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秘密の島と秘密の仲間




その日、ヴェンツェルは自身の契約の竜が所有する島で、秘密の友人達とのんびり寛いでいた。



ここには明日、弟であるエーダリアと、かつては自身の代理妖精筆頭であったヒルド達が、あの規格外の歌乞いや高位の魔物達を連れてやって来る予定だ。

なので今年は、前日に来ておいて砂浜に何か特別なものが落ちていないかどうかを、事前に調べておくつもりだったのだ。



しかし、そうそう特別なものが落ちている訳もなく、砂浜はただの美しい砂浜でしかなかった。



「まったく。大人げないとは思わないのか?」


苦笑してそう尋ねたのはドリーで、説得した甲斐もあり珍しく水着などを着ている。

普段は護衛上の問題があるからと頑なに首を縦に振らないが、この島は魔術的な隔離地でもあるので、問題ないのであった。


この島にいる男達は殆どそんな格好だが、水着の上に前をはだけたシャツを羽織っている。



ざざっと打ち寄せる波の、穏やかな音が聞こえた。

ヴェルリアの海の色とは違う柔らかく鮮やかな色だが、波は淡い。

あれだけ透明なのに鮮やかな色であることが、深く強い色の海ばかりを知るヴェンツェルには信じられなかった。



からんと、強い蒸留酒を入れたグラスの中で氷が揺れ崩れる音が響いた。

その音に目を細め、こちらを見た陽光の色の瞳に唇の端を持ち上げる。



「思わないな。そもそも、この島はお前が飲み比べで譲り受けたところだろう。お前が真っ先に稀少なものを見付けるべきだとは思わないのか?」

「ほら、こんな風に真剣に弟と競うつもりでいるらしい。もし珍しいものを波打ち際で見付けたら、教えてやってくれると嬉しい」

「はは、こりゃヴェンツェルの為にも負けていられないな。後で、もう一度みんなで波打ち際をさらってみようぜ」



そう笑ったのはアフタンだ。

ランシーンに住む最も遠方の友人で、ニケと共にヴェンツェルの最も光を当て難い秘密を知る大切な友人の一人である。

先日、あの歌乞いの少女が切れてしまった縁を繋ぎ直してくれたことで、こうしてまた共に過ごせるまでになった。



「お前の甥っ子は来なかったのだな。会ってみたかったものだが」



アフタンの甥は、類い稀な魔術師であるらしい。


と言うのも、少し前に三人が再会した夜にあれこれ語り合っていた時に、その甥の話をしていたアフタンに、ニケが、何かがおかしいと言い出したことで発覚したのだった。


確かに、普通の羊飼いは愚民共を滅ぼすと宣言した奇妙な形の竜を狩ったりはしない。

ましてやそれは、話を聞けば聞く程に咎竜というものに似ていた。



その甥の話を聞き終えたニケが、遠い目をして生まれながらの天才というものはいるのだなと呟いていたのが印象的だった。

こちらの魔術師も、白持ちの魔物を倒して白持ちになったという、呆れてしまう程の稀有な魔術師だったのにだ。



「ああ。ルドヴィークも行きたがっていたが、今日は大事な冬支度に必要な品物を売る行商が来るらしくてな。レンリに任せておけばと言ったんだが、やはり自分の目で見ておきたいようだ」

「ヴェンツェルは分っていないな。アフタンの甥も来るのならば、まず彼の友人だという魔物も来てしまう筈だろう」



既に浜辺で過ごすのに万全の服装になり、日陰の長椅子にのんびりと寝そべってそう笑うのはニケだ。


ここであればと、擬態をする様子もなく短い白い髪を晒している。

ニケにはこの白い髪を隠そうとされたこともあったが、子供の頃から知る仲だからこそ、ヴェンツェルが隙を突いた質問をしてやり、うっかり喋ってしまったようだ。



「だが、友人だろう。お前のところの契約の魔物とは違うのではないか?」



そう言いながらも、ヴェンツェルにだってそれくらいは分かっている。

けれども、こう言うのがヴェンツェルの役割りで、ニケはそんな発言にわざとらしく肩を竦めてみせるのだ。


「……………リソを撒く為に、夜明け前からあちこちを移動する羽目になった。海竜の戦の後での海辺だからな、過敏になるのも分るのだが、海はもうこんなに凪いでいるのに困った奴だ…………」



今はのんびりそう笑っているが、契約の魔物に尾行されているので到着が少し遅れると連絡が入ったくらい、ここに来るまでには苦労を重ねたようだ。


彼はカルウィの王族らしく、このような時間を過ごす時には契約の魔物とはいえ、しっかり距離を置く。

かといってそこに信頼関係がない訳でもないのだから、そこはもう価値観の違いというものなのだと思う。



「であれば、俺もそのようにするべきだったか…………」



思わずそう呟いたヴェンツェルに、ドリーは腕を組んだまま穏やかに微笑んだ。

深みのある赤い髪が陽光に映え、背後に広がる南洋の海に一際鮮やかだ。



「それは駄目だ。ニケやアフタンとは違い、ヴェンツェルは自分の身を守るにはいささか頼りないからな」

「お前は、まだそんなことを言っているのか………」

「彼等とは違って、ヴェンツェルは何もないところで一人で生活をしたことがない。能力的な問題ではなくて経験の差だ。だが、竜は己の宝にはそんなことはさせられないから、その経験を積むのも諦めてくれ」



大真面目に言うので椅子から崩れ落ちそうになったが、アフタンは服を脱いでも接着面が無様にならない、素晴らしい義手で腹を抱えて笑いだした。



「おお、出たぞ溺愛宣言が!」

「………………アフタン」

「いいじゃねぇか。ドリーはお前が持つ最高の恩寵だ。この贅沢者め!王位を放棄するのは構わんが、そこにいるドリーの手だけは放すなよ?」



からりと笑ってそう言ったアフタンには、なぜかヴェンツェルもニケも敵わないのだった。


恐らく、可動域的な問題では一番低いと思うし、王子という頸木を持つ身の上であれ、ヴェンツェルやニケの方が、アフタンより動ける範囲も広いだろう。

だがなぜか、この男には昔から敵わないし、彼が瞳を和ませてにやりと笑うと、素直に頷いてしまう。



そうすることが心地良いと思わせるだけの、絶対的に裏切らず心を与えてくれる友人と言えばいいのだろうか。

アフタンの心は、ヴェンツェルやニケが到底敵わない程に深く美しい。



意見を違えることがあって敵味方になろうとも、彼のことは信じ抜けるだろう。

このアフタンばかりはどんな出会い方をしてもきっと友になるだろうし、殺し合うことになっても、決して互いの心を裏切ることはないだろう。


刺し違える思いで剣を交わすとしても、彼とであれば笑って死ねるだろうと思わせる友なのだ。



(そういう意味では、ニケとは少し違うな…………)



ニケは、ヴェンツェルにとってのもう一人の自分のような存在であった。


全く違う人生を辿り、全く違うものや才能を手にしていても、どこか自分と同じような匂いを感じる友だ。

だからこそ二人ともアフタンには頭が上がらないのかもしれないが、ある意味その判断や感情の動きが分りやすいことが多い。


とは言え彼は白持ちの魔術師であり、ヴェンツェルには理解し難いような生活を送っている筈だ。

それでもこちらは、妙に通じ合う何かを持つ兄弟のような友だった。



「君達は、兄弟のようだな」



そんな折に、ドリーがしみじみそう言うので、こほんと咳払いしておく。

すると、なぜかアフタンが困ったようにこちらを見た。


「その場合、なんだ…………末っ子は誰だ」

「おい、何でそこから始めたんだ」

「末子はヴェンツェルだな」

「……………末っ子は夢見がちで気儘な気質らしいぞ。お前なのではないか?」

「ほお?俺は末子になるにしては、経験を積み過ぎているがな」

「ははは!ニケのそれは、本ばっかり読んでいる頭でっかちな奴が、その知識をこれでどうだと自慢するやつだな」

「アフタン………………」

「そうだろ。お前はお前なんだから。でもまぁ、読んだ本に感化されたり、影響を受けたりもするしなぁ。………俺も、あのククルトルクには、かなり影響された。残忍でしたたかだが、情深い大人の男になるべく…」

「そうか、学べなかったようだな」

「ああ、ククルトルクとは縁遠いな」


ニケがアフタンの言葉を遮って頷くと、ヴェンツェルも合わせて頷いた。

アフタンは情けない顔をして、ドリーに、あいつ等はこんな時にだけ結託するんだと訴えている。

ドリーは笑って、ありのままの君を好きだからそんな風に言えるんだと答えていた。



ククルトルクは、有名な少年向けの職業冒険譚のようなもので、商工会が有名小説家を口説き落として書かれたものであるらしい。

その小説家が誰なのかは隠されているが、一部では塩の魔物の転落物語の作者だと言われている。


ヴェンツェルは、初めてアルテアと酒を酌み交わしたその日、ククルトルクを思い出した。

その後も統括の魔物との交流を深めれば、どこかが絶対的に違うのだが、それでも何かがよく似ている。

お陰でククルトルクをいっそうに想像しやすくなり、ヴェンツェルは子供の頃に読んだその本の挿絵を、何度も懐かしく思い出したものだ。



(あの本も、誰かが普及させているのだろうな………)



ククルトルクと竜の荷馬車という題名の本は、各国の商工会とギルドに所属する国から国へと旅をする商人達が、行く先々の子供達に無償で与えたことで、世界で広がった冒険小説だ。


特定の土地に永住することが難しく、商談などで頭を下げることも多い職業である旅回り商人になる子供達が、近年目に見えて減ったことを危惧して作られたもので、確かにこの本が多く読まれるようになると貴族の子弟達にまで旅の商人になりたいと憧れる者が増えた。


内容は現実的な商人の生活を書いたものだが、正体を明かさないもののかなり高位の人外者だと思われるククルトルクは、時に情深く、時にぞっとする程に残忍な振る舞いで多感な時期の少年達の心を掴んでやまない魅力的な男であった。

本を読み、幼い頃は彼に憧れたという男は多いだろう。

かく言うヴェンツェルも、遊学の際に乗った船で偶然手に取り、その夜はそこにあっただけのものを夢中で読み漁った。



そして、ククルトルクの話をしたことで友人になったアフタンとニケと、共にこうして休暇を過ごし、本の中でククルトルクと旅をしていた相棒と同じ、金色の目をした火竜が隣にいる。



それは、なんと不思議な縁だろう。



(……………そう言えば、ニケに聞かなければいけないことがあった)


エーダリアから上がってきていた報告を思い出し、ヴェンツェルは隣でグラスが緑色に見えるほどのミントを入れ、酒と炭酸水を注いだ飲み物を飲んでいる友人に視線を向ける。


飲料に香草やミントを入れたものを好むのはカルウィらしい嗜好で、ニケは特に好んで飲んでいるようだ。




「ニケ。気になっていたのだが、なぜ海竜の戦になど出たのだ?」


エーダリアからその話を聞いた時、ヴェンツェルは驚いたものだ。

ネアには好意的であったと聞きほっとしたものの、そうでなければあの魔物達に何をされてしまうものかとかなり冷や冷やした。

前に共に過ごした時に、あの歌乞いの少女には危害を加えないようにと話しておいて、これほど良かったと思ったことはない。



「…………………ああ、海の底にある影の国を見てみたかったんだ。そこにあるのは、前の世界の残骸から育った特殊な国だという。だとすれば、前の世界のものが何か残っていないかと思ったんだ………」



そう告白すると、ニケは淡い波色を眺めて微かに苦笑した。


それは、アフタンが言うところの影響を受けた本の向こう側のことで、そんな遠い過去の何かを、友は懐かしみそこまでの危険を冒したのだという。



「前の世界の断片は、………そこまで鮮やかなのか?」

「……………ああ、……………ん?俺はそんなことまで話したか?」

「お前は案外口が軽いか、自分で思っているよりも俺達を信頼しているんだろう」

「はは。後者であれば、恥ずかしい限りだな」

「そうか?俺は後者だと嬉しいけどな。教えて貰ってもおれには小難しいことはよく分らないが、ニケ自身の利益になる秘密以外は、俺達に何でも話してくれ。愛情は重くてもいいが、心は身軽な方が生きるのは楽だぞ」

「………………ヴェンツェル、アフタンには、妹家族以外の重たい愛情があるのか?」

「さて、聞かないが案外あるのかもしれないぞ」

「…………二人共、俺にそれを言うのなら、お前達自身の色恋沙汰も告白しろよ」



アフタンは、あの夜の冒険のせいで、血族を残せない呪いを受けている。


それを勿論ヴェンツェル達も知っていたが、だからこそ何でもない事のように、こうして話題に上げる。

実際、アフタンはかなり女性に好かれたし、身分を隠して三人がオアシスの街の市場を冷やかした時も、一番女性から声がかかったのはアフタンだった。


女達の熱心な様子を見ていても、子供を儲けられないくらいでは諦めない者もいるだろう。

アフタン自身に、それでも構わないと言う女の手を取る覚悟がないだけだ。




「俺は暫くはうんざりだ。王都に戻る度、寝室に忍び込む女や、わざと衣服を切り裂いて、俺に襲われたのだから責任を取って伴侶にしろという女が多過ぎる…………」


どこか疲弊した目でそう呟いたのはニケで、ヴェンツェルとアフタンはさもあらんと顔を見合わせた。


彼はどちらかといえばそのような嗜好は淡白なのだが、国柄、そのようにして伴侶の座を狙う女達は多い。

恐らくは女性ということだけでなく、擦り寄って来る親族や貴族達にもうんざりしているのではないだろうか。



「ヴェンツェルはどうだ?」

「…………………俺は、暫くはそのような時間はないな。今進めている幾つかの法案の審議が進めば…………ドリー?」


何やらアフタンとドリーがこそこそと話しているので、低い声でその名前を呼べば、こちらを見た契約の竜は悪びれもせずに首を傾げた。


「ヴェンツェルは、まだロクサーヌが好きなのだろう?弟に取られてしまったので、暫くはそっとしておいて欲しいとアフタンに頼んでおいた」

「………………ドリー、いつの話だ」

「この前も、ロクサーヌがふざけて似合っていると言った服を、三日も立て続けに着ていただろう?エルゼが、船に乗る執務に合わない装いだった日があると困っていたし、明日までに同じ服を洗浄魔術で綺麗にしておくようにと二回も言われた家事妖精も困惑していた」

「…………………たまたま、あの服装が動き易かっただけだ。ロクサーヌは関係ない」



何を馬鹿なことを言っているのだろうとむっとすると、ニケが小さく声を上げて笑った。



「ヴェンツェルは純情だな」

「やめろ。理想が高過ぎて実在しない相手を探しているお前に言われたくないぞ。魔術師の業なのかもしれないが、エーダリアにそっくりだ」

「ヴェンツェルの弟も、理想が高いのか?」

「対人間となると、かなりのものだな。唯一、風竜にはあっさり籠絡されるそうだが、肝心の風竜からの評価はそうでもないそうだ」

「魔術師の業もなにも、俺はそこまで無理な条件は上げていないからな」



そこで、アフタンにニケの好む女性の条件を伝えると、アフタンはこりゃ駄目だと天を仰いだ。

強引な女性に辟易としているのかもしれないが、そこまで清廉な人間もそうはいないだろう。



どこか遠くで、海鳥の鳴き声が聞こえた。


もう年若い少年ではないのだし、特にここで何をすると言う訳でもない。


ただ穏やかな海を眺めて酒を飲み、のんびりと寝そべって話をするだけ。

海で泳ぐことがあるとしても、それは自身の泳ぎたい時にそうするくらいだ。

だからこそ、この島での時間は穏やかに流れてゆき、その奇妙な穏やかさに晒された心は、どんな秘密も大したものではないように思えるのだった。


それはきっと、あの砂漠で星を見上げていた夜も同じこと。

或いは、こうして仲間が揃うと思えることなのかもしれない。



「それで、影の国には、知りたかったことや得たかったものはあったのか?」



そう尋ねたのはドリーで、ニケはドリーをかなり気に入っている。

最初は、友人の守護者であるとは認識しているが、前歴のお蔭で火竜が苦手なのだと話していたが、言葉を交わす内にすっかり気を許すようになった。

だからこそドリーも、気負わずそう問いかけられるのだろう。



「……………ああ。影の国で一年に一度だけ海から上がってくる怪物に出会った。一番遠い前歴で、その時の男がよく知っていた女の記憶が土地に凝って祟りもののようになって残っていたものだ。俺を、その前歴の男だと勘違いしたのか、雨が降る前に気を付けて帰るようにと言われたよ…………。その男は、雨の日に馬車の事故であっけなく命を落としたからな」

「優しい女性だったんだな」

「……………自分の内側に残る過去の断片に見えた彼女は、優しい女だった。青い髪の美しい女だったが、あのようにしてその記憶が土地の凝りで焼き付き、今も動くのだと知って少しだけ驚いた……………」



海からの風に青い瞳を細める。

そんなニケの横顔を見て、ヴェンツェルは少しだけ考えた。



「…………お前は、大丈夫だったのか?」


そう尋ねると、こちらを見たニケは目を瞠ってから、ふっと微笑んだ。



「勿論だ。それはもう俺ではないし、記憶の断片に感情が残ることはない。ただ、…………アフタンの言うように、それが良く出来た物語であればあるだけ、感情移入はする。あれは、一番古いくせに、そしておぼろげなくせに、決して忘れられない頁のようなものだからな…………」



ニケの中にある数々の前歴の本の中の、一番最初の巻の最初の頁に座するその男は、遠い遠い場所から、自分を見初めた高位の魔物により、死者の姿のまま呼び寄せられたらしい。


海沿いの断崖から海に落ちて死んだと言うその男だったが、その当時の世界には修復や復活の魔術が多く溢れていたので、すぐに肉体となるものも与えられ、多少語弊はあるにせよ生き返ることが出来た。


ただし、死者の魂に新しい器を与えただけの存在には違いなく、次に死んだ時は修復が難しいからと、彼の伴侶になった魔物の女は、くれぐれも事故などには気を付けるようにと忠告していたらしい。


肉体を取り戻す為だけに使われた魔術が複雑過ぎて、彼が身に纏える守護は少なかった。

だからこそ、彼を愛した魔物達はこぞって彼に指輪を贈り、彼の伴侶となった魔物も、守護が厚くなるのであればとそれを許したのだそうだ。

正式な伴侶ではない女達は、魔物は生涯に一度しか与えられないその指輪を与えてまで、少しでも彼が長生き出来るようにと願ったのだという。



けれども、彼を愛した者達の願いも虚しく、その男は大雨の日に悪路で車輪の軸が折れた馬車の横転事故に巻き込まれて亡くなった。




『伴侶に、愛していると言ってやらなかったことを、その男は悔やんでいた。…………………無理矢理捕まえられたようなものだったし、その男には生前、心を奪われた女がいた。……………なので、時間をかけてその魔物と伴侶になり、お互いを思うようになっても、彼は愛を告げるような言葉を彼女に言うまでに、更に時間を必要としたんだ』



だからだろうかと、ニケは言う。

だから、自分の伴侶の半ば狂ったどこにも行かないでくれという最後の慟哭に、彼は応えてしまったのだと。

けれどもその直後に彼等の暮らした世界は崩壊してしまい、水槽に掬い上げられたような、どこにも行けない歪な魂が新しい世界に残された。



とは言えそれは一度は終わってしまったもの。


であるが故に、その男の心まではこちら側に残らず、記憶の場面を消し忘れた頁を持つ、新しく生まれた別の誰かになった。




(そしてニケは、その頃の消せない頁を、時折自分の意志でもう一度開いている………)



グラスの中の強い酒を口に含み、ヴェンツェルは微笑んだ。



自分を狂わせかねないその本の頁をニケが開けるのは、今の自分が揺らがないという自信をつけたからだ。

彼がその確信を得たのは、ヴェンツェルとアフタンと大きな困難に立ち向かったあの日。

誰が一番であったとか、誰がいたからということではなく、この三人だったからこそ。



そう考えて微笑みを深め、ニケが出会ったという怪物はどんなものだったのだろうかと考えた。

地上にも、ヴォジャノーイなどの海からやって来る怪物は確認されているが、影の国のものはどんな形をしているのだろう。



取り留めのないことを考えて、ゆっくりと冷たい酒を飲む。


海からの風はからりと乾いていて、帆布を張ったテントの日陰の下では、強い日差しで熱くて堪らないということもない。

寧ろ心地よいくらいの気温に、もったりとした眠気が誘われる。




「おい、なんか見付けたぞ!ヴェンツェル、これはどうだ?」



そう呼ばれて体を起こすと、いつの間にか波打ち際の方に行っていたらしいアフタンが、何やら半透明の細長いものを手にしている。

それは僅かに紫がかった薄灰色で、先端のあたりが結晶化していて陽光にきらきらと細やかに光り、精緻なカットを施した宝石のような輝きだ。



(……………大きいな)


目を瞠って立ち上がると、慌ててドリーと共にそちらに向かった。



「鉱石か何かだろうか?」

「いんや、…………ぐんにゃりしてるぞ」

「……………柔らかいのか?」


その直後だった。

隣にいたドリーが、砂を蹴ってアフタンに飛びかかると、彼を抱えて砂浜を転がる。



「ヴェンツェル、ニケを起こした方がいい!」

「ドリー?!」


ぎょっとして先程までアフタンがいた場所を見ると、得体の知れない巨大な生き物が、今まさに、砂の中から立ち上がろうとしているところだった。


慌ててニケを振り返れば、こちらはいつの間にかぐっすり眠っていたようだ。




「ニケ!起きろ!!」


そんな声にぼんやりした顔で体を起こしたニケも、砂浜に立ち上がってその巨大な全容を見せた生き物に、目を丸くする。



「………………何で巨大な烏賊がいるんだ………?」

「分らないが、アフタンが足を掘り起こしたので目を覚ましたのかもしれない」

「………………足が結晶化しているな。魔物に近い生き物だろうし、食べるのには向かないか…………」

「お前は、妙なものを全部口に入れてみようとする、その癖をやめたらどうなのだ………」

「失敗すれば十日ほど寝込むが、上手くいけば、可動域が格段に上がるからな。…………おっと、何であんなに怒っているんだ…………?」



もの凄い音を立てて、巨大な烏賊はその足を砂浜に振り下ろした。

椅子や机を設置したあたりには結界を敷いているので影響はないが、あのような生き物が暴れていては昼食にも差し支える。



「………ヴェンツェル、血の気の多いアフタンが参戦しないように捕まえておいてくれ。あの生き物の排除くらいであれば、俺とドリーで充分だろう」

「ああ、アフタンを押さえておくのが先決だな…………」




その後、なぜか起き上がるなり激昂している巨大な烏賊に少し苦戦したものの、ドリーとニケは無事にその生き物を撃破した。


斃してみて分ったことだが、何か高位の生き物に襲われて大きな傷を負っていたらしい。

その治癒の為に休眠状態になって砂浜に眠っていたものを、アフタンが掘り起こしてしまったのだ。



斃した烏賊を焼いて食べてみたニケ曰く、蝋のような味で一口で充分だということだった。

可動域も上がらず、すぐに興味を失ってしまう。

ヴェンツェルとアフタンで、ドリーが切り取ってくれた足の結晶化した部分の鉱石を持ち帰ることにし、四人は持って来ていた肉などを焼いて昼食にした。



夕日がその海を鮮やかに赤く染め上げるまで、ヴェンツェルは穏やかな一日を友人達と過ごした。



秋はそれぞれ忙しいので、冬にはまたどこかで休日を共に過ごそうと約束して別れる。



収穫はその烏賊の足にあった結晶石だけであったが、充分に有意義で幸福な一日であったと思う。

残念ではあるが、砂浜での蒐集物は、明日の弟達に任せるとしよう。















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