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剣戟の夜明け



リーエンベルクに密接した禁足地の森には、様々な生き物が住んでいる。

魔物も妖精も、精霊やその他の獣たちも。

ディノにすらよく分からない部分もあるというので、恐らくは誰も知らないようなものもいるのだろう。

そして、古より豊かなそんな森には、魔術が潤沢で加護や祝福が溢れるのと同じくらい、災いや呪いにも満ちているのだそうだ。


特に、夜明けと夕暮れには、世界の境界線が曖昧になるので危険が多いという。

夏の夜の森と同じくらい、冬の祝祭前の森にも古く厄介な生き物達が顔を出すのだとか。


そんな禁足地の森の中に一人踏み入ったネアは、見慣れた森とは違う色彩を纏う夜明けの色に思わず見惚れてしまってから、慌てて気を引き締めた。


(いけない。良くないものに取り込まれないように、足元をちゃんと見ておかないとだわ)


ネアが、禁足地の森に危険を冒してまで踏み込んだのには理由があった。

この森には、失せものの木という不思議な木があり、その木を探しているのだ。


夜明けにその木がつける赤い林檎のような実を一口齧ると、失くしてしまった大切なものを取り戻せるらしい。



勿論、それだけの成果をもたらすのだから、ネア以外にもその木の恩恵を求める者は多い。

だが、そこまで無事に辿り着き、失せものの木の果実を得られる者は少ないという。

それでもネアには、そんな木の実を必要とする理由があった。




雪深い森には荘厳な清らかさがあり、こうして一人で雪を踏みしめると静謐な気持ちになる。


とても静かだ。

とても。



「体の内側にも雪が降っているみたい」



空は晴れているけれど、雪の音を吸い込み、静けさがしんしんと降り積もる。



(あの頃みたいに……)



一人ぼっちで朝食を食べていた、広くてがらんとした屋敷を思い出した。

ふと、あの家の静けさが好きだったのは、聖堂めいた空気感があったからだと思い至る。

創建時の華やかな時が過ぎ、訪れる者が少なくなった聖堂に一人で暮らしていたかのようで、静かだからこそ安らかだった、あの家。



けれども、そこでの暮らしは、もう随分と昔のことのような気がした。

まだ一年も経っていないのに、不思議なことだが、ネアはもうこの世界の暮らしにすっかり慣れてしまったのだろう。




「………声?」


表面の硬くなった雪をざくざくと踏み締め歩いていると、森の奥の方から鬨の声が聞こえてきた。

剣戟の音に、馬の嘶き。

誰かの怒号に悲鳴が、また剣戟の音にかき消された。


(どうして、こんな森の中で戦いが起こっているの?)


少しの小競り合いという音ではない。

これは、本格的な戦乱のとどろきではないか。

さすがに戦に巻き込まれては堪らないので、慌ててネアは引き返そうとし、ぼすんと誰かにぶつかった。



「………っ?!」

「この森の記憶だよ。統一戦争の時は、ここでも沢山の人間や魔物が死んだのだろう」

「ディノ!」


音もなく忍び寄って、ネアを後ろからそっと抱き締めたのは、ディノではないか。

しかし、耳元で囁く声の温度は、ぞくりとする程に低い。



「巻き込まれると、もうこちらの時間に帰れなくなる。ネア、君は無用心だね」


身体を捻ってその目を覗けば、滲むような水紺の瞳に散らばった白銀と菫色の斑点が鈍く光った。

死ぬその間際まで、覗き込んでいたいような美貌の残酷さに、ふっと胸の奥が震える。

こんな夜明けの森にネアが一人で出かけていったのだから当然かもしれないが、この魔物は現在、たいそう不機嫌であるようだ。



「こんなものがあるとは知りませんでした。ですが、私が探しに来た失せものの木は、一人で向かわないと、果実を収穫出来ないそうなのです」

「………その為に一人で森に入ったのだね。…………それで?君は何が欲しいんだい?」


微笑みの滲む柔らかな声だけれど、触れただけで切れてしまいそうだ。

この魔物には色々な側面があるけれど、今夜はひたすらに魔物らしい酷薄さである。



「私は、君に何でもあげると言ったよね?それでは不満かい?」


抱き込む腕の力が少し強くなって、背中がぴったりと背後のディノの体に寄り添う。

暖かいと感じる温度ではなく、まるで空気のように思え、ネアはなぜかそれが悲しかった。

ああ、この背後にいるものは魔物なのだなぁと静かに実感し、異なる立場で歩み寄った二人の距離が、少しだけ離れてしまったような気がしたのだ。



「とても大事なものを失くしたので、取り戻したかったんです」

「こんな風に夜中過ぎにこっそり抜け出すくらい?」

「はい。ディノには内緒にしたかったんです」

「そう」


短く呟いて、ディノは深く微笑んだ。

息を深く吐くように、とても鮮やかに。


「そう、困ったご主人様だね」

「指輪が、」

「………指輪?」

「指輪がなくなってしまいました。大事にしてたのに。……とてもとても大事にしていたのに。……ごめんなさい、ディノ。ディノに見付からない内に、ディノから貰った指をこっそり取り戻したかったんです」

「…………もしかして、私があげた指輪かい?」

「………はい」


くしゃりと体から力が抜けたネアに、回された腕の強さがよく分かった。

決して力を入れてはいないのに、ぴくりとも動かない。

俯いて顔にかかっていた髪を、そっと伸ばされた指先が耳にかけてくれる。


「それを探す為に、こんなことを?」

「失くさないようにと、何度もディノは言っていましたよね?だから、失くしてしまったと知ったら、私の魔物が、とても嫌な思いをすると思って」


ふうっと、息を吐く静かな音。


「………っ、」


体を返され、向かい合うと、額と目尻に唇を押し当てられた。



「ごめん、怖い思いをさせたね」

「………どうしてディノが謝るのですか?」

「その指輪はね、時々そうなるんだ」

「………はい?」


体を持ち上げられて、同じ高さで視線を合わせられる。

しっかり支えられていたけれど、体が反らないように、ネアはディノの肩に手をかけた。


「庇護や魔術が体に馴染みきると、解けて溶けてしまうんだよ。だから、今迄も時々、付け替えていただろう?」

「…………溶ける」

「すぐに新しいものをつけてあげるよ」

「………溶けた」

「………ネア?」


さすがにディノも、ネアの声が低くなったことに気付いたのだろう。

ぎくりとしたようにこちらを見た眼差しには、先程の冷ややかさは欠片も残っていなかった。


「私は、指輪を失くしてしまったと思って、ものすごく傷付きました。悲しくて眠れなくて、ずっと不安で、朝食でもパンを三個しか食べれませんでした」


ネアが、三個しか食べれていないとは、かなり由々しき事態だ。

料理人の妖精からは、体調が悪いのかと聞かれてしまったではないか。


「指輪を失くしたと知って、ディノがしょんぼりしてしまったらと考えて、居ても立っても居られなくて…」

「ごめん、ネア」

「私は、夜はたっぷり眠る主義です!ここにだって、もしかしたら蜘蛛がいるかもしれないのに、それでも頑張って来て、得体の知れない果物を食べる覚悟で胃薬も持ってきました!」

「ご、ごめんね、ご主人様……っ!」


ごすっといい音がしてから、ネアは頭突きがご褒美だったことを思い出してしまった。

しかし、今はディノもネアが怒っていると理解しているようで、悲しそうに項垂れたままだ。



「どうして、最初から溶けると言わないのですか!」

「………君が、………そのようなものだと知ったら、嫌がるかなと思ったんだ」

「そう知らされても、こちらでは、そのような不思議なものもあるのだなと考えるばかりでしょう。私の宝物がなくなってしまったと思うよりは、ずっと心に優しかった筈です!」

「……………ごめんね、ネア」

「まったくもう。………早く、替えの指輪を下さい。そうして付け替えるものなのでしょう?」

「……………うん。そうだね」



あまりにも悲しげにするので、ネアは少しだけ怒りを収めた。

結局のところ、ディノが本当の事を言えずにいたのもまた、種族性の違い故の試行錯誤だと気付き、この魔物ばかりが悪いわけではないと思い直したのだ。

早速替えの指輪を求めれば、ディノはなぜか、頬を染めて嬉しそうに頷く。


(……………こんな風に、微笑んでいて欲しかったから、私はこの森に来たのだわ)



一緒に生活し、日々大切になってゆくこの魔物を、悲しませたくなくて、失望させたくなくて、無理をした。

であれば、ここでただ腹を立てるのではなく、解決したことでディノを責めるのはやめておこう。

そう考えたネアは、ふうっと大きく息を吐く。

不安そうにこちらを見ているディノに、一度下ろしてもらい、差し出された指輪を指に嵌めると、見慣れた乳白色の指輪が指に収まっているのを見て、やっと胸の強張りが取れた気がした。



これは鎖だった。

この魔物の守護が、ネアに繋がれているという大切な鎖で、ネアという人間が、やっと見付けたこの美しくて奇妙な世界の住人であるという証のようなもの。

これがあれば、もう一人ぼっちの家に帰らずに済むような気がして、ネアの大事なお守りになっているのだ。



「………そろそろ、四個目なんだけどな」

「……………付け替えてゆく個数に、何かあるんですか?」

「安定するまでに、少しかかるんだよ。安定すれば、もう溶けないからね」

「むぅ、では、それを急いで下さい」

「馴染むごとに付け替えるから、少しずつね」



本当に嬉しそうに笑って、ディノは不意に体を屈めた。


もう剣戟の音は聞こえない。

はらはらと細やかな雪が舞い散り、夜明けの淡い光に染まる。


「……………ディノ」

「………ん?」


触れ合った温度が離れて、唇を穏やかにカーブさせた美貌の魔物がこちらを見下ろしている。

ぱっと顔を赤くしたネアは、そろりと片手を上げて指先で自分の唇に触れる。

ばさりと、どこかで枝から雪の落ちる音がした。


「前から思っていたんですが、ディノは甘え方の様子がおかしいですね」

「………え、」

「いいですか。このような行為は守護をかけるという意味合いもある筈なのですが、ディノがするように甘えるように行う場合、人間は別の意味を持たせます。従って、このような場面では不適切な運用だと言わざるを得ません。私であればまだ、種族性の違いであると理解出来ますが、他所でやらないようにして下さいね!」

「え、ネア待って……」

「なお、重要な説明責任を果たしていませんでしたので、暫くは椅子なしとします!」

「そんな、ご主人様!!」



種族性の違いを理解するのも必要なので、不要な怒りは溜め込まないが、今回はネアよりも年長者であるディノが適切な説明を怠ったことも事実である。

ここまた、違う生き物同士であるからこそ、ネアは、叱る時は叱るのだと重々しく頷く。

そして、魔物の悲痛な叫びが、夜明けの森に響き渡ったのだった。






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[一言] 数年もすると、おあずけ・放置も幸せに変わりそうなディノであろう。
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