シシィ
仕立て妖精に生まれた。
だからなのか生まれたその時から美しい色が大好きだったし、身に纏う衣服の形やその流れるような裾のドレープに心を奪われた。
愛する家族たちも皆、銀色の鋏で布を鮮やかに切り裂き、針と糸で息を飲むような美しい形に整え上げてゆく。
どこまでもどこまでも並ぶ布を収めた王宮の宝物庫に、毎年新しい糸や織物を献上する系譜の生き物たち。
赤や黄色、そして緑や黒。
一族の者達にはそれぞれ得意の色や形があり、シシィは気に入った女性の身を飾るドレスが得意だった。
弟は黒い服が得意だし、女王である母親は高貴な生き物達に納める白を使った装束が得意だ。
友人にはレースの服しか手がけないものもいるし、戦装束しか作らないという親族もいる。
だが、どんな服のどんな場合においても、仕立て妖精は仕立物が好きで堪らない。
布を裁ち針と糸で縫うことは堪らない快楽で、美しく思い通りに仕上がった服を手に取ることは、何にも変えがたい喜びであった。
そんなある日のことだ。
薄暗い、数十年前までは千年王国だったと言われる土地の、古い遺跡の一つで、その男に出会った。
月光が闇の色を引き延ばし、どこまでも青く染まった砂漠は惚れ惚れとする程の鮮やかさで、彼はその青い光を浴びてたった一人で立ち尽くしていたのだ。
(なんて、美しい男だろう…………)
そう思って不躾な眼差しを注ぎ、生まれて初めて男物の服を作ってみたいと思った。
母や父からも、家臣達からも、王女なのだから特定の性別に拘らない服を作り顧客を増やすようにと再三言われてきたが、シシィは一度もその苦言にそうするわと頷いたことはない。
それくらいに女物の服を作ることを愛していたし、自分の作品には誇りがあった。
けれども今、こんな砂漠の真ん中で、見ず知らずの男の横顔を見たそれだけのことで、シシィは己の信念を曲げようとしている。
それは、心の隅々まで痺れるような。
まるで夜が顕現したかの如く、凄艶な美貌であった。
銀白の髪を足元まで長く伸ばし、その装いは黒一色である。
複雑に布を重ねて纏うその衣装は、似合わないものが着たら布に溺れてしまいそうだ。
(なんて不思議で美しい衣装かしら。刺繍があんなに施されているのに、どれも黒一色なのだわ。それなのに重ねてもくどくならないのは、どの黒も、帯びている艶の色合いが違うから…………)
けれど、その全てを引き立てて壮絶な美貌に纏め上げているのは、その男の物憂げな眼差しであった。
まるで人形のように無機質で、悲しげで儚げで、けれどもどこか恐ろしい。
ふっと銀白の睫毛が揺れて、こちらを向いたのは震える程に鮮やかな薔薇色の瞳であった。
「……………私はシシィよ。仕立て妖精なの。私を呼んだのは、あなた?」
そう尋ね、初めてこの人が顧客であればと心の底から祈った。
「ああ。…………友人が、亡き妻に手向けるドレスが欲しいのだそうだ。彼女は……………ここで、森の精霊達に嬲り殺しにされた。…………身につけていたものは、布一枚としてなかったそうだ。…………だからせめて、彼女の為にとびきりのドレスを贈りたいのだと彼は言う。…………頼めるだろうか」
「私はきちんと採寸をして、その人に見合ったドレスを作るのよ。もういない人の為には作れないわ。…………だいたい、どうやって姿形を知るのよ」
少しだけむっとしてそう言えば、男は悲しげに微笑んだ。
その微笑みは凍えそうなほどに冷たい湖を思わせる清浄さで、けれどもあまりにも深く絶望していた。
触れたいと、思う。
殆ど衝動的にそう思い、シシィは密かにそんな自分に驚愕した。
「…………そうだな。………すまない。俺が知っている一流の仕立て妖精は、君だけだったんだ。君の母親に俺の知り合いが仕立てを頼んだことがあって、その時に、まだ生きていた彼の妻にどうかと、君の名前が出たらしい。………彼は伴侶が殺されてから殆ど話さなくなってしまった。そんな彼が、あの時に君にドレスを頼み、彼女に着せてやれば良かったと口にしたものだから…………」
静かで甘く、そして例えようもない絶望の霜が下りるその声に、シシィは足元から冷え込むような気がしてそわそわと足踏みした。
「……………それならば、私はその女性を知っているのかしら?見ず知らずの死人にドレスは作らないけれど、その人を知っていれば話は別よ?」
そう尋ねたのは、望まれるドレスを望む女性に届けるのが、シシィの喜びだからだ。
もうこの世にいないのだとしても、かつて一度でもこの仕立て妖精の名前を耳にしたのなら、きっとこの手が作るドレスを望んでくれただろう。
であれば、その女性は名前も知らないもういない誰かではなくて、シシィのドレスを望んでくれたかもしれない大切な顧客になるのだ。
顧客ならば、或いはシシィのドレスを望んだ顧客の卵ならば、例え死んでいても応えなくてはなるまい。
その線引きをつける為に、シシィはそう尋ねたのだった。
「林檎の魔物だ。…………面識はあるかな?」
「………………いつかの年に、来年の夏の夏至祭のドレスを頼みたいと言われていたわ。………人間の国の夜会で会って、彼女はそう言ってくれた。でも注文はなかったから、…………気が変わったのだと思っていたの」
「君は、林檎の魔物が死んだのを知らなかったのか」
「………………ええ。あの、魅力的な女性を、誰が………………」
「もういない。彼女の伴侶が報復を果たした。…………そして、ここにあった美しい国も、もうなくなった…………」
そう呟いた人の横顔を眺め、シシィは自分の中で幾つもの言葉を噛み砕く。
欲求と理性がぶつかり合い、そこに仕立て妖精としての業のようなものが覆い被さり、決定打となった。
「一つだけ条件があるわ。それを叶えてくれるのなら、林檎の魔物の為にドレスを作る」
そう言えば、男は初めてこちらを正面から見た。
はらりとこぼれて鈍い光を放つ銀白の髪が揺れ、シシィはその一筋に触れてみたいという愚かな衝動を必死に堪えなければならなかった。
ああ、でもその髪に触れられたなら、それはどれだけの喜びだろう。
彼がもし、あの悲しげな瞳に他の感情を浮かべたなら。
「…………その条件とは何だ?」
真っ直ぐにこちらを見る薔薇色の瞳。
その瞳に映る自分の影を見返して、シシィは微笑んだ。
「あなたの服を作らせて。今すぐにとは言わないわ。お代は取らないし、材料費も私持ちで構わない。でも、私が初めて男の服を作りたいと思ったのがあなたなの。だから、林檎の魔物のドレスを作るのには、あなたの協力が必要よ」
そう言われて驚いたのか、男は美しい薔薇色の瞳を瞠ってシシィを見ている。
暫くそのまま呆然としていたが、それはさしたる問題ではないと結論を出したのだろう。
短く頷き、その条件を飲もうと答えてくれた。
「お母様、私はとうとう男の為に服を作るわ!!」
城に戻るなりそう報告に行けば、父と話していた母親が、深い緑色の瞳を丸くする。
「おやまぁ、シシィ。それは本当なの?」
「ええ。生まれて初めて、服を作ってあげたいと思う人に出会ったの!」
「これは困ったな。そいつが可愛いシシィの花婿になるのだろうか」
「…………嫌ねぇ、お父様。彼は顧客よ。それも、友人の伴侶のドレスの注文を私にしたひと」
そう言えば、なぜか両親は顔を見合わせていた。
「……………何か問題がある?」
「シシィ、………そのドレスの方が、本当は依頼主の奥様なのではなくて?私達の仕事にはよくあることだけど、女性ものの仕立てを頼むときに、気恥ずかしくて自分の注文なのだと言えない方も多いわ」
「……………お母様まで。言ったでしょ?そのひとは、ただの顧客!それに、その友人とやらには会わせて貰ったわ。お母様も知っている、白百合の魔物よ」
「………と言う事は、林檎の魔物の為のドレスなのね?」
はっとしたように痛ましげに眉を顰め、母親はシシィの頬を撫でてくれた。
「ジョーイ様の為には、何度か衣装を仕立てたのよ。確か、奥様と出会われたばかりの頃に一度、そして二人の結婚記念日にお二人のものを一度。その時に奥様の採寸もしたから、それを出してくるわね。…………魔物は伴侶を誰よりも愛するというけれど、あんなに仲睦まじい魔物の夫婦を見たのは初めて。…………どうか、最高のドレスを作って差し上げてね」
「……………ええ。私の誇りにかけて、最高のものを作ってみせるわ」
そうして、シシィの新しい仕事が始まった。
白百合の魔物は、仕立て妖精の女王に頼んだ結婚記念日用の白いドレスのようなものではなくて、妻が何でもない日にも着られるような華やかな色のドレスを欲しいと考えているようだ。
そのようなドレスを欲しがっていた妻の為にと、色鮮やかな、出来れば赤いドレスを一着と、かつて依頼しようとしていたと知った夏至祭用のドレスを一着。
費用はどれだけかかっても構わないからと、最高のものを求められた。
「…………だが、そのようなものを欲しがられているという事は、あの方は、少しずつ心を生き返らせているのだろう」
そう呟いた父親に、シシィも頷く。
もしかしたらそれは、死んだ者への依存かもしれないが、そこに触れる形であれ、新しいものを欲するということがいいのだ。
そうして外側に心を向けてゆけば、例え歪んだ執着を抱えてゆこうと、生きてはいける。
服というものはとても多くの物語を抱えていることが多く、仕立て妖精達はそのような場面に立ち会う事が多かった。
シシィは、何度も喪服を作ったし、呪いに侵食されて動けなくなった令嬢の為のドレスや、石にされた娘の為にと注文をくれた両親の希望で、大きな石の為にドレスを作ったこともある。
(だから、林檎の魔物の為にとびきりのドレスを作ってみせるわ……………)
そうして、それから彼等とのやり取りが始まった。
シシィはすぐに素晴らしい真紅のドレスを仕立て上げ、白百合の魔物を号泣させた。
そのドレスが終わると次には夏至祭のドレスだったが、シシィの仕事が気に入った白百合の魔物は、その前に訪れる冬用の外套を注文してくれたのだ。
結局何度も今は亡き林檎の魔物の為に美しいドレスを作り、その納品や注文を聞きに行く際に、あの男とも会った。
採寸の為にその体に触れた時、指先が震えそうになったことは、今でも覚えている。
物憂げな眼差しが、ジョーイを気遣う時にだけ泣き出したくなるような優しい色を帯び、それを羨ましく思ったことも。
彼等は一緒に暮らしている訳ではないのだが、とある屋敷にいることが多かった。
そこには一人の人間の青年が眠っていて、この青年が命をかけた調伏の魔術を行い、二人の命と正気を繋いだのだと教えて貰い、シシィは彼のことが大好きになる。
「それがなければ、ウィリアムは、………終焉の魔物は俺達を滅ぼしただろう…………」
やがて彼はそんなことを話してくれるようになり、けれどもなぜか、シシィには一度も名前を教えてくれなかった。
とは言え目星はついているのだ。
こんな風に白百合の魔物を支えている彼は、かつて彼の一番の友人だと言われていた白薔薇の魔物だろう。
そのくらいの階位でなければこの身に持つ色は説明出来なかったし、他の種族の気配もないので魔物に違いなかった。
(最初は少しだけ、出会った時の気配から終焉の系譜の生き物だったらどうしようと思ったけれど、そうじゃなくて良かったわ)
終焉の魔物の仕立ても行う母親とは違い、シシィは生まれ持った気質からか、終焉の系譜が大嫌いだった。
シシィが好むのは鮮やかに咲き誇る花々で、そして生きて笑う者達で、死や終焉に閉ざされたその先では、シシィの仕立てたい服は殺されてしまう。
今回だってそうなのだ。
死や終焉がなければ、白百合の魔物の伴侶は生きてシシィの服を着ただろう。
だからシシィは、そんな風に女達からお洒落を奪う終焉が嫌いだ。
「……………不思議だな。俺はもう、全てが枯れ落ちた筈なのに、君が笑うと心が動く」
何年目かの春の日に、彼がぽつりとそう言った。
シシィはまだ男物の服を作っておらず、彼に一番似合う彼の為の装束を決め兼ねていた。
なかなか仕上げずにしつこく通って来るシシィを厭うことなく、彼は少しずつ、シシィの訪れを楽しみにしてくれるようになったのだ。
「君には、生きることの喜びや愛おしさが溢れている。…………俺には、それが眩しい」
「あら、私を手元に置けば、毎日だって照らしてあげますよ?」
そう微笑んだシシィに、彼がなぜだか泣きそうな目をしたその日、シシィは彼が死の精霊の王子であったことを知った。
名前を伝え、調伏のせいでその資質の殆どを封じられてしまったのだと告白した彼に、シシィは酷い言葉を投げつけたと思う。
嘘つきだとか騙していたのだとか、きっと、終焉の系譜は大嫌いだとか、そこまでのことを言った筈だ。
彼を置き去りにして自分の城に逃げ戻りながら、シシィは、自分は酷く裏切られたのだと感じていたし、彼にとても失望していた。
今思えば高慢なことに、初めて自分の心を預けたひとが、望んだような存在ではなかったことに我慢がならなかったのだ。
ちょうど、白百合の魔物からの注文は、何度も先延ばしにされてきた最後の夏至祭のドレスで完結しようとしていた。
それが最後だから、ルグリューはシシィに本当のことを打ち明けたのかもしれない。
やっと作ることが出来た夏至祭のドレスを届けながら、彼は今日はいないよと教えてくれたジョーイに頷き、ぼんやりとそう思った。
もう二度と会う事はないだろう。
そう思い彼等と過ごした土地を離れると、その後の何年かは、ルグリューの名前を聞く事はなかった。
時折、自分の愚かさや彼のことを思って涙が溢れたこともあったが、そんな時はやみくもに服を作った。
例え心がもう一度彼に会いたいと叫んだとしても、終焉の系譜が耐え難いという本能的な嗜好を変える事は出来ない。
それは例えば、海のものが陸では生きられないというような、それくらいの動かし難いものであった。
「困ったわねぇ。私達仕立て妖精は、それぞれの得意の仕立てに見合った属性があるから、あなたは終焉の系譜とは体質が合わないのよね……。奥様はいなかったけれど、死の精霊の王子様だったなんて」
そう言って抱き締めてくれた母親に頷き、シシィは鼻をかんだ。
寧ろ終焉の系譜の者達こそと相性のいい弟と自分が逆だったならと思ったが、それはもう自分ではない。
であればこの恋は、諦めるしかないのだ。
けれども女とは強いもので、暫くするとシシィは、彼のことを振り返らなくなった。
父親の仕事で知り合ったアルテアと付き合い始めたし、彼には何かと振り回された。
そして、ルグリューを忘れたのだ。
アルテアは、決して女性を傷付けることを好むような下衆ではなかったし、魅力的な男である。
高慢にも女達を従僕のように仕えさせることを望む高位の魔物も多いが、彼はきちんと女をもてなした。
金払いも良く会えば会話も楽しい男だったが、聡明な女は、自分が彼にとってのたった一人の女にはならないということが分かるのだ。
仕事に目が向くと、半年ほどふいっと姿を消してしまう。
シシィが望まない酷いことを言うこともあるし、彼は彼の時間を削る手のかかる女を嫌った。
彼が心を向けるだけの愉快で魅力的な女でいることが、どこからかシシィの負担となり、彼がシシィの大切な顧客や、友人達を破滅に追い込んだ仕事の幾つかで、何度となく激しくぶつかった。
(ああ、この人は望まないのだ…………)
シシィの為には諦めないし、シシィの為に変わりはしない。
それをシシィに強いることもなく、そしてその結果二人が別れるとしても、彼はそれなら仕方ないなと笑うだけなのだ。
それが分かり、それがこの人なのだと理解したその日の内に、シシィはアルテアに別れを告げた。
魔物というものは、たった一人の伴侶を得るその時まではそんなものなのかもしれない。
とぼとぼと城に帰りながら、そう考える。
(いつか、アルテアがそんな誰かに振り回されているのを見て、私は彼を笑ってやろう)
では、それまでにはシシィは、幸せにならなくてはいけないのだろう。
ふと、いつかの夜の砂漠で銀白の長い髪を揺らしていたあの美しい精霊を思い出した。
彼が、君が笑うとなぜだか胸が苦しくなると微笑んだ日や、君の声を思い出していたよと振り返った日。
けれどももう、あれは遠い日のこと。
彼ももう、どこか遠くへ行ってしまっただろう。
それからまた一年ほど経った。
ある日、昔からの顧客である魔物の屋敷を出たところで、シシィは門番に手荒く追い返されている一人の人間を見た。
「お願いだ!どうか、この屋敷の主人と話をさせてくれ!!」
そう取り縋り、蹴り転がされていた人間の横顔を見た途端、シシィは稲妻に打たれたような気がした。
そこにいたのは、ルグリューの命を繋いだ人間の魔術師。
そして、ルグリューが目覚めを待ち続けていた、あの青年だったのだ。
「ねぇ、どうしたの?」
門の外に追い出されて蹲って泣いている青年に声をかけたのは、どこかでまた彼を思ったからなのかもしれない。
そうして、その青年が、この妖精にも誰か高位の者への伝手があるだろうかと一抹の希望をかけて教えてくれたことに、シシィは愕然としたのだった。
「アルテア、また悪巧みをしているの?」
仕立て道具の入った鞄を抱えたまま奔走し、シシィは、その日の夜明け前までにはアルテアを見付け出した。
彼は、かつて二人が恋人同士だった時に訪れたことがあるヴェルクレアの海沿いの店で、あの頃と変わらぬ擬態で食事をしていた。
店に駆け込んで来てそう言ったシシィを見ると、顔を顰めてコツンと杖を鳴らす。
すると店中の人々が一瞬だけ、動きを止めたように思えた。
「この姿を見て分からないのか?その名前を声高に呼ぶな」
いつの間にか擬態を解き、赤紫色の瞳を眇めてアルテアはこちらを一瞥する。
店のお客達にはもう、アルテアの姿もシシィの姿も見えていないようだ。
その眼差しの鋭さと冷ややかさに血の気が引いたが、シシィはぐっと奥歯を噛み締めた。
「…………噂に聞いたわよ。死の精霊の王子で禁術を作ろうとしているって。…………それは禁域よ。終焉の魔物に知られたら………」
言うべき言葉は用意してあった。
でも、もしここでシシィの企みに気付かれてしまい、アルテアがこの身を滅ぼすのだとしても。
だとしても、構わない。
構わないと思って、シシィにもようやく分かった。
それでもと思うことはあるのだ。
例えその人がもう、自分を思っていなくても。
その後に自分は他の人を愛し、彼のことをすっかり忘れていた日々があったのだとしても。
それでも、あの遠い日にこちらを見て微笑んだ人の為だけに、こんな遠くまで来てから、ここまでのことが出来るのだと。
「…………ほお、誰に頼まれて探りに来た?お前が、今更俺の身を案じるような女だったとは思えないが」
そう微笑んだ魔物の瞳を見返し、シシィは頷いた。
「頼まれたんじゃないわ。自分の意思で来たの。前に話したことを忘れたの?私は私の顧客をとても大事にするのよ」
「…………お前に男の顧客はいないだろ」
「あら、あなたが知らなかっただけではなくて?…………とにかく、私の顧客に悪さをしたら許さないわよ!いいわね!」
腕を組んでそう宣言すると、肩を竦めて冷ややかに笑った男に背を向けた。
これは、まだ昔の男に我が物顔で会いに来る、我が儘な女の愚かな訪問だと思えばいい。
実際にシシィには衝動的で短慮なところがあったし、彼はそんなシシィをよく知っている。
自分の力でどうにか出来る筈だと彼に正面から苦言を呈し、彼を失笑させたあの日々を思い出してくれと、変わらない愚かな女だと思ってくれと、この時程に思ったことはない。
幸いにも、彼は立ち去るシシィを追いかけてきて殺すようなことはなかった。
或いは、シシィが何かを企んでいると考えはしても、仕立て妖精ごときが自分の計画を頓挫させることは出来ないと、そう判断したのかもしれない。
けれどシシィには、勿論秘策があったのだ。
その足で城に戻り、連絡しておいた母親に手持ちの糸と布の全てを賭けて頼んでおいたことを実行してくれるように頭を下げる。
かくして、終焉の魔物に引き合わされたシシィは、系譜の王である彼に、かつての顧客の惨状を訴えた。
あの人間の青年は、友人であるルグリューの危機を、アルテアより高位の魔物を探し出して力を借り救おうとしていた。
どこから聞きつけてきたものか、アルテアは、死の精霊としての力を失っているルグリューのことを知り、彼を捕まえて魔術の素材にしてしまおうと思い立ったらしい。
アルテアに魔術の材料にされそうになっても、今のルグリューにはそれを避けるだけの力がない。
彼は、アルテアが張り巡らせた罠の一つに囚われ、身動き出来ずに死にかけていた。
(けれども、終焉の系譜の者を魔術に置き換えることは禁じられている筈!)
だからこそシシィは、その部分を強調して伝え、ルグリューの系譜の王である終焉の魔物にその調停を願い出たのだ。
「やれやれ、アルテアはそんなことをしようとしているのか。…………それに、ルグリューは、俺にとっても良い同僚だったんだ。見過ごす訳にはいかないな」
温度を感じさせない冷え冷えとした作り物の微笑みでそう頷き、終焉の魔物は深々と頭を下げたシシィの母親に、これは自分の領域の問題でもあるのだから、教えてくれて助かったと言ってくれた。
あの日、シシィは全ての布と糸の備蓄を失った。
ルグリューがどうなったのかは分からないが、数日後にアルテアから余計な真似をしやがってと文句を言われたので、もう大丈夫なのだろう。
布や糸を買い集める為にひもじい思いで日々を凌ぎ、王女としていつかのとっておきの為に隠し持っていた銀の針も売って、何とか仕立て妖精としての体面を保っていると、一つの仕事が舞い込むことになる。
「やぁ、久し振りだね。シシィ」
新しい依頼人に会いにシシィが訪れたのは、かつてルグリューと会っていたあの屋敷だった。
微笑んでこちらを見たのは銀白の髪の美しい精霊で、彼の隣にはあの時の青年がいて、シシィに深々と頭を下げた。
「…………無事だったのね」
「君の大切な、全ての布と糸の代わりにね」
「…………私、馬鹿なことをしたのかもしれないわ。実は少しだけ、備えを手離した事に後悔しているの」
「それは大変だ。では、この報酬で俺の注文を受けてくれるだろうか」
「……………この、報酬?」
そう首を傾げれば、ルグリューは立ち上がって続き間のカーテンを開けて見せてくれる。
そこには、仕立て妖精の王女であるシシィですら卒倒しそうな程の、素晴らしい布や糸が部屋いっぱいに山積みになっていた。
「……………っ、こ、これだけの報酬で、何を作って欲しいのよ?」
「うん。かつて君は、俺に衣装を仕立ててくれると言って、結局作ってくれなかっただろう?だから、…………そうだな、何年かかってもいいから、君がこれぞと思う衣装を一着仕立ててくれ」
「……………それだけ?」
「…………ああ。君とまた会う為の口実だが、実際にその衣装も凄く欲しい」
「…………っ、…………そのまま言うのね」
「言うさ。君が俺を助けてくれたから。それと、素直にならないとここにいるハーツが殴るぞと脅すからかな」
「あら、脅されて言うのね?」
「い、いや、…………ええと、」
「…………馬鹿なひと」
困ったようにおろおろしたルグリューと、やれやれと溜め息を吐いたシシィは、その後でようやく恋人同士になった。
しかし、その半年後にやっぱりあなたは好きだけど終焉の系譜は無理だとシシィが飛び出し、たいそう動揺したルグリューが、ハーツの助力を得て地竜の体に乗り換えるという大事件があった。
反省して二人で暮らしていた屋敷に戻ると、まさかの地竜の少年になったルグリューにお帰りと言われ、シシィはこの愚かな精霊を放り出して逃げ出そうかと思ったこともある。
君がいないと困るからと、息子でもいいくらいの少年姿で言われてもどうすればいいのやら。
けれどもそれも、それでもいいからと彼がシシィこそを望んでくれたからなのだ。
地竜としての成長を苦々しく待ち、彼が竜として成人したその日に二人は結婚した。
彼に、事故で亡くなった息子の体を与えた地竜の両親も参列し、ちょっと良く分からない式になったものの、そこで初めてシシィの仕立てた服を着た彼は満足げだった。
「でも私、精霊としてのあなたの顔に恋をしたのよ」
「…………今の俺は嫌いかな?」
「ちょっと、竜はすぐ弱るんだから、落ち込まないで。愛していなければ、竜になったあなたの伴侶なんかにはならないわ」
「良かった。では、幸せでいてくれるかい?」
「ええ、勿論よ。それに最近は、子供の竜になったあなたを見て、声を上げて笑ったアルテアにも報復出来ているしね」
「やれやれ、妖精は執念深いなぁ………」
そう微笑んだルグリューの腕の中で、彼に頬を擦り寄せる。
そんなアルテアは、シシィが花婿に作った服を見て、シシィを専属の仕立て屋にした。
何だか釈然としなかったが、高位のご贔屓は手放すには惜しいと思って引き受けてきたが、最近は彼の変化を見られるので縁を切らずにいたことに感謝している。
(でも、ルグリューには内緒で、私は時々夢を見るの)
それはあの青い青い砂漠の夢。
そこでシシィは、銀白の美しい精霊と抱き合うのだ。