避暑地と夏休みの怪 2
ようやく、避暑地でもある指輪の向こう側のお城の扉が開いた。
到着するなりネアとエーダリアが森で迷子になるという事件があり、後から来たアルテアと合流しての入城となる。
アルテアは、この空間への門をくぐるところまでは一緒だったのだが、この隠れ家へと繋がる道で気になる脆弱性を発見したことから魔術補強を図っており、少しだけ到着が遅れていたのだ。
先に到着している筈のネア達がいなかったので、一人気儘に庭の菜園や湖を散策していたらしい。
先に湖の探検をされてしまったネアは口惜しさにじたばたしたが、こちらも森の収穫があるので自慢することにした。
「見て下さい、宝石みたいでとても素敵な団栗を拾ったのですよ!」
収穫した自慢のひと品をそう皆の者に見せつけてふんすと胸を張ったネアだったが、魔物達の目線は、片手にぶら下げた鶏の方に集中しているようだ。
なのでネアは、そちらも持ち上げてみる。
「……………こやつは、美味しいお昼ご飯になりますか?」
「…………………ネア、陽炎の魔物は食べられないからね?」
「ネア様、それは食料には向かないと思いますよ」
「むむ。美味しい焼き鳥にはならないのですね……………」
「祝福装甲も突き破る獰猛な魔物だぞ。気軽に狩るな……………」
「ありゃ。ネアらしい獲物だなぁ…………」
「大きな声を上げて襲い掛かってきたので、こやつの責任なのです。私とて、気軽に鶏肉目当てで森の鶏さんを狩ってしまうことは………………ない筈……筈です!」
ネアは少しだけ自信なく結びの言葉を彷徨わせてしまい、ディノは困惑したようにノアの方を振り返っているし、呆れ顔になったアルテアに頭の上に手を乗せられてしまった。
結局、陽炎の魔物は羽をアクス商会に卸すことになり、ネアは高く売れると聞いて食べるのはやめた獲物を、いそいそと腕輪の金庫にしまった。
今回の鶏は最高位の陽炎の魔物ではないが、この系譜の魔物の羽を持っていると、夏の系譜の姿の見えない生き物の痕跡を辿ることが出来るのだそうだ。
また、幻惑系統の魔術の補填になると知り、エーダリアは見事な尾羽を何本か貰って満足そうであった。
「では、昼食の準備の時にな」
貰った尾羽を握り締め、ウィームの領主は華麗に立ち去る。
ネア達がはっとしてそちらを見た時には、その背中は既に遠くに見えた。
「あっ、エーダリアが逃げた……………」
「ノア、エーダリア様は、海湖の魔術書を読むと宣言していたではないですか。…………構って貰うのは、また後でにしましょうね」
「大丈夫だよ、ヒルドがいるからさ」
「申し訳ありませんが、私も暫く読書をしますので、……………大人しくしているのであれば、部屋にいても構いませんが…………」
ヒルドも自身の時間を確保するべくそう言ったのだが、とても悲しい目をしたノアに振り向かれてしまい、渋々部屋にいることは了承したようだ。
相手が塩の魔物なら兎も角、銀狐になってしまうと大人しくしている保証はなさそうだが、一緒に過ごせると分かったノアは嬉しそうだ。
普段の面倒見の良さを捨て、魔術書の為なら大事な契約の魔物も置き去りにしてしまうエーダリアは、既に影も形も見えなくなっている。
(でも、ここはエーダリア様がそれくらい我が儘でいられる癒しの避暑地なのだわ………)
ノアは、エーダリアが魔術書の扱いで事故らないように、中盤以降の難しい魔術に触れる頁に辿り着く頃合いでこっそり部屋に忍び込んでおくと教えてくれた。
それを聞いたネアは、過保護な魔物の振る舞いに胸が暖かくなる。
「アルテアさんのお部屋は、私とディノと同じ階なんですよ。この中央の階段を上がった後、三階の左側に進んだ奥の部屋です。向かって右側が私とディノで、湖の方を向いた左側のお部屋がアルテアさんですからね」
「ああ、自室側の並び部屋は、好きにしていいと聞いている」
「ええ。私達だけなので、階段を挟んでそれぞれの区画をざっくり分け、使いたい放題なのです。なお、私とディノはこの後大広間に寄っていきますが、アルテアさんもご一緒しますか?」
「いや、そちらはいい。食糧庫に行く時は声をかけろ」
「少し避暑地観光しますので、一時間後くらいに声をかけますね。…………むむ、その大きな鞄からするとお仕事なのでしょうか」
「さあな」
ネアは、アルテアが持っている大きな革のトランクが気になったが、何が入っているのかは教えて貰えないらしい。
忙しいのかもしれないが、今回の夏休みの避暑地行きは、当初声をかけなかったことで拗ねたから誘ったのだから、忙しくて来たくなかったということでもなさそうだ。
(寧ろ、ズボンの裾を捲って湖の方に行っていたくらいだし、かなり堪能してる?)
自室に上がるアルテアに手を振り、ネア達がまず訪れたのは前回の発見でお気に入りになった大広間である。
「ほぎゃ?!」
そして、そんな大広間の扉を開くなり、ネアは驚いた。
呆然とその中を見回し、見事な秋の装いになった美しい広間に声をなくす。
はらりと、鮮やかな深紅の楓の葉が舞った。
「ディノ、お部屋が模様替えしています…………」
「おや、季節を変えたようだね。君には前回初夏の装いを見せたから、違うものを用意したのかもしれないよ」
「ふ、不思議で…………なんて美しいんでしょう!季節柄、そろそろ秋の彩りに憧れることもあるので、こんなに綺麗な紅葉の森を見せて貰って、感動しかありません…………」
ディノの腕に掴まって、ネアは素晴らしい模様替えをしておいてくれた大広間を、じっくりと見渡した。
昨年の夏に見たのは、朝霧を纏う初夏の森であったのだ。
けれども今は、ふくよかな青緑色の結晶石の床だった部分がより深みを増した深緑色になり、初夏の森は鮮やかに紅葉し、深紅や橙、輝くような黄色の葉の影には、可愛らしい赤や紫色の実をつけている。
「ほわ、流れ星です!」
何よりも素晴らしいのは、そこが満天の星の下の夜の森であることだった。
月明かりを模した素晴らしいシャンデリアの灯りで、夜の紅葉の森は青みがかった銀色のような、えもいわれぬ感傷的な美しさを湛える。
ディノ曰く、色付いた葉の表面に煌めく青白い月の光に似たものは、まさに月光の結晶石が紡いだシャンデリアの光であるらしい。
アイザックの手によるものだという真っ白なカーテンはそのままで、その際立った白さがどこか幽玄の美貌で冴え冴えと輝き、夜風にはためいていた。
「季節が変わってしまったけれど、ここでいいのかい?」
「はい。一曲踊ってくれますか?」
「うん。………………ずるい」
「むむ。なぜに私の婚約者は、踊る前から傾いでいるのでしょう…………」
魔術の金庫の恩恵により、荷ほどきなどの必要がない二人は、静まり返った秋の紅葉の森に踏み出した。
しっとりと肌に夜霧が触れるような涼やかさがあり、本物の秋の森に迷い来んだような気がする。
(このお城の大広間で踊って欲しいとお願いしていたけれど、まさかお月見紅葉の森で踊れるとは思ってもみなかったな………)
そう考えて嬉しくなったネアの隣で、ディノは小さな箱を、どこからともなく取り出した指揮棒で軽く叩いている。
ネア達のダンスの音楽を担当してくれるのは、音楽亡霊の住むあの天鵞絨の小箱だ。
そして、この大広間に相応しい音楽をと小箱が奏でてくれたのは、うっとりと夜の美しさに溺れるような儚げで美しい曲だった。
繊細で優美なその旋律に、胸の奥底がふつりと滲むような色を帯びる。
これは、夜の森で一人ぼっちの誰かが奏でるような儚くも美しい曲で、その孤独の美しさに人々が近寄りがたくなる程に芳しい。
夜が歌い、夜がその手で誘うような、この特別な大広間の夜景に相応しい音楽だった。
(わ、………髪の毛の色がなんて綺麗なのかしら…………)
ネアは、特別なドレスなどを着ている訳ではないのだが、向かい合った魔物がどんな宝石よりも美しいので、すっかり満ち足りている。
月光のシャンデリアの煌めきを映した真珠色の髪は、まるで夜の虹のように踊る角度ごとにきらきらとその色を変え、踊りながらその色の移り変わりを見ているだけでもネアは幸せな気持ちになった。
ふわっとターンをさせて貰い、ネアは微笑みを深めてディノを見上げる。
艶やかに仄暗く、月が陰るような微笑みが揺れ、ふっと身を屈めた魔物から、甘やかな口付けが落ちた。
その口付けは、男性的な欲求というよりは、胸の中から零れ落ちるような優しさを象ったみたいで、ネアは微かに体を離してまた微笑んだディノの手をぎゅっと握る。
二人はそのまま三曲踊り、明日はどんな大広間になっているのだろうかとうっかり大広間にプレッシャーをかけつつ、最初の部屋を後にした。
ぺこりとお辞儀をして大広間を出ると、ネアはディノの腕を引っ張って素晴らしい情景の感動を分かち合う。
「とっても素敵でしたね。夏休みに避暑地に来た筈なのに、一足先に秋の夜を堪能してしまいました」
「あのような場所は、喜びの感情で磨かれるんだ。君の為に装いを変えたのだから、あの広間は君を気に入ったのだろう」
「真夜中にこっそり覗いたら、どんな風になっているのでしょう?」
「あわいの時間に覗くと、思ってもいないものが見えるかもしれないね。でもここは影絵の中だから、あまりそのような時間に扉を開かない方がいいよ」
そう言われて頷き、ネアは、ふと目を止めた昨年には気付なかった階段下の小さな扉を開いてみた。
ガチャリと音がして、想像していなかったような光景が広がる。
「まぁ…………!」
そこは小さな道具部屋で、石壁を水色に塗ってあり、可愛らしい木の椅子が一脚だけ置かれていた。
上部を小鳥の絵柄のステンドグラスにした窓の向こうには、森が広がっているようだ。
可憐なレースのカーテンに、椅子の上に置かれた青い瓶には一輪の赤いチューリップが生けられている。
ぐるりと見回した部屋の中には、きちんと手入れされた釣り道具と、バケツいっぱいの水晶の歯車が置かれていた。
「……………歯車の釣りだね。水晶ということは、夜釣りの為のものだろうか」
「こんなに小さいのに、どれも精緻な歯車の形をしているのですね。この歯車で、お魚さんが釣れるのですか?」
「………………やってみたいかい?…………私は苦手なのだけれど、多分アルテアは、このようなものは得意なのではないかな」
「夜釣りをしてみるなら、ディノと行きたいので、ディノがあまり気乗りしないのなら違う遊びをしましょう?温室で牛さんを見るのも楽しいでしょうし、きっと湖の周りを歩くだけでも気持ちがいいと思うのです」
微かに不安そうな目をしたディノにそう言ってやれば、魔物はどこか無防備に目を瞬き、なぜか目元を染めて、ネアにそっと爪先を差し出してきた。
「………………爪先」
「むむ。踏んで欲しいのですね?」
以前に歯車を餌に釣りに出かけた時には、あまりいい思い出がなかったようなので、勇気づけて欲しいのかなと思ったネアは、差し出された爪先をえいっと踏んでやる。
こんな儀式が必要な魔物とは一体どんな性質なのだろうかとか、あまり深くを考えてはいけない。
そして、爪先を踏んで貰って嬉しそうに微笑みを深めた魔物は、おずおずと夜釣りへの参加を申し出てくれた。
「………………ディノは、無理をしていませんか?」
「うん。君は私と一緒に行きたいのだろう?それがとても可愛かったし、君がいれば何をしていても楽しいからね」
「念の為に伝えておきますが、釣りを楽しむ私を鑑賞する会ではありませんよ?」
「ご主人様………………」
どうやらこの魔物はそれも込みで考えていたようだが、せっかくもう一度やってみようと思ってくれたのだ。
何も釣れないかもしれないが、ちょっと試してみよう。
夜の予定も決まったので、うきうきしながら階段を上り、ネア達は用意された部屋に入った。
窓からは豊かな森が見えて、ネアは先程冒険した不思議な森を思う。
ディノに石の衛兵がいたのだと話しながら、ポケットに詰め込んだ戦利品の数々を出しては自慢した。
厨房の鍵を使って保冷庫を開き、ニワトコの花のシロップを冷たい水で割ったジュースを飲む。
グラスの中に混ざり込んだ白い花が可憐で、いかにも避暑地に来ているぞという素敵な気分を高めてくれた。
(あんな風に、遠くには冠雪の山々が見えるのに、この空間はどこかで途切れているのだわ…………)
そう考えると、なんて不思議な場所だろう。
この影絵を作る為にどれだけの手間暇がかけられたのかを考えれば眩暈がする程であるし、お城の前にある美しい湖はもう現存していない。
こんな美しい場所を残しておいてくれたというだけでも、あの指輪は特別な宝物なのだった。
ネアは、温室探検までの短い時間を、靴を脱いで裸足になるというバカンス的な冒険をしながら、ディノの髪の毛を梳かしてやったりして過ごした。
古いお城の造りであるので、お部屋の床は滑らかな結晶石になっている。
素足で歩くとひんやりとしていて気持ち良くて、ネアは編み出したばかりのそんな避暑地の過ごし方にご機嫌になり、こんこんとノックがあった時にも裸足で出掛けていった。
「そろそろ行くぞ」
戸口に立っていたのはアルテアだ。
麻混の素敵な水色のシャツを着ており、まくり上げた袖の裏側がお洒落な色味違いになっている。
こげ茶色の細い革を編んだベルトと、少しだけゆったりとしたパンツの合わせが、避暑地を楽しむ選択の魔物の浮足立った気分の現れだろうか。
紐で結ぶタイプの革靴は上品な白灰色で、生成り色のパンツにとてもよく似合う。
藍色のリボンが粋に見える帽子も合わせて、これは日差し対策までして農地をしっかり楽しみ尽くすつもりだなと、ネアは推理した。
「ブーツを履くので待っていて下さいね。それと、ディノのリボンも結ぶので、こちらに座っていてくれますか?」
慌ててアルテアを座らせると、ネアは窓際の長椅子に座ってリボン結びを待っている魔物のところに戻り、お気に入りの灰雨のリボンをきゅっと結んでやった。
何度練習してもディノはリボン結びが縦になってしまうので、こうして綺麗に結んでやるととても嬉しそうな顔をする。
ネアはそんな魔物の為に、三つ編みに口付けを落してやってきゃっと恥じらわせてしまうと、ブーツを履きながらアルテアに釣りのお誘いをしてみた。
「アルテアさん、夜に、前の湖で釣りをするのですが、一緒に来て先生になってくれませんか?」
「………………前の湖だと、………月光鱒か。ああ、構わないが歯車はあるのか?水晶か銀細工、湖水水晶のものがないと食わないぞ」
「うむ。一階の階段の下の小部屋に、バケツいっぱいの歯車がありました!」
「それだけあれば、お前でも釣れるかもしれないな。それと、月光鱒が釣れるのは、月が登った後から真夜中までの時間だ」
「はい!では、晩餐の後の時間を空けておきますね!」
初めての歯車を餌にした釣りに、ネアは楽しみなあまりに小さく弾んだ。
月光鱒という魚も初めましてだが、時折ザハのメニューで見かけるので、美味しい魚なのだろう。
アルテアがいれば、美味しく調理してくれるに違いない。
塩焼きも捨てがたいと既に心は月光鱒をいただくことに荒ぶってしまい、ネアは美味しい魚への憧れで口をもぐもぐさせた。
「…………まだ釣ってもいないだろうが」
「美味しくいただけるように、心は常に鍛えておくべきもの。もしディノが上手くいかなくても、私が釣ったお魚を、ディノにご馳走しますからね」
「……………ずるい。かわいい」
「無事に釣れたらだな」
「あら、私は狩りの女王ですよ?きっと釣りでも偉大なる成果を上げてみます」
そう宣言しながらブーツを履き終えると、しゃっと飛び出そうとしたネアは、なぜかアルテアに捕獲されてひょいっと横抱きにされた。
「むが?!」
そのまま元の椅子の上に戻されてしまい、右足を持ち上げられる。
「ったく。見てみろ、失格だ」
「むむ!靴紐が解けました……………。解せぬ」
「最初から結び方がおかしかったぞ」
「早くあの素敵な温室を見せるのだと、気持ちが焦ってしまったのでしょう」
「ほお?俺が見ていた限り、月光鱒を食べる想像をしている時だったようだがな」
「そ、そんな筈はありません!」
ネアは、屈んで靴紐を綺麗に結んでくれた使い魔にまずはきちんとお礼を言うと、慌ててディノの後ろに隠れた。
三つ編みに綺麗なリボン結びを施した魔物を盾にして、靴紐だって綺麗に結べるぞという密やかな主張をするのだ。
「ところで、アルテアさんは牛さんの乳絞りは出来ますか?」
「……………は?」
「温室には、立派な牛さんがいるのです。美味しい牛乳やチーズ、バターなどがいただける筈なのですが、残念ながら我々の中に、乳絞りが可能な人材が不足しておりまして…………」
「出来るだろうが、やらんぞ」
「むぎゅう………………。絞りたて牛乳は、飲めないのですか?」
「………………いいか、お前は俺が部屋に来てからの自分の発言を振り返ってみろ。何か思うところはないのか?」
「………………む。美味しい月光鱒の塩焼きと、美味しい牛乳にチーズとバターのお話ですね」
こてんと首を傾げたネアになぜか溜め息を吐くと、アルテアはある程度の位置は目星をつけてあったのか、先導して温室の方に向かう。
はしゃぎ過ぎだと言いたいのかもしれないとしても、あのお洒落な帽子にうきうき感が隠せない魔物に言われたくはないのだが、ネアは、押せば乳絞りをしてくれそうな魔物のご機嫌を損ねないようにした。
こつこつと音を立てて湖の結晶石の廊下を歩き、懐かしい水晶の扉の前に立つ。
柔らかな日差しを窓から入れている廊下は、床石になっている湖の結晶石のお蔭でひんやりとした気持ちのいい温度に保たれている。
藤色がかった灰色の壁に窓枠の形の影が出来ていて、庭木が映り来んでいるところなどは絵本のような可愛らしさだ。
温室の扉の横には、古びた道具入れがあり、そこは丁寧に手入れをされた様々な道具がかかっていて、ディノは懐かしの牽引用のベルトを羨ましそうに見ている。
その中の道具の幾つかは、アルテアの目にも留まったようだ。
農作業などとは無縁そうな綺麗な手を伸ばし、武器にもなりそうな形のスコップを手に取っていた。
「…………ディノ、そのベルトをじっと見ていても、ディノを繋いだりはしませんよ?」
「私のものを出した方がいいのかな?」
「これから畑や牛舎に行くので、ディノの腰ベルトはしばしお休みさせておいて下さいね」
「ご主人様……………」
「その代り、またフリーコを作ってあげましょうか?」
姑息な引き換え案を提示したネアに、ディノは目をきらきらさせて頷いた。
昨年気に入っていた様子のニョッキも捨て難いが、ネアは隣に立っている使い魔のお料理に期待をしているので、ここはひと品くらいに留めておこう。
かちゃりと扉を開き、三人は、観賞用にもなる食料庫という有能さを誇る温室に入った。
ざあっと、ラベンダー畑を渡ってきた風がこちらに届き、その長閑さに頬が緩む。
農地や人の手の入った里山の森の朴訥とした穏やかさや美しさは、生き物をとろかしてしまう普遍的な豊かさだ。
「どうしてでしょう。ここにくると、懐かしいような不思議な安心感を覚えて、心が元気になるのです」
こんな絵本のような土地に暮らしたことはないネアでも、この風景には不思議な懐かしさを感じてしまう。
さっそく畑の方に歩きながらそう言えば、恐らくは種族的な憧憬のようなものだとディノに教えて貰った。
「君や、君の血族が知らない光景であっても、普段食べているようなものが収穫される土地としての親しみがどこかに沁みついているのだろう。きっとこのようなものが豊かさなのだと思えば、自然と心を添わせる風景なのかもしれないよ」
「そう考えると、ここには私の大好きなものばかりあるので、自然に大好きになってしまったのかもしれませんね。ほら、アルテアさん、牛さんがいますよ!」
「おい、何で牛舎に押し込もうとするんだよ、やめろ」
「見て下さい、乳牛です!!」
「おい、押すな!」
せっかく畑を調べに行こうとしたのに、ネアに牛舎に押し込まれたアルテアは、渋面のまま少しだけ乳絞りをしてくれた。
これはもう、少しでもいいから牛乳を捧げないと、この人間が鎮まらないと察したのだろう。
こちらの世界の牛乳缶は、白い琺瑯のような素材の入れ物で、指先で触れるとリィンと澄んだ音がする。
アルテアは、とても初めてだとは思えない手際の良さでネアの膝くらいまであるひと缶をいっぱいにして、ずずいっと差し出してくれた。
「……………これだけあれば充分だな」
「うむ!さりげなく乳絞りをして貰う作戦が成功しましたね」
「少しもさり気なくなかっただろうが………………」
「………………ネアが浮気する」
「あらあら、ディノも押して欲しかったのですか?では、森でぐいぐい押してあげましょうか?」
「押してくれるのかい?」
まさかの避暑地での乳絞り体験に若干よれよれのアルテアだったが、ネアが牛乳缶の周りでびょいんと弾んでいると、やれやれと肩を竦めていた。
絞りたての牛乳は、悪くならないように氷雪の魔術で冷やし、帰りに持ってゆきやすい場所に蓋をして置いておく。
保冷魔術を差し込む部分があったりと、なかなかに凝った牛乳缶で、アルテアは思いがけず発見したその仕組みに興味を惹かれたらしい。
収穫もあったと満足げな使い魔に、これもご主人様のお蔭だとネアは頷いておいた。
「………コヤシシの畑があるのか!」
そんなアルテアは、森や畑を満遍なくご案内したかったネアの思惑とは裏腹に、とある畑を見付けるなり、呼んでも押しても動かなくなってしまったので、ネア達はその後別行動となった。
魔術書を与えられたエーダリアのようだったと報告したところ、厨房で待っていてくれたヒルドが、それは仕方ないと微笑んで教えてくれる。
ディノが持ってくれた牛乳缶に嬉しそうに目を細め、保存用の容器に入れ替えると、厨房にある大きな保冷庫にしまってくれる。
「コヤシシは、地上では絶滅してしまった種の茶葉ですからね」
「まぁ、お茶になるものだったのですね?」
「甘い香りがするものの、澄んだ冷酒のような味わいだったそうです。こちらの大陸の植物でしたので、私は飲んだことがありませんが、いつだったか、ディートリンデが話してくれましたよ」
「では、少しだけ収穫してディートリンデさんのお土産にしましょう!」
「ええ、喜ぶでしょうね」
じゅわっと音がする。
エーダリアは、昨年の夏休みの後から、オムレツ作りの練習をしたそうで、今日はその練習の成果を見せるべくフライパンを几帳面に振っている。
ネアはあまりにも小刻みに動かすのでちょっとハラハラしたが、綺麗なオムレツが出来上がったので驚いた。
元々器用なので、やり始めると凝り出すタイプかもしれない。
そこに、手を洗ったのかハンカチで拭きながら現れた赤紫色の瞳の魔物に、ネアは目を輝かせた。
厨房で見るアルテア程に頼もしいものはない。
「………オムレツとフリーコか。チーズでも作って一品足すか」
「ほわ、ご飯にしますよと呼んでも動かなくなったアルテアさんです…………。素敵なお茶っ葉を入手出来ましたか?」
「コヤシシの畑があったのは収穫だな。ここには修復の系譜の呪いがある。自分で楽しむくらいなら、一定量の収穫が可能そうだ」
「その素敵なお茶は、私達がここで美味しく楽しむ分とお土産に一人分も追加でお願いします」
「なんだ、その追加は」
少し嫌そうに言われ、苦笑したヒルドが言葉を足してくれた。
「ディートリンデですよ。彼の好きなものの一つだったのだと、ネア様とお話ししていたところです。彼はエーダリア様の守護を司る妖精の一人ですから」
それは免罪符になるような言葉であったらしく、アルテアは短く頷くと量はあると言ってくれた。
コヤシシの葉は、なんと一枚で一杯分の量になるらしい。
「さてと、ブラータチーズと…………クネルのグラタンでも食べるか?」
「グラタン様!」
「…………ったく。他にもあるからな、大皿で作って取り分けるか………」
かくして、本日の昼食が出揃った。
ヒルドが作ってくれたサラダと、中身の夏野菜のトマトソース煮込みはネアが手がけた、エーダリアのオムレツ。
ディノにジャガイモの下拵えを任せたフリーコに、アルテアの作りたてブラータチーズにクネルグラタンだ。
先に食べ始めながら、くつくつかりっと焼けて美味しそうな焦げ目のついたグラタンが魔術仕掛けのオーブンから出てくるのを見守る。
机の上にはきりっと冷やされた香草茶が並び、作っている時に白葡萄酒片手につまみ食いをしていた後は、気持ちよく窓辺の椅子で居眠りしていたノアがヒルドに起こされた。
「美味しいものをみんなで作って、ごろごろして遊ぶだけの日です!幸せですねぇ」
ネアは至福の思いでそう呟き、新鮮な風味が堪らなく美味しい、とろとろのブラータチーズをぱくりと食べた。
もぎゅっとチーズを噛み締め、じゅわりと溢れるクリームにうっとり蕩ける。
到着するなり迷子になったりもしたが、これは良い夏休みになりそうだ。
そう考えていたネアは、夜に控えた釣りで起こる、歴史に残る事件をまだ知らずにいた。




