ハーツドゥエルド
「ほら、あそこにいるのがうちの領主だ。いい面構えだろう?」
そう教えてやれば、友人は目を細めて銀髪の領主を見ていた。
一緒にいるのは森と湖、恐らくは宝石も混ざった奇跡のような妖精の最後のシー。
戦で死んだハーツの母親は、かつてその種族の銀弓の一家の二女であった。
だがそれはもう、遠い過去のこと。
(それと、塩の魔物か。宜しい、手堅い布陣だ)
ハーツは今のウィームを愛している。
大事な孫達が今後も健やかに生きてゆけるよう、あの領主には長生きして貰いたいものだ。
その為にハーツは定職を持たず、夏至祭の稼ぎで日々を己の魔術技術躍進に当てている。
かつて、父が残したこの固有魔術の教本は、住んでいた国の崩壊で失われてしまった。
おぼろげな記憶を辿るだけではなく、新たな魔術の組み上げも欠かせない。
エーダリアの方を眺めていたジョーイが、こちらに視線を戻して微笑む。
「今はサラミを買うので必死なようだ。後で、挨拶をしておこう。…………ほこりも彼を褒めていたよ。少し妬けるかな」
「狭量な男はモテんぞ。頼まれていた屑闇石は買えたのか?」
「ああ。お陰で買うことが出来た。ほこりに頼まれていたのに、まさか入れなくなっているとはな………。ネビアがいてくれれば良かったんだが、今日は部下の結婚式なんだ」
「まったく。大事な者の買い物一つ自分で手に入れられないようじゃ、甲斐性なしになったもんだ」
「はは、そう言われてしまうと返す言葉もない。来年までに少しは階位を上げられればいいんだが、それまでにはほこりが俺の上になってしまうかもな」
そう笑った白百合の魔物に、ハーツは溜め息を吐いた。
この魔物は穏やかで理知的に思えて食えないところもあるが、ハーツにとっては誰もいない砂漠で慟哭していたあの日のまま、放っておいたらどこかでさめざめと泣いていそうな稚さがある。
かつてのジョーイは、ハーツにとって誰よりも大事な兄のような友人の紹介してくれた、彼の弟分とでもいうべき存在であった。
いつの間にか見た目もすっかり年下になってしまい、いつからかハーツは高位の魔物として接していた彼を、放っておけない若造のように扱うようになった。
(ああ、長い時間だった。だが、こうしてジョーイとまた過ごせるのだから、人生は奇妙で愉快なものだ……………)
ざわざわと、風に林檎の木が揺れる。
ジョーイはもう、林檎の木を見ても魂の隅が欠け落ちるような泣きそうな目をしなくなった。
ただ、愛おしげにその木の幹を撫で、今代の林檎の魔物が幸福であれと願う。
『鎮まれ、鎮まれ!鎮まってくれ!!』
大きく立派に育った林檎の木を見ていると、くおんと、遠い日の青年だった頃の自分の血を吐くような声が、また耳の奥で聞こえた気がした。
ハーツが生まれ育ったのは、かつて千年王国と呼ばれた豊かな国の外れの、小さな森に面した町であった。
今は、森が消え国が消え、町や村やそこに暮らしていた全ての人々が消え、周囲が恐ろしいほどに静まり返り、呪われた子供しか生まれなくなった不毛の土地。
砂しか残らなかったサナアークだが、さわさわと夜風に枝葉を揺らす林檎の森だけは残っていた。
(………………絶望を知り、友情を知り、怒りや悲しみや慟哭を知り…………俺もよくもここまで来たものだ)
それは、誰もが知っている悲しいお伽話の向こう側のこと。
今はもう、砂漠と僅かばかりのオアシスだけが残るサナアークにあった、美しく豊かな森の国の話。
むかしむかしの、あの遠い日、一人の美しい女性が無残に殺され、その凄惨な光景を見ながらも助けることが出来なかった死の精霊の王子が心を壊した。
伴侶を殺された白百合の魔物は激昂し、その一帯を不毛の土地としたと言われているものの、その半分は、林檎の魔物の友人であった死の精霊の狂気の影響でもある。
なぎ倒された木々は鉱石や灰になり、駆け付けた死者の王が死の精霊の王子の意識を奪うまで、彼は生きているものの多くを滅ぼし続けた。
大事な兄のような人の慟哭を、ハーツは、その夜初めて知ったのだ。
『やぁ、ハーツ。俺はこれから人間に混ざって一杯飲みに行くんだが、一緒に飲まないか?』
そう微笑んで肩を叩いた、あの精霊の微笑みを思い出す。
サナアークは今や唯一残ったオアシスの名前となったが、かつてはそこにあった豊かな国の通り名であった。
小さな町の一つまでも豊かなところで、夜でも店々は賑わっていた。
楽しげな歌声や、男達の笑い声。
仕事終わりで工房から出てきたハーツを、彼はよくそうやって呼びに来たものだ。
『勿論行くとも。いつここに戻って来たんだ?』
『西方で大きな戦乱があったんだ。あちらは酷い有様だった。友人と飲んで楽しい話でもしないと気鬱になりそうだ』
『よし、俺の師匠のとっておきの愉快な話をするから、覚悟しておいてくれ』
『おいおい、いいのか?本当に期待するぞ?』
ハーツが幼い頃に、羽を落とした妖精である母親と封印師であった父親は、近隣の集落での仕事の帰り道に、集落同志の小規模な戦に巻き込まれて命を落とした。
妖精だった母を旅先で父が娶り、半ば駆け落ちのようにこの町に移り住んだらしいと聞いている。
なのでハーツの父親が扱う調伏魔術はこの辺りでは珍しいもので、とても重宝されていた。
引く手数多だった父親がその依頼の一つを終えての帰り道で、二人は戦に巻き込まれたのだとか。
いつもは二人で同時に出掛けてゆくことはなかったのだが、その日に限って、妖精の粉薬を妊婦に分けに行く為にと母も一緒であった。
恐れ多くも自分の魂を拾い上げた死の精霊の王子に最後の言葉を託し、父は死者の国に旅立ったのである。
母親は、魂は妖精のものであったので死者の国には行けなかった。
そして、一人で留守番していたハーツに、父からの死者の日には必ず帰るからどうか息災にという遺言を伝えたその日、その死の精霊の王子はなぜか、泣きじゃくるハーツの世話を一晩中焼いてくれた。
人間に擬態して、孤児になってしまうハーツの世話を町の大人達に頼み、父が蓄えを隠しておいた壺を一緒に見付けて、冬までの暮らしの計画を立ててくれたり、母が作り置いていたスープを一緒に飲んだりもしてくれた。
嬉しかったのだと、彼は言う。
死の精霊である自分に、ハーツの父親が生きているもののことを託してくれたのが、とても嬉しかったのだと。
(そしてその日から、彼は大事な友人になったのだ…………)
小さな子供にとって、彼は最初、もう一人の父親のようなものだった。
それがいつしか兄のようになったのは、ハーツが彼よりも遥かに早く歳をとってしまう人間であったから。
やがて、魔術師としての勉強を本格的に始めたハーツにとっての彼は、人間がくぐり抜け難い人ならざる者達のその向こう側の話をしてくれる愉快で頼もしい友の一人にもなり、そこに、林檎の魔物を介して友人になったというこのジョーイが加わるようになったのはいつからだっただろう。
その頃のジョーイは、その需要や賛美により階位を上げたばかりだったそうで、若くして高階位を得た魔物にしては大人びて穏やかな物言いが印象的な男性であった。
なぜだかハーツとも意気投合し、三人は度々会うようになる。
時折り訪れる不思議な友人達と語らう夜にはいつも、素晴らしい森と豊かな湖が煌めいていた。
(あの日々は素晴らしく、毎日が豊かで楽しかった…………)
家族を亡くしたハーツにとって、あの町には沢山の友人達や、孤児になったハーツを導き育ててくれた大人達が住んでいて、とても良いところだったのだ。
だから多分、ハーツの半分はあの故郷の人々の優しさで育てられている。
そしてもう半分は、精霊や魔物の友人達と、あの千年王国最後の夜に起きた悲劇に育まれたのだろう。
(目を閉じれば、いつだってあの夜は蘇る)
ハーツは幸福な男だと思う。
美しい妻と出会い、幸せな結婚生活を送ったし、妻は穏やかに老衰で息を引き取った。
息子や娘達は立派な親となり、孫達も可愛く聡明だ。
だが、あの夜が記憶から失われることはない。
あの森の精霊の王子がジョーイの妻を攫った時、そこにはハーツもいた。
彼女の悲鳴を聞いて駆けつけたが、針鼠のようになるまで矢をかけられ、その場に取り残されたのだ。
死んだと思われたことを幸いに、ハーツは歯を食いしばって這いずりながら、友人達の名前を呼んだ。
あんな風に手酷く痛めつけて連れ去った者達が、彼女を生かしておくだろうか。
そう思うと、怖くて怖くて、涙が滲んでくる。
林檎の魔物はどの代の者も美しく、多くの者達を惹きつけてやまないのだという。
ジョーイの妻も目が覚める程の美貌を持ち、可憐に、時には妖艶に微笑む魅力的な人だった。
だからこそ、そんな林檎の魔物が特定の伴侶を得ることには、反対の声もあったのだそうだ。
魔物は愛する者には狭量で、もしもの時には狂乱しやすい生き物である。
二人の結婚に眉を顰めた魔物達は、代替わりの多い林檎の魔物の顛末を嫌という程知り得ており、その後の悲劇を予測していたのだろうと、今になればハーツにも分かるのだった。
(後世に残された文献には、林檎の魔物こそが、彼女を殺した森の精霊を誑かした悪女だったと記したものもある…………)
それはとても不愉快な評価であったが、確かに彼女は誰にでも優しく、誰にでも親しげに微笑みかけた。
豊かな実りと慈愛、そして誘惑を司るその質が、あの森の精霊の王子を狂わせたのは確かだろう。
あの頃はまだ若かったが、こうして人生を重ねると、男としてのその苦しみも分らないではない。
だが、ハーツは今でも心のどこかで、あの森の精霊を許さずに憎み続けている。
決して伴侶以外の男には心を与えなかった林檎の魔物は、深い森の底で森の精霊達に蹂躙され、ばらばらに引き裂かれて無残に殺された。
何とか体を引き摺って戻って来たハーツを真っ先に見付けたのはあの死の精霊で、彼はハーツを街外れの診療所に運び込むと、すぐに長年の友人であるという林檎の魔物を助けに行った。
穿たれた精霊の木から削り出された矢を体から引き抜くのは酷い苦痛であったが、それでも何とか処置の間意識を保ち、遅れて駆けつけたジョーイに彼女が連れ去られた森の奥を指差し、ハーツが意識を失った後。
ああ、その後で、どれだけの悲劇と絶望がそこに降り注いだのだろう。
手当てをされていた町の診療所で目を覚ましたハーツは、森の奥から確かにジョーイの絶叫を聞いた。
それはきっと、ある程度は狂乱であり、崩壊ですらあったのかもしれない。
だが、より凄まじかったのは、ジョーイよりも先に、ハーツから彼女を助けてくれと言われて森に向かった死の精霊の慟哭であった。
彼は、まだ彼女の息がある内に駆け付けたものの、森の精霊の王子の排他結界に弾かれて手を伸ばせないまま、そこで殺されてゆく林檎の魔物の絶叫を最後まで聞き続けていたのだから。
ハーツが命懸けで託した僅かばかりの可能性を、大事な友人でありもう一人の友人の伴侶である女性を、救えず殺されてゆく苦痛はどれ程のものだっただろう。
森の精霊達を排除しようと彼が彼の領域の力を振るえば、林檎の魔物も死んでしまう。
つまり、ハーツは彼に最も酷な願いを託したのだった。
気が付けば、辺り一面は砂漠になっていた。
国が滅び森や湖が消え失せたその後、見上げた空は降り注ぎそうなほどの見事な星空だった。
ただ茫然とその上に座り込み、全てが滅び、そして消え失せた空っぽの砂の上で、ハーツに声をかけたのは、氷塊のような声を発する恐ろしい死者の王。
その足下には、彼が意識を奪ったというハーツの友人が、力なく倒れていた。
『高位の者が万能だとは思うな。彼は、最初から自分の力では森の精霊の砦には入れないということくらい分かっていた筈だ。…………それなのに助けようとして、…………壊れた。もう二度と元通りにはならないだろう。…………終焉に関わる者達にはいつだって誰かの断末魔が聞こえる。この先、彼はその声に救えなかった者の叫びを聞いてしまうだろう。永劫に……………』
(……………壊れた?)
その時のハーツには、その言葉を理解するのに時間がかかった。
彼は意識を無くしてただ眠っているように思えたし、目を覚ませば共にあまりの絶望に泣くのだとしても、きっとそこにはいつもの彼もいるだろうと。
けれどもあの日、死者の王はそんなハーツの甘さを断罪したのであった。
『でも、………あなたが、止めてくれたのですよね?』
『…………この地には既に、彼に殺された者達の悲鳴の残響が、耳を覆いたい程に鳴り響いている。目を覚ませばそれを耳にして、また狂うだろう。……………ジョーイもこのまま狂乱する。君だけが生き残ったのは、この男が君に充分な守護を与えたからだ。そして、その身に流れる強靭な妖精の血が、その守護を受けることを可能とした』
(そうか、だから俺は生き残ったのか…………)
だから、死の精霊の力は、彼が狂ってもハーツを損なわないという。
だが、やがてジョーイが狂乱すれば恐らくハーツも生き残ることは出来まい。
今はまだ、ジョーイは伴侶を殺した森の精霊達を殺し、彼等の一族が治めていた森を滅ぼしたくらいで、本当の狂乱はこれからなのだと死者の王は教えてくれた。
しかし、既にこの土地は、心を壊した死の精霊の手で砂漠になってしまった。
真っさらになってしまったここには、狂乱したジョーイが滅ぼすものがない。
『そうなれば、この二人で殺し合うか、それともそれぞれ他の土地を滅ぼしにゆくか。………だが、これ以上に世界を損なわせる訳にもいかないな。…………俺が手を下すしかなさそうだ』
(そんなに……………)
そんなに苦痛は深く、絶望は暗いのか。
彼らの苦しみを思い、ハーツは強く拳を握る。
ハーツは、砂漠を見るのは初めてだった。
それが今、どこまでも続く砂の山の上で、純白のケープを風になびかせる死者の王と共にいる。
そして、彼はこれからハーツにとってのかけがえのない友人達を、ハーツに残された最後の二人を、その狂気から解放してやる為に、その手で殺すのだと言う。
『待ってくれ!!!』
気が付けば、ハーツはそう叫んでいた。
体に刺さっていた矢は、全部で十七本もあったそうだ。
師匠や仲間達、そして恐らくハーツを診療所に運んでくれた友も、その傷を出来る限り塞いでくれたのだろう。
だが勿論万全ではなく、体を動かせば、まだ完全に癒えていない体の内側の傷が再び裂けるのが分かった。
(だが、いいのだ。…………多分、これから行う儀式で、俺は死ぬだろう……………)
だとしても、これがきっと、自分が生き延びた理由であった。
この日の為にきっと、ハーツは生き長らえたのだ。
『俺は、荊の魔術師だ!お願いだ、少しだけでいいから俺に時間を与えてくれ!俺が、…………二人を、………大事な友を、苦痛や狂乱から救ってみせる!!』
ハーツが荊の魔術師だと聞いて、死者の王は少しだけ驚いたようだった。
荊の魔術師は、元より死や疫病を鎮める為に死者の王にも近しい魔術を扱う人間である。
父の一族の者達は遥か遠い国へと旅立ち、もうこの地に残る荊の魔術を扱うのはハーツだけであるが、父が残してくれた教本を読まなかった日は一日とてない。
いつか父のような魔術師となる日の為に、ハーツは日々鍛錬を続けてきたのだ。
『……………救うこともまた、彼等にとっては苦痛かもしれないぞ』
『であれば、その時は自分の手でその命を絶てばいい。だが、これでは駄目だ。あなたが彼等を殺す苦しみを背負う必要はないし、彼等だってこんな風に苦しみ悶えながら死にたくはないだろう。…………もし、その先にそれでもと彼等が死を望むのであれば、その意志を確認してから俺が殺しても構わない。………だから、』
『…………………半刻だ。それ以上は待てない。公爵の魔物の崩壊は、あまりにも多くの土地を不毛の地にしてしまう。その覚悟が本物であれば、ルグリューとジョーイが最後の一線を越える前に、それを防いでみせろ』
その言葉に頷いた。
それはきっと、死者の王の温情ではないのだろう。
彼は彼自身の心で、この二人を殺したくなんてないのだ。
(だからこそ、俺が絶対に止めなければならない……………)
矢傷の影響でまだ痺れたままの指先で、虚空から儀式舞に使う鈴を取り出した。
これは父の形見で、いつも使うものの予備として家に残されていたものだ。
なぜか片方だけ履いたままであった靴を捨て、足元の不安定な砂を踏んで立ち上がる。
勿論、体調は万全どころか最悪に近い。
だが、どうせこの命を使い切って死ぬのだ。
その怒りや絶望を鎮め、彼等が正気を取り戻して、自分の心で自分の行く末を決められるようにしよう。
それは、例え死を選ぶにせよせめてもの苦しみを取り除く為の術である。
救えなかった無残な死に寄り添うことになったからこそ、せめて彼等には少しでも安らかに。
身勝手な望みではあるが、それがハーツの願いであった。
しゃりんと、何もなくなった砂漠に鈴の音が響く。
踏み込んだ砂に爪先が沈み体が傾ぎそうになったが、日々の鍛練で鍛えた足に力を入れて踏み止まった。
また鈴を鳴らし、足元の砂に鮮やかな深紅の魔術陣を描いた。
軽やかに飛び、獣のように下り立ち、鈴を鳴らして指先を振り抜く。
展開した術陣は十九個目で数えるのをやめた。
命を削る感覚はひどく鮮明で、一つの術陣を描き舞を踊る度に、体の中から明るく輝くものが失われてゆくのがはっきりと分る。
周囲では、ごうごうと風が吹き始めていた。
暗雲や黒い靄のようなものが渦を巻き、砂や残っていた瓦礫を吹き飛ばし、巨大な生き物のようにのたうつ。
いつの間にか死者の王の姿は消えていたが、ハーツはあの黒い渦を鎮めることが出来れば、ジョーイを正気に戻せるのだと、教えられずとも分っていたのだろう。
足下の砂は、いつの間にか爪先が沈み込まなくなっていた。
開いた傷口から流れた血が砂に染み込み、足場を固めていたのだ。
『鎮まれ、…………鎮まってくれ!どうか!!』
最後はもう、そう叫んでいた。
吹きすさぶ風の中で自分のその叫び声を聞き、涙をこらえながら調伏の舞を踊り続けていた。
こんな絶望の中で死なせるものか。
どうかせめて、せめて少しでもその苦しみを軽減する為に、封じの舞を踊り続ける。
痛みは、既に感じなくなっていたように思う。
『……………ハーツ?』
最後に、呆然としたように自分を呼ぶルグリューの声を聞いたような気がする。
もはや殆ど意識は朦朧としており、その記憶は定かではないのだが、本人曰く、どこか暗いところを宛もなく彷徨っているような感覚の中、ハーツの鳴らす鈴の音が聞こえ、その音を頼りに歩いたのだそうだ。
そうしたら、お前がそこに居たとルグリューは後に教えてくれた。
りぃんと、鈴の音が聞こえた。
そっと目を開けば、はらはらと、虚空のその更に上の方から林檎の花びらが舞い落ちる。
いつも、にっこりと微笑んでハーツに手を振ってくれた、ジョーイの妻はもういない。
その不思議な暗闇の中で、ハーツはぼんやりと倒れた自分の上に降り注ぐ林檎の花を見ていた。
(このまま、俺は死ぬのだろう……………)
やり遂げられただろうか。
彼等の苦しみを、せめて少しでも取り除いてやることが出来ただろうか。
そう思うと、また耳の奥で二人の絶叫や慟哭が響いて、ハーツはここで漸く、顔を覆って泣いた。
みんないなくなってしまった。
工房の仲間達や、魔術の師匠であった親方。
我が子のように世話を焼いてくれたパン屋のおかみさんに、寡黙だが冬支度の前になると、必ずたくさんの麦を届けてくれた優しい町長。
千年続いたとも、千年続くとも言われた美しい国はなくなってしまった。
だがきっと、死者の国でみんなに会えるだろう。
『やあ、……………ハーツ』
しかし、目を覚ましたハーツが見たのは、そう微笑みかけてくれたルグリューであった。
目を瞬いて恐る恐る体を起こそうとすると、あまりにも節々が痛んで呻き声を上げてしまう。
まるで十年も眠っていたような体の強張りであるし、どこか、広く清潔な屋敷の中にいるようだ。
ここはどこなのかと尋ねると、ルグリューの持つ屋敷だと教えられた。
『ルグリュー…………?何か、………雰囲気が変わったな』
『ああ。それは君が、俺の資質の一部を封じてくれたからだろう。お蔭で、もう以前のように死者達の声が聞こえなくなった。死者の行列にも、もうずっと加わっていないよ』
『………………っ、すまない!』
ぎょっとして息を飲んだハーツに、ルグリューは微笑んで首を振る。
『そのお陰で、俺は生き延びることが出来た。お前の行った儀式が、俺とジョーイをこちら側に引き戻したんだ』
『ジョーイも無事だったのか?!』
そう声を上げたハーツに、ルグリューが短く頷く。
今日は魔物達の大きな集まりがあり、彼は不在にしているのだそうだ。
『だが、彼も三日に一回はここに顔を出しているよ。ハーツはまだ目を覚まさないのかと、とても心配していた』
『……………あれから、俺は随分と眠っていたのか?』
そう尋ねたハーツに、ルグリューはどこか悲しげに微笑む。
その時に見た彼のどこか寄る辺ない苦痛の影に、ハーツは、初めて大いなる生き物達の脆い心を垣間見たのかもしれない。
『あれから、…………百と、十三年が経っている。ごめんな、俺達も手を尽くしたんだが、なかなか難しくてな…………………。もっと早く起こしてやれなくて、ごめん』
『ひゃ、百十三年……………………』
ハーツが行った術式は、通常であれば三つも展開すれば術者の命を壊すものだったそうだ。
だがそれを、ハーツは全部で四十七重にも重ねてかけ、白百合の魔物の狂乱を鎮め、心を壊しかけていたルグリューを引き戻した。
正気に戻った彼等は、血が染み込んで黒くなった砂の上に倒れていたハーツを見付け、慌ててその命をぎりぎりのところで繋いだのだそうだ。
『せめてハーツだけは死なせたくないと、何とかして助けようとしたことで、俺達はあの日を乗り越えたのだと思う。………………生かした筈のハーツがなかなか目を覚まさなくて、すぐに自死すると宣言してたくせに、結局ジョーイは死に損ねた』
そう苦笑したルグリューも、報告を受けてその日の夜に屋敷に駆け付け、百十三年ぶりの食事で焼きたてのパンを食べていたハーツを見て、力なく床に座り込んだジョーイも。
二人ともただ手放しで喜ぶのではなく、こんなに長く目を覚まさせてやれなかった自分達を、きっとハーツは恨むだろうと考えて、なぜか勝手に落ち込んでいる。
(なんと脆く、そして繊細で、…………恐ろしい生き物達なのだろう)
あの国を滅ぼし消えない呪いを土地に染み込ませても尚、彼等はそんなことを恐れてしまうのか。
そう思ってしまったらなんだか笑えて、ハーツは項垂れた二人を見て、その晩、百十三年ぶりに笑った。
あれから、随分遠くまで来た。
その後、ルグリューが一人のシーに恋をした。
だが、彼女は死の精霊を毛嫌いしていて、手酷くふられてルグリューが喋らなくなった日もあった。
どうせもう死の精霊としての力は封じられてしまっているのだからと、友人のつてを頼って魂の移し替え先を探し、事故で幼くして亡くなった地竜の体を貰い受けたのは、その何年か後だ。
晴れて地竜となったルグリューには、まずは成人しなければならないという重大な任務があったものの、やがてその恋は女性側が降参する形で、成就することになる。
ハーツが最後まで案じていたのはジョーイだったが、ふらりと姿を消して砂漠で一人で泣いていたりした彼も、ハーツやルグリューに随分遅れてではあるが、やっと大事な者を得られたようだ。
お相手については少年だそうで、そうなると少し複雑ではあったものの、ウィームの祝祭で見かけた姿は桃色の丸い鳥にしか見えなかった。
人型になるとたいそう美しいそうで、今のジョーイと酒を飲むと二時間はその星鳥の話をされる。
「やれやれ、やっといい顔をするようになったな……………」
「………………ん?………俺は何か変な顔をしていたか?」
「幸せそうに微笑んでいたよ。その足拭き熊も、あの毛玉に買って帰るのか?」
「何でも食べてくれるから、これも買って帰ってみようと思って」
そう言われた足拭き熊は飛び上がって暴れ出したが、ジョーイは力尽くで押さえ込んで金庫にしまっている。
先程買った門番サボテンもだが、ジョーイのお気に入りはかなりの悪食であるようだ。
既に伴侶を持つ星鳥だと言うが、相手は物言わぬシャンデリアであるし、二人で一緒に仕事をしているのだから、ここはもう長期戦で落とせと、厳しく指導している。
嬉しそうに買い物をする友人を、ハーツはいい気分で眺めた。
ハーツ自身も、随分遠くまで来たものだ。
偶然流れ着いたウィームという土地で、父方の一族が継承していた茨の魔術を持つ一族を見付けたのは僥倖であった。
ハーツが記憶しているものが失われた古い型の儀式舞であったことが幸いし、その一族の長に気に入られて、一目惚れで恋仲になっていた彼の娘との結婚は快く受け入れて貰えた。
ウィームの地に根を下し、子供達を育て上げ、妻が亡くなった後は好きなように生きている。
統一戦争などもあり決して良い出来事ばかりではなかったにせよ、概ね幸福な人生であったと言えるだろう。
妖精の血を引いたハーツは、随分長く生きるらしいが、見た目も立派な老人になったので、そろそろ最後の門が見えて来たのだと思う。
ルグリューとジョーイは後百年だろうと言うが、ハーツの所感では後五十年くらいだろうか。
この命ある限り技を磨き、その技術を孫達の代までに残す。
そして時には、不器用で愛おしい生涯の友人達と共に、酒を飲み交わそう。
「そろそろルグリューの仕事が終わる頃だ。買い物は終わったか?………………ジョーイ?」
「…………そのウィームの領主に挨拶をする際には、ほこりを育ててくれた礼も言うべきか?」
「花嫁の父親への挨拶みたいになってるぞ……………」
真面目な顔で何を考えているかと思ったら、ジョーイはそんなことで悩んでいたらしい。
これ以上は馬鹿馬鹿しいと、ハーツはそんな友人の背中を押した。
挨拶に付き添いがいる年齢でもないので、せいぜい一人で頑張って貰おう。
大きな林檎の木が風に揺れる。
サナアークのオアシスには、林檎の魔物の亡骸から芽吹いた小規模な林檎の森があるのだそうだ。
あえて足を運ぶことはないが、ハーツは時折そこにあった美しい千年王国の仲間達に、そっと心の中で花を手向ける。
そうすると、あの懐かしい町が今も瞼の裏に浮かぶのだった。
ハーツとルグリュー、そしてジョーイは今夜もかつてのように酒を飲み交わす。
あの頃からお互いに随分と変わったが、今はみんなが幸せだ。