お化け岩魚と護り絵の天使
昼食を終えたネア達は、再び別行動とした。
ただし、帰る一時間前に再集合してお互いにいいなと思ったお店を見損ねていないかどうか情報共有をしたりする予定である。
特にそのようなことがなければ、宝石蜜の紅茶屋でお茶をしてから帰るし、またお店を見るようであれば紅茶はお持ち帰り用のものを買って帰るのだ。
「この林檎の木から向こうはまだ見ていませんよね」
「うん。まだ色々なものがありそうだね」
ざわざわと大きな林檎の木が揺れる。
枝葉を伸ばして左右対称の大きな木には、可愛らしい小さな赤い林檎が実っており、風にしゃりんと揺れて細やかな魔術の光の粒子を零していた。
(絵本に出てくるような、素敵な木…………)
そんな大きな木を見上げ、ネアはその下に店を出している道具屋の前を歩く。
さりさりと細やかな黄色い花の咲いている下草を踏んで歩けば、また素敵なものを見つけ出せるのではという不思議な高揚感がある。
古びた燭台や革のトランク、優美な猫足の家具に不思議な生き物の置物達。
木の陰になって少し薄暗くなったそこには、一つだけ大きな流星を放り込んだカンテラがあり、店の商品を照らしていた。
店主は髭のご老人で、にこにこしながら大きな椅子の上にちょこんと座っている。
「……………あ、」
ネアはその時、林檎の木の前に置かれた黒檀の書き物机の上に小さなイーゼルで立てられた、一枚の装飾用のステンドグラスに目を奪われた。
ハードカバーの本くらいの大きさだが、素晴らしく手が込んでいる。
(なんて綺麗なのかしら………)
そしてそこには、花に囲まれて眠る、翼のある女性の姿があった。
精緻なステンドグラスの表現に、木漏れ日の暗い光が抜けて、えもいわれぬ煌めきと怪しさを醸し出している。
ステンドグラスの中の女性は、まさにネアの生まれ育った世界の天使という姿そのものに見えた。
真っ白な翼で体を覆うようにしており、緩やかな曲線を描く長い髪は藤色がかった柔らかな栗色を限りなく白で薄めたような複雑で優しい色。
優美で儚げで、持っていたら守ってくれそうな素敵なステンドグラスではないか。
「ディノ、ちょっといいですか?」
「うん。何か欲しいものがあったのかい?…………浮気」
「まぁ、とうとう物にまで…………。この方は女性ですし、これはステンドグラスですからね。………なんて美しいのでしょう。こんな素敵なものを寝室に飾ったら、いい夢が見られそうですね」
「ネアが虐待する……………」
「解せぬ」
ネアは堪らなく心を惹かれるそのステンドグラスにそっと触れようとしたのだが、後ろから魔物に抱き込まれ、伸ばした手をそっと掴まれた。
「ネア、触れない方がいいと思うよ」
「…………ステンドグラスの中の方に、それも女性の方には浮気をしませんよ?ですが、お店の売り物なので確かに触れない方がいいでしょうね。なぜだか、思わず触れたくなってしまったのです」
そう呟いたネアに、ディノは瞳を細めて鋭い目をする。
木の影になっているからか、内側から光るような水紺の瞳がはっとする程に鮮やかだ。
「……………そうなのだね。では、尚更触れない方がいいだろう。この種の守り絵はね、信仰や願いが長年蓄積されることで、力を持つことがある。幸運や守護を齎すこともあるけれど、そのような履歴で生まれたものは絶対的な継続を望むものなんだ」
「絶対的な継続………ですか?」
「信仰や願いを糧に派生したのなら、それがそこに宿ったものの日々欠かせない糧なんだ。自身の糧が偏ることや、足らなくなることで祟るものもあるからね。だからこそ信仰の魔物は、教会などで不特定多数の者達に祈らせるんだよ」
「…………それはつまり、一人の方の専属となると、糧が偏ってしまうからですね?」
「うん。糧を持続させるには、その守り絵を一族や血族で受け継ぐ必要がある。手放されたものや、あるべき場所を離れたものは、扱いが難しい」
「そのようなものだとは知りませんでした。ディノ、教えてくれて有難うございます」
ネアは、美しいステンドグラスから少し離れようとしたところで、いつの間にか隣に立っていた店主のご老人にぎくりとした。
店主なのだから、品物から手を引くようにネアを説得してしまった魔物を快く思わないかもしれないではないか。
だが、ネアの胸くらいまでしか背丈のないそのご老人は、ほっほっほっと呑気に笑っている。
「お嬢さんは、安らかさへの憧れがあるのだねぇ。この孔雀に呼ばれてしまったか。こいつは星鳥と一緒でな、共に屋敷に篭って安らかに暮らすだけの安寧を求める者に惹かれるのよ。前の主人は、強欲で残忍でなぁ。孔雀のくせにすっかり安らぎを求めるようになってしまった」
「……………そんな履歴がある方なのですね。望むのがそれだけなら良い方がいるかもしれませんが、扱いが難しいところもあるのですか?」
「雄だからなぁ。孔雀の雄は伴侶を独占したがるのが、少々厄介かの。………ほら、このお嬢さんは指輪をしとるよ、諦めるんだな」
店主にそう言われた途端、ステンドグラスの中の美女はぷいっと横を向いてしまった。
すると、そのステンドグラスは急に輝きが失せたようになり、先程までの吸い込まれるような美しさが翳り、妙に色褪せたようになる。
「まぁ、…………見え方が変わりました。それと、この孔雀さんは雄なのですか?」
「傾国の美女のように美しいだろう?孔雀だからなぁ。ほっほっほ」
愉快そうに笑いながら、店主は椅子に戻って行った。
「…………ディノが止めてくれなかったら、あの孔雀さんに触ってしまうところでした。あの方は、守り絵の中だけの孔雀さんなのですか?」
ネアがそう尋ねると、ディノはどこか酷薄な眼差しを見せた。
魔物らしいというよりは男性的な冷ややかさで、不思議な暗さのある微笑みを浮かべる。
「孔雀が気に入ってしまったのかな?」
そう尋ねた声の静かさに、ネアはえいっと飛び上がってごちんと魔物の額に頭突きした。
突然の攻撃に呆然とし、ディノは目を瞠って固まってしまってから、よろりとよろめいて片手で口元を押さえた。
よく見れば目元を染めており、涙目になっている。
「む。痛かったですか…………?」
「すごく懐いていて可愛い……………」
「むむぅ。………困った魔物さんですが、孔雀さんに触ることを防いでくれたので、ご褒美の頭突きです。それと、孔雀さんについて尋ねたのは単なる興味本位ですから、孔雀さんが実在したとして、その方がどれだけ美しくても個人的に気に入る訳ではありませんからね?」
「…………君が、心惹かれるくらいに美しくてもかい?」
「美しさは美しさです。勿論、美しいものにも、純粋な賛美として心惹かれますが、私の心を与えるかどうかはまた別の話ですからね。出会った頃のディノにだって、そうだったでしょう?」
「………………ネアが虐待する」
「む。なぜなのだ。一番分かりやすい実例を出したまでなのです。つまり、こんな風に大事な大事な婚約者になったのは、ディノがディノだから私の心にぴったりだったのであって、どこぞの孔雀さんをディノの代わりにしたりはしませんからね」
「…………うん」
そう説明を受けて、ディノはすっかりへろへろになった。
ネアが手を伸ばすと、そっと三つ編みを乗せてくる。
「…………ディノ、手を繋いではくれないのですか?」
「今は刺激が強過ぎるからね」
「なぜなのだ。ささ、手を伸ばすのです!」
「ネアが大胆過ぎる。…………ほら、こんなところで、そこまでのことはいけないよ」
「解せぬ」
この感覚の差は、やはり悪しき包丁の魔物の刷り込みのせいなのかなと、ネアは眉を寄せた。
だが、魔物がすっかり機嫌を直したので、くすりと笑って、握った三つ編みをぶんぶん振ってみる。
「ネアが甘えてくる…………」
「ふふ、頼もしい魔物に甘えてしまいましょうか。ディノ、あちらにあるのは何のお店でしょう?」
次に見付けたのは、巨大な目の絵が描かれた看板のあるお店で、小さくてきらきらと光る小瓶がみっしりと並んでいる。
その小瓶が光を透過して万華鏡のように光るので、なかなかに綺麗だ。
「目薬屋だよ。妖精の目薬はとても強いものだから、君は、君の為に調合されたもの以外は使わない方がいい」
「では使わないようにしますね。何か特別な効能があるのですか?」
「妖精は侵食や置き換えの魔術に長けているからね。その魔術を瞳から浸透させることによって、夜目が効くようにしたり、魔術の痕跡を辿れるようにしたり、様々かな」
「まぁ、そんな効果があるのですね。でも私にはディノがいるので必要なさそうです。そう思うと、私の婚約者は何て素敵なのでしょう」
「ずるい、可愛い……………」
(あら……………?)
その時、ふと感じたのはどこか鋭い視線の礫だった。
ぴしりと飛んできて肌に当たるような感じがしたので、ネアはその視線がどこから向けられたのかなと周囲を見てみる。
すると、少し離れたところに立っていた一人の男性がふいっと視線を逸らすのが見えた。
瞳の色は一瞬しか見えなかったが、鮮やかな青い瞳をしているようだ。
怜悧な美貌は凍えるように冷ややかで、どこか怒りのようなものすら纏わせている。
(…………私に向けて、怒っているのかしら?)
であれば、それはなぜなのだろう。
そう考えて首を傾げていると、振り返ったディノがネアの頬に手を当てた。
「何かあったのかい?」
「いえ、…………気のせいだと思います。ディノ、あの奥は…………むぎゃ!」
「おや、折紙屋だね。苦手なものがあったなら、目を閉じておいで」
「むぐぅ。かさかさ動く虫ばかりではないですか。なぜに虫の形に紙を折るのだ…………」
ネアもかつてアルテアからのものを受け取ったことがあるが、折紙は書簡や魔術符などを生き物の形に折り、その形態で動くような仮初めの命を与える魔術だ。
実はなかなかに高度な技術の必要なものであるらしく、折紙屋で売られているのはそんな魔術の取り扱い説明書である。
紙の折り方を説明した教本と、折り込む魔術の説明をセットにしてそれぞれの形のレベルに合わせた金額で売っているそうだ。
虫が多いのは、最も土地の魔術に影響を受け難く、目的地までの移動の中で悪目立ちし難いものであるからなのだとか。
高価な教本だと、鷲なども折れるらしい。
「ふぅ。危うく儚くなるところでした…………」
「ネアが…………」
息を吐いてそう呟いたネアに、慌てた魔物が儚くなどならせないとぎゅうぎゅうと抱き着いてくる。
こちらこそ公共の場でご主人様を絞め殺すのは宜しくないと、ネアは慌てて魔物の腕をばしばし叩いた。
「ご褒美…………?」
「いえ、……ぷは!………ディノがあまりにもぎゅうっとするので、ご主人様が潰れてしまいそうです!」
「ごめんね、ネア。君を減らしたりはしないよ………」
ディノは慌てて腕を緩めてくれたが、その理由もそれはそれで気になってしまう。
潰れたら減るどころかいなくなってしまうのだが、この魔物はご主人様が圧縮可能ではないと分かっているのだろうか。
しかし、ネアがじっと見上げると、なぜか魔物は恥じらってしまったので、この場での追求は難しそうだ。
そんな折のことだった。
どこか遠くでざわりと揺らめく声が重なり、悲鳴などではないものの、そのどよめきが波のようにこちらまで届く。
(…………何か、………あったのかしら?)
目を瞠ったネアを素早く持ち上げた魔物に、ネアは三つ編みを握り締めたまま、その騒ぎの方で何が起きたのかと目を凝らした。
すると、少し先の方にある木の影の向こうに、大きな生き物が立ち上がるのが見えた。
(………………あれって…………)
あんまりな生き物の姿に目を丸くして途方に暮れてから、ネアはぽそりと呟いた。
どうか見間違いであって欲しいと思ったのだが、何しろこの世界となると恐らくは現実だろう。
「……………ディノ、私の見間違いでなければ、お魚さんが暴れています。…………ディノ?」
背中に当てられたディノの手が震えていることに気付き、ネアは慌てて魔物の顔を覗き込む。
そうこうしている内に、騒ぎが起きた方から何人かの商人達が逃げてきた。
「やれやれ、岩魚か………」
「ああ、酷い目に遭った。一人食われたぞ」
「岩魚となると、漁をした時に最後の一匹を網から逃がしていないんじゃないのか?」
「となると、どこの若造が網を張ったんだ。無知にも程がある…………」
そんな事を話し合いながら、そそくさと歩き去っていった商人達も、真っ青な顔をしているようなので、暴れているのはただの魚でも、実は恐ろしい生き物なのだろうか。
そう思ったネアは、あの動き方を見ているといずれこちらにやって来て遭遇しそうである大きな岩魚をまた観察した。
ぬめっとしているし、あんまり細部まで凝視したくはないが、虫などよりは余程いいと思ってしまう。
ひどく緊張している魔物が何に怯えているのか、ネアは可哀想になってしまって、その強張った表情を浮かべる頬に手を当てた。
すると、はっとしたようにこちらを見たディノが、淡く儚げに微笑む。
「…………ごめん、不安にさせたね。まさか、ここで岩魚の祟りものに出会うとは思っていなかった。……余程恨みが深いのか、悪変しているようだ。君は、決して直視してはいけないよ?」
深く息を吐いたディノがそう教えてくれたので、ネアはこてんと首を傾げた。
「悪変……………?」
「ネア、そちらを見てはいけないよ。サムフェルに来られた者達でも、あの状態であれば手が出せない者も多いだろう。私がなんとかするから、まずは君をノアベルトに……」
「ディノ、その悪変とやらは、もしやお魚さんの頭に生えたにゃんこ耳ですか?」
容赦なくそう尋ねた人間に、ディノは顔色を悪くしてこくりと頷いた。
どこか怯えたようにこちらを見るので、ネアは、たいそう心が不安定になる姿であることは否めないものの、特にそれ以上の害もなく、なんの支障もないと伝えておく。
「…………ご主人様」
そんな事を言われて愕然とした後、ぺそりと項垂れてしまった魔物は、こちらのご主人様はきりんにも無反応であるどころか、デフォルメした絵には可愛いとさえ言うのだとようやく思い出したようだ。
「あのお魚さんが問題なのであれば、………うむ。岩魚さんですので、お塩でも振りかけて香ばしく焼き上げてしまいましょうか」
「……………ご主人様」
「む?なぜか余計に怯えてしまいました…………」
その場合は川魚であるので、香草などと一緒に焼くか、燻製にしてしまうのもいいかもしれない。
そんな思いで荒ぶる岩魚を眺めていたネアは、とりあえず手持ちのお塩を一掴み投げつけてみるので、後はこんがり焼くのだと魔物を説得しようとしたが、ディノはぶるぶる震えながら必死に首を横に振っている。
「ディノ、にゃんこ耳があっても、所詮あやつは川魚です。水から上がったこの場所で魚めに勝機はありませんからね」
「祟りものを食べてはいけないよ、ネア。いいかい、君の可動域で悪食を食べたりしたら、体を壊してしまうからね?」
「では、にゃんこ耳だけ削ぎ落としてから焼きます?」
「ご主人様…………」
邪悪な人間の企みに悲しみに暮れてしまった魔物は、ご主人様を狂わせたお化け岩魚を退治することにしたようだ。
ふるふるしながらではあるが、きりっと表情を整えて鋭く岩魚の祟りものを一瞥すると、ふっと澄明な瞳をきつく眇めた。
ぞくりとするような威圧感を覚えてネアがはっとした時にはもう、お化け岩魚はざあっと砂のようなものになって崩れ落ちるところであった。
どさりと音がして、わぁっとそちらの方から安堵と賞賛の声が上がる。
だが、祟りものの岩魚からサムフェルを守ったばかりの魔物は、荒ぶるご主人様を鎮めるのにそれどころではなかった。
「ディノ!なんて勿体無いことをするのですか!あれだけの大きさだと大味かもしれませんが、それはもう、調理次第できっと美味しい岩魚料理をここにいるみんなで食べられた筈なのです!!」
「ネア、祟りものは壊すとああして崩れてしまうから、焼いても食べられないよ?」
「なぬ…………」
それならば話は変わってくるので、ネアは途端にお化け岩魚への興味を無くした。
食べられないとなるとすっと無関心な眼差しになった残忍な人間の姿に、ディノはびくびくしながらそっとネアの頭を撫でてくれる。
「岩魚を食べたいのなら、いくらでも食べさせてあげるからね」
「大きな鉄板でじゅわっと焼いてみんなで楽しくわいわいする予定だったので、あのお化け岩魚めが食べられないのなら、もういいのです。焼いたり蒸したり出来ないなんて、まったく人騒がせなだけの岩魚でした…………」
「うん………。でももういないから安心していいよ」
少ししょんぼりした魔物と一緒に、ネアはその後も色々なお店を見た。
しかし、やはり時折鋭い石飛礫のような視線を肌に感じ、ぴりりっとするような感覚におやっと眉を持ち上げる。
それは多分、普通の人間であればひやりとするようなものであるし、実際にその視線上に並んでしまった精霊らしき男性がぎくりとしたように不安げな眼差しで周囲を見ていたりした。
ディノは気付いた様子はないが、気付かない筈もないので放っておいてもいいと考えているのだろうか。
だが、沢山の品物が並んで視界を遮られるような石柱屋のあたりで、ネアはこのままにしておくのも煩わしいと判断を下す。
なぜその人物が怒っているのか分からないが、こんな眼差しを肌に感じていて気分が良い訳もない。
「……………おっと、すみません」
「あ、いえ、こちらこそ。柱の影をきちんと気にしていませんでした」
余計なことを考えていたからか、ネアはその直後に柱の後ろから出てきた男性とぶつかりそうになってしまう。
よりにもよって頭にターバンのようなものを巻いたその男性は鮮やかな青い瞳をしていたので、一瞬ぎくりとしたがあの冷たい瞳の人物とは別人だ。
(それに、この人は人間なのだと思う…………)
だとすると、商人には見えないので上位十二人の一人に入る者なのだろうか。
そう思うと少しだけ興味を惹かれたし、なぜかその青い瞳はどこかで見たことがあるような気がした。
ざあっと降り始め、その音で世界を包むような雨音が響く。
雨が降り出してしまったのかなと目を瞠ったが、その気配はない。
首を傾げたネアに、その男性が小さく微笑んだ。
(おや、……………?)
やはりそうなのかと、誰かが呟いたような気がする。
けれどもそれはあまりにも小さな呟きで、本当に誰かが声を発したのか、或いはこの夏市場に溢れる奇妙な者達の発する音がそう聞こえただけなのか、どれとも言えないくらいのもの。
目を瞬いたネアに、その男性は静かな声で詫びてくれた。
「……………申し訳ありません。追憶の柱に触れていましたので、柱が歌い出してしまった。俺と貴女には、偶然二人とも雨に追憶の扉があるようですね」
「この柱は、歌うのですね」
驚いてそう答えてしまったネアを、誰かがふわりと背後から抱き締める。
ネアはディノの腕の中に閉じ込められながら、こんな雨音もつい最近にどこかで聞いたばかりのような気がした。
「ディノ、この柱は歌うそうですよ」
「追憶の柱は、触れることで追憶の音で歌うんだよ。通常は同じ柱の側に複数名がいると混乱してしまって歌わないのだけど、彼が言うように偶々追憶の形が似ていたのだろう」
「雨音が……………」
そのターバンの男性は、ディノにも丁寧にお辞儀をして柱から手を離した。
「お連れ様を巻き込んでしまいまして、申し訳ありません」
しかし、そう言って彼が立ち去ろうとしたその時、ネア達の近くにあった他の柱が、突然ぐらりと倒れかかってきたのだ。
ネアから体を離したディノが、倒れかかってきた柱を受け止めようと手を伸ばしてくれた。
かなり大きなものだが、ディノなら大丈夫だろう。
(あ、……………)
その柱の影に、誰かがいたような気がしてネアは瞳を瞠る。
しかし、その人物の姿を明瞭に捉えるその前に、くらりと視界が暗転した。
“言葉は枷になる。柱は扉に、記憶はナイフになる”
誰かがそう話していて、その声に暗闇の中を振り返った。
確かにディノの三つ編みを握り締めているのに、ディノの姿は見えない。
かつんと、冷たいリノリウムの床を踏む誰かの靴音が聞こえた。
ほろ苦い檸檬の香りに、その人が手に持った白い薔薇のオーナメントが揺れる。
ネアは小さく鋭く息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
いつの間にかそこは暗闇ではなくて無機質な内装の病室になっていて、ネアはなぜか、ベッドの横に立ってその誰かの訪れを待ち受けているのだ。
紫がかった上品な艶のある美しい灰色のスリーピース。
胸元から覗くポケットチーフは白で、体の線に沿った優美なラインのジャケットは、その縫製の素晴らしさが一目で理解出来る。
こんな照明の下では青みがかった灰色にも見える、微かなウェーブのあるプラチナブロンド。
深く豊かな、あのオリーブ畑のある島の周りの海の色のような青い瞳が、なぜか苦しげに、けれども奇妙な熱を孕んだ眼差しをこちらに向けた。
(……………これは夢だ。もしくは、幻のようなもの)
こんな記憶はない筈だし、何かを夢想し思い描くとしても、ネアはこんな想像はしたことがなかった。
だからこれは、ネアの内側にはない、他の誰かや何かに齎されたもの。
「…………それは幻だ。貴女の同伴者が柱を戻せば、すぐに晴れるので動かないように」
耳元でそう言われ、ネアは慌てて視線をそちらに向ける。
するとそこには、先程のターバンの男性が立っていて酷く憂鬱そうな目をしていた。
「ごめんなさい、巻き込んでしまいました。これも柱のせいなのですか?」
「……………ええ、倒れてきた柱の持つ魔術の効果でしょう。貴女の同伴者の方が受け止めていましたので、体を傷付けるようなことはありませんが…………」
視線を戻せば、そこにはまだジーク・バレットが立っている。
であればその柱が齎すものは、こんな風にネアが考えたこともないものすら描き出してしまうのだろうか。
「勝手に記憶を書き換えてしまう、困った柱ですねぇ」
思わずそう呟いて、握り締めたままの三つ編みを軽く引っ張った。
その手を誰かの手がそっと包むのを感じ、ネアはすぐそこにディノがいることを知って安堵する。
「………………さて、どこからがあなたのもので、…………どこからが俺のものなのか。記憶や想いというものは、特に魔術の道ではおかしな具合に混ざり込むこともありますので」
さらりと、霧が晴れるようにして幻が薄らいでゆく。
ではこの男性は、こんな眼差しで誰かに花を渡そうとしたことがあるのだろうかと、ネアは少しだけそんなことを考えた。
(でも、そう言えばこの人の瞳の色は、ジークのものととてもよく似ているわ………)
ヒルドの瑠璃色の瞳程に青が強くはなく、濃紺も混ざったようなそれでいて沈まない鮮やかな青い瞳。
だからこそ、似た要素がどこかで無作為に重なり合い、ネアと彼との記憶が混ざってこんなものを見せたのかもしれない。
「ネア、大丈夫だったかい?」
そう聞こえた声に、ネアは微笑んで顔を上げた。
先程見た幻のようなものはすっかり消え失せて、ここはもうあの柱屋である。
見れば、慌てたように倒れてきた柱を元の位置に直している店主がおり、ディノはしっかりとネアを後ろから抱き締めてくれていた。
「ええ、大丈夫です。一瞬、白昼夢のようなものを見て、今度は私がこの方を巻き込んでしまいました」
「倒れて来たのは、可能性の柱なのだそうだ。もしかしたらあり得たかもしれないものを幻にして見せるようだよ」
「…………まぁ、それでなのですね」
ネアは体感にして五分くらいかなと感じていたが、実際には瞬きをするくらいの時間だったのだそうだ。
柱というものも、魔術が宿りやすい特異点になりがちである。
ネア達が見ていたこの店には、そんな特異点を持つ柱が沢山売られていた。
店内に入らずとも、あまり広くはない道の両サイドをこの店が押さえており、店の前を歩くお客が立ち並んだ柱の間を歩くようにしてある。
お店の前を歩きながら、気軽に触れて楽しめるようにしておいて、その効果を気に入ったお客に買わせる為の工夫なのだろう。
聳え立った大きな柱がどうして倒れないのかが不思議だったが、何やら魔術で固定してあったらしい。
ターバンの男性が、ネア達の後ろに視線を投げる。
微かに緊張を窺わせる瞳にネアも振り返れば、先程見かけた青い瞳の男性が立っているではないか。
怜悧な美貌はやはり不機嫌そうで、ディノのように長い髪の毛を片側に寄せて三つ編みにしている。
その銀灰色の三つ編みを見て小さく溜息を吐くと、ネアは魔物を羽織ったままずるずると引き摺って歩いてから、その男性のおでこにえいやっと手刀を叩き込んだ。
「た、叩いた!」
「悪いことをしたので当然です。まったくもう、通りすがりの方まで巻き込んで、お店の商品を勝手に倒してはいけませんよ!」
「…………君がいけないんだからね」
まだ怒っているものか、その男性は青い瞳をぐっと細めて顔を顰めた。
ここにいるのが誰だか分かっていてもどきりとするような冷たい美貌に、あらためて彼も高位の魔物だったのだなとネアは考える。
決して手のかかる幼児のようにしか思えなくなってきていたという訳ではない筈なのだが、最近はあまり見ない表情だった。
(そう言えば、初対面の時はこんな表情をしていたっけ…………)
あの時は夜で、夜の雲は殊更に厄介だとは言うけれど。
「ヨシュア、先程からずっと拗ねているけれど、もしかして、この子を傷付けようとしたのかい?」
ディノからも、そう尋ねてくれる。
それはとても静かな声だったが、ヨシュアはぴっとなると、きつく整えていた瞳を落ち着かない様子で彷徨わせ始めた。
「傷付けようとはしてないよ。だからシルハーンの方に倒したんだ。ネアがいけないんだよ。僕にだけお土産を買わないだなんて、少しは反省するべきだからね」
思いがけない理由が飛び出してきて、ネアは、思わず上を見上げて羽織りもののままなディノと顔を見合わせてしまった。
「…………なんて、面倒臭……繊細過ぎる理由でしょう」
「当然の報いなんだ。は、反省するといいよ!」
思わず半顔で本音を漏らしかけたネアに、ヨシュアは傷付いたような目でこちらを見る。
かなり面倒臭いが、本人はとても悲しかったようなので、ネアは渋々宥めてやることにした。
「……………ええと、俺はこれで」
何だか妙な事件に巻き込まれてしまったターバンの男性は、これ以上ここにいても厄介な事になるぞと判断したものか、そそくさと立ち去っていってしまった。
この場所にいたのだから、きっと柱を見ていたのだろう。
(お買い物の邪魔をしてしまったわ………)
ネアは申し訳ない気持ちで、そんな後ろ姿にぺこりと頭を下げた。
「…………そして、ヨシュアさんについては、ここに来たところで、ディノがヨシュアさんもいるようだと教えてくれたので、お土産を買う必要は感じませんでした。同じ場所に来ているのなら、お土産は必要ないでしょう?」
「ほぇ…………。僕がここにいるのを知っていたのかい?」
「ええ、なのでお土産を買おうとは思わなかったのですよ」
「で、でも、一緒に食事をしようだとか、僕を褒めたりだとか、きっと僕に会いに来るべきだったんだ」
「ヨシュアさんは擬態をしていることですし、ひっそりお買い物をしているのかなと配慮したのかもしれませんよ?」
そもそも出会っていないのでそんな理由はないのだが、ネアはとても狡猾な人間らしくそう言ってみた。
「…………ほぇ」
「ヨシュア、君の同伴者はどうしたんだい?」
「……………兄弟へのお土産を買ってるんだ。僕には買わないんだよ」
「まぁ、それで寂しくなっていじけてしまったのですねぇ」
「僕に、買い物くらい一人でしろって言うイーザなんて…………」
ネアは、それはイーザの言う通りだと思わないでもなかったが、お説教はこちらに駆け寄ってきた苦労性の霧雨のシーに任せよう。
「も、申し訳ありません!ヨシュアがご迷惑を………」
またしてもすっかり恐縮してしまっているので、ネアはイーザのせいでは無いと微笑んで首を振った。
「それとイーザさん、ヨシュアさんは、寂しくて少しいじけていますので、どうか優しくしてあげて下さいね」
「…………重ね重ね、ご迷惑をおかけしまして。…………ヨシュア?待つのはうんざりだとずっと苛々しているので、では好きな店を見たらいいと一人で好きにさせたのに、この有様はどういうことです?」
「ふぇぇ!だって、僕は君に大事にされるべきなんだよ!お土産は、僕にも買うべきだ」
(あ、その苛々を、イーザさんは自分の買い物を待てないのだと勘違いしてしまったのだわ………)
ネアにも何となく経緯が見えてしまい、その理由を聞いたイーザはがくりと肩を落としていた。
だが、流石の霧雨のシーは、素早く表情を整えるともう一度ネア達にお辞儀をして、これ以上の邪魔はしないようにと素早くヨシュアを引き摺って連れていった。
「嵐のようでしたね…………」
「うん。…………お土産は買って貰えるのかな」
「あれは多分、買って貰えるまで落ち着きませんよ…………」
その後ネアは、出来上がったムグリスディノポシェットを受け取ると我慢出来ずにかけてしまいながら、エーダリア達との待ち合わせの場所に赴いた。
エーダリアは、まるまるサラミの大袋を五つも買ったそうで、一袋はディートリンデに、もう一袋はダリルにあげるらしい。
白百合の魔物に出会い、ほこりの話をしたという微笑ましい初対面の報告もあった。
ネアも会ってみたかったのだが、残念ながら白百合の魔物は帰るところだったようなので、もう会えなさそうだ。
「それと、…………ハツ爺さんを見かけた」
「なぬ。…………あの、夏至祭の?」
「ああ。…………一人で来ていたようだが、入場資格があったのだな…………」
今回初めて自身での入場資格を得たエーダリアは、そんな事実に少し驚いたようだ。
ますます謎の深まるハツ爺さんだが、気儘に生きるウィーム夏至祭の名物お爺さんなので、あまり踏み込まない方がいいのかもしれない。
ネア達は宝石蜜の紅茶屋でお茶をして、予定通りに帰路に就くことになった。
エーダリア達はお化け岩魚は見ていないそうだが、今年も正装姿で上げ下げ屋に並んでいて、店主を真っ青にさせていたアザミの精は見かけたそうだ。
その後、新人の樽がどうなったのかは分からないが、これも知らずにいた方が賢明だろうと、ネア達は顔を見合わせて頷いたのであった。