311. 山車祭りで模倣されます(本編)
その日、ネアはウィームで二度目の山車祭りを迎えた。
正確には三回目なのだが、初回は知らずに通り過ぎてしまったのだ。
この秋の入りのお祭りは、豊穣への感謝を祝うサーウィンのような大々的なものではなく、これからの秋の収穫を願う為のものだ。
時期的には収穫への最後の追い込みになり、ここでもう一声何とかと願う為に始まったのではないかなと、ネアは睨んでいる。
そしてこのお祭りにはなぜか、ネアを何よりも震撼させる動く山車人形が出現するのであった。
ホールルと呼ばれるこのお祭りの最大の目玉である山車人形は、秋の収穫への願いの魔術を宿す様々なもので作られる。
麦穂に香草の束、葡萄の蔓や山で拾ってきた木の枝などの様々な材料を組み合わせ、それはもう立派な山車人形を作るのだが、そこにかける専門の職人が作り上げた精緻な仮面によって、その人形たちは仮初の魂を得て動き出すのだ。
山車に乗せられた人形達は、まず街中を練り歩く。
そこまでは若干動く人形に慄きはするものの、いたって普通の異世界のお祭りである。
ネアもだいぶこちらでの生活に馴染んだので、この程度であれば許容範囲であったかもしれない。
しかし、焚き上げの魔物が現れ、この山車人形達を焚き上げてしまうのが大問題なのだ。
もしかすると、誰も明言はしていないものの生贄などの儀式を再現した祭りなのだろうか。
自分が焚き上げられてしまうと知れば勿論、山車人形はたいそう荒ぶる。
そして、多くの場合はその身に宿す祝福を最大限に利用して山車の上からすみやかに脱走し、建物や森の中などに潜伏してしまうので、その捜索と捕縛でウィームは大騒ぎになるのだった。
(今年は困ったことにならないといいな…………)
朝食を終えたくらいの時間から、正門のあたりに立てば街の方の賑わいが感じられるようになった。
ネアが、彼等は祝祭の日には荒ぶるものなのだとそろそろ確信に至ったウィームの領民達は、既にもうお祭り気分を楽しんでいるようだ。
特に今年は美しい姫人形が作られたそうで、嫋やかな美姫の人形を一目見ようと観光客達もこぞって押しかけてきているのだとか。
ネアからしてみれば、荒ぶった時の恐ろしさを考えてそのような形状の人形は是非とも避けて欲しかった次第である。
愛くるしいくまさんやうさぎさんにしておけば、せめてもの視覚情報の緩和を図れた筈なのだ。
未来の世代の為に、そろそろ山車人形というものの新しい形を議論してみてはどうかなと思う。
「…………ネア、怖いのであれば外に出るのはやめるかい?リーエンベルクは封鎖するのだとしても、どこかに避難すればいいのではないかな」
「ふぐぐ。私としてもそうしたいくらいなのですが、昨年の様子を見ている限り、きっと我々の力も必要になる筈なのです。これからもずっとお付き合いしてゆく祝祭なのですから、事故などが起こらないようにこの街を守るのも我らが務め…………」
昨年のホールルでは、精霊が潜んでいると知らずに切り出された木から、地崩れの花の精霊入りの山車人形が作られてしまった。
ディノであっても壊さずに抑え込むのに苦労するようなものが生まれてしまい、おまけに造形が最悪だったのでネアは怖い思いをした。
その時の記憶が蘇りかけ、慄きながらも戦う覚悟を決めたご主人様の姿に、魔物はなぜか顔を曇らせる。
「ずるい…………」
「…………これは決して浮気ではなく、ディノと暮らしてゆく為の土地を守るという誓いですからね?」
魔物はご主人様に守って貰えるウィームの街に荒ぶりかけ、思いがけない言い回しに目を瞠った。
すんと荒ぶりを鎮めると、なぜか恥じらってしまい、よろよろと数歩下がる。
本日は三つ編みリードが必須のお祭りであるので、ネアは逃がしてはなるものかと、はしっと真珠色の三つ編みを掴んだ。
「かわいい………捕まえてくる」
「本日は単独行動禁止です。いいですか、万が一また、足のまずい山車人形が出現するといけませんので、決して私の側を離れてはいけませんよ?」
勿論、そう戒めたものの、ネアとて二年連続でとんでもない山車人形が出現するとは思っていなかったのだ。
祝祭で起きた事件というものには、そのあらましを主催者側が公開しなければならないが故の危うさもある。
その透明性が悪い形で顕現するような事件が密かに進行しているのだとは、ネア達はこの時はまだ知らずにいた。
(今日は、風があまりないのかな………)
外に出ると、まずはそんなことが気になった。
ウィームは高低差が大きく、山や森に囲まれた土地柄、肌に感じるか感じないか程度であれ、空気の動きがあることが多い。
けれども今日は珍しく無風であるようだ。
そう言えばホールルは焚き上げがあるので、風などはあまり吹いていない方が望ましいと、昨年誰かに教えて貰った気がする。
(と言うことは、お祭りの気候としては嬉しいことなのかも)
「今年も博物館通りの方へ向かうかい?」
「ええ。あの辺りはお祭りのコースからは外れますが、屋台なども多いので人出がありますからね」
「苦手なことを頑張るのだよね………」
「それは、そのような事態に直面して、尚且つディノよりもその対処に長けた方がいない場合ですね。でも、ディノはもう、色々なことに素敵に対処してくれそうな気がしますね」
そんなことを話しながらリーエンベルクを離れて通りを歩いていると、少し歩いている内に遠くからホールルの賑わいがより伝わってくるようになった。
昨年の実は脱走騒ぎだったあの響とは違い、注意して聞いてみても、まだ山車人形の脱走はないようだ。
(今年はあまり荒ぶらないでいてくれるといいな………。特に姫人形には大人しくしていていただきたい………)
そう考えて、ネアは顔を上げた。
気付けば、街路樹の葉には鮮やかな赤と黄色が混ざり、その色彩が薄曇りのウィームの景色に映えてはっとする程に美しい。
強欲な人間らしく、ネアはそんな秋の入り口の宝物のような色を、見逃してしまわずに楽しもうと思ったのだ。
「…………ネア、持ち上げるよ」
「…………ディノ?」
すると、紅葉の気配を感じて唇の端を持ち上げていたネアに、突然ディノがそんなことを言った。
いきなりのことに不思議に思って振り返ると、どこか冷ややかな瞳をした魔物らしい婚約者の姿がある。
(ディノ……………?)
それは、とても怜悧で酷薄で、悪しきものであると言われる魔物のその美貌であった。
手を伸ばしてそんなディノに抱き上げられつつ、ネアはそっと周囲を見回す。
特に異変などがあるようには見えないが、ディノは何かを感じ取ったのだろうか。
「……………妙だね」
そう呟く声の静かさに、身の引き締まる思いがする。
ディノがこんな声を発することは、実はあまりない。
「…………何か、取り出しておいた方がいい武器はありますか?」
そう尋ねたネアに、ディノは水紺色の瞳を揺らした。
伝わってくるのは、微かな躊躇いとこの魔物らしい優しさと。
けれども、擬態している青みがかった灰色の髪が内側から光を受けたようにぼうっと輝けば、それは決して美しいと言えるばかりの輝きではない。
ああこれは、何かを破滅させる生き物の美貌だなと思えば、この魔物をそんな気分にした何かがどこかにいるのだと思い知らされる。
「…………この祝祭の人形は、焚き上げられてこそその理を成すものだ。壊してしまうことはあまり望ましくないからね。戸外の箒を持っているかい?」
「…………はい!」
そう言われたネアは、久しくお会いしていなかった戸外の箒を引っ張り出した。
長らく使っていない道具でも、このような有事に使われるような道具は、取り出しやすいところにしまってある。
そんな運用はラエタや、影絵の中の統一戦争のリーエンベルクで学んだもので、高位の人外者の襲撃は一瞬の反応が生死を分けてしまう。
さっと箒を手に持ったネアに、ディノは小さく頷いた。
「君には影響がないように調整するけれど、念の為にそれを持っているといい」
「ディノが警戒しているものは、山車人形……なのですか?」
「恐らくはね。けれど、今はまだ不確定の要素が多いかな。…………困ったことだ。アルテアはこのような祝祭では力を発揮し難いし、ノアベルトをエーダリアから離す訳にはいかないな………」
「…………今起きている異変は、ディノであっても、困ってしまうようなものなのですね?」
ネアに備えをさせてからも、ディノはまだ悩ましげにしていた。
なので不安になってそう尋ねると、万象を司る魔物は淡く微笑む。
自分を見上げているネアに頬を寄せ、すりりっと擦り寄せてくれた。
「ごめん、不安にさせているよね。…………私にも、まだよくは分からないんだよ。近くに単独で動いている山車人形の気配があるんだ。けれども、ホールルの山車人形が逃げ出した様子はないし、昨年のものよりも精霊の気配が濃くて、そこには悪意……と言えばいいのかな、…………意図的に配列された魔術の気配がある。加えて素材は昨年のものと同じだから、あの時に使われた木の残りの部分を、誰かが悪用したのかもしれないね………」
その説明に、ネアはひやりとした。
確か、あの時に知らずに山車人形とされた精霊入りの木は、木片や木屑までもが厳重に回収され、残さず焚き上げによって破棄された筈だ。
それなのに残りがあるということは、誰かがそこまでの監視の目を潜り抜け、残りのものを持ち出したということなのだろうか。
(……………最近は、そんなことは起きていなかったのに)
海竜の戦のように、外からの訪れの災厄ではなく、こうしてこのウィームという土地に降りかかる悪意が呼び込む災いを、ネア達が正面から受け止めるのは久し振りだ。
実は、そのようなことはネアが最も恐れていることの一つで、何よりもディノを巻き込みたくないと思っているものでもあった。
やっと心を寛がせて体を伸ばした生き物に、やはり油断がならないのだと警戒させてしまうことは、魔物という確かにどこかは人間との価値観が違う生き物に、どんな決意を促すか分からない。
上手く言えないけれど、ディノが、がっかりしてしまいそうで、ネアはまだ姿の見えない妙なものを疎ましく思う。
(ディノが心を縮こませてしまわないか、戻り時の事件の時もあんなにハラハラしたのに…………!!)
だから、そんなことを何よりも苦しく思う身勝手な人間は、すぐさま大事な魔物を抱き締めた。
「…………ネア?」
「私が必ずどうにかしますからね。ディノに怖い思いなどさせるものですか!」
ふんすと胸を張ってそう宣言すれば、なぜかディノは、目を丸くしてからふわっと微笑んだ。
こちらを見る瞳から鋭さが少し剥がれ落ち、少しだけいつもの魔物らしい嬉しそうな様子を見せる。
「…………君は、動く精巧な人形が怖いのだろう?私が守ってあげるから、こうして腕の中にいてくれるかい?」
「む。しかし、ディノも苦手なものなのでは…………」
「壊さずに押さえる力加減が難しいだけだよ。………本当は、君をどこか離れたところに隠すべきなのかもしれないけれど、どのような経緯で生まれたものなのかが分かるまでは、念の為にこうして側にいて欲しいんだ」
時として手を離すということが、そのまま別れになることがある。
だからネアは、ディノがそう言ってくれて嬉しかった。
きりりとして頷くと、魔物はまた微笑んで、ネアをしっかりと抱え直した。
「エーダリア様達には…………」
「ノアベルトには伝えてあるが、こちらには呼んでいないよ。祭りのものではなさそうだからね。………ただ、このような仕掛けがあるのなら、彼らにも用心をさせた方がいい」
「何が仕掛けられているかが未知数だから、私にも箒を待たせたのですね………?」
「…………うん。こちらに真っ直ぐ向かって来たものだ。私達のことを知った上での襲撃であれば、不確定要素についても予め備えるべきだろう。…………では、目を閉じておいで。…………来たようだ」
そう、後頭部にそっと手を当てて、ディノはネアの顔を自分の首元に埋めさせた。
(あ、………………)
濃密な霧が肌に触れたような冷たい気配に、ネアはよくないものが近付いたのが分かった。
すぐに、がっしゃんという重たいものが着地する硬質な音が響き、それに続いて石畳を硬いものが引き摺られるような、耳障りな音が続く。
音の感じからして、昨年の山車人形とは形状が違うようだ。
(ディノが目を閉じているように言うからには、私の苦手な形状のもの?)
なぜか、緑の草地を踏みしめた時のようなぷんと濃い緑の匂いがした。
ドクダミのような独特の香りだが、ネアは決して嫌いではない。
「リーエンベルクノ、リョウシュニチカイモノヲ、コワス」
(……………喋った!)
先程の音がした方から声が聞こえてきて、喋るとは思わなかったネアはぞっとする。
機械仕掛けの人形に生き物の真似をさせているみたいで、酷く不自然な声にぐぐっと唇を引き結んでしまう。
片言であることを除けば穏やかな女性の声なのに、とても歪んでいて、それでいて無機質で、ざわざわの肌が粟立つような不快感を齎すのだ。
「おや、喋れるのだね。人形師に余程根気よく育てられたらしい。………新しいものに知能を与えるのは厄介なのだけどね」
そう呟くディノの声が聞こえた直後に、周囲に物凄い轟音が響き渡った。
ギャオンと響いた音は、思わず耳を塞ぎたいくらいの大きさで、その音の衝撃波を体に感じる程。
「…………っ?!」
驚いたネアが小さく悲鳴を上げれば、宥めるようにディノが体に回した腕に力を込めてくれる。
それは、生き物ではないものが上げる悲鳴にも似て、木が軋む音を何百倍にもしたような鋭くひび割れた響きだった。
(な、何が…………)
ディノは安心させようとしてくれたのだが、思わず顔を上げて振り返ってしまったネアが見たのは、蜥蜴の尻尾めいたものを持つ、巨大な案山子のような不思議な人形だ。
顔の部分の面には二本の角があり、子供の頃にサーウィンのお祭りで見た怖い魔女の人形のように鼻が長い。
「ほわ、…………尻尾案山子…………?」
見てしまえば、思っていた程に禍々しくはないのだが、どこか素朴なものを基盤に作られた人型としての稚拙さこそが、妙な気味の悪さに繋がっているのかもしれない。
「…………ネア」
「ふにゅ。ごめんなさい、うっかり顔を上げてしまいました…………」
そちらを見てしまったネアに、ディノが悲しげに息を飲む。
そっと頬に触れた手の優しさに、せっかく心配してくれていたのにとネアはすぐに謝った。
「あれは私からすると、とても悍ましい生き物なんだよ。でも、君は見ても、…………大丈夫なのだね?」
微かな困惑を浮かべ、そう言ったディノにネアは目を瞬く。
言われてみれば確かに複数の特徴を重ねて持つ人形なので、この造形の何かは合成獣を嫌う魔物にはそう見えるのかもしれなかった。
「ええ。好ましくはありませんが、見ていられない怖さのものではありません」
「…………良かった」
「ディノがとても思い詰めた様子だったのは、この形状が原因だったのですね?」
「うん。…………それと、材料の木が育ち始めていることかな」
「…………木が?」
それはどういうことだろうと首を傾げたネアは、直後にディノの拘束を引き剥がしてがっしゃんと飛び退った巨大案山子に驚いた。
昨年の山車人形もかなりの難敵だった筈だが、ディノが一度捕まえたものに逃げられるということはなかった。
それなのに、この案山子人形はそれを可能としたのだ。
案山子という形状からどうしても直立状態ではあるのだが、背面にある蜥蜴の尻尾のような部位で、体を支えているらしい。
案外、性能重視でつけられたパーツなのかもしれなかった。
「ディノ………。箒を使いますか?!」
「いや、そこまでではないよ。ただ、このウィームの土地の魔術を食べながら、あの人形はとても早い変化を繰り返して成長しているんだ。悪変した植物の精霊が核になっているから、属性や質が安定していないんだろう………」
「そ、育っているのですね……………」
言われてその案山子を見てみれば、確かに軸となっている十字の骨組みに使われた木が、目まぐるしく体表の皮の色合いを変えているではないか。
さざ波のように色を変えるその様子に、ネアは怖くはないと言ったものの、背筋が寒くなる。
上手に言葉に出来ないし、自分でも腑に落ちないのだが、形状が恐ろしいと言うことはないのに、爪先から怖さが這い上がってくる。
目の前のものは異様で恐ろしいものだと理解してしまったことで、体が本能的に怯え出しているのだろうか。
「ウタコイ、…………コワス。ウタ、………キシト、オンナのウタコイ」
「……………ふうん」
ひび割れた声でそう言った人形に、ディノの気配が一瞬で凍えるような冷たさに転じた。
ギャオン
その刹那、めりめりと案山子の足元の木の骨組みが裂けて捻じ曲がり、人形は悲鳴を上げた。
まだ心がないので案山子本人も理解出来ていないのに、それでも恐怖にかられて叫んだような悲鳴がまた通りに響き渡る。
これだけの轟音が響いても、誰かがやって来る気配はない。
恐らく、ディノが魔術で土地を閉ざしてくれていたりして、領民達が巻き込まれないようにしてくれているのだろう。
「ムイ!」
ネアがそう思ったところで、懐かしい声が聞こえた。
はっとしてその声の方を見れば、石畳の歩道にいつの間にか、羊の人形のような煤色のもしゃもしゃとした毛並みに、ちょっと左右でずれたおとぼけ顔のぬいぐるみのような、篝火の色の瞳を持つ頼もしい小さな影がある。
「まぁ、焚き上げの魔物さんです!」
「トルチャ、すまないね」
「ムイ!…………ムイムイッ!!」
ディノが呼んだのだろうかと考えていると、焚き上げの魔物は、任せ給えと胸を張り、足元を捻じ折られて上手く立てずに踠いている案山子の方を見る。
「ムイ…………ムイ」
「やはりそうか。山車に乗せられていたようには見えないけれど、この祝祭の祝福を既に得ている。山車の骨組みのどこかに隠して組み込まれていたのかもしれないね…………」
「ムイッ」
凛々しく頷くと、トルチャはびょんびょんと弾み案山子に近付き、最後はとてててとちびこい足を高速で動かしてすぐ近くまで走って行った。
ネアは、小さな焚き上げの魔物がばしんと潰されてしまわないかはらはらしたものの、トルチャはマッチ棒のような細い前足で胸元をごそごそしてから、じゃん!と、昨年も見た魔法の杖のようなものを取り出す。
「ムイ」
「うん、魔術の証跡は読み取ってある。焚き上げてしまって構わないよ」
「ムイ!」
ぎゅんと、動けない案山子の周囲に、光る円状の魔術陣が描かれた。
息を飲んで見守っていると、ぴっと振られたトルチャの杖に合わせ、その魔術陣にぼっと炎が入る。
びりりっと空気が震えたので、案山子はまた悲鳴を上げたのだろうか。
けれども今度は、ディノがそっと手で耳を押さえてくれただけでもう、ネアの耳には届かなかった。
「ムーイ!ムーイッ!ムイムイムイ!!ムーイッ!!」
(あ、昨年と同じ節回しのような気がする…………)
トルチャが爪楊枝くらいの大きさの杖を振れば、魔術陣にはきらきらとしたものが降りかかる。
途端に炎がごうっと音を立てて最大火力になり、燃え上がった案山子が火の向こうに見えなくなった。
「ムーイ!」
トルチャは、その火の周りでまた踊り始めた。
火の中で踠き暴れる案山子の影が時折見えることで、トルチャだけを見ているとファンシーですらあるもしゃもしゃ羊の姿に、魔物らしい凄惨さを添える。
ネアが見るのは二度目だが、何とも言えない不思議な光景だ。
歌って踊るのが大好きな焚き上げの魔物は、心から楽しんでこの儀式を終えるらしい。
「………ムイ?!」
しかし、そろそろ案山子が灰になるかというタイミングで、トルチャが驚いたような声を上げた。
その直後、燃え盛る火の中から、火の妖精のような金色に光る目を持つ女性姿の不思議な生き物が飛び出してくる。
ぎょっとして身を竦めてから、ネアはそれが妖精や精霊ではないことに気付いた。
「……………もしかして、あれも人形なのですか?」
「重ね人形のようだね。…………内側に核を入れてあったのか。………トルチャ、それは火の精霊の混ざり物だ。外殻は浄化したね?」
「ムイ!」
「ではまず、あの炎を剥いでしまおうか」
そう言ったディノが火の精霊の混ざり物とやらの方を向いた時、ざらっとその周囲の空気が白く濁った。
またしても起きた異変に、ネアはびっくりするばかりだ。
「…………っ?!」
「おや、氷の魔術かな………」
そしてそのまま透明な水が一瞬で氷に転じるように、めきめきと凍りついてゆき、炎の中から出てきた小さな女性の形をした人形をあっという間に氷漬けにしてしまう。
「これでいいかな…………」
そんな声が聞こえて、こつこつと石畳を踏む音の後にネア達の隣に並んだのは、ネアもよく知っている人物だった。
「ディノ様、割り込んで申し訳ありません。あの人形であれば、俺との相性が良さそうでしたから」
「ベージさん!」
「ネア様、クッキー祭りぶりにお目にかかります。あの時は、リドワーンを助けていただいて有難うございました」
こちらを見て微笑んだのは、氷竜のベージだ。
氷竜達の中では、騎士達を統括する立場にあり、近年若年齢化が進む一族の中で、統一戦争を知る世代の氷竜でもある。
そんな彼がなぜと首を傾げると、ベージは参戦してくれた経緯を教えてくれた。
三人の向こうでは、トルチャが、人形入りの氷の柱をげしげしとちびこい杖で叩いて、何かを確かめている。
「たまたま近くにおりましたので、この騒ぎにも。お役に立てればと思い、トルチャと一緒にこの隔離結界の中に入らせていただきました」
「うん。君が入る前に声をかけてくれたから、排除しないようにした」
「…………あれは、重ね人形となると、かなり巧妙に作られていますね」
「……………この子とグラストを狙っていたようだ」
そう呟いたディノに、ベージの穏やかな眼差しがぎしりと強張ったような気がした。
「………成る程、ネア様を」
「ムイ?」
「…………ああ、すみません。そのまま炊き上げて構わないですよ」
「ムイ!」
氷漬けになってしまったものは、そのままトルチャがまた炊き上げてくれるようだ。
ネアはほっとしたのだが、ディノとベージの横顔は険しい。
「…………火の精霊を使ったものをとなると、焚き上げで油断させてから、我々に襲いかからせることを狙ったのでしょうか?」
「あの素材といい、昨年に現れた地崩れの花の精霊を取り込んだ山車人形の暴走を知る者が関わっているようだね」
「だから、このような隔離結界を?」
「模倣で再構築された魔術であれば、もう誰にも見せない方がいいだろう」
そんなディノの言葉に、ネアは昨年は確かに領民達があの山車人形の焚き上げを見守っていたのだということを思い出す。
(あの様子を見ていて、…………それが、私達を手こずらせるものだと判断したということ…………?)
眉を寄せてどんな人達がいたのかを思い出そうとしたが、領民だけではなく観光客もいた筈なので、今からの特定は難しいだろう。
「………ここに来るまでに、何か妙なものがあったりはしなかったかい?」
「…………いえ、街はいつも通りでしたが、俺では探知出来ていなかった可能性もあります。…………ああ、終わったようですね」
ベージにそう言われ、ネアは、灰だけが散らばる地面を複雑な思いで見下ろす。
じゃん!と決めポーズを取ったトルチャがふんすと胸を張っていたので、ネアは数少ない観客として手を叩いてやった。
「ムイ!」
通常のホールルであればあの灰は浄化が終わったものとして、領民達が持ち帰るのだが、さすがに今回のものはそうする訳にもいかなさそうだ。
「…………ディノ!」
そこに、ぱたぱたと軽い足音がして、ゼノーシュがどこからかやって来た。
一緒にいるのはグラストで、石畳の上に残る灰を見て、こちらも厳しい表情をしている。
「ディノ殿、ネア殿、お怪我はありませんか?」
「こちらは問題ないよ。…………その様子だと、他にもいたのだね?」
そう尋ねたディノにネアはぞっとしたが、幸いグラスト達は無傷のようだ。
「ええ。教えていただいたお陰で発見出来ました。…………幸い、大きなものではありませんでしたし、いただいていた傷薬で全快しておりますが、騎士達が二人ほど負傷しております。………祝福の込められた人形ですから、我々だけでは難しいところでしたが、たまたまハツ爺さんが近くにいまして、あっという間に無効化してしまいましたよ」
「…………むむ、ハツ爺さんと言うと、あの夏至祭の?」
ネアが目を瞠ってそう尋ねると、グラストが苦笑して頷いてくれた。
「彼は、調伏魔術の大家でもありますから。それに今回は人間の魔術の領域のものだそうで、扱い易かったそうです」
浄化を済ませた山車人形は、少しもぞもぞする程度に鎮められているので、後は他の人形達と一緒に焚き上げるだけで済むそうだ。
「……………これだけ複雑に幾つもの要素を織り上げるとなると、力のある魔術師かもしれないね。微かな残滓から辿った限りでは、信仰の系譜の魔術の気配がある。…………この土地の術者ではないようだ」
「ハツ爺もそう言っていました。…………安易に考えてはいけませんが、信仰の系譜の魔術となると、やはりガーウィンでしょうか………」
小さく呟き、グラストが眉を寄せる。
そんな苦しげな表情になったグラストを見上げて、ゼノーシュの檸檬色の瞳にも微かな怒りに似たものが過る。
普段は愛くるしいクッキーモンスターだが、大好きなグラストを苦しめるものは絶対に許さないだろう。
“…………グラスト、そちらはどうだ?”
その時、ざざっと魔術のノイズのようなものが響き、グラストの持つ魔術通信端末からエーダリアの声が聞こえた。
「は。こちらは無事に浄化を終えていただきました」
「そうか。西側の地区にも一体現れた。ノアベルトの見立てでは、その人形達がどの山車に組み込まれていたのかは分かるそうだ。二体も乗せるとなると、山車に浸透する祝福が薄まり元の山車人形の動きが鈍るそうだが、それはなさそうだ。恐らく、山車人形が乗せられていなかったものに隠されていたのだろう」
「エーダリア様はご無事ですか?!」
その声に苦々しい響きが混ざり、ネアは我慢出来ずに割り込んでしまった。
これは、ディノですら扱いに苦労するようなものなのだ。
大事な家族の誰かが、怪我でもしていたら大変だと思ったのだ。
「ああ、こちらは心配ない。ネア、お前も無事だな?」
「はい。ディノとトルチャさんと、氷竜のベージさんが斃してくれましたよ」
「そうか!…………我々だけの目では見落としがあるといけないからな、ヒルドが幾つかの………団体に、協力を依頼してくれたのだ。…………くれぐれも礼を言っておいてくれ」
「はい。ベージさんには、私からきちんとお礼を言っておきますね!」
エーダリア達の方でも捕まえたものがおり、通常通りにホールルの正規の山車人形も脱走したので、トルチャは一度そちらに向かうことになった。
今日は多忙になるかもしれない焚き上げの魔物の為に、ディノが転移を手助けしてやったようで、もしゃもしゃ羊な焚き上げの魔物はムイムイ鳴いて感激していた。
「この灰は私が集めておこう。浄化されたものだから何の魔術も残されていないにせよ、置いてゆかない方が良さそうだからね」
「申し訳ありません、お手数をおかけします。…………ゼノーシュ、近くに他の山車人形の気配があるか?」
どこかを困ったように見ているゼノーシュにはっとしたのか、顔を曇らせてグラストがそう尋ねている。
するとゼノーシュは、なぜだかネアの方を見て、少しだけしゅんとするではないか。
「…………うん。近くに一体いるみたい」
「…………ゼノ?なぜに私を見るのでしょう?こ、ここにいるのは人形ではなく、本物の私ですよ?」
ネアは一瞬、自分が人形だと疑われているのかと思って焦ってしまったのだが、そうではなかったらしい。
ふるふると首を振ったゼノーシュは、博物館の方に向かう大通りの向こうに、一度視線を向けた。
「…………あのね、この近くにいるのは地崩れの花の精霊の入った人形じゃないんだ。普通のホールルの人形だよ。…………でも、ネアは苦手だと思う」
「…………なぬ」
こういう時、人間はとても嫌な予感がするらしい。
ネアの脳裏に過ったのは、今年のホールルの目玉の姫人形であった。
とても嫌な予感を覚えながら、ディノの三つ編みを自発的にぎゅっと握ると、そちら側から来るものを遮ってくれるかのように、ベージが前に進み出てくれる。
「ひ、姫人形はお断りします!絶対に見てはいけない系のものの気がするので、姫人形だけは!!」
「ごめんね、ネア」
「ゼノ?!」
それはもう確定の謝罪ではないかと、ネアが震え上がったその時だった。
何か質量のあるものが物凄い速さでこちらに向かって来るような音がして、ネアは魔物の乗り物の上でびゃっと飛び上がる。
「ネア、顔を伏せているといいよ」
「ふぁい。み、見ないように顔を伏せていますね。…………み、みぎゃ?!」
しかし、その判断をするには、いささか手遅れだったようだ。
ぞろりと近くの建物の壁に現れたのは、四つん這いのような体勢で壁を登る金髪の女性の姿で、関節のある手足の様子から間違いなく人形である。
「…………通常の、ホールルの人形も逃げ出す時間帯でしたね」
そう呟いたベージに、グラストも小さく呻いている。
いつの間にか遮蔽空間が解けたらしく、周囲には脱走した姫人形を一目見ようと、わらわらと集まってきた領民達の姿もあり、お祭りらしい賑やかさが戻ってきた。
「…………きゅっ」
しかしネアは、壁を這い登る姫人形を見てしまったことで、心の容量がもう限界に達し、くしゃくしゃになってディノにへばりつく。
「…………あの人形も、かなりの魔術を纏っているのだね」
「仮面を作った魔術師が、理想のお姫様を作ったんだって。エーダリア達も、出来が良過ぎるとみんなが気持ちを動かされるから、魔術を集め易いって心配してたよ」
この会話を聞くに、姫人形もなかなかに手強い山車人形なのだろう。
ネアが、よせばいいのにそろりと視線を少しだけ持ち上げると、姫人形は近くにあった窓の一つに少しだけ開いている箇所を見付け、その隙間に手をかけてがたがたと揺さぶっている。
中に入り込もうとしているのだろうが、ぎゃーと家主の悲鳴が聞こえたので、屋内にいた人は、室内に入り込もうとしている姫人形と対面してしまった模様だ。
涙目でもう一度ディノの肩に顔を埋めたネアは、凄みのある程の美貌だというその顔だけは絶対に正面から見てはならないと、自分に言い聞かせる。
(見たら、当分の間一人でお風呂に入れなくなる!!)
通常の山車人形とは言え、ネアからしてみればこちらの形状の方が格段に攻撃力が高い。
まだ、先程現れた人形の謎も解けていない状態であるし、ホールルの波乱はまだまだ続きそうであった。