避暑地と夏休みの怪 4
いつの間にか、夏休みもあっという間に最後の夜になった。
リーエンベルクの夏休みは三日であるが、最後の一日は早めに戻り、翌日の仕事に備えなければならない。
また、何か事故や事件があって帰れなくなるとまずいので、ある程度は帰宅時間にゆとりをもたせるのだった。
最後の夜となると名残惜しく、まだ一晩はあるのだが何だか心がそわそわしてしまう。
まだまだここに居たいのに、すぐに帰り支度をしなければいけないような相反する思いに揺さぶられ、ネアは何だかはぁはぁしてしまった。
(でも、週末は海遊びがあるし、明けてその翌週にはサムフェルもあるから!)
実はサムフェルは週末の海遊びの日の翌日だったのだが、入り口になる木を、雷の魔物がうっかり落雷で滅ぼしてしまう事件があり、開催を一日遅らせ現在復旧工事中なのだそうだ。
特別な催しがこのように遅延することもあるのだと知り、ネアは雷の魔物の肩をぽんと叩いてあげたくなった。
食品などの流通もある上に、まだ荷入れを済ませていない店舗もある。
内側に閉じ込められた者達も含め関係者はかなり悲壮な面持ちだと言うが、うっかりで門を壊してしまった雷の魔物もかなり辛い思いをしているだろう。
決して、虎尻尾をにぎにぎしてみたいのではなく、純粋な思いでその心痛を案じているのである。
「そう言えばアルテアさんは、書庫の前の廊下に帽子を落されていましたよね。持っていた荷物を置いて戻って来たらもうなかったのですが、珍しいなと思って不思議だったのです。夏休みなので、廊下ではしゃいで暴れていたのでしょうか」
「…………………は?」
ネアは、少しのお酒も入って素敵な気分で、近くの椅子に座ってのんびりしているアルテアにその話をした。
書架から借りた素敵な画集をお庭に面した部屋で読んだ帰りだったので、まずはその画集を書庫に戻してから拾いに行こうと思っていたところ、戻って来るときにはもうなくなっていた。
本人が拾っていったのだと思って特に気にしていなかったが、アルテアが帽子を落してゆくような何かがあったのかなと思うと、何をしていたのだろうかという疑問がむくむくと湧き上がってきたのである。
エーダリアは海湖の魔術書で気になる部分を見付けたらしく、隣に座ったノアに魔術書を広げて相談していたが、何を錬成するものであったのか、ノアはヒルドと顔を見合わせて渋面になっている。
「ネア、エーダリアが湖底の石で巨人を作ろうとするんだけど………」
「それはまさか、森で出会った石の衛兵さんが気に入ってしまったからなのでは…………」
「そのような兵を作っても、活躍させる場所がないでしょう。使う魔術の大きさを考えると、非効率的ですよ」
「だが、湖の周囲にある集落などでは…………いや、系譜の隣人達と、住人達が上手く連携しているところがほとんどだな………。であれば、小さなものにしよう…………」
「え、ひよこの時みたいにならないよね………………?」
「あの時は、元になったものが茶葉だったからな。さすがに石でそのような事故は起きない筈だが、…………起きてしまうのか?」
「うーん、材料にする石を拾ってきた湖底にあるのが、使う石の兄弟石だとまずいかな……………」
ネアは、石にも兄弟がいるのだなとふむふむと頷き、ひよこならまた現れてもいいのにという密かな憧れを押し殺した。
裸で埋まってしまったノアや、よじ登られた魔物達は大変そうだったが、ネアは楽しくひよこと戯れたのでまた会えると嬉しい。
「……………どんな帽子だった?」
ひよこを思っていたネアに、アルテアからそんな質問が寄せられる。
振り返ってみれば、アルテアは妙に複雑そうな顔をしているではないか。
「む?…………落ちていたのは、素敵な黒い毛織の帽子で、リボンは綺麗な琥珀色でした」
「………………俺のものじゃないな」
「なぬ。では、…………ノア?」
「ありゃ、僕じゃないよ。シルはかぶらないし、エーダリアやヒルドも持ち込んでなさそうだね」
「むむぅ。では、アルテアさんが少し物忘れが激しくなってしまったのか、帽子のお化けかのどちらかですね」
「帽子のおばけ…………」
ディノが不思議そうに目を瞬いたので、ネアは帽子お化けの話を教えてやった。
「見たことのない帽子が不自然に紛れ込んでいる時には、内側を調べずに不用意にかぶってはいけないのですよ。もしそれが帽子お化けだった場合は、がぶりと頭に噛み付かれて、頭頂部の毛髪を失ってしまいます」
あまり怖いお化けではないのでネアは気軽にそう話したのだが、なぜか魔物達は顔色悪く項垂れている。
ノアは頭頂部を守る為か頭を押さえているし、ディノはすっかり怯えてネアの手の中に三つ編みを押し込んで来た。
おやっと眉を持ち上げ、ネアは首を傾げる。
「……………悪い奴ですが、そこまで怖くないでしょう?特に魔物さん達は、簡単に傷を治せるので、髪の毛もすぐに元通りに…………」
「………………ネア、私達は、一度失った髪は元通りに出来ないんだよ」
「なぬ…………。ということは、禿げ………毛髪発生不良に陥った場合は、終生そのままなのですか?」
「ご主人様……………」
恐ろしい想定にディノはすっかり怯えてしまい、ネアは頭をぐりぐり押し付けてくる魔物の、今はとても健やかな頭頂部を撫でてやった。
「魔物にとって、髪も魔術の場でありそれを蓄積したものだ。切った髪を伸ばすことは出来るが、一度完全に失われるとなると、それは魔術の枯渇や略奪を意味しているな」
不意にすっと顔を上げると、それだけを説明してくれた後、エーダリアは魔術書に視線を戻す。
ネアの見立てでは、会話に参加しているように見せかける為に少しだけ喋ってくれたようだ。
決して、この会話をきちんと聞いている訳ではない。
「……………むむ。では、毛根から失うようなことがあれば、それはもうお終いの時なのですね……?」
「ネア、言い方!」
「お終いというのは勿論、頭皮的な意味を示します!」
「どっちも変わらないだろ。髪を失うということは、階位落ちはまず確定だな」
とは言え、変化を質とする魔物の場合は、元通りになったりもするそうだ。
滅多に髪の毛など失わないだろうが、月の魔物や雲の魔物もここにあたる。
近しいところでは、実際に髪の毛が抜けてもまた生えた白夜の魔物もそこに分類されるそうだ。
「植物の系譜は変化には弱いが、回復は可能でもある。元通りにするまでには時間がかかるが、事象の者とは違って回復そのものの可能性は失われない」
そんなアルテアの言葉に、ネアは魔物の髪の毛は大事にしようと考えた。
握らされた三つ編みをそっと返却すると、ディノは悲しげに目を瞠ってぺそりと項垂れてしまう。
「ネアが虐待する……………」
「ディノ、そういう事なら、髪の毛は大事にしましょうね?引っ張ってすぽんと抜けてしまったら、一大事ではないですか!」
「ありゃ、シルの髪の毛はそんなことじゃ抜けないよ?ウィリアムが全力で削りにかかっても、一年くらいはかかるんじゃないかな………」
「その場合、削りにかかられるのは頭皮なのでしょうか……………」
「魔術そのものだね。それと、ネアがぶら下がってもシルの髪の毛は抜けないから安心していいよ。でもさ、あんまり引っ張ると癖になるからお手柔らかにね」
「………………ご主人様」
「ノア、このようにして手の中に三つ編みを押し込んでくる魔物ですので、既に癖になっていると言わざるを得ません…………」
「わーお……………」
そうしてネアは、再び魔物の三つ編みを引っ張らされる羽目になり、日常的な運用に戻ることとなった。
(……………あれ?)
けれども、ヒルドの眼差しが気になってその視線を辿ると、何か考え込んでいる様子のアルテアがいる。
そう言えばその帽子の謎はまだ解けていないのだったと思い出し、ネアも首を傾げた。
「私の見た帽子さんは、何だったのでしょうねぇ」
「頭を齧るのかな……………」
「うわ、やめて。僕はこれでも結構髪の毛を大事にしてるよ!」
「あなたは自分で対処出来るでしょうが、ネア様が遭遇されたとなると心配ですね…………」
「エーダリア、ヒルドが心配してくれないんだけど。………エーダリア、本から顔を上げて……………」
「……………ん。………ああ、すまない。帽子がどうかしたのか?」
「うわ、こりゃ駄目だ………………」
ネア達は、夏だから背筋がひやっとする話という訳でもないのだが、その謎の帽子が少し気になるという魔物達に言われ、最初に帽子を見かけた書庫の前の廊下に行ってみることになった。
さほど遠くはないし、食後の運動を兼ねてという感じであったが、いざそちらに向かってみるとなると、魔術の火を灯した燭台があるだけの廊下は薄暗い。
それまでは、趣きがあって素敵な廊下だと言う気持ちしかなかったが、得体の知れない帽子お化けが出るのであれば少しばかりは注意が必要だろうか。
廊下には靴音がよく響き、美しい妖精や竜達の彫像にもゆらゆらと雰囲気を高めるような影が落ちる。
ネアは羽織ものになってすっかり怯えてしまっているディノを撫でてやりながら、画集を片付けに来た時に帽子を見付けた場所を指差した。
「このあたりに、ぽふんと置かれていました。今思えば、落ちて転がったというよりは、丁寧に置かれたような感じだったかもしれませんね」
「…………………特に、気になるような魔術の痕跡はないな。…………ノアベルト?」
屈んで床を調べていたアルテアは、振り返って怪訝そうに眉を顰める。
困惑したようにノアの方を見てから、視線を正面に戻した。
「ノア?何かいたのですか?」
「ネイ…………?」
ネアもその視線を辿り、廊下の角からちょびっと覗いているものにぎくりとする。
廊下の角から半分だけ覗いているのは、ネアが見たものに良く似ている黒い帽子だ。
琥珀色のグログランリボンに廊下の灯りが落ち、艶々と光ってみえる。
まるで構って欲しくて拗ねている人のような配置に、ネアは目を丸くした。
「まぁ、隠れんぼをしているみたいですねぇ………」
「……………魔物ではないようだね。………妖精?……精霊だろうか…………」
「ネア様、少し下がっていただいても宜しいですか?良くないものだといけませんので。…………ネイ、エーダリア様から、その魔術書を取り上げて下さい」
「………………わーお、まだ読んでるぞ」
ノアからやんわりと魔術書を閉じられてしまったエーダリアは、はっとしたように目を瞬き、誘惑に負けて歩き読みをしてしまった自分を恥じるように目元を染めた。
ノアは年長者らしく、今は珍しい生き物が出てきているので魔術書は後でゆっくり読もうよと話しかけ、こくりと頷いたエーダリアは、視線を廊下の奥に向ける。
一瞬、えっ?という目をしてこちらを見たので、ネアは帽子のお化けかもしれないと厳かに伝えておいた。
「今、アルテアが調べに行くからさ」
「おい、お前が行けばいいだろ」
「え、さっきも言ったけど、僕は髪の毛が大事なんだけど…………」
「お前の方が、どうにでもなるだろうが」
「何でさ。僕はこれでも見た目には気を遣ってるんだよ。髪の毛がなくなったら、女の子達に構って貰えなくなるだろう?」
「二人とも、髪の毛がなくなったら困りますねぇ……………」
ネアはそこで、まずは生き物かどうかを確認する為に、庭で拾った椎の実をぽーんと投げてみた。
こんこんと廊下を転がった椎の実は、なかなかにいいコースで帽子の正面近くに行ってくれたようだ。
虐めだと思った帽子が荒ぶるといけないので、声もかけてやる。
「帽子さん、椎の実を拾ったのです。見てみませんか?」
贈与となるとまたそこに魔術の紐付きが出来てしまうので、このような提案になったのだが、念の為にディノが魔術の繋ぎを切ってくれた。
ころころと転がっていった椎の実を息を詰めて見守っていると、次の瞬間、とんでもないことが起きた。
ぐあっと帽子が椎の実に飛びかかり、ぼりぼりと食べてしまったのだ。
ネア達は顔を見合わせ、次に動いたのはアルテアだった。
どこから取り出したものか、一個の檸檬を取り出すと、ぽいっと帽子の前に投げてみる。
その途端、帽子はまたしても飛びかかり、むしゃむしゃと檸檬を食べてしまう。
しかし、酸っぱかったのか、びゃっと垂直飛びした。
「い、生きてます……………」
「やはり、精霊なのかな…………」
「少しばかり、妖精の気配もするのですが…………。けれど、妖精という訳でもなさそうなのが、妙ですね………」
「よし、アルテアに対処して貰おう。ネア、使い魔に頼んでご覧よ」
「うむぅ。アルテアさんの髪の毛も大事なので、きりんさんを使ってみます…………?」
「ありゃ、滅ぼす気満々なんだね……………」
こそこそとそんな打ち合わせをしているネア達の向こうで、黒い帽子はずずっと元の角のところに戻ってゆくようだ。
足などが特にある様子はなく、何か小さな生き物が帽子の中に隠れている様子もない。
見たままの生きた帽子という感じであるので、ネアは捕まえてひっくり返して裏側を見てみたくなった。
「…………私が近付いてみましょう。元よりこの中に住む者であった場合は、管理などを司っているのかもしれませんからね」
そう言ったヒルドが一歩前に出ると、慌てたようにノアが追いかけた。
エーダリアをネアに託し、大事な友人を守りに行ったようだが、エーダリアを任せるのは果たしてネアで合っているのだろうか。
ヒルドは怯える様子もなくゆっくりと帽子に歩み寄ると、少し手前で静かに立ち止まった。
ネアは、上から見下ろされた場合は、帽子にとっては頭頂部にあたるのかどうかで暫し悩み、動きのない帽子を緊張して見守る。
暫し無言の睨み合いなのか、そもそも帽子はヒルドを見ているのか謎な展開が続き、ヒルドがもう一歩前に進もうとしたその時に、黒い帽子は動いた。
「あっ!」
ネアが思わず声を上げてしまったのは、きゅっとヒルドを避けるように滑らかに廊下を動いた帽子が、そこから勢いをつけてびょいんびょいんと弾み、ネアの前に立っていたアルテアにばちんと激突してから逃げていったからだ。
「うわ、アルテアの結界を無効化したってことは、祟りものだね。追いかけて捕まえるよ」
「エーダリア様は、ネア様達のお側を離れませんよう」
「わ、分った。無理はしないようにな」
ばたばたとヒルドとノアが帽子の追跡に入り、転移などはしないらしい帽子を走って追いかけて行った。
廊下には、帽子に激突されたアルテアを囲むネア達が残され、ネアは魔物を羽織ったまま、帽子に直撃されたアルテアを見上げた。
何とも言えない渋面で立っている選択の魔物は、おでこの部分が赤くなっているではないか。
可哀想になったネアは眉を下げてそんな使い魔に手を伸ばし、肩の部分をぽんぽんと叩いてやった。
「……………ディノ、アルテアさんが」
「額にぶつかられたようだね。…………アルテアの結界を無視してしまうのだから、ただの祟りものではないのだろう」
「外から入り込んだとしても困るが、状況を見る限りはこの城内に居たものだと考えるのが自然だな。昨年は姿を見ていないし、その後で滞在したダリル達も特に問題はなかったようだ。一体どこから現れたものか……………」
ネアは、無言のままのアルテアが心配で首を傾げて顔を覗き込んだ。
いきなり飛びかかってきたので、恐らくは髪の毛を毟られると思って怯えてしまったのだろう。
被害は赤くなったおでこだけで済んだが、かなりどきどきしたに違いない。
「……………アルテアさん、ちゃんと髪の毛は無事ですからね」
「アルテア、髪の毛は全部残っているよ?」
「髪の毛を襲うような生き物だったのか?」
最初の話をまったく聞いていなかったらしいエーダリアはさて置き、アルテアは髪の毛が無事だと聞いてほっとしたようだ。
短く息を吐くと、じろりとこちらを見る。
「………………おい」
「む。なぜに私を責めるように見るのでしょう。恨むなら、あの帽子さんに酸っぱい檸檬をあげてしまった過去の自分を恨むのです」
「檸檬は嫌いだったのかな……………」
「丸齧りでしたからね。きっと酸っぱくて怒ったに違いありません」
そんな話をしていると、上の階からぎゃーっという恐ろしい悲鳴が聞こえてきた。
ネア達はさっと顔を見合わせ、羽織ものになっていた魔物は素早くネアを持ち上げる。
ネアは、首飾りの金庫から取り出した激辛香辛料油な水鉄砲の予備をエーダリアに渡し、アルテアにはエーダリアが襲われてしまわぬよう、見ていて欲しいと頼む。
「すまないな。出来得る限りは、自衛する」
「……………この場合は、これ以上人数を分けない方がいいだろうな。勝手に離れるなよ」
「ああ」
ここで更に偵察部隊と居残り部隊で人数を分けてしまうと、数で勝っていた筈のネア達の優位性が失われてしまう。
二階を見に行くのは全員でということになり、四人は先程の悲鳴が上がった方に慎重に近付いた。
足音が響き過ぎないように、階段に敷かれた水色の絨毯を踏んで歩く。
不思議なことだが、どんなシチュエーションでもこんな場面がホラー映画に在ったような気がする。
そもそもホラー映画をあまり見ないネアなので、それもおかしなことだった。
(とは言え、相手は帽子さんだしさして怖くは……)
「ぎゃ!」
階段を登りきった先にあったのは、廊下いっぱいにぎゅうぎゅうに詰まっている巨大化した帽子であった。
階段を上った直後にそんな光景が目に飛び込んできて、ネアは慌てて魔物の首にしがみつく。
押し潰されたノアが廊下に伸びており、羽を使って回避したものか、ヒルドは天井の高い廊下に備え付けられた、背の高い飾り棚の縁に軽やかに立っていた。
手には冴え冴えと光る美しい剣を持っていて、ネアはそれがヒルドの愛剣だとすぐに分った。
剣の切っ先を向けられ、巨大帽子はがおーと唸り声を上げている。
「帽子さんは、…………悪者なのでしょうか?」
「悪意のようなものは感じないのだけれど、…………なぜだろうね」
「早くあの帽子をどかさないと、ノアベルトが潰れてしまう!」
「いや、潰れはしないだろ。仮にも、塩の魔物だぞ……………」
「いやいやいや、潰れるって。早く助けて!!」
「ほら見ろ、元気そうだろ」
「エーダリア、アルテアの言葉は無視していいから!」
ふわりと、ヒルドが羽を広げた。
その美麗さにネアは目を瞠り、隣で床石に打ち付けた踵を鳴らして何かの魔術を発動したアルテアにも気付く。
こちらは、いつものステッキでもこんな音を立ててから魔術を動かしているので、その代わりだろうか。
「ほわ…………!」
羽を広げたヒルドが剣を振り下ろすのと、アルテアが展開したらしい結界がそこから噴き出した煙を遮ったのは、ほぼ同時のことだった。
もうもうと立ち篭める煙の中、ネアは慌てて乗り物になった魔物を揺さぶる。
煙で視界が遮られてしまっているので、向こう側にいたヒルドとノアの安否が知れなかったのだ。
「ディノ!ノアとヒルドさんが向こうに……………二人は無事でしょうか?」
「うん、大丈夫だから怖がらなくていいよ。あの帽子も、……………どうやら人為的なもので、厳密には祟りものではないようだ。…………祟りものの輪郭を残している、………枠組みのようなものかな」
「枠組み……………」
ネアがそれは何だろうと目を瞬いている内に、もうもうと周囲を白く染めていた煙が晴れた。
廊下には、真っ白な顔になったまま呆然と転がっているノアがいて、こちらは結界などで防げたのかどこも白くなっていないヒルドが、床から何かを拾い上げている。
「二人とも無事か?!」
「ノア!ヒルドさん、ご無事ですか?」
ぱっとそちらに駆け寄ったエーダリアに続き、ネアも慌てて握った三つ編みを引っ張って魔物な乗り物にそちらに移動して貰えば、ヒルドが拾い上げたものを見せてくれた。
「まぁ、……………絵本ですね」
「子供の躾け絵本、……………夜に水遊びをする悪い子の前に現れる、帽子の怪物…………………」
「水遊び………………」
ヒルドが手にしていたのは、小さな子供用の絵本だ。
題名を読み上げたエーダリアが困惑したように仲間達を見回し、床に転がったままのノアが小さく呻く。
「ウィームの子供の躾けってどうなってるのさ。僕だったからまだ良かったけれど、子供があんなものに押し潰されたら、死者の国行きだよ!」
「ノア、…………ぶはっ、」
「………………え、ネアが酷い……………」
ネアはノアの方を見て何かを言おうとしたところで、間近で、おしろいを塗ったような真っ白な顔にされた塩の魔物を見てしまい、思わず噴き出した。
ノアは悲しそうな目をするとエーダリアとヒルドを見たが、ヒルドは呆れ顔であるし、エーダリアも必死に顔を背けて肩を震わせているのでネアの仲間だ。
「シル、…………みんなが酷いよ…………」
「ノアベルト、顔を洗おうか。立てるかい?」
唯一優しかったのはディノで、ネアをそっと下してヒルドに託すと、白塗りにされて床でへしゃげている友人を助けに行っている。
手を貸して貰ってよろよろと立ち上がると、ノアはどこからか取り出した生成り色のハンカチで顔をぐいぐいと拭った。
しかし、余程しっかり汚されたのか、あまり綺麗にならないので見かねたディノが、ご主人様用に持っていてくれたらしい濡れタオルを渡している。
「…………ふはぁ。僕はこれでも高位の魔物だけどさ、まさか帽子に潰されるとは思わなかったよね。それはそうと、アルテアはどうしたの?」
「む……………?」
普通の肌色の顔に戻って一息吐いたノアが、そう指差すのはネア達の後方だ。
そう言えば結界を張った直後から喋らなくなったなと振り返れば、少し離れたところに、アルテアが立ち尽くしている。
どこか不自然な立ち方なので今度はそちらに戻ってみると、赤紫の瞳を不愉快そうに眇めて、選択の魔物はどこか恨めし気にこちらを見るではないか。
「アルテアさん…………?」
「書庫にある、躾け絵本とやらを封印するぞ」
「なぬ……………」
今回のことがよほど怖かったのだろうかと首を傾げたネアは、目を凝らしてみたことで、アルテアに起こっている異変に気付いてしまった。
よく見ればその肘の部分には、ばっくりと噛み付いた小型犬サイズの木製の洗濯バサミがあり、どこが顔なのかもさっぱり分らないものの、ぐるると唸っていた。
「……………アルテアさんが、洗濯バサミに噛み付かれました…………」
「これも、躾け絵本なのかい?」
「こいつは、走って来るときに本の状態が見えたからな……………」
苦々しくそう呟き、アルテアは肘に噛み付いている洗濯バサミを容赦なく素手で掴み取った。
獰猛に唸り声を上げて暴れている洗濯ばさみであったが、試しにネアがディノの指輪のある方の手を近付けてみると、きゅーんと鳴いて大人しくなる。
アルテアが何かを短く呟いた後、ぽふんと音を立ててノアを襲ったものと同じ大きさの絵本になって床に落ちた。
「そちらの絵本は、何だったのだ?」
「こちらの躾け絵本は、寝ないで書き物をしていた悪い子用です……………」
「悪い子……………」
「まぁ、ディノはまだ襲われていないのに、落ち込んでしまいました……………」
「絵本が襲ってくるんだね…………」
顔を拭き終えたノアもこちらにやって来て、アルテアを襲ったものと、ノアを白塗りにした帽子のものと、二冊の絵本が一緒にされる。
表紙の文字の配置といい、恐らくはシリーズものの一部なのだろう。
「見て下さい、とても恐ろしいことに、帽子の絵本は三という文字があり、洗濯バサミには六という文字が書かれています。このような躾け絵本が他にもあるのは間違いなさそうですね……………」
「わーお…………」
「しかし、昨年は、エメルが気に入ったからと、ダリル達が夜通し船で酒宴をしていた筈ですが…………」
「そう言えば、そんな話をしていたな。………書架妖精がいたので、動けなかったのではないか?」
「その可能性もあるだろうね。このようなものは、あえて階位などを気にしないように、少し歪な認識をする生き物の輪郭を魔術に閉じ込めるんだ。相手を選んでいては成り立たない門番の魔術などによく見られるものだよ。恐らく、幾つかの祟りものの輪郭を剥ぎ合わせたもので、それが精霊や妖精だったりしたのだろう」
魔術には疎いネアにはよく理解出来なかったが、そんな祟りものの輪郭という規格だけを引用し、絵本の中に登場する怪物を人工的に作ってあるのだそうだ。
そして、躾の必要な悪い子の元にはその怪物がやって来るという仕組みであったらしい。
その後、ネア達はみんなで書庫に行き、躾け絵本が仕舞われている書架を探し当てた。
躾け絵本はなんと全部で十冊もあり、盗み食いをしたものにはうぞうぞ鼠という生き物が向かうらしいが、なぜかその絵本は、獣の噛み痕だらけになって床にぽとりと落ちていた。
ネアは思わずノアの方を見てしまいそうになるのを堪え、ささっと閉じて本棚に押し込んでおく。
(ノアは盗み喰いをしていたし、きっと狐さんのときに訪問してしまって返り討ちにあったのでは…………)
「これは、封印などをしておいた方がいいのだろうか…………」
「本の性質としては、どのようなものがあるのかを把握しておき、該当するようなことをしないのが一番でしょうが、…………子供の躾けの為に設定されたものと、我々の行動を同一で審査されるのもいささか問題かと………」
「……………この、一番の怪物に襲われる人がいたら、どうしましょう…………」
そう言った一番の絵本は、おねしょをした悪い子を叱りに行く怪物だ。
よりにもよってな、パンツの怪人が襲いかかるのでかなりシュールな光景になるだろう。
そんな心配をしてしまったせいか、一同はたいへん遺憾であるという雰囲気に包まれる。
だが、九番の絵本はなかなか難しい線を突いてきていて、女の子を苛めた悪い子を叱る怪物が出るらしい。
「封印って程大げさにしなくてもいいんじゃないかな。…………ほら、これだ!」
そう言ったノアは、隣の書架に入っていた大きな画集を、展示収納するような形で表向きに押し込み、絵本の入っている棚の部分に蓋をしてしまった。
一見、素敵な画集を紹介しているような感じだが、実際には封印の壁なのである。
(…………あれ、私が昼間に見た画集も、あんな風に置かれていたような……………)
ネアはふと、そんなことに気付いてしまった。
明らかに隣の棚に仕舞われるべきものだったので、楽しく拝見し、棚に戻す時には正しい位置に戻したのだが、もしやあの画集こそが躾け絵本を封じていたものだったのかもしれない。
だが、ここにいるのは幼気な子供ではなく邪悪な大人であったので、ネアは重々しく頷き、自身の罪には触れないことにした。
最後の夜は、躾け絵本の怪物のせいで若干の冒険活劇風の様相を帯びたが、こんな一幕も楽しい夏の思い出になるのではないだろうか。
その後、みんなで湖の畔で花火をした。
花火はウィームでは祝祭の為のものという認識であるし、週末の海遊びでもする予定だが、何となく夏の終わりを彩るのにいいのではないかとネアが提案したのだ。
どーんと上がった打ち上げの花火を眺め、素敵な避暑地の思い出を噛み締める。
来年はどんな風に訪れることになるだろう。
これからも何度だって来る筈なので、ネアはまた花火を見ましょうねとディノの手をぎゅっと握っておいた。
なお、帰り際まで茶葉の収穫や仕上げで忙しなくばたばたしたのはアルテアで、ここを訪れるのが初めての使い魔は、とても避暑地の時間を満喫してくれたようだ。