縄の称号と誘惑の軟膏 2
三人が腰を落ち着けたのは、アルビクロムにある一軒のカフェだ。
アルテア曰く、アルビクロムの料理は最悪だが、珈琲だけは、泥水のような代物を売り出す悪質なお店を上手く避ければ、なかなかのものもあるらしい。
まずは案内された座席の周囲に音の壁の魔術を巡らせ、まどろっこしい偽名でのやり取りを省略出来るようにする。
座席間隔はそこまで狭くないボックス席の仕切りなのだが、あれこれ話すにも公の場では気まずい会話が多いので、この音の壁はアルビクロムの勉強会では必須の運用である。
「…………すまない。暫く外させてくれ。すぐに戻ってくるから、俺はそれから注文をするよ」
店に入るなり、なぜかウィリアムが一度退出した。
仕事が入ってしまったのだろうかとネアがはらはらしていると、なぜかアルテアは半眼になっている。
「赤羽の妖精の侵食だな…………」
「……………大丈夫なのですか?」
「悪意や意図的なものがなくても、誘惑に長けた妖精は、その感情で周囲の者を汚染し易い。さっきのあいつはシーだっただろ。ウィリアムが最後に膝をついたのは、その影響を強く受けたからだ」
「……………むむ?感情を?」
「端的に言えば、強力な媚薬を飲まされたようなものだな。擬態を解けばすぐに洗い流せるから気にする必要はない」
「…………まぁ。それで私も、少しだけお腹が空いてしまったのですね」
ネアがそう言うと、アルテアは小さく溜息を吐いた。
とても呆れてはいるものの、どこかほっとしたような目もしている。
「もし、妙な体調の変化があったら俺に言え。…………くれぐれも、ウィリアムには言うなよ」
「…………む?」
「あいつは余裕がなさそうだからな。魔術洗浄どころじゃなくなる」
「アルテアさんは大丈夫だったのですか?」
ネアがそう尋ねると、アルテアはふっと微笑んだ。
魔物らしく仄暗い艶やかな美貌はどこか秘密めいていて、そこにはその程度で狂わされはしないという男性的な自尊心も垣間見える。
「俺の資質でか?」
「…………アルテアさんだからこそ、そんな影響は受けないのでしょうか?」
「愉しむとなれば、それなりに受け付けるけどな。…………試してみるか?」
唇の片端を歪めて笑い、罪を唆すように低く囁いた魔物に生真面目に頷き、ネアは噛み締めるような思いでお願いしておいた。
「では、いつかまた練習のお相手を頼む時には、そういうもので恐怖心を紛らわせてから来てくださいね」
「……………お前、言ってる意味がわかってるのか?」
「…………む?し、しかし、くいっと一杯やって変態の領域に踏み込めるのなら、その隙に私の被験者に……」
「お前な………。奴等も、それだけで終いにする訳でもないだろうが。やるならやるで付き合ってやるが、最後まで責任を取れよ?」
「さ、最後と言うと、筍巻きですか?」
「……………は?」
唖然としたアルテアに、ネアはかつて栞の魔物が祝福を与えてくれたその種の縛り方の本の最後の頁にあった、筍巻きという最終奥義について説明した。
「大樽いっぱいの縄で、筍に見えるようになるまでひたすらぐるぐるに巻かれる技です。巻きつけるのに丸一日かかりますが、冬場は暖かいのだとか」
「やめろ」
「解放する時には、解くのではなく縄の部分をざくりと切って、筍を剥くようにするそうですよ。それはウィリアムさんが得意そうですね………」
「二度とその話題を出すな。いいな?」
「自ら最終奥義について触れたくせに、なぜに叱られたのだ。解せぬ」
ネアは、魔物の相変わらずの気紛れさに眉を寄せつつ、メニューを見てそわそわした。
ただの珈琲を楽しめる程にまだ心が整っていないので、是非にホイップクリームの乗った甘い飲み物を頼もうと考え、ふんすと頷く。
魂を削った労働の対価としてはケーキなどが足りないが、それはまた後程考えることとしよう。
「私はこの、牛乳たっぷり珈琲の上に杏風味のホイップクリームが乗ったものにしますね」
「気取り屋だな」
「何だか釈然としない名称の飲み物ですが、美味しければ気取り屋でも構いません」
アルテアはなぜか普通の珈琲を二つ頼み、ネアは気取り屋を一つという注文を回避してメニューを指差す方式でオーダーを乗り切った。
飲み物はすぐに届けられ、店員のなかなかに色っぽい女性が、アルテアのカップの下に何か紙を折り畳んだようなものを忍ばせてゆく。
「む。もてもてですね!」
「…………うんざりだな」
「むぐぅ」
ネアはここで、そんな風にアプローチされたことのない一般人としての口惜しさから、小さく唸った。
ネアだって夢も希望もある乙女であるので、見ず知らずの素敵な男性から小粋に連絡先を貰ったりしてみたいという憧れはあるのだ。
それを、持てる者の余裕で蹴散らしてゆくアルテアの姿に、小さな僻みで唸ったのだった。
「むぐる…………」
「言っておくが、こんなものに手を出したことはないぞ」
「………………むぐ。追い打ちをかけられました。むしゃくしゃするのです」
「何だ、気になるのか?」
ふっと微笑んでそう尋ねられ、ネアは思ったより苦い飲み物をストローで吸い上げる。
上に乗っている杏のクリームは美味しいのだが、如何せん圧倒的に量が足りないし、下のミルク珈琲部分もお砂糖を下さいと言いたいくらいにまだ苦い。
元の珈琲がどれだけの濃さで抽出されたのか、謎の深まる一品であった。
「私だって、あんな風に小粋に連絡先を貰ってみたいのです!どうすれば、そんな風にさり気なく貰えるのですか?目配せなどは必要なのでしょうか?」
「……………そちらの意味なら、お前には死ぬ迄縁のない話だな」
「むぐ?!なぜに頬っぺたを伸ばされるのだ、ゆるすまじ!」
怒り狂ったネアが唸っていると、席を外していたウィリアムが戻ってきた。
注文はまだだったのだが、アルテアが二杯頼んでいた珈琲のカップを一つ手に取り、相変わらず苦いなといいながらごくりと飲んでいる。
アルテアも特に何も言わないので、最初からウィリアムの分として頼んでおいたのだろう。
仲良しではないか。
「それで、………どうして仲違いしてるんだ?」
「仲違いに見えるのか?教育的指導だろ」
「むが!淑女の頬っぺたを伸ばしてはならないのです。むぐる!…………ウィリアムさん、アルテアさんが、小粋に見知らぬ方から連絡先を貰える技を伝授してくれないのですよ!」
「…………………ん?」
にっこり微笑んだウィリアムに首を傾げられ、ネアは小さな憧れと、そんなネアの憧れを享受しているくせにコツを伝授してくれない悪い使い魔について訴えた。
「………………ネアには、シルハーンがいるだろう?」
「そういうものとは、少し違うのです。羽目を外したいのではなく、勿論連絡を取ったりすることもないのですが、………………私もなかなかのものだとわくわく出来るような自己評価を高める出来事の一環として、一度くらいあのようなお手紙を貰ってみたいと憧れてしまうのです…………」
「ネア、だがその場合は俺達も、………危険を未然に防ぐ必要が出てくる。あまり無為に命を奪いたくはないんだが…………」
「………………抹殺されてしまうのはなぜなのだ」
「お前には会があるだろうが。それで充分だろ」
「かいなどありません」
ネアは抗議の思いを込めて椅子の上で一度弾み、また苦い飲み物を啜った。
ザハのメランジェが飲みたいと心から思い、しかしながらこのくらいの刺激がないとこれからの修行を乗り切れないのかもしれないと考えをあらためる。
「つ、次は舞台なのですよね……………」
「ああ。初心者をその道に導く為のものだったから、比較的難易度は低めだと思うが…………」
そう言ってウィリアムが出してくれたのは、その舞台公演の為のチラシのようなものだった。
艶々とした上質な紙には、流麗な絵が描かれており、仮面のご婦人が同伴者の男性を鞭でぴしりとやっている。
「…………特別な夜をあなたに。ほんの少し、刺激的な演目があるという建前で、あなたの恋人をこちらの世界の入り口へ。初心者の方にも入りやすい扉から、魅惑的な夜をお届けします…………」
思わず読み上げてしまい、ネアはふるふるした。
そっとウィリアムを見れば、微笑んではいるが若干瞳には力がない。
あまり造作などまでは擬態していないので、美貌を曇らせて小さく息を吐く姿はどこか悩ましくも見えた。
「……………アルテア、中で飲食も出来るようですよ?どうしますか?」
「嗜好のない者を引き摺り込む為の舞台だろ。その中での飲食なんぞ有り得ないな」
「それはまさか、混ぜ物的な…………」
「隠されているというよりは、その手の祝福を謳った商品が間違いなくあるだろうな」
「なんと…………」
ネアはぞっとして、手の中のチラシに視線を落した。
確かに、気のない者をこちらの道に引き摺り落とすには、そのくらいの小細工が必要になるのかもしれない。
「そして、御来場者の皆様には、特別な夜を後押しする素敵な贈り物を用意しているそうです。…………むむ。特製ハンドクリーム?」
「俺はいらん」
「パチョリとラベンダーの、甘い香りがするそうですよ。そして、肌が少しだけきらきらして魅力的に見えるそうです。ハンドクリームの塗り合いっこで仲を深め、そこからお互いの肌に触れるきっかけにするのだとか」
「欲しいならやるぞ」
「………………べったりもったり系のクリームは苦手なので、どんな使い心地かによりますね…………」
ネアはそう呟き、視線でお伺いをたててウィリアムの珈琲を一口貰ってみた。
先程からずっと、この珈琲の原液がどれだけの苦さなのか気になっていたのだ。
「むぎゃ!」
「お前の舌じゃ難しいだろうな。豆自体は普通だが、焙煎方法と抽出の祝福が独特なんだ」
「…………確かにお味はそこそこかもしれませんが、苦い飲み物が好きであるという前提が必要な珈琲でした……………。ふぎゅ、甘いもの……………」
すっかり弱ってしまい、メニューにあるチェリーパイは言われる程にまずいのかどうかを試そうとしかけて、ネアは横から伸ばされたアルテアの手にメニューをぱたんと閉じられてしまった。
そしてどこからか取り出された美味しい何かを、ぎゅむっとお口の中に押し込んで貰う。
「………………中にキャラメルのぱりぱりしたものが入った、美味しいチョコレートです!」
命の一粒ですっかり元気になり、ネアはふうっと息を吐いた。
そこからは、最近のディノの振る舞いや、リーエンベルクで何か問題が起きていないかどうかなど、色々な話をしている内にあっという間に短い休憩時間は終わってしまう。
ネアは、怖いものはえいやっと飛び込んで早く終わらせる方なので勢いよく立ち上がったが、魔物達は現実を直視したくないのか一向に立ち上がらない。
仕方なくネアは、一人ずつ手を引っ張って立たせることにした。
アルテアは、せっかく貰った連絡先をテーブルの上に置き去りにしてゆくようだ。
それどころか開いてもいないのだが、ネアがここは礼儀として持って帰ってみるべきなのではないかと言えば、妙に嫌そうな顔をする。
「お前が口を出すようなことじゃないだろうが」
「む。確かにそうですね。使い魔さんとして終身雇用になったからにはと、最近はアルテアさんの私生活も心配になってしまっていたのですが、やはり恋愛問題については口を挟むのも野暮かもしれません。……………ぎゅむ!鼻を摘まむなどゆるすまじ!」
「はは、アルテアはすっかり懐いたな。そのせいで少し我が儘になってきたのなら、叱っておこうか」
「…………お前は黙っていろ」
そう冷やかに吐き捨てたアルテアに、ウィリアムは眉を持ち上げて穏やかに微笑んだ。
振り返ると、鼻を押さえて自分の影に隠れたネアの頭を優しく撫でてくれる。
「ネア、アルテアにはどんな女性と伴侶になって欲しいんだ?もしかしたら、俺に思い当たるような女性がいるかも知れないぞ?」
「まぁ!ウィリアムさんのお友達の方を、紹介していただけるのですか?であれば、私のお友達になってくれそうな方がいいので…」
「それは、星屑にも叶えられない願いじゃなかったのか?」
「……………むぐぅ」
わいわいしながら、すっかり陽の落ちたアルビクロムの通りに出た。
目に映ったものに、ふっと郷愁の念に駆られ、ネアはアルビクロムの夜の街を見渡す。
街並みは違えど、行き交う人々の服装やネオンサインにも似た魔術仕掛けの光る看板などを見ていると、生まれ育った世界のどこかの街を思い出すような気がする。
こんな土地で、秋の夜の雨の日に傘をさして歩いたら、物思いに耽ってしまいそうだ。
「……………ネア、不安になってきたか?」
ふわりと頭の上に手を乗せて、そう尋ねてくれたのはウィリアムだ。
ネアは微笑んで首を振ると、夕暮れの青さを夜闇の色に深くしながら、少しずつ街の色を変えてゆくアルビクロムの繁華街に視線を戻す。
「私の生まれ育った世界に、このあたりの風景は少しだけ似ているのです。………もう少し無機質だったので、こちらの方がまだぬくもりがありますが…………。何だか、少しだけ懐かしくなってしまいました」
「……………戻りたいと思うことも?」
「いいえ。もう、私の大事なものは、みなこちら側にあるので、そうは思いません。でも、ふっと、こんな風に足を止めてしまうものなのですね…………」
ネアはそこで、不思議な赤い屋根の屋台に目を止めた。
何か丸太のようなものを切り出し、パンか何かに挟んで売っているようだ。
なかなかに盛況ではあるが、買ってゆくのは労働者風の人達が多いようにも見える。
そんなに遠くはないのだが、その丸太めいたものが何なのかがまったく判別出来ず、何が売られているのかさっぱりわからないので、詳しそうなアルテアに尋ねてみることにした。
「アルテアさん、食べたいという訳ではないのですが、あの屋台で売られているのは何なのでしょう?丸太…………?」
「鯨だな。アルビクロムの川で獲れる鯨は、あの大きさになる。有名なのは衣を付けて揚げたものだが、ああいうものも出回っているな。………まずは一匹丸ごと茹でてから、漬けダレに漬け込んだものをああして切ってパンに挟んで売る。…………生の鯨が周囲にないってことは、加工済のものをどこぞから買ってきて店に出しているんだ。食えたもんじゃないな」
「…………鯨さん………」
どうやら、丸太のように見えるのは、漬けダレの色が染み込んだからのようだ。
ネアは目を瞬き、確かに魚の調理方法としては不安でいっぱいであると、そっと鯨サンドの屋台から目を逸らした。
しっとりと霧に濡れた石畳の道を歩くと、街灯に魔術の火が入った。
ぼうっと音を立ててあちこちでいっせいに明かりが灯り、街の雰囲気がいっそうに変わる。
大通りを一本入れば、そこはもう夜の繁華街らしいどこか猥雑とした様相に変わり、ネアは両隣の魔物達にがっちりと手を掴まれる。
女達の服装は挑発的になり、人目を忍ぶような早足の恋人達が通り過ぎてゆき、帽子を目深にかぶって顔を隠している紳士達が煙草の紫煙をくゆらせる。
赤や青に光る結晶石が紐にぶら下げられ、豆電球のように揺れていた。
賭け事用の道具の店の並ぶ区画では、魔術で紙吹雪がはらはらと舞い散っているお店もあって、アルテアがぎくりとしたように足を止めていた。
そして、裏通りが交差する大きな十字路のその奥に、壮麗な劇場が見えて来た。
思っていたものとはだいぶ違い、安っぽくもけばけばしくも見えない、不思議なくらいに優美な劇場だ。
「………………ここだな」
「むむ。謳い文句の通り、入り口は恋愛ものの舞台でも公演していそうな、入り易い雰囲気ですね」
「おい、何で俺が先頭なんだ…………」
「ここはもう、世慣れた方から戦場に向かっていただこうかなと………」
「だったら、席を押さえたウィルだろうが」
「はは、アージュは大はしゃぎだな」
ネアとウィリアムで、ぐいぐいアルテアを劇場の受付に押し込んでゆき、三人はどうにか予約の名前を伝えることが出来た。
ウィリアムは周到にも予約者としてアージュという名前を伝えておいたようで、受付に立っていた燕尾服の男性は、どこか表情の読めないにこやかに微笑みで、名簿にしゅっと線を引き、三枚の黒色のチケットを渡してくれる。
優美な赤い飾り文字で羽と雨音と書かれており、これが公演名であるらしい。
「お席に特別な贈りものがありますので、是非お受け取り下さいね」
そう教えて貰い、ネア達は予約の席に向かった。
(…………普通の歌劇場のように見えるのにな…………)
中に入れば、上着や荷物を預けるクロークに、今後の公演のパンフレットなどが置かれた休憩所がある。
軽食などを売っている売店もあり、今のところ気になるような要素は全くない。
行き交うお客達も普通の歌劇場のお客に見えるのだが、この中のおよそ半数はそちらの業界の者達なのだろう。
ネアの目から見ても上手だなと思うのは、売店で売られている公演のグッズが、どれも本来の意味をぼかしているところだ。
上品な黒い箱に入り小さな赤い薔薇の花の造花を飾った専用の紐などもあるのだが、演目の中に出てくる小道具を洒落混じりにお土産にしているといった雰囲気で、何も知らずにこの場に連れて来られたお客は、そんな紐を本気で使うのだとは夢にも思わないだろう。
「さっさと席につくぞ」
「さてはわくわくしてきましたね?」
「なんでだよ」
「アージュが待ちきれないみたいだから、席に移動するか。ネイ、何か欲しいものは?」
「とくにありません……………」
ウィリアムが押さえたのは、二階にある個室の席だった。
深い赤色を基調とした、上品で美しい個室だ。
個室であれば音の魔術である程度自由に会話が出来るからなのだが、ネアはきっとこのような劇場なのでそれなりのお値段に違いないと申し訳なくなる。
そんなウィリアムには、今回のお礼として安全で美味しい食事をご馳走するべく、密かにお店の下調べなどをしているので、次に会う時にはそんな店で疲れを癒して貰おう。
「…………まぁ、小さなテーブルの上に観覧のご案内がありますよ」
「どうせ、ろくでもないことしか書いてないだろうよ」
「ふむふむ。公演中はお静かに、立ち上がったり暴れてはいけません。………これは、脱走者を警戒しているのでしょうね。………給仕を呼ぶ際には、座席横にある小さな結晶石に触れて下さい。石が光ると、係りの者がお伺いします。…………確かに、気付けのお酒やお水が必要になる方もいそうです。………もう一枚のご案内は、個室のお客様用ですね。……………………ほわ」
ネアの手からぱさりと落ちた観覧のご案内を、屈んで拾ってくれたウィリアムの表情がさっと強張るのが分った。
半眼になったアルテアがその手元を覗き込み、そんなご案内用紙を毟り取ると、個室の隅にぽいっと投げてしまう。
ひらひらと落ちてゆく黒い紙には、チケットと同じような優美な文字で恐ろしい文章が書かれている。
(個室内の秘密は守られています。音の魔術を展開しておりますので、周囲の目を気にかけてその誘いを手放すことなく、お連れ様と秘密の時間をお過ごし下さいって書いてあった……………)
色々不安になってしまったのか、アルテアはまずネア達を立たせたまま、革張りの座席をどこからか取り出した布とブラシでざっと綺麗にしてくれた。
しかし、そんな座席にネアを真ん中にして座ると、すぐに通常の劇場とは少し趣の違う座席の実態が明らかになる。
「このレバーは何でしょう?…………ふぎゅ?!」
「おい?!」
「うわ?!」
ネアが座席の足元にあった木のレバーのようなものを引っ張ると、背もたれが後ろに倒れてしまい、背もたれに体を預けていた魔物達はいっせいに後ろに倒れたのだ。
ばくばくする胸を押さえながら、レバーを引っ張った体勢のままそろりと振り返ったネアは、どこか恨みがましい視線でこちらを見たアルテアと、いきなり席を倒したら危ないだろうと微笑んでいるウィリアムにふるふるしながら頭を下げる。
「ごめんなさい、引っ張るようにという印が書かれていたので、つい…………」
「…………いや、分らないよな。…………おっと、肘置きも上げて共寝出来るような椅子なのか…………」
また一ついけない発見をしてしまって青ざめるウィリアムに、アルテアは無言で椅子の背もたれを直し、ネアの頭をべしりと叩いた。
とは言え、こちらの人間はとても良いことを思いついたので、ぱっと顔を輝かせる。
「舞台を眺めているのが耐えられなくなったら、この席をばたんと倒してしまえばいいのでは?」
「やめろ。余計に厄介なことになるぞ」
「………………む?」
「うーん、環境が整い過ぎると、確かに箍が外れそうになるかもしれないな……………」
「ほら見ろ。余計な刺激を与えるな」
「むぎゅう……………」
個室席には、小さな丸いテーブルが置かれている。
その上にあった注意書きなどを読んでいたのだが、ネアは、その上に小さな布の袋が置かれていることに気付いてしゅばっと駆け寄った。
案の定、中には小さな紫水晶の蓋がお洒落な硝子の軟膏入れのような容器が入っており、親指と人差し指で輪を作ったくらいの大きさのその硝子の入れ物の中には、もったりとした白いクリームが入っていた。
ネアがいそいそと蓋を開けていると、左隣に座ったアルテアが顔を近付け過ぎないように規制する為に顎を掴んで持ち上げてくる。
それでは香りが嗅げないではないかと思いながら低く唸ると、ネアは、かぽんと外れた蓋を膝の上に置き、クリームの香りを若干離れた位置からくんくんしてみる。
「パチョリとラベンダーに、何か果物のような甘くて爽やかな香りがします……………」
そう言えば、ウィリアムが手を伸ばしたので、一度蓋を閉めてから渡してみれば、瓶の後ろ側を見ているようだ。
よく見ればそこにはラベルのようなものが張られていて、ネアは目を瞠る。
小瓶は三つあり、アルテアもその内の一つを手に取って開けていたが、特に興味を惹かれるようなものはなかったのか、またネアの膝の上に置かれた布の袋の中に戻していた。
「プラムの香りみたいだな。ほら、瓶の後ろに書いてある」
「まぁ、プラムだったのですね。結構好きな香りなので、あとはもったりべたべた系のクリームなのか、さらっと瑞々しくなるクリームなのかを……………。えいっ」
「おい、自分で試せよ……………」
ネアは、もう一度蓋を開けて指先につけたクリームを、都合よく目の前の肘置きに乗せられていたアルテアの右手の甲に塗り込んでみた。
小さく文句を言われたが、手を払いのけられたりはしなかったので、ネアはクリームというよりはやはり軟膏寄りのそのハンドクリームを、丁寧にぬりぬりしておく。
「……………ふむ。指に取ると少しべたべたするのかなと思いますが、こうして塗り込めばさらりとします。悪くないかもしれません………」
「持って帰れそうなものか?」
「はい、ウィリアムさんにも塗りますか?」
「かなり心惹かれるが、…………今はやめておこうかな。演目の刺激が強すぎた場合は、またネアの目を塞がないといけないだろう?特に問題はなさそうだったが、万が一何か仕掛けがあると困る」
「…………そうすると、またウィリアムさんの心が死んでしまいます。…………魔物さんであることを忘れずに、ご自身も守ってあげて下さいね」
「ああ、そうだった。………そうだな、いざとなれば魔術で視界や音を塞げるんだったな…………」
お喋りしている内に時間になったのか、ブザーが鳴って劇場が暗くなった。
階下を覗いてみたりはしていなかったので、どれだけのお客がいるのかは分らないが、先程歩いてきた劇場内の様子を見ている限りはかなり盛況なようだ。
そうして、舞台の幕が開いた。
最初は普通の舞台と変わらないのではと思い、すっかり安心しながら恋の始まりの場面などを楽しく拝見していたネアは、前半の舞台の転換期で心が死んでしまった。
爵位持ちだという魔物の男性が出会った妖精の少女が、突然秘密の小部屋を開いて自分の秘密を告白し始めてしまったのだ。
隣のウィリアムががくりと項垂れるのが見え、アルテアは片手で目元を覆ってしまったように見える。
ネアは、とは言えまだ大丈夫だろうかと仄かな期待を抱いていたが、放蕩者だという男性がこの程度では自分は驚かないよとやせ我慢をして彼女の手を取ってしまったので、開始当初はネアが親近感すら抱いて応援していた少女は、ではいざ往かんとさっそく鞭を手に取ってしまった。
男性は、自分の愚かな虚栄心のせいで、逃げるタイミングを失ったのだとここで気付くのである。
部屋はいつの間にか頑丈に施錠されており、妖精の閉鎖魔術はかけた者にしか解けないのだった。
わぁぁぁと誰かの遠い叫びが聞こえ、ばたーんと音がしたので、早くも何かを悟った脱走者が現れたようだ。
舞台に向かっていない方には音の魔術を展開しているので、左右の隣の個室の観客がどうなってしまったのかは分らない。
ネアはこのあたりで視線を斜め下に下げ、全ての表情を失くした。
そこから更に数分すると、ネアはちびふわは可愛いなとしか考えられなくなり、そのあたりで漸くウィリアムがはっとしたようにこちらを見ると、ネアの周囲から舞台の音も遮断してくれたようだ。
震える手で目を覆ってくれようとしてから、自分にはそんなことが魔術で出来るのだということを思い出したのか慌ててそちらに切り替える。
「初心者にあんなことをしたら、あの男性の心は死んでしまいます……………」
「ネア、彼は役者だからな、安心していい…………。アルテアは、…………あんまり大丈夫じゃなさそうだな」
「………………アルテアさんでも、いきなりの三角木馬には勝てなかったのでしょうか…………」
そちらの方を見ると、なぜかアルテアはクラヴァットを外してシャツの首元を緩めていた。
ネアの視線に気付いたのかぎくりとしたようにこちらをみた目元は、なぜか微かに赤くなっている。
ふうっと息を吐き、なぜか喉元に手を当てている。
「アルテアさん…………?」
「……………っ、触るな」
「も、もしやあまりにも刺激的な舞台に、心臓や呼吸器に負担が………?!」
「…………よし、ネアは暫くこちらを向いていようか。アルテアは、少し取り込んでいるみたいだからな………」
「む?…………それとなぜか、急に腹ペコになってきたのです。お腹が鳴りそうなくらいですが、体力を使い果たしてしまったからでしょうか?」
「……………そうか、妖精の系譜の仕掛けだったんだな…………」
「腹ペコになる仕掛けのクリーム…………」
ネアはこてんと首を傾げ、ウィリアムがそっと回収していったハンドクリームを見た。
特にまずいものは入っていなかったからこそ、魔物達が触れることを許したのだと思っていたが、何かそこに見落としたものがあったのだろうか。
ネアがもう一度蓋を開けてくんくんしようとしたところ、なぜか少し息を乱したアルテアがもの凄い勢いでその小瓶を回収してゆき、その動きの何かがまずかったのが、小さく呻いた。
慌てたネアがその背中に手を当ててやると、強張った体が小さく揺れる。
その手を掴んで止めたアルテアの手は、いつもより体温が高いようだ。
乱した吐息と、こんな暗がりの中でも光を孕むような赤紫色の瞳に深い苦悩が揺れるせいで、何だかいけないものを見ているような気持になってしまう。
「……………触るなと言われたのが聞こえなかったのか?」
「しかし、ぜいぜいしているアルテアさんを放っておけません。…………むぐ?なぜに抱き締められたのだ。まさか腹ペコで私を齧ろうと…………………ウィリアムさん?」
ネアはここで、アルテアの手を引き剥がしたウィリアムにひょいっと持ち上げられてしまい、その膝の上に格納された。
首を傾げて見上げれば、今のアルテアは少し危ないからと生真面目に諭される。
けれどもなぜか、アルテアはアルテアで、そんなウィリアムを訝しげに見ているのだ。
「…………おい、まさかお前も触れたんじゃないだろうな?」
「いえ、俺は触れていませんよ。ラベルに取扱いがアクス商会とあったので警戒したんですが、何か効果を後付するような仕掛けがあったのかもしれませんね」
「…………早く言え!」
「やれやれ、珍しいですね。あなたも確認済だと思っていたんですが、舞台が楽しみ過ぎて、気もそぞろだったのでは?」
「そんな訳あるか。……………くそっ、やっぱりか」
「……………アルテア?」
「扉に触れてみろ。遮蔽魔術だ。幕間まで開かない仕掛けだな」
「おっと、妙なところまで舞台と連動させているんですね…………。困りましたね、あなたが本気で暴れるとなると、ネアに万が一があるとまずい………」
こちらも珍しく、本当に困ったようにネアの方を見たウィリアムに、ネアはむぐぐっと眉を寄せた。
腹ペコではあるのだが、特にそれ以外に困った影響などは出ていない。
「ウィリアムさん、アルテアさんは、厄介な状況になっているのですね?」
「ああ。暴れたりしないように、少し拘束しておこうか。……………ん?」
「うむ。では私にお任せ下さい!」
ネアは、そう言うと、梱包妖精に与えられた縄を金庫から取り出し、びしっと引っ張ってみせる。
ウィリアムのやり方だと気軽に剣で床に縫い留めてしまったりしそうなので、若干焦ったのだった。
しかしなぜか、ネアが取り出した黒い縄を見た男達は、目にいっそ無防備なくらいの驚愕を浮かべて、ふるふると首を横に振っているではないか。
(荒ぶってしまうような効果があるのなら、縛ってしまうのが一番!)
恐らく、それが主催者側の意図なのだろう。
腹ペコでがおーと暴れるような効果をあのハンドクリームに仕込んでおき、乱暴者になった同行者を、ならば仕方なしと計画的に縛り上げる環境を整えようとしたのだ。
であれば、その思惑通りになるのも癪だが、そもそも今日はそんな趣向のお勉強会だったと思い直し、ここは縛って床にでも転がしておけばいいのではないだろうか。
「念の為に聞きますが、解毒剤のようなものはないのでしょうか?」
「……………そうだな、妖精の系譜の魔術は、効果を抜くのが案外難しいんだ。ましてや、ネアが塗ってやったときにアルテアはその行為を受け入れただろう?そうすると、魔術的には承諾の印になるからな。俺はあまりそういう作業が得意じゃないし、アルテアは指先もおぼつかない様子だから、ひとまず拘束しておいた方がいい。…………でも、その縄はやめようか」
「しかし、使い魔さんの面倒を見るのは、ご主人様の役目。ここはささっと縛ってしまいますよ?」
「おっと、関係性的にもまずい認識だな。…………アルテア、少し手荒になりますよ」
アルテアに一言断りを入れた後、ウィリアムはいつの間にかそんなアルテアの背後に居た。
ネアが止める間もなく、にっこり微笑んだままアルテアの首の後ろにがすっと手刀を叩き込み、アルテアは絨毯が敷かれた床に崩れ落ちる。
ネアは、厄介なものだと知らずにハンドクリームを塗ってしまった手前、不憫になってしまって床に崩れ落ちたアルテアの後頭部をなでなでしたのだが、ウィリアムから撫でるのはまずいと聞いてしゅんとした。
「………というか、ちびふわにしてしまえば良かったのでは………」
「うーん、それはそれでしんどそうだな………」
「ちびふわ程度なら、噛み付かれても痛くもないのです…………」
ウィリアムはなぜか、噛み付くんじゃないんだと微笑んでいたが、ちょっと魘され気味のアルテアを椅子に運んで安置してくれる。
その代わりアルテアの隣はウィリアムになるようで、座席変更に首を傾げつつ、ネアはウィリアムとお喋りしながら残りの時間を過ごした。
途中で何度か、舞台が終わったかどうか確認する度にウィリアムの目が死んでゆくので、劇中はとんでもない展開が続いているらしい。
アルテアは幸いにも、舞台が終わる前には意識を取り戻してくれて、一度意識を失ったことで完全に薬の効果が抜けたと、よれよれになりながらも安堵していたようだ。
このような薬は意識を失ったりすることでも効果が消えるそうで、何度かこの手のものを盛られたことがあるからなとどこか遠い目で教えてくれたウィリアムは、それを知っていたらしい。
その日の夜は、ウィリアムとアルテアと三人で、ヴェルリアの美味しいレストランで夕食を食べてお疲れ様会をしてからリーエンベルクに帰った。
劇場のお土産は、ハンドクリームとは言え珍しいものだと聞いたので、念の為にディノにいるかどうか尋ねてみたところ、こちらの魔物はなぜか目元を染めてぱたりと倒れて寝込んでしまった。
仕方なくエーダリア達にいるかどうか尋ねたところ、なぜかそちらも騒然としたので、ネアは空腹になって荒ぶるクリームの恐ろしさを知った次第である。
特定の趣味についての修行になったかどうかは定かではないが、グレーティアといういざという時に頼れる人物には出会えたようだ。
その行為に至るまでの真理についても学べたので、ネアは今後の生活に生かせたらと考えている。
かくして、大きな被害を出したものの、第二回アルビクロム勉強会は幕を閉じた。
グレーティアを訪ねる際には絶対に一人で行かないようにと言われているので、また今度、ウィリアムやアルテアに同行を頼むかもしれない。
本日のお話も、かなり長くなってしまい申し訳ありません。
どうぞ、アルビクロムの夜な三人を宜しくお願い致します。