夜の温室とお客なけもの
「ほわ、二度目のアルテアさんの素敵なお家です!」
ネアがそう声を上げると、足元で銀狐がムギーと弾んだ。
あちこちを見てはきらりと目を光らせているが、最後に目を止めたのは美しい虹灰色がかった精緻な羽模様のある、掠れたような風合いが珠玉の逸品な水色の絨毯だったので、ネアはあの傑作を決して傷付けてはならないと、さっと銀狐を抱き上げる。
絨毯を爪でばりばりやらんとする悪巧みを見透かされてしまい、銀狐はささっと絨毯に向ける憧れの眼差しを逸らすことで証拠隠滅を図った。
「……………おい、なんでそいつも連れて来たんだ」
「ディノが、アルテアさんが悪さをしたら、狐さんをアルテアさんの寝室に放り込んでいいと言って、出がけに手渡してくれました」
「すぐに返してこい。余計な要素があると、麦が変質する」
「狐さんは、私が麦茶を作る間はお利口さんに待っていられますよ?ただし、アルテアさんが私を苛めたりしたら、恐ろしい獣が寝室で荒れ狂います!」
「恐ろしくはないな」
「あら、あの素敵な寝台や、お気に入りのパジャマを毛だらけにし、カーテンや絨毯を荒野にする恐ろしい獣さんなのですよ?おまけにボール投げ運動は、肩を壊しにかかる邪悪な遊びです」
「やめろ。それと、本気でここにいるつもりなら、帰るまでボールはなしだぞ。いいんだな?」
ボールなしだと言われた銀狐は、尻尾をけばけばにすると涙目で空中足踏みをし始めた。
ネアがそっと床に下ろしてみたところ、アルテアは腕組みをして決して頷いてはくれないし、ネアのお守り代わりであるという自負もあり、すっかり混乱してしまってたしたしと二人の間を円を描いて走り回る。
そしてぴたりと止まると、ふさふさの胸毛を見せつけてなぜか自慢げな顔をした。
「うむ。今夜は立派なお守り狐さんなので、ボール遊びは封印するそうです」
「個人的な見解として宣言しておくが、無理だろうな」
「なぬ。…………ほわ、狐さんの尻尾がへなへなに…………!」
ネアが今晩お邪魔しているのは、昨年にディノの誕生日の贈り物作りをした方のアルテアのお家、つまりは本宅である。
ネアはあの素敵な花器という名前の泉のある玄関ホールを見たかったのだが、現在は仕事の道具が積まれているので、立ち入り禁止だと言われてしまった。
とは言えどの部屋も閉じこもって永住したいくらいに素敵なところばかりなので、憧れの玄関ホールが見れなくても落ち込む程ではない。
(この青みがかった、なんとも繊細で綺麗な色合いの灰色の壁!)
今日ばかりは壁を愛する人間が生まれ、同時に床や窓枠を愛する人間も生まれた。
ネアはお気に入りの壁をすりりっと撫で、幸せな気持ちで微笑みを深める。
勿論、リーエンベルクもまた、例えようもなく美しいところだ。
だが、リーエンベルクはやはり冬狩り用の離宮として建てられそのまま王宮となったところであるので、その華やかさは憧れの戸建てという領域のものとは違う。
ネアが理想として思い描いていたのは、こんな素敵な色の壁がある普通のお家であった。
(勿論、私には大切なお家があったけれど……………)
それは言うならば故郷のようなもので、本当ならネアも、大雨の度に古い雨樋の心配をしたり、老朽化した床板がぎしりと嫌な沈み方をする箇所や、雨染みの補修をしなければならない壁とは無縁のお家にだって、住んでみたかった。
子供の頃には愛すべき欠陥だったそれらは、一人であの屋敷を維持するようになった途端、不安の種に変わってしまったのだ。
「アルテアさん、またいつか玄関ホールを見せて下さいね」
だからネアは、万感の憧れを込めてそう言っておく。
あの時代に育まれてしまった素敵な戸建てへの夢は、こうして素晴らしいお屋敷を拝見することで、どこか傷を癒すような喜びに変わる。
何しろこちらの使い魔はすっかり終身雇用となってくれており、きっとこのお屋敷だってこれからは何度も遊びに来られる筈なのだ。
そう思うと、何だかこの素敵な部屋も自分のテリトリーのような気がしてきたので、ネアはうきうきと部屋の中を歩いてみた。
すると、片方の眉を持ち上げてこちらをじっと見ているアルテアに対し、銀狐は何かの遊びだと思ったのか弾みながら付いてくる。
「私のお家は今日も素敵です!」
「お前にやった記憶はないな」
「しかし、アルテアさんはアルテアさんを私にくれましたので、このお屋敷ももれなく私のものになっている筈。私のアルテアさんの、私のアルテアさんによるお家です。うむ!無駄な悪足掻きをしてはいけませんよ?」
ネアが誇らしげにそう言えば、アルテアはふっと意地悪な微笑みを浮かべた。
おやっと思って首を傾げると、ネアがすっかり油断していた時を狙って、意地悪なことを言い始めるではないか。
「その口約束については、お前が一度撤回したからな。使い魔としての誓約は結び直したが、それはそのままだ」
「む、むぐ?……………そんな筈はありません。春告げの舞踏会で、アルテアさんは私のものだと約束してくれた筈なのです!今日からまた私のものだと言ったではありませんか!」
「ほお、そうだったか?」
目を眇めてふっと微笑んだアルテアに、ネアは、これは苛めっ子の、記憶にございません攻撃だと理解した。
銀狐を抱き上げて、さっとカーテンの方に近付けると、半ば本気で慌てたアルテアがすぐさま拘束に来る。
結果として、銀狐を持ち上げたネアがそのまま持ち上げられてしまい、とても不思議な三層構造になった。
「ったく。さっさと、麦の収穫を行うぞ」
「むぐる。両脇に下に手を差し込んで、ぶらんと持ち上げるのをやめるのだ」
「おかしなことをすると、今晩の食事はスープだけになるぞ」
「ゆ、ゆるすまじ。私から使い魔さんのお料理を奪うなんて、絶対に許されることではありません。そもそも、私に、美味しいあれこれを献上する為に使い魔さんは使い魔さんになったのでは………」
「なんでだよ」
(あ、…………)
ネアはここで、とても大切なことを思い出した。
そう言えば今日は、アルテアに想いを寄せる体の後方は決して思い出したくない系の美少女に出会ったのだった。
どれだけよく懐いた使い魔でも、魔物らしい気質が荒ぶる時や、年頃の男性として自分の思う人を優先したいこともあるだろう。
「それとも、……………尻尾のお嬢さんに、美味しいご飯を届けたくなってしまったのですか?」
「……………は?」
「大きな虫足尻尾でしたので、食いしん坊さんかもしれません。私も一度、美味しそうだと言われましたが、ゼノが食べてはいけないと怒ってくれました」
「………………ほお。今度あいつを見かけたら俺を呼べ。その場で寝ぐらに送り返してやる」
「も、森に……………?」
「おい、その設定をいつまで続けるつもりだ?」
ひょいと床に降ろされたので、ネアは銀狐を抱き締めたまま眉を下げる。
鮮やかな赤紫色の瞳を細めてこちらを見下ろしているアルテアは、迎えに来てくれた時には着ていた上着を脱いで、今は白いシャツに黒いジレ姿である。
「…………アルテアさんは使い魔さんですが、………その、………そろそろ奥様探しなどを真剣にやられるお年頃かなとも思いますので、そのような出会いを邪魔したくないのです。……むぎゃ?!なぜに頬っぺたを引っ張るのだ!」
ちょっと繊細な話題に触れてまで本音を告げたのは、ネアなりの配慮のつもりだった。
長命高位な生き物がどこから婚期を逃した扱いになるのか分からなかったが、どうもネアが見ている限りは、あちこちでふられているような気がする。
だが、アルテアはその問題には触れて欲しくなかったようだ。
「…………踏み込むなと言わなかったか?」
「むぐる!アルテアさんはすぐにこの手の問題をわざとぞんざいに扱ってしまうので、ちょっぴり真剣に心配してみただけなのです!なんなら、百戦錬磨なダリルさんが素敵な恋の必勝術を授けてくれますよ?」
「そうか。…………お前に踏み込んだだけの対価を支払う覚悟があるなら、そろそろこの手の情緒を教えてやるべきかもしれんな」
「…………むむぅ。情緒なら、今度ウィリアムさんが教えてくれるのです」
ネアがそう反論すると、なぜだかアルテアはぴたりと動きを止めた。
ネアはその隙に引っ張られていて頬っぺたを救出し、引っ張られ過ぎて伸びてしまわぬようにすりすりと頬に撫で込んでおく。
「…………ウィリアムが?」
「いつもアルテアさんに情緒を貶されるとお話ししたところ、今度、ディノをぎゃふんと言わせるとびきりの言葉を教えてくれるのだとか。これはもう、アルテアさんも私に謝罪するしかないやつですね」
「…………シルハーンに使うなら兎も角、練習云々と転がされて、ウィリアムに使うなよ?」
「あら、実験はアルテアさんでするのですよ?」
ネアがそう言ってきりりと頷くと、なぜだかアルテアは片手で額を押さえた。
深く溜息を吐き、何やら失礼なことを呟いている。
「…………私とて、立派な淑女なのです。情緒を貶されますが、一手間かければ気の利いた大人の会話くらい華麗に披露してみせましょう」
「…………それで、その会話とやらで俺を籠絡したらお前はその行為のツケを払うんだろうな?」
ゆっくりと顔を上げて告げられたそれは、囁くような甘い声音だった。
魔物が人間を屈服させ、破滅させる時にはこんな風に甘くしたたるように囁くのだろうか。
「勿論です。アルテアさんが私をなかなかに魅力的な大人の女性だと認めた後は、私も通常のお料理に加え、栗のパイなどを受け取る準備は出来ており…」
「よし、黙れ」
「むが!頬っぺた伸ばしをやめるのだ!」
「それだと、お前は何にも支払ってないだろうが」
「む?腰肉との戦いで、私を不利にする狡猾な罠ですが、アルテアさんの大好きなやつですよね?」
「……………お前、俺が好む行為を何だと思ってるんだ?言ってみろ」
そう尋ねられたネアは、こてんと首を傾げた。
「私にお料理を作って振る舞うことと、ちびちびふわふわして、私にお腹をなでなでされることです」
「……………おい」
「む?私とて、推論で断言などしません。しかし、アルテアさんが行為としてご機嫌になるのは主にこのあたりで、…………」
「よし黙れ」
「なぬ。解せぬ」
アルテアはふっと視線を下げた。
ネアの腕に抱かれた銀狐は、昨晩が忙しかったのかぐうぐう寝ている。
お守り狐としては失格だが、とても可愛い寝顔だった。
「…………麦を抜くぞ。それと、今年はあのシュプリはいいんだな?」
「その代わりに、月光紫と流星薔薇の蜜を採取します」
「ああ。どちらも、今夜に咲くように調整してある。その作業の時は狐は置いていけよ?」
「準備万端ですよ。狐さんの簡易寝台も持って来たのです………えい」
ネアは、熟睡してだらんとなった銀狐をアルテアに手渡し、金庫の中からいつもはエーダリアの執務室に置いてある銀狐用の簡易ベッドを取り出した。
ずるっと取り出されたのは、持ち手付きの大きな丸い籐の籠で、中にはふかふかクッションが敷かれており、その縁をぐるりとボールで飾ってあった。
「……………何だそのボールは」
「敷布団の縁を、狐さんがかみかみしてボロボロにしてしまうので、いっそもうこれではと縁に柔らかいボールを縫い付けたのです。すると狐さんは、この簡易ベッドがいっそう大のお気に入りになりました」
「…………見た目はボールに呪われた寝台だな」
「まぁ、確かに取り憑かれてはいますが、呪われてはいませんよ?」
試しにとアルテアがその簡易ベッドに銀狐を入れると、銀狐はずりずりっと体を動かし、半分眠ったまま敷布団の縁のボールをあぐあぐと噛んだ後、またすやすやと眠りにつく。
「……………よしその辺に置いておけ」
「こうなると狐さんは起きないのですが、守り狐さんなお役目を果たせるのでしょうか………」
これから緻密な作業があるので銀狐はそのまま部屋に置いて行くことにして、ネア達はまず、黒い麦の収穫を行うこととした。
庭に面した硝子戸を開けると、庭との間にあるウッドデッキのような場所に、美しい硝子の採取菅がある。
そしてその中には、まるで硝子管の中で育てられたかのように一本の黒い麦が生えていた。
「これが、そうなのですね…………」
「この手袋をはめろ。後は、封を開けてやるからその麦を引き抜くだけだ。だが、俺の気配を纏わせて同時に動く必要があるからな、まだ触るなよ」
「まぁ、これはアルテアさんの園芸手袋ですか?」
「大きいだろうが、掴むだけだからな」
貸してもらった手袋は生成色と深緑の革製で、がぼがぼではあるもののしっとりと肌に馴染んだ。
こんな素敵な園芸手袋があれば、きっと庭仕事も楽しいに違いない。
ネアが手袋を装着している間に、アルテアが貼ってあった札を剥がし、キュポンと硝子管の蓋が開けられる。
さわりと、夜の優しい風に硝子管の中で黒い麦が揺れる。
その造形の全てを黒一色にした麦は、それ以外には不思議なところはないように見えた。
こういう品種なのだと言われたら、そのまま納得してしまいそうだ。
アルテアは見えない刃のような魔術で硝子管をさくさくと左右に切り分け、いよいよ収穫の準備が整った。
「私がただ毟るだけでは、困ったことになるのですよね?」
「ああ、元々ある程度高位でなければ手に余るものだからな。……………俺の気配を馴染ませるから、大人しくしていろよ?」
「はい…………」
アルテアは、荒ぶった時のディノのように背後からネアを抱き込み、羽織ものになってくる。
慣れない羽織ものにネアがはらはらしていると、麦の方へと伸ばした手もぴったりと重ね合わされ、呼吸を合わせるように指導された。
「よし、抜くぞ」
「はい!」
最初は上手く出来るだろうかと不安だったが、不思議なくらいにすんなりとお互いの呼吸が合わさり、ネアは言われたところで、手を伸ばして麦の根元を掴むと、えいやっと勢いよく引っこ抜く。
きゅっと、ゴム製品を濡れた手で擦ったような音がした。
ネアは、何か大きな反応があるのだろうかと体を強張らせたが、それ以外には特に何もなく、拍子抜けしたような思いで手の中の黒い麦を見つめる。
「……………終わりですか?」
「収穫はな。後は、加工だ」
「麦茶にするのですね…………」
その麦茶造りも、思っていたよりは簡単なものだった。
勿論、量があれば大変な作業なのだが、ネアが収穫したのは一本の麦なので、手袋をつけたまま麦穂を揉み揉みして人力脱穀した後、混ざってしまった髭のような細い部分をアルテアがふっと息で吹き飛ばしてくれた。
これを、通常であれば天日干ししてから炒るのだが、そのあたりは魔術でささっと出来てしまうのである。
アルテアが用意していたのは陽光の祝福石で、その綺麗なオレンジ色の石と一緒に麦を置き、琺瑯のボウルを上からかぱっとかぶせてしまえば、あっという間に天日干しまでが完成してしまう。
陽光の祝福石は暗いのを嫌がるようで、ボウルの中でぺかりと輝くのだそうだ。
「後は炒るだけだ。こっちはやっておいてやる」
「フライパンで炒るだけであれば、私にだって出来ますよ?」
「食事を作りながらその間にやるからな。今晩は、ポロネギの炭焼きのヴィネグレットソースに霧森のキノコを添えたものと、棘牛のパイ包みだ。自家製のハムも食べるか?」
「ハム様!!」
「じゃあ、それを表面を焼いてチーズマッシュポテトだな。前菜は作り置きのものを幾つか出すから、好きなのをつまめ」
「はい!」
ネアは素晴らしき晩餐のメニューに心を弾ませ、うろちょろするなと設置された厨房の椅子の上から、様々な料理が出来上がるのを目を輝かせて見守った。
霧森のキノコは、稀少な季節の味覚であるらしい。
夏の終わりの霧の森にしかないもので、秋の訪れに触れると枯れてしまうのだそうだ。
この季節だけ新鮮なものを味わえるが、それ以外の季節には乾燥させた高価なものが出回るのだとか。
パイは既にオーブンに入っており、キルトのミトンで天板ごと引き出されいい匂いを漂わせた。
このまま切り分けて食べるのだが、アルテアは、マスタードとナッツのクリームソースも用意してくれたようだ。
山盛りのサラダには、食べられる菫の花が散らしてあり、新鮮なホタテのカルパッチョ的なものや、小海老のカクテルサラダのようなものもある。
揚げた茄子を酢漬けにしたものや、セロリと蒸し鶏と葡萄のサラダ。
このあたりのものは作り置きなので、欲しいだけバットからお皿に取り分け、また保冷庫に戻せばいいので、沢山の種類をいただけるのがバイキングのようで楽しい。
「デザートはパイナップルのグリルと、ココナッツミルクのムースにニワトコのシャーベットを添えたものだ。今回は軽いからな、入浴の後にスフレを焼いてやる」
「パイナップルを焼いて、ココナッツミルクのムースにニワトコのシャーベット、スフレまで、………じゅるり……………」
入浴後のものはちびスフレだが、庭で摘んだ木苺のソースが入っていて、ほくほく温かいのを食べるのがいいのだそうだ。
微かなお酒の風味も添えて、季節の変わり目に就寝前の体を温めてもくれるらしい。
焼き網の上のポロネギがいい感じに黒くなり、つるりと表面の皮を剥けばあっという間にポロネギの一皿も完成だ。
一口大に切って上からヴィネグレットソースを回しかけ、塩とバターで蒸し焼いたキノコを添える。
こちらも秋の足音が感じられる季節らしい、香ばしくいい香りがして、ネアは胸が苦しくなった。
「狐さんにも、食べられるものはありますか?」
「ああ。用意してある」
そう言ったアルテアは、なぜか少しだけ悪い顔をした。
まさか玉葱たっぷりだったりしないだろうかと警戒したネアだったが、すぐにハムステーキの香りに注意力が散漫になってしまう。
小さなフライパンでは、先程の黒い小麦が丁寧に炒られているようだ。
熱されてはぜた麦の内側も黒くて、麦茶にする前にかりっと食べてみたくなる。
「ほら、出来たぞ」
やがて、大きなテーブルの上に並んだのは、ネアにとっては天国の食卓のような、素晴らしいお料理ばかりだった。
何とも言えずいい色合いの大きな青いお皿の上には、アルテアが丁寧に作った自家製ハムのステーキ、チーズマッシュポテト添えが置かれる。
他にも白いホーローに濃紺の縁取りのあるバットには、色鮮やかな作り置きのお料理が並んでいて、ネアの胸を熱くした。
慌てて居間から持ってきたバスケットをがくがくと揺すって銀狐を起こすと、目を覚ました銀狐も、素晴らしいお料理の並びに喜びの雄たけびを上げて尻尾を振り回す。
「お前はこれだ。一人分ずつ切り分けて、添えてあるソースで食べろ。いいな?」
そんな銀狐は、なぜかアルテアから、首に大きな包みをかけられていた。
大きさや形的にはネア達が食べるのと同じような棘牛のパイ包みのようで、それを熱を通さないの蓋付きのお皿に入れて、ホイルで包み、上から風呂敷のようなもので更に包んで首にかけられるようにしたのだろう。
ネアも銀狐も、なぜ丸々一個くれるのだろうと首を傾げていると、アルテアは両手でそんな銀狐を持ち上げて、もう一度先程まで寝ていた籠ベッドの上に戻した。
目を丸くして必死に首を傾げている銀狐に、どこか含みのある微笑みを向け、カツンと踵を鳴らす。
「き、狐さんが消えました?!」
「安心しろ。シルハーンの手元に送り返しておいた。土産付きだから、充分だろう」
「狐さんは、お守り狐さんだったのです!これでは、アルテアさんに苛められた場合には、きりんさんを出すしか………」
「やめろ。…………それと、料理が冷めるぞ?」
「む。…………こちらの方が重要な問題ですので、まずはこのテーブルの上のお料理を美味しくいただいてから、狐さんのことを考えますね」
とは言え、事情を説明しないと不安がってしまいそうなディノがいるので、ネアはお行儀は悪いものの、テーブルの上にカードを開き、ディノに事の経緯を説明してから食事に入ることにした。
「……………ディノはたいそう荒ぶっておりますが、鼻先に美味しい棘牛のパイをぶら下げられてしまった狐さんも荒ぶってしまい、一刻も早くそのパイを切り分けるのだと大暴れしまして、その結果、会食堂でエーダリア様達も一緒にみんなの晩餐にパイを一切れ追加で食べることになったのだそうです。ゼノは大喜びで狐さんを褒めたので、褒められた狐さんはお守り狐であったことをすっかり忘れてしまった模様…………。何という姑息な罠でしょう。むぐふ」
「文句を言うなら、フォークを置いたらどうだ?」
「むぐ?………今はポロネギをやっつけているところなので、その提案は却下します」
ネアはその後も美味しい料理をあれだこれだといただき、前回の滞在で美味しかった記憶のあるガンガリスのお酒を出して貰って、更に上機嫌になった。
ディノへのカードにも、アルテアはお料理上手なので今日はお守り狐がいなくても大丈夫だと思うと書いてしまうくらい、すっかり心を蕩かされてしまい、串に刺してグリルオーブンで回し焼かれたパイナップルを細長いナイフで切り分けて貰うと、幸せのあまりむふんと甘い息を吐き出す。
(ムースやシャーベットが、絞り器できゅっと絞り出した形の一口大でお皿に並んでいて、お花が咲いたみたいに可憐だわ………………)
白いムースとシャーベットを散らしたお皿は、白い花びらを散らしたように見える。
そこに鮮やかな黄色で、少しだけ焼き目のついたグリルパイナップルが添えられれば、目にもお口にも楽しい最高のデザートの完成だ。
先がきゅっと細くなっているスプーンでさくっとあつあつパイナップルを掬い、はふはふとお口に放り込む。
続けざまにシャーベットを食べれば、こちらは濃厚な甘さと爽やかさの組み合わせ、ムースにするとまろやかな風味が加わってこれも美味しい。
ネアはガンガリスのお酒が残っている間は、またハムをお代わりしたりしつつ、素晴らしい時間を過ごした。
「さて、そろそろ頃合いだ。酔っぱらってないだろうな?」
空が夜の色合いを増した頃、アルテアがそう言って立ち上がった。
いつの間にか襟元のボタンを二個程外したようで、ネアはこちらの酔っ払いの方が心配だぞと顔を覗きんでみたところ、幸いにも赤紫色の瞳は澄んでいるようだ。
「ふふ。アルテアさんも酔っぱらっていなさそうで一安心なので、ぜひに花蜜の集め方を教えて下さい」
「俺がこの程度で酔うか。……………それといいか、あの温室では絶対に歌うなよ。それだけはするな」
「むぐ。私とてそのくらいの分別はあるのだ」
アルテアに案内して貰って庭にある温室に行けば、そこは見事な円形の建物だった。
サーカスの天幕を小さくしたような形で、思っていたよりずっと広い庭の一画に、月光を浴びてきらきらと佇んでいる。
ネアは、夜の庭園の中に浮かび上がる宝石のような温室に感動してしまい、その入り口の扉に彫り込まれた細やかな模様の美しさにも目を瞠る。
温室の入り口には見事な花をつけたアイリスが左右対称に植えられていて、そのバランスを少し崩すように非対称にしたもう少し背の低い花々を手前に植えてある。
このあたりも、アルテアの庭造りのこだわりを強く感じた。
きぃっと硝子のコップを指で弾くような音がして、温室の扉が開いた。
こぽこぽと水の音がするのでそちらを見れば、小さな水盤を中心にして、清涼な水が循環するような造りになっている。
「お、温室の中に小川があります…………」
「景色の移植の一環だ。川辺でしか咲かない花もあるからな」
「なんて美しいのでしょう。小川の中に育っているのは、宝石のようなお花ですね…………」
「このあたりの花は、まだ実験段階だな。上手く育てばこちらの青いものは香料に、こっちの赤いものは絵具になる」
そう説明されて、ネアは夢中で頷いた。
勿論自然のものも美しいが、こうして人工的に整えられ、様々な珍しいものが集まっている楽しさも格別だ。
「この宝石のようなお花が、元気に育ちますように」
夜の温室でしゃわりと光を放つのは、小さなせせらぎを耳に届けてくれる小川の中の宝石の花。
そんな花に小さな声で話しかけると、背後でふっと微笑むような気配があった。
「お前が歌いさえしなけりゃ、無事に育つだろうよ」
「むが、何度言うのだ。ゆるすまじ!……………ア、アルテアさん、ブルーベリーのような不思議なお花がありますよ?」
「これが月光紫だ。…………ほら、これに蜜を集めるぞ」
「まぁ、この小瓶もとっても美しいのですね」
手渡された小瓶まで美しく、すっかり嬉しくなって微笑んで見上げれば、夜の色の中で赤紫色の瞳ははっとする程透明だった。
それは魔物らしい夜の煌めきというよりは、この温室に咲く花々のように、不可思議で美しい貴重なものと言う感じがする。
そんなアルテアに教えて貰い、ネアは月光水晶で出来ているのだという小瓶にその花の蜜を集めた。
不思議な花は、まるで宝石の花のような硬度で、指先でつつくとチリンと鈴に似た音を立てる。
がくに近い部分を指先でチリンと揺らすと、綺麗な青紫色の蜜が、ぽとりと落ちてくるのだった。
(これをお砂糖に混ぜて、ディノのお誕生日にあげる、美味しくて祝福たっぷりの砂糖菓子を作るのだ)
あくまでもおまけの贈り物だが、せっかくだからいつもとは違うものが作りたい。
今回の麦茶作り合宿を好機と見て、ネアはそんな相談をアルテアにしたのだった。
「……………まさか、こんな素敵な蜜を採取出来るだなんて。………アルテアさん、今日は有難うございます」
「アルビクロムでの研修が上手くいくとは限らないからな。ある程度は、こういうもので欲を押さえ込んでおいた方がいいだろう」
「…………………まさかの、強化合宿失敗の場合の保険でした」
「……………念の為に聞いておくが、より深刻な方には進んでないだろうな?………実際に体を傷付けられることを望んだりはしてないな?」
「………………その希望を出された場合、私は婚約期間を百年程伸ばします」
「…………それもそれでやめろ。騒動になる予感しかない」
「むぐる。ではその場合は、いつもウィリアムさんに斬られてしまう系の友情を深めている、玄人なアルテアさんがディノを導いてあげて下さい。私は、大事な魔物を傷付けるようなことには関わりたくありません…………」
「やめろ。勝手におかしな趣味に落とし込むな」
色々な話をしながら、二人は夜の温室で花蜜を採取した。
月光紫と、青白く燃える流星薔薇の蜜を二つの小瓶に集め、ネアはこんな収穫の喜びもあるのだと頬を緩めた。
「秋の舞踏会の準備はしているのか?」
そう尋ねられて、ふいに腕を取られてくるっと回されたりもして、何だかほろ酔いの楽しい時間を過ごす。
あるのは水音と芳しい花の香りと、美しい夜の色ばかり。
そんなふくよかな時間を終えて屋内に戻ると、アルテアからは食べたものなどを片してしまうので先に入浴するようにと言われた。
手伝おうとしたのだが、今年もお皿を割られたくないと厨房から追い出される。
浴室で見たことのない瑠璃色の瓶に入った入浴剤を発見し、慌てて一度戻って浴槽に入れてもいいか尋ねてしまい、バスタオルでうろうろするなと叱られたりもしたが、セージグリーンと白で統一された美しい浴室で、ネアはたっぷりと寛いだ。
「ガンガリスをきりっと冷やして、くいっと行きたい気分です!」
「もう水にしておけ。それと、炒った麦を煮出すぞ」
「では、まずは麦茶を作ってしまいますね」
「……………お前な。髪を乾かしてから出てこいと言っただろうが」
「可動域の低い私には、自然乾燥しかないんですよ。ここのお風呂には温風が出る道具もありませんし」
「……………ったく」
面倒見のいいアルテアに髪の毛を乾かして貰いながら、ネアはお茶用の紙パックに入れたほんの僅かな黒い麦を、ぐつぐつと森の地下から汲み上げた水で煮出した。
この量では色など出ないと思っていたのだが、元が黒いせいか意外にも色が出る。
「うむ。出来ました!」
「キュ!」
「………………む?」
何か聞こえる筈のない声が聞こえたぞと、驚いたネアが周囲を見回すと、なぜかアルテアが用意しておいてくれたので着てみた可愛い生成り色のパジャマのポケットに、しまった筈のないむくむく真珠色のムグリスが入っているではないか。
「…………まぁ、お留守番の出来なかった悪い魔物ですね?」
「……………キュ」
ネアがそう言って少しだけ怖い顔をしてみせると、うっかり見つかってしまったムグリスディノは、ちびこい三つ編みをへなへなにして、ポケットの中に隠れてしまう。
「……………おい、聞いてないぞ」
「ディノは、一人でもアルテアさんのお家に辿り着けてしまうのですね。私も驚きました。…………さて、この麦茶はどうやって保管しておけばいいのですか?」
ネアは来てしまったのだからもういいやと、まずは作業優先で麦茶作りを進めようとしたが、アルテアは呆然と立ち尽くしている。
ネアは、意外に予定外の事件に弱い魔物の肩をそっと叩いてやった。
その夜は、無事に予定通り美味しいスフレも焼いてもらい、眠りを邪魔しない香草茶を飲み、真夜中を過ぎたあたりで一緒に歯磨きをしてから就寝した。
なぜかアルテアは、ムグリスディノがいるのなら野放しには出来ないと言い出し、二人と一匹は一緒に眠ることになる。
個別包装は運用してくれると聞き、それならばとネアも了承したし、ムグリスディノはムグリスディノなままの姿の徹底を滞在の条件とされ、むくむくもこもこの体で、こくりと頷いていた。
目を閉じると、あの夜の光の中で花開く、美しい温室の光景が蘇る。
柔らかな水音を思い出し、頬に寄り添ったムグリスディノの毛皮の肌触りを楽しむ。
アルテアが着ているのが昨年のイブメリアに贈ったパジャマであることに気付き、ネアは、何だか温かな思いで眠りについたのだった。