んでは自分のものにした。


考え事をするときに前髪を掻き上げる仕草、

硬くて細いペンを好むこと。

密かに苦手に違いない野菜や、腕まくりをする際の丁寧な折り目のつけ方。

どんな音楽を好み、どんな気温を好むのか。

日曜のミサには必ず、両親や妹達と出席していること。



私はまるで、あなたのコレクター。

少しずつ拾い上げたかけらを並べて、その奥行きを思案している。



恋をしたのだと気付いたのは、出会ってから半年後の秋のことだった。



「君はいつも、どこに帰るんだろう」



そう微笑んだ瞳に、もう少しこの場所に残りたいと思ってしまったから。



「普通に家に帰りますよ。そしてたくさん眠ります」


他の大勢の信奉者達のように深く関わろうとしないから、

恐らく彼は自分のことを調べてはいないだろう。

或いは脆弱に見えるから、決して牙など持っていないのだと。



雨音に傘を広げて世界を傘の形だけ、僅かに切り取る。

柔らかな光の滲む街を歩きながら、よりにもよってと苦く微笑んだ。



見ているだけだ。


時折言葉を交わし、差し出された手は決して取らない。

そっとその輪の端に滑り込み、決して明るい光の中央には立ち入らない。

舞台袖に佇んで、物語の切れ端を拾い集めるだけ。


充分な切れ端が揃ったら、それは立派なナイフとなる。



だから、何度手を差し伸べられても、決してその手を取ることはない。




私は、あなたを滅ぼすものなのだ。




煙草の煙にたゆたう、低いジャズの音を思った。


自分はこの思いを育てる程に無垢ではない。

けれども、この先に、こんな夜の切れ端をふと思い出す夜はあるだろう。



(もし、憎しみというものが完結した後に思い出したなら、それでも私は、それを恋だったと言えるのだろうか)



そこまで辿り着き、生き延びて静かな余生を送れたなら。

あの時は確かに恋をしたのだと、穏やかな気持ちで思い返せるのだろうか。




彼の好きな曲はいつも、自分がよく聴く曲と同じものが多かった。

けれども、そんなことを会話に乗せることは決してない。

家に帰ったら、さっきの店で流れていた曲を流してみようか。






一年後、彼が不慮の事故で亡くなったと風の噂で聞いた。


彼の家族が治める檸檬とオリーブの畑が有名な島は、他の一族の傘下に下るらしい。

大きく権力の波が変わり、街の様子も少しだけ変わったようだ。


復讐の為にあの街で暮らした短い日々を、少しだけ懐かしく思った。








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