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避暑地と夏休みの怪 3




ぷかりと、紫水晶の船が星の光を湛えた湖に浮かんだ。



湖はエメラルドグリーンと水色の光を溶いたようなえもいわれぬ透明さで、湖の底の方には不思議な瑠璃色の水の層がある。


さあっと泳いでゆく銀色の魚影が見えて、ネアはあれが月光鱒だなと目を光らせた。

船に積んだバケツには水晶の歯車が山盛りになっており、これを餌にしてあの月光鱒を釣り上げるのだ。



本来であれば晩餐の後の楽しみにする筈だったが、どうせなら釣った鱒を食卓にも上げようということになったので、時刻を夕暮れの後に変更し、今回の釣り大会には全員が参加している。


とは言え、ヒルドは湖岸でのんびり飲み物を飲みながら読書中だ。

何かあった時の為に一人くらいは地上におりましょうかと微笑んでくれたが、ネアは、こっそりエーダリアから、実は読書に夢中なのだと教えて貰っている。


読んでいるのは多分、塩の魔物の転落物語だ。

あえて公言はしないものの、カバーの下の表紙の断面の色合いに、ネアは覚えがある。

愛蔵版のもので、ちょっとお洒落だなと感心していたので間違いない。




しゃわわと澄んだ音がした。


湖の縁で湖面に垂れさがっている柳や、湖岸に近いところに咲いている睡蓮が柔らかな風に揺れる音だ。


睡蓮は可憐な桃色で、内側にぼうっと小さな火を灯している。

ああして水辺の生き物達の灯りとなり、代わりに種を運んで貰ったりするのだそうだ。

とは言え、いい匂いがして居心地がいいからか時折睡蓮の側で酒盛りを始めてしまう妖精がおり、あまりにも騒ぎが過ぎると、睡蓮は怒って葉っぱの上の宴をひっくり返すらしい。


ネアの知る睡蓮とは少し違い、若い睡蓮の葉はおひたしにして食べられるそうで、大きな葉も、切り取って蒸し物を包むのにも使えるそうだ。




夕暮れが夜闇に変わった直後の湖は、湖の水の中に内包された月や星の光がきらきらと輝き、星屑の海を漂っているような幻想的な煌めきで、船が揺れると光の滴が飛び散ってまた細やかに光る。



その光に照らされてネア達は、船の上に灯りなどを持たずとも手元が良く見えた。




「針はこっちだ。歯車の間に差し込んで、こう回す。やってみろ」



そう教えてくれるアルテアは、紫水晶の船にある夜樫の椅子に座っている。


湖の側の小屋にあったこの船は、魔術仕掛けで動くので左右にベンチのような椅子が備え付けてあり、船を漕ぐ為のオールなどはない。

真ん中には背の高い燭台があるが、魔術の火を灯す必要はなさそうだ。

高貴な者達が使う事を想定していたのか、かなり頑強な守護をかけてあるので、転覆もしない安全な船である。



「うむむ。…………この隙間に通して、くるっと。…………出来ました!ディノは大丈夫ですか?」

「くるっと……………」

「ありゃ、エーダリアがもう釣り上げたんだけど……………」

「なぬ、もう獲物が……………!!」

「思っていたより、食いつきが良かった。歯車の質がいいのだろうな」



慌てて振り返ったネアは、いつの間にか立派な獲物を釣り上げてしまったエーダリアに、どこか得意げな微笑みで立派な月光鱒を見せて貰う。


月光鱒は月光が湖や川で育って生まれる魚で、お腹の部分と背びれに綺麗な檸檬色の筋が入っており、その筋が月の光を蓄えて水底でもぼうっと光るのだ。

香りも良くて美味しくて、夏の終わりから秋までが美味しい旬の魚である。


びちびち跳ねる魚を大きなバケツに移し、エーダリアは次の歯車を針に通している。


ネアは、ひゅっと綺麗な弧を描いて釣竿を振ったアルテアを真似しようとして、素人が無謀な投げ込みをしてはいけないと叱られつつも、ようやく餌を水中に落とせたところだ。



(赤い羽根が可愛いな…………)



朝靄を紡いだ細い銀色の釣り糸には、可愛らしい赤い羽根がついている。


この赤い羽根がわすわすと揺れたら、獲物がかかった証なのだ。

また、赤い羽根がどす黒くなった場合は、水の中に祟りものが潜んでいるので、早々に撤退しなければならない。


この世界の海や川、湖には不思議な生き物達が沢山いて、土地によって同じ歯車でも釣れるものが違う。

ウィームの領域は月光鱒や雪羽鱒などが有名だが、内陸の方には鉱石の鱒や、夜壺鰻などもいるそうだ。



(ここで月光鱒を攻略したら、次は南の島で手袋蟹を取ってみたいな………)



ネアがそんなことを呑気に考えていたら、瞬く間に戦況が一変した。




「ご主人様…………」

「むぐ!ディノに当りがでましたよ、アルテアさん!!」

「巻き上げて、まずは湖面の方に引き張り上げろ。その後で、………そのまま持ち上げるのはまだ難しいか……………っ、」


びしゃっと水飛沫を上げて、かぶりついた歯車を引っ張られた月光鱒は、負けるものかと自ら船に飛び込んできた。

なかなかに立派な月光鱒で、ネアは塩を振りかけて焼いてしまいたいという残酷な欲望に囚われる。



「……………釣れた」

「まぁ、何て大きな月光鱒でしょう!ディノは凄いですね!アルテアさんより早く釣り上げてしまいました!」


思いがけない程早くに立派な獲物を釣り上げ、ディノは困惑したように目を瞠っている。


これが晩御飯になるネアが大はしゃぎで褒めれば、嬉しそうに目元を染めて頷いた。

喜びを噛み締めるように魚をバケツに移し、バケツの中で荒ぶる月光鱒をしみじみと眺めているのが、何とも無垢な姿だ。



「…………俺が指導したからだろうが」

「ええ、アルテアさんに教わった途端、ディノが釣り名人になってしまいました!アルテアさんは、先生をするのも上手なのですねぇ…………」



飛び込んで来た月光鱒にびしゃっとやられたアルテアは、どこか遠い目をして魔術で靴を乾かしていたが、大事な魔物が楽しい釣りの時間を過ごせそうで、すっかり嬉しくなってしまったネアからの称賛は満更でもないらしい。


つんと澄ましているが、あれは結構嬉しい時の表情ではないか。




ひゅんと音がして、アルテアが竿を振るった。


糸を巻き上げながら軽やかに持ち上げることで、釣り上げられた月光鱒は綺麗にバケツの中に落とし込まれてしまう。


ネアは魔法のような釣りの仕方に目を丸くして、バケツの中で釣り針を外しているアルテアを凝視した。

バケツに入る時もちゃぽんと小さな音を立てての優雅な入場であり、水がばしゃんとならないのが不思議でならなかったのだ。



「い、今のは……………。むぐぐ、私にも出来ますか?」

「やめておけ。お前がやると大惨事になるのが容易く想像がつく。そもそも、まずは月光鱒を釣るところから始めるんだな」

「むぐる……………。そして、いつの間にかノアまで釣り上げています…………」

「僕は二匹目だよ」

「むぎゅ!」



ネアは、こんな筈ではなかったと、釣糸についた赤い羽根を睨んだ。

誰よりも華麗に戦果を上げ、さすが狩りの女王だと称賛される予定だったのだ。

ぎりぎりと眉を寄せて水面を睨んでいると、ようやく羽がわさわさ動いてくれた。



「ほわ!かかりました…………!!」


ネアは、これはもうきっと誰よりも大物に違いないと意気込んで獲物を巻き上げたのだが、水面に上がってきたものを見るなり渋面になる。



そっと隣のアルテアを見たところ、そちらも眉を顰めて怪訝な顔をしているではないか。




「アルテアさん、…………宝石箱がかかりました」

「……………俺に聞くな。そんなものが常日頃釣れるものか」

「むむぅ。これはまさか、一攫千金的な…………」

「ネア、針を外すのは私がやるよ。動いているから、危ないものだといけないからね」

「この形状のものが、どうして生きているのかということが、とても大きな問題になりますね…………」



ネアは、誰かが湖に落とした宝物だろうかと期待していたのだが、残念ながらその宝箱は生きているようだ。

びちびち跳ねる宝箱は、ディノが捕まえて釣り針を外すと、ぺっと拳大の宝石を吐き出し、大きく跳ねると自分で湖に戻っていった。



「……………その、宝石を吐いたようだが」



部下があんまりなものを釣り上げたからか、自分の釣りは中断してこちらを見守ってくれていたエーダリアが、そうぽつりと呟く。

エーダリアと寄り添ってこちらを見ていたノアも、こくりと頷いた。



吐き出されて船の上にごろりと転がったのは、綺麗なシャンパン色の宝石だ。

既に美しくカットされているが、何しろ大きい。



ディノが拾い上げてくれて、夜空に翳すとぼうっと明るく光り、満月の夜の月光だけを紡いだ月の宝石だねと教えてくれた。



「………………は!これがあれば、リーエンベルクにある、古い月のシャンデリアが修復出来ますか?」


先程踊ったばかりの大広間で見た素晴らしい月光のシャンデリアを思い出してそう言うと、エーダリアは目を瞠ったままこくりと頷いた。



「これ程のものがあれば、この石一つでシャンデリア全体の月光石に光が通るだろう。見事な明るさになるだろうが、……………だが、これはお前が釣ったものだろう?」

「でもリーエンベルクは私のお家なので、お家の調度品になるのであれば、結局私が楽しめるものなのです。ふふ、ディノ、リーエンベルクでも先程見たような月光のシャンデリアが楽しめそうですよ」

「うん。君はあのシャンデリアをとても気に入っていたからね」



エーダリアは目を丸くしてから、嬉しそうに口元をむずむずさせた。

微笑んだノアにつつかれているのが兄弟のようで、ネアも見ていると優しい気持ちになる。



「………………礼を言う。これでまた一つ、統一戦争で失われていたものが、元通りに出来るな」

「帰ったら、家事妖精さんに設置を頼みますね」

「ああ、私とヒルドも同席しよう。月光の間に月光が戻るとなると、家事妖精達も喜ぶだろう」



リーエンベルクの月光の間は、その名前の通り月光のシャンデリアを中央に据えた中広間だ。



勿論、小規模な舞踏会や、演奏会などでも使われているが、かつてはその部屋で夜や月の系譜の魔術書や絵画などを安全に月光に当ててあげられたのだとか。

その話を覚えていたので、ネアは、是非にこの宝石をそのお部屋に設置しようと思う。


思いがけない収穫にほくほくと微笑みを深め、次こそは月光鱒を釣るのだと意気込んだ。



「む!またしてもディノが、大きな月光鱒を釣り上げました…………」

「これで二匹になったから、君の分もあるからね」

「むぐぅ。私ともあろうものが、お魚さんごときを釣り上げられないだなんて。…………エーダリア様は、もう目標の五匹を釣り上げてしまいましたし、ノアも終わって一緒にお喋りしています。…………は!アルテアさんも終わって…………?」

「シルハーンも三匹目だぞ?」



すぐさまディノが三匹目を釣り上げたので、ネアはいよいよ焦って釣り糸を睨んだ。


隣のディノはまたしても立派な月光鱒を釣り上げ、ネアの美味しい晩餐は確約されたも同然だが、やはりここは自分でも釣り上げておきたい。

同じようにびちびちしていたとしても、宝箱では満足出来ないのだ。




その時、ネアの釣り糸についた赤い羽根が、またしてもわさわさ揺れた。



「うむ、漸くまっとうな当たりが………むぎゃ?!」

「おい?!」



釣竿を手に取ったネアは、ぎゅんと湖に引き摺り込まれそうになり、慌てたアルテアに抱き止められた。



「い、一瞬、体が宙に浮きました…………」

「俺が引き取るから、ゆっくり手を離せ。いいか?」

「ふぁい………」


突然のことにふるふるしているネアを、背後からひしっと抱き締めたアルテアも、かなり驚いたようだ。

耳元で深い安堵の溜め息を吐き、ネアが持っていた釣り竿を引き取ってくれる。


難敵を釣り上げたものの選手交替したネアは、すぐさまディノに抱き締められ、かちこちに強張った肩から力を抜いた。



「大丈夫だったかい?反応が遅れてしまって、怖い思いをさせたね」

「…………いえ、ディノは釣り針を外しているところだったので、仕方がありません。アルテアさんが、すぐに助けてくれましたが、…………私の釣竿には、何がかかってしまったのでしょう?もしや、……むぎゃ?!」



その直後、ぎゃぎゃっと船が激しく引っ張られた。

釣糸の先にいる獲物が、船ごと引っ張って泳いでいるようだ。



「……………アルテアも苦労しているようだね」

「わーお、何がかかったんだろう…………………」

「月光鱒ではなさそうだ。また珍しいものだろうか」



アルテアは、嫌煙家もいないので釣りを終えてさて一服というところだったのだが、そんな余裕もなくなり、ぐいぐいと船ごと引っ張る獲物との激しい攻防戦に入っている。

船の縁に片足をかけ、カジキマグロの一本釣りのようなことになっていた。



「むぎゃ!またしても船がびゅんと進みました!」

「転覆はしない筈だが、どうにもならなければ、ここにある専用の鋏で糸を切るしかないな………」

「エーダリア、その場合は危ないから僕がやるよ」



この朝靄を紡いだ釣り糸はとても丈夫なので、ちょっとやそっとでは切れないのだが、その代わりに大物がかかってしまうとこのような死闘が待ち受けている。


糸が切れないようになっているのには理由があって、悪い妖精達が獲物を横取りする為に、魚のかかった釣り糸をちょきんと切ってしまうことがある。

その略奪防止の為の強度なのだ。



「…………アルテアさんが、本気でお魚と格闘しています……………」

「エーダリア、あまり湖を覗き込まない方がいいよ。こりゃ、かなりの大物だ…………」

「また、その水場の主なのだろうか…………」



かつて、そのようなものを釣り上げてしまったことのあるディノは、ぐぐっと足を踏ん張ってかなりの力で糸を引っ張る獲物に抗いながら、糸をぎりぎりと巻き上げているアルテアの方を心配そうに見ている。


腕の筋肉の筋がしっかり浮かび上がる程の力を込めて、選択の魔物が銀色の細い糸を巻き上げる姿は、いっそ爽やかな光景にさえ見えた。



ぎりぎりぎりっと、細い糸を巻き上げる緊迫感のある音が響く。



「上がって来るぞ。…………ノアベルト、網をよこせ」

「うわっ、なにそれ!」



最後は力技で、ずももっと、アルテアよりも大きな生き物が水の中から釣り上げられた。


ネアが慌てて場所を空けて、ノアが網を持って補助に出ていたが、大きな網に頭を入れているのはどう見ても魚ではない。


ワンワンと鳴いて暴れている、立派な牛だ。



「………………なぜに牛なのだ」

「棘牛の水棲体だね…………」

「棘牛さん………………」

「棘牛ってことは、……………っと、危ない危ない。魔術で補強しなかったら、網を切られるところだった」

「食べたことはあるのだが、水棲体の棘牛を見るのは初めてだ…………」



エーダリアは、感動の釣り上げ場面に目を輝かせているが、ネアはすすっとディノの隣に移動すると、投げ込まれた三つ編みを握りながら、水棲体の棘牛とはなんぞやと遠い目になる。



「棘牛さんは、水の中にも住んでいるのですね……………」

「棘牛は、亜種のものを含めると生息域が広い生き物なんだよ。あちこちにいるけれど、水に住むものは珍しいかな。砂漠で暮らすことで棘が退化したのが、砂牛なんだ」

「思っていたよりも、力強く生息域を広げているのですね…………」



水棲の棘牛は、良質な赤身がとても美味しいそうだ。

釣り上げられてもじたばた暴れている棘牛は、アルテアとノアが、魔物らしい容赦のなさできゅっとしめている。


なんと、火山地帯にも棘火山牛が住んでいるそうで、そちらの個体はお肉がぱさぱさしていて美味しくないらしい。



「……………アルテアさん、お疲れ様です」

「僕も頑張ったよ、ネア!」

「ノアも、ワンワン荒れ狂う牛さんを網で掬い上げてくれて格好良かったです」

「よし、抱き締めちゃおうか?……痛い痛い痛い、アルテア、僕の足踏んでるんだけど!」



死闘が終わると、船の上には十八匹の月光鱒と、立派な水棲棘牛が並ぶこととなった。


ぜいぜいとしているアルテアに、船の上に引っ張り上げた棘牛を興味津々で観察しているエーダリア、網で棘牛を掬ったのは初めてだと、ノアは自分の手をじっと見ている。



「ここに来てからさ、僕は人生初めての体験ばっかりしてるんだ…………」

「ふふ、ノアの今日の初体験は凄かったですね。ディノも、初めてお魚が釣れたのですよ」

「ありゃ、シルは釣りが初めて?」

「魚を釣れたのは初めてだったよ。ネアは、棘牛を釣ってしまったんだね」

「美味しいタルタルが自ら訪れてくれたようです。釣り上げてくれたアルテアさんを労ってきますね…………」


ネアは、疲労困憊しているアルテアにお礼を言いに行ったが、アルテア曰く、本来の水棲棘牛は、目撃情報を元に水辺の狩人達が何日もかけて川岸に追い込むものであって、このように釣り針にかかるものではないらしい。



「…………そうか。お前がいると、釣りも釣りじゃなくなるんだな」

「うむ。滅多にない特別な体験を楽しんで下さいね。なお、ノアはお肉を焼くのが得意なので、アルテアさんにはタルタルを所望します!」



結局ネアは、今夜の釣りは棘牛で打ち止めとされた。


また棘牛がかかってしまうと、もうアルテアの体力が持たないそうなので、全員に説得されて、ネアは渋々今夜の月光鱒は諦める。



一匹の月光鱒も釣り上げられなかったとなると、狩りの女王としては歴史的な大敗になる。


リベンジの時には同行して欲しいと先生にお願いしたが、アルテアからは次はウィリアムに頼めと言われてしまった。



(でも、みんなとは違うものが釣れたから、晩餐にはタルタルも食べられるのだから……)



普通に釣りをしてみたかったが、タルタルが食べれるようなので、悔しさを噛み締めつつも結果としては、素敵な釣りだったと思うことにしよう。




「ヒルドさん、棘牛が釣れました!」

「おや、水棲の棘牛が釣れるのは珍しいですね。良い獲物がかかりましたね」



船を湖水水晶の桟橋に着けて陸に戻ると、そう報告したネアを、ヒルドは優しく褒めてくれた。



「ヒルド、水棲の棘牛は、釣竿にはかからないのだそうだぞ…………」

「一般的には、水辺の狩人達が弓矢で仕留めるものですからね。ただ、私は二回程釣ったことがありますよ」

「………………そうなのか?」

「アーヘムが渓流釣りが好きですから、何度か共に出かけた先でのことでしたね」

「では、ヒルドさんも棘牛を釣り上げた仲間なのですね!」

「わーお、規格外がまた一人いるぞ………………」



思わぬヒルドの告白に、魔物達は目を瞠っている。


それぞれに毛皮生物の姿であれば、尻尾や三つ編みがけばけばになっているに違いない。

ただし、ヒルドが釣り上げた水棲の棘牛は、もう一回り小さかったので、その場でアーヘムと美味しく焼いて食べてしまったそうだ。



「とは言え、一度そちらに肉を持って帰ったこともあった筈ですが」

「………………もしかして、私が一度食べたことがある水棲の棘牛は、お前が釣り上げたものだったのか…………?」



ネアがこちらの世界に来る前に、休暇でウィームを訪れていたヒルドから、確かに水棲棘牛のお土産を貰ったことがあったとエーダリアは教えてくれた。


滅多に手に入らない幻のお肉なので、騎士達と少しずつ分け合い、網焼きにしていただいたそうだが、あまりにも美味しかったので、しばらくは騎士達の間に、遠征先で野営をする時には水棲棘牛を探してみるということが流行ったのだとか。


エドモンとグラストで、悪食の鮭の討伐に出掛けた時に一度だけ発見されたが、あまりにも素早くて水の中を逃げられてしまい、捕獲には至らなかったらしい。


その時以来の水棲棘牛を味わえるとあって、エーダリアも嬉しそうにしている。



(というか、悪食の鮭とはどんな生き物なのだ…………)


大きな謎をまた一つ抱えてしまったが、こちらの世界は、タオルハンカチが雷鳥であるし、青い胡瓜かと思えば鯨だというので油断ならない。

きっと、もの凄く獰猛な生き物なのだろう。




「さて、この後はお料理ですね。何かお手伝い出来ることはありますか?」


厨房に入れば、ネアはバケツいっぱいの美味しそうな月光鱒を前に、意気込んで料理長に尋ねた。


ノアは棘牛のグリルを担当する予定で、美味しい特製塩をかけた棘牛を素敵に焼いてくれる。

ヒルドには昨年のビシソワーズを注文しており、エーダリアも、串焼きの月光鱒を監視しながら、そちらの作業を手伝うようだ。



「水牛のチーズがあるからな……………」

「ピザです!」



そう勇み目を輝かせたネアに根負けしたのか、アルテアはピザを作ってくれることになった。



この世界には、ピザそっくりの食べ物はあるのだが、ウィームの方ではあまり見かけないし、そもそもピザと言う名前ではないのだ。

そっくりでも惣菜パンのような分厚い生地をしていたり、生地が薄いものだと、上品にお皿の上に切り分けて上からソースをかけて食べるので何だか趣きも違う。


なのでネアは、現在、各地でピザ普及運動を行っているところである。

今回は、アルテア風に美味しく工夫してくれるので、まさに魔物風ピザという新メニューが生まれることとなった。



頼もしい精鋭揃いの厨房を見回し、ネアは収穫したばかりの食材を見比べながら、何を作るのかを思案した。



「棘牛のステーキにタルタル。アルテアさんの特製ピザに、月光鱒料理と、ヒルドさんのスープ。これ以上しょっぱいものを作っても殺し合ってしまいますので、私は、美味しいざくざく林檎のケーキでも作りますね………」

「ざくざく林檎……………」



温室の中で、ついつい余分に収穫してしまったのが真っ赤で美味しそうな林檎だった。


苺も摘んできたが、苺はそのままでも齧れるけれど、林檎はお菓子にしてしまった方が量が摂れる。

残ったものは自分の厨房にしまっておけばいいので、ネアは、みんなに対抗して美味しいケーキをこしらえることにした。



(このケーキは、とても簡単なのだ………)



これは、ちょっと割高になる生クリームを必要としないので、余った林檎があるとよく作っていた懐かしいケーキだ。


林檎を余らせたらとりあえず作っておこうレシピの一つで、甘味のバランス的にのんびり紅茶を飲みながらの読書にも向いている。

ちらりとこちらを見たアルテアが生クリームをたててくれているので、それと合わせればいっそうに美味しいに違いない。


ご主人様の周りをうろちょろするディノには林檎を切る作業を一緒に手伝って貰い、可愛い乳白色がかった水色の耐熱トレイの上に、その林檎を敷き詰める。


小麦粉とグラニュー糖に、ベーキングパウダーと卵をさっくり合わせ、ばさばさざらざらしたままの生地を林檎の上に乗せた後、薄くスライスしたバターを敷き乗せて、甘い杏のお酒を数滴と、シナモンパウダーを振りかけてかりじゅわっとオーブンで焼くだけなのだ。



決して見栄えのいいケーキではないが、これが素朴で病みつきになる焼き林檎ケーキである。

上の部分が、ざくざくじゅわっとなっており、焼き上がりには部屋中にいい匂いが広がるのがまた素敵なのだ。



ネアがそんな準備をしている内に、どこかで棘牛を捌いてきたアルテアは、素早くタルタルを作ってしまい、月光鱒の睡蓮の葉っぱ蒸しや、からっと揚げて沢山の野菜と甘酢に漬け込んだものを作ってくれたりもした。

サラダはお昼の時に多めに作っておいたので、それをもう一度出して来たら完成だ。



パン用の石窯からはチーズの溶けるいい匂いがしてきて、ネアは、早く食べようぞの主張でカトラリーを並べた。


ノアがどこからかとっておきのお酒を出してくると、ヒルドがグラスを出してくれる。


ノアのお勧めは、ゼラクメータの葡萄酒の白で、これはネアも好きだ。

以前、アルテアに飲ませて貰ったことがあるのだが、少しだけシュタルトの湖水葡萄のメゾンの葡萄酒に味わいが似ている。

ヒルドが持って来たのは、イベラウスという妖精のお酒に、ネアも好きなオーレンという薬草のお酒で、アルテアが持ち出してきたガイホーンという夜闇の酒は、どこか鋭利な輝きを放つ水色をしている。


数々のお酒の瓶が並んだテーブルの真ん中に、チーズがとろとろになった魔物風ピザや、塩焼きで、魚の油に焦げた塩のいい匂いをのする串焼き月光鱒が並んだ。


勿論、ネアの前には水棲棘牛のタルタルもある。



「これは贅沢だな……………」


思わずそう呟いたエーダリアに、ぐーっとお腹の鳴ってしまったネアも頷く。

ノアはご機嫌で葡萄酒の栓を抜いているし、アルテアは二枚目のピザを並べてくれている。



「さて、これで、揃いましたね。ネア様のケーキは?」

「なぬ。私のケーキは………」

「お前のケーキは、状態保持の魔術をかけてオーブンに入れてある。開けた時に焼きたてで食べられるぞ」

「はい!」



かくして、避暑地の夜の晩餐が始まった。



ネアは一匹でも丸ごと齧れるが、あれこれ他にもお料理をいただくべく、お皿の上で串を外し、取り分ける方式となった月光鱒の塩焼きをぱくりと口に入れる。



「むぐ!」


月光鱒は、淡白な白身のお魚だが、上品な油が乗っていて塩味がとても合うではないか。

皮ごと食べても美味しいかりっとふわっと焼きなので、ネアはあつあつはふはふしながらいただき、これまた美味しいきりりと冷えた白葡萄酒をいただく。


勿論、淑女らしくお皿にはサラダも取り分けてあるが、とても素直な人間は、それをさて置きあちこちに目移りしてしまう。



「お、恐ろしいです。どのお料理も魅惑の味の上に、それぞれ良さが独立しています。ヒルドさんのスープも二杯目ですし、ピザは二種類もあるという陰謀が……………」



一枚目のピザは、シンプルだからこそ美味しい食べやすいものだった。

生地の上に特製のトマトソースを塗り、塩味と旨味の強いサラミを小さく刻んで振りかける。

そこに、悶絶の美味しさの水牛のチーズをたっぷり乗せて焼いてあるのだ。

これだけでも酒席では手が止まらなくなる恐ろしいピザなのに、なんともう一種類用意されている。


トマトとアーティチョークに、ほくほくたまごと生ハムのピザは、ブラックオリーブが効いていてこちらも癖になる。

こちらはサラダを乗せて食べても美味しいもぐもぐピザなので、案外さっぱりと何枚も食べられてしまうのだった。



「お前が強請ったんだろうが」

「こ、こんな恐ろしい永久運動のピザが用意されているとは思いませんでした。おかずがしっかりあるので、このくらいのピザが丁度美味しいのです…………」


ディノも、水牛のチーズのピザが気に入ったようだ。

辛い大蒜のつけダレをつけていただく、月光鱒の睡蓮の葉蒸しも美味しかったのか、何回も取っていた。



意外だったのはヒルドで、水棲の棘牛となると、今回はタルタルにするのが気に入ったらしい。

通常の棘牛よりはさっぱりしていて、食べやすいのだと、美味しそうに食べていた。




「……………ふみゅふ。今日は、この世界で初めて歯車の釣りをしました。明日はヒルドさんに妖精さんの編み物を教えて貰うのでふ。……………何て幸せな夏休みなのでしょう…………」



ネアは、美味しい林檎のケーキまでを食べ終え、幸せな気持ちでほろ酔い気分を噛み締めた。



林檎のケーキは、思いがけずディノとエーダリアに気に入って貰えたようで、アルテアやノア、ヒルドも綺麗に食べきってくれている。


食後の珈琲や紅茶ではなく、うっかりもう一杯のビシソワーズをいただいてしまい、ネアは次にまた甘いものが食べたくなるのではと、己の浅はかさにぎくりとした。



「今夜は、好きなだけ本が読めるのか……………」

「明日は、お昼兼朝食ですので、エーダリア様もたっぷり朝寝坊出来ますね」

「僕もたくさん寝よう。ネアは、一度起きるんだっけ?」

「はい。夜明けの朝靄やお庭の花の色を紡いで編み物を楽しみ、その後、またしてもお昼までごろごろの二度寝に入る予定なのです」

「アルテアはどう過ごすんだい?」

「溜まっていた仕事の手紙の返信だな。頭の固い連中と交わす商談のものは、手書きで返す必要が……」



そこでアルテアは、成程と頷いたネアの方を見て、少しだけしまったという顔をした。

どうやら勿体ぶって隠されたあのトランクには、特別なお道具というよりは返信待ちの手紙が詰まっていたらしい。



「そう言えば、アルテアさんからは、カードのお返事は貰いますが、お手紙そのものは貰ったことがありませんね」

「は?……………お前の場合、手紙なんぞ誰も書く必要がないだろ」



そう言って周囲を見回したアルテアに、ネアは、おやっと目を瞠って首を振った。



「ディノは、私が郵便舎経由で送るカードにいつも郵送でお返事をくれますし、エーダリア様やヒルドさん、ノアも、新年に王都から素敵なカードをくれました。遠出のお仕事先から、素敵なカードを送ってくれることもあります。ウィリアムさんは可愛い絵のカードがあると、世界中から送ってくれますし、ほこりはいつも宝石入りの手紙をくれます。ヨシュアさんからは、奥様なぬいぐるみの歓迎会の招待状を貰っていて、ダナエさんとバーレンさんは、剥がれたり割れたりした鱗をお手紙に同封して送ってくれます。それに、アイザックさんは季節のご挨拶の手紙をくれるんですよ」



ネアが自慢げにそう言えば、アルテアは無言で瞠目した。


アルテアから手紙風のものが来たこともあるのだが、それはよりにもよってネアの天敵の姿に折られていて動いたりもしたので、ネアはそちらについてはなかったことにさせていただいている。



「やれやれだな。勝手にやってろ」



その時はしれっと流されてしまったが、食器の片づけをしている時に、ノアからきっと近い内にアルテアからの手紙が届くよと耳打ちされたので、ネアは楽しみに使い魔からの手紙を待っていようと思う。









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[気になる点] >「そう言えば、アルテアさんからは、カードのお返事は貰いますが、お手紙そのものは貰ったことがありませんね」 アルテアから手紙をもらった事がないと言ってますが薔薇の祝祭の前夜祭にもらっ…
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