縄の称号と誘惑の軟膏 1
その日、とうとう恐れていた日が訪れた。
第二回、アルビクロム勉強会である。
「ええと、本日はお日柄も良く…」
「おい、声が震えてるぞ」
「そう言うアルテアさんも、手袋が左右で違います」
「……………これはそういうものだ」
「目を逸らしながら言われても…………。ウィリアムさん?」
「…………ん、ああ、…………すまないな。昨晩はあまり眠れなくてな」
「まぁ、またお忙しかったのですね?」
「うーん、と言うよりは今日の為の心構えをだな、…………色々と」
そう微笑んだウィリアムに、ネアは予習しておいてくれたのだろうかと信頼に目を輝かせたのだが、アルテアは渋い顔をしている。
「こういう奴が、一番タチが悪いぞ」
「むむ。お店も決められなかった使い魔さんには、ウィリアムさんの頼もしさは分かりませんよ!」
現在三人が立っているのは、アルビクロムの繁華街の一画だ。
リーエンベルクでお留守番のディノは毛布妖怪になって荒ぶったり、足紐をつけようと画策したりしたのだが、これは婚約期間終了後の為のご主人様力を高める為の秘密のお勉強だと説得すると何故か恥じらって頷いた。
ノアはとても澄んだ目をして、それはあまり鍛えない方がいいんじゃないかなと言っていたが、楽観的な展望を語れるのは最前線でその要求に応じていないからなのである。
ここから先は、死線で生き残れるかどうか、公の場所では語られないよりディープな世界のそちら側のお作法を学ぶ為の決死の挑戦となる。
だからこそネアは、昨晩はしっかり寝て英気を養っておいた。
まずはここに記しておこう。
アルビクロム到着は午後になったばかりの頃であり、ウィリアムは白銀髪に深い青緑の瞳。
アルテアは黒髪に赤紫色の瞳に擬態しており、二人ともアルビクロムらしい服装をしていた。
この土地では、ウィーム風の服装では浮いてしまう。
よってアルテアは、こちらはいつものような漆黒のスリーピースに、ウィリアムはシャツに黒いジレ姿で薄手の黒いトレンチコートスタイルと中々に紳士風の装いになっていた。
そして最も重要なこととして、この段階ではまだ誰も、心に深刻な問題は抱えておらず、冗談を言ったり微笑んだりするだけの余裕もあったのだ。
ふわりとスカートの裾が揺れる。
この日のネアは、暗めの赤葡萄酒色のニット生地のワンピースドレスを着ていた。
アルビクロムでのネアの年代の女性はスカート丈が少し短めになるので、膝丈で終わるスカートの下にはふりふりとした黒のペチコートを詰めてある。
うっかり同志を踏み滅ぼさないように、殺傷力の低めの膝丈の編み上げのブーツを履き、手触りのいい天鵞絨の黒いフード付きのケープを羽織っていた。
勿論、姿も擬態しており、今日はラベンダーがかった栗色の髪に、瞳の色はそのままにしてある。
名前は、何かあったらノアが悪い縁を引き受けてくれるということで、いつかに使ったネイという名前を用い、アルテアはお気に入りの偽名なのかアージュと、そしてウィリアムの偽名はウィルだ。
このアルビクロムは曇天と雨のことが多く、今日も空模様はどんよりとした灰色であった。
石畳の街と煉瓦造りの建物にそんなお天気だと妙に街は暗く見えるようになり、それがまた、ホラー映画の導入部のような不穏な予感を与えてくるので、ネアはすっかり怯えてしまう。
「さ、最初の予定は………」
ネアがそうウィリアムを見上げれば、ウィリアムは微笑んではいるものの、酷く虚ろな目をしていた。
それでも安心させるようにネアには頷いてくれて、またどこか遠くに視線を戻す。
指先が震えているような気がしたが、気のせいだろう。
「…………まずは個人指導だ。梱包妖精の屋敷に向かうが、今回はシーだからな。…………その、前回のようにいきなり始めないだけの配慮はあると思うが………」
「……………ほわ、その業界にもシーの方がいるのですね」
「…………おい、お前達は前の時に何をしたんだ」
「……………誠に遺憾ながら、あの日の記憶は失いました」
「ネア、久し振りに言うが、俺を一人にしないでくれ」
かくして、ネア達が訪れたのは、アルビクロムの繁華街のとある路地の奥にある、上品な焦げ茶色に白い優美な文字で店名が記された一軒の素敵なチョコレート屋であった。
扉を開ければ執事のような雰囲気の美麗な青年がおり、慇懃に一礼してからネア達を店の奥に案内してくれる。
一瞬この青年がそうなのかと思ったネアは、背中に羽がないことに気付き胸を撫で下ろした。
綺麗に澄んだ蜂蜜色の瞳の青年が、その道の師範代でなくて良かったと安堵してしまう。
もし彼がそうだと言われたら、ネアは暫くの間、世界を疑いの目で見てしまったに違いない。
大きな観音開きの扉を開けて奥に出ると、いつの間にか再びネア達は外に出ていた。
花盛りの美しい庭園の真ん中に小道があり、瀟洒な邸宅へと続いている。
ふわっと、心をほぐすようなラベンダーの香りが漂ってくる。
雨が降ったばかりなのか、水の香りでそんな花々の香りが立ち、深呼吸をしたいくらいの爽やかさだ。
「………………ほお、屋敷としてはなかなかの趣味だな」
「なんて素敵なんでしょう!絵本の中に出てくるお屋敷のようですね」
「………住人の気質がそのまま現れる訳ではないんだな…………」
庭園の向こうに佇む家は、砂色の煉瓦の壁に蔓薔薇が絡み、淡い水色のバルコニーが美しい。
更には、景観を損なわないように手入れされたラベンダーの茂みが、玄関脇に可憐な色合いを添えていた。
庭園を彩るのも華美すぎる花々ではなく、香草や野の花などを多く好んで植えているようだ。
案内されるがままに屋敷の玄関の扉を通され、ネアはぺこりとお辞儀をしてから館の中に入る。
「…………とても素敵なお宅ですね。落ち着いていて居心地が良くて………」
「ああ、居心地のいいところだな」
ウィリアムも驚いているようだったが、そこには、恐ろしく手の込んだ森をモチーフにしたキルトがかけられてはいるものの、庭で摘んだ花を生けた花瓶があったりするくらいの、どこか素朴であたたかな雰囲気の玄関ホールがあった。
梱包妖精などという専門的な妖精ではなく、寧ろキルトの妖精でも住んでいそうな優しい空間だ。
「いらっしゃいませ。わたくしの屋敷にようこそ」
しかし、そう言いながらこの屋敷の主人が中央にある階段を下りてきたところで、ネア達は早くも凍りついてしまった。
心のどこかがひび割れる音が聞こえた気がしたが、それよりもまず、今見ているものから目が逸らせない。
(お、おじさまだけど、おばさまになってる!!)
この世界には謎の毛皮ピラミッドの霜喰いなど不思議な生き物が多いものの、ネアは、ここまで複雑な人型の生き物を見たのは初めてだった。
この手の専門的な装いを見たのは、死者の国での襲撃者であった婦人用の帽子の死者くらいのものだが、完成度と言えばいいのか、破壊力と言えばいいのか、その圧では話にならないくらいの差がある。
また、ダリルも大枠ではこちらかもしれないが、彼の場合は絶世の美女に見える完成度なのでまったく気にならない。
ネアが慄きながら見上げるそこに嫋やかに佇むのは、見事な髭がなんともダンディな素敵な紳士であり、そんな素敵な男性は、なぜか華やかな女性もののドレスを着ていた。
長い髪は見事なウェーブがかった金色で、それをぞんざいにリボンで一本に結んでいるのだが、その絶妙にほつれる後れ毛の感じがえもいわれぬ色っぽさなのだ。
この男性がもし今のアルテアのような格好をしていたら、ネアは見惚れてしまったかもしれない。
どこか困ったように微笑む優しい水色の瞳といい、魅了的な放蕩者の紳士といった風情ではないか。
(だがしかし、見事な深紫色のドレスを着てらっしゃる…………)
その背中にたたまれている羽は、鮮やかな真紅であった。
これはもう見間違えようもなく、特殊な業界のどこかの分野に君臨する御仁の登場である。
「あら、驚かせてしまったかしら」
小首を傾げてそう微笑んだその妖精に、ウィリアムが小さく咳払いをした。
アルテアはもう黙り込んでしまっており、ネアは、そんな無防備な魔物の姿に、けばけばで固まる白けものが見えるような気がする。
「………………いや、ぶしつけな反応になってしまってすまない。ここにいるのは、全員初心者なんだ」
「ふふ、可愛らしい殿方だこと」
「…………………はは」
ウィリアムの笑いも虚ろになってしまったので、ここはとネアが頑張って踏み止まることにした。
「本日はお世話になります。私の婚約者が、そのような嗜好のひとなのです。私だけでは飲み込めない叡智もあるかもしれませんので、彼の友人である頼もしいこの二人と共に、どうか初心者なりに色々教えていただけると幸いです」
「あらやだ、あなた素質あるわよ」
「……………なぬ」
「ほら、今そっちの殿方が後ずさったのを見て、背中を叩いたでしょう?んふふ。そこはいい組み合わせね。………………それと、あなたは、縛られるより縛る方がお似合いね。自分の心を覗きこんで問いかければ、実はそんなに嫌いではないでしょう」
「………………ネイ、頼むから俺から距離を取らないでくれ」
「おい、こっちに来るな。お前も素質ありなんだろうが」
すっかり戦線崩壊して若干絆にも亀裂の入りかけたネア達は、梱包妖精のシーの手で、館の離れにあるというその種の崇高な楽しみについての叡智を深める部屋に案内された。
ネアは不安のあまり二度ほど足が縺れ、その度にウィリアムかアルテアが腕を掴んでふわっと持ち上げてくれる。
魔物達がたいそう牽制し合っているのは、お互いにこの場からの脱走を防ぐ意味合いであるようだ。
「……………………むぐ」
そして、案内されたのは、心を和ませる美しい庭の中にある可憐な離れだった。
艶々光る青い瓦の屋根に小さな煙突。
かかっているのはレースのカーテンで、離れの玄関口には可愛い鹿の置物がある。
入口の扉にはステンドグラスで小さな薔薇窓があり、使い込まれた扉の木は素敵な飴色だった。
こんな状況下でなければ、ネアはこの梱包妖精に、素敵な家をもっと見せて欲しいと強請ったかもしれない。
こちらの妖精の住まいは、アルテアの趣味よりもやや家庭的な嗜好であるらしく、クッキーでも焼いて刺繍でもするのにうってつけの、優しい優しい佇まいであった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったものか。
そんなほっこりした離れの扉を開けると、そこに広がっていたのは倒錯的な専門分野の世界だ。
古びた研究室か魔術師の工房のようにも見えるが、面白い魔術道具や不思議な薬草などの代わりに所狭しと置かれているのは、ネアが後ずさりしてしまいそうなそちらの趣味のお道具達である。
何となくそちらの趣味の入門書を拝見したときに、目にしたことがあるような道具達だが、ネアはその専門名を知らないし、殆ど拷問の道具にしか見えないものもあるではないか。
「……………アージュさんが使ったことがあるのはどれですか?」
「やめろ……………」
「うわ、…………思ってたよりくるな……………」
部屋は明るいのだ。
のんびり和やかにお茶でも飲んで講義を受けられそうなその部屋に、開いた口が塞がらない程の専門道具が並んでいる様は、あまりにも異様な様子だった。
「さて、まずは座りましょうか。お茶を淹れますからね。…………ああ、勿論贈与魔術は切ってあるから、安心して下さいね。今日は皆さん初心者であるということでしたが、役割分担が出来ていそうで安心よ。私は、グレーティアと申します。皆さん、今日は私に全てを委ねてくださいね。んふふ」
「や、役割分担……………」
ごくりと息を飲み、ネアは同行者達の顔をそれぞれ見つめる。
(確か、この妖精さんは、ウィリアムさんは縛る側だって話していたような…………)
そうなると彼の専門は縛るというよりは、剣でさっくりやってしまう方なので、万が一被験者にされたらネアの精神はずたぼろにされてしまう。
ここで自己愛の強い人間はすかさず狡猾に立ち回り、はいっと手を上げた。
「はい、お嬢さん」
「ひ、紐で縛るのは得意です!そちらの真理には踏み込めておりませんが、書庫で栞の魔物さんの祝福を貰ってしまい、その日以降、特定の縛り方を習得した次第です」
「あら、それは頼もしいわね。逆に、意欲はあっても不器用だったり乱暴だったりして、ちっとも優雅ではない者も多いの。暴力と愛情は別のものよ。それが分る生徒は大好き」
「……………ほぎゅ。ありがとうございます」
ネアはその、顔面だけ見ていれば理想の紳士に近いグレーティアにいい子いい子と頭を撫でて貰い、ぎしりと固まった。
「あら、ふふ。あなたのご主人様を取ったりはしないから、安心して子竜ちゃん」
どんな表情をしてしまったものか、そう窘められたアルテアが体を揺らしている。
どんなに心に傷を負っても、教師を殺してしまったりしてはまずいので、ネアは堪えるようにとまた背中をぽんぽんと叩いてやった。
「……………あなたは、どちらかと言えばこのお嬢さんを縛りたいのね。そういう絡み合った欲望も、禁じられているからこそ燃えるのではなくて?あなたがどうしてそんなことをするのと涙目で詰られながら縛るような、そんな遊び方もあるわ」
次に攻撃されたウィリアムは、震える手で何とか飲もうとしていた紅茶を吐き出しそうになり、げふげふと咳き込んでいる。
「さて、まずは私達がこの崇高な愛に至るまでの、歴史をざっとおさらいしましょう。その後は実際に道具に触れて、得意なものや心惹かれるものがあるかどうか、試してみましょうね。…………とは言え、この欲求が生まれる理由が分れば、ある程度の衝動の説明はつくものよ。理由を知れば畏れや躊躇いも随分軽減されるでしょう」
「は、…………はい!」
もはや先生に返事が出来るのはネアだけになっており、魔物達は見たこともないような顔色でぐったりと椅子に座っていた。
何度か無言で立ち上がって帰ろうとしたアルテアの足を踏んでネアは厳しく首を振り、がたんと机に突っ伏してしまったウィリアムの背中をさすってやった。
その度にグレーティアがあなたはいい子ねぇと褒めてくれると、不思議なことにこの授業を最後まで履修してみせるという不思議な熱意に突き動かされる。
だが、お道具について説明されると、一種類につき一度心が死ぬシステムだ。
「……………つまりね、それぞれに私達は弱者であると言えるの。けれど、繋ぎ止めようとする者の方が、その心は繊細で脆弱。そう言うと反感を買いそうだけど、それがいいことなのよ。望まなければ壊れてしまうことも多いのだから、自分の欲求には素直にならなくては。服従し、繋がれる側の方が寧ろ豪胆ね。自分を明け渡すのは恐ろしいことだけど、それを成す強さがある。自分の意志がないということであれば愚かなばかりだけど、生き物は己を傷付ける為の鎖に繋がれにゆく程愚かではないわ。服従し、相手に快楽を委ねるのは、ご主人様の孤独を解放してあげる為の無償の愛よ」
そんな講義を聞いていると、何だかそれが愛というものの真理に聞こえてくるから不思議なのだ。
ネアは、最初から自分を差し出してくれたディノを思い出し、確かにあんな風にネアを怖がらせないように体勢を低くして歩み寄ってくれたからこそ、ネアは怯えずにその手を取れたのかもしれないと考えた。
(ということは、私の潜在的な弱さを感じ取って、ディノはあんな風にしてくれているのかしら?)
そんな疑問を先生にぶつけてみると、そうかもしれないけれど、その欲求は相手が安心を得られるものでもあるので、打ち切ってはいけないと教えられた。
「差し出したものを拒絶されたら悲しいでしょう?自分を差し出す術は、他に幾らでもあるわ。その中であなたの婚約者が選んだのは、その方法だったの。代替案をあげるのは構わないけれど、それが喜びに繋がるのであれば、打ち切ってしまうとお互いの信頼関係を損なうかもしれない。充分に用心なさいね」
「まぁ。…………では、こちらの負担にならない範囲では、やはり受け止めてあげた方がいいのですね」
「見ている限り、あなたはそうそうの事でもない限りは、しなやかな柳の木の枝のように婚約者の要求を受け止めてあげられると思うのだけど………………どう?」
「………………むむむ」
それは無理だとここで断言する訳にもいかず、ネアはへにょりと眉を下げた。
一応目の前のグレーティアは、その趣味の人である。
そんな人に向かって、その嗜好や哲学を否定するようなことは言えない。
ちらりと左右を見れば何か大人な言い回しでこの会話に参加してくれるかなと思ったのだが、両隣の魔物達はやはり静かである。
孤立無援になり、また困り顔になったネアに微笑むと、グレーティアは優しく頷いてくれた。
「ふふ。女より、男の方が短慮なものよ。あなたの友人達はそろそろ実地の方が良さそうね。………さぁ、ネイ。まずはどれだけ縄師としての才能があるのかを、私に見せてちょうだい」
「にゃ、にゃわ、なわし……………」
呆然とその呼称を反芻したネアに、なぜかここで突然の男前な部分を見せ、グレーティアは親指でぐいっとアルテアを指し示した。
やっちまいなというポーズに慄きながらも頷き、ネアはとさっと目の前の机に上に置かれた三種類の縄を凝視する。
「……………さ、三種類あるのですね?」
「ええ。相手の肌に映える色を選ぶのも、ご主人様の役目。さぁ、彼に似合うのは、赤かしら?それとも紫?……………あえて、清純さを示すまっさらな縄でもいいわね」
「ア、…………アージュさんに似合う縄……………」
ここでようやく、自分が被験者に選ばれていたことを理解したのか、ほとんど無表情だったアルテアがこちらを振り向く。
ネアと目が合うとちかりと赤紫色の瞳を揺らし、ゆっくりと、どこか魔物らしい冷やかな怒りも込めて、アルテアは低く呟いた。
「……………いいか。やるなよ」
「………………む。獲物が抵抗する場合は、どうすればいいでしょう?」
「あら、彼の心の準備がまだなら、まずは縛られる側の方を試してみる?痛みや結び目のきつさ、いいところなど、一度試してみるのは大事なことだから」
そう言いながらグレーティアは、ネアに何本かの縄を当てて色を見ると、首を傾げて立ち上がり、すぐ側にある棚から柔らかな水色の縄を取り出してきた。
それをもう一度ネアに当てて見ると、満足げに頷く。
そしてその縄を、無言で視線を上げたウィリアムの手にそっと持たせたではないか。
部屋には奇妙な静けさが満ち、ウィリアムは持たされた水色の縄をじっと見ている。
そして顔を上げると、なぜか不思議な苦悩に満ちた眼差しで、ネアを見つめた。
もしネアに野性の本能があり、身の危険を感じるのだとしたら、そんな野生の勘が閃いたのはその瞬間だったのだろう。
ぞくりと背筋が粟立ち、ネアはびゃんと椅子から飛び上がった。
「し、縛ります!!」
わしっと紫色の縄を掴み仁王立ちになると、ネアは勢いよくアルテアに向き直る。
こちらもすぐさま立ち上がってネアを遠ざけようとしたアルテアに、先手必勝と言わんばかりに、とうっと解いた縄を投げかけた。
「やめろと言っただろうが!」
「むが!逃がしません!!私だって怖いのです!!」
「あら、着衣もいいけれど、まずは素肌にね」
「な、なぬ?!」
「洋服の上からの行為は、かえって高度なものなの。加減を誤りがちだから、安易に試す人も多いけれど素人には向かないわ」
「す、素肌に…………」
「お前はもう近寄るな。それと、この縄を外せ。……………ウィ………ウィル。お前もそれ以上動くなよ?!」
魔物らしい凄艶な眼差しでそう鋭く叱咤したアルテアは、普通の人間であれば恐ろしくも見えただろう。
しかしネアは、縛るか縛られるかの瀬戸際にいたし、それまでの講義を真面目に聞いたことで、何となくグレーティアの指導には忠実になりかけていた。
「大変申し訳ありませんが、私の心の平安の為に尊い犠牲になって下さい。先生、まずは獲物を脱がせればいいのですね!」
「ええ。でもせっかくなら、相手がその気になるように脱がせてね。…………そうね、縄だけではなくて、拘束用のいけない道具も使っちゃう?」
「こそうくようのどうぐ……………」
「おい、ふざけるな。この手を離せ!………聞いてるのか?試したいなら後で引き受けてやるから、脱がせるにしてもここではやめろ」
「あら、案外前向きだわ彼………」
ネアはその後、己の保身の為に必死にアルテアを脱がせようとその服に手をかけていたが、逆にアルテアに捕まってしまい、肩の上に担ぎ上げられる。
そうなると何だか趣旨が変わってきてしまい、ネアはアルテアに抱えられたまま唸り声を上げて怒り狂った。
「むぐる!ゆるすまじ。私を解放するのだ!!!」
「まずはその縄を置け、それからだ」
「は!そう言えば縄を持っていました。これでこの隙に……」
「…………は?…………おい、やめ…」
ネアはそこで、手に持ったままの縄に気付いてしまい、びゅんと両手で引っ張って鳴らした紫の縄を、てやっとアルテアの体にかけた。
動揺したアルテアの手が緩んだ隙に、その体にかけた縄を勇ましく引っ張ると、赤紫色の瞳を瞠ってどこか無防備な動揺を見せたアルテアの表情にはっとする。
その一瞬の無垢さに、狩りの女王としての獲物を狩る楽しさが見えたような気がしたのだ。
(このままこの獲物を捕まえて、アクス商会に売り飛ばすのだ!)
なぜか混乱する頭で強くそう思い、危うく暴走しかけたネアを取り押さえたのは、背後から近寄ったウィリアムだった。
ふわっと背後から抱き締められるようにされ、ネアはいつの間にかウィリアムが持っていた柔らかな布の紐で、きゅきゅっと手首を縛られてしまう。
「………………ほわ。捕まりました」
「よし、これでいいかな。少し落ち着こうか」
「……………ウィルさん」
ネアは両手を前できゅっと縛られただけなのだが、奇妙な無力感にふらりとする。
「さ、刺しません?剣はなしなのです………」
「まさか、そんなことはしないよ。ほら、アージュがすっかり怯えてしまったから、こっちに来るといい」
「毒されてるのはどっちだろうな…………」
「やれやれ、せっかく助けたのに感謝の言葉もなしですか?」
乱れた服を直しながら呆れた声を出したアルテアにそうにっこり微笑んで、ウィリアムはひょいっとネアを抱き上げて、元の椅子に座らせてくれる。
そんな騒動をテーブルに頬杖を突いて見ていたグレーティアは、なぜか小さく溜息を吐くと、首を振った。
「………縛り方がいまいちね。犯罪者の拘束じゃないのよ。せっかくその子は体の形を拾うような服を着ているのだし、いい体を持っているのだから、胸を囲むように…」
「素晴らしい講義でした。ですが、俺達にはまだ実地は早いようだ。今日はこれで…」
「あら、あなたにそう言う権利があるのかしら?本当に私の指導が必要なのは、そちらのお嬢さんなのでしょう?私の講義を震えながら聞くような女の子がここまで来たのは、それが切実に必要なものだからよ。………さて、あなたはどうする?」
にっこり微笑んだ梱包妖精にそう尋ねられて、ネアはぶるぶる震えた。
死ぬ程ここから立ち去りたいが、婚約期間はもう半年もないのである。
おろおろと周囲を見回し、ネアはかくりと項垂れた。
「…………そ、その、私の知る縛り方を、着衣の上のア…アージュさんか、…………人形か何かで試して、危なくないかだけ見ていただくことは出来ますか?………その、本格的な理解を得ようとしても、やはり私にはまだ遠い境地なのです。であれば、分からないなりに、大事な婚約者に望むものを与えてあげることから始めてみようかと思うのですが……………」
ネアが震える声でそう言うと、グレーティアは目を瞠ってからにっこり微笑んだ。
早期撤退を進言したウィリアムは、片手で目を覆って項垂れている。
「…………やっぱりあなたはいい子ね。そんな婚約者に愛される男は幸せでしょう」
「グレーティアさん!」
「玄人に施されるものより、素人におっかなびっくり縛られるのが好きな場合もあるしね」
「……………ほぎゅ」
いい話で締まらなかったとしょんぼりしたネアに、グレーティアは魅惑的な紳士の眼差しでぱちりとウィンクしてくれる。
「…………宜しい。それで見てあげるわ。でも、人形はなしよ。やはり生き物とは違うから、そこで慢心すると危ないの。あなたのお友達が難しいなら、私が相手をしてあげてもいいわ。これは特別よ。何だかあなたの事が気に入ったみたいね」
「グレーティアさんで……………」
たいへん有難い申し出なのだが、やはり初対面の人を教材にするのは難易度が高い。
ネアが怯えた顔で振り返ると、ウィリアムはとても遠くを見ていた。
ひとまずアルテアよりは冷静なのではと考え、ネアは縛られた両手を差し出してそんな終焉の魔物を見上げてみる。
ウィリアムは優しく微笑んで手首の布紐を外してくれたが、ネアが縄を取り上げるとさっと両手を上げた。
「………そうだな、俺は復習の時に協力するよ。二人きりでやろうか」
「……………うむ。こちらの魔物さんは役に立ちません。…………アージュさんも頑なに目が合いませんので、先生で…」
「…………くそっ、服の上からだぞ!」
「は!獲物が寄ってきました。逃げない内にささっと縛りますね」
凛々しく頷いて、手早く紫の縄を手にアルテアに襲いかかったネアの姿に、グレーティアがぽつりと呟く。
「…………やっぱりあなた、才能あるわよ」
だがしかし、目を閉じて苦難を耐え忍ぶ殉教者の表情のアルテアを涙目で縛り上げていたネアには、そんな言葉を聞いている余裕はなかった。
ネアとて、決して、好き好んで前向きになっているのではない。
「…………ふぐ。せっかく、意を決して心を殺してやって来たのです!せっかくウィ……ウィルさんが探してくれた先生を逃したら、これからの人生で、誰が道に迷った私を導いてくれるでしょう!!」
そんな血の滲むような決意を口にしながら、紫の縄を操っていたネアの手が、途中でぱたりと落ちた。
「…………ふぇっく。限界でふ。………上手く言えませんが、素材がまずいです。ちょっと、これ以上縛ると洒落にならない感じが出て来ました…………」
そんな初心者には色めいた人型過ぎるアルテアから体を離し、ネアはててっと走ると、手を伸ばしてくれたウィリアムの胸に飛び込み、ぎゅっと抱き締めて貰う。
「むぎゅ!無理でふ!!」
「可哀想に、よく頑張ったな」
「…………おい、ふざけるな。やめるならこれを解いてからにしろ」
上半身だけを専門的に縛られて放置された使い魔は荒ぶっていたが、そんなネアの作品を眺めて、グレーティアは目を煌めかせた。
そしてなぜか、ぱちりと指を鳴らす。
その途端なぜか、ウィリアムが小さく呻いて床に崩れ落ちた。
そして、表のチョコレート屋からこの屋敷まで案内してくれたあの青年が、奥の部屋からネアに飛びかかってきたのだ。
「なにやつ!」
とっさにネアが手を伸ばしたのは、すぐに手の届くところにあった赤い縄だ。
それをびしゃっと伸ばして巻きつけ、さして脅威ではなかった青年を縛り上げると、床に転がして片足で踏みつける。
「…………ふう。危ないところでした。この方は、荒ぶる系の持病か何かをお持ちなのですか?」
「……………素晴らしい縄師だわ。私に教えられることはないわね」
「…………なぬ」
そう言われて怖々と足元を見下ろしたネアは、とても専門的に縛られて踏みつけられ、うっとりと呻いている青年の姿に飛び上がった。
「ぎゃ!おかしなものが足の下に!!」
「……………お前がやったんだろうが」
地を這うような低い声に目を瞬くと、自分で縄を解いたらしいアルテアが、ネアのおでこをべしりと叩き、そのままネアをひょいと持ち上げた。
「教えることがないなら、もう充分だな。…………おい、いつまで蹲ってるつもりだ」
そう声をかけられたウィリアムは、なぜか微かに目元を染めてよろりと立ち上がった。
「…………俺はこの状態だと、いささか不利ですね。あなたのように全ての侵食を排除出来ない。…………やれやれ、梱包とは言えやはりシーか…………」
そう呟いたウィリアムから、紙のように薄いが鋭利な刃物のような静かな視線を向けられたグレーティアは、微かな怯えを目に浮かべて両手を上げると降参の意を示した。
「………っ、やっぱりあなた達、高位の魔物ね。寿命が縮んじゃうわ。…………あら、でもこれもご褒美かしら?って、冗談よ!………ほら、あなたが隣にいたら、悪者はあなたが排除してしまうでしょう?この子はね、優しい心や羞恥心を捨てれば最高の縄師よ。婚約者には、こういう演出で楽しませるのね」
梱包妖精のシーは、そう悪戯っぽく微笑むと、ネアに五本の縄をくれた。
これが私の自慢の生徒の証と言われてネアは慄きながらもこくりと頷いたが、持たされた縄をどうしていいのか分からずに、その屋敷を出て表通りに避難してきてから途方に暮れる。
「………お二人にも、一本ずつお裾分けしますね」
「やめろ」
「……………いや、それはいらないかな」
提案してみたがあえなく拒絶されてしまい、ネアはがくりと肩を落としながら五色の縄を金庫にしまった。
お留守番の魔物に与えると大変なことになりかねないので、これは災害時用に金庫内に温存しておこう。
「ネア、…………その、少しは参考になったか?」
「…………縄は頓挫しましたが、精神論のお勉強はとても為になりました。私の魔物の深層心理を紐解けるようになるかもしれません」
「頓挫どころか、縄師の称号を得ただろうが」
「……………何のことでしょう。わたしはだれもしばっておりません…………」
「ネア、………俺から言うのもなんだが、アルテアを一人にしないでやってくれないか」
「む?」
早くもネアに記憶喪失の兆候が出始めたので、三人はひとまずお茶をすることにした。
アルビクロムはこれからが、夜なのである。