ゴーグルの手入れと霧のお散歩
その日のウィームは、とっぷりと深い霧に包まれた。
このような日には普段とは違う魔術が動いたり、見知らぬ生き物が外を歩いていたりする。
普段は見かけないような悍ましいものや、見たこともないような美しいもの。
そんな生き物達に出会ったら、決して口をきいたり、触れたりしてはいけない。
そう教えられてウィームの子供達は育つのだそうだ。
(今日の霧の色は、煙色がかった深い藍色…………)
霧に滲む街並みは、季節によっていつも違う色に見える。
春先は淡い薔薇色、初夏から夏の終わりまでは青みが強く、秋にはラベンダー色がかり、冬にはその白さが磨き抜かれてより深くなる。
ネアは最初、霧そのものの色は変わらないで、その向こうに滲む街の色が変わるのだと思っていた。
だが、雪の色が毎年微妙に違うと知り、霧もまた魔術的な要素を多く含むことで色合いを変えるのだと教えて貰った。
(もし、滲むように鮮やかだけど、奇妙に暗い青色の霧に包まれたら、それは扉が開いている時。もし、淡く煌めくような金色や色とりどりの霧を見たら、大きな幸運や祝福を得られるかもしれない。ただし、うっかり霧の向こう側にいるものに気に入られてしまうと、二度と帰れなくなる可能性もあるのだとか…………)
教えて貰ったことを反芻しながら、頬に触れる霧の冷たさを楽しむ。
ネアは、服がびしゃびしゃにならないようにヒルドから貰ったレインコートを着て、そんな深い霧の中を、ディノとゼノーシュと一緒に歩いていた。
「ディノとゼノがいるので、これだけ霧が深くても一安心ですね」
「でもね、ウィームの霧は余所よりは安全なんだよ。霧の精霊王がいるから」
「エーダリア様の会の会員さんな、あの素敵な角のあるエイミンハーヌさんですよね」
「……………ネアが角に浮気する………」
「あら、とうとう部位にまで………………」
「そんな角なんて………………」
「ディノ、他人様の角に悪さをしてはいけませんよ?」
「角なんて……………」
霧に包まれた街は、どこかいつもとは違うところに思えた。
物語の中の不思議な街のように秘密めいていて、なぜだか無駄に胸が高鳴ってしまう。
まだ秋が深まった頃合いの肌寒さはないが、空気がひんやりとしていてこれからの季節への期待が高まる。
あの、ウィームが最も美しく煌めく季節が、またやって来るのだ。
「ゼノ、グラストさんは、今日はお休みなのですか?」
「……………うん。午後からは、仕事なんだよ。僕も一緒に行くんだ」
「あらあら、ではそれまでに仲直りしなければですね」
ネアがそう言うと、宝石のような檸檬色の瞳がこちらを見た。
その瞳はとても悲しそうで、出会った頃にグラストに白いケーキを作って欲しいのだと話していた頃のゼノーシュを思い出させた。
実は、この見聞の魔物と彼の歌乞いであるグラストは、夏休みの直後から喧嘩中なのだとか。
双方生真面目なところがあるので表面化せず、ネアも、少し拗れてからその事実を知って驚いた。
珍しいこともあるものだ。
「……………出来ると思う?」
「ふふ、ゼノは心配性ですねぇ。大事なゼノと仲直り出来なかったら、グラストさんはきっと胸が痛くて倒れてしまいますよ。グラストさんの為にもどうか、仲直りしてあげて下さいね」
「でも、僕を見ると…………困った顔をするんだ」
そう呟くと、ゼノーシュはふっと黙り込んだ。
心の中に溢れている言葉を整理しているようなので、ネアもそれ以上は話しかけない。
こうして一緒に歩いているのは、ゼノーシュの悩みを聞く為なのだ。
またゼノーシュが話しかけてくれるまで、急かさないようにさり気なく待とう。
(……………ゴーグルの方は、だいぶ霧に触れたかな)
今日の仕事としてネア達が霧の街を歩いているのは、数日後に控えたクッキー祭りで使うゴーグルの手入れの為である。
首にかけたゴーグルを、こうして歩いて霧に触れさせることで、昨年の戦いで傷付いた部分が修復され、より強くなるのだという。
確かに、この深い霧の中を歩き始めた途端、ゴーグルのベルト部分が滲むような光を帯びた。
ネアのゴーグルには、紫がかった水晶に、霧の結晶を薄く削いだバンドがついて、特に磨耗の気になるパーツであるので、時々こんな風に霧に触れさせて手入れする必要がある。
水晶や霧の結晶を使っている品物なので、きっと柔らかい布で丁寧に磨いたりするのかなと思っていたが、こうやって手入れをする道具なのだと知り、ネアはとても嬉しかった。
自分の為に作られた専用のゴーグルというだけでもわくわくするのに、お手入れが霧の日の散歩だなんて、とても不思議で素敵なことに思えたのだ。
(あ、あの壁にもポスターが貼られてる…………)
この時期、クッキー祭りを控えたウィームの街には、いたるところにクッキーの箱や袋の絵がある注意喚起の張り紙があった。
クッキー祭りは、開封されたけれど食べてもらえずに悪くなったクッキーが荒ぶるお祭りである。
何だかファンシーな語感以上の被害が出るので、領民達はとても注意深く備えるのだが、短期滞在の学生や、観光客達など、意外なところからクッキーを侮り大きな事故を起こす者が現れるので、その為に誰の目にも止まるようにとあちこちにポスターが貼られているのだそうだ。
特に今年のクッキー祭りは、春先にシュタルトから売り出されたざくざく食感の贅沢バタークッキーが流行ったこともあり、昨年よりは厳しい戦いになると言われている。
(だから、このゴーグルもしっかり備えておかないと!)
昨年使った後にも丁寧に手入れをしたのだが、念の為に決戦の前にもこうしてメンテナンスすることとなった。
歩きながら、ちらりと横を見る。
ゼノーシュは悲しげに眉を下げたまま、小さくふうっと溜息を吐いた。
(そんなクッキーを巡って、ゼノとグラストさんが喧嘩をしてしまうだなんて、意外だったな………)
いつか、そんな日も来るだろうかと考えたことはある。
だが、思っていたよりもずっと早く、二人はよりしっかりとした家族のような関係を深めていたらしい。
喧嘩が出来るという事は、そうやって心を動かし合うことを許したという証拠でもあるのだが、グラストが大好きなゼノーシュは、仲直りするまではとても辛いだろう。
こつこつという靴音に合わせて、見聞の魔物の滑らかな髪が揺れる。
隣を歩くゼノーシュは、栗色の髪の少年に擬態していた。
ネアに使い魔などいなくて、ゼノもまだ今のようにグラストとお喋りが出来なかった頃は、こんなクッキーモンスターともよくお出かけしたなと、ネアは感慨深く思い返した。
その頃にどれだけゼノーシュが助けてくれたのかを思えば、ネアは隣でしょんぼりしているゼノーシュを、何としても笑顔にしてあげたいと思う。
ディノも気にしているが、擬態の上に霧や雨のようなものを弾く結界をかけることも忘れ、人間の子供のように霧に濡れている姿は無防備で愛おしくなる。
ややあって、ゼノーシュがまた口を開いた。
「僕ね、謝ったんだよ…………」
「…………喧嘩の原因は、ゼノが並行して色々なクッキー缶を空けてしまうことを、グラストさんが怒ったからなのですよね?」
「……………うん。いつもならいいけど、この時期だからって。クッキーが祟った時に、もしその缶から現れたクッキーで誰かが怪我をしたらどうするんだって。僕を心配して怒ったんじゃなかったし、凄い怖い顔をしたから、僕も言い返しちゃって…………」
そこだけ聞いていると部外者にはたいそう可愛い喧嘩なのだが、ゼノーシュにとっては一大事である。
「僕はいっぱい食べるの知ってるでしょうって言って、………僕そっぽ向いた…………。そしたらね、グラストは悲しい顔をして、何かを言おうとして、でも部屋を出て行っちゃったんだ」
ネアは、そんなグラストの苦悩も分かるような気がした。
魔物達とのこの深い関わり合いは、本来はとても異例なことなのだと、グラストは知っている筈だ。
この世界に来た時から、今の形を見ているネアとは違う。
ましてや、グラストはウィームの生まれだが、ウィームの前領主が中央からリーエンベルク付きの騎士を選ぶと明言していたこともあり、家から送り出される形で王都に詰めていた騎士である。
そこでの、人間と魔物の関わり合いは更に淡白なものだった筈だ。
「…………これは人間である私の推測ですが、グラストさんが悲しい顔や困った顔をするのは、ゼノが自分の家族のように大切だからこそ家族の温度感で叱ってしまうのですが、対価として取り決められたことがその争点だったことで、人間と魔物として、或いは歌乞いと契約の魔物として、どこまでが許される境界線なのかが分からなくなり、困ってしまったからかもしれませんよ」
ネアの言葉に、ゼノーシュは目を瞠った。
長い睫毛をしぱしぱさせて、檸檬色の瞳を揺らす。
「僕のせいで、………また前みたいになっちゃう?僕のこと、ちょっと苦手になったみたいなんだ…………」
悲しい声音に、ネアは微笑んで首を振った。
「いいえ、まさか。ただ困惑していて、上手くお喋り出来ないだけではないでしょうか?」
「僕には、…………そんな風には言ってくれないよ?」
「…………人間の大人の男性は、……特に子供を叱るような気持ちで踏み込んでみた男の方は、意外に繊細なのです。だって、大好きなゼノに嫌われたくないのに我慢して叱ってみたら、ぷいっとされてしまったのですから、きっと今は、怖さや不安でいっぱいでしょう」
「…………僕、反省したから謝ったのに」
「ええ。でも、大切なものには、臆病で慎重になってしまうのが人間なんですよ。だからここは、叱られた時にどうしてぷいっとしたかを、グラストさんに話してあげては?」
ネアの言葉に、ゼノーシュは綺麗な瞳に絶望の色を浮かべた。
今のグラストに正面から向き合うのが怖いのはよく分かるが、ネアはこんなところは魔物達はよく似ているのだと、ついついくすりと笑ってしまった。
「ネア、笑うなんて酷いよ!」
「ふふ、ディノもね、時々、怖くて向き合えないと巣に隠れてしまうんですよ。そうすると私は、三つ編みを掴んで引っ張り出すのです」
「ご主人様……………」
おかしなところで着弾してしまったディノが目元を染めてもじもじしていたが、今は放っておこう。
「…………僕にも、そうやってグラストが来てくれればいいのに」
「グラストさんは男性ですし、私とディノの関係と、ゼノとグラストさんの関係は違うので、対応の仕方が違うのでしょう。………多分、私のように強欲に引っ張り出せないくらいに、男性の方は繊細なのではという気がします」
「じゃあ、僕にはグラストが引っ張り出しに来てくれないの?」
「むむ。…………ゼノとグラストさんがこんな風に喧嘩をしたのは初めてなので、グラストさんはまず、ゼノが契約の魔物として、そんなことにまで口出しされたくないと怒ったのか、大好きな人が自分より他の人を心配したからぷいっとしたのか、どちらなのかが分からなかったのではないでしょうか?そこが分からないと、どう動けばいいのか悩んでしまうかもしれませんよ?」
「……………僕、怒られるのは嫌じゃないんだよ。でも、他の人のことで怒られるのは嫌い」
少しだけ頑固な顔をして、ゼノーシュはぽそりと呟いた。
それは魔物のとても厄介な性質で、ネアもそんな魔物の扱いが分からずに何度も失敗したものだ。
だけどきっと、ネアの場合は、最初から心で動かして欲しいのだと全身で伝えてきていたディノだからこそ、とても理解しやすいサインがいっぱいあった。
「あら、じゃあゼノは、また家出をしてしまうのでしょうか?」
「……………家出しようかな」
「そうなると、グラストさんは一人ぼっちで残され、やはり、自分が家族のような親しさを勝手に抱いたことで、ゼノが愛想を尽かしてしまったのだと、とても悲しんでしまうでしょう」
その言葉に驚いた顔をして、ゼノーシュはふるふると首を振る。
「じゃあ僕、…………家出はしない」
「では、グラストさんにどうしてぷいっとなったのか、教えてあげてくれますか?」
「…………でも、グラストはまた、僕を見て困った顔をするかも。そうしたら、僕がグラストに嫌われたんじゃないって、どうしたら分かるのかな。僕はグラストが大好きなのに…………そうなったら、どうすればいいのかな…………」
ネアは、もうこのあたりで可愛いが爆発して心臓が止まりそうになっているのだが、ネア以上にその思いを抑えきれなかった者がいたらしい。
突然一人の男性が霧の中から飛び出してくると、しょんぼり項垂れたゼノーシュを、さっと抱き上げた。
「グラスト………!」
驚いたようにその名前を呼び、ゼノーシュはじわっと涙目になる。
グラストもちょっと泣きそうだったが、律儀なリーエンベルクの筆頭騎士は、まずはネア達に深々とお辞儀をした。
けれどもその手は、しっかりと大事なゼノーシュを抱き締めている。
「おや、もういいのかい?」
そう問いかけたディノは、先程から後ろを歩いていたグラストを、霧で隠していた。
気配も悟られないように、特殊な結界を敷いてまでして、今回の一件に手を貸してくれていたのだった。
「…………ええ、ゼノーシュの気持ちは充分に分かりましたから。この後は、二人でしっかり話をします。ネア殿、…………こんな機会を設けていただいて、有難うございました」
「いえ、お互いに考え過ぎて拗れるかもしれないから手を貸して欲しいと、アメリアさんが相談に来てくれたのです。私も、大好きなゼノとグラストさんには、いつも幸せでいて欲しいですから」
「あ、ネア駄目だよ。ディノが………」
「……………む?」
ゼノーシュから慌てたようにそう言われて、ネアはおやっと振り返った。
そこには悲しげな目をしたディノがおり、どこか呆然とした面持ちでふるふるしている。
「…………ディノ?」
「…………君は、…………本当は、ゼノーシュとグラストが好きなのかい?」
「……………なぜそうなったのだ」
めそめそし始めた魔物の三つ編みを掴み、ネアは、どこか途方に暮れているグラストに、これが魔物なのだと暗い目で伝えておいた。
「…………なので、ゼノはもうグラストさんが兎に角一番大好きなのです。うちもそうですが、擦れ違いが生じた時には、何よりもまず、どれだけお互いを大事に思っているかを主軸にして、話し合ってあげて下さい。人生経験も心の広さもグラストさんには敵いませんが、荒ぶる魔物と対峙した数だけは上な、私からの呟きでした」
そう締めくくったネアに、グラストはふっと微笑む。
「いえ、今回の件で私は、自分がどれだけ未熟かよく分かりました。ネア殿を見習って、ゼノーシュに自分の気持ちをきちんと伝えてゆくようにします」
大人だからこそ、グラストは未熟者からの忠告にもこんな風に言ってくれるのだと思う。
ネアは、何だか擽ったい気持ちで微笑みを返し、先程までの悲しげな気配を一変させて、どこか静かな歓喜に満ちた気配を纏い、きらきら光る檸檬色の瞳でグラストを見ているゼノーシュを見た。
「ゼノ、………この様子だとグラストさんには大好きだと伝えるだけでいけますよ!」
「……………うん。ねぇ、ネア。僕のことも、グラストは引っ張り出しに来てくれたよ!」
「ふふ、ゼノが可愛すぎて我慢できなかったみたいなので、二人は本当に仲良しですねぇ」
「…………うん!」
一度持ち上げてしまうと手を離すのが怖いのか、グラストは、ゼノーシュを抱えたまま去っていった。
ネアは、さてこちらの魔物はと三つ編みの先を見上げ、まだ悲しげにこちらを見ているディノに微笑みかける。
「ディノ、私が一番大事で大好きなのは、ディノなのですよ?」
「………………うん」
「人間はとても心が広いので、仲間のような大事な人達にも、こんなに応援していますよという意味の一環で、大好きという表現を使うことがあります。その場合は、ディノのような婚約者に使う大好きとは、同じ言葉でも篭められる意味合いが変わりますので、同じように聞こえても同じものではありません」
「……………そうなのかい?」
「なので、ディノへの大好きは特別製なのです。これはとても貴重なものなので、粗末に扱わないで下さいね」
ネアが少し悪戯っぽくそう言えば、魔物はなぜか慌ててしまい、そんなことはしないとご主人様をぎゅうぎゅう抱き締めた。
ネアは霧でしっとりしているところで揉みくちゃにされ、その上、大事なレインコートがくしゃくしゃになるのを見て心の中でぐぬぬと耐えた。
更には、粗末に扱わないという意思表示でもしようとしたのか、さっとネアを持ち上げて頭をぐりぐり擦り付けてくる。
ここで逃げ出せば、ディノはまたしょんぼりしてしまうだろう。
とても厄介で繊細で、けれども大事で手放せないもの。
それはきっと、先程、ゼノーシュの背中をぎゅっと抱き締めたグラストの腕の強さと同じ。
(………………もうすぐ、私がこの世界に来てから、二年になるのだわ)
そう考えるととても不思議で、何やら胸の中が温かくなったので、ネアは万感の思いを込めて大事な魔物の頭をそっと撫でてやった。