309. みんなのお祝いが集まります(本編)
「…………おい、また増やしたんじゃないだろうな?」
「ピ?」
来るなり渋面でそう言ったアルテアに、ゆらゆら振られる黒つやもふもふの尻尾を掴もうとしていたネアはぎくりと手を引っ込める。
これは、参加者達が揃うまではと黒つやもふもふを解禁してくれたギードの好意による素敵な時間であり、決してもふもふ浮気ではない。
案の定、心無いアルテアの言葉に悲しげにこちらを見たディノに、これは次にどこかで遭遇した時の為に、黒つやもふもふの感触を覚えているだけだと説明しなければならなくなった。
「ピ!」
「まぁ、ほこり来てくれたのですね。…………むむ、黒つやもふもふの尻尾がけばけばに………」
ギードは初めて出会うほこりが怖かったのか、ささっとディノの後ろに隠れかけ、それではいけないとびゃっと飛び上がってからまたネアの隣に戻ってきた。
くるくるっと回りぽふんと音を立てて、元の人型の魔物の姿に戻る。
今日の為に特別な擬態を学んだと聞いていたが、容姿に変化はないようだ。
(ただ、…………何だろう。気配がとても薄く引き伸ばされて、別の色になっているみたいな感じ…………)
燐光めいた緑を帯びた紫の瞳が、オーロラに霧がかかったみたいに、少しだけ淡く柔らかい。
白藍の髪もきらきらさらりという感じではなくて、微かにマットな質感だ。
「……………すまない。獣の姿の時には、そちらの感覚が前に出てしまうことがあるんだ」
そう詫びたギードに微笑んで首を振り、ネアは、何となく視線を彷徨わせている他の魔物達の方を見る。
「ディノや、アルテアさんもそうなのですよ。なお、この愛くるしい大雛玉は、星鳥のほこりです。私が名付け親になり、私とディノのお部屋で生まれたリーエンベルクの可愛い末っ子なのです!」
「星鳥、……………だったのか。ほこり、俺はギードと言う。初めまして」
「ピ!ピギャ!!」
「………………ア、アルテアが後見人をしているのか?」
「ピ!」
「ええ。アルテアさんが後見人さんなのです。今はアルテアさんに貰ったお城に住んでいて、シャンデリアな伴侶さんがいます」
「そうか、伴侶を得たのか。おめでとう」
ほこりに視線を合わせる為に屈んで、優しくそう話しかけたギードの声音を聞きながら、ネアは心の中がほかほかした。
この魔物は、この声のように優しい心を向けて、まだ色々なことが不得手だった頃のディノに犠牲の魔物やウィリアム達と一緒に寄り添ってくれたのだろうか。
悲しい事件があって疎遠になっていたと言うが、その中でも彼はディノを大事に思っていてくれたようだと聞く。
そんな人がこうしてディノの誕生日のお祝いに来てくれたことに、ネアは心から感謝した。
「……………その擬態は何だ」
「久し振りだな、アルテア。これは、………」
「僕が教えたんだよ。ギードは、司る資質をこの地に触れさせたくないみたいだったからね。僕は擬態が得意なんだ」
そうふんすと胸を張ったヨシュアに、アルテアは半眼になる。
なぜかこちらを厳しい目で振り返るので、ネアは、なるべくしてなったのだと静かな眼差しで頷きかけてやった。
世の中とはそういうものなのである。
「今の状態について聞いた訳じゃないが、今の状態は、擬態というよりは気配と資質の調整だな」
「姿形を変える訳じゃないなら、これが一番なんだよ。僕は形を変えるのはあまり得意じゃないけれど、気配の調整は得意だからね!」
あの後、イーザが帰る時間に合わせてエーダリアやヒルド達も一度部屋に戻り、この四人で過ごしていたのだが、ヨシュアは、擬態の師弟関係にあるというギードと驚く程に仲良くやっていた。
穏やかでよく気が付くギードといると、ヨシュアはとても居心地がいいらしい。
ネア達と四人であれこれお喋りし、ゼベルとアメリアが届けてくれた騎士達からのディノへの贈り物をみんなで広げたりもした。
なお、今回の贈り物はパチンとボタンで留められる革製の腕輪で、そんな二つの腕輪の間に長さの調節が出来る木漏れ日から紡いだ硬質な糸を編んだ華奢な鎖がある。
ヨシュアは首を傾げ、ギードは目を丸くしていたが、ディノはとても喜んでいた。
ネアとしては、この贈り物の提案者といつかしっかり話し合わなければと思う次第だ。
(イーザさんも、夜までいれば良かったのにな………)
ネアからも引き止めたのだが、微笑んで首を振ると、霧雨のシーは夕方前に退出した。
幸いウィームには親しい友人達が沢山いるそうで、知り合いの竜の家を訪れる予定であるらしい。
せっかくの機会なので久し振りに飲むのもいいと話していたので、ネアは、お気に入りのまるまるサラミをひと掴み、小さな紙袋に入れて友人宅訪問の細やかなお土産にして貰った。
(友人達が倒れてしまいそうですねと話していたけど、そんなにサラミ好きなのかしら………?)
竜はあの本体なのだし、やはりお肉が好きなのかもしれない。
今度悪い竜がいたら、まるまるサラミは差し上げられないので、もっと安価なサラミで調教してみよう。
ネアがそんなことを考えている内にどんな会話があったものか、ぼふんと音がして、謎の生き物が床の上に出現した。
銀灰色のもこもこもふもふしている生き物で、子供用にデフォルメされた犬のぬいぐるみのようだ。
「……………これは、…………綿、……犬?」
「ヨシュアが、子犬に擬態したんだ。……………犬、なのかな?」
「間抜けな姿だな。そもそもその短い足で走れるのか?」
「ギャウン!」
アルテアに酷評されて怒ったのか、ヨシュアな綿犬はせかせかもふもふと周囲を走り回った。
しかし何度も転んでいるので、やはり造形上足が短すぎるのだと思う。
「ふむ。ムグリスディノやちびふわの足も短いですが、そちらは可動性には問題のない範疇ですものね」
そう言いながらネアは綿犬を捕まえると抱き上げ、もふもふほこほこな手触りを楽しむ。
ちょみっと舌が出てしまっているし、少し走り回っただけで息を切らしてばてているのが駄目可愛いの極みである。
「ネアが、変な生き物に浮気する……………」
「一応は子犬さんなのでは?」
「ギャウン!」
「おい、犬の尻尾がどうしてその形なんだ」
「兎さんのような真ん丸尻尾で可愛いですよね。………むむ、丸というか、星型?………ちびこいお耳にむくむく体。うむ、やはりこれは綿犬です!………む、ギードさんも抱っこしてみます?」
「………………いいのか?」
ヨシュア犬を持たせて貰ったギードは、切れ長なオーロラ色の瞳を瞠って嬉しそうにほろりと微笑んだ。
聞けば、司るものが絶望であるので、未来のある幼い生き物にはあまり触れられないのだそうだ。
狼の姿に擬態している時には問題ないのだが、やはりもふもふを楽しむのなら人型であろう。
「今度、ちびふわも抱っこしてみますか?」
「やめろ」
「ピ!」
「あら、ほこりも抱っこしてみます?」
「いいか、そいつには絶対させるな。下手したら、食うだろうが」
「ピ?」
「むむぅ。アルテアさんは大事なちびふわなので、その危険は冒せませんね。綿犬は齧ってもすぐに元通りになりそうに見えますが…」
「ギャウン?!」
「まぁ、ヨシュアさんな子犬さんが、ほこりに食べられてしまうのかと大慌てです」
そう言えばと、食いしん坊雛玉なほこりの存在を思い出したのか、綿犬は慌ててギードの腕を飛び出すと、元の人型に戻った。
腕の中のもふもふを失ったギードは悲しそうだったが、堪能した感触を思い出すように手をわきわきさせている。
「あたたかくて、ふわふわしていた…………」
「良かったね、ギード」
「はい。我が君の祝いの席で、こんな素晴らしい体験が出来るとは思ってもいませんでした」
「ほぇ、アルテアの鳥に食べられるところだった…………」
「ピギ!」
「だって、鳥にしか見えないよ…………?ぎゃあ!蹴られた!!」
ほこりの足でげしりとやられたヨシュアが騒ぎ出し、室内はとても賑やかだ。
そんな様子を一瞥し、アルテアは厳しい顔でこちらを見る。
何だろうと首を傾げたネアに、濃灰色のスリーピースを着た選択の魔物は、とても率直な忠告をくれた。
「…………見ていたら分るだろ。こいつらが揃うと、収拾がつかなくなるぞ」
「なぬ…………。確かに、室内のほんわか度合が急上昇はしているようですが、惨事になってしまうことはないのでは…………」
「ほこりを帰らせた後でも、この惨状はさして変わらないだろうな。せめて、ヨシュアはさっさと帰らせろ」
「ヨシュアさんは、みんなでケーキを食べてカードをするまでは帰らないそうです」
「……………そもそも、あいつはカードなんぞ出来るのか?」
「……………むむ、そう言えば、ヨシュアさんはカード遊びのルールは分っているのでしょうか?アルテアさんは先生がお上手なので…」
「俺は教えないからな」
「むぐぅ……………」
ゆっくりと、ウィームの日が暮れてゆく。
ネアは、始まったばかりのつもりの誕生日が、いつの間にか夕暮れになってしまったことに驚き、綿犬について語り合う魔物達を眺める。
ディノの隣に立ったギードはどこか嬉しそうで、手は先程の綿犬を抱いていた時の形のままだ。
じゃらりと大振りな耳飾りの石が光り、その足下ではほこりが弾んでいる。
ほこりは、運ばれてきた特製ケーキを貰ってご機嫌になった。
これは、滞在時間が短くてディノのケーキを齧れないほこりの為に用意されたもので、リーエンベルクで昨晩捕獲されたばかりのクッションの祟りものに、甘酸っぱいブルーベリークリームでデコレーションされている。
ケーキのあんまりな見た目にヨシュアとギードは途方に暮れていたが、ほこりには一番のご馳走である。
「あ、ほこりだ」
「ピギ!」
そこに少しだけ顔を出したのは、ゼノーシュだった。
絶賛ギードを警戒中なのだが、ほこりに会いに来たついでに、自身の目でも確かめてみようと、こちらに来てみたのだろう。
はっとしたように目を瞠り、ギードがゼノーシュにぺこりと頭を下げる。
全く同じ反応で頭を下げ、ゼノーシュもお辞儀をした。
そんな純真な二人の挨拶にネアが胸を押さえている間に、どすんばすんと弾みながらほこりがゼノーシュのところに行き、何かを一生懸命話している。
ゼノーシュから漏れ聞こえてくる返答を聞くに、早くももう来年のクッキー祭りが楽しみであるらしい。
「そっか、ほこりはもう帰るんだね」
「まぁ、ほこりはもうお時間なのですね。寂しいですが、今日はディノのお誕生日のお祝いに来てくれて有難うございます」
「ピ!ピ!!」
そろそろ帰るということでもう一度こちらに弾んでくると、ほこりはつぶらな瞳でじっと見上げたネアに、わすっと抱き締めて貰って幸せにじたばたした。
たっぷり撫でて貰い、今度はディノの方に向き直ると、少し照れながらけぷっと大きな宝石を吐き出す。
それは素晴らしく美しい乳白色に細やかな菫色の煌めきのあるもので、短い足でずずいっと押し出されたものを受け取り、ディノはもじもじする雛玉を褒めてやった。
「有難う、ほこり」
「ピギャ!!」
(前回のお誕生日の宝石で国が買えたらしいから、この宝石はどれだけのものなのだろう…………)
ヨシュアとギードが目を丸くして愕然と見ているのは、昨年よりも白い部分の増した宝石だ。
さぞかし特別なものに違いないが、これはディノの宝物部屋に飾られた去年の石の隣に置かれるのだろう。
隣には海で拾ってきて記念品にした貝殻が並んでいて、棚のそのあたりに柔らかな陽光の光が差し込むとなんとも言えない美しい光を蓄える。
ディノの宝物部屋ではあるが、ネアのお気に入りの区画であった。
「……………よし、送り返してやる」
「ピギ!」
「アルテアの扱いが雑だって言ってるよ」
「知るか。どうせ、ジョーイあたりが受け止めるだろ」
「ピギャ!」
「また帆立を沢山注文するって」
「やめろ」
ネアは帰ってゆくほこりに手を振り、短い滞在だった大雛玉は帰っていった。
お腹が空いてしまうとネアが危険だそうで、あまりほこりが長居出来ないことを寂しく思いつつ、ゼノーシュも騎士棟に帰り、一同はそろそろ夜のお誕生日会の会場になる部屋に移動することになる。
あまり馴染みのないヨシュアやギード達もいるので、食欲に負けたほこりが暴走しても周辺に被害が出ないように、今迄みんなで寛いでいた部屋は、周辺の家事妖精達から遮断された特別な部屋だったのだ。
廊下を歩いていると、なぜかヨシュアがびたっとくっついてくるではないか。
ネアが振り返ると、なぜか真剣な目でこちらを見ている。
「…………ヨシュアさん?」
「あの鳥が僕を食べようとしたら、名付け親の君が守るべきだからね」
「あら、悪さをしなければ、ほこりは齧ったりしませんよ?」
「ネア……………」
ヨシュアが甘えに来たせいか、慌てたようにディノが三つ編みを投げ込んで来た。
こんな僅かな移動の間にも荒ぶってしまうので、ネアはおやおやと思いながらも真珠色の三つ編みを受け取る。
その隙に、ヨシュアはアルテアに襟首を掴まれて引き剥がされていった。
この移動はほんの少しだ。
そんな少しだけの距離を歩きながら、ネアは、いつもより明るい廊下のシャンデリアに頬を緩める。
こんなところにも少しだけ、ディノの気分が魔術的な変化として反映されているらしい。
「まぁ!何て素敵なんでしょう!」
そうして、会場となる部屋の扉を開けると、ネアは思わず歓声を上げてしまう。
今年はギード達が訪れる予定であったので、お誕生日会場は外客用の棟にある小広間になった。
ネアが初めて訪れたこの部屋は、小広間とは言え壮麗で美しい部屋で、夜の森を模した内装が何とも情感をそそる。
深い青やくすんだ灰水色、ネアの今日のドレスのような渋めのラベンダー色、様々な色合いで織り上げられた絨毯を照らすのは、星結晶をふんだんに使ったシャンデリアだ。
小ぶりながらもきらきらと細やかな光を落とし、明るいのに星空を見上げているような、うっとりするほどの安らかさも与えてくれる。
天井画は精緻な筆遣いで、夜の森の天蓋を見上げたような構図になっていた。
枝の間がちらちらと光るように、天井の一部には光る祝福結晶が埋め込まれているようだ。
「ああ、来たか。この部屋は特別でな。部屋の気分次第で扉が開かないのだが、今日は開いていたのでここにさせて貰った」
「エーダリア様、こんなお部屋がまだリーエンベルクにあったのですね!ほわ、窓のところの木の絵が、風に揺れていますよ!!」
「ネア様はこちらの部屋を見るのは初めてですか?」
「はい。こんなに素敵な場所が隠れていたなんて。それも、ディノのお誕生日に使わせて貰えるなんて、何て贅沢なんでしょう……………」
先に入って準備を整えていてくれたエーダリア達は、急遽会場をこの小広間にしたのだそうだ。
元々は隣の小広間を使う予定で、家事妖精が準備をしようとしたところで、こちらの部屋の扉がカチャリと開いたのだとか。
ネアは、うっかり広間の内装に見惚れてしまいそうな自分を叱咤し、本日の主賓の方に向き直る。
視界の端でケーキの位置を確認しておいてから、さっと手をそちらに向けた。
「さぁ、ディノあれが今年のお誕生日ケーキですよ!」
「……………ケーキ」
ふんだんに花を飾り、まるでお伽噺の森の中に現れる不思議な晩餐会の会場のようになった広間の真ん中に、今年もネアの力作のケーキを置いて貰っていた。
昨年同様、子供舌な魔物の為に中身はシンプルなショートケーキで、今年は苺と木苺のものになっている。
ただし、真っ白なクリームを塗ったその周囲には、ネアがこの一年で更に技量を上げたと自負している、クリームデコレーションの薔薇で華やかに飾ってあった。
夜の滴と、この時期には貴重な冬夜苺で色付けしたチョコレートプレートは、アルテアの指導で、星屑の飴を彫りつけた文字の部分に流し込んできらきら光るようにしてある。
お誕生日おめでとうと書かれたそのプレートに、今年もディノはくしゃくしゃになってしまった。
「今年も愛情いっぱいのケーキを作ったので、美味しく食べてくれるといいのですが」
「………………ネアが虐待する」
「なぬ。今日はギードさんもいるので、誤解を招くような言い方はなりませんよ!」
「大丈夫だ、ネア。シルハーンは、とても幸せそうだから、俺にも分る」
「ケーキ………………。あの花も、また君が作ってくれたのかい?」
「ふふ。気に入ってくれましたか?」
「うん…………」
くしゃりとなった状態から顔を上げ、ディノは、水紺の瞳をきらきらさせて二個目のお誕生日ケーキを眺めた。
その隣では、ケーキに向かって突進しようとしたヨシュアの服の裾を、ギードが掴んで止めてくれている。
そんなギードも、目を輝かせて唇の端を持ち上げているディノの姿に、まるで自分が祝われてしまったかのように微笑みを深くした。
「………………ネア、有難う」
「どういたしまして。今年の愛情たっぷりなお花の部分は、自分でもいい出来だと思いますし、スポンジの部分には、雪菓子を薔薇を焚いて作った火で溶かしたものを塗ったので、昨年より香りのいいケーキになっている筈ですからね!」
「愛情たっぷり……………」
主賓の魔物はすっかりケーキに釘付けになってしまい、ネアはそんな魔物の三つ編みを引っ張ると、ご紹介がまだなお料理の方を手で指し示してやった。
そこには、今年のディノが出会ってきたお料理や、リーエンベルクの自慢の料理が美味しそうに湯気を立てて並んでいる。
懐かしの災厄ご飯ことハジカミと鰊のマリネに、最近知ったばかりのウニのクリームパスタもあった。
くつくつほこほこと見た目でも美味しそうなグラタンに、雪の魔術でひんやり冷気を纏う前菜の艶やかさ。
まだ乾杯の前だが、ネアはごくりと唾を飲む。
お前の寿命を減らしてやるという呪いのお作法になってしまうので、年齢の数の蝋燭に火を灯し、それを吹き消すというイベントはない。
その代わりに、エーダリアがとっておきのシュプリを出してくれるのだ。
美しい水色のお酒の入った瓶が持ち上げられ、ネアは目を輝かせる。
「今年もこれにした。やはり、祝い事にはネヴェアナハツがいいだろう」
「わ、ネヴェアナハツだ!」
「まぁ、ゼノ?」
ちょうどそこに入って来たのはゼノーシュで、困ったように微笑んでいるグラストの手を引いている。
おやっと目を瞠ったネアに、一緒に入ってきたノアがくすりと笑った。
「ギードがグラストを取らなさそうだって、納得したみたいだね」
「それでゼノとグラストさんも来てくれたのですか?」
「うん。ディノのお祝いだし、美味しいものがいっぱいあるから!」
「すみません、急に参加してしまって。…………大丈夫だろうか?」
「ええ。元より、その可能性もあると考えて料理を用意していますからね」
そっと尋ねたグラストに、ヒルドは鷹揚に微笑む。
これだけ美味しいものが集まるのだから、ギードは大丈夫だと判断すれば、ゼノーシュがやっぱりと参加を思い立つことも想定してくれていたのだろう。
(でも、ゼノやグラストさんも来てくれて嬉しい!)
いつもの家族のような輪が集まれば、きっとディノの喜びもひとしおだろう。
そんな思いでみんなにグラスを配ってくれているヒルドの手伝いをしようと申し出ると、ヒルドは瑠璃色の瞳に優しい微笑みを浮かべて、主賓の隣にと言ってくれた。
グラストも少し手伝ってくれて、みんなの手にグラスが行き渡る。
「ああ、乾杯には間に合ったようだな。良かった。それとシルハーン、思いがけないお客ですよ」
最後のお客は、さてシュプリをグラスに注ごうかというところで訪れた。
聞き慣れた終焉の魔物の声に振り返り、ネアはぱっと顔を輝かせる。
どこか恐縮したようにウィリアムの隣に立っているのは、つい最近、海竜の戦でたくさん助けて貰ったシェダーだ。
「もう少し早い時間にお祝いを言いに上がるつもりでしたが、遅れてしまいました。身内の祝いの席なのに、乾杯のところで押しかけてしまって申し訳ありません」
白灰色の髪を揺らし、まずは優雅にディノにお辞儀をする。
ディノは目を瞠ったままふるふると首を横に振り、微笑んでシェダーにお辞儀をしていたネアの方を見る。
「ディノ、シェダーさんもお祝いを言いに来てくれたようですよ。良かったですね」
「……………うん」
こくりと頷いたディノの隣を見て、ネアはぎょっとした。
ギードも涙目でふるふるしており、力加減を誤ったら手に持っているグラスを粉砕しそうだ。
そんなギードの姿に淡く微笑むと、シェダーはグラスを壊さないようにと声をかけてくれた。
「……………増やし過ぎじゃないのか?」
「ディノのお誕生日なので、これでいいんですよ。ちびふわも、シェダーさんにはお世話になりましたものね」
ネアがそう言うと、アルテアが眉を顰めたので、ぴっと指を立ててその最たる事例を教えてやった。
「海老に夢中なちびふわが、海老の油で滑らないようにと、テーブルの上におしぼりを敷いて貰った恩を忘れてしまったのですか?茹で海老のソースに浸かりそうになった尻尾を救出してくれたのも、シェダーさんだったでしょう?」
そこでアルテアは暫し無言になってしまい、ノアが小さく声を上げて笑う。
「わーお、アルテアも随分と危ない生き方をしてるなぁ」
「ノアベルトには言われたくないと思うぞ……………」
「うん。ウィリアム、それはまた後でね。…………ありゃ、エーダリア、大丈夫?」
「あ、ああ。…………その、精神圧などは抑えて貰っているのでないのだが、やはり圧巻でな……………」
「じゃあ、ヨシュアを帰そうか。そうすると少し楽でしょ?」
「ネア、ノアベルトを帰らせるといいよ」
「こらっ、仲良くして下さい!それとアルテアさんは、一人で部屋の端っこで飲み始めてはいけません!」
「やれやれ、仕方ないな。叱っておくか」
にっこり微笑んだウィリアムに、ネアは慌てて首を振った。
ちびふわな時の自分の記憶と戦っている使い魔なので、この状況で斬られてしまうと再生が思うようにいかないかもしれないではないか。
(これはもう、早々に乾杯をしよう!)
「では、まずは私がディノのグラスに注ぎますね」
「……………ずるい」
「ディノ、用法が迷子になってしまっていますよ。お誕生日おめでとうな気持ちを込めて、はいどうぞ」
「……………可愛い」
「さて、次は…………」
「僕のものからにするといいよ。……………ぎゃあ!ウィリアムに睨まれた!」
「ヨシュアは馬鹿だなぁ。ネア、僕のグラスはこっちだからね」
「ネイ?」
「ごめんなさい…………。って、あ、またやられた!」
ヒルドが、ネヴェアナハツの瓶を受け取り、まずはネアに注いでくれる。
その後は各自自分で注ぐようになるのだが、ヨシュアは落としたり注ぎ過ぎたりすることを警戒されてしまい、ヒルドが注いでやっていた。
今日は人数が多いので、全員の分を注ぎ切ったところで瓶が空になる。
淡い水色のシュプリを際立たせる透明な瓶の中で、粉雪や薔薇の花びらのようにしゅわしゅわと動く泡を見る時間は減ってしまったが、人数が増えた分喜びは倍増だ。
星屑のシャンデリアの光の下でグラスの中の泡が煌めき、今年も僭越ながらネアが音頭を取らせていただく運びとなる。
「ではあらためて、ディノ、お誕生日おめでとうございます」
ネアの声に合わせて、全員がグラスを顔の前に掲げる。
この世界では、グラスを触れ合わせる行為は労働者階級から派生した悪ふざけのような認識をされていて、余程の親しい間柄でない限りは不作法となる為、このような場で行われることはない。
言うなら、仲良しの友人の背中をふざけてばしりと強めに叩くようなもので、お祝いの場などではこちらの乾杯が一般的であった。
あちこちからおめでとうと言われ、ディノはまたくしゃくしゃになる。
透明に揺らした水紺色の眼差しが、幸せを伝えるようにこちらを見ると、ネアは胸がいっぱいになった。
花の香りと、星空の下の夜の森の美しさを堪能させてくれる特別な広間。
床の絨毯の毛足は祝福の光を帯びて波打ち、窓の向こうの森は深く息を飲む程に鮮やかだ。
とは言えこの部屋の中にいる、恐ろしい程に美しい生き物達に敵うものなどどこにもないだろう。
みんなに大事にされて瞳も髪も内側から光るようなディノは、何も知らない人が見たら声を失くしてしまいそうなほどに凄艶な美貌であった。
「シルハーン、誕生日おめでとうございます」
乾杯が終わると、ネアは少しだけディノから離れた。
その思惑に気付いたシェダーが会釈してくれて、ディノの正面に歩いてゆく。
シェダーは身に持つ資質や、とある事情で課せられた対価の目を欺くのに制限があり、半刻程しかいられないのだそうだ。
向かい合ったシェダーからお祝いの言葉を貰い、ディノはまた澄明な瞳を揺らしてから、穏やかな声で有難うと呟いている。
ギードがその輪に加わり、ヨシュアが割り込み、そんな幸せな光景を、ネアはウィリアムと一緒に見守った。
見上げた終焉の魔物に、あの輪に加わらなくてもいいのかと尋ねると、今はいいんだと笑っていた。
「不思議なことだけどな、何というか、今の俺の場所はここになったんだろうな。ネアや、アルテアや、………まぁ、ノアベルトもいるこちら側に。だから今は、彼等にシルハーンとの時間を譲ろうと思う」
「と言うことは、ウィリアムさんはやはりこちらの家族の輪のひとなのですね。そう言って貰えて、何だか少しだけほっとしてしまいました」
「…………ん?そうなのか?」
「ふふ。人間は強欲ですから、ギードさんやシェダーさんと仲良しのウィリアムさんも大好きなのですが、あまり向こう側を見てしまわれると、ちょっぴり構って欲しくて寂しくなるのです。…………上手く言えませんが、あの方達は、やはり今の居場所以上にここに踏み込まれることはないでしょう。ですから、せっかく仲良しになったウィリアムさんが、お二人を追いかけて遠くに行ってしまったら寂しいのです…………」
そんなネアの我が儘に、ウィリアムは目を瞠った。
なぜか視線を彷徨わせ、ふっと深く、そして鮮やかに艶やかに微笑む。
「………………ネアにそう言って貰えて、俺は幸せだな。…………ああ、それと、俺もそうだが、シェダーやギードも、祝い事には向かない資質の魔物なんだ。贈り物がなくてすまない」
「いいえ。こうして来てくれるだけで充分なのです。会いに来てくれて、おめでとうと言って貰えることがディノにとってどれだけ嬉しいか。…………さっき、ギードさんから森の生活について色々なことを教えて貰ったんですよ。リズモの秘密の生息地もひとつ教えて貰ったので、ディノとそれも素敵な贈り物だねと話していたんです」
「ああ、…………そうだったな。彼は多くの時間を狼としても過ごしているからな…………」
そう苦笑し、ウィリアムは頷く。
そんな話を聞けば分ることもあって、彼等にはもう、恐らくディノと距離を置いていた間に育まれた、或いは新しく派生し直した場所で育まれた、新しい生活や居場所もあるのだと思う。
だからきっと、こんな風にディノに会いに来てくれたとしても、以前とは違う関係を繋ぎ直す部分もあるに違いない。
(でも、これからも、ディノの大切なお友達が、こんな風に会いに来てくれればいいな……………)
そう思って頷くと、ネアは、ほこほこのジャガイモとコンビーフのグラタンに鋭い視線を向けた。
折角のお祝いなので、まずはこの素晴らしいお祝い料理を余すことなく堪能せねばならない。
「いいか、このシュプリだけはそのまま飲めよ。食べ物と合わせるのには、惜しい酒だからな」
「むが!いきなり頭の上に手を乗せるのをやめるのだ。首がぐきっとなりましたよ!」
「まったく。アルテアにも、首に急な負荷がかかるということを、体感して貰った方が良さそうですね」
「ほお、出来るならだな」
「……………ウィリアムさん、アルテアさん語を解析するに、どうやら構って欲しいようですよ」
「はは、アルテアは素直じゃないな」
「おい、妙な解釈を挟み込むな」
「む?」
渋面のアルテアに鼻先を摘ままれそうになったので、ネアはその指先を齧り、愚かな使い魔を黙らせておいた。
「ほぇ、アルテアがいちゃいちゃしてる……………」
「ヨシュアさん、今のは愚かな行いへの制裁ですので、反撃の一種なのです」
「そうなのかい?…………ネア、あれは何だろう?」
「まぁ、ヨシュアさんもクネルグラタンが気になりますか?一人で二種類のグラタンを荒らすのは気が引けていたので、ヨシュアさんにもよそってあげる体で、私のお皿にも二種類……」
「お前は、食べ物のやり取りの注意を何度させるつもりだ」
「むが!頬っぺたを摘まむのはやめるのだ!!」
わしゃわしゃしているネア達のところへ、慌てた魔物が戻って来た。
「ネアがいなくなった」
「まぁ、私はここにいますよ?お誕生日なディノですので、特別に撫でて差し上げます!」
「…………かわいい」
奥では、ギードとシェダー達と、エーダリアやヒルドにノア、ゼノーシュとグラストで話をしている。
ノアとゼノーシュがいるので安心して任せられるし、エーダリアの表情を見るに仲良くなれそうだ。
「後で、ケーキを切りましょうね。ディノには、チョコプレートのところと、お花が綺麗なところを選びますね」
「…………虐待」
「あらあら、切らないと食べられませんし、今年のケーキを食べないと来年の次のケーキが貰えませんよ?」
「そうなのかい?」
「ええ。なので、美味しく食べて下さいね」
一瞬悲しげに目を瞠ったものの、ディノはこくりと頷いた。
微かに体を屈め、滑らかな頬をこちらに向ける。
(あらあら……………)
どこか伏せられた真珠色の睫毛が扇情的で、老獪な魔物らしい欲もそこにはある。
けれども、森を輝かせ庭の花を満開にした魔物の稚さに、ネアは胸がいっぱいであった。
爪先に力を入れて、ひょいっと伸び上がる。
ちょうど誰もこちらを見ていないし、星屑のシャンデリアの真下で、何だかヤドリギの下で口付けをするみたいだ。
伸び上がってその唇にそっと口付けを落とすと、こちらを見た魔物の水紺色の瞳に深い歓喜と、微笑ましくなってしまいそうなくらいの無垢な動揺が揺らぐ。
体を離して微笑んだネアに、ディノは目元を染めてよろめいた。
「なぬ。……………死んでしまいました」
「おい、お前はまた懲りずにやったのか」
ぱたりと倒れた魔物を、ネアは悲しい目で見下ろした。
慌ててアルテアがこちらに来ると、犯人を被害者から引き離しにかかる。
「む、無実です!頬っぺたを差し出されたので、お祝いの口付けをしただけなのです!!」
自ら唇の方にしたとは告白出来ず、ネアはアルテアに抱えられたままじたばたした。
ディノのことはウィリアムが起こしてくれているし、幸いにもギードやシェダーもおやおやと微笑んで見ていてくれた。
「あ、オーロラだ!」
ゼノーシュがそう声を上げて、窓の外を指差した。
そうなると見にいくしかないので、ネアは拘束用の乗り物となっているアルテアの肩をばしばし叩いて、窓の方に行くのだと指令を与えた。
庭木にはぱきぱきと音を立てて育った祝福結晶の花が開き、淡く光る花びらを花吹雪のように降らせている。
森は枝葉の一つ一つまで艶々と輝いて、柔らかな風に揺れるようにさんざめき、不思議な音を立てていた。
小さな妖精や精霊が行き交い、魔物達が祝福を浴びて喜び駆けてゆくそんな森の上には、鮮やかなオーロラがかかっている。
(幸せなものがこんなに美しいだなんて、なんて素敵なことかしら…………)
そんな光景をうっとりと眺めながらも、ネアはグラタンの取り分けに余念がないのであった。