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黒い麦と黒い汽車




遠い汽笛が聞こえ、顔を上げた。

まだ時間ではないので奇妙だなと思い、煙草を咥えたまま、広げていた新聞を畳む。


この新聞はアクス商会が発行しているもので、毎日輪転機を回して刷るような新聞ではない代わりに、ふと目を止めた思いがけない場所で売られているものだ。


例えばこんな風に、見慣れた駅舎の見慣れない売店に並んでおり、料金を支払って新聞を買うとその売店はもうどこにも見当たらないというように。


記事になっているのは世界情勢や、階位のある者の訃報、経済関連の相場情報に新しく発表された論文や魔術理論などまで。

その時アクスがこの程度のはした金で情報公開してもいいと思った些事が並んでおり、しかしアクスが手放したその情報にとて、一度はアクスが収集しただけの価値がある。


見付けたら買うようにはしているが、今回は幾つか収穫があった。



(さてと…………)




胸元から取り出した懐中時計には、横のボタンで切り替える四つの時計盤がある。


これは予め選択して魔術で紐付けたものを測る時計であり、現在の時刻と、今後三日の間に予測される時間の座の誤差を反映したものまでを固定とし、残りの二つは都度魔術設定を変えていた。


今はその内の一つで、とある変異が現れるまでの残り時間を測っていた。




(……………出現まで、残り三時間か)



蝕が控えたその年にだけ、世界のどこかの麦畑に現れる漆黒の麦がある。

だが、こればかりは捜索範囲が広大過ぎることもあり、どんな高位の者達の見立てでも半ば運頼みの要素が大きい。


魔術である程度の出現予測を立て、その範囲をいかに短時間で調べるか。

駄目ならば次の候補地に行く、その見極めが問われることとなる。


厄介なことにその漆黒の麦穂は一片の魔術も有しておらず、引き抜いたり折ったりしたその瞬間に、理と祝福の魔術がその場で凝り織り上げられるという仕組みであった。




「どうだ?…………目処はついたか?」


小さな魔術の通信端末を叩き、とある島で顔料の採掘をする魔術師達に同行した男に声をかける。

漆黒の上着の襟元に並んだ小さな夜結晶の灰紫色の装飾は、その全てが通信端末となっていた。



今や一般化したものの、こうして魔術の系譜や属性の限定される結晶石の土台に、他の魔術を癒着させる技術を簡略化したものを構築したのは、確か四百年くらい前の事だ。

それまでも決して不可能ではなかったのだが、高価な技術であり、高位の者達にだけ許された魔術の置き換えであった。


とは言え、通信に纏わる技術は普及してこそ意味がある。

出来ないと思っていることが出来ることで活路を開く場面があるというのも確かだが、その技術を秘匿したいのはせいぜい、中堅の人外者や人間達くらいのもの。


魔物は、ある程度の者であればこの種の会話を繋ぐ魔術は道具なしでも動かし易かった為、その立場からすれば、技術を秘匿する利点がなかった。

それ故に、小さな宝石が通信端末になるという秘密を知られたくなかった一部の者達を落胆させつつも、ある程度価格を落とした商品として流通させたのだった。



勿論、出回っているものの精度には雲泥の差がある。

こうして使っているこの通信端末は、世間的には実現不可能と言われている距離を繋ぐものだ。



「いい魔術鉱脈だ。だが素材が素材なだけに、今夜しか取れないのが惜しいな。咲いている花を全部摘んでも、こちらの船一艘分の積み荷にもならん」

「構わんさ。今年のハトメキア火山湖の花を顔料にしておけば、五年周期の次の顧客に繋がる。織物や香辛料よりも、アイザックが参入を不得手としている市場だからな。そいつは押さえておきたい」

「今夜の花は残らず収穫しておく。…………だがまぁ、心が痛むな。知らずにこの花を摘んだ魔術師達は、明日の朝にはみんな石塊になるんだろ?」

「さて、どうだったかな」

「はは、酷い雇用主だよ、あんたも」



そう笑い、通信は切れた。

今回の現場に行かせたのは、絵の具の魔物で、古くは儀式や魔術書を彩った彼は、その階位より遥かに多くのことを可能とすることの出来る有能な男だ。


魔術保有量で言えば、せいぜいが最盛期でも伯爵位。

とは言え何度かアイザックを出し抜いたこともある、良い仕事仲間であった。



(……………そちらは問題ないか。さて、次はこちらだな)



そろそろ汽車の時間だと立ち上がり、畳んだ新聞を持っていた革の鞄に丁寧にしまった。




「ほお、…………」



立ち上がりホームまで歩こうとして、目を瞠る。

今は廃線になった筈の反対側の線路に、奇妙な漆黒の汽車が停まっているのが見えた。

先程の汽笛はやはり聞き違いなどではなく、いつの間にやらそこに入ってきた汽車があったらしい。



だが、音も立てずに走ってくる汽車となれば、あまり快く踏み込めないような性質のものが殆どだ。

夏至祭のダンスやあわいの列車もそうだが、敷かれた線の上を走るという行為も魔術儀式の一環となるし、どこかへ導く物には大抵の場合は複雑な魔術の手が絡む。



その意図なく作られたものであっても扉になり、或いは道となり、更には良からぬものを運んで来たりもするものだ。




(であればこれは、何の扉となるものか)




大抵の場合の忍び寄る怪異は、それを認識した者を標的としている。

つまりこれは、周囲の他の客には見えていない以上は、獲物として認識されたということに他ならない。



どう出るつもりかを眺めていれば、竜の吐息のような音がして扉が開くと、戸口に立っていた黒い影のような乗務員が、ホームまでのタラップを下ろした。



カツンと、靴音を立てて降りて来たのは、腰までの黒髪を持つ氷のような眼差しを持つ女。



膝までの丈のドレスはパニエで大きく膨らませてあり、だが漆黒で統一した装いから華美さは微塵も感じさせない。

喪服の女のような静けさで、顔の片側にだけ下ろしたヴェールを駅舎を抜けてゆく風に揺らしていた。



ふっと、極北の森にある湖のような、暗い水色の瞳がこちらを見た。



「あら、…………あなたとここで会うなんて」

「まったくだな。妙なものがあると思ったら、お前が乗っているとはな」

「不愉快な邂逅だわ。わたくしの一番嫌いなものを最初に見るだなんて」

「お互い様だろ」



肩を竦めて立ち去ろうとしたところで、視界の端に映ったその女の唇が、鮮やかな笑みを刻むのが分かった。

やれやれと目を細め、咥えていた煙草の灰を落とす。



「公共の場でしてよ。慎みのないこと」

「放っておけ」



がしゃんと、停まっている漆黒の汽車が大きく揺れた。

それはまるで重量のある貨物を下ろしたような揺れ方であったが、降りてくるのはこの女だけなのだ。



ただし、軽やかな容貌はこの人型の手前の部分だけであり、尾のように引き摺る残りの体の部位は確かに重いだろう。



がりがりと、金属を引き摺るような不愉快な音が響き、巨大な甲殻に覆われた長い尾のようなものが引き出される。

形状としては竜の尾に近いが、昆虫の足に似たものが七対あり、それである程度の重量を支えている。



「相変わらずの悍ましさだな」

「…………誰のせいでわたくしがこうなったと?わたくしを魔術の贄にして、醜悪な悪変の竜にその魂を食らわせたのは、あなただったと思うのだけど」

「さぁ、どうだったか」



そう呟いた瞬間、駅のホームに巨大な亀裂が走った。


鋼と竜核で出来た尾が勢いよく打ち付けられたからで、こちらの爪先の、ほんの僅か手前を醜い漆黒の尾が抉っている。


ぞろりとそこに生えた脚で床石にめり込んだ尾を持ち上げ、またそこに力を込めるのが見えた。




がきんと火花が散り、結界にひびが入る。

打ち付けられた鉄竜の尾を防ぎはしたものの、やはり祟りものについてはある程度の不確定事項を予測しなければならないようだ。

属性を特定して結界を張っても、それはすぐにうつろい変化してしまう。



「慎みがないのは、お前の方だったらしいな」

「実はね、興が乗ったのであなたの仕事や仲間を壊そうと思って、ここに来たの」

「それでアルビクロムに来たのなら、せいぜい好きにしろ」

「いいえ。ここはただの中継地点。あなたは今、ウィームにいるのでしょう?」

「かもしれんが、悪いが俺は出掛けるところだ。何をやるにしても勝手にやれ」

「では勝手にやるわ。元々、あなたが今夜は不在だと聞いて来たのだもの。あなたが愛するものは壊したいけれど、あなたは大嫌いなのはどうしてかしら。………でも、あなたが春告げに連れて来たという女を私のようにすれば、少しはあなたを愛せるかもしれない」

「…………どうだかな」



それだけを呟き、ふうっと煙草の煙を吐いた。



(まぁ、程良い薬にはなるだろうよ)



少し考えたがそう結論付け、この女は放っておくことにする。


襲われたとしてもシルハーンの指輪が守るだろうし、そもそもこの生き物がウィームの中央都市を守るリングの魔術を超えられるとは思わない。



線路は場になり易いことくらい、その線を敷いた時から誰もが理解している。

だからこそウィーム中央駅は、リングと呼ばれるウィーム中央の円環路の一点に配置され、強固な結界で覆われているのだ。



(恐らく、あの時のあわいの列車もその仕組みを地下から支える魔術の一つだろう…………)



そう考えると、統一戦争の憂き目に遭いながらも、あの土地にはどれだけの仕掛けがあったものか。

標的が王族達だけでなければ、バーンチュアの目的があの国を滅ぼすことであれば、そこに蓄えられた叡智や呪いは容易くヴェルリアを滅ぼしたに違いない。



だが、彼等はそれを使わなかった。



(どこかで、…………エーヴァルトも分かってはいたんだろう)




時代の波に淘汰され、滅びるべきは自分達だと。

理解しながらも戦い、けれども理解していたからこそ、ヴェルリアを滅ぼす事は出来なかった。



(エーヴァルトが憎んだのは、バーンチュアだけだったが、結果としてはその憎しみが自分の一族と自分自身を殺すことになった………)



それは、愚かな愚かな、ウィームという国の最後の王。



望まずとも理解していたのならば、あのヴェルリア王の手を取る選択肢もあった筈だ。

だが、彼は滅びるのだとしてもそれは許容しなかった。


あのような顛末になることを、あの男が想定出来なかった筈もない。

ただ理解していたならば、己の欲求くらいは家族の為に殺した筈だ。


であれば、本当は分かっていた筈のことを、無意識に自身の力で目隠ししてしまうくらいに、その憎しみは強かったのだろうか。



(……………血に残った竜の気質だろうな)



身に流れた光竜のその資質が彼を破滅させたのだとして、それでもあの男やその前の世代のウィームの王族達が、ウィームに遺した魔術の遺産は相当のものだ。

だからこそ、ゆっくりと黒い汽車に戻り、これからウィームに向かうという黒いドレス姿の女には、特に感慨もなく背を向けた。


ウィームに辿り着いても、あのような生き物は駅舎を出られない見込みが高い。

だが、あの人間のことだから、その前にエカテリーナに出会ってしまいそうな気もする。



心のどこかで、もしこの身に契約を強いたあの人間が、エカテリーナに襲われたら自分の名前を呼ぶだろうかと考えないこともなかったが、まずそれはないだろう。


最近の祟りものを恐れなくなりつつある傾向も気になるので、あのような生き物に遭遇するべきだという思いもなくはない。

だがその欲求の全てが、彼女が危機感を維持するべきだということで収まるのか、或いはあの呑気そうな表情を突き崩してみたいという魔物の本質的な欲求なのかは、自分でも図りかねた。



(あの尾は嫌うだろうな。…………付属の足が虫に近い)



錬成時に使ったのは、悪変した鋼の竜と、とある亡国の皇女。


そして戯れに投げ込んだ幾つかの虫がいた気がするが、もうあまり覚えていない。

悪変したものへの置き換えを行う際、その自我を何が奪うのかが気になって行った実験であったが、やはり最も自我のしっかりした魂が表面に出てくることになり、代わりに肉体はより魔術階位の高い竜の要素、そしてその歪さを支える意味での虫の要素などが混ざり込むのだなと、なかなかに興味深い結果だった。



ガオンと、橋を渡る汽車が音を立てる。

あの後は車掌に切符を見せて予定していた汽車に乗り、目的地までの乗車時間を幾つかの仕事の調整に費やした。



橋を渡りきるとそこはもう、広大な麦畑だ。

中心の都市部を離れると、アルビクロムは一気にこの様相となる。

地平線の向こうまで広がるその真ん中を、どこまでも真っ直ぐに伸びた線路が切り裂いてゆく。


都市部の労働力を地方の食糧生産で支え、その中でも安価な小麦が最も多く栽培されているらしい。

次にとうもろこしとジャガイモ、その次に土地を割いているのが養豚であったが、何本もの大河を有するので、意外に川魚にも恵まれている。

とは言え、味がいいかどうかといえば、あまり好ましいものではなかった。



(さて、……………まずはこの界隈からだな。一番可能性が高いのが、アルビクロムとカルウィの南西部だ)



黒い麦探しは、ここから窓の外の様子を観察しながら行うので多少骨は折れるが、この方法が実は一番効率がいい。


座席とは反対側の麦畑の観察には注意を払う必要があるものの、広大な麦畑を横切るだけの動力はこの汽車が負担してくれる。

自分で移動を重ねながら気の遠くなるような麦畑を歩き回るよりも、魔術を敷き易い線路沿いに探索の手を伸ばし、左右のどこまでも続く麦畑を短時間で調べることが可能になったのは助かった。


かつて使った馬や馬車などでは、生き物の要素が強く滲んでしまい、探索の魔術に支障が出る。

どこまでも道具であるという移動手段が必要なのであって、その上で、この乗りもの程に探索に向いたものはない。


探索が手薄になる区画もある程度あるだろうが、それはもう深く考えないようにした。

全てをつぶさに観察して回っていたらきりがないではないか。


ここはもう、己の直感のようなものを信じるしかないのだ。




「………………だが、最初の候補地で当たりだな」



ふと、意識が引かれる箇所があった。


前回は逃したが、今年は当たりくじを引いたようだと唇の片端を持ち上げて笑うと、持っていた鞄を杖を回し描いて掻き消し、そのまま転移で汽車を降りる。



次の瞬間にはもう、ざざっと麦を踏んで線路からはかなり離れた位置にある、一つの畑の真ん中に立っていた。



遠くの麦を揺らしながら、地平線の向こうから吹き渡ってくる風がある。

夏の気配を削ぎ落とし、いつの間にか秋の気配もしてくるようになった。


今年の秋告げの舞踏会も間もなくだ。

ウィームでは、短い夏の眠りで体を休めた氷や雪の系譜の者達が、そろそろ目を覚ます頃合いだろう。



そんなことを考えていた時のことだった。




「…………………っ、」


横薙ぎに襲いかかってきた刃を躱し、背後から襲いかかってきた何者かの刃を杖で防いだ。

その瞬間の呼吸の乱れで気付いたが、直前まで全く気配はなかった筈だ。


その理由と使われた魔術の種類、考え得る幾つかの可能性を思案しながら、更に上空からも降り注いだ刃を躱し、虚空から取り出した漆黒の外套をばさりと振るって次なる攻撃を払いのける。



「雀蛾か……………」


そう低く呟き、脇腹に刺さった細いナイフを引き抜いて白い炎で燃やせば、青白い煙が立ち昇る。


躱すことを見越してその先に罠を仕掛けられていたので、この一本は敢えて避けなかった。


血や皮膚片などを拭けばその辺に捨ててもいいものだが、このナイフは雀蛾達の毒が塗り込まれている。

採取などにも長けた一族であるだけに、自分の血に触れた以上は不用意に手放さない方がいいだろう。



「誰かと思えば、仮面の魔物か」



土色の大きな翼を動かし、空中で静止した黒髪の男には見覚えがあった。

男は、こちらが地面に叩き落とした三人の仲間を一瞥し、不愉快そうに顔を顰める。


首を捩じり切ってあるので意識を取り戻す見込みはないし、首領であるこの男が思っていたよりは被害が大きかったのだろう。

とは言え、引く気配は微塵も感じられなかった。


もっとも、雀蛾は二十近くは残っているのだから、このくらいで怖気付かれても困るのだが。



「なんだ、インテン。一族総出の散歩か?」

「あの大鐘楼のあった学徒の街以来だな。あの時は遅れを取ったが、蝕の麦を発見したのは、我等が先よ。大人しく諦めて帰るがいい」

「竜よりも素早く飛ぶお前が俺より先に見付けたなら、もっと早く到着していた筈だろうが」

「お前を排除する為にここに潜んでいたとは思わぬのか」

「周囲一帯の魔術探査は済ませてある。直前まで気配がなかったのは、複数個所への転移を監視しておいて、反応があり次第、強制転移をかけるような条件付けの魔術をその身にかけたか」

「………………だとしても、数の差で我らの優位は変わらぬぞ?」

「あくまでも、数の上だけだろ?」



そう笑い、足元の土を煙結晶に変換すると、手に持った杖を打ち付け、その特定の音階で魔術を構築した。

コーンという澄んだ音が響けば、大気中を広がった音の魔術の衝撃波を避け損ねた雀蛾達の羽は、一斉に腐り落ちる。


苦痛の声や怒号が響く中、振り下ろされた剣を杖で受け止めて押し返し、返す手で横から飛び込んできた女の喉を杖の先で貫いた。


この女の血飛沫を浴びて結界の形状を把握させるのは癪だったので、そのまま腕を振るって串刺しになった女を払い捨てると、インテンが低く唸り声を上げる。



(……………誰とは言うまいが、近しい女だったか)



雀蛾は雪喰い鳥のようなものだが、幸い呪いなどは資質に持たない。

その代わりに強い毒を身に宿すので、触れれば肌が爛れると言われている。

この場合は呪わない個体で良かったかと思いつつ、インテンの鋭い憎しみの眼差しを受け止めた。



次の斬撃は先程より遥かに重かったが、正確さは欠いていた。


本人もすぐにそのことに気付き、次の攻撃ではそのあたりを修正してくる。

暗殺や襲撃に長けた雀蛾らしい無駄のない動きは優美でさえあったが、群れの統率とその上での攻撃力の高さという点に於いては、雪喰い鳥には及ばない。



(だが、こちらもあえて、“あの街で姿を見せた仮面の魔物”という体で、力を押さえてやっているんだ。せいぜい楽しませてくれないとだな…………)



そう思い笑みを深めると、雀蛾達の羽ばたきで飛ばされそうになった帽子を片手で押さえた。



その後も暫し遊び、飽きたかというところで一度立ち止まって煙草に火を点けていると、インテンが短く舌打ちするのが聞こえた。

冷静で頭の回転も早い男ではあるものの、己の技量や戦い方に妙な美学を持ち過ぎている節はある。



(だから、負けるのだ)



ふぅっと煙を吐いた。



足下の土を腐らせる毒の魔術を敷かれたが、上から書き換え直して変化を押さえ込んだ。

そして、充分に網を張ったところで、指に挟んだ煙草をぼうっと燃え上がらせる。



その火は、周囲に張り巡らされた煙を辿り、あっという間に燃え広がった。




「……………まさか?!」



ようやく気付いたものか、インテンが狼狽したような声を上げたが、その時にはもう、空中にいた雀蛾達は煙で張り巡らせた網の中で燃え上がっていた。



苦悶の声や絶叫が響き渡る中、暴れる雀蛾達を空中に固定するのが、唯一苦労した点と言えようか。


やがて、煙の網に囚われた獲物達が黒ずんだ灰になってぼろぼろと風に崩れ落ちると、手に持った杖をくるりと回して腕にかけ、何の感慨もなくその場を立ち去った。




風に、どこまでも静かに広大な麦畑が揺れる。



色を変えて収穫の時期を控えた麦穂は重く首を垂れ、その中に一つだけある漆黒の麦穂はすぐに見付かった。



それを見て一つ頷くと、周辺の土を注意深く隔離してその土地ごと切り取り、小さな魔術隔離地とした。


用意してあった円筒形の硝子の容器にその切り取った土地を収納し、硝子の蓋を閉めて朝靄の術符で封印をする。



「……………やれやれだな」



そう呟き、もう一度だけ麦畑を見回した。


本来であれば誰かが黒い麦を手に入れた段階で印を上げるのだが、今回はまだ収穫には至っていないので、それは今夜のことになる。

その間、もはやどこにもない黒い麦を探し回る憐れな者達は、せいぜい無駄足を踏んで貰うとしよう。




先程の汽車の個室に転移で戻ると、丁度頼んであった紅茶が届く頃合いであった。


麦を収納した硝子の封印管は自宅に送ってあったし、元々靴底に畑の土などはつけていない。

そのまま次の駅までその個室で書類仕事を進め、アクスの新聞から得た情報で幾つかの事業には軌道修正を行った。


降車駅では、在庫を確かめておいた店で幾つかの商品を購入し、またアルビクロム行きの帰りの汽車に乗る。



(時折なら、汽車も悪くはないな……………)



帰りの汽車はそのままウィームに乗り入れるものを指定してあるので、後はもうこのままウィーム中央駅までこの椅子に座っていればいい。



用意してあった書類を片付けてしまうと、最後の二駅の間で手持無沙汰になり、胸ポケットのカードを開いた。


線路の繋ぎ目で車両が揺れ、杖の飾り彫りに埋め込んだ小さな赤紫色の結晶石が光る。


今夜はこれから、この石の中に脱出路などを詰め込んで寄越した人間を、一晩屋敷に預かる予定だ。


あの麦を収穫させ、薬を作るまでの作業を監修しなければならない。

収穫前の麦が狙われることを想定し、あえてリーエンベルクは避けさせるとシルハーンに言えば、少しの躊躇いは見せたものの了承したようだ。





「アルテアさん、今日は汽車の旅だったのですよね?ウィーム中央駅は使いましたか?」


リーエンベルクに着くと、会食堂でエーダリア達と果実水を飲んでいたネアが、開口一番そう問いかけた。


さてはエカテリーナと遭遇したかと思いながら頷けば、恐ろしいことを言い始めた。



「実はウィーム中央駅に、お昼過ぎにおかしな黒い汽車がやって来たのです。偶然にも、駅舎限定の美味しい一口握りを買いに出ていた私とゼノが遭遇してしまい、綺麗なお嬢さんだか憎むべき虫足尻尾なのか分らない方に遭遇したんですよ。アルテアさんは、そんなお嬢さんに心当たりはありませんか?」

「……………さてな」


そうはぐらかしておけば、ネアはどこか呆れたような目をこちらに向けたが、気付かないふりをした。


何の果実水を飲んでいるのかを確かめた後、月香の紅茶が入ったポットを見付け、そちらを飲むことにする。



「あらあら、恥ずかしがり屋さんですねぇ。なお、そのお嬢さんはアルテアさんに興味津々でしたので、現在こちらにはいないので、ひとまずは森に帰るようにとお願いしておきました」

「おい、何で俺がそいつと同じ森に住んでいる設定なんだよ」

「うむ。あの尻尾は少し苦手ですので、是非に今後のデートは森の方でしていただきたく」

「……………残念ながら、する予定はないな」



冷やかにそう告げた筈なのだが、ネアはなぜか、にやにやしながら指先で腕をつついてくる。



「おい、やめろ」

「アルテアさんは海老が好きなので、海老料理でもてなすように助言しておきましたよ。つんつんしていましたがなかなか可愛らしいところもあるお嬢さんでしたし、是非にあなたとお友達になりたいと言って貰えたのですが、……………我が儘な私が、こっそりあの虫足尻尾を切り落とそうとしたら、もの凄い勢いで逃げていってしまいました…………。ふぎゅう………………」

「………………は?」

「何やら、私にお気に入りの葡萄ジュースを飲ませてくれると言って、背中を向ける瞬間があったのです。これはもう、我々の友情の壁となるあの虫足尻尾めは、この隙にじゃきんと切り落とすしかないと…………」

「…………………言っておくが、あれはあいつの体の核だ。分断したら死ぬからな?」

「………………………まぁ。私は、アルテアさんの恋人さんを殺してしまうところだったのです?」

「あいつは、過去の錬成の素材に過ぎない。その妙な思い込みを捨てろ。それと、見ず知らずの相手が差し出したものを飲むなよ?」

「……………む。の、飲みませんよ!」

「どうだかな……………」

「飲みません!」



慌てたようにそう宣言したネアをじっと見れば、さっと視線を逸らしたので額を指で弾いてやった。




その日以降、エカテリーナの姿を見ることはなかったが、その年の冬に、ほこりがネアを狙っていたという海老のようで鉄のような味がする尻尾を持つ生き物を食べたと話していたので、案外そこで片が着いたのかもしれなかった。



エカテリーナが住処にしていた国の森では、恐ろしい怪物がいなくなったと住民達が喜んでいるそうだ。















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