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予防接種と豆の木




天の国まで届く豆の木の物語を、幼い頃に読んだことがある。

でもそれはお伽話で、まさか自分が豆の木を登るとは思っていなかった。



否、豆の木の突然の暴挙により、ネア達は天の国ですらないとても怖い空の高みまで持ち上げられたところだ。

ネアは呆然と周囲を見回し、へばりついた銀狐もけばけばになっている。

ネアと一匹は恐る恐る下を見下ろし、びゃっとなって視線を戻した。



今日は朝から霧雨が降っていた。

そうなると土地柄ウィームには濃霧が発生してしまう。


山間や森から立ち昇るように、または、川や森から地を這いながら風に揺られるようにして、しっとりとした霧が辺りを包み込み、空からの視界は最悪と言わざるを得なかった。




「ほわ。狐さんの予防接種に来た筈なのに、お空の上に連れて来られてしまいました」



そう呟いたネアに、けばけばのままの銀狐がこくりと頷く。


眼下に見下ろすウィームの街は低い雲と霞の下に見えなくなっていて、微かに大聖堂の尖塔や、ローゼンガルデンのてっぺんが透けて見えるくらい。


こんな状況なら銀狐が元の魔物に戻ればいいのではと思うところだが、この豆の木はそもそも魔術を封じて獲物を捕らえるための封印魔術具なのだった。

だからこそ、隣にいたディノもアルテアも突然豆の木に攫われていってしまったネアを助けられなかったのだろう。



「…………うっぷ。捻りながらぐいぐい伸びてゆく豆の木に乗せられて、豆の木酔いをしました。胃の底の方がくわんとなっているので、早急にお薬を飲まねばなりません…………」


ネアはそう言って首飾りの金庫を漁ろうとしたのだが、しっかりと幹にしがみついている手を離してしまうとこれまた危ないような気がして、軽度の体調不良をこれ一つで治してくれるという万能薬を引っ張り出す頃にはすっかり涙目になっていた。


とは言え、吐いてしまったりする前に何とか間に合い、大変危険な状態の中なんとか薬の小瓶の中のさらりとした薄荷水のような液体を飲み干した。

もしこれが甘ったるい液体であったならネアに明日はなかったが、幸いにも吐きそうな時でも嚥下可能な味に心から感謝する。




(おかしいな。予防接種までは順調だったのに……………)




本日、銀狐は秋の予防接種の日を迎え、とても渋面でリーエンベルクを訪れたアルテアと一緒に、ネア達とお散歩に出ることになった。




まずは銀狐とボール遊びをしているところへアルテアに来訪して貰い、美味しい蜂蜜チーズを食べに行く話題で盛り上がる。

置いていかれそうになった銀狐は、ムギーと鳴きながらたしたしと足踏みしたので、仕方がありませんねとお散歩用のリードをつけてやったのだ。


お気に入りの艶々とした革で出来た、青灰色のリードをつけた銀狐のご機嫌は最高潮で、すっかり冬毛に変わりつつある自慢の尻尾をふかふかふりふりしていた。


ネア達が最終確認を目視で行なっていると、早くお外に出給えとばいんばいんと垂直飛びをしていたくらいだ。



『…………おい、毛並みが乱れているぞ』



アルテアがそう言い出したのは、大騒ぎで飛び散る抜け毛を懸念しているのだ。

とは言えこの日の為に最近はしっかり銀狐のブラッシングをしてきたので、ネアはふふんと微笑みを深める。



『……………おい、しっかり手入れしてるのか?』



しかし、なぜかアルテアがブラッシングすると、たくさんの抜け毛が取れるではないか。

ネアはぎくりとして体を揺らし、目を瞠った。



『お、おかしいです!私はきちんと………』

『大雑把なんじゃないのか?』

『む、むぐ!そんなことはありません。ほら、狐さんが疑いの目で見つめてくるではないですか!』

『見てみろこのブラシを。昨日今日の抜け毛じゃないだろうが』

『私はしっかり者の可憐な淑女です!狐さんのお手入れくらい…………!!』

『…………そこに一つでもお前の性質を正しく示したものがあるんだろうな?』

『おのれ、ゆるすまじ!ディノ、アルテアさんが虐めます!…………むむ、既にしょんぼり………』



どうも銀狐に甘いディノはすぐに表情に出てしまい、注射されるとも知らずにはしゃいでいる銀狐の姿に既にしょんぼりしてしまっていた。

このままでは予防接種だと銀狐にばれてしまいそうだったので、まずはネアとアルテアとで、銀狐を予防接種会場に連れてゆくこととなった。



秋が深まりつつあるウィームを二人と一匹で歩き、途中で焼き栗をマッシュしたものを絞ったお菓子の屋台を見付け、ネアが立ち止まって動かなくなってしまい、アルテアが渋々買ってくれる場面がありつつも、街の方に出るまでは順調に進んでいたように思う。



『むぐふ!美味しいれふ』

『秋告げのドレスは入るんだろうな?』

『は、入ります!』

『それと、今年のものは少しは落ち着かせたんだろうな?』

『む?』

『おい、冬ほどじゃないが秋の系譜では、無茶をするなよ?』

『うむ。つぶつぶ妖精さんがいないのなら、私としてはさしたる獲物はいないのです。もふちくも可愛くありませんでしたしね』

『それと、冬のドレスはどうするんだ?』

『……………ええと、冬の舞踏会はウィリアムさんと約束しているので、ごめんなさいなのです…………』



ネアがそう言うとアルテアは忌々しげに舌打ちしたので、分かっていて言葉の罠にかけようとしたらしい。

なお、冬告げのドレスはシシィの母親の仕立て妖精の女王が作ってくれているのだと言えば、アルテアはまた顔を顰めた。



『おい、あの女王が作るのは白い服ばかりだろうが…………』

『はい。前回のドレスもとっても素敵でしたよね』

『分かった。俺からあの女王とは話しておいてやる』

『なぜ介入してくるのだ。解せぬ』



二人はあれこれ話しながら、順調に予防接種会場に向かった。

ちょうど霧雨も止んでおり、銀狐も尻尾をふりふりさせながら、幸せそうにお散歩を楽しんでいる。

時折すれ違うペット達には、ふさふさの胸毛を見せつけてきりりと澄まし顔だ。


なお、その後に通りかかった街のクッキー屋さんから香ばしく甘い香りが漂ってきてしまい、立ち止まったネアをアルテアが小脇に抱えて移動する事態もあったものの、概ね順調だったと言えよう。



予防接種会場まであとひと区画となり、ネアは、さあっと穏やかな霧雨が降ってきたので傘を開こうかなと考えて立ち止まった。


傘を開いてしまえば、周囲から入ってくる情報が制限されるので、更に予防接種会場まで気を紛らわせられそうではないか。

霧が出てきたので、これは更にスムーズに行きそうだなとネアはほくそ笑む。



しかし、そう思うようにはいかなかった。



その直後、予防接種会場の前から脱走してきた、駝鳥のような謎の使い魔を鬼の形相で追いかけてくる男性がおり、その騒ぎのせいで、銀狐はこれから自分が連れてゆかれるのがあの忌まわしい予防接種会場なのだと気付いてしまったのだ。



駝鳥を取り押さえる通行人たちの騒ぎから、ゆっくりとこちらを振り返ると、けばけばにした尻尾をしゅばっと立ててじわっと涙目になり、ここからいつものムギャムギャの大騒ぎ鳴きが始まった。



アルテアは素早く銀狐を小脇に抱えると、はぐれないようにネアの手を掴んで会場まで転移を踏んでしまい、ちょうど列の整理で出てきていたあの仮面を首にかけた獣医師と出会えた。



『ああ、今年もこちらに来たのだな』

『はい。去年は大変助かりましたので、今年もどうぞ宜しくお願いいたします』

『直前までかなりの待ち時間だったが、今はちょうど患者が少ない。いい時間に来てくれた』

『ふむ。私と栗の成果ですね』

『ただの買い食いだな』

『では、後程。ここに並んでいてくれ』

『はい。それまで何とか狐さんを押さえていますね』


シヴァルはこくりと頷いてくれて、ネア達は無事にまた彼の列に並べたし、ちょうど行列が短くなったところだったので、銀狐までの順番は三組で済んだのも幸運だった。



(それから、大騒ぎの狐さんを無表情のアルテアさんが抱っこしたまま順番になって、あの獣医師さんが、春の時のようにお口を押さえて、アルテアさんが尻尾と胴体を押さえた息の合った作業で注射が一瞬で終わって…………)



またしても泣き叫ぶ絶好の機会を奪われた銀狐は、屈辱のあまりにぶるぶると震えながら涙目になっていた。


そして、予防接種の終了の報告を受け、転移で合流してくれたディノと一緒に予防接種会場を離れようとした時に事件は起きたのである。



ネアは、やっと治ってきた吐き気にほっとしつつ、その時のことを思い出していた。



「………確か、狐さんが鳴き止まなくて、アルテアさんにもう一度注射するぞと脅されてしまい、抗議の為に狐さんジャンプが発生した時のことでしたよね…………」



空の上でそう呟いたネアに、銀狐はまたムギーと鳴く。


アルテアに対する憤りを示したようだが、ネアは、たしたしと足踏みする銀狐が豆の木から落ちてしまいそうで、胃が下がるような思いがした。



「い、いけませんよ!落ちたら大変なので、足元をきちんと見ていて下さいね?」


慌てたネアに注意され、ぴたりと止まった銀狐はぶるっと震えてかちこちになる。

ネアと違い、銀狐の体は小さいので豆の木の上でも多少の余裕はあるのか、気を抜くとてくてく歩いてしまうのが心臓に悪い。


霧の中を抜けて伸び上がってきた豆の木はところどころがしっとりとしていて、つるりと足を滑らせてしまったらここから真っ逆さまではないか。



(…………魔術封じの豆の木が、こんな風になっているとは思わなかったな………)



ネア達が予防接種会場を出ようとした時に、ちょうど先程脱走していた駝鳥が捕獲されて、連れて来られていた。

そしてそんな駝鳥が、注射を受けている他の獣達の恐怖の悲鳴を聞いてしまい、再び荒ぶったのである。



がおうと謎の鳴き声を上げ、ネアが駝鳥だと思っていた生き物は、大きな翼のある竜と鳥の間のような、見たこともない不思議な生き物になった。


一軒家くらいの巨大な魔獣の出現に予防接種会場は騒然としたが、すぐに駆けつけた会場の警備担当である魔術師達が、その魔獣を捕獲せんと魔術封じの豆を投げていたので、そちらは大丈夫かなと思っていたのだ。

しかし、駝鳥の魔獣はその豆を展開した結界で弾いたらしく、問題の豆がネアのおでこに飛んで来たのが災難の始まりである。



ぱしんとおでこに豆が当たり、ぎゃっと仰け反ったネアは、その次の瞬間にぐいんと伸びた豆の木に天高く持ち上げられてしまった。


ちょうど飛び込んできた銀狐も一緒だったお陰で一人にならずに済んだので、銀狐の抗議のジャンピングキックを避けてくれたアルテアには感謝していた。



「…………私達は、このままずっと豆の木の上で暮らしてゆくのでしょうか?」



悲しい思いでそう尋ねたネアに、銀狐がぱさりと尻尾を落とす。

こんな豆の木の上では、ボール遊びも出来ないし、お風呂に入れて貰ったり、廊下をしゃかしゃか走ったりも出来ない。



「ふぎゅ。私はあの美味しい栗菓子が最後の晩餐でした。…………金庫の中のまるまるサラミを、厨房の保冷庫に入れた自分が憎いです…………」



さあっと、涼しい風が吹く。

すると豆の木がぎしぎしと揺れ、ネアは血の気が引いてしまった。

もしこの豆の木がばりんと折れてしまったら、地上には戻れるとしても恐怖のアトラクションになってしまう。

豆の木が倒れて来たその下の家屋も心配であるし、これだけの大きさのものが倒壊すれば、ウィームにとって大変な災害となるのは間違いない。



(何本もの幹が絡み合ってるけど、まとめたこの豆の木の太さは、大聖堂の塔くらいはあるかな…………)



この豆の木は、ネアの両手で一回りくらいの太さの幹が何本も捻り絡み合い、大きな一本の幹を形成している。

申し訳程度に葉っぱも出ているが、見える限りは幹の部分が主体ではあるようだ。



もう一度霧に霞む眼下を見下ろし、ネアはふにゅりと涙目になった。



(ディノは怖がっていないかしら。羽があれば、飛んで戻れるのに……………)



そう考えたところで、ネアはヒルドのことを思い出した。

とは言え竜とは違い、妖精の羽は雲の上まで飛ぶような作りではないと聞いている。


雲の系譜の妖精や星の妖精に日輪の妖精など、例外的に空を領域とする者達もいるにせよ、ヒルドは高度での飛行は得意とはしていない。



「……………む。竜さんなら………」



であれば、友達なのはダナエやバーレンだろうか。

この二人も今はウィームにいないしと考えかけ、ネアは海竜のリドワーンを思い出した。

個人的に呼び出す手段は持っていないものの、誰かが連絡してくれれば迎えに来てくれるかもしれない。



「…………狐さん、生還の方法が見えてきましたよ!竜さんの誰かを呼んで貰い、ここまで迎えに来て貰うのです!…………むむ、何故に首を傾げたのだ。……豆の木を踏み踏みしてますが…………まさか」



この豆の木は、魔術を無効化するものだ。

ネアは、ヒルドから妖精は羽を使ってもいるものの、魔術で飛行するのだと教えて貰ったことを思い出す。



「…………竜さんも、魔術で飛んでいるのですか?」



怖々と尋ねたネアに、銀狐はこくりと頷く。

ネアは落胆のあまりに、跨ったような体勢のまま乗っかっている豆の木の幹の一本にがくりと顔を落とした。



「……………翼の力だけで飛んでいる方はいるのでしょうか。………むむ、狐さんが何かを伝えようとしてくれていますが、さっぱり分からないのです。ひとまず、この体勢でもつるんと落ちてしまわない程度の慣れが出て来ましたので、首飾りの金庫からカードを出しますね………」



とは言え、カードの扱いはかなり慎重にせねばならない。

風で飛ばされても困るし、メッセージを書く間は両手を離している必要がある。

予防接種に出ただけなので、エーダリアがくれた魔術通信端末のピンバッチは、服につけていなかった。



「…………ふぎゅむ。豆なんて………」




ネアが、八つ当たりだと分かってはいても豆科植物の全てを憎みかけていたその時、懐かしい声が聞こえてきた。




「おい、そこにいるな?」

「ふぁ!アルテアさん!!」


ネアは慌ててきょろきょろし、驚くべきことに体一つでこれだけの距離をクライミングしてきたらしい選択の魔物の姿にぱっと笑顔になる。



服装は、先程までと同じ、細身のオリーブ色のパンツに編模様の素敵な濃い灰色のセーターのままだ。

アルテアがゆったりとした広めのタートルのセーターを着ているのは珍しかったが、編むのはこういう形のものでいいと言われたので、ネアへの編み物注文を兼ねて着てきたものらしい。


そんな服装のまま器用に豆の木を登ってきたアルテアは、ネアと目が合うと少しだけほっとしたように息を吐いてから、わざとらしく顔を顰めてみせた。



「………ったく。また事故りやがって」

「……………ふぐ」

「おい、泣くなよ。すぐに隣に行ってやる。あの狐も無事なのか?」

「ふぁい。狐さんもお隣にいます。ここは、私と狐さんを持ち上げたところなので、少しだけ絡み合う幹がたわんでいて中央に空洞があるんです……………」



ネアがそう説明している間に、アルテアは隣まで登ってきてくれると、豆の木の幹の一つに跨ったまま動けなくなっているネアに片方の眉を持ち上げた。



「…………何だその格好は」

「むぐ!好き好んでこうなった訳ではありませんし、この運ばれ方でなければ、私はとうにぽとりと落ちていたでしょう…………」

「その方がいっそ救出は早かっただろうな」

「なぬ……………」

「この豆の木は、魔獣の捕獲用に開発され品種改良されたものだ。獲物を捕まえると成長するが、魔獣を捕まえるまでは成長を止めない。今回は、お前達を絡め取ったからそのまま成長したが、豆の木が成長を止めるにはお前達の魔術保有量が足りなかったんだろう」

「………………それで、豆の木さんはどこまでも伸びてしまったのですか?」

「お前達がここから離れれば、獲物なしと判断して自然に元の豆に戻る」

「…………ほわぎゅ」



アルテアは造作もなく言うのだが、残念ながらネアには飛行技術がないので、落ちる時には地上でぺたんこになる覚悟が必要なのだった。



「…………っと、こっちに来られるか?」

「つるんとなったら怖いのです」

「ほら、ここに掴まれ。俺の体を離すなよ」

「む、むぐ!……………ぎゃふ?!」


アルテアは、豆の木の幹がうまくたわんだ場所に体を固定し、幹の一つに跨ったまま動けずにいたネアをひょいっと持ち上げて回収してくれる。

とても狭い場所なので、そこに入り込んで座るような体勢のアルテアに上から跨るような格好になったが、ネアは頼もしい使い魔にしっかりと抱き締められて胸を撫で下ろした。


その回収作業の間は、邪魔にならないようにと少しだけ上の方によじ登っていた銀狐も、ムギムギ鳴きながら二人のところに下りてくる。



「…………怪我はしてないな?」

「……………ふぁい。アルテアさん、ずっとこうして、私を離さないでいて下さいね。先程の体勢はあそこからは動けませんでしたが、その代わりに、絶妙に体にしっくりくる形に育った豆の木に落ちないようにがっちり抱き着いていられました。………こんなお空の上ですから、自分の力だけで豆の木を掴んでいるのは難しいのです…………」

「それなら、お前もしっかりしがみついてろ」

「…………むぐ。なぜにご機嫌なのだ。苛めっ子です!」



先程の豆の木の幹の代わりにアルテアにしがみついているので、本来なら淑女としてはあまり望ましくない体勢ではあるが、この場合は命がかかっているので文句は言っていられない。


ネアはぽふんとアルテアの胸に顔を埋め、しっかりとしがみついた。

ふわりと一度頭を撫でられ、身一つでここまでの木登りを可能とする魔物が側にいてくれたことに感謝する。



「アルテアさんは、木登りが出来たのですね……………」

「登れないことはないな。シルハーンは登れなかったようだぞ」

「ええ。前に森葡萄の収穫の際に木登りにも挑戦して貰ったのですが、ディノは木登りは出来ない魔物のようです。私が先に登ってしまい、ディノは木の下に置いてけぼりでめそめそしていました」



ネアは、今日もその時のように悲しい目で木の上のご主人様を見上げている魔物がいるに違いないと、眉を下げて目をしぱしぱさせた。


まだ、落ちてしまったらどうしようという怖さもあるし、そこにディノの不安や悲しみを思ったら更に胸が苦しくなったのだ。


小さく鼻をすすったネアの頭の上で、小さく息を吐く音が聞こえた。



「…………今、この木を豆に戻せる術師が呼びに行かれている。半刻もすれば地上に戻れるから少しだけ我慢しろ」

「…………ふぁい。アルテアさんは、私を乗っけたままで体が痛くありませんか?」

「このくらいでは何ともないな。………少し顔を上げろ」

「…………む?」


べったりへばりついていたネアがそこで顔を少しだけ上げると、両脇の部分を掴まれてずりりっと体を上に持ち上げられた。

先程まではアルテアの太腿の部分に跨っていたのだが、腰の辺りまで引き上げられたことで更に体が安定する。

アルテアも、これで自由に動かせるようになった足でも体を支えられるので、よりしっかりと絡み合う豆の木の幹の隙間で体を固定し直せたようだ。



「俺に豆の木を登らせたのは、お前が初めてだぞ」

「…………ふぎゅ。ここまで来てくれて有難うございます。お礼は、林檎のパイを受け取ることでいいですか?」

「なんでだよ。………それとお前は、スカートの中に妙なものを入れるな」

「むむ。ポケットの中に狐さんの換毛期用のブラシが」


そのブラシが二人の体の間に挟まって痛かったのか、アルテアがポケットから出してくれて、落とさないようにネアの首飾りの金庫に入れておくことが出来た。



「ぎゃ!」

「ただの風だ。倒れやしないから騒ぐな」

「ぎしぎし鳴っていますが、めきりとこの幹が割れてしまい、そこからばきんと折れて滑り落ちてしまったりはしませんか?」

「妙に具体的な想像だな…………」

「私の生まれ育った世界のパニックムービーでは、木の上での鉄板の展開なのです」



それは何だとアルテアが言うので、ネアはこの状況下でパニックムービーの説明をしなければならないという苦行を強いられた。


しかし、そんなことをしていると少しばかり気が紛れるのも確かなので、その効果を狙ってくれたのかもしれない。


ふと気付くと、先程から背中を撫で下ろす手はとても優しい。

風が吹いたり、豆の木がぎしりと音を立てる度にそうしてくれているようで、ネアはやはり面倒見のいいこの使い魔の姿に、微かに唇の端を持ち上げる。

ん?とこちらを見た魔物に、漸くひたひたと染み渡ってきた温度による安心感に頬を緩めた。



「こうやってぎゅっとくっついていると、アルテアさんの体温が伝わってきたのか安心してきました。豆の木めが元に戻るまでは、このままでいて下さいね。………アルテアさん、ここまで来てくれてとても嬉しかったです。本当に有難うございました」

「…………この節操なしめ」

「なぬ。なぜに叱られたのだ。解せぬ」

「相変わらず情緒も何もないな」

「むぐぅ」



すっと頬に触れた手に、顎を持ち上げられた。


その赤紫の瞳の深い輝きが、何本もの幹を撚り合せた豆の木の中の不思議な空洞の薄暗さで、魔物らしい仄暗さを帯びてどこか危うく美しい。

ふっと口付けられ、そんな魔物が満足げに笑ったような気がした。



「…………なんだ。この程度で震えているのか?」



あえやかな温度を残して唇を離し、選択の魔物はそう微笑む。

ネアはぶるぶるしながらそんな魔物を見返し、心音の激しい胸を自分の手で押さえたくなった。



「………急に家族相当の祝福を受けたということは、これからきっと、とても怖いことが起こるのですね?し、祝福が必要なくらい、危ないものなのですか?」

「……………よし、少し黙っていろ」


豆の木を元に戻す際には、きっとかなりの衝撃があるのだろう。

そうに違いないとふるふるしたネアは、アルテアの肩口のところの幹の窪みで、丸くなった銀狐がすやすやと眠ってしまっていることに気付いた。




「ほわ、狐さんが寝ています…………」

「おい、こいつの寝相はいいんだろうな?」

「…………悪かったような」



ネアとアルテアが、嫌な予感にごくりと息を飲んだ時のことだった。

アルテアが来てくれて落ち着いてしまったのか、すっかり寛いですやすやと眠っていた銀狐が、ごろんと寝返りを打った。

いつものように、お腹を出して眠る体勢になろうとしたに違いない。


思えば銀狐は予防接種を打ったばかりなので、体がほこほこして眠たくなっても仕方ないのだ。




「ぎゃ!狐さん!!!」

「馬鹿!手を伸ばすな!!」


そのまま窪みからつるんと落下し、空中にすぽんと飛び出してしまった銀狐に、ネアは慌てて手を伸ばしてしまう。

予防接種に来た時につけたままだったリードを、豆の木の上でしっかり手首に巻きつけておいたのをすっかり忘れており、慌ててしまったのだ。



結果、銀狐を掴む為に後を追って空中に飛び出そうとしてしまったネアも、そんなネアを抱えて不自然な体勢で体を固定していたアルテアも、思い切りバランスを崩した。




「むぎゃ!!!」




ネアはその時、純白に空の上から落とされた時のことを思い出した。

あの時はモモンガのポーズが可能であったが、今回は銀狐とアルテアとでわしゃわしゃと絡み合い落ちてゆくので、モモンガになって風に乗ることも出来なさそうだ。




ネアが覚えているのは、ネアを抱えたアルテアが空中で体を捻り、豆の木の幹を蹴りつけて魔術封鎖のその領域から体を離したというところまでだ。



雲だか霧だかわからないしっとりとした塊に顔を突っ込み、むがっとなった時にはもう、アルテアが空中に織り上げた不可視の足場に一度着地しており、そこからまた素早く転移へと移る一瞬の視界の暗転でくらりと意識が遠くなる。



けれどもネアは、決死の覚悟で掴んだ銀狐の尻尾だけは、絶対に離すまいとしっかり握り締めていた。





「ネア!」



地上でネアを待っていたのは、すっかり怯えていたディノであった。

空中で振り回されてへろへろになったネアをすぐにアルテアから受け取って、しっかりと抱き締めてくれる。




「ほわぎゅ。…………心臓が、…………心臓が止まりそうになりました」

「うん、怖かったね。すぐに助けにいけなくてごめん。アルテアが君を見付ける前に、落ちてしまったのかい?」

「いえ、アルテアさんが助けに来てくれて、私のこともしっかりと抱えていてくれたのですが、狐さんが落ちてしまって、動転した私が狐さんを捕まえようと手を伸ばしてしまったせいで、アルテアさんも諸共、豆の木から落ちてしまったのです」



ネアの説明を聞いて、ディノは水紺色の瞳を大きく揺らすと、無事で良かったとまた抱き締めてくれた。


勿論、落ちて来たネアを地上で受け止めることは出来たのだというが、高所からの落下というものは人間にとってはとてつもない恐怖だと知り、ディノはその救出方法を諦めたのだそうだ。


それなのにご主人様が上から落ちて来たので、とても怖かったのだと言う。




「あら、……でもアルテアさんが転移で…………、むむ、死んでいます」


そう説明しようと振り返ったネアは、地面にへたり込んでいるアルテアの姿に目を丸くした。


「うん。アルテアが、豆の木から距離を取ってから空中で足場を整えて転移したのは見ていたけれど、だいぶ地上に近くなってからだったからね。君はずいぶんな距離を落ちてしまったのだよ」

「…………きゅっ」



ネアは、ここで後から知った怖さでへなへなになってしまい、そんなぎりぎりの場面で死力を尽くしてくれたアルテアも、余程危なかったのか、まだぜいぜいと息をしている。



実は、ネア達が離れたことで豆の木が豆に戻らんとしてぐねぐねと波打ち縮んでいっており、そんな不規則に動く魔術封鎖領域がどこまでなのかを確認しながら、おまけに豆の木沿いを落ちて行く中であの回避行動を取るのは、かなり難しかったようだ。


本来なら、そのまま諦めて地上での受け止めとしても良かったものの、豆の中に戻る最後の瞬間に豆の木が変則的に動けば、受け止めの魔術に触れてそれを無効化した恐れもあった。


だからこそアルテアは、空中にいる間に何とか転移に持ち込もうとかなり無理をしたらしい。



「……………お前といると、妙なことばかりに巻き込まれるのをそろそろどうにかしろ」

「私のせいではありません!叱るなら、あの駝鳥めに言ってやって下さい!…………む、狐さんが大はしゃぎなのはなぜなのだ」

「…………落ちてくるのが楽しかったのかな」

「……………遊びだと思ってしまったのでしょうか」



ネアは、一応はこの銀狐は塩の魔物であった筈なのだととても悲しい気持ちになったが、飛び降り遊びにご機嫌でネア達を複雑な気持ちにさせた銀狐は、その大冒険ではしゃぎ過ぎた結果、熱を出すこととなった。



愚かな行動で皆を危険に晒した相応の報いですねと冷たく言いながらも、ヒルドがしっかり看病してくれたので、熱が出て苦しくて悲しかった銀狐はとても嬉しかったようだ。

かくして、リーエンベルクには暫くの間、ヒルド限定の甘えん坊狐が誕生したのである。




なお、リーエンベルクで使われている捕獲用の豆については、今回の事件の教訓を生かし可動域の低い人間や魔術保有量の少ない生き物が触れた際には、成長を止める条件付けがなされたようだ。



あの事故がより良い社会の前進に繋がり、無駄にならずに済んだと、ネアは少しだけほっとしている。


豆の精も含め、どうやらネアは豆とはあまり相性が良くないようだった。







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