狐の揺籠と窓材の誓い
「…………まぁ、狐さんはやはりはしゃぎ過ぎてしまったのですね」
夕方、銀狐の症状を伝えに来てくれた廊下でヒルドからそう聞いて、ネアは眉を下げた。
予防接種を受けた日は出来るだけ安静にさせているのだが、今日は豆の木事件ですっかり大冒険してしまい、銀狐はリーエンベルクに帰ってくる頃にはぐったりしてしまっていた。
ネアは、慌ててゼベルに診て貰い、その噂を聞いてアメリアや近くの森に住んでいるミカエルまで来てくれることになった。
そちらにはひとまずヒルドが付き添ってくれるというのでネア達は少しだけ外していたのだが、これは予防接種後に暴れた獣の典型的な症状、つまりただの発熱だと判明したところだ。
いつもならこのような状況では力になってくれるアルテアは、かなり難しい魔術を使ったからか自室で休んでくると話してなぜかリーエンベルクのお気に入りの部屋で仮眠を取っている。
ネアはこちらの使い魔のお見舞いをしてきたところだったが、いつも扱う魔術から見れば簡単に見えたあの一瞬が、どれだけの負担だったのかをあらためて思い知らされた。
「予防接種後の激しい運動による発熱は、一晩ゆっくり眠れば治るのですよね?」
「ええ。魔物としての姿に戻れば軽減出来るかもしれませんが、そうなると予防接種の効果が定着するのかが危うくなりますしね」
「その場合、同じ予防接種は二回打てないので、狐さんが踊り去って行ってしまう可能性があるので、今夜一晩我慢して貰うしかありませんね…………」
そう呟いてネアはしょんぼりした。
ノアともなれば熱を出したくらいでもどうにかしてくれそうだが、あの小さくてもふもふふかふかした銀狐が悲しげにぐったりしていると胸がきゅっとなる。
現にアメリアは、知り合いの魔術師に頼んで病気治癒の祈祷を行おうと慌ててしまい、ヒルドから、シヴァルは夜間予防接種の窓口も担当しており今夜遅くまで忙しいのだと叱られていたらしい。
その代わり、ミカエルが雨降らしの魔術で作った雨の織り布をくれたらしいので、銀狐はそれで頭を冷やしているそうだ。
アメリアはそれで安心したそうで、涙目のまま騎士棟に戻っていったのだとか。
小さく息を吐き、ヒルドは瑠璃色の宝石のような瞳に睫毛を伏せた。
物憂げな顔をするとヒルドの美しさは冴え冴えと際立ち、ネアは思わず見惚れてしまう。
「アルテア様のお加減も、あまり宜しくないのですか?」
「仮眠を取れば回復する程度だとご本人が仰っていましたが、そんな風になってしまう程だったことに驚いてしまいました。………ディノ曰く、あの豆の木の魔術封鎖の領域は、魔術の理を応用したものだったのだそうです」
「ええ。であるからこそ、魔獣達を無理なく捕らえることも出来るのですが、今回のネア様の件で思いがけない脆弱性が露見しました。早急にそちらは対策を取ることになっております。………お怪我はなかったそうですが、恐ろしかったでしょう」
静かな声に気遣わしげな響きが落ち、伸ばされた手が頬にそっと当てられる。
ネアより体温の低い手の温度がひんやりと気持ちよく、ネアはふきゅんと心を寛がせた。
やはり、年長の家族のような人からの優しさにはふつりと緩む心があって、こうして優しくして貰えると甘えたくなってしまう。
「あの豆の木めは、まっすぐ伸びないで、ぐねぐね捩れながら伸びたのです。…………まさか豆の木酔いするとは思いませんでした。………でも、狐さんが一緒だったから、あんな高いところに連れていかれて、耳もぐわんとなりつつも必要以上に怖くなかったのだと思います」
そう訴えたネアに、ヒルドはふっと淡く微笑んだ。
怜悧な印象の強い美貌が、全てを語らずとも通じ合える人の眼差しになりこちらを向く。
「なので、あまり叱らないようにと?」
「…………ええ。もしかしたら、あのあたりで狐さんがこてんと寝てしまったのも、豆の木めに持ち上げられて、本人も気付かない内に体調が悪くなりつつあったからなのかもしれませんし……………」
そう言ってまたちらりとヒルドを見上げると、ヒルドは優しく苦笑してくれた。
「では、ボール禁止は三日間にしておきましょう。熱が長引いてはいけませんからね」
「ほわ、禁止は禁止でした………」
「勿論、魔物の姿に戻れば、やっても構いませんがそれはそれで問題になりそうですからね」
「ディノが落ち込んでしまいそうですね…………」
そんなディノは現在、ちょっとしたことで毛布妖怪となっている。
ネアが、アルテアのお見舞い帰りに、格好良く豆の木を登ってきてくれたことを事細かに語った結果、大事な婚約者の危機に木にすら登れない魔物にはどんな価値があるのだろうとすっかり落ち込んでしまったのだった。
こちらもとても悲しげではあるものの、ネアとしては申し訳ないのだが病人優先で暫くお部屋に放置している。
銀狐をお見舞いした後構ってあげようと思っていたのだが、その旨を伝えるとヒルドが微笑んだまま首を振った。
「それなら、こちらこそいつでも構いませんよ。今はエーダリア様が見舞っておりますし、まずはディノ様のお側にいて差し上げてはどうでしょう?愛する者の危機に駆けつけられないということは、存外に堪えますからね…………」
そう言ったヒルドにそっと頬を撫でられ、ネアは、きっとヒルドにもそんなことが何回もあったのだろうと考えた。
今はこうして共に暮らしているが、ヒルドはエーダリアと離れて暮らしていた期間がそれなりに長くある。
王都とウィームに離れて暮らしている間、きっと何度も側にいればと考えるような事態は起こっただろう。
「安心して下さいね。今日は、私ががっちり狐さんを掴みました!」
なので、凛々しくそう言えば、ヒルドは優しく頷いてくれる。
「そんなネア様を抱き止めるのが私であれば良かったのですが、私ではその環境下では力及ばず、怖い思いをさせてしまったかもしれません。今日は、ネア様とネイを救って下さったアルテア様に感謝せねばなりませんね」
「ふふ、でもその代わりにこうしてヒルドさんが、狐さんの看病をしてくれたり、アルテアさんのお部屋にお気に入りの雪の祝福のお水を手配してくれるのです。更には、私をこんな風に安心させてくれました」
その言葉に、ヒルドは深く艶やかに微笑んだ。
やっと物憂げな様子がなくなり、ネアはほっとしながら美しい妖精を見つめる。
夕暮れは夏よりも随分早くなり、窓の外はあっという間に秋の夜の空に変わってゆく。
虫の声が聞こえて来て、思ったよりも早い夜の訪れに慌てて寝ぐらに帰ってゆく小鳥たちや妖精達の姿が見えた。
「そう言っていただけるなら、この無力感も幾ばくかは和らぎますね」
「むむ!ヒルドさんは無力どころか凄いのですよ!私の大事な家族のような方ですし、ヒルドさんがいない毎日はもう考えられません。ここはいつの間にか私の大事なお家になったのですが、それはヒルドさんが最初に手を差し伸べてくれたから、そうなったのですから」
そう力説したネアに、ヒルドはまた微笑みを深めた。
微かに開いた羽が夜の光にいつもよりも深い煌めきを見せてくれて、今日もこんな美しい妖精の羽を見られたことにネアは密かな喜びを噛み締める。
「では、あの時にあの言葉を言った甲斐がありました。こうして家族のような存在だと言っていただけるのなら、私は、これからもネア様の手を離さないようにしませんと」
「きっとエーダリア様は勿論、ノアも同じようにヒルドさんが大好きですし、ディノもヒルドさんのことをとても頼りにしているんですよ。みんなでがっちりと手を繋いで、いつの間にかヒルドさんは大家族ですね」
その言葉にヒルドは小さく笑い、ネアをまるで宝物になったかのように思わせてくれる眩しい目で見つめてくれた。
「もしかすると、このような時にこのような立ち位置だからこそ、私はあなたの家族として我が儘に過ごせるのかもしれませんね」
そう言って満足げにもう一度ネアの頬をすりりっと母親のように撫でてくれると、ヒルドは銀狐が眠っているというエーダリアの執務室に帰って行った。
(……………かぞく)
自分で口にしたその言葉を、最初に与えてくれたのはヒルドだった。
だからネアは安心して使えるようになったのだけれど、そんなヒルドの言葉がなければ怖くて使えなかっただろう。
いつだって、望まれているのか分からないのに、最初に手を差し伸べるのが一番怖いのだ。
こうして確認するのは何度目なのか。
またもう一度、なんて素敵な家族が出来たのかとうきうきしながら部屋に戻ると、ネアは寝室の中に設置された魔物の巣を覗き込んだ。
「ディノ、巣から出てきて下さい。一緒に狐さんのお見舞いに行きましょう?」
すると小さく毛布の巣が揺れて、中から悲しげな魔物の声が聞こえてくる。
「…………泳ぐのはすぐに上達しそうにないから、木には登れるように頑張るよ」
「あらあら、そんなことをまだ気にしてしまっているのですか?木に登れなくても、ディノにはディノにしか出来ないことがたくさんありますよ?」
「……………そうなのかな」
もそもそと巣から顔を出すと、ディノは悲しげにネアを見上げた。
真珠色の髪の毛はくしゃくしゃになっており、伸ばされた手がそっと差し伸べたネアの手に触れる。
「…………君には守護があるから、日常の中では身を損なうようなことは少ないけれど、今回は具合が悪くなってしまったのだよね?それに、………アルテアにも無理をさせてしまった…………」
(あらあら…………)
そんな言葉を悲しげに言われて、ネアは少しだけ嬉しくなった。
誕生日会があったばかりだったので、こんな風にディノが友達のことを気にかけている姿を見ると、何だかほっこりしてしまうではないか。
「まぁ、…………アルテアさんのことも、心配になってしまったのですね?」
「…………そうなのかな。アルテアのあれは、疲労のようなものだろう。…………けれど、彼がそこまでの負担を強いられるのは珍しい。彼は、そうまでもしなくてもいいと分かってはいても、最も安全な手を打たなければ納得しなかったのだと思うよ」
「ふむふむ。ディノは、そんな風にアルテアさんが最も手厚いことをしてくれたのに、ディノ自身は待っていることしか出来なかったのが悲しかったのですね。であれば、そんなアルテアさんがくしゃっとなっている今こそは、ディノにしか出来ないことがあるのではないでしょうか?」
「……………あるのかい?」
目を瞠った美しい魔物に、ネアは微笑みかけた。
「はい。アルテアさんは絶賛くしゃくしゃ中なので、そんなアルテアさんの面倒を見て差し上げたり、私を助けてくれたアルテアさんが弱ってしまってしょんぼりの私の側にいてくれたり、一緒に狐さんのお見舞いに行ってくれることです!」
「それなら、私にも出来るかもしれない………」
「ええ、勿論。では一緒に頑張ってくれますか?」
「うん…………」
どこかほっとしたように微笑んで、ディノはやっと巣から出てきた。
そしてネアを一度抱き締めると、小さな声でごめんねと呟いた。
「時々、考えてしまうんだ。…………君は前よりずっと私に寄り添ってくれるようになったのに、私には出来ない事が増えているのではないかなって」
「あら、でも私はそんなディノが好きですよ?それに、ディノにしか出来ない一番のことは、私の、世界で一番大切な魔物だということです。こんな風に大切な魔物はディノしかいないので、そこを忘れずにいて下さいね」
「ご主人様!」
「それから、アルテアさんは照れ屋さんなのできちんと言葉にしないかもしれませんが、ディノのことも好きだからこそ、こうして一緒の日々を過ごせるのだと思います。自分だけ頑張って働いていると怒ってしまったりはしませんからね?ノアだって、予防接種後にはしゃぐのを止めてくれなかっただなんて、そんなことを思っていたりしませんよ?」
ネアが少しだけ悪戯っぽくそう言えば、ディノははっとしたように目を瞬き、なぜかもじもじしながら三つ編みを握らせて来るではないか。
「む。なぜなのだ」
「………君はいつも、私がどう説明すればいいのか分からないことを、そうやって教えてくれるんだ…………」
「ふふ。アルテアさんとノアへ向ける気持ちは、自分ではどうして悲しいのかをよく分からない部分だったのですね。ディノが落ち込んでいるのは、そこもあるのかなと思ったので、言ってみて良かったです!…………さぁ、そんなお二人のことは、お見舞いに行って大事にしてあげましょうね?」
「うん」
やっと元気になったディノを連れて、ネア達はまず銀狐のいるエーダリアの執務室に出かけた。
するとどうだろう。
そこでは、ちょっとした事件が起きていた。
「ネイ、熱を出しているのは分かりますが、何故そこに入ろうとするのですか。やめなさい」
「ま、待ってくれ、ヒルド。きっと具合が悪くて心細くなっているのではないか?」
「だからと言って、……………ネイ!」
そろりと部屋を覗いてみると、ネア達に気付いてほっとしたようにこちらを見たエーダリアがいる。
なぜかその服装はひどく乱れており、ネアは目を丸くした。
「エーダリア様……………?」
「良かった。ネア、何か妙案はないだろうか。ノアベルトがな、体をくっつけていないと不安になるようで、服の内側に入ろうとするのだ」
「……………ほわ」
「ノアベルトが………」
確かに、今も目の前で一生懸命ヒルドの服の内側に入り込もうとして、頭をぐりぐり擦り付けている銀狐がいる。
しかしながらふらふらなので、すぐにこてんと尻餅をついてしまった。
だからこそヒルドも追い払えず、つい手を出して抱き上げようとしてやって、またぐりぐりされることの繰り返しとなっているようだ。
「…………ディノ、柔らかくて丈夫で、ある程度の大きさのある薄手の布を用意出来ますか?」
「…………これならどうかな?」
「まぁ、ぴったりの布です!」
ネアはそれで手早く首から下げられる抱っこハンモックを作り、よいしょとエーダリアの首から下げた。
「ささ、狐さんはこっちですよ」
もがもが駄々をこねる銀狐はディノに抱っこして貰い、その首から下げる布に包んでやると、エーダリアはまるで赤ん坊を抱いている父親のように銀狐を抱えることになった。
最初は涙目でじたばたしていた銀狐も、これならべったりだと理解したのか、すぐにその中でお尻をずりりっと動かして居心地のいい場所を見付けると、そのままふきゅんと目を閉じた。
「……………寝ました」
「やれやれ、やっと寝ましたか」
「こ、これはどうすればいいのだ?」
「そのまま子供をあやす様に抱いていてもいいですし、軽くはないので、どなたかに交代して貰ってもいいかもしれませんね。ぐっすり熟睡状態になったら下ろしても大丈夫だと思いますよ」
「この程度の重さなら、殆ど気にならないな。一晩くらいなら抱いていられるが………」
「なぬ…………」
とは言えそうなるとエーダリアが疲弊してしまうので、ヒルドと交代で面倒を見ることになったようだ。
ネアとディノもそのチームに加わると申し出たのだが、こちらで面倒を見ると言ってくれたエーダリアがなぜか張り切っていたので、こちらも出来ることがあるというのが嬉しいのかなとネアはお願いすることにした。
「でも、ディノが出してくれた布のお陰で、エーダリア様やヒルドさんに甘やかして貰えるので、きっと狐さんも安心でしょうね」
今度はアルテアのお見舞いへと向かいながら、ネアはあんまりすることがなかった魔物をそう労ってやった。
「君のことも、あんな風に持てるのかな…………」
「やめ給え。あの運用が可能なのは、せいぜい狐さんくらいの大きさまでなのです」
「そうなんだね…………」
「そして、次はアルテアさんのお部屋ですよ…………む」
カチャリと扉を開けると、随分薄着なアルテアが何やら商談をしていた。
決して万全の体調ではないようだが、ビジネスチャンスを見付けてしまったのか、妙に生き生きとしている。
「…………ああ、その捕縛用の豆だ。理の領域の魔術の応用であることは知っていたが、あそこまで強固な魔術展開があるとは知らなかった。…………そうだ。それに使えると思わないか?……………いや、檻などに展開すると魔術循環を遮断された中身への影響が出そうだからな。…………ああ。やはり、隔離結界を張り合わせた遮蔽硝子などへの転用が一番有用だろう。試作品は任せるが、検証には立ち合うぞ」
ぱたんと扉を閉めて、ネア達は顔を見合わせた。
入浴したのか、まだシャツを羽織っただけの姿のアルテアは、ネア達の訪問にも気付かないくらいに通信に夢中だったようだ。
若干、体調が良くない時なので湯冷めしないか気になったが、この程度の室温であればその心配もなさそうだと言う事だった。
「……………アルテアにとっても、良い経験だったようだね」
「…………ええ。とても悪い顔をしていて、楽しそうでした。どうやら新商品の開発に使うようです……………」
となると、豆製の窓が出来たりするのかなと魔術に詳しくないネアは考え、本日は豆お断りなのでぶるりと身震いした。
「…………アルテアの為に出来ることはなさそうだね」
「むぐ。それなら、豆製の窓を想像して悲しくなった私を慰めて下さい」
「ご主人様?豆製の窓が出来ても、君の部屋には使わせないようにするよ。安心していい」
「…………ふぎゅ。本当ですか?」
ネアがそう尋ねた時には頼もしく頷いてくれたのに、この魔物は将来その約束を破ることになる。
窓の四方に魔術排除の豆の欠片を埋め込んだ強化窓は、いつの間にかネアの部屋にも適用されており、ある日、窓枠の隅っこに燦然と輝く豆の欠片を見付けたネアは怒り狂った。
一番安全なものを窓にしようねと、ディノは珍しく譲ってくれずに、ネアはいつか必ず豆よりも素晴らしい窓の補強材を見付けてみせると心に誓うのだった。